ごく個人的な事柄について

そんなこんなでもう12年も経って、それはつまり、僕の人生の半分は彼なしでやってきたのだということになる。僕が小5の頃の話で、年々思い出せることは少なくなる。もちろん欠席している奴は手を挙げられないわけで、何を忘れてしまったのかなんて分かるはずもないけれど、それが減ってきているんだということくらいは僕にも感じとることができる。

もしかすると、風化するに任せるのが健全というものなのかもしれない。そうだそうだ、「人間は思い出を忘れることで生きていける」だっけか。…そんな台詞がすぽんと頭の抽斗から出てきたものだから、これなんだっけとしげしげ眺めていると、分かった、碇ゲンドウだ。そしてこの台詞の続きが「だが決して忘れてはならないこともある」であったことも思い出した。

今からこうやって書きつけることが「決して忘れてはならないこと」なのかどうかはよく分からないけれど、まあゲンドウの言うことなんてそれほど真に受ける必要もなかろう。とりあえず、今の僕が忘れたくないと思ったのだからそれでいいだろう。


…で、なんの話かというと、弟の話。12年前の8月11日に9歳で亡くなった僕の弟の話。とにかく思い出せる限りのことを並べていくことにする。

  • そもそも何をきっかけに病気ことが分かったのかはもう憶えていない。思い出せるのは、どうやら大学病院で診察を受けてみたほうがいいみたいだと相談している両親の姿くらい。
  • 何度か診察を受けた結果、弟が脳腫瘍だということが分かる。これが前年の秋くらいだったのかな、時期さえもほとんど憶えていない。小5だったからさすがに脳腫瘍がガンの一種である、くらいの認識はあった。
  • とはいえ、はじめのうちは悪性か良性か分からなくて、どちらかというとポジティブな感じの診断だったような気がする。そう思い込もうとしていただけなのかもしれない。
  • ともあれ入院である。さすがに小さい病院では手に負えないということで、ちょっと遠くの大学病院に入院となる。準備はなかなか大変そうだったし、このころ母は(仕事をどうしていたか知らないが)2,3日にいっぺんくらい、自動車で片道1時間半くらいかけて会いに行ってたような気がする。いや、もしかしたらそれはもっと病状が悪化してからで、はじめのうちは祖母が行ってたのかもしれん。これもあやふやだ。
  • 詳しい検査などが進み、どうやらそれほど楽観視できないということが分かった頃にはもう冬だったと思う。それから夏までの間に手術をたぶん2度ほどしたはずだが、いつしたのかはよく分からない。憶えていないのか、教えてもらっていなかったのか。
  • 病室(小児病棟である)で隣になったのは白血病の子だと聞いた。仲良くしていたらしいが、今はどうなってるか知らない。
  • はじめのうちで最も際だった症状は視野狭窄だった。これが分かったときに母親が「見えるはずの壁にぶつかっていた」という兆候があったことを思いだしぼやいている姿を、なぜかよく憶えている。
  • そのうち半身が不随になった。右半身だったか左半身だったかは憶えていない。腕が震えるのだが動かせないのだ。
  • 歩けないからと車いすに乗るようになったのは春前くらいだった思う。光を完全に失ったのとどちらが早かったっけか。ポケモンが見たい(目が見えなくて見られない)とか言ってた記憶がなぜかクリスマスあたりだったような気がしているが、これはたぶん何かと混同している。
  • リハビリをしているんだ、と両親が話していた。
  • かなり断片的にしか憶えていないみたいだ。
  • インターネットが我が家にやってきたのもこの頃だった。これはあとから父親に聞いたのだけど、そもそも病気に関する情報を集めようと考えてのことだったらしい。
  • 病状が絶望的になってからは、気候で難病を治してるおっさんの本やらアガリクスのなんとかやらが家にちらほら見受けられるようになる。難病患者を持つ家族はそれこそ藁にも縋りたい状態なわけで、僕がこういう似非科学のことを嫌いなのは、そういう状態につけ込もうとするのが許せないからなんだろうと思う。
  • 今は両親ともそういうのにはまっている様子はないみたい。そういえば変な宗教にもはまったりしなかった。闘病生活、ってやつが1年もないくらいの短い間だったからなのかもしれない。
  • 母親が点字器みたいなもの持ってきて、それをトランプに打ち込んで、見えなくてもババ抜きくらいはできるように頑張ったこともある。ちょっと点字を覚えようと思ったけれど、僕では指の感覚がぜんぜん追いつかなかった。弟もそんな急にできるようにはならず、結局そんなに出番がないままそのトランプはどこかに仕舞われてしまった。
  • 末期になってからのほうが家にいた期間が長かったように思うけれど、もしかしたら印象が強いことによる錯覚かもしれない。とにかく、春過ぎてから、家にいるときには常にチューブみたいなものを挿しており、その消毒に使っていたイソジンがガーゼに染みこんでいる赤色ばかり憶えている。母と一緒に風呂に入れてあげてたんだっけか。
  • どうしてこんなに忘れちゃってんだよ。
  • 「その日」も弟は家にいた。昼過ぎくらいになって、誰が最初に気づいたのか分からない(そもそもその日誰が家にいたのかもよく憶えていない)が、いつの間にか意識がなくなっていた。救急車を呼んだ。
  • おそらく一度市内の病院に運ばれたあとに、入院していた大学病院に搬送される。両親はそのままついていくことに。学校から呼び戻された記憶はないから、たぶん僕も家にいたのだろう。もしかしたら学校から帰ったあとだったのかもしれない。妹と祖父母とともに連絡を待つ。
  • まだ明るかったから4時とか5時とかそれくらいだったのだろうか、いわゆる「親族の方を呼んでください」ということになり、妹と祖父母と一緒に電車でその大学病院へ行くことに。
  • 心配そうにしていては余計に弟が悪くなってしまうと思ったのか、単純にバカだったのか、シリアスな状況を認めるのが恐かったのか、電車で歌など歌っていたら、祖母にすこし怒られたのを憶えている。悪い癖で、未だに治らない。
  • 電車が着いて、なぜか果物を買っていったような記憶があるのだが、それはこの日ではなく、祖母と二人で普通に見舞いにいった日のことのはずだ。
  • ドラマでよく見るあの光景。
  • いまいち実感が湧かなかった。見た目にはほとんど変化がないように見えた。周りがみんな泣いているから僕もがんばって泣いた。身体を拭いたりしなきゃいけない、死んだら汚物やらなんやらが出てくるから。そうやって父に病室の外へ出るように促されたときに、なんとなく、ここで外へ出てしまうかどうかがなにかの境目であるかのように感じたのだけれど、とはいえもはや生きていないのだからと思って、最後から2番目くらいに外へ出た。深夜だったと思うのだが、小5の深夜だからあてにならない。帰りは車の中で寝たんだと思う。
  • 自分の弟の通夜なんだからしっかりしなきゃと思ったこと、カップ焼きそばを食べきれなかったことと、線香の煙で喉が痛くなったこと。
  • 末期の水を唇につけるのがむしょうに恐かった。死んだ人間(もう人間ではないのだが)(ただ、弟であることに変わりはない)を触るのははじめてだった。腕は冷たくて(夏だからドライアイスで冷やしてあった)すべすべしていた。それでも実感は湧かなかった。
  • 葬儀の日は弟の友達も来ていた。彼らは泣いてたけれど僕は泣かなかった。というより、泣けなかった。出棺のときには弟の写真を抱えてた。火葬場へ向かうバスのなか、僕はなぜだか笑ってた。そうしなきゃいけないような気がした。
  • 家に帰る車のなか、骨壺は僕が抱えた。これが弟だとは信じてなかったんじゃないだろうか。目の前で燃えたわけじゃないから、逃げ道なんていくらでもあったろう、弟よ。
  • 四十九日までは毎日家族でお経を唱えたので、その頃にはほっとんど憶えていた。「のうまくさんまんだばざらだんかん」みたいなのとか、いろいろ。今は般若心経さえ無理だ。
  • ずっとあとになって、誰かに「お葬式のとき笑ってたよね」と言われたけれど、憶えてないふりをした。


人なんてばんばん死んでいくわけだから、こんなふうにいちいち気にしてたらバカみたいだなあ、なんて、こうしてだらだらあやふやな記憶を書き連ねている自分に対して、そう思う。それに、ブログに身内が死んだことが書かれているのを読むのも好きじゃない。だって、結局僕にとっては直接知らないひとの話じゃないか。

んでも、まあ、なんか、すくなくとも、なんでそういうこと書くんだろう、という気持ちはわかった気がする。


僕は悪趣味なんだろうか。きっとそうなんだろう。ともかく僕は、弟のことをまだ憶えている。