『The Poetics of Science Fiction』第3章のメモ

2週間で1章くらいのペースで……とか言ってたんだけど、この章はかなりおもしろくて深みにハマってしまった。もうちょっとペース落としたいです。

The Poetics of Science Fiction (Textual Explorations) (English Edition)

承前:

murashit.hateblo.jp

第3章のざっくりまとめ:

  • 本章の目的
    • SFにおける「言語学」「言語」への意識や実際の扱いについて検討していく
  • おおまかな流れ
    • SFにおいて現実の言語学への理解は浅い傾向にあるものの、そう言って切って捨ててしまうだけにもできないよ
    • 「言語」と「思考」を素朴に切り離せるような言語観に基づく描写も多い一方で、ディストピアSFに頻出する言語の抑圧など、それらの切り離せなさへの認識に基づく作品も古くからあったよ
    • 同じようにスタイルに対する意識が薄いジャンルだったけれど(たぶん「言語-思考」と「文体-内容」をある程度類比している)、ニューウェーブ以降は多様化が進んだよ。その例をいくつか見てみるよ(ここはたぶん、言語変種や言語使用域 register の話が裏テーマとしてある気がする)
    • ディレイニー先生によるSF批評講座
  • 感想とか疑問点とか
    • 言語/言語学への意識が低め/理解が浅めみたいな話は、近年(いつ?)のさまざまな「言語SF」のことなどを考えるとやや意外な感はあるかもしれない
    • が、伝統的にはハードサイエンス寄りだよねというのはその通りだし、自分が読んでるものの偏りもあるかもだし、言われてみれば「言語SF」みたいなのはあんまり思い付かない(それに本書が2000年刊行であることにもいちおう留意したい)
    • たとえば『スノウ・クラッシュ』は(言語コンシャスであっても)言語学的に無茶だろと言われたら、そうだな……とか。いや、そういう話じゃねえんだよ!というのは本書でも述べられているとおりである
    • ともあれ、そういう意味で批判的な部分はやや古めのSFが対象である感じはある
    • そしてニューウェーブ以降の文体的な実験について触れる節は話が具体的だし、出てくる例もおもしろい。『侍女の物語』はもちろんなんだけど、オールディスがここまでやってたなんて知らなかった……
    • ディレイニー先生!

以下メモ:

3. Micrological: Futureplay

3.1 Preview

科学の諸分野とSFとの間での知識やアイデアの交換は珍しいことではない(ウェルズ『解放された世界』と核物理学との関係など)。本書が立脚する言語学もその例外ではない。

……というわけで、本章ではSFと言語の関連について検討していく。

3.2 Linguistics on Another Planet

まず、SFと言語学の関係を論じたMeyers (1980)1を引きつつ、ざっくり言ってしまえば多くのSF作品は(その時点での最新の)言語学的な知見に無理解であったとする。Mayersの批判がけっこう皮肉っぽく、細かい例もおもしろいところだがここでは省略。

とはいえ、これはSF(における言語の扱い)を「未来予測的」に捉えたときの話にすぎないとも言える。よりチャリタブルに読むこともできよう。「形式そのものが象徴的に重要なのだ」というが(正直どういうことかよくわからないんだけど)、どういうことかというと……。

たとえば、ブラッドベリ「雷のような音」。本作では、タイムトラベル先でのちょっとしたことからのバタフライ効果の結果として、現代の英語の正書法が変わってしまう描写がある。ここで示される正書法について言語学的に考察することはできるが、それはともかくとして、これは別の世界線2であることのしるしになっている。

また、「異星人が英語で喋っている」(かのように記述される)ことについて。もちろんまじめに異星人の言語を考えるのは大変だし読むのもつらいので仕方がないのだが、テレパシーや自動翻訳だったり、英語がなんらかの理由で銀河レベルの共通語になっていたりと、「それっぽい(が、しばしば言語学的にどうなんだとなる)言い訳」が示されていることは少なくない。が、こうして言い訳をすること自体、異邦性(異星人性、 alienness)のあることを示したいということではある。

ともあれ、言語学の観点から批判できるのは確かである一方、読みやすさだとかへの配慮がどうしても必要になることもやはり認めなければならない。だいたい、それを言えば「物理学からみれば放縦すぎる、けれどいかにももっともらしく感じる」みたいなのは当然にあるわけだ。

3.3 Linguistic Science in Science Fiction

さて、SFは自然法則だってものともしないジャンルなわけだが、その一方で文体などの面ではどうにも「ふつう」である(言ってしまえば、つまらない)ことがしばしばであった。客観的で説明的、みたいなイメージはどうしてもある。これにはもちろんいろいろ理由があるが、科学というのがそもそも合理的、客観的であって、そのように描かれるものだという見方のあることは大きいだろう。

そしてこういった見方は、前言語的 pre-linguistic で客観的な本質を汲む(つまり言語と思考を分離して後者のみを抽出できるような)万能翻訳機が可能であるかのような素朴な言語観 folk-theory of language/linguistics にも影響したのではないか3。さらに万能翻訳機の実現可能性についてのもうすこし細かい考察とか、超光速航行とかとも絡めた「もっともらしさ」の話とか出てくるが、それらもここでは割愛。

とはいえ一方で、スウィフト『ガリヴァー旅行記』、ハクスリー『すばらしい新世界』、ザミャーチン『われら』、オーウェル『一九八四年』のようなユートピアディストピアを扱う小説を見てみれば、先述のような「素朴な」言語観にもとづくものばかりでないこともわかる。こうした作品ではしばしばディストピア的な社会(の維持)と言語(の抑圧)の間に深い関係のあることが描かれており、ひいては言語と思考の間に深い関係があるという認識が認められる、と4。また、関連してというか、まあそのまんまなのだが、サピア=ウォーフ仮説についても触れられている5

それからニュースピークについて詳しく述べられるが、よく知られているところなので省略(ただ、オーウェルは文法や語用論的観点よりも語彙に過剰に重きを置いているという指摘はたしかにと思った)。

3.4 Linguistic Special Effects

先に「文体のつまらなさ」、そして、言語/言語学への関心の薄さについて触れたが、1960年代、ムアコック、バラード、オールディスらに代表されるニューウェーブSFの登場あたりから話は変わってくる。伝統的なSF作品の外にも目を向け、手法面での多様性がいっきに花開く、と。てなわけで、以下ではニュウェーヴ以降の作品からそのような手法的特徴の例がいくつか取り上げられる。


まずは「Collage and Documentary Fragmentation」。断片(多くは異なる媒体からの断片)を集めて並べて見せたりする、あれ。

たとえばアトウッド『侍女の物語』。本書は、末尾の「歴史的背景に関する注釈」に至り、それまで示されてきたテキストの出自が明らかにされ、「信憑性」に疑問が付される構成となっている。しかもそのうえで「客観性」のほうにも同時に(風刺的な形で)釘を刺していたりもする。今回改めて「注釈」だけ読んだんだけど、この短いなかで多方面に何重にも皮肉が効いててすごいんだよな……。

あるいはレッシング『シカスタ:アルゴ座のカノープス』について。Wikipediaに載っている書影を見るとわかるように、表紙からして報告書の特徴を模している6。これに続く本文もやはり(さまざまな書体などを使い分けつつ)情報源の異なる情報をまとめている、という形式になっているようだ。

そんなわけで、こうした手法は「ここにあるのは誰かひとりの語りではなく、並んだ証拠をもとに組み立ていくことが期待されるテクストである」といった読み方を誘うものだ、という感じ。文中でもちょっと触れられているが、このへんはリアリズム以前によくあった書簡体などの形式と絡めて考えられるところ(単純に「新しい」というものではない、というか)。それこそ『フランケンシュタイン』だってそうなのだ。

このほか、ハイパーテキスト的なフィクションや、ベア『女王の使者』も紹介されてるけどここでは割愛。


続いて「The Vernacular of the Future」。vernacularというとおり、正書法的でない(?)ような言葉づかいの使用。たとえば、ディック『高い城の男』では第二次世界大戦で日本がアメリカに勝ったことの影響を、冠詞や前置詞が省かれた「日本語っぽい英語」を出すって形でも仄めかしている(これぜんぜん知らなかったけど、そうなの?)。このほか、戦争や災害など世界情勢の変化により言語が変容しているさまが描かれる例は多い。

そしてここでは、ホーバン Riddley Walker 7(ポストアポカリプスもので、一人称で語られる作品らしい)の「壊れて、すりきれたような」英語が詳しく検討されている。英語特有の話も多いので(なので正直かなりよくわからないので)ここでは割愛するが……。ものすごくおおざっぱに言えば、 hellog~英語史ブログ にあるような話の外挿がかなりもっともらしくやられているよという話……だと思う。

で、こんなふうに異化効果をもたらすような表現はSFではおなじみのものだよ8、という感じでまとめられる。また、意味もわからない言葉の意味を求める(ことを読者がさせられる)ということ自体が、Riddley Walker の主人公が行っていることと重なる、とか。


最後に『Affective Thematising of Language』。スタイルそのものを主題化するようなものと思えばいいのかな。

ここでオールディスの短編 ‘Orgy of the Living and the Dying’ 9が紹介される。ミスコミュニケーションがテーマになった作品であって、その表現として、地の文に突然「どこかからの声」が入ってきたりするせいで文法が崩れたりもするようなスタイルとなっている、みたいな。

この方向性を推し進めたのが Barefoot in the Head 10オールディスについての英語版Wikipediaの記事 では「オールディス作品のなかでも、おそらく最も実験的」とされ、『フィネガンズ・ウェイク』さえ引き合いに出されている長編。本書のなかでも、Ketterer (1974)11 の批評が引かれており、そこでもジョイスボルヘス、ロブ=グリエ12が引き合いに出されている。……ということからもわかるとおり、ふつうの英語で書かれているとは言いづらく、いくらでも深く読めそうになる手法がこれでもかと使われているっぽい。めちゃくちゃ雑に言えば、本書を読む体験と、本書が幻覚への没入をテーマとしていることとが対応していると。で、いちおうそれなりの紙幅も割かれ引用とともに解説もされているのだが、そんなもんをまとめられるわけねえだろうが!

とりあえず、『ニューロマンサー』におけるかの有名な“consensual hallucination″という(サイバースペースに対する)表現を引きつつ共通点を指摘していることはいちおうメモっておく。

3.5 Science Fiction and Non-Science Fiction

前節の検討から、ニューウェーブモダニズム文学へのキャッチアップと見なし、その延長にサイバーパンクポストモダニズム(の文学や諸芸術)との相互交流が…‥みたいな構図をとりたくなるかもしれないが、さてどうだろうね、みたいな話。続けて紹介される、90年代のメインストリーム文学側の批評がサイバーパンク(なかでもギブスン)をポストモダニズムの最先端に位置付けもてはやす様子は、実際ちょっとこう、微笑ましい感じがある。

一方SFサイドからの見方として挙げられているMcCaffery (1991)13では、先行する「拡張主義者 expansionist」フェーズ(50年代より前)と、それに続く「内破的 implosive」(60年代以降の内的宇宙へのベクトルの転換)フェーズに分けて説明している(このへんはよく聞く話だ)。で、それ以降のSFはどんどん「幻覚を実在のように扱う treats hallucination as an object in the world」ようになっていった、とされる。そしてこれこそ、本書において今後たびたび立ち戻ることになる「dramatisation14 としてのSF」という見方……なのだそうだ。


そしてディレイニーが召喚される(!)。言うまでもなく言語SFの先駆者であり、SFにかんする詩学的考察においても先駆者である。で、そのディレイニーは、SFはSFで独自の来歴、読者、問題意識等を持つのだから、安易にメインストリーム文学とかの概念/用語を輸入するべきではない、といったことを言ってる。

……というわけで、ひいては、メインストリーム文学の歴史観をSFにも押し広げて語るのには無理があろう、と。また、メインストリーム文学サイドの批評を批判し、(“the worst sort of criticism of the latter[※ポストモダニズム批評のこと] descends into poetic though impressionistic nonsense“とか……)そういうのはSFには要らんよ、とも述べられる(このへんはストックウェルの言です)。

ともあれディレイニーの話に戻ると、彼はそもそも「メインストリーム」っていう言い方にも疑義を呈している。ここはちょっと、いやかなりおもしろいので、以下にそのまま孫引きする15

I can think of no series of words that could appear in a piece of naturalistic fiction that could not also appear in the same order in a piece of speculative fiction. I can, however, think of many series of words that, while fine for speculative fiction, would be meaningless as naturalism. Which then is the major and which the sub-category?

Consider: naturalistic fictions are parallel-world stories in which the divergence from the real is too slight for historical verification.

そしてさらには……

The science fictional enterprise is richer than the enterprise of mundane fiction. It is richer through its extended repertoire of sentences, its consequent greater range of possible incident, and through its more varied field of rhetorical and syntagmatic organisation.

力強い!!テンション上がってきた!!!

……まあなので、SFにはそれだけのポテンシャルがある(言ってみれば、可能な世界の、可能な文がすべて……みたいな)し、したがってそれを分析する側もその可能性に対応できるようなものでなければならない、と。

3.6 Review

ここで挙げたようなディレイニーの見方は本書(のとくに後半)にも通底しているよ(textusの話とかsymbolist strategiesが云々かあるけどひとまず割愛)。

でもって、本章ではとくに文体的な意味で言語コンシャスなSFを見てきた(3.4節)けれど、このようにある種逸脱的なものは(際立っているぶん)言うなれば研究しやすい対象とも言える。そして、本章で採り上げたようなものはSFのあくまで一部である。次章ではSFの主流な伝統(パルプSF!!)を取り扱う。


続き:

murashit.hateblo.jp


  1. Meyers, W.E. (1980) Aliens and Linguists: Language Study and Science Fiction, Athens: University of Georgia Press.
  2. シュタゲ発祥のこの表現は(濫用ではあるが)人口に膾炙していてわかりやすいので、ここでも使わせていただきます。
  3. ……とまとめるとそれこそ単純化しすぎで、実際はもうちょっと慎重な言い方がされている。が、いったんこうまとめさせてくれ。なお、(このような言語観のある種のパロディであるという文脈で)バベル魚も出てくる🐠
  4. 正確に言えば文中での『ガリヴァー旅行記』の扱いは若干異なるが、ここにまとめてしまうことにする。また、それこそ『華氏451度』や『侍女の物語』もこの例に漏れないのだが、おそらくここでは比較的時代の早い作品が挙げられているのだと思われる。
  5. 強い意味での解釈はさすがに無理だが、弱い意味での解釈であれば十分に成り立つであろうことについては、たとえば今井『ことばと思考』あたりがとっつきやすいか。
  6. もちろん本書のなかでは画像は載っておらず、載ってる文字要素を引用しているだけである。Wikipediaに掲載されているのはUSでの初版のもので、ストックウェルが直接参照しているのもこちらなのだが、調べてみると オリジナルであるUKの初版のほうがもっとそれっぽい
  7. 翻訳はないが、調べてみると柴田『生半可版英米小説演習』で試訳とともに軽く紹介されているようだ。
  8. スーヴィン『SFの変容:ある文学ジャンルの詩学と歴史』の「認識的疎外 cognitive estrangement」(読んでないのでこの訳語でいいのかどうかはわからん)への言及がある。
  9. The Moment of Eclipse 所収。翻訳作品集成を見る限りでは翻訳なさそう。
  10. やっぱり翻訳がない。ここでの話を見るかぎりでは、柳瀬尚紀でもないとやらないんだろうな……という感じがすごくする。
  11. Ketterer, D. (1974) New Worlds for Old: The Apocalyptic Imagination, Science Fiction and American Literature, Bloomington: Indiana University Press.
  12. ちなみに、調べてる途中で『世界Aの報告書』についてロブ=グリエが引き合いに出されているのを見つけたりした。( ブライアン・オールディス「世界Aの報告書」(サンリオSF文庫) - odd_hatchの読書ノート に引かれている岡和田さんのツイート。そしてこの記事見るかぎりたしかにこっちのほうがロブ=グリエっぽさがある)もちろん自分は読んだことないっす。
  13. McCaffery, L. (ed) (1991) Storming the Reality Studio: A Casebook of Cyberpunk and Postmodern Science Fiction, Durham/London: Duke University Press.
  14. ひとまず「ドラマ化」くらいか? 「脚色」というと違いそうな気がする。……というふうにこの時点では正直よくわからないんだが、よくいうように、隠喩なり象徴なり寓意なりをそのまま具象化できるのがSFだぜ、みたいな話だろうか?
  15. Delany, S.R. (1977) The Jewel-Hinged Jaw: Notes on the Language of Science Fiction, Elizabethtown, NY: Dragon Press.