告知だ!
来たる11月23日(日)に開催される文学フリマ東京41に、ねじれ双角錐群の新刊が出ます。ブースは南1-2ホール、O-09。
今回は「季刊」という扱い。初の季刊。初の季刊ってなんか変だな。「エッセイについての小説」と銘打った特集の前後に小説とエッセイが載っています。全70ページとさくっと読んでいただきやすいのでぜひどうぞ。以下の特設ページ(紹介文が端的すぎておもしろい)もチェックだ!
こっちで「気になる!」も押しておこう。
ねじれ双角錐群 [文学フリマ東京41・小説|SF] - 文学フリマWebカタログ+エントリー
いわれのない虜 - cydonianbanana
小説枠。やばい語り手が一方的にしゃべるとおもろいという好例。技術的に可能(やばいけど、っていうか、実在するんだけど)なところからするっとおかしな話になってくとうれしくなってしまう。指紋、ある種の幽霊ではあり、ってことは怪談かもしれない。
遊戯の終わり - murashit
特集枠1。おれのや! 後述します。
なぜ清少納言はハルシネーションを起こさなかったか - 笹幡みなみ
特集枠2。随筆のバリエーションと小説のバリエーションがあって、そのあわいがあって、ハルシネーションという虚構と嘘があって、そのあわいがあって、相手のために評価とフィードバックを重ねていて、そうでないとこもあって、だいたいのことが部分的にそう。
あやしうこそものぐるほしけれ - Garanhead
特集枠3。やばい語り手が(略)。その人のエッセイを読んでみたくなるのってどんなときなのかって思うことがあるんですが、そういえば、その人のエッセイを自分が書いてみたくなることってあるよなと思いました。ありますよね? 書いてもいるって? やっぱり?
徴の塔 - 鴻上怜
エッセイ枠。ちょっとした小旅行でさえない行って帰ってのあいだに茫漠とものを考えただけのことではあるんだけど、その過程は偶然見かけたものやなってしまったことやってしまったことで敷き詰められており、それらをつぶさに拾えるからこそ文章がおもろくなるんだよなと、めちゃくちゃ当たり前のことを考えてしまう。
で、自分のやつについて。最近ずっとゲームのことを考えるのを強いられていたので、こっちまでゲームの話になってしまいました。というか実はもともとそちらに出せないかとまとめつつあったものだったのですが、なんとなく形が見えたところでいやこれは合わんでしょということになり、むしろね群向きやんけと思ったのでそうさせていただいたものです。冒頭2ページは以下のような感じ。対戦よろしくお願いします。
ビデオゲームとは行為である、とアレクサンダー・ギャロウェイは言います。だから、プレイヤーがコントローラーを握り、機械がコードを実行するとき、そこに作品が立ち上がる1。
そのうえでギャロウェイは、「行為」を四つのモメントに分類しました。ひとつは、プレイヤーが虚構的なエージェントとして介入する「世界内操作者行為」。ひとつは、プレイヤーが非虚構的に行う「世界外操作者行為」。ひとつは、ゲームみずからが虚構を駆動する「世界内機械行為」。ひとつは、マシンの都合が虚構を超える「世界外機械行為」。
そして、どんな行為にも必ず終わりが訪れます。
この「終わり」を四つの時間的なスケールで分類しましょう。ひとつは、プレイ中の「死」や一度きりの挑戦についての「試行の終わり」。ひとつは、一連のプレイセッションに区切りをつける「一日の終わり」。ひとつは、ある世界=作品との関係が決定的に閉じられる「作品の終わり」。ひとつは、遊戯そのものを相対化する「舞台の終わり」。
というわけで、こうなります。
| 試行 | 一日 | 作品 | 舞台 | |
|---|---|---|---|---|
| 世界内機械 | 1-1 | 1-2 | 1-3 | 1-4 |
| 世界外操作者 | 2-1 | 2-2 | 2-3 | 2-4 |
| 世界内操作者 | 3-1 | 3-2 | 3-3 | 3-4 |
| 世界外機械 | 4-1 | 4-2 | 4-3 | 4-4 |
それでは、対戦よろしくお願いします。
- Galloway, A. R. (2006). Gaming: Essays on Algorithmic Culture . University of Minnesota Press. なお、訳語については同書書第一章のショートバージョンの邦訳である『ゲンロン8』(2018、ゲンロン)所収の松永伸司訳「ゲーム的行為、四つのモメント」に準じたものの、各モメントの解釈についてはこの限りではない。/……というのが本文に載せた注釈なのですが、とりあえず「世界内」はdiegetic、つまり「物語世界内」であり、ここで書いた「虚構的」かどうかという説明のしかたはややまずい。まずいのですがその上で、ギャロウェイ自身、ふつうにdiegeticかそうでないかで言われるのとは別のところに境界を置いている(なんというか、若干ブレてると思う)ので、まあええかというくらいでやってしまっています。すんません。↩