物語に「外」などない - 大岩雄典

「きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする」について考えたいと思っていて、そのための準備シリーズ第2弾1。今回は以下の論文について。

大岩 雄典. 2020. “物語に「外」などない:ヴィデオゲームの不自然な物語論.” LOOP映像メディア学 10: 37-108. 2

実は公開されてた当時すぐくらいに読んでいて、おもしろそうだと思いつつもあまり理解できている気もせず……という感じだったのだけど、あれから多少なりとも勉強が進んできたのもあり、それこそ今回の件に活かしやすい話なこともあって、ちょっと腰を据えてまとめてみようという感じに相成りました。

おおざっぱにいえば、ジュネット的な枠組みのもとでの物語論が慣習的なコミュニケーションや擬人化、視覚主義の重力に引っ張られすぎていたことを反省して再定式化した「不自然な物語論」を紹介し(第1節および第2節前半)3、これはビデオゲームの分析にも活かせるかもね、という可能性を提示する(第3節)もの。わざわざそういう慣習に抗うことの意義についても触れられている(第2節後半)。

物語論、むずい

ジュネットっぽい物語論とひとくちにいっても、扱う範囲がめちゃくちゃ広い。ここでの批判の対象は、さしあたり「叙法」と「態」です4。前者はあれだ、焦点化がどうこうってやつ。後者だと、たとえば語り手が物語世界の中にいるのか外にいるのか(語りの水準)みたいなあれですね。

オタクは物語論を勉強しがちでありわたしもその例に漏れないのですが、あの焦点化の分類とか語りの水準の二分法みたいなのって、どうすかね、勉強してみて、どうにも釈然としないところが残ったりしなかったでしょうか。なんかいまいち整理されていないというか、概念がうまく直交してないというか、余分な概念や足りない概念、恣意的な分類が混じってるみたいな雰囲気がどうしてもするというか……。たいていの場合は素朴で使い古された「一人称」「三人称」でもさして問題はないし、あえてちゃんと叙法と態を区別して考えたいようなややこしい対象だと(とりあえず適用してみることができたとしても)「いやなんかもっとややこしいことやってるよな」となってしまいがちというか……。

いや、これはきっと自分がよくわかってないせいであってとくだん本論文の話じゃないですね。でも多少は理由があったのかもしれない。そうだといいな。いいのかな? まあでももしかしたら、ジュネットが人間を標準的なモデルにし過ぎていたせいなのかもしれない、というところで、以下ようやく論文そのものについて。

焦点化について

ざっくりいえば、「(作者ないし「語り手」が)誰の視点に沿って情報を述べているのか」5というのが「誰に焦点化しているのか」の意味するところなのでした。それによって、焦点化ゼロ(誰にも焦点化していない、いわゆる神の視点)だったり、内的焦点化(特定の人物の知覚や心理にもとづいている)だったりに分類できる、と。なんなら、それが移り変わっていったりもする。

で、ここで問題にしたいのは「誰の」の部分です。よくよく考えてみれば、このとき人間的な知覚を持つもの(動物だったり「カメラ」だったりも含む)を想定する必然性はないはずなんですよね6。結論からいえば、焦点化というのは「虚構世界内の情報へのアクセス制限のしかた」として(離散的ではなく連続的なものとして)抽象化できるはずなのです。

もちろん、まあ、お話ってね、人間を扱いがちなんでね、アクセス制限のフィルターとして(つまり知覚のモデルとして)慣習的に「誰か」を用いちゃおうとするのは、それはそう、なんだけど、それでも、そうじゃない「不自然」な物語はいくらでもありうる、げんにある7。もっといえば、いわゆるキャラクターの存在を言説に対して先立たせるのではなく、フィルターとして機能している、一貫性を持って組織化された知覚や無知の特定のパターンとしてキャラクターのアイデンティティを見出したほうが、うまくいくことだってあるだろう。

語り手について

語り手についても同様に考えてみる。やはりおおざっぱにいえば、そこでどういう人称代名詞が使われているかはさほど本質的じゃなくて、だいじなのはその語り手がいまどこにいてどういう立場で喋ってんのかのほうじゃん、というのがジュネットのいってたことだったはず。

ただ、ここにもやっぱり特段必要のない前提が混じっているのではないか。そもそも語り手って、ほんとに要ります? ある種のダイクシスが使われるといかにも存在しているように見えてしまうけれど、それはふだんのわれわれのコミュニケーションの中での「(誰かからの)報告」として読んでしまう傾向がわれわれにあるからなだけって考えたっていいはずなんですよ。一人称と三人称なんてのは容易に取り替え可能で修辞的効果にすぎないってのが物語論の基本的な立場なんだから、その選択は作者がおこなっている(そのように創作している)というのが素直です8。そうしたときに、作者とはべつの「語り手」なんてもののあることを(そういう「幻覚」がうまれることは当然に認めつつも)つねに想定しなければならない必然性は、ないんじゃないか。つまりこれも、言説に先行して語り手の存在を前提する必要はないんじゃないか、と。

二人称だってそうです。「きみ」と呼びかけるレトリックって、やっぱり眼前にコミュニケーションをとっている主体をつい想像してしまう。けれど、それこそ作者が「報告」(命令、かもしれないね)としてあえてデザインしていることをあからさまにしてもいる。だって、ふだんのコミュニケーションでの「きみ」の使用とはどう考えたって異なるのだから。それでも二人称を使うってのは、だから、政治性の高いやり口なんですよね。I Want You for U.S. Armyしかり、「きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする」しかりだ!


というわけで、第2節の末尾に至り、フィクションのテクストを 「その物語世界における出来事や、その出来事にたいする思考や無知を含む情報について、取捨選択しながら並べ立てられたもの」 と定式化できるようになるちゅうわけだ。

実際のビデオゲームに触れる第3節も面白いんだけど、上記のテーゼを受け入れとけばある意味すごく当然の話なのでここではまとめ直さないことにします。嘘です、そろそろ疲れてきたので……。第2節後半の政治性やそれに絡んだ「再演」の話も大事なんだけど、これはそれこそ「きみはMGSVをプレイする」の内容に触れつつやったほうがいいところなのでこれも置いとこうね。

以上です。

2025-06-18追記

あれからいろいろ調べていて、以下あたりは関連しておもしろそうということで、(どっちも英語で長いからくそまじめには読めないとしても)ちょっと目を通してみたいと思いました。読んでもないのになんで紹介するかというと、誰かほかの人に読んで、日本語で教えてほしいからです!!誰かやって!!!

  • Barkman, Cassandra Jane. 2024. “Narrative Complexity in Videogames.” PhD thesis, Swinburne University of Technology. https://doi.org/10.25916/sut.26297530.v1.
    • 博士論文(なので長い!)。ここでいうような不自然さを含む「物語の複雑さ」がビデオゲームにおいてどう積極的なかたちでおもしろさに繋がってるのか、みたいな話っぽい。オブラディンのミステリーだとか、Outer Wildsの環境ストーリーテリングだとか、メタレプシスの話だとか、創発的なナラティブが云々みたいな話だとか
    • 同著者の“There’s No Point in Saving Anymore: Diegesis and Interactional Metalepsis in Pony Island and Doki Doki Literature Club”がおもしろかったとこから辿ったもの
  • Ensslin, Astrid, and Alice Bell. 2021. Digital Fiction and the Unnatural. Ohio State University Press.
    • 版元のページ
    • ↑のBarkmanから辿ったもの。ちょうど大岩論文でも触れられていたEnsslin(とBell)によるデジタルフィクションにおける不自然な語りについての一冊(なので長い!)。たぶん2人のこれまでの不自然な物語についての論文から集大成した感じの内容っぽくて(二人称の話もあるよ)、イントロダクションとか目次を眺めた限りだとかなり自分の興味にうまくはまりそうだった。それこそ奇想の記事でも考えた、認知の問題やメディア/ジャンルの慣習、それによる読みの戦略みたいなものも視野に入っているっぽい

  1. こういうことやってるとほんとにやりたいことがどんどん遠ざかっていって未完のままになるものですが、まあそれも人生というやつだよね。
  2. 著者がこちらで公開している: https://researchmap.jp/euskeoiwa/published_papers/29963397
  3. 実際のところこれ自体サーベイ論文であるため、つまり孫引きってことになる!(原著論文の方までちゃんと辿ってない)
  4. 「時間」については触れられていない。
  5. ジュネット自身は「視点」という語をあえて避けていることに注意。ただ、(「ざっくり」言ったとおり)しばしば「視点」と同一視されがちで、これについても自然主義的傾向の一種としてバルに帰されたうえで批判されている。ややこしくなるのでここではまとめない。
  6. 論文のなかで第一に挙げられてるのは、たんなる必然性のなさというよりも、そもそも純粋な内的焦点化なんて意識の流れを使ったって不可能であることや、外的焦点化や内的焦点化の区別に「(私秘的な)心理」や視覚なんていう人間的なキャラクターの存在を前提としなければならない観点が用いられているせいで無理が出てきてるよね、みたいな話ではある。(ちょっとこのへんのまとめ方には自信がないけど……)
  7. もちろんこういう「慣習化」ないし合理化それ自体を考えるおもしろさのあることは否定しない。右記で書いたのはそういうことでもある、つもりです! Re: 奇想の在処――〈奇想〉とは何か? 試論 - 青色3号
  8. ここはしれっとフィクションに限定されている(ジュネットの論はフィクションに限定されないはず)のだが、ノンフィクションだとそもそも作者と語り手を別々に考える必要がないため、この問題が起きないというのはある。フィクションを「枠付けられたノンフィクション」として捉えてしまうからこそ、枠付けのための別個の語り手をついつい要請してしまう、という話でもあるだろうか。