夜のみだらな雨と月

まずは最近読んだ本の話から。

夜のみだらな鳥 - ホセ・ドノソ

夜のみだらな鳥 (フィクションのエル・ドラード) *1

どちらが果たして真の現実なのか、分からなくなりました。内面の現実でしょうか? それとも外部の現実でしょうか? 現実がわたしの脳裡にあるものを造りだしたのでしょうか? それとも、わたしの脳裡にあるものが、この眼前のものを造りだしたのでしょうか?

むちゃくちゃな本だった。

内容、そして特徴についてはまっきさんによる記事に詳しく、不足も付け加えるところもない。あらすじ(よくこんなきれいにまとめたものだと舌をまく)はもちろん、このあと触れる妄執と現実の関係や入れ替わり/簒奪についても端的に触れられており、実際に本書を読んだあとに読むとまさにそのとおりだとわかる、と思う。

わかると思う一方、実際に本書を読んでいない人にとって、これだけでは本書の異常さがわからんよなとも思う。いや、「異常な出来事が起こる(ように読める)」のはわかるんだ。たとえば、「起こった」らしいことのタイムラインを引こうと試みても、とうに死んでいるはずの人間が「その後」らしき時系列に当たり前のように現れるなどし、さくっと破綻すること。全体に通底する入れ替わりのモチーフがいつのまにかモチーフでなくなり、実際に「起こって」いるかのように読むしかなくなること。ただ、それだけならば「妄想が現実と混淆するんでしょ。境目がね、そうそう、曖昧になって。よくあるあれッスね知ってる」したり顔のお前は誰だ。出てくるんじゃない。そうじゃないんだって。この本がどうにもおかしいのは、そもそも混淆どころの話ではないところにある。「異常な本である」ことを伝えるのはちょっと難しい。

さて、以降の話の前提として、本書とそれをとりまく環境として以下の3層構造を仮定することにする(いろいろ物語理論の話とか引いてくればいいのかもだけれど、そこまで精緻な話ができるわけでもないので……許してくれ……)。一般的に、上のほうがベースになり下が生み出される形になっている。

  1. わたしやあなたの世界における現実
  2. 1を何らかの意味でベースにした(でないと小説は書けないし読めない!)作品世界のなかでの現実。その客観的な叙述
  3. 語り手による2に対する主観的な叙述。本書における「妄執」

リアリズム小説であれば、1と2がおおよそ一致するだろう。いわゆる幻想文学であれば、2が1から乖離している/乖離していくさまにおもしろさの一端がある。場合によっては3が強く出てきてそれが2に影響を与えることもあるかもしれないが(先述の誰かが言ってた「混淆」はこれか)、この場合も2と1の対比が焦点になってくる。マジックリアリズムみたいなお話であれば、1と2の緊張関係、往還に一般の幻想文学からきわだった特徴がある(このへんの整理はこちらに詳しい)。

話の流れからわかるとおり、本書にはこれらにあてはまらない特徴がある……あると感じたから変な小説だと、思った(本来本書もマジックリアリズム作品として分類されるのだが、それはそれとして)。まずは、最初に挙げたまっきさんの記事で(『百年の孤独』との比較として)端的に述べられている以下の点をとっかかりにしよう。

百年の孤独』はマジックリアリズム=どれだけ非現実的なことがあっても最後には「リアリズム」に落ちつく客観的描写・文体を徹底していたが、『夜のみだらな鳥』は主観的な描写・文体を突き詰めている。一人称の語り手による語りのなかで、過去/現在、自己/他人との区別が次第に失われていく筆致は見事である。

百年の孤独』は先述したマジックリアリズムの特徴のとおり、2が1から離れていったあとで1に引き寄せられる。その重力があの本のおもしろさのひとつだった。一方本書は3をベースに語られており、2は(われわれの1の知識をもとに)「たぶんこんな感じか?」という形で読み手が想像するしかない。三人称が出てきたりもするけれど、あくまで妄執の論理に回収される叙述としてしか読むことができない。だとすればばふつうは、2をそれなりにしっかり措定しておいて、3と2の落差を際立たせようとしがちではなかろうか(1と2の差異を強調することの応用だ)。実際本書の場合、冒頭と結末あたりはこれに近いことをやっており、実際に効果を上げている。だが、それだけでこのページ数はもたない。もっとほかのものがある。

ここでポイントとなるのが「一人称の語り手による語りのなかで、過去/現在、自己/他人との区別が次第に失われていく」という話。いや、失われていくこと自体は珍しくないのだけど、ここまで述べてきた事情、および、語り手であり主人公である〈ムディート〉=ウンベルト・ペニャローサが(自称)作家であり、彼が本書の叙述を組み立てていることと組み合わせるとちょっと特異な話になってくる。いったいどういうことか。手掛かりが自分の感覚にしかないため正直うまく説明できる気がしないのだけれど、ちょっとがんばってみよう。

そもそも、作家がなにかお話を書くとき、あるいは伝記などのノンフィクションを書くとき、そこで書かれる世界は現実をアンカーにしていなければならない。「でないと書けないし読めない!」だ。妄執もしかり、いかにその内実が現実から離れていこうとも、きっかけ自体は現実であるほかない。だからこの2つは似ている。のだが、決定的に異なる点もある。前者の場合は、それが小説であれ伝記であれ、その表現のしかたがどうであれ、書き手は書かれる世界全体を俯瞰できる視点から逃れられない。どのような焦点化を選ぶにせよ、書き手としては俯瞰できている状態を作る必要がある、作らざるをえない、作りながら書くしかない。現実をアンカーにすることと同じくらいどうしようもないことではある、と思う。もちろん、もう一方たる妄執はそうではない。妄執のなかの論理にかなっていればよく、逆に原理的に俯瞰することができない、俯瞰していると信じ込むことが精一杯だ。作家としてのウンベルトはまずそこで引き裂かれる(ウンベルト自身もこれが妄執であることを知って書いていると思う)。自己と他人と神をすべて取り込んでいくように見えても(お話を書くことはしぜんそうなることなのだ)、実際には妄執であるがために、自己以外の視点が入りこむことは不可能だ。ただ、本書ではその外部たる「現実」がドノソによって描かれないため、読み手がそれらの違いを区別できない。

さらに、本書でしつこく繰り返されるモチーフ──黄色い犬や魔女、インブンチェの怪物、入れ替わり──これらすべては、序盤で語られる魔女の伝説が下敷きになっている。伝説というからには実際とても強固な物語であって、作家であるウンベルトは、妄執という観点からも、作家であるという観点からも、その重力から逃れられない。現実をアンカーにすべきなのか、強固な物語をアンカーにすべきなのか(そうそう、だから、先述の「現実をアンカーにしなければならない」には「(現実をアンカーにした)物語をアンカーにする」も含まれる)の間でも、やはりウンベルトは引き裂かれている。結果、物語によって現実が捻じ曲げられることそのものが、さも現実のように描かれることになってしまう。

彼は「現実」をアンカーになにかを書こうとするが、それは同時に物語の重力に絡めとられ、その結果出てきた叙述はすべて妄執であると判じるほかないが、だからこそ彼にとってそれは「現実」でもあり……

本書はしばしば悪夢のようであると形容されるけれど、これはたしかに夢っぽい、というより「夢を文章として書き出すこと」に似ている。ただ、ウンベルトはその夢から覚めることができないのだから、「見ている夢を、その場で文章として、夢の外に書き出すこと」に近いかもしれない。だから、それ自体が悪夢なんだよな……

……というわけで(まとまったことにする)、上掲のまっきさん以外の記事から3つ挙げておきます。いずれも海外文学強者たちのレビューだぞ!(いつも楽しみにしています!) 読んでへんのはお前だけ!

雨月物語×SF

で、『夜のみだらな鳥』の話に乗じてというか、ほんらいの意図としては実は逆なんですが、告知だ。 みんなだいすき『雨月物語』を下敷きに、SFで再解釈した9編を載せた合同誌『雨は満ち月降り落つる夜』に参加させていただきました。詳細は以下、まずはこちらを見てくれ。

https://www.sasaboushi.net/ugetsu/

また、雨月物語そのものの魅力や各話の内容については主催の笹さんのエントリに詳しい。さらに、(本記事投稿時点では前半分のみですが)掲載作品全話レビューもあるぞ!(4/22追記:後半も公開されました!

以下、せっかくなので私もざっくり感想じみたものを書きます。

「ノーティスミー、センセイ!」(笹帽子)

「願い事インジェクション」「クロス賽銭スクリプティング」といったパワーのある語彙が重なるポストシンギュラリティなサイバーセキュリティSF。笹帽子さんの軽妙な会話劇っていったいどこから出てくるんだといつものように恐しく思いつつ、そのうえに「じゃあいったい、そんな世界でのAIの恨みってなんだろね」というテーマが乗っかってくる堂々たる巻頭作。

「飛石」(cydonianbanana)

温泉地を訪ね菊花の約の二次創作を書こうとする主人公、つまりそのまま筆者自身という構造となっていて、そこから創作が現実を固定する話にSFっぽい説明が加えられ、本作自体が湯けむりのなかに収斂する。ばななさんの小説はメタ構造が特色であることが多い印象なのだけど、そのなかでもとくに完成度の高い一作になっているように思う。

「荒れ草の家」(17+1)

雨月物語の魅力のひとつに、説教臭いなりの下で舌を出すところがある。本作の元ネタである「浅茅が宿」も「待ち続ける」という「美点」が持ち上げられているようなそうでもないような話だ。本作では待ち続けるものがいったいどうすべきかというところに意外性のあるアンサーが提出されており、今回の作品群のなかでもいっとう雨月物語の精神を体現したものだと感じた。

「回游する門」(Y. 田中 崖)

みんなも好きだよね、おれも好きだよ、わちゃわちゃした軽快なSFアクション。ちょっとした引っくり返しもありつつ、だんだんその設定にも必然性が出てくるとさらにワクワク感が増す。ゆうたらこれも機械生命体の魂の話で、やはり軽快さを保ちつつ希望のあるオチでとてもいい。舞台となる都市から細かな言い回しまで、しっかりメカメカしさを通していてそれもうれしい。

「boo-pow-sow」(志菩龍彦)

ひと夏の物語っしょ!百合っしょ!はいこれ! ってことで、広い意味での怪異譚であることをまず提示しつつ、そこにSFっぽいガジェットをとりこんで、うまくしんみりさせてくれる一品。いやほんとに「一品」という感じでシンプルにまとまってるんだよな。短編かくあるべしである。

「巷説磯良釜茹心中」(雨下雫)

ひるがえって、こちらはむしろ最初SF色が濃いのだけど、徐々に肝が冷える感じ。もともとの「吉備津の釜」の主人公じたいかなり人間くさいというか、ホラーの登場人物らしいある意味憎めないクズっぽさがあるのだけど、こっちもこっちでしっかりそう。ところどころトンチキに見える展開が見え隠れし、しかしそれが不思議に収まっていくところが怖さにつながる。

「月下氷蛇」(シモダハルナリ)

シモダハルナリ……いったい誰なんだ……。

「イワン・デニーソヴィチの青頭巾」(鴻上怜)

あの収容所文学が「青頭巾」の世界にどうやって……そう、異世界転生トラックを介して繋がるんだ。そこがいきなり良すぎるんだよな。語り口はあくまでロシア文学(の翻訳)っぽさを維持しているのだけど、そのまま日本の怪異譚が語られるズレもまたおもしろい。そしてなんとなく抹香臭いオチだからこそやっぱり雨月物語っぽいと感じるのがまたうれしい。

『斜線を引かない』(murashit)

で、最後が私のやつで、なんでこの雨月物語×SFの話のマクラに『夜のみだらな鳥』の話をもってきたのかというと……というところを書こうとしたのだけど、ここまででなんとなく感じていただけるんじゃないかと……いや無理か。ひとつ言っておくと、『夜のみだらな鳥』はこれまでみてきたとおりオブセッションの話ですし、『雨月物語』の怪異を生むのもやはりオブセッションだ。だから「貧福論×情念経済」としました。ほんまかいなって? ぜひ実際に読んで、君の目で確かめてくれ!

*1:水声社の本であり、Amazonでは版元からの販売がないため注意してください

劇場版 のんのんびより ばけーしょん

「劇場版 のんのんびより ばけーしょん」むちゃくちゃ良いんですよ。泣けたから良いと言うつもりなどさらさらないんですが、ともあれ自分はボロ泣きしてしまったんだよな……。

nonnontv.com

どうしてだったのだろうか。

そもそも「匿名的で典型的な、そしてノスタルジックな山の中の田舎」という舞台がもうひとりの主人公たる本作において、「沖縄に場所を変えて、これまでどおりのキャラクターたちが遊ぶ」という沖縄編はどこか物足りなく、原作においてそこまで好きなエピソードというわけでもなかったんですよね。4、5回に分かれ、それでも紙幅が限られている漫画版だとどうしても仕方のないところではあるのですが。

で、そこにオリジナル展開を加えて70分ほどのアニメーションにまとめたのが本作なわけですが、この「問題」をどうにかするとなった際に、夏海のシリアスな面を出すというのは自然な流れだとは思うんです。舞台の不足を補う……いや、けっして沖縄が魅力的でないという意味ではないのですが、「登場人物としての田舎」が不在であることを補うという意味で。

ただ、夏海に真面目な顔をさせる話って、そのままやってしまうと単に「なんか居心地が悪いな……」みたいになっちゃいがちなところでもあると思います。そこをを逆手にとってくれたのが本作で、その居心地の悪さが夏海とあおい(オリジナルキャラクター)との距離のとりかたの緊張感に反映されているんですね。まずここがむちゃくちゃ良いんですよ。

この居心地の悪さに慣れる……というより、丁寧なエピソードの積み重ねによってこの夏海の感情が自然に感じられるようになるのとシンクロするように、彼女たち2人の距離も近づいていく。もちろん、れんちょんも小鞠せんぱいもほたるんも、あおいとの距離がちぢまる。とうぜんのことながら、最終的に別れなければならないという古典的な悲劇の前提のもとで。

そして終盤、(原作を読んでいる方ならご存じのとおり、本作にも)夏海とひか姉が帰りたくなくて泣く「ギャグシーン」があり、その場はひか姉がいるおかげで原作どおり「型としては」ギャグとしてオチがつくんですが……って、ここからはさすがに言わんとこうか。実際に観ていただくとして、なんだろう、夏だったんだよな、越谷夏海っていう名前は伊達じゃないよ。

もう一点、じつはもとの舞台である「田舎」が忘れ去られているわけでもない(「『登場人物としての田舎』が不在」と言ったな、あれは嘘だ!)という話もあります。

というのが、「田舎」と沖縄(竹富島)とをつなぐモノとして、れんちょんのスケッチが出てくるんですね。具体的にどんなふうに出てくるのかは、これも実際に観て確認してほしいんですが、沖縄のなかで「自分たちの田舎」をその都度思い起こさせ、対比させるはたらきをしてくれている(さらに言うと、自分の記憶が正しければ、沖縄パートにおいてはおそらく意識的に夕暮れどきの描写がオミットされていて、帰宅時の「山間部の夏の夕焼け」と対比されていたように思う)。

先述のとおり、そもそものんのんびよりっていう作品は「匿名的で典型的な、そしてノスタルジックな山の中の田舎」の話です。いっぽう、本作における隙のない美術で描かれるのは「竹富島という実在の、典型的で、エモーショナルな夏の海」のイメージです。

正直なところ、SNSなどで流れてくるエモーショナルだったりノスタルジックだったりする夏のイメージには「もうええやろ」という気持ちがありました。あったはずなのですが、この対比のおかげなのか、さらに個人的な話として「山間部の子が海を見るときの驚き」に共感(共感!)してしまったからなのか、あまりにストレートな2つの夏にノックアウトされちゃったんだよな……へへへ……。少なくとも種々のエピソード(これは原作にもあった良さですね)や美術の細部における「夏」のイメージの補強にまったく手抜きがないというのは間違いないところだとは感じています。

ということで、とりあえず2点、言葉にはしてみたのですが、例のごとくうまく表現できているとはまったく思えません。思い切り雑に言うと、前者は(とうぜんこの言葉はあまり使いたくないんですが)百合が好きな人が好きそうなところのような気がしますし、後者は文字通り(とうぜんこの言葉はあまり使いたくないんですが)エモい夏が好きな人が好きそうなところのような気がします。

……いかんな、締めが妙に冷笑的なイメージになってしまった……実際に泣いてしまったぶん照れ隠しだと思ってくれ……「劇場版 のんのんびより ばけーしょん」、なんたって、めちょくちょ良かったので……。

日記をはじめる前に

久しく「日記」のようなものを書いていなかったので、ここらですこしやってみようと思った。

いや、実はもうちょっと理由があって。自分が置かれている環境の変化についてインターネットに書いていないことが、ひどく気にかかるようになってしまったのだ。そもそもの話として、自分には、プライベートのことや仕事なり学業なりのことをインターネットで進んで話したくないという想いがいまだにある。話すとしても、すでに思い出になってから。はじめてインターネットに触れたとき、そこにあったのが偶然にもそういうタイプのインターネットだったからというだけの話なのだが、それをいつの間にか内面化していたわけだ。ただ、いつまでもそれだけでインターネットをできるわけでもなかったようで。同じアイデンティティのまま長くやってりゃそうなるわという話なのか、それとも「プライベートでも仕事でもない領域」というのが狭まってしまったのか。どちらもあるのだろうけれど、ともかく、プライベートや仕事というものをあきらかにしないで話をしていると、どうもやりにくいと感じることが増えてきた。単に不自然なのではという気持ちになってしまうことが増えてきた。

まあ、それでも、騙し騙しやってりゃよかったのかもしれないけれど……そうは問屋(人生卸売市場だ)がおろさなかった。直近の「環境の変化」が大きすぎて、これまでのアイデンティティを保ち続けられる気がしなくなってしまったのだ。より正確に言うと、いまこれを書いている現在、自分ではそれほど大きな心境の変化がある気はしないのだけど、これからしばらくして振り返ってみれば「あ、ここで変わったな」と認識せざるを得ないだろうという確信めいたものがあるということ。そうなれば、自然、やりづらさは増大するにちがいない。そうです、端的に申し上げますと、つい先日、子供が生まれまして。

いや、親になれば人間変わるよねというだけの話だと早合点しないでほしい(結局それだけの話に回収できるのだろうが、それだけだったらわざわざ書かない)。たしかに子供はかわいいもので、というか小さい生き物はだいたいかわいいので、まあ一般的な意味でかわいいんだが、それで自分が変わった気はしない。たとえば、根が幼稚園児のためうんちが好きという事情もあり、おむつを変える作業が非常に好きなのだが(「よっしゃうんちやな!よっしゃよっしゃ!」)、それはあくまで日常の中の楽しみ、「うん、これは生活だね」という心持ちだ。昼間赤子につきっきりだった妻に先に寝てもらい、居間のゆりかごに寝ている赤子の横で静かにゲームしながらミルクをあげるタイミングをうかがっている時間も、「うんうん、これも生活だね」という感じで、ただ単に愛おしい生活というだけだ。ここで書く気はないが、もちろんしんどいことだってある。よくないことをしたな(あるいは、「なにもしなかったことがよくなかったな」)ということだってある。ふと、「ああ、出生させてしまったんだ」と思うこともある。ただ、しつこいようだが、それらはあくまで生活であって、それ以下ではないが、それ以上のものでもない。生活。生活はこれまでもずいぶんやってきた。真新しいもんでもない。アイカツみたいなもんだ。アイカツみたいなもんか?

人間が変われるのは環境が変わったときだけで、自分はいままさに環境が変わったばかり。そして、みずからの変化をその時その場所で自覚できることはほとんどない。あとから見つけることができるだけだ。そんなこと、誰もがわかっているのだから、いま、あえて、強いて、私は変わりそうですと宣言する必要は本来ないのだが(「私は変わります」と宣言することはまた別の話だ)、いま僕(この一人称を使うのは小狡いことだなあ)は、自分が変わることの恐怖に、これまでにないくらい怯えているらしい。環境の変化をこうやって公言し、言い訳にようとするくらいには恐れているらしい。ただの生活のなかで。

だからどうしてほしいというものでもないし、翻って、赤子は赤子で待ってくれたりももちろんしないのだけど、せめてこのブログを自分に追いつかせる必要がある気がして、ここまで書いてみたら、今日のところは、これ以上は書くことないやという気持ちになってきました。だからこれは「日記」ではないな。

ま、(走り出すかは置いといて)とりあえずここが再度のスタート地点ということで、ひとつ。


追記:公開して読み返してみると、自分に酔っているのはいいとして(いいんだよ!それくらいじゃなきゃブログなんて書かれへんやろ!)、娘(本文に書いていなかったが女の子である)や妻への思いやりのかけらもない、自分のことしか書いていない文章であるなと思った。が、まあここは僕のブログであるからして、自分語りに終始してもいいっしょ。そういう気持ちは直接伝えればいいっしょ。いいっしょ!それもまたアイカツっしょ!

構造素子 - 樋口恭介

読んだ本の話を迂闊にする、いいね?

構造素子

たいへん良かったです

どこからはじめればいいのかわからないのですが、まずは手前味噌に、ひとことの感想としてtwitterに書いたものをとりあえず引いてきます。

『構造素子』たいへんによくて、この形式で書いていいんだというのを完成度をもって示してくれたのが嬉しくて、さらには、我々(自信を持って言っちゃう)はこれをさらにおもしろくする言葉の使い方がきっとできるんだ、この先飛び越えられる礎石にしてやらんという意味ですごく勇気づけられる感じがした

だからぜひあなたにも読んでほしいのですが、これだけだと、とくに読んだことない人とかだとなんかわからんよな。だったらそうか、読みはじめるにあたっての話から始めるとよいのかもしれません。

梗概から読む話として

どんな話かといえば、基本的には、作中作が出てきて、それが階層的に重なり語りがそれを行き来する話で、それを束ねるのが「物語」そのものであり、父と子の話である、くらいにまとめさせてください。こういったまとめ方というのは人によるもので、どこに注目したかが如実に出るよね。

よくある、説明するのが難しい小説のひとつではあるのかもしれません。そうなると、ははあ難解なのかなという雰囲気が急に出てきます。でもそうじゃなくて……いや、どうしても気になるなら、巻末に示された梗概が非常によくまとまっているので、先にここを読んでしまうのはどうでしょうか。読んでみれば構造としてはそれほど複雑なものではないことを了解できるでしょう。そして、べつにこの構造を読み解いていくことに本書の楽しみはない……と言ってしまってよいと思います。だから先に梗概を読んだらいいと思うんです。

構造/モデルの話は前提にあって、でもそれだけじゃなくて……

ただ、この梗概がよくできすぎている。これは本書にとって必然なのですが、ほんとうにこの梗概どおりの小説であり、そういう意味では説明するのが非常に簡単な小説でもある。読みはじめるにあたっての話とか言っていたが、ここからいきなり本題に入ります。

言ってしまえば、梗概だけ読みとってしまえば本書を読むことの半分は完全に達成されるとさえ言えてしまう、と僕は思いました。梗概で示されるこのモデル、この構造にのっとってこのひとまとまりの小説が書かれていることそのものが、本書が達成した一側面であった(と僕は考えた)からです。言い方を変えると、梗概がこうやって(今ここに梗概を示せないから「どうやって」なのかわからないと思いますが、雰囲気を感じてくれ! 頼む!)すっきりと書けること自体がすでに一つの特徴なんです。構造/モデルが簡潔に完結し完成されている。

構造が重要だったり重要でなかったり、いろいろな小説があります。が、たぶん自分はどちらかというと構造が好きなほうの人間で、あと言葉は人並みに好きな人間で、その結果、文章を読んでるときなどに、粗筋とかキャラクターとか表現の良さとかよりも、たとえば図式的な構造と細部の形式との呼応などに必要以上に反応してしまうところがあったりしそうです。

ただ、じゃあ(それを評すときも含めて)構造語りをされているのを読むのがおもしろいかというとそうじゃないんですよ。構造を示すのであれば最初から図を書けばいいわけなんですよ。そして図を鑑賞すればいい。それはきっと、十二分に楽しいことで、みんなで図を持ち寄って鑑賞しあい感想を言い合いすることをぼくはしたいし、なんならそういう雑誌とか本とかwebサイトとかあるとよいよな……図式文芸がしたいよ……そうなってくると、もはや「なんで言葉を使ったものを図式に還元しなきゃならんのよ」という話になる。

そこで、「もちろんその構造とやらはあくまで半分であって、もう半分こそが小説の本文そのものに立ち現われているものではあります」という話にはなります。図式の話をからめると、冗長である本文。部分的には書かれなくてもよかったものであるものが全体に及んでおり、70パーセントなくなっていても成立するだろうし、逆にさらに冗長に、500パーセントに増えていても成立するものである本文。書かれなくても書かれても、さらに書き加えられても良かったものが小説としての体をなしていることがもう半分の側面です。われわれはじゃあ、どうして言語なんてものをつかったお話を読んでいるのかというのは、(本書のなかでも答えが出るような出ないような形で放り出されていますが)自分にとってのそれは、さっきちょっと触れた「呼応」をもうすこし一般化したものです。

冗長でさえある本文を書くこと、その豊かさ

さて、先ほどのを逆に言えば、構造だけではない面白さがあることが、わざわざ言葉なんて使っている理由ではありましょう。当然ながら喋り方は構造に従属するものではあるんですが、わりと雑に言えば、構造に対してさらに喋り方をかけ算できるというのがそれです。

(そういえば、新規な構造というのを考えるのがうまいという人といえば円城さんかなという感じはありますが、ただ、こと語りの部分にほとんど常にいちばんシンプルなものを置くので、そういう意味では、やや前記の図式でええやんの話につながってしまう気もしないでもないです。いや、めっちゃ好きなんですけどね)

少なくとも僕はそうなんですが、そしてそれなりにそういう人たちがたくさんいることを僕はインターネットなり書籍なりで確認しているんですが、その関連の先に沃野があるということを、けっこう前からずっと思ってくれていたんじゃないでしょうか。いや、昔の小説みたいなものだってそういうのあるだろうとか言うかもしれないスけど、それが最優先にされるところをメインストリームの一部として持ってこようとしたものはなかった……ということにしてくださいッス。無制限の実験場にしたところはちょっと知ってると思う、それはともかく、あったらぜひ教えてください。

(円城さんの話を出したからさらに続けるんですが、ここ数年で読んだもののなかでは、今回の話に比較的近いのは、上田さんの『太陽・惑星』だったようにも思います。が、喋りがべらぼうにおもしろいわりに、構造が未完成な気がしてしまったんだよなあ……)

ええと……なんの話だっけ、そうだ、僕は、僕たちは、そのかけ算の豊かさをずっと指向していたのでした。ただ、少なくとも僕には自信もなかったし、馬鹿にされるのが怖かったし、なにより力も根気もなかった。

(あと、ついでに軽薄に言ってしまうんですが、なぜか本書を読んだときに、感触として近いのはなにかと思ったときに、最初に思い付いたのは埴谷雄高でした、なぜだ?)

そんななかで、やり方としてはまさにそれでしかないという意味で完成されたものがここに現われたんですよ。しかも、ここで現れる構造/モデルは、どこかに仮構したものの上に立ったわけではなく、仮構することも含めた物語る宇宙全体を扱ったモデルである。いきなり志が高いな。じゃあ、よろこばしくないわけがないじゃないですか。

その一方で実は、喋りは不完全だったとも思いました。ただ、だからこそ、すべてを覆いつくすものでなかったからこそ(というか、それは責めるべきところじゃなく、原理的に不可能と思うので、そりゃそうなんだけど)、この豊かな平原のうちの基準点として現れてくれた。これがあれば、僕らはそこへ自信を持って踏み出すことができる。距離を測るにも方位を測るにも、この地点pがあれば僕たちは恐れずにいられるんだという、そういうものであったと思うんですよ。

総評

ここで示されるモデルは良い意味で単純で、かつ意欲的な構造になっている。構造に関していえば、完成されていることはなによりも外せないのですが、とはいえそれは完成していればよいのです。まずそれがある。そして評価の尺度になるのは、ここで示されるモデルに従ったと思われるこの語りがベストなものかどうかという点で、僕はベストなものであるとは思わなかった。おう、なんだったら、この構造なら俺のほうがうまく喋ってやれるよとか言っちゃおうぜ。ただ、こういうこをを言えるのは結局本書があってくれたからってことです。きちっと一つのモデルを示し、それにもとづいて書き切ってくれたんだから。これを書いていいんだという勇気を与えてくれたのだから。この沃野を進んで、開拓していくであろうこの先が楽しみになってくる、そんな一冊でした。

ちょっとあとで書き直すと思うんですが、いったんこれで提出させてください。

ゲーム、ゲーム、そしてゲーム(あと、もうすこしゲームともうすこしの告知)

最近読んだ本の話です。

ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム - 赤野工作

ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム

作者はもともとニコ動で有名な方であり、本書ももとはカクヨムの有名作品なのでご存じの方も多いかもしれません。舞台は来たるべきドラえもん後の時代、2115年、「過去の『低評価ゲーム』をレビューするブログ」という体裁をとったフィクションです。「過去」というのはつまり、現在2017年からは未来にあたります。したがって、これからの100年間に発売されたゲームを扱うことになる。現代であれば長寿も長寿、未来であればそこそこに老いぼれの書き手(著者自身の延長なのですが)が、数十年前のゲームを思い起こして語ってくれるというわけです。

未来の技術(とそれにともなう社会)があれば、いっしょにゲームをしてくれるアンドロイドだっているだろう、脳内物質を直接操作してくれるゲームがあるだろう、ゲノム編集で細菌を戦わせるゲームもあるだろう、拡張現実で怪談だって生じるだろう……と、ゲームのレビューが語られるのですが、これ、そう、ブログなんですよ。「固有名詞に絡めて過去の記憶を語る」というのがひとつのテンプレートであるところのブログがそのままここにある。

未来の技術がゲームを通してどのように表出しているかを読むのももちろん楽しみのひとつなんですが、みんな、エモが見てえんだろ? ここで語られる書き手の「自分」はいつまでもゲームをしていたい、いつまでもゲームを楽しみたいという(もはや人間である必要もない)意識のかたまりです。ここにはそれがある。なんたってブログだからな。過去の甘い思い出にまつわる、現在のむきだしの欲求にまつわる、未来への無根拠な不安にまつわるエモが。

ブログです。というわけで、「固有名詞に絡めて過去の記憶を語る」というテンプレートの話をしたいということもあって、次の本の話に進みます。

ゲームライフ - マイケル・W・クルーン

ゲームライフ――ぼくは黎明期のゲームに大事なことを教わった

タイトルにあるとおり、ゲームの話ではあります、少なくとも、ゲームがきっかけになる、ゲームを通じた話ではある、しかしゲーム主体の話かといえば、そこまででもない。ゲームを発端/媒介にした思い出が綴られる、自伝的なフィクションとノンフィクションのあいだのような本です。これもよく言われてるみたいですが、読んで受ける印象はIGN Japanの名連載「電遊奇譚」にたしかに近い。

基本的には少年の日の思い出です。みなさんも国語の教科書でヘッセの「少年の日の思い出」を読んだことありますね。あれです。ゲーマーというほどじゃないけれど、ゲームが好きだった少年の、基本的にはじめじめした思い出のお話。それはゲームを発端/媒介にした思い出話だと言いました。重要なのは、発端であるだけでなく、媒介でもあるということです。

たとえばコマンド入力型のテキストアドベンチャーなら、ゲーム内で行動するために自由なテキストを入力可能なこと、あるいは限られた命令を使ってしらみつぶしに組み合わせたテキストを入力すること、そういった「行為」の問題。たとえばダンジョン&ドラゴンズとそれをもとにしたビデオゲームバーズテイル2』なら、物理法則に支配される現実の本質である数値化とそのやりとり、そしてそこから必然的に生じる「490ポイントのダメージってなんなの? いったい何が起こっているの?」といった問題。たとえば『ウルティマ3』であれば2次元で表されたマップを通して外界を見るだろうし、第二次世界大戦を扱っている『ビヨンド・キャッスル・ウルフェンシュタイン』あるいは第1作目の『Call of Duty』なら歴史とはこういうものだと定義しなおされる。

そうやって、各々のゲームのエッセンスを通じて個人的な思い出が描写される。それどころか、過去の現実への認識が、すでにゲームのそういった本質を通じた、ないしは絡みあったものになっている。

これって、ゲーム以外でやろうとしてもできない、ないしはきわめてむずかしいやりくちでしょう。なぜならゲームには、インタラクションがあり、ルールがあり、シミュレーションであるという側面があり、楽しむものであるという側面があり、最適化問題という側面があり、もちろんナラティブも文化も技術もあって、そんな広範なものをすべて兼ね備えている、固有名詞を持ったコンテンツというのは、実はほかにはほとんどない(もちろん、たとえば身体性という面では舞台芸術よりは弱くなるなどといった事情はあるのだけれど、やはり広範さについてはゲームに分がありそうにおもえます)。

さっき言ったテンプレート、ありますね。「固有名詞に絡めて過去の記憶を語る」。ブロガーにとっても記憶を語るやり方一般として、この「固有名詞」をゲームに定めるほかに、なかなか正しいものはないとおもえませんか。つまり、「ゲームに絡めて過去の記憶を語る」ことがブロガーの強力さなんだ。

ゲームの王国 - 小川哲

そして、記憶とゲームが絡んだもうひとつの本の話に移ります。

ゲームの王国 上 ゲームの王国 下

これもあらすじが必要か。ええと、まず、この本はカンボジアを舞台としています。最終的にメインとなるのは2人の人物なのですが、語り口としては、さまざまな登場人物の視点からエピソードが描かれるというもの。ある意味では群像劇と言えるかもしれません。上下巻に分かれており、上巻はクメール・ルージュの、下巻はいまから5年ほどあとの時代ということになっています。苛烈な赤狩り、あるいはクメール・ルージュによる虐殺を通して少年少女の若いころを描いたうえで、後半はいっきに時代を移すというわけです。少年少女はすっかり成長し大人になっています。ひとりの政治家の躍進があり、それを阻止したい(と、いちおう簡単に言ってますがもうちょい事情は複雑だったりします)大学教授がなにを考えなにをするのか……というところに結実します。あらすじ下手だな。友人におもしろかったアニメの話をするのも苦手なんだよな。

さて、なにが「ゲーム」の王国なのか。本書において重要になってくるゲームのエッセンスは、「ルール」です。ゲームには(改変するためのメタルールも含めて)ルールがあります。ルールを遵守する、侵犯する境界があります。その境界は、メタルールによるもの、そうでない外部的な要因などなどによって移動します。境界があるということは、盤の向こうにいる対戦相手を殴ってキングを取るなど、ゲームが無効になる、補集合としての行為があります。もちろん、多くは楽しさだったり、時には恐怖だったりするような、そのゲームをプレイする動機、ないしはルールに従わせているものもあります。そういった、ゲームの本質のひとつである「ルール」のさまざまな側面を、手間をかけて徐々に政治だったり生きることそのものに投影させていくのがこのお話の上巻でもあります。政治を公正なゲームとする、というのが政治家になる彼女が目標とするところだからです。

そういった準備を経たうえで、ようやく記憶と「実際のゲーム」が絡みます。先述の大学教授と、その学生たちとで作るビデオゲーム「チャンドゥク」が登場するのです。チャンドゥクは脳波を用いて操作するFPSで、たとえば、さまざまな脳波≒精神状態に反応してさまざまな魔法を発することができます。「楽しい」と感じると回復したりもする。当然、プレイヤーは勝ちたい、強い魔法を発したいですよね? そのためにはどうするのか。個人的なマントラを唱えて精神状態を制御することもできるのですが、もっともわかりやすいのは「過去の記憶を思い出す」ということです。

必然的に、現実の過去とそうでない過去が混淆しはじめます。強い魔法を出そうとするなかで、記憶が錯覚されはじめます。たとえば自分には妹がいなかったはずなのに、妹のでてくる記憶を呼びおこす、あるいは無意識に呼びおこされる。まるでそれが自分にあったかのように錯覚することになる。したがって、そのゲームのキャンペーンモードによってプレイヤーの過去(の断片的な記憶から生まれる印象)を操作できることが示唆される。お話としては、大学教授はこれを使って、政治家の躍進に対して最後の抵抗をしようとするのですが、それはともあれ。

自分には、記憶というのは特権的な概念であり、アイデンティティを構成するそのほかすべての要素はこれに従属するんじゃないかと考えているフシがあります。記憶というものがあるかぎり、人間はテセウスの船にはなりえない。単純に言えば、自分というのは過去の記憶のことだと。現在のむきだしの欲求にまつわる、未来への意味もない不安にまつわるエモはすべて過去から生ずる。ことここに至り、テンプレートたる「ゲームに絡めて過去の記憶を語る」は「ゲームと不可分に絡まった自分を語る」ことになります。


『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』において、過去に楽しませてくれたゲームの思い出によって、未来においてもゲームを楽しみつづけたいと考え、過去を賭けて人工脳移植を決断しようとします。『ゲームライフ』では過去についての語りがゲームという体験を通さずにはいられないものとして現れます。『ゲームの王国』においては「ゲーム」と「自分」との主従があいまいになります。そして、ゲームの持つ最も重要といってよいエッセンスである「ルール」の話がじわじわと人間の生に対応付けられているのを見ていけば、「ゲームを語る」のがブロガーのテンプレートでいいんじゃないかという気さえしてきます。

だんだん牽強付会になってきたな……。ゲームを語れと言いたいというところに辿り着いてしまったんですが、それでいいのだろうか、そうでもないような気がするぞ……。

廻廊 - ねじれ双角錐群

そんなわけで、告知です。ずいぶん久しぶりに小説(たぶん小説)を書いて、同人誌に寄稿させていただきました。ゲームの話にしようと決めて、ひいこら言いながら書き終わってから、上記の本を読みました。牽強付会になったのはそのせいであって、仕方のないことだったんだよ!

では、以下で詳細をご覧ください。梗概も載ってるよ。

https://nejiresoukakusuigun-kairou.tumblr.com

本来ならば掲載作の感想など書くべきなのでしょうが、もはやちょっと長くなりすぎました。ここまで長々と読んでいただいた方なら興味を持っていただけるはずですよね! 2017年11月23日(木祝)、文学フリマ東京 E-19のブースに、みんな来てくれよな! 僕は当日行けません! ヨロシク!

東京日記(その1)

正月のうちに書こうと思ってたんだけどなんやかんやで抵抗があったのかもしれない、でもなんか、Twitterで書くと言っておいて書かないのも癪なので書きますけど、たぶん機が熟してきているはずだと思っていたのにそうでもなかったのあなという感じで思い直しつつもあることを書きますけど、そうです、大学院を辞めたときの話です。

ずいぶん記憶が薄れていますから、ひとまず順を追って話すのがよいのかもしれません。そうだ、書きながらまとめていくスタイルだ!


遡ること6年前、僕は意気揚々と……とはいかない、むしろ不安をもってこの地東京にやってまいりました。都会に出てきたいんだと思った末に京都を選んで、イヤーコリャ都会ジャと思ったのも束の間、やっぱり東京というものに行ってみなければ日本における都会のことはわからんぜよという気持ちが、今になって思えばいちばん強かったのでしょう。大学院生になるというのが名目だった──そして名目でしかなかったのが最終的に災いしたのですが──けれど、東京ってどんなところやいっちょ見てやろうじゃないかとやってきた東京(くるり)とそれにともなう勃起不全、そして少々の山手線一周を携えて住みました北区は王子。とりあえず春? 春はなにがあったっけかなーと思ったけど、どちらかというとインターネットにおける交流をオフラインに展開することの楽しさを知った時期だった気がします。

話が脱線するんですけど、個人的にはオフレポってどうしも書きたくないんですよ。いや、読むのはべつにいいし、会った人が書いてくれたりなんかすると嬉々として何度も読み返したりするんですけど、自分ではできるだけ、会った人のことを書かないでおこうと。書いてもらったのを読んで嬉々としてるんだったら汝の欲するところを為せよコノヤロウと謗られるかもしれないのですが、これたぶん昔すごく好きで読んでいたテキストサイトオフレポになったとたんぜんぜ面白くなくなった(ように感じた──予防線)からなんだと思うのですけど、自分にはこういうのを面白く書けるのだろうかと振り返ったときに無理だなっていう感じがどうしてもしてしまうというか、僕のオフレポなんか読みたいですか? そんなわけないですよね。僕も僕のオフレポなんか読みたかないです! えっ、僕のブログなんて読みたくないって? ここまで読んでるお前が何を言ったってそんなことは聞いちゃやらねえぞ。

閑話休題。そんな感じで、勉学というよりは、おお、人なんだなと思ったというのが2009年の前半なんだったんじゃないかという気がする。けっこうリアルな人と人との関係というのを見直したという殊勝なまとめ方になる。勉学・研究というよりはと断わったということからも分かるとおり勉学・研究としては散々であった。散々であったというか、あからさまに散々の片鱗が見えた。そもそも朝起きられないという生活習慣の問題から、だいたい東京来る目的が東京に来てみたいということだったところからしてなにを研究するかなどあいまいで、そりゃうまくいくわけねえだろという気がする。ハードワーキングする気ももともとないのだから同情するアレがない。というわけで2009年の前半は終わった。研究室の先輩がたとは楽しくやれていたように思うがそもそもインターネット人格がバレたというのは痛かったような気がする……が、今となっては後悔していないです!(私信)あと、夏の愛媛はいいところでした。

さて、2009年も後半になってくると、そういった諸々がだんだん重みをもったものとして響いてきます。いままでは誤魔化せていたものが誤魔化せなくなってくる。なんにも進まないしなんにもしない日々が続いて、たしか11月に入ったくらいだったかしら、しばらく研究室に行かなくなったことがあった。行かなくなったねー。ひきこもって何をしていたのかも正直あんまり思い出せない。アニメ見てたのかな。しばらくインターネットからも姿を消してみるあの手法を駆使することによって研究室の先輩に心配をかけてしまったということで(心配をかけることが嬉しいという気持ちが自分になかったという発見があった)、ちょっとがんばろうという気持ちを見せつつ年を越したり越さなかったりした。年末にインフルエンザに罹患し中間発表を休んだのは、仮病だったんじゃないだろうか、たしか、いや、よく覚えていない、もしかしたらほんとにインフルエンザだったような気もする。普段から嘘をつきまくっていると(言霊とかそれによる無意識の支配とかじゃなく)そのバリエーションのためにだいたい嘘じゃなくなるという瞬間がホイホイやってくるというのが持論である。病的につまらない嘘をつく癖はいまだにある。が、このときは結局インフルエンザだったのだという状況証拠がさっき出てきたのでたぶん実際そうだったのだろう。年を越した。

年が明けて、研究もなにもできていないにもかかわらずとりあえずをとこもすなる就職活動というものをしてみんと(略)した。わりと素直で保守的な人間なんでわりと普通にやった。というか研究室もう行きたくないという感じになっていたのでなんかやる気? が? 出た? 感じだった覚えがある。わりと普通にスーツ着てあっち行ったりこっち行ったりしていた。普通に内定出た。某鉄道会社であった。

なんかここまで書いてみて思ったけど、大学院を辞めたことの検死解剖にはまったくなってないな、まあいいか、あとでやろう。で、そうだ、そのころにはもう年度が変わっていたということになりますがそこからがだいぶつらかった。たぶんいちばんだいぶつらかった時期なんだと思うのでちょっと詳しく思い出してみることにする。待て次回。

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ネカマしてチャHをする高校生ディスプレイにはクリトリス映え

アメコミの少年少女が雨のなかイカした墓碑銘パッヘルベル

サイバネの父が死んでも催さる砂漠の祭りの場面いくつか

ゴミ箱が曖昧になりビールの缶散らばった末築くこのアレ

美少女にリモコン向けられ電源を消さるブラウン管は俺の目

コロニーの黒板の下に残された黒板消しが学習をする

黒ペンで書いた図形を消すために赤いペン持ちカタカナ書いた

明後日の警句を埋葬するために夏の日差しに集う面々

エンジンを作るためには都市の肉集めて捏ねて魂入れて

遠い日に敷かれた道路の路肩には65階で夜這う老人