ポケモンレジェンズゼットエー(デウロがかわいい)(メガシャンデラが好き)をやっているさなかではありますが、遊星歯車機関のnoteに「捜査が『わたし』をつくりかえる:Disco Elysiumにおけるプレイスタイルとナラティブ」という記事を書きました。
そもそも、以前(もう3年前!)Disco Elysiumの感想で以下のように書いてたんですよね。
(少なくともCRPGにおける)「ロールプレイ」において、キャラメイクのときにおおざっぱな特徴は考えてもその後の内容がわからないために細部までは確定させられず、プレイの進行とともに選んだ選択肢やステータスの強化を再帰的に適用しながらキャラクターを固めていく、といった流れは一般的なのですが、それでも「ロールプレイ」ができる/できないに一定の解を与えてストレスを感じさせないようにするのがふつうのビデオゲームであるところに、本作はむしろ積極的にコンフリクトを起こそうとしている点でやや特異ではないか、と感じました。
あるいは以下。
この「ロールプレイ」との摩擦から、(けっこうクリシェ的ではあれ)「投げ出された『世界』のなかで、型どおりに演じきることのできない自己を生き始める」みたいなテーマを見出すことはできるのかな[……]言い換えれば、「ほら、演じてみろよ」と誘導しておいて、いざやってみたら、「ほれみいでけへんやろ」と言い渡されるビデオゲームであるということ。
このあたりについて突き詰め切れずにいたところを、美的な感覚をともなったプレイのしかた(プレイスタイル)という概念を頼りに掘り下げてみた、といった記事になっています。ロールプレイって、そのようなキャラのストーリーを見たいからそうするとかじゃなくて、そのようなキャラとして行動し(しようとし)、それがうまくいったりいかなかったりする過程にこそおもしろさがあるんだってのを、どうにか言葉にしたかったというのはある。ただ、(記事内ではがんばって正当化しようとはしているものの)記事で引いてるKalmanlehtoのいう「プレイスタイル」概念がこれにうまく当てはまるかは正直言って若干怪しくもあるんですよね。身体的な感覚をメインのターゲットにしており、かつ動機としてのロールプレイを明確に除外している点から言って、少なくとももともと意図されている範疇ではない。とはいえ遡ってNguyenの議論とかを考慮するかぎり、めちゃくちゃおかしな話でもない、はずです。だといいな。
で、ゆえあって原稿を書き上げてから1ヶ月ほど経っての公開となったのですが、その間に「これ、実存主義の話だな……」という気持ちが芽生え、そのあたりをいろいろ探してみたりもしました。書いてるときは全然頭に浮かばなかったんですよね。今思えばKalmanlehto自身そのへん若干触れてたりするので、不注意なだけかもしれないのですが……たとえばVella & Gualeni(2019)「Virtual Subjectivity」あたりを読み、(DEの話なんてまったくしていないのに)「これディスコエリジウムの話やんけ!」となったのでした。そもそもDisco Elysiumじたい実存主義っぽい文脈で論じられていることも多いようで(「disco elysium existentialism」とかでググろう!)、それこそVellaもDEの話ししてたりする。とはいえどのみち、特段詳しくないこともあり特段記事に反映させたりはしなかった(できなかった)のでもありますが1。
あと、「それがディスコやで」とそれっぽく締めた上で、「プレイスタイルの美学をめぐって」みたいな補註を入れ、プロセスの美学やらなんやらについて生兵法を開陳しております。本文がKalmanlehto一本槍で大丈夫かってなりそうだったのもあるのですが(せっかく日本語話者なのだから、プレイスタイルに関して上野さんも紹介しておくべきだろうし)、近年の自分のテーマとして「みんなもこういうの読んでみて一緒に考えてほしいぜ、おもろいから」というのがあり、そういう人に伝わるといいなという素直な気持ちで書きました! なお、最近はこういうプレイ体験みたいな動的な側面について考えることが増えていたものの、やっぱ書くの難しいなということで、次に機会があればもう少しスタティックな側面について考えたいぜという気持ちもあります(あと、RPGじゃないゲームにしたいな)。
とかなんとか、DEの話ばかりしてしまったけれど、同時に紹介しているSignalisもいいゲームなのでぜひやってください。仁瓶勉みたいな世界観で高身長女性型アンドロイドが百合をする。
- 前回書いた非同期オンラインの記事でも幽霊(デリダじゃん!)とか行為の客体化(リクールじゃん!)みたいなことを言ってるわりに特段名前を出してどうこうできるものでもないしな……というのがあったんや。↩