クリティカル・ワード ゲームスタディーズ(第2部・第3部)についてのメモ

承前。

murashit.hateblo.jp

引き続き第2部と第3部について。

第2部:キーワード編

第2部はトピックごとの数ページでの解説。どうしても気になったのは、五十音順にフラットに並んでいるだけの構成であること。もちろん、各キーワードを(数ページというかなり厳しい紙幅のなかでさえ)多面的に論じているぶん素直に分類するのは難しく、なんなら誤解の生じるおそれがあるのはわかる。わかるけど、入門書という位置づけを考えれば、多少強いてでもマッピングを示してほしかったというのが自分の意見です。

せっかくなんでぱぱっと分類してみたのが下記。

  • ゲームを構成するもの
    • 技術:エミュレーション、音・音楽、VR、プラットフォーム
    • 表現:アイテム、アバター/プレイヤーキャラクター、NPC、物語
  • ゲームの経験
    • 体験:学習、ナビゲーション、没入、マジックサークル
    • プレイヤーによる実践:RTA、ゲーム実況、チート、ユーザー生成コンテンツ
  • ゲームと社会
    • 社会的課題:アクセシビリティと障害の表象、ジェンダーとセクシュアリティ、ゲーム行動症、倫理
    • 文化と産業:インディーゲーム、ゲーミフィケーション、スポーツ、ツーリズム
    • 研究と保存:アーカイブ、批評、歴史記述(ゲーム史を書くこと)

たしかにやっぱ無理くり感が出ますね……。

ともあれ、以下ざっくばらんに。

  • 「アバター/プレイヤーキャラクター」について。このへんは普段から気になっているところなので改めてのまとめとして助かった。最近自分で読んだものだとシングルプレイヤーのRPGにおけるクィアなプレイの可能性について論じてるStenros and Sihvonen(2020)1がおもしろかったのだけど、ちょうどそこで引かれているものとも重なっていた。ブックガイド編にあるショー『ゲーミング・アット・ジ・エッジ』も参考
  • 「没入」について、研究史のなかで「没入の誤謬」(サレン&ジマーマン)が警戒されていたというのはちょっと意外だった。自分もたんじゅんな「没入」観に抵抗のあるほうなので共感するけれど、とはいえライアンやマノヴィッチの見立てにピンとくるかというと微妙だな……とか、難しいところである2
  • 「物語」について。おおざっぱにいって物語論的な方向性とフィクション論的な方向性があるよ、みたいな整理のこと、ほんともっと早く知りたかったぜ……自分はむかしあんまり区別がついておらず論文とか読んでもピンとこないことがよくあったんだけど、この見立てに気づいてからはだいぶん読みやすくなったという経験があるので……(なお、自分はどっちかといえば後者のほうにより興味があると思う)
  • 「倫理」について。これまでゲーマーのジレンマについて考えるおもしろさがあんまりよくわかっていなかったんだけど、現実のレーティングの話題にも繋がってくると考えればたしかに気になってくるところがある
  • あと、「アイテム」や「ナビゲーション」みたいな項目があるのがけっこうおもしろい。素朴に考えているとあんまり出てこなさそうで、でも当該項目を読んでみるとたしかに興味深いんだなという感じだった
  • 一方で、「アーカイブ」や「アクセシビリティと障害の表象」3あたりはほんとに大事なはずなのにスルーされがちでもあるところで、それがちゃんと立項されているのがうれしい。みんな読んでほしい
  • 「VR」とか「ツーリズム」とかの項目は限られた紙幅のなかでのまとめ方がうめえとか、「インディーゲーム」とか「歴史記述」あたりは取り組んでいる人による気持ちが見え隠れするよなとか、そういうおもしろさもある

第3部:ブックガイド編

ここは基本的に年代順に並んでいる。研究者ならともかく、そうでなければ(参照されているからには最低限のところ理解しておきたいくらいのモチベーションで)いまさらホイジンガやカイヨワから読みたくねえというのが正直なところだろうから、ここにあるまとめだけ読んどくでもひとまずOKという感じではないでしょうか。サットン=スミスとかヘンリクスとかも含めて遊戯論系はとっかかりのなさがちょっとしんどいのもあるのかもしれない。

こちらもざっくばらんに。

  • スーツ『キリギリス』:さっき「まあ原典に手を伸ばさんでも……」といったばかりなんだけど、これはマジで変な本でおもろいのでみんな読んでほしい
  • ファイン『共有されるファンタジー』:まったくノーチェックだったのだけどめちゃくちゃおもしろそうやんけってなった。1983年の時点で、TTRPGの参加者が生活者であること/プレイヤーであること/虚構的キャラクターであることに同時にコミットしてる(ときには取り違えも起こる)みたいなのがちゃんと観察されて記述されてるっぽいのがすごい
  • マレー『ホロデッキ上のハムレット』:没入とか行為者性みたいな語の使われ方を辿ってくとどうしても通らざるをえないんだよなとか、ジェンキンスの有名な環境ストーリーテリングの話もちゃんとここに源流があるよなとか思ったり。あと、有名なテトリス解釈はちょっと難癖つけられすぎでしょみたいなところ、ちょっとウケてしまった
  • オーセット『サイバーテキスト』:(オリジネイターのひとりなだけに)どこでも参照されてるやつ。「エルゴート的」はおおむね「インタラクティブ」なのかな〜と思い込んでたんだけど、案外そうでもないかもしれないみたいなのが気になるところです。最近ちょうどNarrative Complexityみたいな概念を知って4、そっちで改めて出会ったこともあるし。これがいちばん翻訳がほしいんだよな
  • ユール『ハーフリアル』:とりあえず最初に手にとるといいよとされています
  • ギャロウェイ『ゲーミング』、ボゴスト『説得的ゲーム』、コンサルヴォ『チート行為』:このへんもたびたび出てきて翻訳ほしいやつだ
  • タヴィナー『ビデオゲームの芸術』:珍しく、つまみ読みながらも読んだことあるやつ。たしかにこれもよく参照されているのを見るが、日本の読者としてはとりあえず松永『ビデオゲームの美学』のほうを読んでからでよいのではないか

だいたいそんなもんでしょうか。


  1. Stenros, Jaakko, and Tanja Sihvonen. 2020. “Like Seeing Yourself in the Mirror? Solitary Role-Play as Performance and Pretend Play.” Game Studies 20 (4). https://gamestudies.org/2004/articles/stenros_sihvonen
  2. このブログでは、没入の話が出るたびにこの記事を挙げるというルールになっています!: お前らの言うImmersionのニュアンスがわからない - 青色3号 / 当該項目中でも最後にSCIモデルの話とCallejaの話が出てきていて、そこはなるほどだった。
  3. 最近でも「Switch 2 の初期設定時に音声読み上げを利用できないことに関して任天堂に送った要望の全文」などがありましたね。
  4. Barkman, Cassandra Jane. 2024. “Narrative Complexity in Videogames.” PhD thesis, Swinburne University of Technology.

クリティカル・ワード ゲームスタディーズ(第1部)についてのメモ

いままさに読んでいるところ。全体としては「理論編」「キーワード編」「ブックガイド編」の3部構成。ここではとりあえず最初の「理論編」を読みながら思ったことなどをメモしておく。

この第1部について、「はじめに」では以下のとおり紹介されている。

第1部「理論編」では、「ルール」や「メディア」、「遊び」といった、ゲームスタディーズにとって最重要ともいえる8つの概念をめぐって、4人の編者がそれぞれの見解を示した。「1つの項目を複数の著者が執筆する」というユニークな形式を採用したのは、重要な概念ほど、それを理解するためには、視点や力点の相違や多様性が有効だろう――むしろ1人の著者にすべて任せてしまうのは危険だろう――と考えたからである。読者もすぐにお気づきになるだろうが、同一の概念をめぐる解説でも、著者によって見解や力点の違いがある。[…]

じっさい、紹介されているキーワードがいずれも基本的であるぶん抽象度も高いせいか、その語によってどんな概念のどんな側面に着目したいのかがさまざまであることに(そのあとの「キーワード編」と比べても余計に)気配りがなされており、どのパートもとりあえず「多義的である」から始まるような印象ではある(少々鬱陶しい気がしないでもないが仕方ない)。紹介されている概念というか、キーワードは以下。

  1. ルール
  2. フィクション
  3. メディア
  4. 遊び
  5. エンターテインメント
  6. ソーシャル
  7. インタラクティビティ
  8. 人工物

1. ルール

担当は井上、松永、吉田。「ルール」の射程として、強制されない/明示されない/実装されないようなある種の規範をいみしたいケースがあることにも言及しつつ、基本的には素直に「ゲームのルール」といったときのそれがやはりメインか。そのうえでルールの構成性、つまり行為を意味づけたり価値づけたりするような(プレイの行為をデザインする)はたらきについて、3人が3人とも注意を向けさせているのが注目しどころかもしれない。

とはいえ(ここからはサールから離れてユールのいう制限/アフォーダンスの対比のほうに寄るのだけど)「このビデオゲームではなにができるか」を「なにをするとそのゲーム内で反応がかえってくるのか」(あるいは「どんなエージェンシーを発揮できるのか」)と言い換えてみたとき、制限-アフォーダンスをあまり明確に分離できるものでもないのだろうなと思ったりもする(というかそもそも、あくまで両面であって分離するようなもんではないか)。このへんは(吉田パートでも触れられている)ビデオゲームにおけるルールは社会法規より自然法則に近いみたいな話とも絡むかもしれないし、ゲームエンジンだったりジャンル慣習だったりのベースラインをどう捉えるかとも関係するだろうか。

そのほか、井上パートで「ルールの変更についてのルール」に関連してチーティング(コンサルヴォ)への言及があるけれど、個人的にはアップデートによる環境の変化みたいなのも気になるところではある。

2. フィクション

担当は吉田、松永。これも多義的であって……といっても、(「物語」とは直交した概念として)虚構世界上の事柄を描くものとしてこの語を使うことがおおむね共通認識といってよいはず。さらに狭めるなら、共通して名前が出てくるユールもタヴィナーも、ウォルトン的なフィクション論を明に暗に使っているといえそう。それでも、こうやって「フィクション」の用法をいったん相対化しつつ、改めてゲームスタディーズ(よりはもうちょっと広い文脈だが)における「フィクション」にクローズアップするみたいなことをいまだにしつこくやらなきゃならないこと自体が、ちょっとおもしろいところなのかもしれない。

ともあれ、松永パートで紹介されていたVan de Mosselaerの博論は気になる1。前にこの人の「Breaking the Fourth Wall in Videogames」って論文2読んで面白かったんだよな。

3. メディア

担当は吉田、ロート。ここは正直よくわかってない……。

吉田パートにあるような、ジャンル(ある種の形式)としての「メディア」という用法と、素材としての「メディア」という用法があるのはなんとなくわかる、と思う。ビデオゲームが「メディア横断的」というのは後者の用法であると。

とりあえずBartel(2018)3の「ルールのメディア依存性」はおもしろそうなのでちょっと読んでみたい。ルールの項で書いた「制限-アフォーダンスをあまり明確に分離できるものでもない」の話と関係したりする?しないか?

4. 遊び

担当は井上、吉田、ロート。めちゃくちゃおおざっぱにいえば、ゲームにはおおむねルールやマジックサークルみたいな縛りや境界があるいっぽう、遊びにはそういったものにとらわれないところがあるはずよね……みたいな認識がありそうではある(そして、それをどう価値づけるかもいろいろだ)。

井上パートの「モデル化」はたぶん、『中心をもたない、現象としてのゲームについて』で読めそうな気がする。ロートのパートで紹介されていたPatterson(2020)4の「できるからやる」の話は面白そうだと思った(が、これをアジア的とするPattersonの弁は、どうなんだ?)。

5. エンターテインメント

担当は井上、ロート。そもそも「エンターテインメント」が基本概念として立てられていること自体がちょっとおもろい。でもゲームの多様化を駆動したのはなにより楽しさ……というか、なんなら井上パートにあるとおり、技術的になにが使われているかとかより「(ゲーム的な)楽しさ」こそがその進化の軸になってきたわけで、そりゃ大事だ。

んで、いつも思うんだけど、「娯楽でなければゲームではない」みたいなのはたんに狭量だし(ロートのパートにあるように)ときに危険でもあるんだけど、かといって娯楽であることが軽視する理由になっていいわけでもないみたいなの、むずいよね。まあポピュラー文化を扱うってそういうもんか。

6. ソーシャル

担当は吉田、井上、ロート。ゲームをするって基本的に社会的営為ですよねの話。必ずしもソーシャルとはいえないところも含むし、いわゆるメタゲーミングともおそらくニュアンスが違うものの、自分も「プレイングの外のゲーミング」には興味があるんだよな5。攻略情報の収集とか、寝る前の振り返っての内省とか……。

7. インタラクティビティ

担当は吉田、井上。吉田パートで紹介されていたスマッツの「制御とランダムの中間領域」という捉えかたは直感的だとおもう。んで、ということは、ある対象がインタラクティブであるかどうかは、それとやりとりする人の知覚や経験しだいである、と。RNGを完全に自分のものとしたとき、そのゲームをインタラクティブなものとして感じられますか?6

8. 人工物

担当は井上、松永。最初「なんで『人工物』がここに入ってくるんだろうか」と思ったんだけど、予想外におもしろかった。

井上パートの「何がゲームとして見出されるのか」って問題設定はたしかにおもしろいというか、人類学がゲームスタディーズにつながる遊びの研究に先鞭をつけた(という認識でいいんだよな)ことを考えると、それはそうなんだよな。

松永パートの問いは「ゲームは(デザインされた)人工物か?」。もちろん多くがそうではあるが、伝統ゲームのように自然発生的なものがあること、プレイヤー自身がルールを作り出すケースの存在(縛りプレイなどもふくむ)、ファウンドアート的な実践、ゲームプレイそのものに備わる創発性などを考えると、一概にデザインされているとはいいがたい。シカールとかはこの点を要視してる。

いっぽうで、デザインされているものとしてみるなら、作者とプレイヤーとのコミュニケーションのようなモデルで捉えることも可能になってくる(カリーの紹介がある)。プレイの進行において「このゲームはクリアできるように作ってあるはずだ」という信念が必要になることは、じっさいあるんだよな……!

そして、ということは、「裏切り」もありうるということになる。Gualeni and Van de Mosselaer(2021)7の欺瞞的ゲームデザインの話がおもしろそう(というか、あとで読むリストに入れてたやつだった。そしてこれも、Van de Mosselaerさんだ)。このへんから「ゲームデザインの倫理」につなげるのもおもろい。

いったん以上です。


  1. Van de Mosselaer, Nele. 2020. “The Paradox of Interactive Fiction: A New Approach to Imaginative Participation in Light of Interactive Fiction Experiences.” PhD diss., University of Antwerp.
  2. Van de Mosselaer, Nele. 2022. “Breaking the Fourth Wall in Videogames.” In Being and Value in Technology, edited by Enrico Terrone and Vera Tripodi, 163–186. Palgrave Macmillan. / ここでドラフトが読める
  3. Bartel, Christopher. 2018. “Ontology and Transmedial Games.” In The Aesthetics of Videogames, edited by Jon Robson and Grant Tavinor, 9–23. Routledge.
  4. Patterson, Christopher B. 2020. Open World Empire: Race, Erotics, and the Global Rise of Video Games. NYU Press.
  5. 以前読んでたCalleja(2011)の「マクロな関与」の話がいちばん近い気がする: お前らの言うImmersionのニュアンスがわからない - 青色3号
  6. たぶん関連:「自然としてのゲーム」について - 青色3号 / というか、この話は先の「自然法則としてのルール」とか、このあとの欺瞞的ゲームデザインに関わるメタAIの話とかいろいろ広げがいがあるのかもしれない。
  7. Gualeni, Stefano, and Nele Van de Mosselaer. 2021. “Ludic Unreliability and Deceptive Game Design.” Journal of the Philosophy of Games 3 (1): 1-22. https://doi.org/10.5617/jpg.8722

きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする - ジャミル・ジャン・コチャイ(矢倉喬士訳)

You're your own man. I'm Big Boss, and you are too... No... He's the two of us. Together.

ようやく本題にとりかかることにしました。前から言ってるとおりコチャイ「きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする」そのものの話を(ようやく)してみます。

TL;DR

ジャミル・ジャン・コチャイ「きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする」は第一に、ゲームならではの、あるいは言語表現ならではの二人称代名詞のあいまいさを利用して、ゲームと小説、現実と虚構、自己と他者の境界をぼやかしながら、移民二世の複雑な経験を読者に追体験させる作品といえる。ただしそのうえで、いかに重ね合わせたとて完全な同一化や理解が達成できない「ずれ」こそが強調されているという点がより重要である。

「きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする」

もともとNew Yorker誌2020年1月6日号に発表された掌編小説で、その後The Haunting of Hajji Hotak and Other Storiesという短編集に収録されたもの。矢倉喬士による当短編集の邦訳が『きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする』として2025年の2月に刊行されており、今回おもに参照するのはこの邦訳です。

タイトルからしてメタルギアソリッドVをプレイする話なんだろうなってのはわかるはず。そして実際その通りなんだけど……もちろんゲームをプレイするだけの話ではない。アフガニスタンからの移民の息子である主人公が、部屋にひきこもってMGSVをプレイする。そのうちにゲームの中のアフガニスタンと、父親の故郷のアフガニスタンが重なっていって……といった内容。いかにも虚実が交わっていますよという話ではあるのだけど、ここで気にしたいのは(もちろん間接的には大いに関わってくるものの)直接的にはそのことじゃありません。

本作を一読して誰もが特徴として挙げるであろう文体的特徴がひとつあります。全編が「きみ」という二人称代名詞(かつ現在形)を基軸に書かれているということです1。「きみはゲームを買う」「きみは自転車に乗る」「きみは父を撃つ」。ずっと「きみ」「きみ」「きみ」。

もちろん、いまや二人称小説なんてのは(虚実が交わるのとおなじくらい)ありふれてはいます。ただ、ビデオゲームをプレイする小説であるという点で少々独自性がある。そう思ったので、以下。

本作のあらすじ

まずは後々の便宜のためにまずは簡単にあらすじをまとめておきます。

時は2014年。作中で「きみ」と呼ばれる主人公はアフガニスタン系アメリカ人の青年で、バイトで貯めたなけなしのお金で大好きなコジマのゲーム、Metal Gear Solid V: The Phantom Painを予約する。発売日に必死で自転車を漕いで帰ってきた「きみ」は、運悪く庭仕事をしている父に捕まってしまう。父はソ連のアフガニスタン侵攻時代に拷問を受けた過去があり、現在は体を壊して働けない。父とはうまくいっていないのだ。

「きみ」はそんな父からの話を振り切って部屋に閉じこもり、ゲームをはじめる。舞台は1984年のアフガニスタン。父の故郷である(そして「きみ」自身も子供のころに訪れたことのある)ロガールに近い風景がやけにリアルで、どこまで近づいてみられるのか、試してみたくなる。

行けるはずがないって? そう、そのはずだったのに……「きみ」はその村に着いてしまう。ソ連兵に殺されたはずの父の弟ワタクを目撃してしまう。だんだんおかしなことになってきた。「きみ」の父さえいる。「きみ」はまた気を迷う。拷問されるはずだった父と殺されるはずだったワタクを救出して、マザーベースに連れて行ってしまおう(それがなんになるというのか?)。

現実の兄がドアを叩く声も、虚構の祖母からのマチェットのひと振りもどうにかやり過ごし、「きみ」は麻酔銃で眠らせた父とワタクを担いで逃げてゆく。けれど救出ヘリは墜落。「きみ」は2人を担いだまま、そこにあった洞窟の奥へと進む。暗転した画面には「きみ」の姿が映り込む。まるでゲームのキャラクターたちが「きみ」の中へと入り込んでいくみたいだ。

二人称代名詞のあいまいさ

さて、二人称代名詞の話なのでした。そもそも小説あるいはビデオゲームにおける二人称がどういうものか、ここで整理しておきます。

小説における二人称

小説で「あなた」とか「きみ」を使うパターンはいくつかあります。代表例としては以下のようなものが挙げられるでしょうか。

  • 登場人物どうしが話している
    • 普通の会話、あるいは手紙や手記で「きみ」と呼ぶケース。「物語のなかの誰か」が「物語のなかの別の誰か」に向けているもの。ある意味いちばん基本的な「きみ」の使い方
  • 自分自身に語りかける/自分の様子を描写する
    • 「きみはまたやってしまった」みたいに、自分を客体化して語るパターン。内省的な語り。過去形であることが多く、一人称に置き換えても不都合がないことも多い
  • 語り手が特定の登場人物を「きみ」と呼んで描写する
    • ふつうなら「彼は」「彼女は」と語るところを「きみは」と語るパターン。読者に「きみ」のことを報告しているような形になる。ふつうは三人称が使われるような焦点化ゼロでこれをやられるとかなり不自然
  • 作者が読者に語りかける
    • 「懸命なる読者であるあなたならば……」みたいな古典的な手法。近代小説より前っぽくもあるし、後っぽくもある。典型的なメタレプシス
  • 一般的な真理を語る
    • 「汝殺すなかれ」みたいな、特定の誰かではなく一般的な「人」を指すパターン。日本語ではあまり見かけないかも

これらについて言いたいことは多々ありますが、いったん次に進みましょう。

ビデオゲームにおける二人称

さて、ビデオゲームにおいて、二人称代名詞はまた違った使われ方をします。もちろん先に「小説」でみたような使われ方をすることもそれなりにあるけれど、それにいくつかの典型例を追加できるかもしれない。

  • 操作説明
    • 「Aボタンを押すとジャンプします」「ここで右に曲がってください」みたいな。今は亡き説明書や、あるいはチュートリアルでも見かけるやつ
  • プレイヤーキャラクターの行動を描写する
    • 「あなたは暗い洞窟の前に立っている。中に入りますか?」みたいな、プレイヤーキャラクターの状況について説明するもの。TRPGや昔のテキストアドベンチャーではよくあっただろうけれど、ビデオゲームの表現力がだんだん上がってきた昨今、頻度としては減っているかもしれない。それでもTRPG文脈を色濃く残しているゲームをやってると出会うことが多いか。小説における「語り手が特定の登場人物を『きみ』呼んで描写する」に類するとはいえ、かなり受け入れられ方がちがう
  • (プレイヤーキャラクターではなく)プレイヤーの行動を描写する
    • 「プレイヤーキャラクターの行動を描写する」と比べて、いわゆる虚構的行為文により近いもの。ゲーム内で出てくるのであれば、ある程度明確にメタレプティックな感覚になる

細かくいえば、小説にもあったようなものはともかく、ここに挙げるものはいずれもフィクションに閉じているわけではないかもしれません。実際すこしややこしい議論が必要だとは思うのですが、少なくともプレイしているときに目の当たりにする二人称代名詞ということで大きくくくれはするはず。

二人称はあいまい!

ともあれここで重要なのは、これらが排反というわけではないということです。「きみ」2という文字列が目の前に現れたとき、それが誰を指しているのか、実はよくわからない。物語の中の誰かのことなのか、読んでいる自分のことなのか。いつどこでどのような立場で語りかけている……ことになっているのか。

コチャイがインタビューで言っている、二人称が「oddly intimate and alienating」であるというのは、きっとこういったことの現れでもあるはずです。親密なようで、でも距離を感じる。「きみ」と呼ばれればいっしゅん自分のことのような気がするかもしれないけれど、でもやっぱり自分じゃなかったりだとか。

二人称代名詞にはそういったあいまいさがつきまといます。

本作における「きみ」

では、本作ではこの二人称代名詞というやつが実際どんなふうに使われているのか。

作中現実の「きみ」

まずは本作の冒頭から3

まずきみは、地元のゲームストップでゲームを予約するために現金をかき集めないといけなくて、そのゲーム屋ではきみの従兄が働いていて、従業員割引でおまけをしてくれるのだけど、それでも少し予算オーバーで、というのも、タコベルのバイトで稼いだ給料は、きみが十歳のときから無職の父さんを助けるために使うことになっていて、それを思うと実用性のない趣味にお金を使うだなんて、罪悪感で耐えられそうにないし、こうしているあいだにもカブールでは、子どもたちが白人のビジネスマンや軍事指導者のために家を建てるべく身を粉にして働いているわけで──でも、チクショウ、だってコジマだぜ、メタルギアだぜ、[…]

この時点では、いかにもふつうの(内的焦点化の)二人称小説です。いかにもふつうではあるということはつまり、「自分自身に語りかける/自分の様子を描写する」にもみえるし、「語り手が特定の登場人物を『きみ』と呼んで描写する」にもみえるし、「作者が読者に語りかける」にもみえるということです。

もちろん、前者2つはともかく、最後の「作者が読者に語りかける」はかなりあやしい。あくまでいっしゅんそんな気がするだけではあって、あなたはきっとコジマの新作のためにバイトしているわけでもなければ、カブールの子供たちに同情しているわけでもない。この「きみ」はわたしのことではないと考え直すはずです。それでもいっしゅんそんな気がする。だって、チクショウ、コジマだぜ。それでもそのうえで、カブールの子供たちを気にかけていないことにも気づく、かもしれない。

きみは愛国者ではなく、民族主義者でもなく、帽子とカミーズを身に着けて歩き回り、民族楽器のタブラを叩き、お気に入りの歌手はアフマド・ザヒールと答えるようなアフガニスタン人の一員でもないわけだが、ゲーム史上で一番の伝説となり、芸術の観点からしても重要なシリーズ最後の舞台が一九八〇年代のアフガニスタンときたものだから、いざそれを手にするきみはいっそうワクワクしていて、それもそのはず、きみは長いこと『コール オブ デューティ』でアフガン人たちを撃ち殺してきたわけで、父さんによく似た顔の軍人たちが次から次へと襲い来るのを初めて虐殺したときには自己嫌悪にも陥ったけど、今では不思議と免疫がついてしまった。

CoDで自分の父に似た顔の軍人を虐殺したことはあるでしょうか。あなたはそんな経験のある読者かもしれないし、そうでない読者かもしれない。ただでも、そうですね。このへんはいかにもふつうの二人称小説です。

ゲーム内の「きみ」

話が変わってくるのはその先、「きみ」がゲームを開始したあたりから。プロローグは1行で済ませて4、以下。

オープニングの病院での虐殺を逃げ延びたきみとリボルバー・オセロットは、カブール北方の荒涼としたマップに移動して──その岩壁、舗装されていない道、黒ずんだ山々を太陽が照りつけている様子は、きみが小さい頃に現地を訪れたときの記憶とまったく同じだ──最初の任務はソ連軍の捕虜にされた仲間のカズヒラ・ミラーの居場所をつきとめて救出することなのだけど、なにしろ『ファントムペイン』はメタルギアシリーズで初めてのオープンワールドゲームだから、きみはカズヒラ・ミラーの救出はいったん後回しにして、ソ連兵を何人か殺してみることにする。

病院での虐殺を逃げ延び、カブール北方の丘にオセロットとともに佇むのは、ここまで指示されてきた「きみ」ではなさそうです。素直に考えるなら、プレイヤーキャラクターたるヴェノム・スネークであるはず。しかしそれでも、スネークが「きみ」の操作するキャラクターであるせいで、「きみ」と名指せてしまう。

そしてすぐあと、「きみが小さい頃に現地を訪れたとき」はどうか。こちらはどう考えたってスネークではありえない。これははじめから「きみ」と名指されていたほうの人物です。

じゃあ、ミラーの救出をいったん後回しにしたのは? 病院から逃げ延びるプロローグをプレイしているとき、はじめから名指されていた方の「きみ」と、ゲーム中のスネークの目的とは一致していた。けれどここにおいてはもはやそうではない。復讐に燃えるはずのスネークがそんなことをするはずはない。けれどもちろん、「きみ」が現実にミラーの救出をするわけでもない。

こんなふうに、ここから、本作の主人公とそのプレイヤーキャラクターのどちらもが、あいまいに「きみ」と名指されるようになってくる。時には本作の主人公のみを指す表現であることもあるし、あるいは虚構的行為文としてそれらが重なっていることもある。文もまたがずその切り替わりが行われたりもする5。麻酔銃で眠らせた「父さんを抱きしめて、その体はまだ強くて元気で、心も壊れていないのを感じながら、そっと静かに寝かせてあげ」ているのは、誰?

登場人物どうしでの呼びかけとしての二人称代名詞の不在

で、ここからどのような効果を生むのかの話をしていくべきなんですが、もうひとつ寄り道させてください。実はこれだけやっておいて、本作には登場人物同士で「きみ」と呼び合うシーンがほとんどありません。

とはいえ、「ほとんど」と言ったとおり、ないこともない。まず、序盤に父親につかまって会話する場面。邦訳では以下。

どこに行ってた、と父さんは尋ねる。

「図書館」

「課題はまだ残ってるのか?」

そうだよ、と君は答えるけど、厳密に言えば、これはウソではない。

「オーライ、でも勉強が終わったら下りてこい。話しておかなきゃならんことがある」と、父さんが英語で言ったのは、パシュトー語で話しかけるのをもう諦めてしまったからだ。

見てのとおり二人称代名詞が使われていないのですが、原文では次のようになっています。

Your father asks you where you were.

“The library.”

You have to study?”

You tell him you do, which isn’t, technically, a lie.

“All right,” he says in English, because he has given up on speaking to you in Pashto, “but, after you finish, come back down. I have something I need to talk to you about.”

それこそ「父が英語で話している」ことの強調であるとはいえるのでしょうか。

続いて長兄に横槍を入れられる次の箇所。

兄貴がまた来て、今度は一番上の兄貴も連れて来て、年が上なだけあって声もでかくてドアを叩く力も強くて、お前は何をやってんだ、いいかげん出てきたらどうなんだ、ガキじゃあるまいし、父さんと母さんに迷惑ばっかりかけやがってと二人そろって言ってきて、[…]

対応する原文は以下のとおりです。

Your brother is back, and this time he has brought along your oldest brother, who is able to shout louder and bang harder than your second-oldest brother, and they’re both asking what you’re doing and why you won’t come out and why you won’t grow up and why you insist on worrying your mother and your father, […]

原文ではふつうに間接話法であり、呼びかけではないことが明確です6。邦訳のほうも、父との会話に見られるようなそのまんまの直接話法でないのはそうですね(これを自由間接話法と言っていいのかどうかは正直よくわからないのだけど)。

最後に、そのあと父が部屋の前にやってくるくだり。二人称代名詞ではなく名前が使われる。

ところが今、ドアのところに父さんが来ている。

「ミルワイス?」7と父さんはとても優しく呼びかけてきて、子どもの頃にそうしてくれたみたいで、ロガールできみがインフルエンザにかかって薬も静脈注射も民間療法もダメだったとき、できることといったら痛みが引くまで待つくらいのもので、そんなときに父さんがいてくれて、あれはリンゴ園だったろうか、ベランダだった廊下、膝の上で抱いてくれて、髪を撫でてくれて、名前を呼んでくれたっけ、今の父さんはというと、質問しているみたいな調子で話しかけてくる。

「ミルワイス?」という父さんの呼びかけに、きみが返事をせずにいると、それ以上には何も言ってこなかった。

こちらはもちろん原文でも同様に直接話法。わざわざ「名前を呼んでくれたっけ」とさえ言っている。先ほどの父との会話と対照的でもある。

二人称代名詞ないし名前を使った登場人物間の呼びかけは見る限りこれらの箇所のみで、じゅうぶん意識的に使われていることがわかるのではないでしょうか。

本作におけるあいまいさの効果

閑話休題。この「きみ」のあいまいな使われかたが、どんな効果を生んでるのか。

媒体間の慣習の重ね合わせ

まず、小説とビデオゲームとでは二人称代名詞に対する慣習の違いが悪用されています。ゲームのほうはインタラクティブなフィクションであるという性質上、小説では不自然に感じられたような二人称代名詞の使用がより自然なかたちで慣習化されているという事情がある。そして、それがそのまま小説で使われている8

ほんとうはそんなのおかしいのに。だからただの二人称小説ではなくて、ビデオゲームでは自然なのに小説では不自然であることこそが利用され、自然さと不自然さをないまぜにしている。

その一方で、実は(少なくとも現代的な、それこそMGSVのような)ビデオゲームではこのように重ね合わせられないということにも注意しておく必要があります。考えてみてほしいのですが、ゲームをプレイしているとき、画面の中にはプレイヤーキャラクターがいて、画面の外には自分がいる。視覚優位であり続ける現代のビデオゲームにおいてこれを表現しようとしても、主人公とディスプレイ中のプレイヤーキャラクターを重ねることはできない。

言語しかない小説であれば、「きみは父を撃つ」と書けば、それがどの「きみ」なのか、あいまいなままにしておける。そういう手管もある。

モチベーションのずれ

重ね合わせるということは、差異を強調することでもあります。あるいは、没入できないことの重要性といってもいいかもしれません。

ふつうのゲームなら、最初に設定が提示されるはずです。「あなたは復讐に燃える傭兵です」とか「世界を救う使命を帯びています」とか。なんたってお前はビッグボスだ。だからプレイヤーはその設定を受け入れて、そういうキャラクターとしてプレイする。

でも本作の「きみ」は違う。いきなり「きみ」と呼ばれ、タコベルでバイトして、父親との関係に悩んでて、でもゲームがしたい。読者はコジマなんて知らねえかもしれないし知ってるかもしれない、タコベルでバイトした経験なんてないかもしれないしあるかもしれない、アフガン系じゃないかもしれないしそうかもしれない、そう思いながらも、自分でプレイもできないまま、主体性を奪われ「きみ」として読み進めざるを得ない。ある程度は重なりうるけれど、まったく同じであることはありえない。

ここまでは先にも述べたことで、でもでもだから、ここが大事なところなんですよね。「きみ」と呼ばれても完全には同一化できない。父の故郷を救いたいという動機も共有できない。ゲーム内でソ連兵を撃つことの意味も、アフガン系アメリカ人の「きみ」と、(おそらく)そうでない読者では、ぜんぜん違う。

だからこそ、その差異が強調される。よく「ゲームに没入する」っていうけれど、ここにあるのはむしろ没入の不可能性なんですよね。「きみ」として読まされるけど「きみ」になりきれない。

同様に、「ずれ」はゲーム内でも起きている。これも先ほど触れたとおり、ゲーム内のスネークは復讐に燃えているはずです。9年間の昏睡から目覚めた、仲間を殺されすべてを奪われた男なのだから。でも「きみ」は違う。ミラーの救出を後回しにし、出来心で父の故郷を探しに行ってしまう。

これだっておかしいんですよ。ゲームのストーリーとプレイヤーの行動が完全にズレてる。スネークにとってはロガールにある村なんてなんの意味もない(そもそもゲーム内に出てこない)、スネークは過去を変えたいだなんて思ってない。だのに「きみ」は南下し、さらには父と叔父を救おうとする。

ただし、こちらでは「きみ」が実際に操作しているという点において、先ほどのいかにも小説的なずれとは意味合いが異なってもいます。それに(もちろんそんな不思議なことは起こらないつったって)ゲームでそういう、キャラクターのモチベーションと異なるプレイをするのはすごくよくあることだよね。

もっと言えばMGSV……というかMGSというシリーズじたいがこういう代理関係や多重的なアイデンティティを扱うゲームであって……と、この話はもっと続けられるのですが、MGSVのネタバレになってしまうし本作では(確実に意識されているとはいえ)陽には扱われていないため触れないでおきます9

できなさの話をもうすこし

最後にもうちょっといいですか? もはや二人称とはそれほど関係ないのですが……。

総じていえば本作は、移民二世として、父の歴史的トラウマを理解したいけど理解できない、癒したいけれど癒せない、そのできなさを、ゲームという形で理解し、あまつさえ転覆させようとする話ではあります。で、「きみ」という二人称で語られると、それが可能なような気がしてくる。だって、ゲームの中では「きみ」は自由だから。時間を巻き戻すことも、死んだキャラクターを生き返らせることもできる。

そのうえで、本作は“「TO BE SAVED.」(救いセーブを求めて)”と締められる。本作ではゲームセーブへの言及が出てこないんですよね。であれば「きみ」は時間を巻き戻すことも死んだキャラクターを生き返らせることもできない。できるのは、「きみ(と父とワタク)」が「きみ」の内側へ、それを求めて旅をするだけ。あるいは、きみの内側にセーブすることなら?


つい盛り上がって説得を諦めてしまった。まとめます。

本作は第一に、ゲームならではの、あるいは言語表現ならではの二人称代名詞のあいまいさを利用して、ゲームと小説、現実と虚構、自己と他者の境界をぼやかしながら、移民二世の複雑な経験を読者に追体験させる作品といえます。ただしそのうえで、いかに重ね合わせたとて完全な同一化や理解が達成できない「ずれ」こそが強調されているという点がより重要です。つまり(ものすごく通俗的にいえば)二人称代名詞は、なりきれそうでのなりきれなさやできそうでのできなさをつうじてほかのだれかの経験を「セーブする」ためのデバイスだったというわけです。

……なんか普通のこと言ってんな。以上です。

文献情報

  • 原書など
    • Kochai, Jamil Jan. 2022. The Haunting of Hajji Hotak and Other Stories. Viking.
    • コチャイ, ジャミル・ジャン. 2025. 『きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする』. 矢倉喬士訳. 河出書房新社.
    • Kochai, Jamil Jan. 2020. “Playing Metal Gear Solid V: The Phantom Pain.” New Yorker, January 6, 2020. https://www.newyorker.com/magazine/2020/01/06/playing-metal-gear-solid-v-the-phantom-pain
  • 現在読めるまとまった評。いずれも参考にさせていただいた
    • 矢倉喬士. 2020. 「メタルギア畑でつかまえて――ファントムを描く短編小説『Metal Gear Solid V: The Phantom Pain』をプレイして」. 『Real Sound』, 2020年9月10日. https://realsound.jp/tech/2020/09/post-616406.html
      • 初出時の矢倉さんによる評。当時これを見て読んでおもしろいとなっていたのであった。コチャイのインタビューもこちらから辿ったもの
    • 古泉函数. 2025. 「ぼくは『きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする』をプレイする――伊藤計劃とジャミル・ジャン・コチャイにみる〝メタゲーム的リアリズム〟の実践と倫理」. 『genkai』 6: 33-47.
  • そのほか
    • Carlson, Matthew, and Logan Taylor. 2019. “Me and My Avatar: Player-Character as Fictional Proxy.” Journal of the Philosophy of Games 2 (1): 1-19. https://doi.org/10.5617/jpg.6230
    • 大岩雄典. 2020. 「物語に『外』などない:ヴィデオゲームの不自然な物語論」. 『LOOP映像メディア学』 10: 37-108.
      • 物語に「外」などない - 大岩雄典 - 青色3号
      • 小説にかんしてはフルデルニクあたりから追えばいいんだなってのがわかったのもあるけど、関連してDigital Fiction and the Unnaturalをみつけたのがでかいか。本記事では結局再演あたりの話をしきれなかった
    • Ensslin, Astrid, and Alice Bell. 2021. Digital Fiction and the Unnatural. Ohio State University Press.
      • 第5章で直接的に二人称を扱ってくれている。これまでの(不自然な)物語論での二人称についての議論がまとめられたうえでデジタルフィクションでの使用についても検討されていてありがたい。「二人称代名詞のあいまいさ」を軸にしたのは本書のおかげだが、ちゃんと倣っているとは言い難く、正直わりと雑に取り入れています……
    • 中井秀明. 2013. 「二人称小説とは何か――藤野可織『爪と目』とミシェル・ビュトール『心変わり』」. https://nakaii.hatenablog.com/entry/20131107/1383813217
      • 書いてくなかで、昔おもしろく読んだこちらを思い出した。上記とあわせて二人称の使われかたの参考にさせてもらった
    • Papale, Luca, and Russelline François. 2019. “‘I am Big Boss, and you are, too…’: Player identity and agency in Metal Gear Solid V: The Phantom Pain.” G|A|M|E The Italian Journal of Game Studies 8 (2). https://www.gamejournal.it/?p=3920
      • MGSVについておさらいしよう!

  1. もうひとつ、基本的に一段落につき一つの文で書かれているという点もあるのですが、今回は扱いません。というか、こちらについてはちょっとはかりかねているところがある。途切れられなさ、没入の表現とか言えなくもないんだろうけど……。
  2. 曖昧さの点では単複どちらでも使えて関係性も問わない英語のyouがいちばんひどくて、日本語の「きみ」はどうしてもそのへん偏りが出てしまうところはある。
  3. 断りのないかぎり本文からの引用はKochai(2022)または矢倉訳のコチャイ(2025)による。また、すべての強調は引用者による。
  4. これを書くためにこないだMGSVの最初だけ久々にやってみたのですが、ほんとは1行で済ませられないくらいに長いプロローグではある。ほんとほんと!
  5. って書いてようやく気づいたんですけど、文を途切れさせないことの意図の一部はここにあるのかもしれない。
  6. もう1箇所、祖母にマチェットで切りつけられたくだりでも、邦訳では「屋敷に大勢いる男たちに向かって、あんたたち、さっさと目を覚まして、寝込みを襲う卑怯なロシアの暗殺者アサシンを迎え撃っておくれ、と号令をかける。」となっている箇所もあるにはある。ただこれも同様に、原文だと “calls for the men in the house, of whom there are many, to awaken and slaughter the Russian assassin who has come to kill us all in our sleep.” としか書かれていないんですよね。
  7. 実はここ、New Yorker掲載時の主人公の名前(あるいは少なくとも、呼びかけたときの呼称)は「Zoya」だったのが、短編集への収録にあたって「Mirwais」に変わっている(はず)。いろいろ考察しがいがあるところなのかもしれんけどここではスルーします。
  8. ゲームブックみたいなのを小説で再現しようとしたしょうもない(しょうもねえよ! だって! おれだって! 小学生のとき! 友達のUくんといっしょに! ゲームブックを作ろうとしたよ!)やりかたではなく、あくまでゲームプレイを描いているのがポイントや。
  9. さらにさらに、MGSVがこういう「民族」やその土地、なにより言葉(本作において主人公の父が、母語ではなく英語を話していたことを思い出そう)に意識的なゲームであるというのもそうだとかいくらでも数え上げていけるけど、それをやりだすと記事がもう1本必要になってくるよな。

物語に「外」などない - 大岩雄典

「きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする」について考えたいと思っていて、そのための準備シリーズ第2弾1。今回は以下の論文について。

大岩 雄典. 2020. “物語に「外」などない:ヴィデオゲームの不自然な物語論.” LOOP映像メディア学 10: 37-108. 2

実は公開されてた当時すぐくらいに読んでいて、おもしろそうだと思いつつもあまり理解できている気もせず……という感じだったのだけど、あれから多少なりとも勉強が進んできたのもあり、それこそ今回の件に活かしやすい話なこともあって、ちょっと腰を据えてまとめてみようという感じに相成りました。

おおざっぱにいえば、ジュネット的な枠組みのもとでの物語論が慣習的なコミュニケーションや擬人化、視覚主義の重力に引っ張られすぎていたことを反省して再定式化した「不自然な物語論」を紹介し(第1節および第2節前半)3、これはビデオゲームの分析にも活かせるかもね、という可能性を提示する(第3節)もの。わざわざそういう慣習に抗うことの意義についても触れられている(第2節後半)。

物語論、むずい

ジュネットっぽい物語論とひとくちにいっても、扱う範囲がめちゃくちゃ広い。ここでの批判の対象は、さしあたり「叙法」と「態」です4。前者はあれだ、焦点化がどうこうってやつ。後者だと、たとえば語り手が物語世界の中にいるのか外にいるのか(語りの水準)みたいなあれですね。

オタクは物語論を勉強しがちでありわたしもその例に漏れないのですが、あの焦点化の分類とか語りの水準の二分法みたいなのって、どうすかね、勉強してみて、どうにも釈然としないところが残ったりしなかったでしょうか。なんかいまいち整理されていないというか、概念がうまく直交してないというか、余分な概念や足りない概念、恣意的な分類が混じってるみたいな雰囲気がどうしてもするというか……。たいていの場合は素朴で使い古された「一人称」「三人称」でもさして問題はないし、あえてちゃんと叙法と態を区別して考えたいようなややこしい対象だと(とりあえず適用してみることができたとしても)「いやなんかもっとややこしいことやってるよな」となってしまいがちというか……。

いや、これはきっと自分がよくわかってないせいであってとくだん本論文の話じゃないですね。でも多少は理由があったのかもしれない。そうだといいな。いいのかな? まあでももしかしたら、ジュネットが人間を標準的なモデルにし過ぎていたせいなのかもしれない、というところで、以下ようやく論文そのものについて。

焦点化について

ざっくりいえば、「(作者ないし「語り手」が)誰の視点に沿って情報を述べているのか」5というのが「誰に焦点化しているのか」の意味するところなのでした。それによって、焦点化ゼロ(誰にも焦点化していない、いわゆる神の視点)だったり、内的焦点化(特定の人物の知覚や心理にもとづいている)だったりに分類できる、と。なんなら、それが移り変わっていったりもする。

で、ここで問題にしたいのは「誰の」の部分です。よくよく考えてみれば、このとき人間的な知覚を持つもの(動物だったり「カメラ」だったりも含む)を想定する必然性はないはずなんですよね6。結論からいえば、焦点化というのは「虚構世界内の情報へのアクセス制限のしかた」として(離散的ではなく連続的なものとして)抽象化できるはずなのです。

もちろん、まあ、お話ってね、人間を扱いがちなんでね、アクセス制限のフィルターとして(つまり知覚のモデルとして)慣習的に「誰か」を用いちゃおうとするのは、それはそう、なんだけど、それでも、そうじゃない「不自然」な物語はいくらでもありうる、げんにある7。もっといえば、いわゆるキャラクターの存在を言説に対して先立たせるのではなく、フィルターとして機能している、一貫性を持って組織化された知覚や無知の特定のパターンとしてキャラクターのアイデンティティを見出したほうが、うまくいくことだってあるだろう。

語り手について

語り手についても同様に考えてみる。やはりおおざっぱにいえば、そこでどういう人称代名詞が使われているかはさほど本質的じゃなくて、だいじなのはその語り手がいまどこにいてどういう立場で喋ってんのかのほうじゃん、というのがジュネットのいってたことだったはず。

ただ、ここにもやっぱり特段必要のない前提が混じっているのではないか。そもそも語り手って、ほんとに要ります? ある種のダイクシスが使われるといかにも存在しているように見えてしまうけれど、それはふだんのわれわれのコミュニケーションの中での「(誰かからの)報告」として読んでしまう傾向がわれわれにあるからなだけって考えたっていいはずなんですよ。一人称と三人称なんてのは容易に取り替え可能で修辞的効果にすぎないってのが物語論の基本的な立場なんだから、その選択は作者がおこなっている(そのように創作している)というのが素直です8。そうしたときに、作者とはべつの「語り手」なんてもののあることを(そういう「幻覚」がうまれることは当然に認めつつも)つねに想定しなければならない必然性は、ないんじゃないか。つまりこれも、言説に先行して語り手の存在を前提する必要はないんじゃないか、と。

二人称だってそうです。「きみ」と呼びかけるレトリックって、やっぱり眼前にコミュニケーションをとっている主体をつい想像してしまう。けれど、それこそ作者が「報告」(命令、かもしれないね)としてあえてデザインしていることをあからさまにしてもいる。だって、ふだんのコミュニケーションでの「きみ」の使用とはどう考えたって異なるのだから。それでも二人称を使うってのは、だから、政治性の高いやり口なんですよね。I Want You for U.S. Armyしかり、「きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする」しかりだ!


というわけで、第2節の末尾に至り、フィクションのテクストを 「その物語世界における出来事や、その出来事にたいする思考や無知を含む情報について、取捨選択しながら並べ立てられたもの」 と定式化できるようになるちゅうわけだ。

実際のビデオゲームに触れる第3節も面白いんだけど、上記のテーゼを受け入れとけばある意味すごく当然の話なのでここではまとめ直さないことにします。嘘です、そろそろ疲れてきたので……。第2節後半の政治性やそれに絡んだ「再演」の話も大事なんだけど、これはそれこそ「きみはMGSVをプレイする」の内容に触れつつやったほうがいいところなのでこれも置いとこうね。

以上です。

2025-06-18追記

あれからいろいろ調べていて、以下あたりは関連しておもしろそうということで、(どっちも英語で長いからくそまじめには読めないとしても)ちょっと目を通してみたいと思いました。読んでもないのになんで紹介するかというと、誰かほかの人に読んで、日本語で教えてほしいからです!!誰かやって!!!

  • Barkman, Cassandra Jane. 2024. “Narrative Complexity in Videogames.” PhD thesis, Swinburne University of Technology. https://doi.org/10.25916/sut.26297530.v1.
    • 博士論文(なので長い!)。ここでいうような不自然さを含む「物語の複雑さ」がビデオゲームにおいてどう積極的なかたちでおもしろさに繋がってるのか、みたいな話っぽい。オブラディンのミステリーだとか、Outer Wildsの環境ストーリーテリングだとか、メタレプシスの話だとか、創発的なナラティブが云々みたいな話だとか
    • 同著者の“There’s No Point in Saving Anymore: Diegesis and Interactional Metalepsis in Pony Island and Doki Doki Literature Club”がおもしろかったとこから辿ったもの
  • Ensslin, Astrid, and Alice Bell. 2021. Digital Fiction and the Unnatural. Ohio State University Press.
    • 版元のページ
    • ↑のBarkmanから辿ったもの。ちょうど大岩論文でも触れられていたEnsslin(とBell)によるデジタルフィクションにおける不自然な語りについての一冊(なので長い!)。たぶん2人のこれまでの不自然な物語についての論文から集大成した感じの内容っぽくて(二人称の話もあるよ)、イントロダクションとか目次を眺めた限りだとかなり自分の興味にうまくはまりそうだった。それこそ奇想の記事でも考えた、認知の問題やメディア/ジャンルの慣習、それによる読みの戦略みたいなものも視野に入っているっぽい

  1. こういうことやってるとほんとにやりたいことがどんどん遠ざかっていって未完のままになるものですが、まあそれも人生というやつだよね。
  2. 著者がこちらで公開している: https://researchmap.jp/euskeoiwa/published_papers/29963397
  3. 実際のところこれ自体サーベイ論文であるため、つまり孫引きってことになる!(原著論文の方までちゃんと辿ってない)
  4. 「時間」については触れられていない。
  5. ジュネット自身は「視点」という語をあえて避けていることに注意。ただ、(「ざっくり」言ったとおり)しばしば「視点」と同一視されがちで、これについても自然主義的傾向の一種としてバルに帰されたうえで批判されている。ややこしくなるのでここではまとめない。
  6. 論文のなかで第一に挙げられてるのは、たんなる必然性のなさというよりも、そもそも純粋な内的焦点化なんて意識の流れを使ったって不可能であることや、外的焦点化や内的焦点化の区別に「(私秘的な)心理」や視覚なんていう人間的なキャラクターの存在を前提としなければならない観点が用いられているせいで無理が出てきてるよね、みたいな話ではある。(ちょっとこのへんのまとめ方には自信がないけど……)
  7. もちろんこういう「慣習化」ないし合理化それ自体を考えるおもしろさのあることは否定しない。右記で書いたのはそういうことでもある、つもりです! Re: 奇想の在処――〈奇想〉とは何か? 試論 - 青色3号
  8. ここはしれっとフィクションに限定されている(ジュネットの論はフィクションに限定されないはず)のだが、ノンフィクションだとそもそも作者と語り手を別々に考える必要がないため、この問題が起きないというのはある。フィクションを「枠付けられたノンフィクション」として捉えてしまうからこそ、枠付けのための別個の語り手をついつい要請してしまう、という話でもあるだろうか。

わたしとそのアバター - M. Carlson & L. Taylor

さいきん「きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする」について考えたいと思っていて、そのための準備として、以下の論文について。

Carlson, Matthew, and Logan Taylor. 2019. “Me and My Avatar: Player-Character as Fictional Proxy.” Journal of the Philosophy of Games 2 (1): 1-19. https://doi.org/10.5617/jpg.6230.

ビデオゲームにおけるプレイヤーとプレイヤーキャラクター(PC)の関係について、Robson and Meskin(2012)を虚構的同一性説(Fictional Identity View)として定式化したうえでこれを批判し、代替として虚構的代理説(Fictional Proxy View)を提案する……みたいな感じだろうか。

虚構的行為文のパズル

といって、本論文の第一の目的は虚構的行為文のパズルを解くことにある。つまり、わたしたちがビデオゲームをプレイするとき「おれはあっちのバリケードに隠れとくわ」みたく、現実に真でもなければ、素直に考えれば虚構的にも真でない(だってふつうに考えれば、隠れているのはPCなのだ)文を使うのはどういうことか、という問題についてだ。

わりと人気のトピックらしく『ビデオゲームの美学』1でも取り上げられており、具体的には第6章(6.8節〜6.9節あたり)で多少触れられたうえで、第11章では直接的にその解消が試みられている。ただ、虚構的行為文が表しているのは現実の行為である(それなのに虚構的内容を持った語彙によって表現されるのは、その行為を特定・表象する記号の名前として、そうした語彙が自然に使われるからだ)とする同書の立場とは異なり、タヴィナーらが用いる2(そして、その内実が不明瞭であるとして批判される)「虚構的な代理」という概念をもうちょっとしっかり深めてみる方向で解消しましょうね、というもの。

この目的にかんして正直にいえば、自分が虚構的行為文をつかうときの感覚としてしっくりくるのは本論文のそれではなく、「現実の行為を虚構の言葉で表している」という説明ではあった。

PCと同一化している?

ただ、ふだんのことばづかいからもうすこし一般化して、プレイヤーの現実の行為(ボタンを押す、とか)と虚構的な行為(敵を撃つ、とか)の関係、ひいてはプレイヤーとPCの関係をどう感じているかについてはどうか。

これに関して、ロブソンとメスキン(以下R&M)が導入した「自己関与型インタラクティブフィクション self-involving interactive fictions」(SIIF)という概念がある3。SIIFとは、「当のフィクションを消費する人自身についてのフィクション」4のこと。R&Mは(ざっくりいえば)「プレイヤーは自身がPCであると想像している(同一化している)」ことから、PCを操作するようなビデオゲーム作品(の一部)もこうしたSIIFの一種であるとしている。

たしかにシンプルで、いちどこれを受け入れたなら、虚構的行為文を説明したり、ゲームをプレイするときの経験を記述しやすくなるようにはおもわれる。というか、(当人がほんとうにそう感じたかは置いといて/それこそ虚構的行為文の問題として)この前提に沿ってゲームの感想が書かれている例はそれなりに見られる。

……でも、ですよ。ここでもんにょりすることがある。おれってほんとに、そんなふうにプレイしてるか?

してないと思うんですよね。もちろん(自分はなったことないけど)プレイのなかで「没入」感5を覚えたとき一時的にそういう気持ちになる人がいてもおかしくないし、(同様にこの議論を紹介していた)『ビデオゲームの美学』の第6章後半あたりでも述べられていたとおり「なりきりプレイ」みたいなスタイルもあってたいていはそれらの混じったものだろうという話もある6。けどそもそも、そういうことをしようとして/そういうことが起こるものとしてゲームをプレイしてないだろう、と。

物語としての内容と齟齬が起きそうな、けれどゲームの進行を有利にするような選択肢はいつだって頭の中にあるし、カットシーンでPCが起こした行動まで「お前がやったんだろ」なんて言われちゃたまったもんじゃねえ。だいたいさ、選択肢からしか選べない、メカニクスとして用意された行動しか起こせないことは身にしみてる。

じゃあおれとこのPCとは、いったいどういう関係なのか。

論文について

というのが前置きで、ここからようやく論文の内容だ。

虚構的同一性説

著者のCarlsonとTaylor(以下C&T)は、R&Mの主張のうちビデオゲーム作品(の一部)がSIIFであることには同意しつつ、その前提となっている次の虚構的同一性(FI)テーゼに問題があると指摘する。

Fictional Identity (FI): Fictionally, the player is the PC.

これについて挙げられる問題点は2つ。

  • 非対称性の問題
  • 責任の問題

非対称性の問題

もしFIを受け入れるなら、PCの持つすべての性質をプレイヤーも持っている(と想像する)ことになるはず。けれど「すべて」にはさすがに無理があるんじゃないだろうか。

たとえば感情。プレイヤーはPCがフィクション内で抱く感情を(共感するならともかく)そのまま自分のものとして想像することは一般的ではない。

『Spec Ops: The Line』において、PCであるウォーカーが銃を撃ったとき「私が銃を撃った」と想像するとしても、ゲームの終盤、ウォーカーが救うべきドバイの難民に激怒しているとき「私は激怒している」と想像するだろうか。むしろ、ウォーカーの様子に戸惑ってしまうのがふつうだろう7

こういったことはありふれていて、たとえば攻略ガイドや過去のゲームオーバーでの知識を活かし「あそこに強敵が潜んでるから迂回しよう」というのもこうした「非対称性」に含まれる8

責任の問題

もうひとつの問題は道徳的責任の感覚に関わるもの。ビデオゲームをプレイしていて、わたしたちはPCの……自分の行為に対してうしろめたさを覚えることがあるはずだ。なんなら、それこそSpec Opsだとか、ほかにもHotline MiamiやらUndertaleやら、わざわざそれを責めてくるような(悪趣味な)9ビデオゲームには事欠かない。

たしかに「お前(制作者)がやらせたんだろうが」云々とは言えるし、なにより所詮フィクションではある。それでも、「自分でやったこと」と言われると、否定し切れないところがどうしても残る10

ただ、この感覚はPCのすべての行為に対して生じるわけではない。プレイアブルではないカットシーンでのPCの行為に責任を感じたりするプレイヤーは、まあそんなにいないだろう。もしFIを受け入れるとこの違いを説明できない。オールオアナッシングになってしまう。

虚構的代理説

そこで提案されるのが論文のサブタイトルにもある「虚構的代理 Fictional Proxy」ということになる。FIの代わりに、次のような虚構的代理(FP)テーゼを前提としている。

Fictional Proxy (FP): When the player authorizes the PC to perform a fictional action, the PC’s fictional action counts as the player’s fictional action.

ざっくりいえば、「PCがある虚構的行為をおこなうことをプレイヤーが(コントローラーの操作などによって)承認(authorize)したとき、PCのその虚構的行為はプレイヤーの虚構的行為とみなされる(counts as)」というもの。

現実のオークションで代理人を立てるようなものだと考えるとわかりやすい。代理人が手を挙げて入札したとき「わたしが入札した」と言うのが自然なように、PCが敵を撃ったとき「わたしが敵を撃った」と言うのも自然になるよ、と11

この立場には以下のようなメリットがある。実際、先に挙げられていたような問題点を解消できていることがわかる。

  • 選択的な帰属:プレイヤーが承認した行為だけが(虚構的に)「わたしの行為」になる。カットシーンでのPCの行為は承認していないためそうはならない
  • 感情の非共有:代理であるPCの感情まで共有する必要はない。代理人がイライラしながら入札しても、私がイライラしているわけではない。同様に、ウォーカーが怒っていても、私が怒っているわけではない
  • 責任の所在:プレイヤーがいちど承認すれば、その行為に対してプレイヤーに(虚構的な)責任が生じる。コンラッドはここをネチネチ責めてくる

論点はもうちょっとあるが、おおまかにはこんな感じだろうか。

単に「代理ですよ」というだけではなにそれという話なのだけど、(提示された選択肢や限られたメカニクスのなかでの可能な行為を)「承認」すると「やったとみなされる」みたいなあたりが、わりとうまいことPCと自分との関係の感覚を示してくれているようには感じたのでした。このへんのつかず離れずを感じているときがゲームやってるときの楽しみのひとつだとさえ言える。非インタラクティブなフィクションでは、登場人物に感情移入することはあっても、その行為を承認することはないわけだし……。

以上です。

2025-06-02追記

この記事を書いたあとに、ちょうど近く刊行されるらしい『クリティカル・ワード:ゲームスタディーズ』の執筆陣を眺めていたところ、「私であって私でない存在:ビデオゲームのプレイヤーはプレイヤーキャラクターをどう認識しているのか」という論文12をみつけた。『Detroit: Become Humman』を(考えたことを口にしながら)プレイしてもらい、その発言からプレイヤーとそのPCとの関係についてまとめる、というもの。このへんの話題についての先行研究がしっかり紹介されていて(それこそこのC&Tにも言及されている)ためになるし、なにより「おれじしんの実感」ではない実証研究なのがうれしい。

ただ、分析の前提がちょっと図式的すぎるような気もするとか、実感がどうあれ虚構的行為文を用いざるをえないところにビデオエスノグラフィという調査形式でいいのかというのは悩ましいところではあるか。まあでもここらへんはむずいよね……。いずれにせよ、プレイヤーとPCとの距離感をこまやかに見ていくためのとっかかりとして、気になる人はぜひ読んでみてほしいところですわ。


  1. 以前右記でまとめた:わたしたちが『ビデオゲームの美学』を読むこと - 青色3号
  2. たとえば右記とか(いやすみません、正直拾い読みしかしてないです):Tavinor, Grant. 2005. The Art of Videogames. Wiley-Blackwell.
  3. Robson, Jon, and Aaron Meskin. 2016. “Video Games as Self‐Involving Interactive Fictions.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 74 (2): 165-177. https://doi.org/10.1111/jaac.12269. / 右記で読める https://eprints.whiterose.ac.uk/id/eprint/93610/
  4. "These are fictions which, in virtue of their interactive nature, are about those who consume them." 訳は『ビデオゲームの美学』第6章の注30からそのままもらってきた。
  5. こっちもよろしくな!:お前らの言うImmersionのニュアンスがわからない - 青色3号
  6. なお、『ビデオゲームの美学』でR&Mの議論を紹介している部分(6.9節)ではR&Mのこの立場に距離を置いた書きぶりになっていて(「動機づけることがある」程度までしか言ってない)、実際第11章で虚構的行為文についてのフィクション説を棄却する理由にもなっている……とおもう。そこまでは共感するところなのだけど、あまり詳しく述べられてはおらず、そこにきて本論文は「虚構的代理」をもう一度掘り返して肉付けしているものと見ることはできるか。
  7. 激怒した経験のある人はごめん、C&Tが書いてることやから!
  8. このへんについては、本論文でも紹介されており同様にR&M批判をしているSuduikoの論文がいろいろ詳しい。というかその他の事情含め、あわせて読むのがおすすめです(ただ、個人的にはSuduikoの「虚構的プレイヤー」は、たいていのケースで話を無駄に複雑にしすぎるだけのような気がする)。Suduiko, Aaron Graham. 2018. “The Role of the Player in Video-Game Fictions.” Journal of the Philosophy of Games 1 (1). https://doi.org/10.5617/jpg.4799.
  9. 長くなるのではしょるけど、自分のなかでこの手のやつは「好きだけど悪趣味」みたいな箱に入ってる。プレイをやめろって? ごめんだね!
  10. まあ、「残らないけど?」みたいな人もいるかもしれないが、いずれにせよ「同一化」よりは弱い主張ではある。
  11. 論文のなかで著者自身指摘しているとおり、細かいことをいえばビデオゲームでは「プレイヤーがボタンを押すことでPCの行動を引き起こす」という因果関係があることが通常の代理関係と異なってはいる(「操作」ってのはそういうことではある)。それでもなお(たとえばドローンのような)道具ではなく「代理」と呼ぶのは、PCが虚構的には独立したエージェント(キャラクター)であるという感覚を保持するため……ということでいいのかな。
  12. 髙松 美紀, and 斎藤 進也. 2024. “私であって私でない存在:ビデオゲームのプレイヤーはプレイヤーキャラクターをどう認識しているのか.” 立命館映像学 17: 59-100. https://doi.org/10.34382/0002000822.

雨でなくとも地を固む

告知だ!

例年どおり……というわけでは実はなく、前回は書けなくて、かついつもは秋の文フリだったのが半年持ち越して春になったわけですが、今週末5月11日に迫った文学フリマ東京401、A-61(南1-2ホール)にて、ねじれ双角錐群の第9小説誌が出ます。

タイトルは『Fafrotskies』すなわち怪雨ということで、あんなものが降ったりこんなものが降ったりすることをテーマにしたもののひとつとして、わたしもお話を書くことができました。告知ページはこちら:

https://nejiresoukakusuigun.tumblr.com/post/780068271507537920/fafrotskies

上記のページに超イケてる装画はもちろん紹介文も載っているのでまずはそちらを見ていただきたいところではありますが、わたしのほうからも一言ずつ感想を書くぜ。

せんせい、あのね - murashit

「いまもまだ『しん判』がどこかで見はっている気がして、ちょっときんちょうしちゃってます!」 ——山田先生絶賛! 第70回青少年虚構文コンクール・小学校低学年の部応募作!! ※応募時「まきもどされた小学生は気ままなセカンドライフをおうかする」に改題

おれのや。今回はトップバッターなんですけど大丈夫でしょうか。

トリジンタプル - 笹幡みなみ

空き教室で一堂に会した高校二年生、多田明莉、多田明莉、多田明莉、多田明莉ほか26名に、担任の穂波から投げかけられた疑問。穂波対30人虚々実々の対決はかくして幕をあけるが、穂波の講義は職員会議で中断され、板書も途絶する。多田明莉は何故多いのか。はやく、宿題やってねようね。

空から女の子がといったって、ドッペルゲンガーといったって、数には限度というものがあります。奇想ものの小品で、ちょっとした文学小ネタ(というか高校国語小ネタ)もまじえつつ、テンポのいい会話はいつもと相変わらず、そしてなんかすげえ爽やかに終わる謎の手管。青春ものとして完成されてる……。多人数の会話を書くのってむずかしいものだよなとつねづねおもうのですが、同じ人物が30人いてみんなで喋るなら、それが誰であってもいい。これって発明じゃないですか?

フィジカル・ドリームズ - 小林貫

虚構の霊峰「零富士」が見下ろす都市、re・フジ市に無数の手紙が降り注いだ。自由言語で記されたその手紙は、あらゆる言語が定型化されたre・フジ市の秩序を唐突に崩壊させる。呪われた手紙は誰かの意思か、あるいは夢か。

紹介文が胡乱すぎる。ネタバレになるためここではあまり詳しく言えないのですが、それほど長くはないお話のなかでサイバーパンクだけではないSF大ネタてんこ盛りになっているのがニクい。全体的に価値観がちょっとズレてるところがやっぱりおもしろく、だからこそオチに至り、これは悲劇なのか希望なのか、どう思われますでしょうか、というのをみなさんにも聞いてみたい。

怪雨の子 - Garanhead

諸君らは英雄に救われるのを待っている。パン食い競争での圧勝を非難されてもなお、何度も器用に学校の試験で七十点を記録してもなお、英雄は諸君らを見捨てない。地球は自壊へまっしぐら。英雄はテラフォーミングに尽力する。英雄は怪雨の子。関節の外れた世界にもたらされるのは祝福か、それとも。

中二病的全能感、自分は特別であるという感覚って、そうそう、こういう感じなんだとおもう。いってしまえば狂人の理屈ではあり、それでいてドロッとしすぎないスパスパした独白のなかで、(こちらはこちらでなかなか壊れた世界の)全貌が徐々にあきらかになってくるのが好きなんですよね。最後までしっかり自意識についてのお話として読まされてしまう感じ。

煙鏡ーーアビーテスカ血統列伝 - cydonianbanana

早世した《史上最強牝馬》テスコガビーは、じつは生きていた? ——ひょんなことから未来の血統書を手にした実業家丸瀬は、独自の配合理論によるサラブレッド生産事業に着手する。やがて約束の馬が大レースに臨むとき、彼らに血の因果が降りかかる。「駿駒」誌掲載記事で振り返る、丸瀬ファーム三〇年間の軌跡。

テスコガビーもの2だ! あやしげで衒学的な配合理論、しゅっとしたスポーツルポ文体、産駒を残さなかった現実の名馬の血統がもし……というロマンに、並行世界/ドッペルゲンガーものという大ウソを絡める、なんていうぜんぶがとにかくかっこよく、本誌のなかでも個人的イチオシです。虚実の混ぜ方が最高。

転がるね群、君に蟹が降る - 鴻上怜

そして、次の文学フリマが始まるのです。

どう紹介したらいいんだろうなこれ。鴻上さん(本作の登場人物)ってとにかく文章がうまくて、細かい機微の描き方もすごいんだけど、それを使って暴れてくるから困るよな。

そして、私たちの文学フリマは続くのです!


  1. 前回から会場がビッグサイトに変わっていて入場料も必要になったことに注意だ。わたしも前回行けなかったため、ビッグサイト開催への参加はじめてです。
  2. 才能というものに本人も周囲も狂わされる系のお話のなかでも非人間を扱うジャンルとされています。

ゲーム音楽はどこから来たのか - 田中 “hally” 治久

読んだ。

現代のビデオゲームにサウンドがともなうのは当たり前のことのようにおもえる。けれど、ほんとうに当たり前なのか。もしそうでないとすれば——というか、音ゲーのように直接メカニクスに組み込んでいるものを除けば当たり前とはいえないのだけれど——どうして「当たり前」とみなされるほどになったのか。このような問いに歴史と構造の両面からこたえていく……みたいな感じの本。

特徴

本書の特徴はいくつかある。まず、書名のキーワードが「ゲーム音楽」であるにもかかわらず、効果音なども含めたゲームサウンド全般を扱っていること。

また、複数の視点から歴史を追ってくれるのもおもしろい。第1章で(ビデオゲームだけではない)ゲームやスポーツ一般におけるサウンドのありかたをざっと整理したうえで、以降第2章から第4章までは現在のような状況がおおむね定着したといえる時期までの過程について、前史たるエレメカの時代からたどっていく。このあたりは、技術面や設置環境、商業的な要請、他メディアからの影響など、制作者側からみた歴史といえる。そのうえで、第5章ではゲーム音楽を独立して聴くような音盤化の歴史、第6章では受容・批評のされかたの歴史と、さらに別々の視点からも改めてその歴史がひもとかれている。

そしてもうひとつ、なにより最後の第7章で理論的な考察に踏み込んでいることが最大の特徴じゃないだろうか。「どうして当たり前とみなされるのか」という問いに答えるには歴史の考察のみでは不十分で、それが実際に必要とまで思われる理由=構造についても考えなければならないというわけ。ゲームスタディーズ周辺のゲームサウンド研究を紹介しつつ、独自の分析が試みられている。

個人的な興味の方向性もあって、この「構造」の分析について以下でもうすこし詳しくみていきたい。とはいえ細かな気配りをすっ飛ばしてるし自分の独自解釈みたいなところもあるので、疑問に思ったら実際の書籍をあたってほしいです。

情報と装飾

ポイントは、もし(メカニクスとして必須であるという特殊な事情のあるケースを除いて)プレイヤーがサウンドになんらかの価値を認めるのだとしたら、まずはプレイ行為そのものにおける機能性に端を発するであろうという点。

もちろん機能を持つサウンドとひとくちにいっても、ゲームの有利不利に強く影響するようなもの(強いシグナル)から、足音やジャンプ音のようにエージェンシーの感覚を強めるもの(自然なシグナル)や状況をそれとなく伝える環境音のようにプレイヤーの行動への関与の度合いが低いもの(弱いシグナル)までいろいろある。

このうち、強いシグナルに情報としての価値があるのはわかりやすい。また、ビデオゲームには「操作」がともなうことからして、プレイヤーはその操作がゲーム内に反映されているかどうかを自然と意識する(逆に言えば、なにか音が鳴ったときにそれが自分の操作によるものなのかを意識する)ことになる。そのとき、動作音などはプレイヤーの行動に対するフィードバックとして機能している。まずはこうしたプレイのために直接役立ったり身体性を強めたりといった機能があることで、プレイヤーはサウンドを聴取しようとする1

ただ、これだけではない。環境音やBGMなど弱いシグナルもゲームの世界に没入することにつながりうる2。とはいえ、このようなサウンドはじめのうちは「必須」ではないことに注意しよう。当初は上述のようなサウンドに対して副次的にのみ関与するものであり、ある程度プレイを続けるうちにようやく愛着が生まれ、没入に必須のものとなっていく。

つまり、ゲームのサウンドには、シグナル=プレイ行為に対する意味として捉えられる情報としてのサウンドと、ワールド要素=ゲーム世界における意味として捉えられる装飾としてのサウンドという2つの側面3があり、前者が先行しつつ後者にも価値が認められるようになるというわけ。

もちろん、ビデオゲームの多くがなんらかのシミュレーションである都合上、個々のサウンドが排他的にどちらかに分類されるというわけではない。多くの場合双方の側面を兼ね備えている。そのうえで、両方の目的を十全に実現できるとはかぎらず、時には(「わかりやすさとリアルさ」のような)トレードオフの関係があったりもする。

……と、おおよそこのような構造で「サウンドがあって当たり前」という状況が生じると主張されている、はず。


とまれ、こうした分析は本書のほんの一部でしかない。「ビデオの特性からなのかゲームの特性からなのか」とか、エレメカ時代のアーケードの音環境とか、インタラクティブミュージックの起源とか、「フィルムスコアリング志向か録り溜め志向か」という見立てとか、FM音源の受容のされかたとか、日本のゲーム音楽文化と海外のそれの違いとか、「独立した音楽として聴くのか記憶の再現装置として聴くのか」とか、「ふつうの音楽」に対するコンプレックスとか、とかとか、単純にビデオゲーム音楽史そのものに興味があるのであればふつうにおもしろい本なので、おすすめです!


  1. いちおう音自体の心地良さみたいな話もあるのだが、ゲームとの絡みという点でやや外れる(あるいは、ゲームと絡んだ時点で身体性のほうに回収できる)ので置いておく。
  2. 「没入」については以前 お前らの言うImmersionのニュアンスがわからない で考えた。本書のなかでもSCIモデルが大きく援用されていてやっぱりそうやねとはなったのだけど、(一度こうやって自分で考えたことがあるせいか)「没入」の過程の掘り下げがちょっと手薄でもどかしく感じるところもあった。
  3. これに加えて、やや特殊であると位置付けられる「メカニクスとしてのサウンド」をあわせたのが第7章のタイトル「メカニクス/シグナル/ワールド」というわけ。