真理・政治・道徳 - シェリル・ミサック

ここでも何度か言及しているとおり、『プラグマティズムの歩き方』がおもしろかったのでこちらも読んだ。副題は「プラグマティズムと熟議」。

「シュミット(に代表させた反熟議/反民主主義)に対抗するためには、ロールズでは前提が弱すぎる(原理としての「中立性」だけでは結局なんにもできない)し、ハーバーマスでは前提が強すぎる(コミュニケーションにおける前提のとりかたが不自然すぎる)しでうまくいかない。パースの真理概念を出発点に熟議/民主主義を正当化するぜ」みたく過去の議論とのつながりを第1章で明示し、そのうえで第2章では(ミサック流に解釈した)パースの真理観、すなわち「真なる信念とは、調査と討議をどこまで続けても、予期しない反発的な経験や議論によって覆されることがないであろう信念のことである」1を持ってきて、これを認めて敷衍するならいわゆる事実的な信念と道徳的な信念のあいだに本質的な違いは生じず、道徳的な信念についても真理を探求できるよと述べる2。そうなれば「自他の経験を尊重すべき」という方法論的な規範が出てくるわけで、これをもとに実践で出会う問題にプラグマティストがどう判断を下していけるのかを見ていくのが第3章……といった構成。

第2章はおおむね「(ある種の真理観を共有する)プラグマティストならば、素直な道筋で道徳的真理も認められるようになるよね」という理路ではあって、(ミサック流に解釈した)パースの真理観そのものについて(デフレ主義と比較してある程度詳しく説明はされるものの)細かな正当化はなされておらず、したがってはじめからおわりまでの論証というよりもプラグマティストとしてのマニフェストに近い印象はある3。だから、たとえば素朴に対応説をとりますよって人はきっと、本書だけ読んでも説得されないのだろう。それでも、上述のような真理観をいったん認められるのであれば(自分はわりと認めている)、たしかにこういう結論に至るのは自然なことだよなと説得されるところがあった。

そして第3章では、上述のような立場「だけ」から言えることはそれほどないという自覚のもとで、道徳的失敗と後悔の話だとか、両立しない複数の価値が選言的に結ばれた状態の可能性だとかもろもろを、実際にあったできごととつなげて論じており、これがかなり繊細かつ圧巻。そしてそうはいっても、自分にとっては「共感」というファクターのほうが大きくて、こちらはこちらで「じゃあほんとにこれでみんなを説得できるのか」についいては吟味しきれない。というかまあ、そんなもん自分の現状の知識じゃ難しいだろっていうのは、そりゃあそうか。だからせめて、「究極的にわかりあえるかどうかは知らんが(まあ無理だろうが)、それでももっとわかりあえる余地はあって、それをやってはいけるやろ」みたく思うことに、いますこし自信を持てただけでも良かったと思えばいいってことか4


  1. たんにこうした文言を見ただけだと勘違いしやすいってのは口すっぱく言われている(クワインも勘違いしていたよとか)んだけど、ここでは略。疑問が浮かんだ人には直接読んでもらうのがいいと思う。あるいは、白川「最近のプラグマティストの〈主観的な客観性〉」あたりがおもしろいか。
  2. 認知主義の立場をとるのは明確なんだけど、(少なくとも形而上学的な意味での)実在/非実在に関しては「コミットしない」って感じだと思う、たぶん。(そのレイヤで実在だ非実在だとか理屈を捏ねてもしかたがなくて)結局われわれは理由とともに主張を行っている、完璧ではなくともある程度現実にそういった実践が成り立っているんだから、みたいな話。もし「ほんまにそんな立場とれるんか?」となったときでも、倫理の範疇にかぎらない真理一般にかんする議論に、まずはなる。
  3. 「プラグマティストならばこう言う/こう考えるよ」みたいな言い方がよく出てくるあたりもそのあたりの反映だろう。もちろんそう考えないプラグマティストもいるだろうし、プラグマティストでなくともそう考える人もいるだろうから、この言い方は、なんというか、反発を覚える人もいそうだなとは思う。『プラ歩き』もそうだったけど、この人「プラグマティズム」観がかなり固定的ではあるよな。
  4. ただここまでざっくりで終わらすとローティと区別がつかないのだが。