いままさに読んでいるところ。全体としては「理論編」「キーワード編」「ブックガイド編」の3部構成。ここではとりあえず最初の「理論編」を読みながら思ったことなどをメモしておく。
この第1部について、「はじめに」では以下のとおり紹介されている。
第1部「理論編」では、「ルール」や「メディア」、「遊び」といった、ゲームスタディーズにとって最重要ともいえる8つの概念をめぐって、4人の編者がそれぞれの見解を示した。「1つの項目を複数の著者が執筆する」というユニークな形式を採用したのは、重要な概念ほど、それを理解するためには、視点や力点の相違や多様性が有効だろう――むしろ1人の著者にすべて任せてしまうのは危険だろう――と考えたからである。読者もすぐにお気づきになるだろうが、同一の概念をめぐる解説でも、著者によって見解や力点の違いがある。[…]
じっさい、紹介されているキーワードがいずれも基本的であるぶん抽象度も高いせいか、その語によってどんな概念のどんな側面に着目したいのかがさまざまであることに(そのあとの「キーワード編」と比べても余計に)気配りがなされており、どのパートもとりあえず「多義的である」から始まるような印象ではある(少々鬱陶しい気がしないでもないが仕方ない)。紹介されている概念というか、キーワードは以下。
- ルール
- フィクション
- メディア
- 遊び
- エンターテインメント
- ソーシャル
- インタラクティビティ
- 人工物
1. ルール
担当は井上、松永、吉田。「ルール」の射程として、強制されない/明示されない/実装されないようなある種の規範をいみしたいケースがあることにも言及しつつ、基本的には素直に「ゲームのルール」といったときのそれがやはりメインか。そのうえでルールの構成性、つまり行為を意味づけたり価値づけたりするような(プレイの行為をデザインする)はたらきについて、3人が3人とも注意を向けさせているのが注目しどころかもしれない。
とはいえ(ここからはサールから離れてユールのいう制限/アフォーダンスの対比のほうに寄るのだけど)「このビデオゲームではなにができるか」を「なにをするとそのゲーム内で反応がかえってくるのか」(あるいは「どんなエージェンシーを発揮できるのか」)と言い換えてみたとき、制限-アフォーダンスをあまり明確に分離できるものでもないのだろうなと思ったりもする(というかそもそも、あくまで両面であって分離するようなもんではないか)。このへんは(吉田パートでも触れられている)ビデオゲームにおけるルールは社会法規より自然法則に近いみたいな話とも絡むかもしれないし、ゲームエンジンだったりジャンル慣習だったりのベースラインをどう捉えるかとも関係するだろうか。
そのほか、井上パートで「ルールの変更についてのルール」に関連してチーティング(コンサルヴォ)への言及があるけれど、個人的にはアップデートによる環境の変化みたいなのも気になるところではある。
2. フィクション
担当は吉田、松永。これも多義的であって……といっても、(「物語」とは直交した概念として)虚構世界上の事柄を描くものとしてこの語を使うことがおおむね共通認識といってよいはず。さらに狭めるなら、共通して名前が出てくるユールもタヴィナーも、ウォルトン的なフィクション論を明に暗に使っているといえそう。それでも、こうやって「フィクション」の用法をいったん相対化しつつ、改めてゲームスタディーズ(よりはもうちょっと広い文脈だが)における「フィクション」にクローズアップするみたいなことをいまだにしつこくやらなきゃならないこと自体が、ちょっとおもしろいところなのかもしれない。
ともあれ、松永パートで紹介されていたVan de Mosselaerの博論は気になる1。前にこの人の「Breaking the Fourth Wall in Videogames」って論文2読んで面白かったんだよな。
3. メディア
担当は吉田、ロート。ここは正直よくわかってない……。
吉田パートにあるような、ジャンル(ある種の形式)としての「メディア」という用法と、素材としての「メディア」という用法があるのはなんとなくわかる、と思う。ビデオゲームが「メディア横断的」というのは後者の用法であると。
とりあえずBartel(2018)3の「ルールのメディア依存性」はおもしろそうなのでちょっと読んでみたい。ルールの項で書いた「制限-アフォーダンスをあまり明確に分離できるものでもない」の話と関係したりする?しないか?
4. 遊び
担当は井上、吉田、ロート。めちゃくちゃおおざっぱにいえば、ゲームにはおおむねルールやマジックサークルみたいな縛りや境界があるいっぽう、遊びにはそういったものにとらわれないところがあるはずよね……みたいな認識がありそうではある(そして、それをどう価値づけるかもいろいろだ)。
井上パートの「モデル化」はたぶん、『中心をもたない、現象としてのゲームについて』で読めそうな気がする。ロートのパートで紹介されていたPatterson(2020)4の「できるからやる」の話は面白そうだと思った(が、これをアジア的とするPattersonの弁は、どうなんだ?)。
5. エンターテインメント
担当は井上、ロート。そもそも「エンターテインメント」が基本概念として立てられていること自体がちょっとおもろい。でもゲームの多様化を駆動したのはなにより楽しさ……というか、なんなら井上パートにあるとおり、技術的になにが使われているかとかより「(ゲーム的な)楽しさ」こそがその進化の軸になってきたわけで、そりゃ大事だ。
んで、いつも思うんだけど、「娯楽でなければゲームではない」みたいなのはたんに狭量だし(ロートのパートにあるように)ときに危険でもあるんだけど、かといって娯楽であることが軽視する理由になっていいわけでもないみたいなの、むずいよね。まあポピュラー文化を扱うってそういうもんか。
6. ソーシャル
担当は吉田、井上、ロート。ゲームをするって基本的に社会的営為ですよねの話。必ずしもソーシャルとはいえないところも含むし、いわゆるメタゲーミングともおそらくニュアンスが違うものの、自分も「プレイングの外のゲーミング」には興味があるんだよな5。攻略情報の収集とか、寝る前の振り返っての内省とか……。
7. インタラクティビティ
担当は吉田、井上。吉田パートで紹介されていたスマッツの「制御とランダムの中間領域」という捉えかたは直感的だとおもう。んで、ということは、ある対象がインタラクティブであるかどうかは、それとやりとりする人の知覚や経験しだいである、と。RNGを完全に自分のものとしたとき、そのゲームをインタラクティブなものとして感じられますか?6
8. 人工物
担当は井上、松永。最初「なんで『人工物』がここに入ってくるんだろうか」と思ったんだけど、予想外におもしろかった。
井上パートの「何がゲームとして見出されるのか」って問題設定はたしかにおもしろいというか、人類学がゲームスタディーズにつながる遊びの研究に先鞭をつけた(という認識でいいんだよな)ことを考えると、それはそうなんだよな。
松永パートの問いは「ゲームは(デザインされた)人工物か?」。もちろん多くがそうではあるが、伝統ゲームのように自然発生的なものがあること、プレイヤー自身がルールを作り出すケースの存在(縛りプレイなどもふくむ)、ファウンドアート的な実践、ゲームプレイそのものに備わる創発性などを考えると、一概にデザインされているとはいいがたい。シカールとかはこの点を要視してる。
いっぽうで、デザインされているものとしてみるなら、作者とプレイヤーとのコミュニケーションのようなモデルで捉えることも可能になってくる(カリーの紹介がある)。プレイの進行において「このゲームはクリアできるように作ってあるはずだ」という信念が必要になることは、じっさいあるんだよな……!
そして、ということは、「裏切り」もありうるということになる。Gualeni and Van de Mosselaer(2021)7の欺瞞的ゲームデザインの話がおもしろそう(というか、あとで読むリストに入れてたやつだった。そしてこれも、Van de Mosselaerさんだ)。このへんから「ゲームデザインの倫理」につなげるのもおもろい。
いったん以上です。
- Van de Mosselaer, Nele. 2020. “The Paradox of Interactive Fiction: A New Approach to Imaginative Participation in Light of Interactive Fiction Experiences.” PhD diss., University of Antwerp.↩
- Van de Mosselaer, Nele. 2022. “Breaking the Fourth Wall in Videogames.” In Being and Value in Technology, edited by Enrico Terrone and Vera Tripodi, 163–186. Palgrave Macmillan. / ここでドラフトが読める↩
- Bartel, Christopher. 2018. “Ontology and Transmedial Games.” In The Aesthetics of Videogames, edited by Jon Robson and Grant Tavinor, 9–23. Routledge.↩
- Patterson, Christopher B. 2020. Open World Empire: Race, Erotics, and the Global Rise of Video Games. NYU Press.↩
- 以前読んでたCalleja(2011)の「マクロな関与」の話がいちばん近い気がする: お前らの言うImmersionのニュアンスがわからない - 青色3号↩
- たぶん関連:「自然としてのゲーム」について - 青色3号 / というか、この話は先の「自然法則としてのルール」とか、このあとの欺瞞的ゲームデザインに関わるメタAIの話とかいろいろ広げがいがあるのかもしれない。↩
- Gualeni, Stefano, and Nele Van de Mosselaer. 2021. “Ludic Unreliability and Deceptive Game Design.” Journal of the Philosophy of Games 3 (1): 1-22. https://doi.org/10.5617/jpg.8722↩
