こんなアイコンですし、そもそも現代から読んでわりとおもしろい気がしたので、ウィーナーの God and Golem, Inc. を訳してみることにしました。とはいえ、小著といってもそれなりの長さはあるため、まずは「はじめに」および第1節、第2節のみです。
詳しい総括については全部終わってから(もし終わればな!)にしようと思っているので、ここでは大雑把な概要について少しだけ。本書が刊行されたのは1964年、実質的には最晩年の作品で、そのころの講義録をもとにしたものです。サイバネティクスが宗教や社会といった領域にはらむ含意というのがおおざっぱなテーマで、もう少し具体的には「学習する機械」(第2節)、「自己複製する機械」(第3節・第4節)および人間と機械の協調、そして倫理について(第5節以降)といった内容となっています。
正直なところここで訳出している第2節までは準備段階であり、(冒頭の言を翻すようですが)特に現代的に見れば飛び抜けておもしろいというほどではありません──第1節は人間機械論的なところにやや過剰に予防線を張っているように感じられるでしょうし、第2節のような機械学習についてはほとんど誰もが知っている話でしょう。そういう意味で本番は第3節以降なのですが、とはいえ1964年という時期を考えるとさすがにサイバネティクスのゴッドファーザーというところ。サイバネ文脈からやや距離を置き記号的な人工知能に寄った(という認識です)ダートマス会議が1956年、本文でも言及されているサミュエルのコンピュータチェッカーの開発が1950年代後半、そしてほぼ同時代にパーセプトロンが提唱され、この後にはELIZAの登場が控えていたことも加味すれば、なかなか面白く読めるかもしれません。
底本としてはthe MIT Pressで公開されているもの……ではなく、なんかよくわからないけどテキスト化されていたやつを使っています。とはいえ、ぱっとみは対応していそうですし、部分的に抜けていたり疑問が生じた点については前者を参照しています。なお、既訳として鎮目訳の『科学と神』がありますが、(古書価が高くて)参照できていません。
そのほか細々とした注釈。
- 第1節の不定形についての記述やそれに続くフレーゲ=ラッセル的なパラドクスの記述はよく読むとちょっとばかり雑に感じるかもしれませんが、まあ大筋ではそうだねくらいに捉えてよいのではないでしょうか
- コンピュータチェッカーやコンピュータチェスのその後の進展についていえば、チェスにおいてマスター級に至る(メルクマールたるカスパロフ対ディープブルーのちょっと前くらい)までの見積もりは多少甘かったこと、(完全解析には依然ほど遠いとしても)その後「興味を持たれなくなった」わけではないというあたりは周知のことかと思います。ちなみにチェッカー(の一部のルール)については2007年に弱解決されていることも付言しておきます
というわけで、以下本文。まだかなり粗いところはあるのですが、どうせ私訳ですし、致命的に誤っていることはない……はずなので、よろしくお願いいたします。
神とゴーレム株式会社
by Norbert Wiener
はじめに
数年前私は、『人間機械論:人間の人間的な利用』1において、以前の著作『サイバネティックス:動物と機械における制御と通信』2で展開した機械と生物における制御とコミュニケーションの考察から導かれる倫理的・社会学的含意についていくらか論じました。そのころサイバネティクスはまだ比較的新しい考え方であり、その科学的含意も社会的含意もまだ十分には明らかになっていませんでした。けれども約十五年を経た今では、サイバネティクスは社会的にも科学的にも一定の影響を及ぼすに至っており、関連する分野でさらにもう一冊をものすに足るだけのことが起こったといえるでしょう。
自動化がもたらす失業の問題はもはや想像上の話ではなく、現代社会におけるきわめて重大な問題となっています。サイバネティクスという一連の概念は、もはや未来に向けた計画あるいは願望の域にとどまるものではありません。工学、生物学、医学、社会学において実際に用いられる技術となり、その内部でも大きな発展を遂げています。
私はこれまでにも、この一連の概念が社会、倫理、宗教に及ぼす作用の輪郭を描こうとする連続講義を幾度か行ってきました。そしていまこそ、この方向に関する自分の考えを総合し、サイバネティクスの社会的帰結をより詳しく考察する時期が来たと考えています。本書はそうした帰結のいくつかの側面に充てられています。そこでは、『人間機械論』で述べたアイデアやコメントの多くを引き継ぎながらも、それらの問題をより詳しく、より十全に論じることができるはずです。
この仕事にあたって、私は大西洋の両岸にいる多くの友人たちから寄せられた批評に大いに助けられました。ここに謝意を表したいと思います。とりわけ、デンマークのルングステズ・キュストのピート・ハイン氏、マサチューセッツ州ベルモントのローレンス・フランク博士、イェール大学のカール・ドイッチュ教授、そしてそのほか多くの方々に感謝します。さらに、本稿の準備に力を貸してくれた私の秘書、エヴァ=マリア・リッター夫人にも感謝したいと思います。
私は1962年1月にイェール大学で行った一連の講義と1962年夏にパリ近郊のロワイヨモン国際哲学シンポジウムで開かれたセミナーにおいて、みずからの考えをさらに展開する機会を得ました。本書はこれら二つの場での講演内容を含みつつも、全面的に書き直され、再構成されています。この作業を助けてくれた多くの方々に感謝します。
ノーバート・ウィーナー
ニューハンプシャー州サンドウィッチ
1963年8月30日
I
これから論じようとしているのは、宗教と科学の総体についてではありません。私が関心を寄せてきた諸科学──コミュニケーションと制御の諸科学──におけるいくつかの論点についてです。これらの分野こそが科学と宗教とが触れ合う前線であるように思われるからです。また同時に、絶対的なものを扱うという、宗教の極端ではあるがありふれてもいる主張に伴いがちな、あの論理的パラドクスを避けたいとも考えています。もし知識をただ全知という観点からのみ、力をただ全能という観点からのみ、崇拝をただ唯一の神格という観点からのみ扱おうとすれば、宗教と科学の関係の探求にとりかかる以前に、些細な形而上学的問題に絡め取られてしまうでしょう。
それでもなお、知識、力、崇拝に関する問いのなかには、科学のより新しい展開のいくつかに実際に関わってくるものが数多くあります。そうした問いなら、絶対的な観念に立ち入らずとも十分に論じられるでしょう。絶対的な観念はあまりにも多くの感情と畏敬に取り巻かれており、距離を置いて扱うことがほとんどできません。けれども、知識は事実であり、力は事実であり、崇拝は事実です。こうした事実は、公認の神学とは別のかたちで、人間の探究の対象となります。事実である以上これらの事柄は研究の対象となり、知識、力、崇拝についての観察を、自然科学の方法がより及びやすいほかの領域から引き合いに出せるようになるのです。その際、読む者にただちに「不合理ゆえにわれ信ず」のような全面的な受容を求める必要はありません。
このように宗教の外部から出発すると、本稿の流れが示唆しているはずの科学と宗教の関係をめぐる議論ではなくなったのかと思われるかもしれません。ですから、まずは主題を定め、どの範囲にとどまるつもりなのかを明示し、無関係な目的についてはあらかじめ退けておくべきでしょう。すでに述べたように、私はここ数年、コミュニケーションと制御の問題──機械か生物かを問わず──と、それらの観念に結びつく新しい工学的・生理学的技術、そしてそうした技術が人間の目的の達成がもたらす帰結の研究に取り組んできました。知識はコミュニケーションと、力は制御と、人間の目的の評価は倫理および宗教の規範的側面全体と分かちがたく結びついています。したがって科学と宗教の関係を改めて研究するにあたっては、理論と実践的な技術の最新の展開に照らし、これらの事柄についての私たちの考えを再検討すべきでしょう。これ自体は十分な意味での科学と宗教との関係の研究を成すものではないかもしれませんが、そのためになくてはならない予備的な考察となることは確かです。
このような研究が実りあるものとなるには、幾重にも積み重なった偏見を取り除かなければなりません。そうした偏見は、名目のうえでは尊厳ある聖なるものに捧げる敬意を守るためのものですが、実際にはしばしば、不快な現実や危険な比較を正面から見据えたときに覚えるみずからの至らなさの感覚から逃れるために用いられているのです。
この論考になんらかの意味があるとすれば、それは現実の問いを現実に探究するものでなければなりません。それを成し遂げるのに必要なのは手術室の精神であって、死体を囲んで泣き悲しむ葬式の精神ではありません。怖気づくのは場違い──いや、むしろ冒涜であるとさえ言っていい。そんな態度は、黒いフロックコートを身にまとい、その絹の襟に外科用の針を隠していた当世風の医者がベッドサイドで見せた、あの気取った物腰のようなものでしょう。
宗教というものは──ほかに何を含んでいようとも──しばしばニューイングランドの農家の、閉ざされた応接間のような趣を帯びています。ブラインドは下ろされ、マントルピースにはガラスケースに入った蝋の花、イーゼルには金色の飾り草で縁どられた祖父の肖像、黒いウォルナット製のハーモニウムが鳴らされるのは結婚式か葬式のときだけ。あるいはまた、ナポリ風の霊柩車に道徳の面で対応するものだと言ってもよいでしょう。黒い板ガラスの窓のついた、王侯然としたあの馬車です。黒い羽飾りをつけた馬は、死の場面においてさえ身分の誇示を──少なくとも身分を求める願望を──運んでいく。宗教は重大な事柄なのですから、それよりも取るに足らない個人的価値判断とはきっぱり切り分けねばならないというわけです。
ここまで、私たちのもつ偏見の層──科学と宗教が出会うあの重要な接点への歩みを妨げるもの──について述べてきました。神と人間を並べて論じてはならない、それは冒涜だ、というわけです。デカルトがやったように、下等な動物とは根本的に異なる仕方で人間を扱うことで、人間の尊厳を維持しなければならない。進化や種の起源は人間的価値の冒涜であり──初期のダーウィン主義者たちが気づいていたように──科学に根本的な不信を抱く世界で科学者がこうした考えを抱くのは、きわめて危険なことである、と。
それどころか科学の領域においてさえ、受け入れられている序列に逆らうのはきわめて危ういことです。いかなる場合にも、生物と機械を同列に語ってはならない。生物は、そのすべての部分において生きた存在である。これに対して機械は、金属やその他の無機的な物質からできており、その目的にかなった、あるいはあたかも目的をもつかのような機能に関わる精妙な構造をもたない。物理学は──少なくとも一般にはそう考えられているのですが──目的をまったく考慮に入れません。となれば、生命の出現は、従来の物理学では捉えきれない、まったく新しい出来事だということになります。
こうしたタブーのすべてに従えば、保守的で健全な思想家としてすばらしい名声を得ることはできるかもしれません。けれど、そうしたところで知識のさらなる前進にはほとんど何も寄与しないでしょう。最終的にはそれを拒むことになるとしても、異端的で禁じられた意見を試しに抱いてみることは科学者の務めであり、また知的で誠実な知識人や、知的で誠実な聖職者の務めでもあります。しかもその拒否は、はじめから当然のものとされてはならず、はじめからたかがゲームにすぎないとわかっている、精神の開放性を示すためだけの空虚な思考実験になってもいけません。それはまじめな営みであり、ひたすら真摯に取り組むべきものです。そこに本当の異端の危険が伴ってはじめて意味がある。そしてもし異端が地獄に落ちる危険を伴うなら、その危険も正直に、勇気をもって引き受けねばなりません。カルヴァン主義者の言葉を借りるなら、「汝は神の大いなる栄光のため、みずから滅びに赴くことを厭わぬか」といったところでしょう。
こうした誠実で徹底した批判を踏まえて私たちは、先にみたような態度を捉えなければなりません。宗教的な事柄を論じるにあたって避けがたいその態度、すなわち偽りの最上級に伴う言い逃れです。全能や全知といった観念から生じる知的な困難についてはすでに述べました。それがもっともむき出しのかたちで現れるのが、宗教集会に招かれもせず顔を出した冷笑家がよく口にする、あの問いです。「神様ってのは、自分でも持ち上げられないほど重い石を作れるのか?」。もしできないなら、その力には限界がある──少なくともそう見える。もしできるとしても、それはそれで神の力を制約することになるように思われる。
この困難を単なる言葉の綾として片づけるのはたやすいですが、事はそれほど単純ではありません。この問いがはらむパラドクスは、無限という観念──それはさまざまなかたちで現れます──をめぐる数多のパラドクスのうちのひとつです。一方で、数学的無限をほんの少し操作しただけでも、ゼロ割るゼロ、無限割る無限、無限かけるゼロ、無限引く無限といったかたちが現れます。これらは不定形と呼ばれ、無限が通常の数や量に求められる条件に従わないという事実に根ざした困難をはらんでいます。数学者にとって ∞/∞ が意味するのは、x と y がともに無限大に近づくときの x/y の極限にすぎません。y = x なら 1 になり、y = x2 なら 0 に、y = 1/x なら ∞ に、等々。
また、数え上げに伴って現れる別種の無限もあります。この観念もまたパラドクスにつながります。すべての数のクラスには、いくつの数が含まれるのか。そもそもこれは正当な問いではありません。そして、数をどのように定義しようとも、すべての数の個数はどんな数よりも大きくなってしまいます。これはフレーゲ=ラッセルのパラドクスの一つであり、型理論の複雑さに関わっています。
実のところ、全能や全知のような表現は本来の意味での最上級ではなく、単に「きわめて大きな力」や「きわめて大きな知識」を大まかに言い表したものにすぎません。そこに表れているのは畏敬の感情であって、形而上学的に擁護しうる言明ではないのです。もし神が人間の知性を凌駕しており、知性に関する既存の形式のうちには収まりえないのだとしても──これは少なくとも擁護しうる立場です──なお神をそうした形式の中に無理に押し込めるのは、知的に誠実とは言えないでしょう。知性そのものを空転させることになるからです。そう考えれば、宗教書で一般に語られる言明のいくつかを考える手がかりになるような個別の事例に出くわしたとき、それが宗教的言明に付与されがちな絶対性や無限性、完全性を備えていないというだけで退けてしまうのは、私には不誠実に思われるのです。
この言明こそが本書の狙いを理解する鍵です。これから取り上げていくのは、宗教書で論じられ、宗教的な側面をもちながら、同時に、機械であれ生物であれコミュニケーションと制御を扱う新しい科学、すなわちサイバネティクスに属する事例と密接に対応する事例です。私はそうしたサイバネティクス的事例との個々の類比を用いて、宗教的事例にわずかながら批判的な見通しを与えたいのです。
こうした企てにあたっては、宗教的な状況をサイバネティクス的な枠組みへ無理に押し込めることもあるでしょう。その暴力性については十分に承知しています。ただ、弁明させてください。解剖学という科学も、ほかならぬ解剖学者のナイフを通して成り立ってきたのです。そして解剖学者のナイフもまた、暴力を加えることによってしか対象に迫れない道具なのです。
II
以上の予備的な所見を踏まえて、この小著の本来の主題に移りましょう。私の見たところ、サイバネティクスが宗教的な問題に関連するのは、少なくとも次の三つの点においてであると思われます。すなわち、学習する機械について、自己複製する機械について、そして機械と人間の協調について。そして、そのような機械は現に存在すると言ってよいでしょう。たとえばIBMのA. L. サミュエル博士の作ったチェッカーをプレイするプログラムは、コンピュータがみずからの経験によってより上手に指せるよう学習する──少なくとも学習しているように見える──というものです3。ここには確かめておくべき、あるいは少なくとも明確にしておくべき点がいくつかありますので、本書の一節をその検討に充てることにしましょう。
私たちはしばしば、学習という性質を持つのは自己意識をもつシステムであり、しかもそれはほとんどの場合、生きたシステムに限られると考えています。学習は人間においてもっとも典型的なかたちで現れる現象であり、人間の属性のうちでも、宗教的生活と関わりの深い側面ととくに結びつけられやすいものの一つです。実際、学習しない存在が宗教と関わりうるとは考えづらいでしょう。
しかし、生命には宗教と自然に結びつけられる別の側面もあります。神は人間をみずからの似姿として創ったとされるのと同様に、生物の繁殖も、ある生物がみずからの似姿として別の生物を作る働きだと捉えられるということです。人間に対しては神を、物質に対しては人間を称揚したいという私たちの欲求からすれば、機械がみずからの似姿として他の機械を作ることはできないと考えるのが自然でしょう。このことは、システムを生物と非生物とにきっぱり二分する発想と結びつき、さらには創造主と被造物という別の二分法とも結びついています。
けれど、本当にそうなのでしょうか。私の考えでは、機械がみずからの似姿として他の機械を十分に作りうることを示すいくつかの考察にも、本書の一節を充てるつもりです。ここで立ち入ろうとしている主題は、きわめて技術的であると同時にきわめて精密です。したがって、それを生物学的な生成過程の現実的なモデルとしてあまり重く受け取るべきではありませんし、まして神による創造の完全なモデルとして受け取るべきでもありません。しかし同時に、ここでの考察がこの二つの概念を考えるうえで与える示唆を軽視すべきでもないでしょう。
本書における学習する機械の議論と自己複製する機械の議論は、互いに相補的なものとみなせます。個体の学習は個体発生において起こる過程です。一方、生物学的な再生産は系統発生において起こる現象であり、種全体もまた個体と同じように学習します。実際、ダーウィン的自然選択は、個体の再生産によって成り立つ条件のもとで働く、種全体の学習の一種といえます。
そして、本書のもうひとつの主題もまた学習の問題に関わるものです。そこで扱うのは機械と生物との関係、そしてその両方の要素をあわせもつシステムであり、したがって規範的な──より正確にいえば倫理的な──考察が含まれます。ここでは、現代の人間が陥りかねない、もっとも重大な道徳的罠のいくつかが問題になります。また、この主題は魔術のようなものをめぐる人間の伝承や伝説の豊かな蓄積とも深く結びついてもいます。
まずは学習機械から始めましょう。組織化されたシステムとは、特定の入力メッセージをある種の原理に従って出力メッセージへと変換するものだといえます。そして、その変換原理が特定の評価基準に照らして成績が向上するよう調整される場合、そのシステムは学習するとされます。評価基準が解釈しやすいきわめて単純なシステムとしては、固定したルールに従ってプレイされるゲームが挙げられるでしょう。ここでの評価基準はルールに従ってゲームに勝つことです。
こうしたゲームのなかには、完全な解法が判明したせいで面白みを失ってしまったゲームがあります。バウトンが明らかにしたように、ニムや三目並べがこれにあたります。こうしたゲームでは、理論上の最善手を見いだせるだけでなく、その戦略の細部まで判明しています。先手であれ後手であれ、その戦略に従いさえすれば、つねに勝てるか、少なくとも引き分けには持ち込めるのです。理論上は、どんなゲームでもこの状態へ持ち込める──これが故ジョン・フォン・ノイマンの考えです──のですが、ひとたびそこに至れば、ゲームはすっかり面白みを失い、もはや娯楽としてさえ成立しなくなるでしょう。
神のような全知の存在にとってチェスやチェッカーはこうしたフォン・ノイマン型ゲームの一例でしょうが、人間にとってはその完全な解法はいまだ不明なままで、これらのゲームは依然としてまぎれもない洞察と知性の勝負の場でありつづけています。そしてそもそも、私たちはフォン・ノイマンの理論が示唆するような仕方ではプレイしません。つまり、相手が最善手を指すと仮定し、そのうえで自分が最善手を指し、さらに相手が最善手を指すと仮定し……と、どちらかが勝つか千日手が発生するまで続けているわけではないのです。実際、フォン・ノイマン流にゲームをプレイできるということは、そのゲームの完全な解法を得て、そのゲームを取るに足らないものへ還元してしまったも同然なのです。
学習、とりわけゲームプレイを学習する機械という話題は、宗教からいささか縁遠いものに感じられるかもしれません。それでも、こうした観念に関わる宗教的問題は存在します。創造主と被造物とのあいだのゲームという問題です。これは『ヨブ記』のテーマであり、また『失楽園』のテーマでもあります。
これら二つの宗教作品では、悪魔はヨブの魂──あるいはもっと広く、人類の魂──をめぐって、神とゲームをしているものとして描かれます。ところで、正統的なユダヤ教とキリスト教の見解では、悪魔は神の被造物です。これを認めないなら、ゾロアスター教めいた道徳的二元論、さらにはゾロアスター教とキリスト教の混成的分派である、いわゆるマニ教を思わせる立場に傾くことになるでしょう。
けれど、もし悪魔が神の被造物であるのなら、『ヨブ記』や『失楽園』で描かれるゲームは神とその被造物とのあいだのゲームということになります。これは一見、あまりにも不公平なゲームに思われるかもしれません。全知全能の神とゲームをするなど本来は愚者のやることです。しかも悪魔は、伝えられるところでは狡知の達人。反逆する天使たちのいかなる蜂起も、初めから失敗を運命づけられている。このことを示すのに、マンフレッドばりのサタンの反逆を持ち出すまでもないでしょう。天上からの雷撃をもって証明しなければならないような全能は、そもそも全能ではなく、単なるきわめて大きな力にすぎない。となれば、天使たちの戦いは、サタンが天の玉座に就き、神が永遠の滅びへと投げ落とされるかたちで終わっていたかもしれません。
そう考えると、全知全能という教理に囚われないかぎり、神と悪魔との対立は現実の対立であり、神は絶対的な全能などではないということになります。神は実際にみずからの被造物と争っており、そのゲームに敗れることすら十分にありうるのです。しかもその被造物は、神自身の自由意志に従って作られており、なしうることのすべては神自身に由来しているようです。では、神はみずからの被造物と意味のあるゲームをプレイできるのでしょうか。いかなる作り手も──たとえその力が限られていたとしても──自分が作ったものと意味あるゲームをすることができるのでしょうか。
ゲームをプレイする機械を作る発明家は、その機械がどんなものであろうと、全能ではない創造主を僭称しているのです。このことは、経験から学習する機械にとりわけ当てはまるでしょう。そしてすでに述べたように、そのような機械は存在します。では、これらの機械はどのように機能するのでしょうか。どれほどの成功を収めてきたのでしょうか。
そうした機械の振る舞いは、フォン・ノイマンのゲーム理論的なプレイの仕方に沿うものではなく、むしろ通常の人間のプレイヤーのそれにかなり近いものです。各段階での選択肢はルール上合法な範囲に制限されており、そのような合法手のうちのひとつが、良いプレイの基準にのっとって選ばれます。
この基準を選び出すにあたっては、人間のプレイヤーの経験が手がかりになります。チェッカーやチェスにおいて駒を失うのは不利、相手の駒を取ることは有利であると捉えるのが一般的でしょう。機動性と選択の自由を保ち、多くのマスに睨みをきかせているプレイヤーのほうが、こうした点をおろそかにした相手より、たいてい有利です。
これらはゲーム全体を通して成り立つ基準ですが、一方で特定の段階でのみ成り立つ基準もあります。たとえば、終盤に至り盤上の駒がまばらになってくると、相手に詰め寄ってとどめを刺すのが難しくなります。あるいは序盤において──これはチェッカーよりチェスにおいてはるかに重要なのですが──駒が互いの動きや効きを邪魔しがちな配置になっているため、攻撃と防御の両面でこれを解消するよう駒を展開しなければなりません。そのうえチェスではチェッカーに比べて駒の種類がはるかに多様であるため、良いプレイに関する特殊な基準も数多くあります。こうした基準の重要性は、何世紀にもわたる経験によって証明されてきました。
こうした考慮事項を(単純に足し合わせるか、あるいはもっと複雑な仕方で)組み合わせることで、機械が次に指すべき一手の評価値を与えられます。組み合わせ方はいくぶん恣意的なものでもかまいません。そのうえで機械は合法手の評価値を比べ、それがもっとも大きい手を選びます。これが、次の一手の選択を自動化する方法のひとつです。
この方法で選ばれた一手は、必ずしも──それどころか、たいていは──最適な選択ではありません。それでも選択は選択であり、おかげで機械がプレイを続けられるわけです。このようなゲームの機械化の価値を測るにあたっては、技術的な装置に由来する機械化のイメージも、ふつうの人間プレイヤーに結びついた身体的なイメージも、いったん脇に置くべきでしょう。幸い、これはたいして難しいことではありません。通信チェスではいつもそうしているからです。
通信チェスのプレイヤーは、自分の手を郵便で相手に送ります。両者を結んでいるのは手紙だけ。それにもかかわらず、熟練のプレイヤーであればすぐに相手の性格──「チェス人格」とでも呼ぶべきでしょうか──を把握できるでしょう。短気なのか慎重なのか。だまされやすいのか抜け目ないのか。対戦相手のやり口から学ぶタイプなのか、初歩的な戦略に何度もひっかかるタイプなのか。こうしたことのすべては──繰り返しますが──ゲームそれ自体のプレイ以外にはいかなるコミュニケーションもなしに見えてくるのです。
この観点からすれば、人間であれ機械であれ、いちど決めた単純な評価テーブルに固執するプレイヤーは、硬直したチェス人格の印象を与えるでしょう。いちど弱点を見抜けばそれはずっと有効で、いちど成功した策略はいつだってうまくいく。ごく少数の対局だけでも、そのプレイヤーの手口が見極められてしまうはずです。
学習しない機械化プレイヤーについてはひとまずこれで十分でしょう。とはいえ、機械化プレイヤーがもっと知的にプレイすることを妨げるものはなにもありません。そのためには、過去の対局や過去の指し手を記録し保持しておく必要があります。そうして各対局の内容、あるいは特定の種類の対局をひとまとまりにした記録は、対局そのものとは別の処理に使われます。
評価値を組み立てる際には、別様にも選びえた一定の係数が導入されます。たとえば、盤面の支配度、駒の機動性、盤上の駒数に対応する係数の相対的な比は、9:4:4ではなく10:3:2でもよかったかもしれません。調整機械の新たな役割は、すでに行われた対局を調べ、その結果を踏まえて評価値を与えることです。ただしこの評価値は、すでに指された手そのものではなく、それらを評価するための重みづけに関するものです。
評価値は継続的に更新され、勝った対局に現れる局面はより高く、負けた対局に現れる局面はより低く評価されることになります。プレイは新しい評価値に従って続けられますが、細かな更新の仕方はさまざまです。結果として、ゲームをプレイする機械は実際にどう指してきたかに応じて絶えず別の機械へと変わっていくことになります。この過程では、機械と対戦相手である人間の両方の経験や成功が活かされています。
こうした機械──対戦相手からそのプレイ人格の一部を取り入れる機械──との対戦においては、そのプレイ人格を完全に硬直したものとはみなせません。以前は通用した策略がその先も通用するとは限らないことに気づくかもしれない。あるいは、機械は不気味なほどの抜け目なさを身につけるかもしれない。
こうした機械の予期せぬ知性のすべては設計者やプログラマがはじめから組み込んでいたものだと思うかもしれません。これはある意味では正しい。けれど、だからといって機械が身につけた習慣のすべてを彼らが明確に予見していたとは限りません。もしそうだったとすれば、彼らは自分の創造物をなんの困難もなく打ち負かせていたはずなのです。実のところ、これはサミュエルの機械が辿った歴史とは一致しません。
サミュエルの機械は多少の慣らし運転ののち、それなりの期間にわたり創造主を打ち負かせるようになりました。もっとも──サミュエル自身の言によれば──彼はもともとチェッカーの達人ではなく、いくらかの知識と練習を積めばまた自分の創造物に勝てるようになったことも断っておかねばなりません。それでもなお、かなりの頻度で機械が勝者となっていた時期が存在したという事実を軽視してはなりません。機械は実際に勝った、しかも勝つことを学んだのです。そしてその学習のやり方は、原理的には、チェッカーを学ぶ人間のそれとまったく同じだったのです。
チェッカー機械に開かれている戦略の幅が、人間のプレイヤーのそれよりほぼ確実に狭いのは事実です。けれども、人間のプレイヤーに事実上開かれている戦略の幅も無限ではありません。より広い選択が妨げられるのは、知性と想像力に限界があるからにすぎないのでしょう。とはいえ、この限界はきわめて現実的な制約であり、機械の限界と本質的に異なる種類のものではないのです。
このようにチェッカー機械のゲームの腕前はすでにかなり高く、終盤の研究をさらに進めてとどめを刺す技術をもう少し身につければ、マスター級も遠くはなさそうです。いまや通常の人間のプレイが定型化されたことで、チェッカーのチャンピオンシップへの興味がひどく薄れてしまっています。もしそうでなければ、チェッカー機械がゲームとしてのチェッカーへの関心を奪い去ったのだと言えたかもしれません。人々がすでに、チェスも同じ道をたどるのか、そしてその破局はいつ訪れるのかと問い始めているのも不思議ではないのです。
チェスをプレイする機械、あるいは少なくともそのかなりの部分をプレイする機械はすでに存在しています。とはいえそれらはまだまだお粗末なものです。せいぜいのところ、チェスの名人を自称しないアマチュア同士の少しばかり気の利いた対局の水準を超えることはなく、その水準に達することさえめったにありません。駒と指し手の両面でチェッカーよりはるかに複雑であり、ゲームの異なる局面に適した戦略をよりきめ細かく見分けなければならないためです。チェッカーの機械化に必要な考慮事項は比較的少なく、各局面に応じて戦略を見分ける精度も低いため、チェスのプレイにはまったく不十分なのです。
にもかかわらず、チェスにかなり習熟した私の友人たちのあいだでは、人間にとって興味ある営みとしてのチェスの命運は尽きつつある、というのが大方の意見です。彼らは、十年から二十五年のうちにチェス機械がマスター級に達し、仮に効率的ではあるがいくぶん機械的なロシア流の戦術がその頃までチェスを生きながらえさせていたとしても、人間のプレイヤーにとって取るに足りないものとなっているだろうと予想しています。
とはいえ、技術者たちに挑戦を挑み続けるであろうゲームは他にもたくさんあります。たとえば囲碁──熟達の公認された段階が七つ以上ある、あの極東のゲームです。あるいは戦争やビジネスもゲームに似た、すなわち明確なルールのもとに形式化しうる争いといえるでしょう。実際、巨大なボタンを押し、より人間の頼りなさに左右されづらい新しい秩序のために地表を焼き清める戦略のモデルがすでに作られつつあることを疑う理由はありません。
一般に、ある機能の成果を明確で客観的な基準で評価できるなら、それを自動で行うゲーム機械を実現できます。チェッカーやチェスにおける評価基準は、認められたルールに従って勝つことでした。こうしたルールは、良いプレイについての公認の格言とはまったく異なり、単純で容赦がありません。賢い子どもでさえ、盤を前にそのルールを読めば、迷いはたちまち消えるでしょう。勝ち方については大いに迷っても、勝敗そのものについては明白なのです。
人間の活動をゲームに落とし込めるかどうかの最も重要な基準は、その活動の成果を客観的に評価できるか否かにあります。もしできなければ、そのゲームは『不思議の国のアリス』のクロッケーのように無定形なものになってしまうでしょう。ボールになったハリネズミは勝手に歩き、マレットはフラミンゴ、アーチはフィールドを歩き回る厚紙の兵隊、審判たるハートの女王はころころとルールを変え、プレイヤーたちを首切り役人のもとへ送る──こんな状況で勝つことに意味はなく、成功する戦略を学ぶこともままなりません。成功の基準がないのですから。けれど、もし客観的な成功基準があれば、学習ゲームは十分に成立します。これはフォン・ノイマン的なゲームのプレイよりも、私たちがゲームを学ぶ仕方にずっと近い。学習ゲームの技術が、まだその対象となっていない人間の活動の分野に採用されることは間違いありません。それでも──後述するように──成果の良し悪しに関する明確なテストを決めようとすると、学習ゲームにまつわるたくさんの問題が生じてきます。
- Wiener, N., The Human Use of Human Beings: Cybernetics and Society, Houghton Mifflin Company, Boston, 1950.↩
- Wiener, N., Cybernetics, or Control and Communication in the Animal and the Machine, The Technology Press and John Wiley & Sons, Inc., New York, 1948.↩
- Samuel, A. L., “Some Studies in Machine Learning, Using the Game of Checkers,” IBM Journal of Research and Development, Vol. 3, 210-229 (July, 1959).↩