承前:
今回は機械の自己複製を扱った第3節と第4節。(時代からしてそうなるのは自然ではあるとはいえ)電気回路っぽい話をゴリゴリ展開していてぎょっとしてしまうかもしれません。たぶん今だったらもっとソフトウェア寄りのアナロジーにすると思われる。ともあれ、機械をメッセージ変換器として捉えていること、その変換器の振る舞いをコピーできれば──実装形態がどうあれ──それは機械の再生産と言えるんだよ、そしてそれは理論上実現可能だよというあたりが分かれば大丈夫なはずです。進化を「系統発生における学習」と捉えているところも地味におもしろポイントかもしれん。
もうすこし細かく言えば、第3節ではそれにあたってある種のランダム入力を使うことで変換器そのものの性質を得られるよという、どことなくプロパティベースドテストやファジングめいた?話をしており、続く第4節ではそうしたパターンは先ほど使ったランダム入力に相対的な正規直交系めいた枠組みの中で捉えられる、なので十分安定した機械はすべてそれらの一次結合として展開でき、したがって理論上は単純な機械の組み合わせでそれらの振る舞いを再現できるよってことを言っているぽい。ただこのあたりは正直かなり駆け足であり、実際に詳しく示しているのは(直接参照されている『サイバネティックス』第2版で追加された第9章でさえなく)Nonlinear Problems In Random Theoryあたりになるようだ(当然読んでないし読めるとも思わないのですが……)。いまどきならそんなもん強いニューラルネットに模倣学習めいたことをさせればええやんという向きもあるでしょうが、あくまでホワイトボックスとして解析/合成できることについてのこだわりを垣間見てもいいかもしれない。実際こうした解釈可能性や制御可能性への温度感は次節以降を読む際にも気にしておけるとよい点ではあります。
以下さらに細かい点。
- 「似姿」はimageの訳。第2節までにも多少出てきてたものの、本格的に使われ始めるのはここから。神学めいたニュアンスから技術的な文脈まで幅広く、とはいえそれらに同じ語を使っていることに意味があるため、読みづらくなることを承知でそれで通してあります。さらに言えば、「機械の似姿」という言葉で具現化された装置を指す場合と抽象的なパターンを指す場合があり、しかもそれはブレているのではなくそもそも二重性を持つものなんだよみたいな話になってるのがややこしさに拍車をかけているかもしれない
- 分子生物学まわりの記述がおそらく当時の水準としても多少雑(遺伝子分子の捉え方が大雑把すぎたり、アミノ酸鎖そのものが二重らせんをなしていると書いてあるとしか読めない部分があったりする)が、大筋は問題ないのでそういうものとして読んでください
- 先に正規直交基底がどうたら展開がどうたらと言った点について。実際のところ原文だと(明らかにそのつもりではあるものの)もうすこしゆるい書き方になっているのを、いっそこのほうがわかりやすいだろうと「完備」とか「基底」みたいな語でほんの少し補っているところがあります
- 第4節の「特定の条件のもとでは、ほとんど確実に、分布にわたる平均を時間平均で置き換えられるという定理」というのは(ここも本文では明示されていないものの)エルゴード型の定理の話のようなので、そのつもりで読んでくれ。対応する『サイバネティックス』第2版のほうではちゃんと言ってる
というわけで、以下本文。
III
ここまで述べてきたのは個体の学習、すなわち個体それぞれの私的な生の時間の中で起こる学習でした。けれども、これと同じくらい重要な別種の学習があります。すなわち系統発生的な学習──種全体の歴史における学習です。ダーウィンは自然選択の理論によって、このたぐいの学習の基礎の一端を築きました。
自然選択の理論は次の三つの事実に基づいています。まず、遺伝という現象が存在すること──すなわち個々の植物や動物がみずからの似姿として子孫を残すこと。次に、そうした子孫は完全な似姿ではなく、その差異もまた遺伝しうること──これこそが変異であり、獲得形質の遺伝のような極めて疑わしい理論を意味するわけではありません。最後に、自然発生的な変異の豊かすぎるほどのパターンが、異なる変異の間での生存可能性の差によって刈り込まれること──変異の大半は種の存続可能性を低下させる一方で、いくつかの、おそらくごくわずかな変異は、それを高める方向にはたらくのです。
もっとも、進化、すなわち種の存続と種の変化の基礎は、はるかに込み入ったものかもしれません──いえ、きっとそうでしょう。たとえば、きわめて重要な変異のあり方のひとつに、高次の変異、つまり変異可能性そのものの変異があります。また、遺伝と変異の機構は通常、機能的にはメンデルによって、構造的には有糸分裂という現象によって記述される過程──遺伝子の複製とその分離、それらの染色体への集合、連関、その他もろもろ──を含みます。
しかしながら、この途方もなく複雑な過程の背後には、きわめて単純な一つの事実が潜んでいます。核酸とアミノ酸からなる適切な培地があれば、それ自体が核酸とアミノ酸のきわめて特異な組み合わせからなる一個の遺伝子分子がそこに働きかけることで、自分と同じ遺伝子の分子、あるいはわずかに異なる別の遺伝子の分子を作り出せるのです。実際これは、宿主の分子的な寄生体といえるウイルスが、宿主の組織を培地として自己と同型のウイルス分子を集め複製する過程と、厳密に相似していると考えられてきました。このような分子レベルでの増殖──それが遺伝子であれウイルスであれ──は、再生産という巨大で複雑な過程の分析をかなり進めてはじめて見えてくる作用であると思われます。
人間は、みずからの似姿として人間を作ります。これは、神がみずからの似姿として人間を作ったとされるあの創造という行為の反響、さもなくば原型なのでしょう。では、機械と呼ばれるもっと単純な──そしておそらくもっと理解しやすい──非生物的システムにおいても同様のことが起こりうるのでしょうか。
機械の似姿とはなにか。その似姿がひとつの機械のうちに具現化されたとき、まだ特定の個体として定まっていない一般的な機械は、もとの機械の似姿たる新たな機械を──まったく同一のかたちにおいてであれ、あるいは変異と見なしうる何らかの変化を伴うかたちにおいてであれ──生み出す存在へと至りうるのか。さらには、その新たな変異機械は、みずからの範型からの逸脱をさえ含みつつ、さらに別の機械の範型となりうるのか。
本節の目的はこれらの問いに答える、なかんずくイエスと答えることにあります。ここで述べようとしていること──むしろ、すでに別の場所においてより技術的な作法で述べ1、ここで概略を示そうとしていることの価値は、数学者の言うところの存在証明にあります。ここでは、機械が自己複製しうる一つの方法を示すつもりです。ただし、それが再生産にあたっての唯一の方法だというつもりはありません──実際そうではないのですから。また、それが生物学的な再生産のやり方であるというつもりもありません──これもまた、実際そうではないのですから。けれども、機械的な再生産と生物学的な再生産がいかに異なっていようと、それらは同様の結果に至る相似な過程です。したがって、一方についての説明は他方の研究に十分に意味のある示唆をもたらしてくれるはずです2。
機械がみずからの似姿として別の機械を作るという問題をきちんと論じるためには、似姿という観念をより精緻化する必要があります。まず、似姿といってもさまざまであることを認識しておかねばなりません。ピグマリオンははじめ、みずからの理想の恋人の似姿としてガラテアの像を彫りました。けれど神々がそれに生命を与えると、それはより現実的な意味での恋人の似姿となった。ガラテアはもはや単なる見た目のうえでの似姿ではなく、振る舞いにおける似姿となったのです。
倣い旋盤を使えば似姿としての銃床を作ることができ、それを実際に銃床として使うことも可能です。とはいえ、これは銃床が果たすべき目的がきわめて単純であるからにすぎません。一方、電気回路は比較的複雑な機能を果たすものでしょう。しかしそれでも、金属インクを用いた印刷で複製された似姿としての回路は、それが表す回路として機能しうる。こうしたプリント回路は、現代の電気工学でかなり広く用いられています。
このように、見た目のうえでの似姿だけでなく、振る舞いにおける似姿というものがありうるのです。オリジナルと同じ機能を果たすこうした振る舞いにおける似姿は、見た目のうえでオリジナルに似ていることもあればそうでないこともあるでしょう。いずれにせよ、それらは動作の面でオリジナルを置き換えられるわけで、はるかに深く似通っているといっていい。機械の再生産の可能性について検討するのも、こうした振る舞いにおける類似という観点からです。
ではそもそも、機械とはなんでしょうか。ある観点からすれば、原動機すなわちエネルギー源とみなせるかもしれません。けれどそれは本書で採るべき観点ではありません。ここではむしろ、入力メッセージを出力メッセージへと変換する装置として捉えたい。この観点からすれば、メッセージとは、そこに含まれる信号を表す量の系列です。こうした量は電流や電位かもしれない。けれどそれに限られるものでもない。実際にはまったく異なる性質を持ちうる。そのうえメッセージを構成する信号は、時間軸のうえで連続的にも離散的にも分布しうる。機械はそのような一連の入力メッセージを一連の出力メッセージへと変換するのですが、任意の時点での出力メッセージは、その時点までの入力メッセージに依存しています。技術者たちの言うところの多入力多出力変換器なのです。
ここで考察したい問題のほとんどは、単一入力単一出力変換器において生じる問題と大差のないものです。したがって技術者からすれば、すでによく知られた問題、すなわち電気回路とそのインピーダンスないしアドミタンス、あるいは電圧比のような古典的な問題を扱っているのだと思われるかもしれません。
けれど実際のところはもっと複雑です。インピーダンスやアドミタンス、電圧比を任意の精度で扱えるのは、それが線形回路、すなわち入力を時系列で足し合わせたものが出力を足し合わせたものに対応するような回路の場合に限られます。これは純抵抗、純容量、純インダクタンスといった要素のみがキルヒホッフの法則に従って接続された場合にしか成り立ちません。線形回路であれば、位相と振幅を定めた正弦波状の入力電位を与え、周波数を変えながら適切に試験できます。出力も同じ周波数の振動列となり、入力との振幅差と位相差を見ることで、その回路または変換器を完全に特徴づけられるからです。
しかしながら、整流器や電圧制限器といった装置を含む非線形な回路を試験するのであれば、正弦波状の入力は適切とはいえません。これは一般に正弦波状の出力を生み出さないからです。より厳密に言えば、線形回路というものは存在せず、あるのはより線形に近い回路とそうでない回路があるというだけなのです。
非線形回路の試験にふさわしい入力──これは線形回路に対しても同様に機能するものですが──は、統計的な性質をもつものです。理論的にいえば、全周波数域にわたって変化させるべき正弦波状の入力とは異なる、あらゆる変換器に適用可能な単一の統計的アンサンブル、すなわちショット効果として知られる入力です。ショット効果発生器は計測器として実在する明確な装置であり、複数の電気計器メーカーのカタログから手に入るでしょう3。
与えられた入力メッセージによって励起された変換器の出力は、入力メッセージと変換器自身の双方に同時に依存するメッセージです。普段であれば変換器はメッセージを変換するものなので、私たちはその出力メッセージを入力メッセージが変換されたものとして捉えます。一方である種の状況──主に、入力メッセージが最小限の情報しか運ばないような場合──においては、出力メッセージの情報はおもに変換器自身から生じたものとして捉えられるでしょう。ショット効果を発生させる電子のランダムな流れはまさにそうした情報量に乏しい入力メッセージといえます。したがって、ランダムなショット効果によって刺激された変換器の出力は、その変換器の働きを体現したメッセージと捉えられます。
事実として、こうした出力はあらゆる可能な入力メッセージに対する変換器の作用を体現しています。なぜなら、有限時間の中でも、ショット効果があらゆる可能なメッセージを任意の有限精度でシミュレートしうるからです。その可能性は小さくともゼロではありません。したがって、ある標準化された統計的ショット効果入力に対してある変換器から生じるメッセージの統計は、その変換器の振る舞いにおける似姿を構成します。そうなれば、物理的な実装は異なっていても振る舞いとしては等価な変換器を再構成するためにこうした統計を使うことも十分に可能です。つまり、変換器がショット効果入力にどう応答するかを知っているなら、その変換器が任意の入力にどう応答するかを事実上知っていることになるのです。
変換器としての機械は、道具であると同時にメッセージでもあるという二重性を示しています。物理学者にとってなじみ深い、波動と粒子の二重性のようなものです。あるいは、「めんどりとは、卵が別の卵を作るための手段にすぎない」という文句──これを言ったのがバーナード・ショーだったのかサミュエル・バトラーだったのか忘れてしまいましたが──にみられる生物学的な世代交代を示しているともいえるでしょう。羊の肝臓に棲む肝蛭も、ある池の巻貝に寄生する同じ虫が示す別の姿にすぎません。したがって、機械がメッセージを生み出し、メッセージが別の機械を生み出しうるのです。
これは私が以前からもてあそんできたアイデアなのですが──人間を電信線を通じて送ることは概念的には可能なのです。もちろんそれにまつわる困難は私の創意でどうにかなる範囲をはるかに超えていますし、新たな競争相手としてAT&Tを呼び込んで鉄道会社を余計に苦しめるつもりもありません。現状では──そしておそらく人類の存在する全期間を通じて──実行不可能なアイデアではあるけれど、だからといって想像もつかないというわけでもない。
人間に適用するにあたっての困難はさておき、より単純な人工の機械についてであればこれは十分に実現可能な発想です。というのも、これこそが、非線形変換器が自己複製するための方法として私が提案しているものだからです。ある変換器の機能を表しうるメッセージは、同じ振る舞いにおける似姿に沿う変換器のさまざまな実装形態をまとめて表しているはずです。そしてそのなかには、特定の機械的な構造を備えた実装が少なくともひとつあります。私が機械の振る舞いにおける似姿を担うメッセージから再構成しようとしているのは、まさにそのような実装です。
再生産という振る舞いをみせる機械の特定の実装形態を記述するにあたっては、その振る舞いの形式的な特徴も同時に記述することになります。そしてこの記述が漠然とした空想に陥らないためには、数学的な言葉が必要です。とはいえ数学は本書が対象としている一般の読者に理解されうる言葉ではありません。ここでは厳密さを断念せざるをえません。私はこうした考えをすでに数学的な言葉で表現していますから4、専門家に対する義務は果たしているはずです。ただ、これで話を打ち切ってしまえば、本書が対象とする読者への義務を十分に果たせていないということになるでしょう。空虚かもしれない主張をいくつか述べただけのように見えかねない。とは言っても、私の考えを完全なかたちで提示するのはまったく無益なことです。そこで本書では、問題の最も重要な部分をなす数学について、可能な限りうまく言い換えるにとどめることにします。
それでもなお、ここからの説明を理解するのはかなり骨が折れるであろうと危惧しています。なんとしてでもこの骨折りを避けたいというのなら、読み飛ばすよう警告しておかねばなりません。次節はそのような警告にもかかわらず読み進めようと思うほどに好奇心の強い方のためだけに書いています。
IV
読者よ、あなたはすでに法的な警告を受けています。したがって、以下の本文をけなすような発言は、すべてあなたに不利な証拠として使われるおそれがあります。
さて、線形変換器のような機械においては、その出力を定数倍したりほかの機械の出力と加算したりすることが可能です。ここでは機械の出力を電位として扱うことにしましょう。その際、カソードフォロワとして知られる現代的な装置を活用すれば、その出力は無負荷のまま読み取られる電位とみなしてよい。したがってここにポテンショメータや変圧器を組み合わせれば、出力を正負を問わず任意の定数倍にすることが可能になります。さらに、複数の変換器を直列に配置することで同じ入力に対する出力電位を加算することも可能です。こうして、各成分の出力に適切な正または負の係数を掛けて足し合わせた和を出力するような複合装置が得られました。
これで機械の解析と合成の世界に多項式展開や級数といったわれわれになじみの深い概念を導入できるようになったわけです。こうした概念は三角級数展開やフーリエ級数においてよく知られるものです。あとはそうした級数を組み立てるのに適した変換器のレパートリーがあれば、振る舞いにおける似姿を実現し、ひいてはそれを複製するための標準的な形式が得られたといってよいでしょう。
あらゆる機械をしかるべき意味で任意の精度まで近似できる、そうした初等的な機械の標準的なレパートリーの存在はすでに示されています。これを数学的に記述するとなると少々複雑ですが、たまたまこのページを開いた数学者のために言っておくなら──これらの装置は任意の入力メッセージに対して、その入力の過去のラゲール係数に関するエルミート多項式の積を出力します。まさにその印象どおり、きわめて具体的で複雑な話なのです。
では、こうした装置はどこで手に入るのでしょうか。残念ながら、今のところ電気部品店で完成品として売られていたりはしません。とはいえ正確な仕様に沿って組み立てることならできます。こうした装置の構成要素としては、抵抗や容量、インダクタンスといった線形装置ではおなじみの部品がまず挙げられます。これに加えて、線形性を得るための乗算器──二つの電位を入力として受け取り、その積にあたる電位を出力する装置──も必要です。こうした部品は市場で販売されていますし、必要な数を考えるとやや高価ではあるものの、技術革新によって価格が下がっていくかもしれません。そしてそもそも、費用は実現可能性とは別の問題です。この種のきわめて興味深い装置──圧電原理で動作する装置──は、すでに、インペリアル・カレッジ・オブ・サイエンス・アンド・テクノロジーのデニス・ガボール教授5の研究室で作られています。先に示したものとは多くの点で異なるものの、やはり任意の機械の解析と合成のための装置として使われているのです。
ともあれ、先に私が述べたような機械のレパートリーに話を戻しましょう。これらは一般の機械の解析と合成に適した三つの性質を備えています。第一に、それらは完備な系をなしています。すなわち、適切な重みを付けて組み合わせることで任意の機械に近似できます。第二に、正規化が可能です。これは、統計的な大きさを一定の基準値にそろえたランダム入力に対して、出力の統計的な大きさも同じ基準値になるよう調整できることを意味します。最後に、互いに直交しています。それらのうちどの二つを取っても、同じ標準化されたショット効果入力を与えたとき、両者の出力の積をその入力の統計分布全体にわたって平均すれば、結果はゼロになるということです。
このような基底に沿って機械を展開するなら、解析は合成と同じくらい容易になります。たとえば「ブラックボックス」型の機械があるとしましょう。つまり、十分に安定して(自発振動に陥らずに)動作するが、その内部構造はうかがい知れず、明らかになってもいない機械です。さらに「ホワイトボックス」、すなわち既知の構造をもつ機械があり、それがブラックボックスの展開における項の一つを表しているとします。これら二つのボックスの入力端子を同じショット効果発生器に、出力端子を乗算器に接続すれば、その出力の積を共通入力のショット効果の統計分布全体にわたって平均することで、ブラックボックスを複数のホワイトボックスの重み付き和として展開したときのそのホワイトボックスに対応する係数が得られるのです。
これを実際に導き出すのは不可能に思われるかもしれません。ショット効果入力の分布全体にわたってシステムを調べなければならないように見えるからです。けれど幸運なことに、この困難を乗り越えるための重要な数理物理学上の定理があります。特定の条件のもとでは、ほとんど確実に、分布にわたる平均を時間平均で置き換えられるという定理です。そしてショット効果の特殊なケースがこの定理の成立条件を満たしていることは厳密に証明できます。したがって、ブラックボックスの展開におけるホワイトボックスの係数を得るには、可能なショット効果のアンサンブル全体にわたる平均を時間平均で置き換えればよいことになります。こうして得られる係数が正しい係数である確率は1に等しく、理論上は「確実」ではないにせよ、事実上確実であることと等価といえます。
もちろんこのためには、電位の時間平均を取ることができなければなりません。幸い、そのような時間平均を得るための装置はよく知られており、容易に調達できます。これは抵抗、容量、そして電位を測定する部品のみからなり、したがってこの種のシステムは機械の解析にも合成にも等しく有用です。もしこの装置である機械を解析し、次いでその解析に沿って機械を合成したのなら、その機械の振る舞いにおける似姿を再生産したといえるでしょう。
こうした過程は、一見したところでは人間の介入を必要とするように思われるかもしれません。しかし実際のところ、解析や合成そのものよりはるかに簡単です。解析された数値を目盛り上の測定値としてただ読み取るのではなく、多数のポテンショメータの設定値とすればよいのですから。こうすることで未知のブラックボックスは──利用可能な基底の数と技術的な精度の許すかぎり──もともとどのような作用パターンでも取りうる複雑なホワイトボックスに、自身の作用パターンを移し取らせることができる。これは実際、生物の再生産において起こっていることとよく似ています。ここでもまた、すでに特定のかたちを備えたある構造(この場合は分子)が、数多くの形態を取りうる基体(この場合は分子構造)に、特定のかたちを取らせているのですから。
かつてこの自己複製システムの議論を哲学者や生化学者に披露したとき、次のような反論に出くわしました。「でも、その二つの過程はまったくの別物でしょう。生物と非生物のあいだのどんな類比だって、せいぜい表面的なものでしかありえません。生物学的な増殖の過程は間違いなく細部まで理解されており、あなたが機械の増殖の説明のために持ち出した過程とはなんの関係もありません。
機械は鉄や真鍮からできており、その微細な化学構造と機械の部品としての機能にはなんの関係もない。これに対して生きた物質は、それをまさに生きた物質たらしめているもっとも細かな部分、すなわち分子に至るまで生きているのです。そのうえ、生きた物質はよく知られた鋳型過程を通じて増殖します。その過程では核酸がアミノ酸鎖の形成を規定し、この鎖は相補的な二重らせんをなしています。それらが分離すると、それぞれがもとの二重らせんを再構成するのに必要な分子残基をみずからのもとに集めるのです。」
生きた物質の再生産の過程が、ここで素描した機械の再生産の過程と細部において異なっていることは明らかです。先述したガボールの仕事が示すように、機械に自己複製させる方法も一つではありません。こうした自己複製のありかたは私自身が示したものより柔軟であり、生物の増殖という現象により類似しているかもしれないのです。たしかに、生きた物質に備わる微細な構造と機能や増殖との関わりは、非生物的な機械の部品のそれよりもはるかに深い。もっとも、固体物理学の原理に従って動作する新しい型の機械においては、この違いはそれほど明瞭でないかもしれません。
それに、生きたシステムであっても(おそらくは)分子以下のレベルで生きているわけではありません。もっといえば、生きたシステムと通常の機械的なシステムとのあいだにどれほど多くの違いがあろうと、一方の種類のシステムが他方の種類のシステムになんらの示唆も与えないとするのはおこがましいことです。そのような示唆の一例として、空間的・機能的構造と、時間のうちに展開するメッセージとの相互変換可能性が挙げられるでしょう。再生産を鋳型で説明しきれるはずがないのは明白です。遺伝子分子と培養液中の残基とのあいだにはなんらかのコミュニケーションが存在しなければならず、しかもそのコミュニケーションは動的なものでなければならない。放射的な性質をもつ場の現象がこのようなコミュニケーションを媒介していると想定することは、現代物理学の精神に十二分にかなうものです。機械と生物における再生産の過程に共通点がまったくないと断定するのは適切とは言えません。
この種の断定は、慎重で保守的な人々には、性急なアナロジーよりも穏当に見えがちなものです。けれども、不十分な証拠にもとづいたアナロジーを受け入れるのは危険だというのなら、それが取るに足らないものだという証明もなしに退けるのも同じくらい危険でしょう。知的なリスクを引き受けようとしないのは知的に誠実であることを意味しない。新しく感情をかき乱すような考えをはじめから拒むことに特別な倫理的美点があるわけでもない。
神によるとされる人間と動物の創造、生きた存在がそれぞれの種にしたがって子をなすこと、そして機械が再生産しうること──これらがすべて同じ秩序に属する現象だという発想は、進化や人間の由来についてのダーウィンの思索がそうであったように、人の心をかき乱すものです。類人猿と比べられることが自尊心への侮辱だとしても、私たちはそれをとうに乗り越えています。そして機械と比べられることはよりいっそうの侮辱ではあるでしょう。どの時代のどんな提案にも、かつて魔術の罪にまとわりついていたのと同種の糾弾がつきまとうものなのです。
機械における遺伝と自然選択を通じたダーウィン的進化についてはすでに触れました。そのような機械における遺伝の仕組みが自然選択を通じたある種の進化の基礎となるためには、これを変異とその遺伝によって説明できなければなりません。とはいえ、ここで想定しているタイプの機械遺伝学にはいずれの余地もあります。これまで論じてきた複製過程の実現にあたっての不正確さが変異を生み、ホワイトボックスとして具現化された複製機械自身がさらなる複製のための範型となりうるのです。実際、最初の複製結果は振る舞いにおいてオリジナルと似通っていたとしても、見た目のうえではそうではない。一方でそれ以降の複製においては空間的な構造が維持され、その点でも文字どおりレプリカとなります。
複製の過程において、先の複製結果を新たなオリジナルとして用いうるのは明らかです。すなわち、遺伝における変異は維持され、さらなる変異にさらされるのです。
- Cybernetics, or Control and Communication in the Animal and the Machine, The M.I.T. Press and John Wiley & Sons, Inc., New York-London, 2nd ed., Chapter IX, 1961.↩
- DNAの二重らせんの分裂による遺伝子再生産のパターンは、動的な説明で適切に補ってはじめて完全に記述できるものです。↩
- ここでショット効果的な電流について説明しておきましょう。電気というのは連続的に流れるものではなく、同じ電荷をもつ荷電粒子の流れです。そして一般に、荷電粒子は一定間隔で流れるわけではありません。時間軸上でランダムに分布したかたちで流れており、したがって定常的な流れの上にゆらぎが重なります。このゆらぎは時間的に重ならない区間ではそれぞれ独立です。そしてこれにより広い周波数域にわたって一様に分布したノイズが生じます。こうしたノイズはたいてい不都合なもので、回線がメッセージを伝達する能力を制限してしまいます。とはいえ今回のようにそうした不規則性こそが必要とされる場合もあり、したがってそのような雑音を生み出す商用装置も存在します。これがショット効果発生器として知られる装置というわけです。↩
- Cybernetics, or Control and Communication in the Animal and the Machine, The M.I.T. Press and John Wiley & Sons, Inc., New York, 2nd ed., Chapter IX, 1961.↩
- Gabor, D., “Electronic Inventions and Their Impact on Civilization,” Inaugural Lecture, March 3, 1959, Imperial College of Science and Technology, University of London, England.↩