読んだ。
Paal Fjeldvig Antonsen. 2020. “Self-Location in Interactive Fiction.” The British Journal of Aesthetics. https://doi.org/10.1093/aesthj/ayaa037
けっこう啓発的というか、思うところがあったのでメモっておきたい。たぶん論文を読んでないと何言ってるかわからないというか、もしかすると読んでても何言ってんのとなる気がするのですが……。
インタラクティブフィクションにおける一人称っぽい(自己関与的な)体験について検討するやつ。おおざっぱにいえばRobson & Meskinのあれの系譜ではあるんだけど、そういうde seっぽい想像について、「それってどういう内容の想像なの」みたいなところを考えている感じか。
具体的な内容としては、フィクション一般についてThe Imagination Assumptionという前提を置いたうえで(第2節)、インタラクティブフィクションに関してThe Indexicality Thesis(第3節)とThe Identity Thesis(第4節)という2つの主張をしているかたち。Imagination Assumptionについてはフィクション一般を想像(の指示)と繋げて理解するっていうよくある見方をここでも前提として採用するよ(逆に、それ以上の深いところにはコミットしないよ)という話なのでここは置いとく。
おもろいのはIndexicality Thesisで、ルイスのcentered worldsの考え方を引いてるところ。自分の理解した範囲だと……まず、ふつうの命題って可能世界の束として見られるわけだけど、それだけだと世界の記述でしかなく行為や経験(典型的には、「自分がそのような状況にいる」みたいな話)をうまく表現しきれない。なので、世界$w$のほかに「どのエージェント$x$を中心にとっているか」も含めた$\langle w, x \rangle $の組(本来はここに「いまはいつか」も加えての3つ組なんだけど、ここでは省く)で表現するのはどうだろう、みたいな感じのやつ。んで、インタラクティブフィクションにおいては単に「世界$w$で$A$が起きている」と想像することだけでなく、「世界$w$の中のこのエージェント$x$が、(いま、ここで)$A$をしている」という中心化された内容の想像をを要求される(ことがある)のだ、というのがIndexicality Thesisということになる。de seな想像というとよくわからんわけだが、普通の命題的な内容の想像に主体というインデックスを付加したものだと捉えればよいんではというのはわかりやすい気がする(このへんはたぶん言語哲学とかで膨大な議論があるのだろうからあんまり滅多なことは言えないのだが……)。その上で著者としてはここで$x$に自己定位的(タイトルにもあるself-location)である、それこそ「一人称的な」想像である(まさにde seである)というふうに位置づけている。
そのうえでIdentity Thesisということで、インタラクティブフィクションにおいてはその中心化されたエージェント(ひらたくいえばアバター)を自分だと想像するよう指定されてもいる、という主張になる。これはプレイヤー自身の属性を反事実的に改変している($\langle w, x \rangle $の$x$がプレイヤー自身であると想像している)のではなく、別人としての自分を想像している($\langle w, x \rangle $の$x$はアバターであり、そのうえでプレイヤーは自身がそのアバターであると想像している)ことに注意。
こうみるとけっこう強めの主張であるように見えるし実際(2つめのテーゼが「identity thesis」であるということからしても)著者としてはそういう意図なのだろうけど、おそらくもうすこし中立的に読むこともできるはず。つまり、インタラクティブフィクションにおいて要請される想像(の一部)は、想像のためのアンカーとして行為主体という指標が付与されたような内容であるとしてそれ以上の「一人称っぽさ」「自己定位っぽさ」についてはいったんフリーハンドにしたうえで(ここまでindexicaity thesis相当)、そこで指標となっている行為主体はプレイヤーではなく虚構的なエージェントだよ(ここがidentity thesis相当)ということだけでも道具立てとしては十分成り立っているのではないか。どこまでどのようにプレイヤーの一人称と紐づけるかについては作品や場面ごとにけっこうまちまちで、「行為の起点はアバター側のに載せるが、自伝的事実や現実の自己知識はそうしない」とかが起こりうる余地を残すというか。
かなり大雑把にまとめるとそういう内容だと理解したわけですが、以下あまり関係ない思いつき。
(信念についても同型なのかどうかは置いといて)ひとくちに想像と言ってもそれが一定程度組織化されうると考えるのはわりと自然ではあるはずなんですよね。そのひとつとして「虚構的な対象に中心化されたかたちで組織化する」ような型があり、(いくつかの付加的な条件のもと)それをうながすのがインタラクティブフィクションだよ、みたいに捉えてもいいのかもしれない(これは焦点化だったりあるいは「操作で介入できる」みたいな提示のされ方と当然相関するだろうけど、あくまで別物であることに注意したい)。もちろんこういうのってここで見たcentered worlds的な道具立てがフィットするような、つまりかなりエージェンティックな(いかにも人間中心的な!)組織化に限る必要はなさそうではある。なんならたぶん、ほかにもけっこういろいろありそうな気がするんですよね。