人類の会話のための哲学 - 朱喜哲

読んだ。

読んだ動機は以下のとおり。

  1. 『プラグマティズムの歩き方』『真理・政治・道徳』といったミサックの本を読んできて1それらにある程度馴染みを感じつつも、とはいえこのプラグマティズム観だけだとちょっとな……とも感じており、その中和剤となることを期待して
  2. 著者がWebで連載していた〈公正〉を乗りこなす2がおもしろく、そのバックグラウンドとなるローティのことをもっと知りたくて

版元のサイトはじめWeb上で目次が見つからなかったため、以下に置いておく。

  • 第1部:ふたつのプラグマティズム:ミサック対ローティ
    • 第1章:ニュープラグマティズムからの異議申立て
      • 1.1:ミサックの「分析プラグマティズム」史観
      • 1.2:プラグマティズムと自然主義
      • 1.3:「特権的なボキャブラリー」をめぐるローティ批判
      • 1.4:「ナルシシズム」をめぐるローティ批判
    • 第2章:「探求」か「会話」か
      • 2.1:「実践」をめぐって
      • 2.2:「真理」と「客観性」をめぐって
      • 2.3:「探求」と「会話」をめぐって
      • 2.4:ふたつのプラグマティズムを調停する
  • 第2部:規範性のプラグマティズム:セラーズからローティへ
    • 第3章:分析哲学の規範的転回
      • 3.1:カルナップにおける「実質推論」
      • 3.2:セラーズにおける「実質推論」
    • 第4章:セラーズの「規範性」概念を再考する
      • 4.1:「ふたつの規範性」の導入
      • 4.2:「ひとつの規範性」とその部分的な形式化可能性
      • 4.3:「規範性」理解におけるカルナップとセラーズの齟齬
      • 4.4:ローティ由来の二元論的セラーズ理解を払拭する
    • 第5章:ローティにおける「理由と因果の二元論」とその克服
      • 5.1:「ふたつの論理空間」を峻別する
      • 5.2:ブランダムにおける「因果性」
      • 5.3:推論主義による因果推論の分析
      • 5.4:分析プラグマティズムによる「理由と因果の二元論」克服
  • 第3部:「文化政治」とプラグマティズム:ローティからブランダムへ
    • 第6章:「奈落の際で踊る哲学」としてのネオプラグマティズム
      • 6.1:反表象主義において何が共有されているか
      • 6.2:ブランダムはどのように「表象」概念を回復するか
      • 6.3:ローティはなぜブランダムによる「回復」を受け入れないか
    • 第7章:「文化政治」としての推論主義(1)ヘイトスピーチを分析する
      • 7.1:推論主義による侮蔑表現の分析
      • 7.2:推論実践と「言語ゲーム」論の導入
      • 7.3:ジェノサイドに至る言語ゲームにおける推論的HS
      • 7.4:明示的差別表現を含まない平叙文をHSとして分析する
    • 第8章:「文化政治」としての推論主義(2)感情教育論を明晰化する
      • 8.1:優生思想と本質主義
      • 8.2:反本質主義としてのプラグマティズム
      • 8.3:推論主義による「感情教育」の明晰化
      • 8.4:単称名辞の回復と感情教育

おおざっぱにいえば、第1部では批判者としてのミサック、第2部は前史としてのセラーズ3、第3部は後継としてのブランダムを通してローティをみていく……といった内容。博論をもとにした本ということで当然ながら文脈の理解を求められるところがあり、第1部については伊藤『プラグマティズム入門』を、第2部および第3部については白川『ブランダム 推論主義の哲学』あたりを読んでいたおかげでしろうととして読める程度にはついていけた……んじゃないだろうか。どうでしょう。そうだといいですね。ともあれ、自分とおなじくらいの知識のレベルのひとにはとりあえずそれらを先に読むことを勧めるとおもう。

で、この構成からもわかるとおり、動機として挙げたうち1.についてはおおむね第1部で済んでいる。ただ、まさにその点でよくわからなかったところがあったため、以下。

とりあえず、第2章、特にその後半の内容(に対する自分の理解)をものすごく雑にまとめると次のようになるでしょうか。

まず、ミサックによるローティ批判のポイントは、ローティが 人類の探究におけける客観的次元 を軽視しているのではないか、という点にあるとされる。しかし、ミサックが重きをおく(学術共同体の)「探求」においてはある種の客観性が要請される一方で、ローティが重きをおくのは(人類全体の)「会話」であり、後者のような次元において客観性は必須ではない。これは職業的な哲学者としてのスタンスの違いであり、両立しうる。そして、「会話」が「探求」を包含するようなう実践であるかぎり、哲学者の責任範囲として「探求」のみにフォーカスしてしまうことは、ときに「会話」への責任ある役割を担うことの制約になってしまうかもしれない。

これ、おおまかな理路としてはとくに異論はなく、両立しうるしローティの視点も大事だよねとなるのだけれども、(ミサックからの批判へのディフェンスとして書かれているからというのはあるにせよ)「探求」の範囲とそれを担う共同体をすこし狭量にとらえすぎているのではないかと感じたんですね。われわれの日常生活における「探求」が宙に浮いているのではないか、と。そして、ミサックのスタンスをそのように狭めて述べている(ようにみえる)のは著者なのか、それともミサック自身なのか、本文を読むかぎりだといまいちよくわからなったのです。

もちろん、たとえば第1章の自然主義(とくに第1章の注33あたり)や特権的なボキャブラリーの話が関連してくるにもかかわらず自分のなかでうまくつなげて理解できていないからだったり、あるいは論集 New Pragmatists 全体の論調としてそうなっているにもかかわらずそれを知らないからだったり、つまり自分がよくわかっていない部分のあるせいだとはと思うのですが、すこし消化不良だったため、以上書いて残しておきます。

ちなみに2.のほうの動機に関しては、じゅうぶん応えてくれる本でした。おすすめや。


  1. 『真理・政治・道徳』についてはブログでまとまった感想も書いた
  2. 『人類の会話〜』のすこし前に書籍化されている。もちろんこっちも読みました。
  3. なお、セラーズの検討にあたってさらにその発想のもととなったカルナップの構文論も(本論の道筋に必要なぶんよりも多く)紹介されており、そこはまた別のいみでおもしろかった。こういうプロジェクトだったんだ! みたいな。