まあ、その……「同じこと考えてたんだい!」って後出しするのって……すげえみっともないよな……。
というわけで、フリー・グーグルトン『高尾症候群』を読んだ。みるからにネットサーフィンしてますよ感満載の筆者は木下古栗1の変名で、長編エッセイで振り返る木下古栗の20年/フリー・グーグルトン『高尾症候群』 - 名前をつけて保存でこんなもん出ているんだと知ったのがきっかけ。もともと木下古栗の小説はもちろん好きではあったし2、それに加えてほぼ日のインタビューにめちゃくちゃ頷いて以降、書くこと/読むことについて木下古栗がまとめて書いたものを読んでみたいという気持ちが、うっすらとではあれずっとあった。だから本書はまさにそれに応えてくれる本かもしれないと思って読んだのだけど……たしかに一面ではその通りでありつつ、もう一面ではかなり不満の残る内容でもあったというのが正直なところだった。そしてその不満も、もしかするとお門違いのものなのかもしれない……そういう話をこれから書きます。
最初に示したnoteの概要にもあるとおり、「専門的志向をもった知的営為としての文学」とはなんぞやというのが(いちおうのところは)本書のメイン。そこに随筆めいた3余談と注釈が(メインの内容をのっとるくらいに)たくさんくっついてくるような体裁をとっている。専門的志向をもった云々というのはなんですかっつうのを雑駁にいえば、その作品(群)が生成された手法ないし技術的な側面に着目し、第三者からその正当性が評価できる4ような形で検討しましょうね……といったふうなもの。文章うま太郎になりてえ5自分としては、技術的観点の重要性というか、そこがいちばんおもしろいとこやんということにはかなりの部分同意するわけで6、実際さきに挙げたインタビューに頷いたのだってそれが理由だ。そしてだからこそ! おれかてな! シコシコとフィクション論の本を読んだり、認知詩学/認知文体論の本を読んだりしとるわけなんよ!!7 だからこう、まさに、と思うし、そういう話がたしかにされはする。
……と、そうやってもっともメインとなる考えかたについておおむね同じ立場である8という前提を認めたうえで、けれども本書はやっぱりちょっと物足りないなと感じたところがいくつもあった。たとえば、そうやって分析して見せる実例がほぼカフカのものそれひとつしかないということ。そして、(ネットサーフィンをしていて見つけた)神経科学などと関連したいろんな症例を見せてくれるのは多少おもしろいとはいえ、それがけっきょく類比にとどまるものでしかないこと。それに対して、それこそ上述したようなたとえば文体論みたいな試みがあるのを知ってか知らずか9ほとんど紹介される様子がないこと。つまり、「それが大事なのはよーくわかっとるんですよ。だからこそその先が見たいんすけど……」みたいな不満なわけだ。
さらにもうちょっと言っちゃうぞ。上記みたいな方向性が大事なんだよって言うためにいかにもよくあるポストモダン批評批判にかなり紙幅が割かれているんだけど、「いやもうそれは知ってるよ……」みたいに思ってしまうところがかなり大ではあった10。通り一遍『「知」の欺瞞』を出してきても……いやいいんだけど……さっきも書いたとおりそこにエネルギーと紙幅を割こうとするよりは、もうちょっと細やかな批判をするなり、なにか汲み出そうとするなり、あるいはもう無視して上記みたいな実際の分析に進んだところをもっと見せてくれよと思ってしまったんだよな……。そんな……おれがシコシコくそ真面目にようわからんもん読んどるのあほみたいやんけ……くそ……いや古栗せんせいは小説書いとるからやっぱ偉いか……でもソーシャルメディアについてつらつら書いてることだって新味があるわけでもないしな……。
……ただこのへん、どこまで文字どおり受け取るべきかはようわからんところがあるというか、途中で「そんな三流社会評論のような『文学』的な雑感を抱きながら」みたいに言ってる箇所があるくらいには、それこそ世相を斬るブログのパロディとして受け取ることができてもしまう。そういうふうに読めばわりと「ブログっぽいもの」11として妙なおもしろさがむしろある文章になってるのが、なんというか、ずるい。いろんなものがゆるくつながってくるさまがいいし、そしてなにより、そういうなかで「高尾」「高尾症候群」のふっと浮いて出てくるようなところとか上手いんよな……。「内容」が第一義じゃないっていうその内容からすれば、内容はこれでよくて、かつスタイルとして出来上がってるという見方は可能なわけだ。だからしてやられてしまったのかもしれない。
いや、どうだろうね、穿ちすぎでしょうか。でも、なんだか妙な体験ではあった。あとやっぱこういうこと言うのめちゃくちゃみっともないな。