2023-06-07

昨年11月の文フリ東京にて頒布されたねじれ双角錐群の第七短編集『故障かなと思ったら』のKindle版が刊行されましたのでご報告申し上げます。

わたし自身の当時の告知記事はこちら。各編の感想もあります。

文学フリマのSF島その他の告知 - 青色3号

公式の告知ページはこちら。

故障かなと思ったら - ねじれ双角錐群

あとなにか付け加えることあるかな……告知記事では自分の書いたやつについてとくになんにも書かなかったのですが、相も変わらず父子の話で、括弧書きの挿入節でなんかできんかなと思ってやった話で、あとはやっぱ(最近もよく書いてるとおり)因果とかめんどくさいなという気持ちがあっただろうか。当時のメモをちょっと見てみたんだけど、「○○を元ネタにしたい」「○○みたいな文体にしたい」みたいな毎回書くだけ書いてるのしか残ってねえから参考にならんなこれ。文体はともかくモチーフの元ネタはわかりやすすぎる。「小ネタをまぶしたい」として出せなかった小ネタの残骸も羅列してあるんだけどそれは内緒です。

印象としては、構造に完全に当てはめることでよくもわるくもまとまりがつくれてしまった一昨年のものよりはひたすら発散したその前年のやつに近いかもしれない。ただ、あれよりは多少うまくいってしまえたか。うまくいってもしかたがないというか自分のなかで既知の理路に頼りすぎた気がしてしまうんだけど、読んでもらうにあたってはそのほうがいいよな。そのほうがいいと思いますので、おすすめです。

2023-06-05

むかしからやにわに現れるイメージのうち、大量の耳垂れがながれだすそれはとくにひんぱんなもので、どういう起源や理由があってのことなのかはいまだ不明です。耳垂れというとおり、それはまったくさらさらなんてしていない。どろどろ。だくだく。耳垂れというとおり、それは膿なのかもしれないけれど、膿はそんなに大量にながれだしたりなんかしない。脳漿かもしれないし血液かもしれない。精液というほどの粘度の高さはないけれど、そのへんは人によるのかな? だから精液かもしれない。いずれにせよそんなに大量にながれだしたりはしない(エロマンガじゃないんだから)。そう、量がとにかく尋常ではない。蛇口を開放しましたってな具合にえらく景気よくながれだす……いや、さすがにそれは誇張で、イメージのなかでそこまでではなかった、はずなのだけれど、いままさに想像してしまったせいで、そのような勢いさえイメージに含まれることになった。ジャンジャンバリバリ! ジャンジャンバリバリ! 出ます出します取らせます! 漿血精に愛媛のオレンジジュース!

2023-06-03(2)

  • マッシュルの演出がA-1のまめまめしい職人芸で楽しい
  • ポケモンアニメのリコさんのキャラデが好き
  • 推しの子7話のラスト正直かなりよかった
  • セセリア・ドート1
  • ありがとう江戸前エルフ2

  1. うれしい!たのしい!大好き!
  2. ゆめがほんとうに(DREAMS COME TRUE

2023-06-03

振り返ってみると5月はなんとなく卑屈というか尊大というか、どこか余裕がない感じだったのかな……いろいろ思い当たる節はある。あります。

次はもっとこう、軽快に?鷹揚に?ひょうひょうと?……ほらほら、声出してこ!ウオーッ!無理はするなよ!動け!そこだ!ヤーッ……違う違う!避けて!あーっもう……ゲームしてる隣で大きい声出すのやめて!

2023-05-31

まあ、その……「同じこと考えてたんだい!」って後出しするのって……すげえみっともないよな……。

というわけで、フリー・グーグルトン『高尾症候群』を読んだ。みるからにネットサーフィンしてますよ感満載の筆者は木下古栗1の変名で、長編エッセイで振り返る木下古栗の20年/フリー・グーグルトン『高尾症候群』 - 名前をつけて保存でこんなもん出ているんだと知ったのがきっかけ。もともと木下古栗の小説はもちろん好きではあったし2、それに加えてほぼ日のインタビューにめちゃくちゃ頷いて以降、書くこと/読むことについて木下古栗がまとめて書いたものを読んでみたいという気持ちが、うっすらとではあれずっとあった。だから本書はまさにそれに応えてくれる本かもしれないと思って読んだのだけど……たしかに一面ではその通りでありつつ、もう一面ではかなり不満の残る内容でもあったというのが正直なところだった。そしてその不満も、もしかするとお門違いのものなのかもしれない……そういう話をこれから書きます。

最初に示したnoteの概要にもあるとおり、「専門的志向をもった知的営為としての文学」とはなんぞやというのが(いちおうのところは)本書のメイン。そこに随筆めいた3余談と注釈が(メインの内容をのっとるくらいに)たくさんくっついてくるような体裁をとっている。専門的志向をもった云々というのはなんですかっつうのを雑駁にいえば、その作品(群)が生成された手法ないし技術的な側面に着目し、第三者からその正当性が評価できる4ような形で検討しましょうね……といったふうなもの。文章うま太郎になりてえ5自分としては、技術的観点の重要性というか、そこがいちばんおもしろいとこやんということにはかなりの部分同意するわけで6、実際さきに挙げたインタビューに頷いたのだってそれが理由だ。そしてだからこそ! おれかてな! シコシコとフィクション論の本を読んだり認知詩学/認知文体論の本を読んだりしとるわけなんよ!!7 だからこう、まさに、と思うし、そういう話がたしかにされはする。

……と、そうやってもっともメインとなる考えかたについておおむね同じ立場である8という前提を認めたうえで、けれども本書はやっぱりちょっと物足りないなと感じたところがいくつもあった。たとえば、そうやって分析して見せる実例がほぼカフカのものそれひとつしかないということ。そして、(ネットサーフィンをしていて見つけた)神経科学などと関連したいろんな症例を見せてくれるのは多少おもしろいとはいえ、それがけっきょく類比にとどまるものでしかないこと。それに対して、それこそ上述したようなたとえば文体論みたいな試みがあるのを知ってか知らずか9ほとんど紹介される様子がないこと。つまり、「それが大事なのはよーくわかっとるんですよ。だからこそその先が見たいんすけど……」みたいな不満なわけだ。

さらにもうちょっと言っちゃうぞ。上記みたいな方向性が大事なんだよって言うためにいかにもよくあるポストモダン批評批判にかなり紙幅が割かれているんだけど、「いやもうそれは知ってるよ……」みたいに思ってしまうところがかなり大ではあった10。通り一遍『「知」の欺瞞』を出してきても……いやいいんだけど……さっきも書いたとおりそこにエネルギーと紙幅を割こうとするよりは、もうちょっと細やかな批判をするなり、なにか汲み出そうとするなり、あるいはもう無視して上記みたいな実際の分析に進んだところをもっと見せてくれよと思ってしまったんだよな……。そんな……おれがシコシコくそ真面目にようわからんもん読んどるのあほみたいやんけ……くそ……いや古栗せんせいは小説書いとるからやっぱ偉いか……でもソーシャルメディアについてつらつら書いてることだって新味があるわけでもないしな……。

……ただこのへん、どこまで文字どおり受け取るべきかはようわからんところがあるというか、途中で「そんな三流社会評論のような『文学』的な雑感を抱きながら」みたいに言ってる箇所があるくらいには、それこそ世相を斬るブログのパロディとして受け取ることができてもしまう。そういうふうに読めばわりと「ブログっぽいもの」11として妙なおもしろさがむしろある文章になってるのが、なんというか、ずるい。いろんなものがゆるくつながってくるさまがいいし、そしてなにより、そういうなかで「高尾」「高尾症候群」のふっと浮いて出てくるようなところとか上手いんよな……。「内容」が第一義じゃないっていうその内容からすれば、内容はこれでよくて、かつスタイルとして出来上がってるという見方は可能なわけだ。だからしてやられてしまったのかもしれない。

いや、どうだろうね、穿ちすぎでしょうか。でも、なんだか妙な体験ではあった。あとやっぱこういうこと言うのめちゃくちゃみっともないな。


  1. いつもだと「古栗せんせい」とか馴れ馴れしげに書いてしまいがちなんだけど、今回の内容からしたら最低限ちゃんと改まったほうがよさそうなので呼び捨てにする。そのわりには文体がフォーマルじゃないって? そうね。
  2. とはいえそれこそ前掲のsave_asさんみたいに出るもの全部を読んでるようなファンというわけでもないのだが。本書をそれまで知らなかったくらいのもんである。
  3. 厳密にいえば(先ほどの紹介文/本書最後の注釈にあるとおり)随筆/エッセイというには(まったくフィクションではないにせよ)虚構の度合いが高く、あくまで「随筆の形式」ではある。内容からすればそこはあまり重要ではないんだけど、とはいえスタイルについて考えるなら無視できないところでもあるので難しいな。
  4. 「客観性」といってしまえばいいのだろうし、本書のなかでもそう表現されているんだけど、この「客観/主観」みたいな語をカジュアルにつかおうとするとどうしても正当化の有無についての判断と視点(一人称/三人称)についての判断が癒着してしまうので避けたいんだよな。本書における「専門性」みたいな言い回しも(ちゃんと説明されてはいるんだけど)ややワイルドカードじみていてちょっと苦手。
  5. つづめていえば、うま太郎は広い意味でのTPOに合わせてどんな書き方でもできるような太郎である。/それはそれとしてこのエントリ、いま見返すと概念理解にけっこう混乱があって恥ずかしいな……いやまあちょっとは学んでこれているのだとポジティブにとらえておこう……。
  6. もちろん、自分のモチベーションはまったく比較にならないほど卑近ではある。そして、そういった方法論のみがまさに「文学としてすべきこと」かどうかはよくわからんし、ほんとに達成できるものなのかについても定見があるわけではない。
  7. おれが考えとるくらいやからそこまで珍しい考えかたでもないやろというか、それこそこのての宣言(ある意味での「科学的」手法の話)は『The Poetics of Science Fiction』の序章でも高らかに謳われてたくらいだ。たとえば以下とか: "A scientific poetics of literature, informed by modern linguistics, can do everything that literary criticism can do, with the advantage that it is rigorously analytical, differentiates between producing interpretations and reflecting on them, and is open to informed debate. Only some literary criticism is able to do all this."
  8. あたりまえの話なんだけど、なにかを読んでこうやって「おんなじこと考えてるな」というふうに思ってしまうときっていうのはだいたい危ないタイミングだ。そもそもなんらかのかたちに書けるってことはそれ以上のことを考えてるに決まってるし、しかも「おんなじ」わけはないのだから(上の脚注でも触れたとおり実際違うし)。まあでもそこは……(こないだの『苦手から始める作文教室』のときとおなじく)とりあえずそう思っちゃったというの自体は事実なんだから、いったん正直になってもいいことは……たまには……あろう。……実際ちょうど同じ時期くらいにマルコフ連鎖でのワードサラダ生成にハマってたのは笑ったし、それにそれに!「異端的または尖鋭的な創作」とはなにかという話について出てくる「虚構に対する虚構感」ってのはまさにこのへんに通じる話だよね……?
  9. というか知ってたでしょ。そりゃ、ここでも書いたとおりたしかにまだちょっと「ちゃんとした」学問として確立されてるかは微妙かもしれないともおもうけれど……。/そういえばちょうどもちょうど、認知言語学の大御所っぽい先生によるそのへんの本がもうすぐ出るっぽいので読んでみたい: 小説の描写と技巧 山梨 正明(著/文) - ひつじ書房 | 版元ドットコム/それはそれとして/認知どうこうは置いといても、生成過程だとか生み出す効果について考えるという点でいえば、(等閑視されてきたという言い分に反して)ナラティブの分析とかだって山ほどされてきただろうに、そういうものに触れられることもとくになかったんだよな。触れないなら触れないで、どうしてそういうものでは不足なのかの掘り下げは見てみたかった。
  10. 自分の世代的なものなのかもしれないし、あるいは実際にそれが幅をきかせているような環境?にいなかったからかもしれない。そのへんはなにかしら熱弁を奮うべき内的な理由があったのかもしれないが……。
  11. おれはレリス『幻のアフリカ』もブログっぽいって言うくらいこの言葉を安売りするからみなさんはちょっと割り引いて受け取ってください。

2023-05-18

独学やっていて、やっぱりしんどいなと思うときはある。まあまあある。このブログを継続的に読んでくれているような奇特なひとならわかるとおり、最近はフィクションがどうのとかこうのとかいうものを読んだりしているわけだけど、自分はこのへんのどの分野についてもプロパーな形で学んだことがないものだから、どれがうまい方法なのかとか、なにが基礎にあたるものなのかとか、手探りで進まなければならない。ちょっとした疑問に答えてくれる先生や先輩もいなければ、議論につきあってくれる同輩がいるわけでもない(そこのあなた!なってくれてもいいんですよ!)。明後日の方向に行っちゃってんじゃないかという心配はいつもある。実際すでにそうなのかもしれない。ちょっと深掘りしようと思ったら誰もとくに教えてくれないような英語の文献しか見つからなくて、ひいひい言いながら読んでみるけれど、わからない。その分野自体のわからなさなのか英語のわからなさなのかもわからなくなってくる1。なにもわからないが適当につなげているだけなんじゃないかという気になってくる。いや、実際そうなんだろう。なるべくなら、独学しなくてすむほうが、なんだかんだいいんだよ。少しのことにも先達はあらまほしき事なり。

そりゃまあ、手探りには手探りのおもしろさがあるし、気楽さだってある。やる気がなくなれば、おもしろくなくなればいつやめたっていいし(逆にいえばなんだかんだでおもしろいと思うからやってるわけだ)、またやりたかったらやればいい。到達点だって好きに設定できるし、なにか「正しく」学ぼうとする必要もとくにない。いつまでかかったっていい、どんなペースでやったっていい。それに、仕事として研究しているような人のやってることを本買うくらいのコストで読めるのっていいよね。俺のためにもどんどんみなさんがんばってくれたまえよ。けれど、それでもなあ。ある程度強制力がないと必要な基礎が基礎として成り立たない、根気が必要なものだってやはりある。そういうものをどうしたって避けがちになってしまう。それで構わないのだけど、それで構わない範囲にしか手が届かない歯痒さだっていつもある。

このへんをちょっとでも解消しようとするなら……いろいろあるんだろうけど、たとえばコミュニティだったりするもんなのかな。上にも書いたように、ちょっとした意見交換ができるだけでもきっとだいぶちがうんだろうとは思う。もちろんなんだかんだいって、専門としてやるわけでもない程度のもので同じくらいに興味が合って、かつふつうに話せるっていう場をつくるのはどう考えたってそんな簡単なことではない。インターネットのこの時代にあってもそうなのだよな。書いてるひとはいる(というか自分も、まあ、だから、内容が怪しかろうが書いてはいる2)。読むだけならすごくハードルが低くなった。そういう人がいるんだよということを知れたのはインターネットのおかげだし、いまでもやっぱりインターネットの好きなところではある。けれども、やりとりするハードルはそこまでは下がってないんだろうなと思う。いやそのわりには不義理が多くないか? そうですね……すんません……。ちょっとまた最近ドタバタしておりまして……。勉強ならできるとういうのは変なんだけど、一人での活動はやっぱやりやすいんだよなあ〜。

次回は眼高手低について書きます。


  1. たとえば、哲学の分野だとSEPくらいのものでもふつうにきつい(最近だと https://plato.stanford.edu/entries/impossible-worlds/ を読んでた)。いやそりゃきついもんだろというのはあるんだけど、それにしたってさあ。
  2. ついでにいえば、こういうことを考えるからこそ、明示的に言及することを気軽にやろうと、最近改めて考えてはいる。もはやトラックバックの時代じゃねえんだけど、それでもね。