きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする - ジャミル・ジャン・コチャイ(矢倉喬士訳)

You're your own man. I'm Big Boss, and you are too... No... He's the two of us. Together.

ようやく本題にとりかかることにしました。前から言ってるとおりコチャイ「きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする」そのものの話を(ようやく)してみます。

TL;DR

ジャミル・ジャン・コチャイ「きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする」は第一に、ゲームならではの、あるいは言語表現ならではの二人称代名詞のあいまいさを利用して、ゲームと小説、現実と虚構、自己と他者の境界をぼやかしながら、移民二世の複雑な経験を読者に追体験させる作品といえる。ただしそのうえで、いかに重ね合わせたとて完全な同一化や理解が達成できない「ずれ」こそが強調されているという点がより重要である。

「きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする」

もともとNew Yorker誌2020年1月6日号に発表された掌編小説で、その後The Haunting of Hajji Hotak and Other Storiesという短編集に収録されたもの。矢倉喬士による当短編集の邦訳が『きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする』として2025年の2月に刊行されており、今回おもに参照するのはこの邦訳です。

タイトルからしてメタルギアソリッドVをプレイする話なんだろうなってのはわかるはず。そして実際その通りなんだけど……もちろんゲームをプレイするだけの話ではない。アフガニスタンからの移民の息子である主人公が、部屋にひきこもってMGSVをプレイする。そのうちにゲームの中のアフガニスタンと、父親の故郷のアフガニスタンが重なっていって……といった内容。いかにも虚実が交わっていますよという話ではあるのだけど、ここで気にしたいのは(もちろん間接的には大いに関わってくるものの)直接的にはそのことじゃありません。

本作を一読して誰もが特徴として挙げるであろう文体的特徴がひとつあります。全編が「きみ」という二人称代名詞(かつ現在形)を基軸に書かれているということです1。「きみはゲームを買う」「きみは自転車に乗る」「きみは父を撃つ」。ずっと「きみ」「きみ」「きみ」。

もちろん、いまや二人称小説なんてのは(虚実が交わるのとおなじくらい)ありふれてはいます。ただ、ビデオゲームをプレイする小説であるという点で少々独自性がある。そう思ったので、以下。

本作のあらすじ

まずは後々の便宜のためにまずは簡単にあらすじをまとめておきます。

時は2014年。作中で「きみ」と呼ばれる主人公はアフガニスタン系アメリカ人の青年で、バイトで貯めたなけなしのお金で大好きなコジマのゲーム、Metal Gear Solid V: The Phantom Painを予約する。発売日に必死で自転車を漕いで帰ってきた「きみ」は、運悪く庭仕事をしている父に捕まってしまう。父はソ連のアフガニスタン侵攻時代に拷問を受けた過去があり、現在は体を壊して働けない。父とはうまくいっていないのだ。

「きみ」はそんな父からの話を振り切って部屋に閉じこもり、ゲームをはじめる。舞台は1984年のアフガニスタン。父の故郷である(そして「きみ」自身も子供のころに訪れたことのある)ロガールに近い風景がやけにリアルで、どこまで近づいてみられるのか、試してみたくなる。

行けるはずがないって? そう、そのはずだったのに……「きみ」はその村に着いてしまう。ソ連兵に殺されたはずの父の弟ワタクを目撃してしまう。だんだんおかしなことになってきた。「きみ」の父さえいる。「きみ」はまた気を迷う。拷問されるはずだった父と殺されるはずだったワタクを救出して、マザーベースに連れて行ってしまおう(それがなんになるというのか?)。

現実の兄がドアを叩く声も、虚構の祖母からのマチェットのひと振りもどうにかやり過ごし、「きみ」は麻酔銃で眠らせた父とワタクを担いで逃げてゆく。けれど救出ヘリは墜落。「きみ」は2人を担いだまま、そこにあった洞窟の奥へと進む。暗転した画面には「きみ」の姿が映り込む。まるでゲームのキャラクターたちが「きみ」の中へと入り込んでいくみたいだ。

二人称代名詞のあいまいさ

さて、二人称代名詞の話なのでした。そもそも小説あるいはビデオゲームにおける二人称がどういうものか、ここで整理しておきます。

小説における二人称

小説で「あなた」とか「きみ」を使うパターンはいくつかあります。代表例としては以下のようなものが挙げられるでしょうか。

  • 登場人物どうしが話している
    • 普通の会話、あるいは手紙や手記で「きみ」と呼ぶケース。「物語のなかの誰か」が「物語のなかの別の誰か」に向けているもの。ある意味いちばん基本的な「きみ」の使い方
  • 自分自身に語りかける/自分の様子を描写する
    • 「きみはまたやってしまった」みたいに、自分を客体化して語るパターン。内省的な語り。過去形であることが多く、一人称に置き換えても不都合がないことも多い
  • 語り手が特定の登場人物を「きみ」と呼んで描写する
    • ふつうなら「彼は」「彼女は」と語るところを「きみは」と語るパターン。読者に「きみ」のことを報告しているような形になる。ふつうは三人称が使われるような焦点化ゼロでこれをやられるとかなり不自然
  • 作者が読者に語りかける
    • 「懸命なる読者であるあなたならば……」みたいな古典的な手法。近代小説より前っぽくもあるし、後っぽくもある。典型的なメタレプシス
  • 一般的な真理を語る
    • 「汝殺すなかれ」みたいな、特定の誰かではなく一般的な「人」を指すパターン。日本語ではあまり見かけないかも

これらについて言いたいことは多々ありますが、いったん次に進みましょう。

ビデオゲームにおける二人称

さて、ビデオゲームにおいて、二人称代名詞はまた違った使われ方をします。もちろん先に「小説」でみたような使われ方をすることもそれなりにあるけれど、それにいくつかの典型例を追加できるかもしれない。

  • 操作説明
    • 「Aボタンを押すとジャンプします」「ここで右に曲がってください」みたいな。今は亡き説明書や、あるいはチュートリアルでも見かけるやつ
  • プレイヤーキャラクターの行動を描写する
    • 「あなたは暗い洞窟の前に立っている。中に入りますか?」みたいな、プレイヤーキャラクターの状況について説明するもの。TRPGや昔のテキストアドベンチャーではよくあっただろうけれど、ビデオゲームの表現力がだんだん上がってきた昨今、頻度としては減っているかもしれない。それでもTRPG文脈を色濃く残しているゲームをやってると出会うことが多いか。小説における「語り手が特定の登場人物を『きみ』呼んで描写する」に類するとはいえ、かなり受け入れられ方がちがう
  • (プレイヤーキャラクターではなく)プレイヤーの行動を描写する
    • 「プレイヤーキャラクターの行動を描写する」と比べて、いわゆる虚構的行為文により近いもの。ゲーム内で出てくるのであれば、ある程度明確にメタレプティックな感覚になる

細かくいえば、小説にもあったようなものはともかく、ここに挙げるものはいずれもフィクションに閉じているわけではないかもしれません。実際すこしややこしい議論が必要だとは思うのですが、少なくともプレイしているときに目の当たりにする二人称代名詞ということで大きくくくれはするはず。

二人称はあいまい!

ともあれここで重要なのは、これらが排反というわけではないということです。「きみ」2という文字列が目の前に現れたとき、それが誰を指しているのか、実はよくわからない。物語の中の誰かのことなのか、読んでいる自分のことなのか。いつどこでどのような立場で語りかけている……ことになっているのか。

コチャイがインタビューで言っている、二人称が「oddly intimate and alienating」であるというのは、きっとこういったことの現れでもあるはずです。親密なようで、でも距離を感じる。「きみ」と呼ばれればいっしゅん自分のことのような気がするかもしれないけれど、でもやっぱり自分じゃなかったりだとか。

二人称代名詞にはそういったあいまいさがつきまといます。

本作における「きみ」

では、本作ではこの二人称代名詞というやつが実際どんなふうに使われているのか。

作中現実の「きみ」

まずは本作の冒頭から3

まずきみは、地元のゲームストップでゲームを予約するために現金をかき集めないといけなくて、そのゲーム屋ではきみの従兄が働いていて、従業員割引でおまけをしてくれるのだけど、それでも少し予算オーバーで、というのも、タコベルのバイトで稼いだ給料は、きみが十歳のときから無職の父さんを助けるために使うことになっていて、それを思うと実用性のない趣味にお金を使うだなんて、罪悪感で耐えられそうにないし、こうしているあいだにもカブールでは、子どもたちが白人のビジネスマンや軍事指導者のために家を建てるべく身を粉にして働いているわけで──でも、チクショウ、だってコジマだぜ、メタルギアだぜ、[…]

この時点では、いかにもふつうの(内的焦点化の)二人称小説です。いかにもふつうではあるということはつまり、「自分自身に語りかける/自分の様子を描写する」にもみえるし、「語り手が特定の登場人物を『きみ』と呼んで描写する」にもみえるし、「作者が読者に語りかける」にもみえるということです。

もちろん、前者2つはともかく、最後の「作者が読者に語りかける」はかなりあやしい。あくまでいっしゅんそんな気がするだけではあって、あなたはきっとコジマの新作のためにバイトしているわけでもなければ、カブールの子供たちに同情しているわけでもない。この「きみ」はわたしのことではないと考え直すはずです。それでもいっしゅんそんな気がする。だって、チクショウ、コジマだぜ。それでもそのうえで、カブールの子供たちを気にかけていないことにも気づく、かもしれない。

きみは愛国者ではなく、民族主義者でもなく、帽子とカミーズを身に着けて歩き回り、民族楽器のタブラを叩き、お気に入りの歌手はアフマド・ザヒールと答えるようなアフガニスタン人の一員でもないわけだが、ゲーム史上で一番の伝説となり、芸術の観点からしても重要なシリーズ最後の舞台が一九八〇年代のアフガニスタンときたものだから、いざそれを手にするきみはいっそうワクワクしていて、それもそのはず、きみは長いこと『コール オブ デューティ』でアフガン人たちを撃ち殺してきたわけで、父さんによく似た顔の軍人たちが次から次へと襲い来るのを初めて虐殺したときには自己嫌悪にも陥ったけど、今では不思議と免疫がついてしまった。

CoDで自分の父に似た顔の軍人を虐殺したことはあるでしょうか。あなたはそんな経験のある読者かもしれないし、そうでない読者かもしれない。ただでも、そうですね。このへんはいかにもふつうの二人称小説です。

ゲーム内の「きみ」

話が変わってくるのはその先、「きみ」がゲームを開始したあたりから。プロローグは1行で済ませて4、以下。

オープニングの病院での虐殺を逃げ延びたきみとリボルバー・オセロットは、カブール北方の荒涼としたマップに移動して──その岩壁、舗装されていない道、黒ずんだ山々を太陽が照りつけている様子は、きみが小さい頃に現地を訪れたときの記憶とまったく同じだ──最初の任務はソ連軍の捕虜にされた仲間のカズヒラ・ミラーの居場所をつきとめて救出することなのだけど、なにしろ『ファントムペイン』はメタルギアシリーズで初めてのオープンワールドゲームだから、きみはカズヒラ・ミラーの救出はいったん後回しにして、ソ連兵を何人か殺してみることにする。

病院での虐殺を逃げ延び、カブール北方の丘にオセロットとともに佇むのは、ここまで指示されてきた「きみ」ではなさそうです。素直に考えるなら、プレイヤーキャラクターたるヴェノム・スネークであるはず。しかしそれでも、スネークが「きみ」の操作するキャラクターであるせいで、「きみ」と名指せてしまう。

そしてすぐあと、「きみが小さい頃に現地を訪れたとき」はどうか。こちらはどう考えたってスネークではありえない。これははじめから「きみ」と名指されていたほうの人物です。

じゃあ、ミラーの救出をいったん後回しにしたのは? 病院から逃げ延びるプロローグをプレイしているとき、はじめから名指されていた方の「きみ」と、ゲーム中のスネークの目的とは一致していた。けれどここにおいてはもはやそうではない。復讐に燃えるはずのスネークがそんなことをするはずはない。けれどもちろん、「きみ」が現実にミラーの救出をするわけでもない。

こんなふうに、ここから、本作の主人公とそのプレイヤーキャラクターのどちらもが、あいまいに「きみ」と名指されるようになってくる。時には本作の主人公のみを指す表現であることもあるし、あるいは虚構的行為文としてそれらが重なっていることもある。文もまたがずその切り替わりが行われたりもする5。麻酔銃で眠らせた「父さんを抱きしめて、その体はまだ強くて元気で、心も壊れていないのを感じながら、そっと静かに寝かせてあげ」ているのは、誰?

登場人物どうしでの呼びかけとしての二人称代名詞の不在

で、ここからどのような効果を生むのかの話をしていくべきなんですが、もうひとつ寄り道させてください。実はこれだけやっておいて、本作には登場人物同士で「きみ」と呼び合うシーンがほとんどありません。

とはいえ、「ほとんど」と言ったとおり、ないこともない。まず、序盤に父親につかまって会話する場面。邦訳では以下。

どこに行ってた、と父さんは尋ねる。

「図書館」

「課題はまだ残ってるのか?」

そうだよ、と君は答えるけど、厳密に言えば、これはウソではない。

「オーライ、でも勉強が終わったら下りてこい。話しておかなきゃならんことがある」と、父さんが英語で言ったのは、パシュトー語で話しかけるのをもう諦めてしまったからだ。

見てのとおり二人称代名詞が使われていないのですが、原文では次のようになっています。

Your father asks you where you were.

“The library.”

You have to study?”

You tell him you do, which isn’t, technically, a lie.

“All right,” he says in English, because he has given up on speaking to you in Pashto, “but, after you finish, come back down. I have something I need to talk to you about.”

それこそ「父が英語で話している」ことの強調であるとはいえるのでしょうか。

続いて長兄に横槍を入れられる次の箇所。

兄貴がまた来て、今度は一番上の兄貴も連れて来て、年が上なだけあって声もでかくてドアを叩く力も強くて、お前は何をやってんだ、いいかげん出てきたらどうなんだ、ガキじゃあるまいし、父さんと母さんに迷惑ばっかりかけやがってと二人そろって言ってきて、[…]

対応する原文は以下のとおりです。

Your brother is back, and this time he has brought along your oldest brother, who is able to shout louder and bang harder than your second-oldest brother, and they’re both asking what you’re doing and why you won’t come out and why you won’t grow up and why you insist on worrying your mother and your father, […]

原文ではふつうに間接話法であり、呼びかけではないことが明確です6。邦訳のほうも、父との会話に見られるようなそのまんまの直接話法でないのはそうですね(これを自由間接話法と言っていいのかどうかは正直よくわからないのだけど)。

最後に、そのあと父が部屋の前にやってくるくだり。二人称代名詞ではなく名前が使われる。

ところが今、ドアのところに父さんが来ている。

「ミルワイス?」7と父さんはとても優しく呼びかけてきて、子どもの頃にそうしてくれたみたいで、ロガールできみがインフルエンザにかかって薬も静脈注射も民間療法もダメだったとき、できることといったら痛みが引くまで待つくらいのもので、そんなときに父さんがいてくれて、あれはリンゴ園だったろうか、ベランダだった廊下、膝の上で抱いてくれて、髪を撫でてくれて、名前を呼んでくれたっけ、今の父さんはというと、質問しているみたいな調子で話しかけてくる。

「ミルワイス?」という父さんの呼びかけに、きみが返事をせずにいると、それ以上には何も言ってこなかった。

こちらはもちろん原文でも同様に直接話法。わざわざ「名前を呼んでくれたっけ」とさえ言っている。先ほどの父との会話と対照的でもある。

二人称代名詞ないし名前を使った登場人物間の呼びかけは見る限りこれらの箇所のみで、じゅうぶん意識的に使われていることがわかるのではないでしょうか。

本作におけるあいまいさの効果

閑話休題。この「きみ」のあいまいな使われかたが、どんな効果を生んでるのか。

媒体間の慣習の重ね合わせ

まず、小説とビデオゲームとでは二人称代名詞に対する慣習の違いが悪用されています。ゲームのほうはインタラクティブなフィクションであるという性質上、小説では不自然に感じられたような二人称代名詞の使用がより自然なかたちで慣習化されているという事情がある。そして、それがそのまま小説で使われている8

ほんとうはそんなのおかしいのに。だからただの二人称小説ではなくて、ビデオゲームでは自然なのに小説では不自然であることこそが利用され、自然さと不自然さをないまぜにしている。

その一方で、実は(少なくとも現代的な、それこそMGSVのような)ビデオゲームではこのように重ね合わせられないということにも注意しておく必要があります。考えてみてほしいのですが、ゲームをプレイしているとき、画面の中にはプレイヤーキャラクターがいて、画面の外には自分がいる。視覚優位であり続ける現代のビデオゲームにおいてこれを表現しようとしても、主人公とディスプレイ中のプレイヤーキャラクターを重ねることはできない。

言語しかない小説であれば、「きみは父を撃つ」と書けば、それがどの「きみ」なのか、あいまいなままにしておける。そういう手管もある。

モチベーションのずれ

重ね合わせるということは、差異を強調することでもあります。あるいは、没入できないことの重要性といってもいいかもしれません。

ふつうのゲームなら、最初に設定が提示されるはずです。「あなたは復讐に燃える傭兵です」とか「世界を救う使命を帯びています」とか。なんたってお前はビッグボスだ。だからプレイヤーはその設定を受け入れて、そういうキャラクターとしてプレイする。

でも本作の「きみ」は違う。いきなり「きみ」と呼ばれ、タコベルでバイトして、父親との関係に悩んでて、でもゲームがしたい。読者はコジマなんて知らねえかもしれないし知ってるかもしれない、タコベルでバイトした経験なんてないかもしれないしあるかもしれない、アフガン系じゃないかもしれないしそうかもしれない、そう思いながらも、自分でプレイもできないまま、主体性を奪われ「きみ」として読み進めざるを得ない。ある程度は重なりうるけれど、まったく同じであることはありえない。

ここまでは先にも述べたことで、でもでもだから、ここが大事なところなんですよね。「きみ」と呼ばれても完全には同一化できない。父の故郷を救いたいという動機も共有できない。ゲーム内でソ連兵を撃つことの意味も、アフガン系アメリカ人の「きみ」と、(おそらく)そうでない読者では、ぜんぜん違う。

だからこそ、その差異が強調される。よく「ゲームに没入する」っていうけれど、ここにあるのはむしろ没入の不可能性なんですよね。「きみ」として読まされるけど「きみ」になりきれない。

同様に、「ずれ」はゲーム内でも起きている。これも先ほど触れたとおり、ゲーム内のスネークは復讐に燃えているはずです。9年間の昏睡から目覚めた、仲間を殺されすべてを奪われた男なのだから。でも「きみ」は違う。ミラーの救出を後回しにし、出来心で父の故郷を探しに行ってしまう。

これだっておかしいんですよ。ゲームのストーリーとプレイヤーの行動が完全にズレてる。スネークにとってはロガールにある村なんてなんの意味もない(そもそもゲーム内に出てこない)、スネークは過去を変えたいだなんて思ってない。だのに「きみ」は南下し、さらには父と叔父を救おうとする。

ただし、こちらでは「きみ」が実際に操作しているという点において、先ほどのいかにも小説的なずれとは意味合いが異なってもいます。それに(もちろんそんな不思議なことは起こらないつったって)ゲームでそういう、キャラクターのモチベーションと異なるプレイをするのはすごくよくあることだよね。

もっと言えばMGSV……というかMGSというシリーズじたいがこういう代理関係や多重的なアイデンティティを扱うゲームであって……と、この話はもっと続けられるのですが、MGSVのネタバレになってしまうし本作では(確実に意識されているとはいえ)陽には扱われていないため触れないでおきます9

できなさの話をもうすこし

最後にもうちょっといいですか? もはや二人称とはそれほど関係ないのですが……。

総じていえば本作は、移民二世として、父の歴史的トラウマを理解したいけど理解できない、癒したいけれど癒せない、そのできなさを、ゲームという形で理解し、あまつさえ転覆させようとする話ではあります。で、「きみ」という二人称で語られると、それが可能なような気がしてくる。だって、ゲームの中では「きみ」は自由だから。時間を巻き戻すことも、死んだキャラクターを生き返らせることもできる。

そのうえで、本作は“「TO BE SAVED.」(救いセーブを求めて)”と締められる。本作ではゲームセーブへの言及が出てこないんですよね。であれば「きみ」は時間を巻き戻すことも死んだキャラクターを生き返らせることもできない。できるのは、「きみ(と父とワタク)」が「きみ」の内側へ、それを求めて旅をするだけ。あるいは、きみの内側にセーブすることなら?


つい盛り上がって説得を諦めてしまった。まとめます。

本作は第一に、ゲームならではの、あるいは言語表現ならではの二人称代名詞のあいまいさを利用して、ゲームと小説、現実と虚構、自己と他者の境界をぼやかしながら、移民二世の複雑な経験を読者に追体験させる作品といえます。ただしそのうえで、いかに重ね合わせたとて完全な同一化や理解が達成できない「ずれ」こそが強調されているという点がより重要です。つまり(ものすごく通俗的にいえば)二人称代名詞は、なりきれそうでのなりきれなさやできそうでのできなさをつうじてほかのだれかの経験を「セーブする」ためのデバイスだったというわけです。

……なんか普通のこと言ってんな。以上です。

文献情報

  • 原書など
    • Kochai, Jamil Jan. 2022. The Haunting of Hajji Hotak and Other Stories. Viking.
    • コチャイ, ジャミル・ジャン. 2025. 『きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする』. 矢倉喬士訳. 河出書房新社.
    • Kochai, Jamil Jan. 2020. “Playing Metal Gear Solid V: The Phantom Pain.” New Yorker, January 6, 2020. https://www.newyorker.com/magazine/2020/01/06/playing-metal-gear-solid-v-the-phantom-pain
  • 現在読めるまとまった評。いずれも参考にさせていただいた
    • 矢倉喬士. 2020. 「メタルギア畑でつかまえて――ファントムを描く短編小説『Metal Gear Solid V: The Phantom Pain』をプレイして」. 『Real Sound』, 2020年9月10日. https://realsound.jp/tech/2020/09/post-616406.html
      • 初出時の矢倉さんによる評。当時これを見て読んでおもしろいとなっていたのであった。コチャイのインタビューもこちらから辿ったもの
    • 古泉函数. 2025. 「ぼくは『きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする』をプレイする――伊藤計劃とジャミル・ジャン・コチャイにみる〝メタゲーム的リアリズム〟の実践と倫理」. 『genkai』 6: 33-47.
  • そのほか
    • Carlson, Matthew, and Logan Taylor. 2019. “Me and My Avatar: Player-Character as Fictional Proxy.” Journal of the Philosophy of Games 2 (1): 1-19. https://doi.org/10.5617/jpg.6230
    • 大岩雄典. 2020. 「物語に『外』などない:ヴィデオゲームの不自然な物語論」. 『LOOP映像メディア学』 10: 37-108.
      • 物語に「外」などない - 大岩雄典 - 青色3号
      • 小説にかんしてはフルデルニクあたりから追えばいいんだなってのがわかったのもあるけど、関連してDigital Fiction and the Unnaturalをみつけたのがでかいか。本記事では結局再演あたりの話をしきれなかった
    • Ensslin, Astrid, and Alice Bell. 2021. Digital Fiction and the Unnatural. Ohio State University Press.
      • 第5章で直接的に二人称を扱ってくれている。これまでの(不自然な)物語論での二人称についての議論がまとめられたうえでデジタルフィクションでの使用についても検討されていてありがたい。「二人称代名詞のあいまいさ」を軸にしたのは本書のおかげだが、ちゃんと倣っているとは言い難く、正直わりと雑に取り入れています……
    • 中井秀明. 2013. 「二人称小説とは何か――藤野可織『爪と目』とミシェル・ビュトール『心変わり』」. https://nakaii.hatenablog.com/entry/20131107/1383813217
      • 書いてくなかで、昔おもしろく読んだこちらを思い出した。上記とあわせて二人称の使われかたの参考にさせてもらった
    • Papale, Luca, and Russelline François. 2019. “‘I am Big Boss, and you are, too…’: Player identity and agency in Metal Gear Solid V: The Phantom Pain.” G|A|M|E The Italian Journal of Game Studies 8 (2). https://www.gamejournal.it/?p=3920
      • MGSVについておさらいしよう!

  1. もうひとつ、基本的に一段落につき一つの文で書かれているという点もあるのですが、今回は扱いません。というか、こちらについてはちょっとはかりかねているところがある。途切れられなさ、没入の表現とか言えなくもないんだろうけど……。
  2. 曖昧さの点では単複どちらでも使えて関係性も問わない英語のyouがいちばんひどくて、日本語の「きみ」はどうしてもそのへん偏りが出てしまうところはある。
  3. 断りのないかぎり本文からの引用はKochai(2022)または矢倉訳のコチャイ(2025)による。また、すべての強調は引用者による。
  4. これを書くためにこないだMGSVの最初だけ久々にやってみたのですが、ほんとは1行で済ませられないくらいに長いプロローグではある。ほんとほんと!
  5. って書いてようやく気づいたんですけど、文を途切れさせないことの意図の一部はここにあるのかもしれない。
  6. もう1箇所、祖母にマチェットで切りつけられたくだりでも、邦訳では「屋敷に大勢いる男たちに向かって、あんたたち、さっさと目を覚まして、寝込みを襲う卑怯なロシアの暗殺者アサシンを迎え撃っておくれ、と号令をかける。」となっている箇所もあるにはある。ただこれも同様に、原文だと “calls for the men in the house, of whom there are many, to awaken and slaughter the Russian assassin who has come to kill us all in our sleep.” としか書かれていないんですよね。
  7. 実はここ、New Yorker掲載時の主人公の名前(あるいは少なくとも、呼びかけたときの呼称)は「Zoya」だったのが、短編集への収録にあたって「Mirwais」に変わっている(はず)。いろいろ考察しがいがあるところなのかもしれんけどここではスルーします。
  8. ゲームブックみたいなのを小説で再現しようとしたしょうもない(しょうもねえよ! だって! おれだって! 小学生のとき! 友達のUくんといっしょに! ゲームブックを作ろうとしたよ!)やりかたではなく、あくまでゲームプレイを描いているのがポイントや。
  9. さらにさらに、MGSVがこういう「民族」やその土地、なにより言葉(本作において主人公の父が、母語ではなく英語を話していたことを思い出そう)に意識的なゲームであるというのもそうだとかいくらでも数え上げていけるけど、それをやりだすと記事がもう1本必要になってくるよな。