2024-04-01

『マンゴー通り、ときどきさよなら』を読んだ。きっかけはこちらで紹介されている(いつも本や漫画の紹介がおもしろそうなんだよな)のを見たからで、前半あたりは「ほーん、移民が集まる街のようすを活写したやつっスね。はいはい」みたいなナメた態度でいたのだけれど、その場所の空気(視覚的イメージではない)がだんだんじぶんのなかにできてきて、ついでにほんのすこし(ほんのすこし!)だけ語り手が成長したのが見えてきてからは、前半も振り返りつつやられてしまったところがあった。サリーの話のくだりとかもうどうしようもないわね。よかった。

なんというか、「居た場所」——というのはいわゆる「自分の居場所」といういみではなく、好きだろうと嫌いだろうと「居た場所」でしかない場所——について、身体をもって知ってしまったからこそできる、してしまう、あたりまえだろうというぶっきらぼうさと、どこまでも細部を思い描けてしまうこととの両立、そういう距離感がよくあらわれていたと感じたからではないか。自分の居場所じゃないなんて思っていようが、よいものとして懐しんでいようが、「居た場所」というのはどうしたってそうなってしまう。そういえばさいきん話題になっていた「創作文芸サークル「キャロット通信」の崩壊」だって、ある面では(ある面でしかないが)そんな話だったんじゃなかろうか。

ひるがえっていえば、他人のそれを(フィクションであろうがなかろうか)読めるというのはおもしろいことであることよなあ。いまさらか。