『The Poetics of Science Fiction』前置き+第2章のメモ

書名はいわば『SFの詩学』ということで、「認知詩学の観点からSFについて分析していきましょうね」という本書について、今後しばらくメモを書き連ねていきたいと考えています。

The Poetics of Science Fiction (Textual Explorations) (English Edition)

そもそも「SFの認知詩学:ピーター・ストックウェル『SFの詩学』The poetics of science fiction - Lichtung」 を見たときから気にはなっていたのですが、やはり英語の、しかもある程度専門的な本ということで敷居が高く感じていました。いたのですが、最近もろもろあって気持ちが高まってきたのでひとまず取り組んでみようと。

とはいえ、認知詩学とはなんぞやということや、本書の内容の概観については、上記のナンバさんの記事を読んでいただくだけで十分以上でしょう。ここでこうやって公開しているのは、自分がどうにか読んでみたときのメモをある程度広く公開することで、本書をなるべく知ってもらい、あわよくば叩いてもらえればという意図によるものです。

あえて言うまでもない(ので言いたくもないんだが)ことですが、そもそも英語の読解力がないことに加えて知らない分野であることから、内容に大小さまざまな誤解があることはまちがいありません。テクニカルタームの訳し方もとくに定訳など気にしていません。したがってなにかの参考にするために読まれるものではないと考えてください。英語の読解に認知資源が奪われているせいで、まとめてるというより単に引き写してしまってるだけみたいなところや、逆にひどく強引なやり方でまとめてしまっているところも多々あります。以前『フィクションとは何か』のメモを載せた際には(あれでも)もうすこしちゃんと編集したのですが、こちらはより生のままのメモに近いものです。

ともあれ、前置きはそこそこに、さっさとはじめましょう。第1章は本書の説明なので飛ばして、第2章から。ざっくりまとめると下記のとおりです。

  • 本章の目的
    • しばしば「未来」という不確定なものを描いてきたSFというジャンルにおいて、読者により「もっともらしく」感じてもらうためのメカニズムがどのように変遷してきたかを分析する
    • このためにEmmott (1997)1で述べられている「文脈的フレーム」のモデルを用いたうえで、特にダイクシス(直示表現)に着目する
  • おおまかな流れ
    • Emmottの「文脈的フレーム」について簡単に解説される。また、アシモフ『われはロボット』にこれを適用してみる
    • 未来、それも同じ「21世紀」の姿を描くSFとして、執筆年代順に8作品が紹介される
    • 本章で用いるダイクシスの分類が示され、それぞれのカテゴリごとに上記8作品がさまざまに分析される。たしかに、「もっともらしく」見せるための手法が変化していることが見てとれる
  • 感想とか疑問点とか
    • 事例として挙げられる作品は(プロトタイプなので当然といえば当然だが)ステープルドンやウェルズ、アシモフブラッドベリ、クラーク、ギブスン等と豪華。ブラナーとヌーンはあまり知られていないと思う(自分も知らなかった)のだが、それでも邦訳はあるようだ
    • そもそも自分はまだ「認知詩学」という手法がどの程度説得的なのかやや疑っているところがあるのだが、この章の内容からだけではなんとも言いがたい気はしてしまった。本章での分析についても、たとえば(当然ストックウェル自身も知っているしその用語も使っている)物語論の観点からのものとどこまで差別化できているのかはちょっと微妙ではある
    • ダイクシスを小説などの語りに適用することについて、ある程度研究はあるようなのだが、ここで繰り広げられているものを見るかぎりでは「けっこうなんでもダイクシスじゃねえか!」みたいな気持ちにならなくもない
    • 文句ばかり言っているようだが、分析の結果は十二分に興味深いものではあるし、「文脈的フレーム」を設定すると見通しがよくなりそうだなというのも十分感じられたところではある。もうちょっと読み進めてみようかなというモチベーションは湧いた

ということで、以下がメモです。

2. Macrological: Old Futures

2.1 Preview

SFはその時々における「未来」を描いてきた。本章では特に、その時々における未来をいかに「もっともらしく」見せるかについて、特にテキスト中の直示的 deictic および参照的 referential な要素に注目しながら見ていく。あー、この「直示」ってダイクシスとかのあれか!

2.2 Future Worlds and the Framed Universe

さて、この「世界 world」という語について。意味論まわりの話を参照しつつ、SFのナラティブが「枠組みにはめられる framed」(これだと訳語がちょっと微妙だ)ことで読者がリアリティを感じる、というモデルが有用である。

物語理解 narrative comprehension にかんするこのようなモデルは Emmott (1997) で使われているもの。読者は、テキストやそれに基づく推測から「文脈的フレーム contextual frame」を作り上げてく、みたいな理論。おそらく認知言語学における「フレーム」に由来する表現ではあるものの、ここではいったん、いわゆる「シーンの設定」とか「シチュエーション」のことと捉えておいてもそんなに問題ないか。詳しくは第7章っぽい。

登場人物などの諸実体は読書のなかでさまざまなフレームに紐づけられ bound 、またその時々で焦点の当たった文脈において前景化される primed 。これは明示的なこともあるしそうでないこともある。こうして、読者の中に central directory (その世界におけるキャスト一覧のようなもの)が作られる。

で、こうして作られた虚構的文脈がどのように働くか(たとえば新たなキャラクターがどのように登場するか=紐づけられるか)にたいして、実世界と同じ前提を置く(おおざっぱに言えば現実性原理なり共有信念原理なりの話か)。とはいえEmmott自身も注意している通り、これはSFにおいては成り立ちづらいケースが多い。ワープしたりするよね、と。とはいえそれでも、「ああ、そういう物理法則があるのね」と(ときには過去の読書経験をもとに)受け入れて読み進める。


たとえばアシモフの短編集『われはロボット』 の分析。

各短編の登場人物は、ストーリーごとの文脈的フレームに紐付けられ、順次前景化される。ひとつの短編が終わると前景化が解除されるが、登場人物(の多く)はそのフレームに紐付けられたままである。ただし、語り手であるキャルヴィン(本書はキャルヴィンの回顧録の体をとっている)をはじめとする複数の短編に登場するような人物もいて、彼らはそれら短編において前景化されるような複数のフレームに紐付けられていることになる。これは本書の世界に一貫性を感じることに資している。

個々の短編は短いため、その中での文脈的フレームの変更はあまり多くない。変更があるときでも、「徐々にフレームが変化していく」というよりは、瞬時に切り替えられるような形で変更される。空行を挟んで違う場所や時間が飛ぶ、といった感じ。とはいえ一部の例外や回顧録であることによる一時的なインタビュー場面への切り替わりを除いて、それほど大きくも飛ばない。などなど。

ともあれ、こうした「文脈的フレーム」の考え方、すなわち、諸実体を心理的な枠組みのうちに紐付けその時々で前景化するという考え方を用いれば、参照と直示を厳密に区別する必要がなくなる。可能世界みたいな枠組みと違って、読者とテキストだけで話が済むからね、みたいな感じ(そうなのか?という感じだけど、そのあたりはおそらく第7章を待つべきなんだろうな)。

2.3 Versions of the Future

すべてのSFが未来の話というわけではもちろんないが、ひとつの典型としてはそうであると言える。そんなSFでさまざまに描かれる「未来」は、大きく2つに分類できる。

  • 「直列 serial」バージョンの未来
    • 我々の世界の延長にある未来。おおざっぱには外挿的、未来予測的といえる
  • 「並列 parallel」バージョンの未来2
    • 我々とは別世界における未来。直列バージョンと比べて思弁的 speculative な色合いを帯びる(そうかな?

たとえば、クラークによる小説版の『2001年宇宙の旅』は(科学技術的には)直列バージョンの未来として書かれた一方で、同じシリーズの『2010年宇宙の旅』は実質的には映画版『2001年』の続編であり、むしろ並列バージョンと捉えられる。『3001年終局への旅』でもやはり、『2001年』からのシリーズと矛盾していることがクラーク自身による序文で言及されていたりもする。

直列バージョンの未来を扱ったSFは「当たる(当たった)かどうか」が注目されがちだが、それだけのものとはいえない。たとえばオーウェルの『一九八四年』なら、ビッグ・ブラザーやイングソックが実現されたわけではないが、そのターゲットである1984年を過ぎた今でも、ある種の風刺として読まれている。これは、もともと「直列」だった作品が「並列」に変化したとも捉えられる(敷衍すれば、未来を扱ったSFはいつか必ず「歴史改変もの」になる定めなのだ、とさえ言える)。


また、21世紀の世界が舞台(の一部)となるSFとして以下が挙げられる(括弧内は執筆年。なお、ここで挙げられた作品がそのまま次節の事例としても使われる)。

執筆年代の違うこれらの作品は、同じ「21世紀」という時代を、並列的な未来として描いているといえる。以降各々の作品の概要が紹介されるが、ここでは省略。こうやって見てみれば、同じ21世紀という未来を扱うにもかかわらず、執筆された各々の「その時代らしさ」があろうことも察せられる。たとえば、初期の作品では年代がはっきりと数字で示されることが多い一方で、より最近の作品では曖昧な形でしか示されなくなる。また、執筆の現在が21世紀に近づくにつれ、未来予測よりも現代の風刺に近づいてくる。

ことほどさように、SFにおいては「時空間的な関係」が複雑である。執筆された時代と舞台となる時代、執筆された時代と読まれる時代、登場人物が読者にとっての未来を過去として語ったり、タイムトラベルさえあったり……とにかくいろいろ。

2.4 Exploring the Universe

ここで文脈的フレームによる物語理解の話題に戻る。前々節の最後で触れられていたとおり、以下では文脈的フレームのモデルの上で、直示表現(ダイクシス。発話者のいる時空間などの文脈のなかで意味が明らかになるような表現のこと。「私」「あなた」「いま」「ここ」などなど)に着目し、SFにおける表現の歴史的発展を分析する。

ただし、ダイクシスに関する言語学的な研究の多くは会話の場面を第一に扱っており、小説などを扱うものは少ない。本書では一般的な(つまり会話における)ダイクシスの分類を、SF作品の分析のために以下のように「調整」する(会話の話し手-聞き手の関係と文学作品の作者-読者の関係がまったく違うのは明らかなことに注意)。

  • Person deixis → Perceptual deixis
  • Place deixis → Spatial deixis
  • Time deixis → Temporal deixis
  • Social deixis → Relational deixis
  • Discourse deixis → Textual deixis
  • Syntactic deixis → Compositional deixis

ごくおおざっぱにいえば(物語論でよくあるような意味での)「作中の語り手-聞き手を基準とする」みたいに捉える感じのようだ(多少細かく既存研究が紹介されているが、ここでは省略する)。


まずはPerceptual deixisについて。これはPerson deixis、すなわち「わたし」「あなた」や(日本語にはないが)それに従った動詞の活用、つまり人称にまつわる表現に対応するもの。

なぜpersonでなくperceptual(知覚)なのかといえば、SFをはじめとする文学作品においてはべつに人間でなくても話したり聞いたりするし、直接的な会話でなくテレパシーみたいなケースもあったりするから(そんな理由かよ!って思ってもいいところだよな)。

また、person deixisにおいて当然三人称は除外されるのだが、小説に適用するとなるとそうはいかない(厳密に言えば、その場には読者以外の参加者はいないのだから)。文脈的フレーム内(したがって読者とは別のレイヤにいる)での一人称、二人称および三人称の表現はいずれもperceptual deixisに含まれる。

間接話法や自由間接話法を用いて語り手が別のキャラクターの心中を描写することにかんして。これらの話法は語り手とそのキャラクターとの距離などの表現と捉えうるという意味で、やはり三人称もperceptual deixisの範疇に入れたくなるよね、という感じだろうか。

このあとLevinson (1983)3の、会話における役割はだいじで、speakerはsourceと、recipientはtargetと、hearesはaddresseesとそれぞれ分離できるよねという話を引きつつ、作者-内包された作者-語り手-話者となっているキャラクターのうちどれが、聞き手-内包された聞き手-実際の読者としての自分のどれに話しているのかを考えるときには、直示表現を通して考えてる……みたいな話があり、あんまり読み取れていないがなんとなく言いたいことはわかるような気がする。

……という前置きのもと、具体的な分析を行う。

前掲のリストにおける最初の3つ(『最後にして最初の人類』『世界はこうなる』『われはロボット』)はいずれも、語りの構造が比較的複雑であり、読者はダイクシスを手掛かりにそれを読み解くことになる。たしかにたとえば、『最後にして最初の人類』の序文(本書の著者は2人おるよっていうあれ)などはもろにそう。『われはロボット』の回顧録という形式(メインの話の前後にインタビューや記者の独白が挟まる)だって当然、メインのストーリー、インタビューの会話等々で代名詞の指す先が異なるのを追っていくことになる。文脈フレームに誰が紐づけられていて、誰が前景化されているのかの移り変わりを示すのがこれらダイクシスである、みたいな。


次にSpatial deixisについて。たとえば「ここ/あそこ」「これ/あれ」や「近く/遠く」はもちろん「行く/来る」みたいな方向性を伴うものもこれに含まれる。SFの舞台が地球外であることなどありふれているわけで、空間にかんする表現が重要なのは明らかだろう。

たいていはまず、その場所がどこかがわかるフレーズ(火星、とか)が明確にあるいはそれとなく登場する(同時に語り手もふつう明示される)ことでフレームが設定され、それに続いてこれらのダイクシスが駆使されてく感じになる。

いわゆる一人称の語り(のなかでも、目下のフレームの中にその語り手がいる場合)においてこうした表現が出てくるのはまあ普通の話だ(『ヴァート』から例が引かれている)。

一方、いわゆる三人称の語りにおいてはやや複雑。語り手が設定したフレームの中で、そこにいるキャラクターの台詞の中などにダイクシスが現れるのはもちろんだが、いわゆる地の文でもダイクシスがそれなりに使われる。つまり、地の文を語る語り手がまさにその場に(ほかからは見えない形で)いる、かのように語られる。

ここで例に出されるのは『2001年宇宙の旅』。三人称で全知、そして実体を持たない語り手であるにもかかわらずダイクシスが使われることによって、その存在感が示されているし、読者がまさにそこにいるかのように感じられるようになっているよ、と。もちろん、特定の人物に焦点化したときのはたらきについても触れられている。


続いてTemporal deixis。「いま」「まえ/あと」などはもちろんのこと、時制とアスペクトもこの範疇(だし、むしろこちらのほうが豊富か。そして日本語と英語の違いが特に顕著になるところでもありそう)。未来を扱うことの多い、あるいはタイムトラベルなどを扱うことのおおいSFにおいて、時間にかんする表現もまた、当然ながら重要となる。

ここで英語(の文学作品)で「未来」を表す方法についていくらか考察される(活用としては過去と現在しかないことに注意)のだが、ここでは省略。ただ、こうした表現が、未来に属することがらはふつう知識の範疇ではなく信念の範疇であること、つまり主観性を際立たせる効果があることは日本語でも言えそう。つまり未来を表す表現はもっともらしさを減じてしまいがちと言ってよく、これは未来を扱うSFであっても(さらに未来の語り手が回想するという形で)過去形で語られがちという事実とも関係しているのではないか、みたいな。もちろん、日常会話では現在形が無標と受け取られる一方で、語りにおいては過去形が無標として受け取られるみたいな話もある。

でもって、時制やアスペクトの使い方は、先に挙げたうちのより古い作品とより新しい作品とでの違いがかなり大きいように見受けられる、と。より古い作品では、信頼できる語り手が時系列に並んだ形で未来の歴史を記述する傾向にある。このため、単純過去や過去進行形が出てくる頻度が高い。一方より新しい作品(先に挙げたなかでは『衝撃波を乗り切れ』以降の3つ)では、語りが特定の(かつ複数の)キャラクターに焦点化される(あるいは直接話法がより多く使われる)傾向にあり、したがってモダリティの付随することも増え、単純過去や過去進行以外が登場する機会も顕著に増える。


最後に、残り3種のダイクシスについて。これらも古い作品と最近の作品とで使われ方に差異がある。

まず、Rerational deixis(「先生」とか関係性を含めて表現するもの。おおざっぱには「人の呼び方」くらいに考えていいか)について。より新しい作品では、ニックネームで呼んだりすることが増えてくる。それこそ「ケイス」とか「ウィンターミュート」(いや、これはニックネームなのか?)みたいな。

続いてTextual deixisについて。「語り手が直接的・明示的にみずからの語りに言及する」ようなものを指す。メタな表現なので語りの内容への没入感を削ぐことにはなるが、使い方によってはその語り自体のもっともらしさを増したり(『われはロボット』のいかにも回顧録っぽくする手管とか)、一人称の語りで自意識を表現できたりといろいろ効果はあるよ、と。

それからCompositional deixisについて。これは例示も(ほぼ)なくて正直いまいちよくわからないんだけど、そのテキストの性質やムードを示すような文体とか書き方みたいなのを指すっぽい? それって「ダイクシス」なのか?(というか、本節全体に「ダイクシス」の指すものがかなりざっくばらんな感じではあるが……) 文脈的フレーム「そのもの」を規定するイメージではある。

2.5 Review

というわけで本章では、SFの「もっともらしさ」を出すためのメカニズムがどのように変遷してきたかについて、主にダイクシスに着目して分析してきた。

じっさいダイクシスというのは、語り手-聞き手がなんらかの形でいること、そしてある種の文脈的フレームがあることを想定したうえではじめて働くものなわけで、それが「もっともらしさ」に資するのはそりゃそうだよね、みたいな話とか。

このほか、ここまでで触れられなかった共通点や差異についていくらか述べられ、SFと未来(もしくはオルタナティブな世界)、そしてもっともらしさについてなんかエモい感じの文章も載ってるんだが、うまくまとめられないのでここでは省く。


続き:

murashit.hateblo.jp


  1. Emmott, C. (1997) Narrative Comprehension: A Discourse Perspective, Oxford: Clarendon Press.
  2. serialの「直列」との対比、および「paralellが並列、concurrentが並行」みたいな用語法もあってここでは「並列」としたが、やっぱり「並行世界」という言葉のある「並行」のほうが通りがいい気はする。
  3. Levinson, S.C. (1983) Pragmatics, Cambridge: Cambridge University Press.