文学フリマのSF島その他の告知

『The Poetics of Science Fiction』を読むプロジェクトはタクティクスオウガのリメイクが出たことで完全に停止していますが、それはともかくとして告知になります。

11月20日開催の文学フリマ東京35にて、例年どおり ねじれ双角錐群 の同人誌が出ます。例年どおり私も参加しています。ブースは G-10。いつも通りのSF島、おもしろそうなサークルがほかにもありますから、いらっしゃる方はぜひお立ち寄りください。

告知サイトはこちら:故障かなと思ったら - ねじれ双角錐群

毎回なんらかのテーマを設け、群員が競って小説(小説じゃないこともある)を書くのがねじれ双角錐群のスタイル。書名からも明らかなとおり、今回のテーマは 「取扱説明書」 です。以下、ざっくり紹介していきましょう。

🌳森/The Forest - 石井僚一

ある一人の男が、学生時代に恋人と訪れた森を、大人になって再び訪れる。レイ・ブラッドベリの名作短編「みずうみ」をもとに書かれた抒情SF。

ベースになっている「みずうみ」を読んだことがあるなら、あの文章のきれいさ、そしてあのふしぎさを思い出してください。湖という、あの魔法のような空間! あれが、ここにもあります。どんなふうに「もとに書かれている」のかはぜひ読んで確かめていただければというところですが、湖が森に転じたうえで物語の舵がこう切られるのかと、きっと感嘆されるであろうと請け合いましょう。もちろん「みずうみ」を読んでいなくともそれはまた静かでうれしい読書体験となるはず。

🦾取説ばあさん - 小林貫

「おぉ……旦那様。説明書を、おお……説明書をお持ちではありませぬか」 極彩色のネオンと喧噪、眠らないサイバーシティで取説ばあさんに遭遇したおれは、踏み入ってはならないとわかっていながらも、その妖しさに魅かれていく。

「取説ばあさん」ってなんだって思いますよね。思うはずです。思いましたね? マジでなんなんだよ。サイバーパンクないつかの未来のストリートにだって、ときには都市伝説的な怪異が立ち現れるものなのかもしれません。そして、ストリートにも怪異にも共通した掟があります。好奇心は猫をも殺すってやつです。でもまあ、近付いちゃうものです。デカいヤマがあるかもしれねえからな。そういう意味で文体からガジェットから、そして生き様までしっかりサイバーパンクなんですよね。ただ、それにしたって取説ばあさんってなんなんだよ。

🦶私の自由な選択として - 笹幡みなみ

足の裏の特定の反射区を刺激することは、自由意志信念の強化に繋がり(Coolidge, 2035)、特定の気分障害に対して有効とされる(Coolidge et al., 2038)。本文書はこれらの研究を概説し、彼女の選択を伝える。

これも「反射療法で自由意志信念が高まる」というところからしておもろいでしょ。しかも実際に読みはじめていただくとわかるとおり、いかにももっともらしい雰囲気を出す解説のスタイルがすげーうまい。……のですが、もちろんそれだけなはずもない。読んでいくうちに一段二段と発想がエスカレートしていくさまはもはや爽快というか、SFを読むときの醍醐味のひとつはこれを感じるところにあるよねと、自分なんかは思っちゃいました。それはそれとして止まったエレベーターに乗り合わせたからといって足を揉むのはやめたほうがいい。

🐈故障とは言うまいね? - Garanhead

「マニュアリストロ」。それは国の認証を受けた、良質な説明書を作成する者たち。彼らの手がけた説明書なくして工業製品の出荷や流通が成り立たなくなった未来。心が故障した少年と、体が故障した少女。二人の最年少マニュアリストロたちが出会う時、過去と未来を繋ぐ因縁尽のマニュアルが綴られる。

これもまた「説明書作成についての国家資格」ってなんだよっていう、掴みがいいやつなんですよね……三連続でおもしろい設定が来てるな。ときには工場に乗り込み、ありはドンパチだって起こりかねない「説明書作り」の荒唐無稽さ。そしてそのうえで、自分がいちばん良いなと感じたのが、そんな無茶をしつつもいかにも楽しそうな説明書作りの様子でした。そこがほんとにいいんですよね……とかなんとか、王道なボーイミーツガールも、トラウマを負った少年の成長も、もちろんギャグも、そういったものすべてが「説明書」に集約される腕力だって見物になっている一作だと思います。

🌌直射日光の当たらない涼しい場所 - 全自動ムー大陸

「説明書」を題材にした短歌十首。

短歌、紹介するのむつかしいな! ね群の同人誌の表紙はすべて全ムーさんが担当されているのですが(最初に載せたね群サイトから辿って見ることができます)、けっこうああいう、イメージの広がりみたいなのが、今回の短歌十首にも共通しているように感じました。みなさんはどれが好きでしょうか、読んだあと、ぼくにもこっそり教えてください。

👨子供たちのための教本 - murashit

役所はわたしたちが死ぬ日を正確に知っていて、その期日を書留で通知する。民法上の子を持たない者には本人、持つ者はその子に書留を送る。わたしはある日、通知を受け取った。父は二週間後、死ぬことになっていた。

おれのや。

🧚沼妖精ベルチナ - 鴻上怜

底辺会社員の俺は部下のオッドラの教育に手を焼きつつ、人事としての業務を日々行う。そんなある日、社のデータベースがぬるぬるの粘液で覆われてしまう。忙しい情シスに代わって原因を探る俺は、地下で謎の老婆サーバやまんばと遭遇する。そしてそれとは関係なく、俺のもとへ1体の妖精が訪れる。沼妖精を名乗る少女は、行方不明の御婆を探しているらしいが――

ここまできたらもう、「ってなんだよ」が追い付かなくなってくるわけです。手数が多すぎる。紹介文からして手数が多く見えるかもしれませんが、いやこれ、紹介文はあくまで序の口ですからね。サラリーマンの悲哀に満ちたものすごい俗っぽい内容が、どこか木で鼻をくくったような(しかもほのかに教養を感じさせる)文体で書かれている……にもかかわらず、とかく毎行パンチラインが現われる。いったい何者なんだ。ともかくもね、仕事ではね、セキュリティには気をつけようね、なんだかまずいことが起きかねないからね。そんな教訓も得られました。ありがとう!

🎥閲覧者 - cydonianbanana

遮光スクリーンに覆われた窓、空調設備の定常的なノイズ、絵と本の切れ端に埋め尽くされた壁、椅子のない机、開かれたままの取扱説明書——登場人物不在、住人の輪郭を示す静物の素描で綴られた縮尺一分の一の地図をめぐる冒険がはじまる。

もはや恒例かもしれない、今回の組版やってる枠です。ほとんど静謐といっていい情景描写が展開されるなかで、ざっくり言えば「覗き込む/そこから離れる」様子がインデントで表現される仕掛けではあるのですが、それがだんだん(みんな大好き)一分の一地図とどうつながってくるのかを読み解いていくことになるうちにいつの間にやらクライマックスからの急展開……という、静と動っていう意味でも読んで楽しめるのではないでしょうか。「取扱説明書」テーマの本誌の締めにふさわしい一作だと思います。


そしてすみません、ついでになってしまって恐縮なのですが、なんの因果か『小説すばる』2022年12月号に私の書いた文章が載っています。「偏愛体質」という1ページコラムコーナーです。なんか好きなものについて書けということだったので、SKKという日本語入力システムについて書きました。好きっていうか、いつの間にか離れられない腐れ縁というか。熟練のSKKユーザーから見ればなにをいまさらな内容ではありますが、これを機に使ったことのない方にも興味を持ってもらえれば、あわよくば沈んでくもらえれば、なんだろうな、今夜のぼくの晩飯がいつもよりもっと美味しく感じられるんじゃないかな。

あとなんだっけ。最近「Do It Yourself!!」というアニメをすごくおもしろく見ているのですが、その各回タイトルが「DIYって、どー・いう・やつ?」みたいな感じなんですよね。で、今回書いたやつのタイトル(上でリンクした目次からは見られない)もそういう感じにしました。

アニメは見ましょう、ブログは書きましょう。以上です。

『The Poetics of Science Fiction』第3章のメモ

2週間で1章くらいのペースで……とか言ってたんだけど、この章はかなりおもしろくて深みにハマってしまった。もうちょっとペース落としたいです。

The Poetics of Science Fiction (Textual Explorations) (English Edition)

承前:

murashit.hateblo.jp

第3章のざっくりまとめ:

  • 本章の目的
    • SFにおける「言語学」「言語」への意識や実際の扱いについて検討していく
  • おおまかな流れ
    • SFにおいて現実の言語学への理解は浅い傾向にあるものの、そう言って切って捨ててしまうだけにもできないよ
    • 「言語」と「思考」を素朴に切り離せるような言語観に基づく描写も多い一方で、ディストピアSFに頻出する言語の抑圧など、それらの切り離せなさへの認識に基づく作品も古くからあったよ
    • 同じようにスタイルに対する意識が薄いジャンルだったけれど(たぶん「言語-思考」と「文体-内容」をある程度類比している)、ニューウェーブ以降は多様化が進んだよ。その例をいくつか見てみるよ(ここはたぶん、言語変種や言語使用域 register の話が裏テーマとしてある気がする)
    • ディレイニー先生によるSF批評講座
  • 感想とか疑問点とか
    • 言語/言語学への意識が低め/理解が浅めみたいな話は、近年(いつ?)のさまざまな「言語SF」のことなどを考えるとやや意外な感はあるかもしれない
    • が、伝統的にはハードサイエンス寄りだよねというのはその通りだし、自分が読んでるものの偏りもあるかもだし、言われてみれば「言語SF」みたいなのはあんまり思い付かない(それに本書が2000年刊行であることにもいちおう留意したい)
    • たとえば『スノウ・クラッシュ』は(言語コンシャスであっても)言語学的に無茶だろと言われたら、そうだな……とか。いや、そういう話じゃねえんだよ!というのは本書でも述べられているとおりである
    • ともあれ、そういう意味で批判的な部分はやや古めのSFが対象である感じはある
    • そしてニューウェーブ以降の文体的な実験について触れる節は話が具体的だし、出てくる例もおもしろい。『侍女の物語』はもちろんなんだけど、オールディスがここまでやってたなんて知らなかった……
    • ディレイニー先生!

以下メモ:

3. Micrological: Futureplay

3.1 Preview

科学の諸分野とSFとの間での知識やアイデアの交換は珍しいことではない(ウェルズ『解放された世界』と核物理学との関係など)。本書が立脚する言語学もその例外ではない。

……というわけで、本章ではSFと言語の関連について検討していく。

3.2 Linguistics on Another Planet

まず、SFと言語学の関係を論じたMeyers (1980)1を引きつつ、ざっくり言ってしまえば多くのSF作品は(その時点での最新の)言語学的な知見に無理解であったとする。Mayersの批判がけっこう皮肉っぽく、細かい例もおもしろいところだがここでは省略。

とはいえ、これはSF(における言語の扱い)を「未来予測的」に捉えたときの話にすぎないとも言える。よりチャリタブルに読むこともできよう。「形式そのものが象徴的に重要なのだ」というが(正直どういうことかよくわからないんだけど)、どういうことかというと……。

たとえば、ブラッドベリ「雷のような音」。本作では、タイムトラベル先でのちょっとしたことからのバタフライ効果の結果として、現代の英語の正書法が変わってしまう描写がある。ここで示される正書法について言語学的に考察することはできるが、それはともかくとして、これは別の世界線2であることのしるしになっている。

また、「異星人が英語で喋っている」(かのように記述される)ことについて。もちろんまじめに異星人の言語を考えるのは大変だし読むのもつらいので仕方がないのだが、テレパシーや自動翻訳だったり、英語がなんらかの理由で銀河レベルの共通語になっていたりと、「それっぽい(が、しばしば言語学的にどうなんだとなる)言い訳」が示されていることは少なくない。が、こうして言い訳をすること自体、異邦性(異星人性、 alienness)のあることを示したいということではある。

ともあれ、言語学の観点から批判できるのは確かである一方、読みやすさだとかへの配慮がどうしても必要になることもやはり認めなければならない。だいたい、それを言えば「物理学からみれば放縦すぎる、けれどいかにももっともらしく感じる」みたいなのは当然にあるわけだ。

3.3 Linguistic Science in Science Fiction

さて、SFは自然法則だってものともしないジャンルなわけだが、その一方で文体などの面ではどうにも「ふつう」である(言ってしまえば、つまらない)ことがしばしばであった。客観的で説明的、みたいなイメージはどうしてもある。これにはもちろんいろいろ理由があるが、科学というのがそもそも合理的、客観的であって、そのように描かれるものだという見方のあることは大きいだろう。

そしてこういった見方は、前言語的 pre-linguistic で客観的な本質を汲む(つまり言語と思考を分離して後者のみを抽出できるような)万能翻訳機が可能であるかのような素朴な言語観 folk-theory of language/linguistics にも影響したのではないか3。さらに万能翻訳機の実現可能性についてのもうすこし細かい考察とか、超光速航行とかとも絡めた「もっともらしさ」の話とか出てくるが、それらもここでは割愛。

とはいえ一方で、スウィフト『ガリヴァー旅行記』、ハクスリー『すばらしい新世界』、ザミャーチン『われら』、オーウェル『一九八四年』のようなユートピアディストピアを扱う小説を見てみれば、先述のような「素朴な」言語観にもとづくものばかりでないこともわかる。こうした作品ではしばしばディストピア的な社会(の維持)と言語(の抑圧)の間に深い関係のあることが描かれており、ひいては言語と思考の間に深い関係があるという認識が認められる、と4。また、関連してというか、まあそのまんまなのだが、サピア=ウォーフ仮説についても触れられている5

それからニュースピークについて詳しく述べられるが、よく知られているところなので省略(ただ、オーウェルは文法や語用論的観点よりも語彙に過剰に重きを置いているという指摘はたしかにと思った)。

3.4 Linguistic Special Effects

先に「文体のつまらなさ」、そして、言語/言語学への関心の薄さについて触れたが、1960年代、ムアコック、バラード、オールディスらに代表されるニューウェーブSFの登場あたりから話は変わってくる。伝統的なSF作品の外にも目を向け、手法面での多様性がいっきに花開く、と。てなわけで、以下ではニュウェーヴ以降の作品からそのような手法的特徴の例がいくつか取り上げられる。


まずは「Collage and Documentary Fragmentation」。断片(多くは異なる媒体からの断片)を集めて並べて見せたりする、あれ。

たとえばアトウッド『侍女の物語』。本書は、末尾の「歴史的背景に関する注釈」に至り、それまで示されてきたテキストの出自が明らかにされ、「信憑性」に疑問が付される構成となっている。しかもそのうえで「客観性」のほうにも同時に(風刺的な形で)釘を刺していたりもする。今回改めて「注釈」だけ読んだんだけど、この短いなかで多方面に何重にも皮肉が効いててすごいんだよな……。

あるいはレッシング『シカスタ:アルゴ座のカノープス』について。Wikipediaに載っている書影を見るとわかるように、表紙からして報告書の特徴を模している6。これに続く本文もやはり(さまざまな書体などを使い分けつつ)情報源の異なる情報をまとめている、という形式になっているようだ。

そんなわけで、こうした手法は「ここにあるのは誰かひとりの語りではなく、並んだ証拠をもとに組み立ていくことが期待されるテクストである」といった読み方を誘うものだ、という感じ。文中でもちょっと触れられているが、このへんはリアリズム以前によくあった書簡体などの形式と絡めて考えられるところ(単純に「新しい」というものではない、というか)。それこそ『フランケンシュタイン』だってそうなのだ。

このほか、ハイパーテキスト的なフィクションや、ベア『女王の使者』も紹介されてるけどここでは割愛。


続いて「The Vernacular of the Future」。vernacularというとおり、正書法的でない(?)ような言葉づかいの使用。たとえば、ディック『高い城の男』では第二次世界大戦で日本がアメリカに勝ったことの影響を、冠詞や前置詞が省かれた「日本語っぽい英語」を出すって形でも仄めかしている(これぜんぜん知らなかったけど、そうなの?)。このほか、戦争や災害など世界情勢の変化により言語が変容しているさまが描かれる例は多い。

そしてここでは、ホーバン Riddley Walker 7(ポストアポカリプスもので、一人称で語られる作品らしい)の「壊れて、すりきれたような」英語が詳しく検討されている。英語特有の話も多いので(なので正直かなりよくわからないので)ここでは割愛するが……。ものすごくおおざっぱに言えば、 hellog~英語史ブログ にあるような話の外挿がかなりもっともらしくやられているよという話……だと思う。

で、こんなふうに異化効果をもたらすような表現はSFではおなじみのものだよ8、という感じでまとめられる。また、意味もわからない言葉の意味を求める(ことを読者がさせられる)ということ自体が、Riddley Walker の主人公が行っていることと重なる、とか。


最後に『Affective Thematising of Language』。スタイルそのものを主題化するようなものと思えばいいのかな。

ここでオールディスの短編 ‘Orgy of the Living and the Dying’ 9が紹介される。ミスコミュニケーションがテーマになった作品であって、その表現として、地の文に突然「どこかからの声」が入ってきたりするせいで文法が崩れたりもするようなスタイルとなっている、みたいな。

この方向性を推し進めたのが Barefoot in the Head 10オールディスについての英語版Wikipediaの記事 では「オールディス作品のなかでも、おそらく最も実験的」とされ、『フィネガンズ・ウェイク』さえ引き合いに出されている長編。本書のなかでも、Ketterer (1974)11 の批評が引かれており、そこでもジョイスボルヘス、ロブ=グリエ12が引き合いに出されている。……ということからもわかるとおり、ふつうの英語で書かれているとは言いづらく、いくらでも深く読めそうになる手法がこれでもかと使われているっぽい。めちゃくちゃ雑に言えば、本書を読む体験と、本書が幻覚への没入をテーマとしていることとが対応していると。で、いちおうそれなりの紙幅も割かれ引用とともに解説もされているのだが、そんなもんをまとめられるわけねえだろうが!

とりあえず、『ニューロマンサー』におけるかの有名な“consensual hallucination″という(サイバースペースに対する)表現を引きつつ共通点を指摘していることはいちおうメモっておく。

3.5 Science Fiction and Non-Science Fiction

前節の検討から、ニューウェーブモダニズム文学へのキャッチアップと見なし、その延長にサイバーパンクポストモダニズム(の文学や諸芸術)との相互交流が…‥みたいな構図をとりたくなるかもしれないが、さてどうだろうね、みたいな話。続けて紹介される、90年代のメインストリーム文学側の批評がサイバーパンク(なかでもギブスン)をポストモダニズムの最先端に位置付けもてはやす様子は、実際ちょっとこう、微笑ましい感じがある。

一方SFサイドからの見方として挙げられているMcCaffery (1991)13では、先行する「拡張主義者 expansionist」フェーズ(50年代より前)と、それに続く「内破的 implosive」(60年代以降の内的宇宙へのベクトルの転換)フェーズに分けて説明している(このへんはよく聞く話だ)。で、それ以降のSFはどんどん「幻覚を実在のように扱う treats hallucination as an object in the world」ようになっていった、とされる。そしてこれこそ、本書において今後たびたび立ち戻ることになる「dramatisation14 としてのSF」という見方……なのだそうだ。


そしてディレイニーが召喚される(!)。言うまでもなく言語SFの先駆者であり、SFにかんする詩学的考察においても先駆者である。で、そのディレイニーは、SFはSFで独自の来歴、読者、問題意識等を持つのだから、安易にメインストリーム文学とかの概念/用語を輸入するべきではない、といったことを言ってる。

……というわけで、ひいては、メインストリーム文学の歴史観をSFにも押し広げて語るのには無理があろう、と。また、メインストリーム文学サイドの批評を批判し、(“the worst sort of criticism of the latter[※ポストモダニズム批評のこと] descends into poetic though impressionistic nonsense“とか……)そういうのはSFには要らんよ、とも述べられる(このへんはストックウェルの言です)。

ともあれディレイニーの話に戻ると、彼はそもそも「メインストリーム」っていう言い方にも疑義を呈している。ここはちょっと、いやかなりおもしろいので、以下にそのまま孫引きする15

I can think of no series of words that could appear in a piece of naturalistic fiction that could not also appear in the same order in a piece of speculative fiction. I can, however, think of many series of words that, while fine for speculative fiction, would be meaningless as naturalism. Which then is the major and which the sub-category?

Consider: naturalistic fictions are parallel-world stories in which the divergence from the real is too slight for historical verification.

そしてさらには……

The science fictional enterprise is richer than the enterprise of mundane fiction. It is richer through its extended repertoire of sentences, its consequent greater range of possible incident, and through its more varied field of rhetorical and syntagmatic organisation.

力強い!!テンション上がってきた!!!

……まあなので、SFにはそれだけのポテンシャルがある(言ってみれば、可能な世界の、可能な文がすべて……みたいな)し、したがってそれを分析する側もその可能性に対応できるようなものでなければならない、と。

3.6 Review

ここで挙げたようなディレイニーの見方は本書(のとくに後半)にも通底しているよ(textusの話とかsymbolist strategiesが云々かあるけどひとまず割愛)。

でもって、本章ではとくに文体的な意味で言語コンシャスなSFを見てきた(3.4節)けれど、このようにある種逸脱的なものは(際立っているぶん)言うなれば研究しやすい対象とも言える。そして、本章で採り上げたようなものはSFのあくまで一部である。次章ではSFの主流な伝統(パルプSF!!)を取り扱う。


  1. Meyers, W.E. (1980) Aliens and Linguists: Language Study and Science Fiction, Athens: University of Georgia Press.

  2. シュタゲ発祥のこの表現は(濫用ではあるが)人口に膾炙していてわかりやすいので、ここでも使わせていただきます。

  3. ……とまとめるとそれこそ単純化しすぎで、実際はもうちょっと慎重な言い方がされている。が、いったんこうまとめさせてくれ。なお、(このような言語観のある種のパロディであるという文脈で)バベル魚も出てくる🐠

  4. 正確に言えば文中での『ガリヴァー旅行記』の扱いは若干異なるが、ここにまとめてしまうことにする。また、それこそ『華氏451度』や『侍女の物語』もこの例に漏れないのだが、おそらくここでは比較的時代の早い作品が挙げられているのだと思われる。

  5. 強い意味での解釈はさすがに無理だが、弱い意味での解釈であれば十分に成り立つであろうことについては、たとえば今井『ことばと思考』あたりがとっつきやすいか。

  6. もちろん本書のなかでは画像は載っておらず、載ってる文字要素を引用しているだけである。Wikipediaに掲載されているのはUSでの初版のもので、ストックウェルが直接参照しているのもこちらなのだが、調べてみると オリジナルであるUKの初版のほうがもっとそれっぽい

  7. 翻訳はないが、調べてみると柴田『生半可版英米小説演習』で試訳とともに軽く紹介されているようだ。

  8. スーヴィン『SFの変容:ある文学ジャンルの詩学と歴史』の「認識的疎外 cognitive estrangement」(読んでないのでこの訳語でいいのかどうかはわからん)への言及がある。

  9. The Moment of Eclipse 所収。翻訳作品集成を見る限りでは翻訳なさそう。

  10. やっぱり翻訳がない。ここでの話を見るかぎりでは、柳瀬尚紀でもないとやらないんだろうな……という感じがすごくする。

  11. Ketterer, D. (1974) New Worlds for Old: The Apocalyptic Imagination, Science Fiction and American Literature, Bloomington: Indiana University Press.

  12. ちなみに、調べてる途中で『世界Aの報告書』についてロブ=グリエが引き合いに出されているのを見つけたりした。( ブライアン・オールディス「世界Aの報告書」(サンリオSF文庫) - odd_hatchの読書ノート に引かれている岡和田さんのツイート。そしてこの記事見るかぎりたしかにこっちのほうがロブ=グリエっぽさがある)もちろん自分は読んだことないっす。

  13. McCaffery, L. (ed) (1991) Storming the Reality Studio: A Casebook of Cyberpunk and Postmodern Science Fiction, Durham/London: Duke University Press.

  14. ひとまず「ドラマ化」くらいか? 「脚色」というと違いそうな気がする。……というふうにこの時点では正直よくわからないんだが、よくいうように、隠喩なり象徴なり寓意なりをそのまま具象化できるのがSFだぜ、みたいな話だろうか?

  15. Delany, S.R. (1977) The Jewel-Hinged Jaw: Notes on the Language of Science Fiction, Elizabethtown, NY: Dragon Press.

『The Poetics of Science Fiction』前置き+第2章のメモ

書名はいわば『SFの詩学』ということで、「認知詩学の観点からSFについて分析していきましょうね」という本書について、今後しばらくメモを書き連ねていきたいと考えています。

The Poetics of Science Fiction (Textual Explorations) (English Edition)

そもそも「SFの認知詩学:ピーター・ストックウェル『SFの詩学』The poetics of science fiction - Lichtung」 を見たときから気にはなっていたのですが、やはり英語の、しかもある程度専門的な本ということで敷居が高く感じていました。いたのですが、最近もろもろあって気持ちが高まってきたのでひとまず取り組んでみようと。

とはいえ、認知詩学とはなんぞやということや、本書の内容の概観については、上記のナンバさんの記事を読んでいただくだけで十分以上でしょう。ここでこうやって公開しているのは、自分がどうにか読んでみたときのメモをある程度広く公開することで、本書をなるべく知ってもらい、あわよくば叩いてもらえればという意図によるものです。

あえて言うまでもない(ので言いたくもないんだが)ことですが、そもそも英語の読解力がないことに加えて知らない分野であることから、内容に大小さまざまな誤解があることはまちがいありません。テクニカルタームの訳し方もとくに定訳など気にしていません。したがってなにかの参考にするために読まれるものではないと考えてください。英語の読解に認知資源が奪われているせいで、まとめてるというより単に引き写してしまってるだけみたいなところや、逆にひどく強引なやり方でまとめてしまっているところも多々あります。以前『フィクションとは何か』のメモを載せた際には(あれでも)もうすこしちゃんと編集したのですが、こちらはより生のままのメモに近いものです。

ともあれ、前置きはそこそこに、さっさとはじめましょう。第1章は本書の説明なので飛ばして、第2章から。ざっくりまとめると下記のとおりです。

  • 本章の目的
    • しばしば「未来」という不確定なものを描いてきたSFというジャンルにおいて、読者により「もっともらしく」感じてもらうためのメカニズムがどのように変遷してきたかを分析する
    • このためにEmmott (1997)1で述べられている「文脈的フレーム」のモデルを用いたうえで、特にダイクシス(直示表現)に着目する
  • おおまかな流れ
    • Emmottの「文脈的フレーム」について簡単に解説される。また、アシモフ『われはロボット』にこれを適用してみる
    • 未来、それも同じ「21世紀」の姿を描くSFとして、執筆年代順に8作品が紹介される
    • 本章で用いるダイクシスの分類が示され、それぞれのカテゴリごとに上記8作品がさまざまに分析される。たしかに、「もっともらしく」見せるための手法が変化していることが見てとれる
  • 感想とか疑問点とか
    • 事例として挙げられる作品は(プロトタイプなので当然といえば当然だが)ステープルドンやウェルズ、アシモフブラッドベリ、クラーク、ギブスン等と豪華。ブラナーとヌーンはあまり知られていないと思う(自分も知らなかった)のだが、それでも邦訳はあるようだ
    • そもそも自分はまだ「認知詩学」という手法がどの程度説得的なのかやや疑っているところがあるのだが、この章の内容からだけではなんとも言いがたい気はしてしまった。本章での分析についても、たとえば(当然ストックウェル自身も知っているしその用語も使っている)物語論の観点からのものとどこまで差別化できているのかはちょっと微妙ではある
    • ダイクシスを小説などの語りに適用することについて、ある程度研究はあるようなのだが、ここで繰り広げられているものを見るかぎりでは「けっこうなんでもダイクシスじゃねえか!」みたいな気持ちにならなくもない
    • 文句ばかり言っているようだが、分析の結果は十二分に興味深いものではあるし、「文脈的フレーム」を設定すると見通しがよくなりそうだなというのも十分感じられたところではある。もうちょっと読み進めてみようかなというモチベーションは湧いた

ということで、以下がメモです。

2. Macrological: Old Futures

2.1 Preview

SFはその時々における「未来」を描いてきた。本章では特に、その時々における未来をいかに「もっともらしく」見せるかについて、特にテキスト中の直示的 deictic および参照的 referential な要素に注目しながら見ていく。あー、この「直示」ってダイクシスとかのあれか!

2.2 Future Worlds and the Framed Universe

さて、この「世界 world」という語について。意味論まわりの話を参照しつつ、SFのナラティブが「枠組みにはめられる framed」(これだと訳語がちょっと微妙だ)ことで読者がリアリティを感じる、というモデルが有用である。

物語理解 narrative comprehension にかんするこのようなモデルは Emmott (1997) で使われているもの。読者は、テキストやそれに基づく推測から「文脈的フレーム contextual frame」を作り上げてく、みたいな理論。おそらく認知言語学における「フレーム」に由来する表現ではあるものの、ここではいったん、いわゆる「シーンの設定」とか「シチュエーション」のことと捉えておいてもそんなに問題ないか。詳しくは第7章っぽい。

登場人物などの諸実体は読書のなかでさまざまなフレームに紐づけられ bound 、またその時々で焦点の当たった文脈において前景化される primed 。これは明示的なこともあるしそうでないこともある。こうして、読者の中に central directory (その世界におけるキャスト一覧のようなもの)が作られる。

で、こうして作られた虚構的文脈がどのように働くか(たとえば新たなキャラクターがどのように登場するか=紐づけられるか)にたいして、実世界と同じ前提を置く(おおざっぱに言えば現実性原理なり共有信念原理なりの話か)。とはいえEmmott自身も注意している通り、これはSFにおいては成り立ちづらいケースが多い。ワープしたりするよね、と。とはいえそれでも、「ああ、そういう物理法則があるのね」と(ときには過去の読書経験をもとに)受け入れて読み進める。


たとえばアシモフの短編集『われはロボット』 の分析。

各短編の登場人物は、ストーリーごとの文脈的フレームに紐付けられ、順次前景化される。ひとつの短編が終わると前景化が解除されるが、登場人物(の多く)はそのフレームに紐付けられたままである。ただし、語り手であるキャルヴィン(本書はキャルヴィンの回顧録の体をとっている)をはじめとする複数の短編に登場するような人物もいて、彼らはそれら短編において前景化されるような複数のフレームに紐付けられていることになる。これは本書の世界に一貫性を感じることに資している。

個々の短編は短いため、その中での文脈的フレームの変更はあまり多くない。変更があるときでも、「徐々にフレームが変化していく」というよりは、瞬時に切り替えられるような形で変更される。空行を挟んで違う場所や時間が飛ぶ、といった感じ。とはいえ一部の例外や回顧録であることによる一時的なインタビュー場面への切り替わりを除いて、それほど大きくも飛ばない。などなど。

ともあれ、こうした「文脈的フレーム」の考え方、すなわち、諸実体を心理的な枠組みのうちに紐付けその時々で前景化するという考え方を用いれば、参照と直示を厳密に区別する必要がなくなる。可能世界みたいな枠組みと違って、読者とテキストだけで話が済むからね、みたいな感じ(そうなのか?という感じだけど、そのあたりはおそらく第7章を待つべきなんだろうな)。

2.3 Versions of the Future

すべてのSFが未来の話というわけではもちろんないが、ひとつの典型としてはそうであると言える。そんなSFでさまざまに描かれる「未来」は、大きく2つに分類できる。

  • 「直列 serial」バージョンの未来
    • 我々の世界の延長にある未来。おおざっぱには外挿的、未来予測的といえる
  • 「並列 parallel」バージョンの未来2
    • 我々とは別世界における未来。直列バージョンと比べて思弁的 speculative な色合いを帯びる(そうかな?

たとえば、クラークによる小説版の『2001年宇宙の旅』は(科学技術的には)直列バージョンの未来として書かれた一方で、同じシリーズの『2010年宇宙の旅』は実質的には映画版『2001年』の続編であり、むしろ並列バージョンと捉えられる。『3001年終局への旅』でもやはり、『2001年』からのシリーズと矛盾していることがクラーク自身による序文で言及されていたりもする。

直列バージョンの未来を扱ったSFは「当たる(当たった)かどうか」が注目されがちだが、それだけのものとはいえない。たとえばオーウェルの『一九八四年』なら、ビッグ・ブラザーやイングソックが実現されたわけではないが、そのターゲットである1984年を過ぎた今でも、ある種の風刺として読まれている。これは、もともと「直列」だった作品が「並列」に変化したとも捉えられる(敷衍すれば、未来を扱ったSFはいつか必ず「歴史改変もの」になる定めなのだ、とさえ言える)。


また、21世紀の世界が舞台(の一部)となるSFとして以下が挙げられる(括弧内は執筆年。なお、ここで挙げられた作品がそのまま次節の事例としても使われる)。

執筆年代の違うこれらの作品は、同じ「21世紀」という時代を、並列的な未来として描いているといえる。以降各々の作品の概要が紹介されるが、ここでは省略。こうやって見てみれば、同じ21世紀という未来を扱うにもかかわらず、執筆された各々の「その時代らしさ」があろうことも察せられる。たとえば、初期の作品では年代がはっきりと数字で示されることが多い一方で、より最近の作品では曖昧な形でしか示されなくなる。また、執筆の現在が21世紀に近づくにつれ、未来予測よりも現代の風刺に近づいてくる。

ことほどさように、SFにおいては「時空間的な関係」が複雑である。執筆された時代と舞台となる時代、執筆された時代と読まれる時代、登場人物が読者にとっての未来を過去として語ったり、タイムトラベルさえあったり……とにかくいろいろ。

2.4 Exploring the Universe

ここで文脈的フレームによる物語理解の話題に戻る。前々節の最後で触れられていたとおり、以下では文脈的フレームのモデルの上で、直示表現(ダイクシス。発話者のいる時空間などの文脈のなかで意味が明らかになるような表現のこと。「私」「あなた」「いま」「ここ」などなど)に着目し、SFにおける表現の歴史的発展を分析する。

ただし、ダイクシスに関する言語学的な研究の多くは会話の場面を第一に扱っており、小説などを扱うものは少ない。本書では一般的な(つまり会話における)ダイクシスの分類を、SF作品の分析のために以下のように「調整」する(会話の話し手-聞き手の関係と文学作品の作者-読者の関係がまったく違うのは明らかなことに注意)。

  • Person deixis → Perceptual deixis
  • Place deixis → Spatial deixis
  • Time deixis → Temporal deixis
  • Social deixis → Relational deixis
  • Discourse deixis → Textual deixis
  • Syntactic deixis → Compositional deixis

ごくおおざっぱにいえば(物語論でよくあるような意味での)「作中の語り手-聞き手を基準とする」みたいに捉える感じのようだ(多少細かく既存研究が紹介されているが、ここでは省略する)。


まずはPerceptual deixisについて。これはPerson deixis、すなわち「わたし」「あなた」や(日本語にはないが)それに従った動詞の活用、つまり人称にまつわる表現に対応するもの。

なぜpersonでなくperceptual(知覚)なのかといえば、SFをはじめとする文学作品においてはべつに人間でなくても話したり聞いたりするし、直接的な会話でなくテレパシーみたいなケースもあったりするから(そんな理由かよ!って思ってもいいところだよな)。

また、person deixisにおいて当然三人称は除外されるのだが、小説に適用するとなるとそうはいかない(厳密に言えば、その場には読者以外の参加者はいないのだから)。文脈的フレーム内(したがって読者とは別のレイヤにいる)での一人称、二人称および三人称の表現はいずれもperceptual deixisに含まれる。

間接話法や自由間接話法を用いて語り手が別のキャラクターの心中を描写することにかんして。これらの話法は語り手とそのキャラクターとの距離などの表現と捉えうるという意味で、やはり三人称もperceptual deixisの範疇に入れたくなるよね、という感じだろうか。

このあとLevinson (1983)3の、会話における役割はだいじで、speakerはsourceと、recipientはtargetと、hearesはaddresseesとそれぞれ分離できるよねという話を引きつつ、作者-内包された作者-語り手-話者となっているキャラクターのうちどれが、聞き手-内包された聞き手-実際の読者としての自分のどれに話しているのかを考えるときには、直示表現を通して考えてる……みたいな話があり、あんまり読み取れていないがなんとなく言いたいことはわかるような気がする。

……という前置きのもと、具体的な分析を行う。

前掲のリストにおける最初の3つ(『最後にして最初の人類』『世界はこうなる』『われはロボット』)はいずれも、語りの構造が比較的複雑であり、読者はダイクシスを手掛かりにそれを読み解くことになる。たしかにたとえば、『最後にして最初の人類』の序文(本書の著者は2人おるよっていうあれ)などはもろにそう。『われはロボット』の回顧録という形式(メインの話の前後にインタビューや記者の独白が挟まる)だって当然、メインのストーリー、インタビューの会話等々で代名詞の指す先が異なるのを追っていくことになる。文脈フレームに誰が紐づけられていて、誰が前景化されているのかの移り変わりを示すのがこれらダイクシスである、みたいな。


次にSpatial deixisについて。たとえば「ここ/あそこ」「これ/あれ」や「近く/遠く」はもちろん「行く/来る」みたいな方向性を伴うものもこれに含まれる。SFの舞台が地球外であることなどありふれているわけで、空間にかんする表現が重要なのは明らかだろう。

たいていはまず、その場所がどこかがわかるフレーズ(火星、とか)が明確にあるいはそれとなく登場する(同時に語り手もふつう明示される)ことでフレームが設定され、それに続いてこれらのダイクシスが駆使されてく感じになる。

いわゆる一人称の語り(のなかでも、目下のフレームの中にその語り手がいる場合)においてこうした表現が出てくるのはまあ普通の話だ(『ヴァート』から例が引かれている)。

一方、いわゆる三人称の語りにおいてはやや複雑。語り手が設定したフレームの中で、そこにいるキャラクターの台詞の中などにダイクシスが現れるのはもちろんだが、いわゆる地の文でもダイクシスがそれなりに使われる。つまり、地の文を語る語り手がまさにその場に(ほかからは見えない形で)いる、かのように語られる。

ここで例に出されるのは『2001年宇宙の旅』。三人称で全知、そして実体を持たない語り手であるにもかかわらずダイクシスが使われることによって、その存在感が示されているし、読者がまさにそこにいるかのように感じられるようになっているよ、と。もちろん、特定の人物に焦点化したときのはたらきについても触れられている。


続いてTemporal deixis。「いま」「まえ/あと」などはもちろんのこと、時制とアスペクトもこの範疇(だし、むしろこちらのほうが豊富か。そして日本語と英語の違いが特に顕著になるところでもありそう)。未来を扱うことの多い、あるいはタイムトラベルなどを扱うことのおおいSFにおいて、時間にかんする表現もまた、当然ながら重要となる。

ここで英語(の文学作品)で「未来」を表す方法についていくらか考察される(活用としては過去と現在しかないことに注意)のだが、ここでは省略。ただ、こうした表現が、未来に属することがらはふつう知識の範疇ではなく信念の範疇であること、つまり主観性を際立たせる効果があることは日本語でも言えそう。つまり未来を表す表現はもっともらしさを減じてしまいがちと言ってよく、これは未来を扱うSFであっても(さらに未来の語り手が回想するという形で)過去形で語られがちという事実とも関係しているのではないか、みたいな。もちろん、日常会話では現在形が無標と受け取られる一方で、語りにおいては過去形が無標として受け取られるみたいな話もある。

でもって、時制やアスペクトの使い方は、先に挙げたうちのより古い作品とより新しい作品とでの違いがかなり大きいように見受けられる、と。より古い作品では、信頼できる語り手が時系列に並んだ形で未来の歴史を記述する傾向にある。このため、単純過去や過去進行形が出てくる頻度が高い。一方より新しい作品(先に挙げたなかでは『衝撃波を乗り切れ』以降の3つ)では、語りが特定の(かつ複数の)キャラクターに焦点化される(あるいは直説法がより多く使われる)傾向にあり、したがってモダリティの付随することも増え、単純過去や過去進行以外が登場する機会も顕著に増える。


最後に、残り3種のダイクシスについて。これらも古い作品と最近の作品とで使われ方に差異がある。

まず、Rerational deixis(「先生」とか関係性を含めて表現するもの。おおざっぱには「人の呼び方」くらいに考えていいか)について。より新しい作品では、ニックネームで呼んだりすることが増えてくる。それこそ「ケイス」とか「ウィンターミュート」(いや、これはニックネームなのか?)みたいな。

続いてTextual deixisについて。「語り手が直接的・明示的にみずからの語りに言及する」ようなものを指す。メタな表現なので語りの内容への没入感を削ぐことにはなるが、使い方によってはその語り自体のもっともらしさを増したり(『われはロボット』のいかにも回顧録っぽくする手管とか)、一人称の語りで自意識を表現できたりといろいろ効果はあるよ、と。

それからCompositional deixisについて。これは例示も(ほぼ)なくて正直いまいちよくわからないんだけど、そのテキストの性質やムードを示すような文体とか書き方みたいなのを指すっぽい? それって「ダイクシス」なのか?(というか、本節全体に「ダイクシス」の指すものがかなりざっくばらんな感じではあるが……) 文脈的フレーム「そのもの」を規定するイメージではある。

2.5 Review

というわけで本章では、SFの「もっともらしさ」を出すためのメカニズムがどのように変遷してきたかについて、主にダイクシスに着目して分析してきた。

じっさいダイクシスというのは、語り手-聞き手がなんらかの形でいること、そしてある種の文脈的フレームがあることを想定したうえではじめて働くものなわけで、それが「もっともらしさ」に資するのはそりゃそうだよね、みたいな話とか。

このほか、ここまでで触れられなかった共通点や差異についていくらか述べられ、SFと未来(もしくはオルタナティブな世界)、そしてもっともらしさについてなんかエモい感じの文章も載ってるんだが、うまくまとめられないのでここでは省く。


続き:

murashit.hateblo.jp


  1. Emmott, C. (1997) Narrative Comprehension: A Discourse Perspective, Oxford: Clarendon Press.

  2. serialの「直列」との対比、および「paralellが並列、concurrentが並行」みたいな用語法もあってここでは「並列」としたが、やっぱり「並行世界」という言葉のある「並行」のほうが通りがいい気はする。

  3. Levinson, S.C. (1983) Pragmatics, Cambridge: Cambridge University Press.

Disco Elysium: The Final Cut(またはロールプレイの諸相)

     権威: 5
    非常に高い
      97%

+1 キムに信頼されている。
+2 キムに完全に信頼されている。

これはレッド・スキルチェックだ。再挑戦はできない。

store.steampowered.com

「ロールプレイ」についてどうしても考えてしまうビデオゲームであったため、それについて現状の印象をまとめます。基本的に、Twitterに書いたことをそのまま引き写すだけの記事です。


まず、以降で想定している「ロールプレイ」というのは、おおむね次のような欲望にまつわるビデオゲームのプレイングを指します。

自分が構想したキャラクターが、そのときどきで与えられた状況にどう反応するかを考え、その通りに行動した結果、世界からどんな反応が返ってくるのかを体験したい!

けっこう普遍的な欲望と考えてはいるものの1、ほかのロールプレイ観を持っている方もきっとたくさんいらっしゃるでしょうから、それについては各々ブログを書いてほしいところです。ともあれ、ここではこの「ロールプレイ」観に基いたディスコエリジウムの特徴を、思い付く限りで挙げてみます。

  • 「自由度」について
    • シナリオを進めるための方法が豊富に用意されている一方、システムをエクスプロイトする(しているんじゃないかとプレイヤーが感じる)ような要素(たとえば、ダークソウルシリーズにおける「正攻法でない」攻略方法とか)はあまりない
    • 言い換えれば、「なんでもできる」わけではまったくない。この意味でもっと「なんでもできる」ビデオゲームはそれなりにある(たとえば、Divinity: Original Sinとかが思い浮かぶ)
    • 本作では、破天荒ではあってもあくまで「殺人事件を捜査する刑事」という設定からは逃れられないし、バディとしてのキムの抑止力(キムに嫌われたいなんて思うやつおるか?)もかなりはたらく
    • つまり、わりと「どうとでもなる」わりに、実はその幅はけっこう制限されていて、「自由度」については実はそんなに高くない。ただこれは一方で、たとえ記憶を失っているとしても逃れられないままならなさを感じられるという本作の美点と裏表でもある(この点でいえば、Red Dead Redemption 2とかのフィールは近いかもしれない)
    • なお、今回言っている意味での「ロールプレイ」性の度合いと「自由度」とは異なる軸であることには注意しておきたい
  • 設定とストーリーについて
    • 設定はあからさまに膨大であるし、魅力的でもある。本来シナリオブックなどで補完されるべきものがそのままぶつけられている。マキシマリスト小説的といえばその通り
    • そのように膨大であるからこそ、ロールプレイなんぞを重視していては、世界について得られる知識がずいぶん減ってしまう。ロールプレイというのは世界の切り取り方そのものですからね
    • 一方で、メインクエストはすごく素直なノワールもの。事件の真相にも進行にも大きなバリエーションはない(はず)。設定の膨大さはサブクエストや細かな選択肢のなかでの情報量に頼っている
    • 設定の膨大さ(とロールプレイによるその摂取欲の満たされなさ)はリプレイ欲を刺激する一方で、メインストーリーの素直さ、一本道さはその逆に作用している
  • スキルまわりについて
    • キャラクターの特性を数値として表現する(装備で上下したりする)ような「いかにもTRPGっぽい」要素は、ビデオゲームとしてもとくに珍しい特徴ではない(最近だとそれこそTRPG直系であるのCyberpunk 2077がありましたね)
    • また、そのうえで(同様にTRPGっぽいダイスロールによる)偶然性を用いて開発者の意図の露出をある程度退けるような要素もやはり珍しくはない。これは「思い通りのロールプレイ」を阻害するように見えるが、むしろ「世界」のほうを豊かにする方策として働いており(「プレイヤー独自のストーリーを体験できる」という売り文句はほぼこの意味で使われていると思っています)、結果としてあまり表面化しないものだと考えられる
    • ただし思考キャビネットはかなり変なシステムで、「ふとした思い付きを弄ぶうちに意図せぬ思考が内面化される」「特定の思考を身に付けた者としてふるまおうとするようになる」といったおもしろさがある一方で、身に付けるとどうなるのかが事前にほとんど分からないという点で「思い通りのロールプレイ」を阻害しつつ、プレイヤーキャラクター自身の混乱を表現するという形での効果を発揮している
    • 24のスキルの内声は、「こんなふうにビルドしたならこうなるよね」を表現しているという意味でロールプレイを助けてくれているようにも思える一方で、それぞれの声がそれぞれの性格要素に純粋すぎるせいで、「統一的な人格を持つキャラクター像」(素朴な人間理解から発するものに近い)から離れてしまいロールプレイを阻害しているようにも見える(思考キャビネットの際に言及した「混乱」とも関係するだろう)

もちろん(少なくともCRPGにおける)「ロールプレイ」において、キャラメイクのときにおおざっぱな特徴は考えてもその後の内容がわからないために細部までは確定させられず、プレイの進行とともに選んだ選択肢やステータスの強化を再帰的に適用しながらキャラクターを固めていく、といった流れは一般的なのですが、それでも「ロールプレイ」ができる/できないに一定の解を与えてストレスを感じさせないようにするのがふつうのビデオゲームであるところに、本作はむしろ積極的にコンフリクトを起こそうとしている点でやや特異ではないか、と感じました。

概念化・修辞学・平静・暗示「ってなんで俺くんが!? 読んでくれてありがとうございました!」

もう一周します

2022-09-17 追記

この「ロールプレイ」との摩擦から、(けっこうクリシェ的ではあれ)「投げ出された『世界』のなかで、型どおりに演じきることのできない自己を生き始める」みたいなテーマを見出すことはできるのかなという考えがちょっと馴染んできたので、忘れないようにここにメモっておきます。

敷衍するとたとえば、「文字と声と亡霊たちの天国――『ディスコ・エリジウム ザ・ファイナル・カット』について」の注8:

もしかしたらあらゆる”ロールプレイ”をしつつもどの”ロールプレイ”にもならないことがこのロールプレイングゲームの核心なのかもしれない

というのはもしかしてそういうことだったのかと、後付けで感じたこと。

あるいは「『ディスコ エリジウム』に選ばれなかった私」における以下のような不満:

主人公は世を儚み、妙に達観した冷笑家か、どこか調子っぱずれな極端な思想を持ちつつも、一貫していない活動家みたいになってしまう。それらは、かなり「薄っぺらいキャラ造形」であると感じられる。周りのキャラクターは、キツラギをはじめ、かなり魅力的で個性的であるのに、主人公自身には最初から最後まで、思い入れを感じることはできなかった。自分の意思で選択肢を選べているはずなのに。

も十分に理解できると感じたこと。

言い換えれば、「ほら、演じてみろよ」と誘導しておいて、いざやってみたら、「ほれみいでけへんやろ」と言い渡されるビデオゲームであるということ。


  1. ちなみにこれを最も素直な形で実現できるのってじつは小説などの創作のはずなんですが、そうは言っても「そのときどきで与えられた状況」とか「世界からの反応」をいちいつ作り込むのはめちゃくちゃめんどくさい。だからぼくたちはビデオゲームをプレイするんだと思います。

Interior Chinatown - Charles Yu

きっかけは、千葉集さんが最近やっている短編まとめです。

Charles Yu, "Problems for Self Study"(2002) - 短篇企鵝

このProblems for Self Studyを読んで、おもろいやんけと思ったんですよね。たんに形式だけみれば(少なくとも今となっては)そこまで新奇ではないものの、それこそ上記で千葉さんも書いているとおり、「記述形式の特異さとその必然と読みやすさとエモさと通俗性がすべて高いレベルで成立している」。別の言い方をするなら、お話自体は良くも悪くもメロドラマであって、ただ、その語り方が妥協なく最適化されている話だった。あと、全体に悲観的な内容にもかかわらず、そこここで出てくるお茶目な文章が好きだったってのもある。

というわけで、おもろいならば、もうちょっと読んでみるのがいい。チャールズ・ユウには既訳の作品がいくつかあります。

  • 『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』
    • 長編。円城塔
    • 邦訳刊行からほどない時期に読んだはずだけど、あまり内容を覚えていない。とっぴな感じを出しつつ、軸としてはまっとうに家族の話だな……みたいな印象だったはず
    • 家のどこに置いてあるのかわからなくなっていたため、この時点ではいったん再読を断念(Kindle版が格安ということで、結局Interior Chinatownを読んでる途中に買い直したんだけど)
  • NPC
    • 短編。中原尚哉訳。『スタートボタンを押してください:ゲームSF傑作選』所収
    • 「プレイヤーキャラクターはNPCと違っていろんなことができるけど、操作されてる」ってのがしっかりフックになってる……んだけど、恋愛要素にちょっととってつけた感が強い気もした。短いからかな
  • 「OPEN」
    • 短編。円城塔訳。『2010年代海外SF傑作選』所収
    • とっぴな設定が好き。オチがやや駆け足すぎる気がするんだけど、絵面は抜群にいいし、恋愛の終わりの機微みたいなのはなんか沁みる
  • 「システムたち」

結果、(「システムたち」はまだ読んでいないものの)もしかしたらある程度の長さがあったほうがおもしろい人なんじゃないかと考えました。そして、どうやら未邦訳ながら2020年に全米図書賞を受賞した長編があるらしい、と。そう、みんな大好きあの全米図書賞だ。

日本語で読める本書の紹介としては以下あたりでしょうか。

やっぱり形式が特殊で、実質的には中編くらいの長さ、英語はそこまではむつかしくはない……のかな? というわけで、読んでみることにしたわけです。おおまかな内容や魅力については上掲の記事を読んでもらうのが早いと思うので、以下ではそれらを前提にしつつ、簡単な感想を書きます1

  • ドラマの脚本「ぽい」形式
    • あくまで「ぽい」であって、脚本として読むものではとうぜんない
    • これにはもちろん、われわれの現実と、物語内の基底的な現実と、そして劇中劇との間の境目をあいまいにするという効果がある
    • ……あるんだけど、それ以上に、「誰かに強いられた(と感じられる)悲劇あるいは喜劇を、演じている」という形でようやくやっていけるような(そしてその形でようやく描けるような)痛切さのための形式でもある
    • この痛切さは以下の「家族について」と「アジア人差別について」の両方にかかってくるもので、そういう意味でこれ以上ない形式に感じられてしまう
  • ミクロにはやっぱり家族についての話。しかも、かなりウェットな
    • 厳しい父と優しい母の描写、彼らが老いてゆく様子、主人公の恋愛そして娘との対話などなど、どれもくどいくらいに感傷的で、ちょっとしたところで茶目っ気を出しつつも、畳みかけるように泣かせにくる
    • もちろんというべきか、彼ら家族の受難には以下のアジア系移民の扱いというものが絡んでいる
  • マクロにはアメリカにおけるアジア人(アジア系移民)差別についての話
    • ステレオタイプが生む歪みがこれでもかというくらい戯画化されており(東洋人が登場したなら、どこからともなく銅鑼の音がしたり)時に笑ってしまうのだけど、それだけに、そうとうシリアスな怒りがあることもやはり伝わってくる
    • ショービジネスの世界を舞台としているって点からして、同化への「憧れ」(と言ってしまうと雑なんだけど)の扱いがとくにシビアに感じられるところでもある
  • で、両方に対しての答えとして、(これまたすごい雑にまとめるなら)「(過去を背負いつつ)みずからの生を生きよ」っていうあるいみベタベタなところにまとまるんだけど、それを端的に示す最終盤のシーンがすごすぎる。無茶苦茶で笑えるししかも切実な、これしかないってオチで、ここはぜひ読んでほしいと思うところだった
    • ……こう書くとマクロな話に対して個人の対処で済ませようとしているみたいに見えるな。最終章の舞台が裁判所であり、アジア系移民の歴史も含めてアメリカそのものが問い直される部分でももちろんある
  • 英語はたしかに読みやすい気がする
    • 脚本という形式からして、とにかく場面設定が把握しやすい!!!!
    • ふだん英語の小説を読まないからはっきりとは言えないものの、とはいえそんな人間にもどうにか読めたわけだし、易しいほうだと思う
    • すげー長い文がちょいちょい出てくるものの、複雑というわけではなく、順なりに読んでけば大丈夫なタイプの長さなのでそこまで問題にはならなさそう

そう、だから、もちろんマクロなテーマはしっかりしつつ、「お話自体は良くも悪くもメロドラマであって、ただ、その語り方が妥協なく最適化されている」というものでもあったんですよね。

そんなわけで、同じく家族の話であった(と思う)『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』についても、それを念頭に置きつつ、(ときには「これだこれだ!」みたいに感じつつ)もういちど読もうというモチベーションが湧いてきたのでした。


  1. 最近、なにかを読んだきっかけを残しておくことは、もしかしたら読んだそのものについて残しておくよりも大事なんじゃないかと思っていることもあり、むしろここまでをメインと考えてほしい気もしています。どうしてふだん本を読んだときにもそういうブログを書かんのかと言われれば、そりゃおめえ、おれがめずらしくえいごのほんをよんだからにきまっとるじゃろがい。

「新しい世界」のまわりをぐるぐるする

なんとなく気後れしていたのですが、いやでも、ブログなんて好きに書けってことで、表題の件について思い付くことを書き散らしておきます。日記ですね。

というわけで、以前『紙魚はまだ死なない』に寄稿した「点対」を、伴名練編『新しい世界を生きるための14のSF』に収録いただきました。もちろんこのブログを読みに来るような人であればみんなすでに紙魚死なを読んでることでしょうから(そうですよね)……ほかの作品目当てで読んでみるのがおすすめです。後述しますが、たしかにこれを読んでほしくなるよな、というセレクトだと思います。

で、こういうことになったのって、自分のなかではやっぱり一大事なんですよ。そんなつもりで書いたわけでなくとも、当然ながら評価してもらえることはうれしいし、(たとえ中身が付いてきていなくとも)読んでもらえるチャンスがこんなに増えるのは、やっぱりありがたいことですから。だから、やったぜ! ……というのを、隠そうとはしていても、きっと隠しきれていないにちがいありません。

とはいえ一方で、「隠そうとしている」というとおり、べつにそのために書いたわけでもない、過去たまたまうまくいった(のかな、たぶん)ものが再録されたにすぎず、そんな、舞い上がるようなものでもないっしょとも思っています。能動的に応募して賞をとりましたとか、単著が出ました、さらに続々と……とか、そういうのでもないし……分厚いなかの一編として今回たまたま採り上げられたにすぎません。

だから、これで急にフンフン言いだすのもあれだけど、とはいえうれしいはうれしいやん、みたいなどっちつかずな気持ちがある。胸を張れることなのか、べつだんそうでもないことなのか。どちらも別にまちがってはいなくて、どちらかだけというものでもないのでしょうけれど。

むしろ大事だと思うのは、なんたって自分は文章うま太郎になりてえわけで、それはたぶん徐々に近づいていくしかないものなのだから、だから、大事だと思うのは、どういう形であれこれからも続けていくことのはずです。今回の件が一大事であろうと些事であろうと、そのできごとが良かったことなのかどうかは、この先続けていけたかどうかで判断することになるはず。とつぜん神妙になって言うなら、そういうことになります。

……そうは言っても、やっぱちょっと大袈裟にとってない? ……そんなもん、わざわざブログに記事を書くんだから、それはそうでしょ! なので、せっかくなのでもうちょっと大袈裟を続けちゃおうかな。


まず、収録された「点対」について。当時考えていたことは告知記事にだいたい書いたのですが、心残りというか、もうすこし付け加えたいことがあるので、以下。

第一には、アクセシビリティの問題。告知記事でも一般的な話としてちらっとは触れた……つもりが読み返してみたら触れてないな……ともかく問題意識としてなかったわけではないのですが、今回より広い範囲の人が読もうとする媒体に載ることになったと言えるだろうってことで、やはり改めて気になってしまいます。「2行ワンセット」という形式の都合上、(『14のSF』をKindle版でお持ちならそれを見ればわかるとおり)ここだけ固定レイアウトで、スマホだと読みづらいし、たとえば読み上げ機能が使えません。もちろん「リフロー不可」という紙魚死なのテーマからしてそうなってしまうところはある。あるんだけど、きっともっと気にしたほうがいいことなんだよなというのを、今回改めて思いました。こうやって自分で書く場合でもそうだし、あるいはなにか、見せ方に関与できるような立場に立ったときにもそう。

続いて……なんて言えばいいのかなこれ、「実装力」の問題? みたいなもの。実は自分、「点対」の前には「上下二段で別々の話が進む」だとか箇条書きだとか、そういう組版で遊ぶようなものをいくつか書いていた一方で、「点対」以降はそういったものを書いていません。どうしてかというと、自分の(少なくとも現在の)実装力はここらへんが限界で、これ以上を望むならむしろビデオゲームなどの範疇になってしまうのではと感じたからです。「実験小説」みたいなのってしょせんみんな実験するだけでやめちゃうから実験小説なわけで、たくさんの人が同じようなことを試みていけばいつか一般化するじゃろ、というのが上掲の告知記事で言いたかったことの一端ではあるのですが、それでも自分だけやり続けてもな、いったんこの方向は休止かな……ってところも正直あります。でも、諦めたわけじゃないんだぜ。

最後に、「人間、わりと互いに矛盾することを両方まじめに受け取りながら想像できるよね」みたいな話(ライザのアトリエの記事とか、それこそ『フィクションとは何か』まわりで考えたこと)。ただ、これはまだほとんど考えがまとまっていないので、ここにメモっておくに留めておきます。


次。これはべつに今回の話とはそれほど関係なく、普段から考えていることなのですが、とはいえこういう機会でもなければなかなか言わないことなので、ここで。

なんの話かというと、今回の件に関連するなら紙魚死なを企画してくれた笹帽子さんやその参加者のみなさん、それから普段書かせてもらってる、ばななさんをはじめとするねじれ双角錐群のみなさん、「斜線を引かない」を書いた雨月物語SF(これも笹さん企画だ!)の参加者のみなさんだったり、あるいは「できるかな」を書いたよふかし百合のストフィクのみなさんやその参加者のみなさん、それにそれに、それ以前に参加させてもらった同人誌の主宰や参加者のみなさんにめちゃくちゃ感謝の気持ちがあるということです(でもって、むかし声をかけてくれたのに書けなくて応えられなかった人に対しては、感謝の気持ちと申し訳なさというか悔しい気持ちの両方がずっとあります)。ありがとうございます。

そもそも、自分は小説を発表する場というのを自分で作ったことがありません。いつも声をかけてもらって、それで書かせてもらっている。これってほんとうにありがたいことで、自分だけだと締切もなければ緊張感もダルダルになるところを、ちょうどいい締切と緊張感を持っていったん完成に持っていくことができる。自分には、みずからそういう場を作ったり、維持したりしていく力がまったく備わっていないので、それができる、やっているのはほんとうにすごいと思うし、何度も言いますがほんとうにありがたいです。これはべつに自分が関わったことのある人だけじゃなくて、同じように場を作り、維持しているいろんな人にたいしてもそうです。あとで言うとおり、そういう人がいるおかげで、おもしろいものを読んだりできるのだから。

……なお、このへん、自分でもできるようにどうにかしたほうがいいなと常々考えてはいるものの、少なくとももうしばらくは待ちの姿勢のままなんだろうな……と思ってもいます。まあ、ブログがあるからな……。でもどうにかしようね。


あとなんだっけ、そう、肝心の『14のSF』の話をしていませんでした。していないのですが、伴名練さんの序文とか読んでもらったほうがいい感じだし、まあいいか。

ただ、Twitterでもちょっと書いたのだけど、ページ数がもっと欲しかったという話はすごくわかるんですよ(僭越!)。自分自身インターネットが(いまだに)好きだったり、同人誌に参加させてもらっているくらいですから、そういう場で読めるようなものを多少なりとも読んで、「これすごいな……」などとたびたび感じたりしているから。事実、今回のセレクトについて(自分が読んだことのあるもの含め)納得する一方で、まだまだあれも載せたくなるよな、これもそうだ……というのが思い浮かぶ。

だから、これをきっかけに同人誌とかWeb掲載のものをディグってみようと思う人が増えたらいいなと思っています。……そんなこと言って自分はとくに何もしていないというか、ただ載せてもらっただけだし、ふだんからそういうものを紹介しているわけでもないんだけども……。だけども、とにかく読む人が増えれば、そのぶんそういう場で書いてみようと思える人も増えて、そしたら自分もおもしろいものをいろいろ読めるようになって、きっともっと楽しくなるんだろうなと思うので、なので、みなさんぜひよろしくお願いします。

だいたいそんなもんかな。

『フィクションとは何か』- ケンダル・ウォルトン(中間まとめ)

第2部までをまとめてみよう、というエントリ。前半だけでも二段組300ページあってそれなりに分厚いのは、ウォルトンの理論自体が思ったより複雑なのもあるが、それよりもとにかく例示が豊富なことが原因のように思いました。それらを読むのはとても楽しいものの、本論なんだっけ?ともなりやすそうなので、とにかく手掛りを残しておくにしくはないということで。

それにあたり、まずは以下にこれまでの章のメモを挙げておきます。こうした自分の理解(かなりあやしい)およびいくつかの追加的な文献を参考にして1、本書のなかでどんなことが言われているのかを、せめてもうちょっと短くまとめてみたいというのが本記事です。

まず、本記事での用語についての注意。

  • 「本書における、より一般的な意味での(通常使われる意味より拡大された)ごっこ遊び」を メイクビリーブゲーム、「文字通りの、子供たちが遊んでいるようなごっこ遊び」をそのまま ごっこ遊び と呼ぶ2
    • 本書の翻訳における用語法(どちらも「ごっこ遊び」と訳されている)とは異なることに注意
    • この用語法に準じて言えば、「各種芸術鑑賞は(ごっこ遊びをひとつの範例とするような)さまざまなメイクビリーブゲームのうちの一種である」とするのがウォルトンの立場ということになる
  • 本書の「フィクション」の語はカテゴリとしてかなり広く、通常の用法とのズレが大きいこともあり、この語を使うことは可能なかぎり避けたい。また、そもそも事物のカテゴリは最初にはっきりさせておきたいというわけで、以下のように整理しておく。いずれも下側が上側の部分集合であることを意図している
    • 小道具:現実の事物のうち、「なんらかの命題や体験の想像を命じている」ものごとをすべて含むカテゴリ
      • ごっこ遊びの参加者」「芸術作品の鑑賞者」や、メイクビリーブゲームに伴う現実の出来事や状況なども含まれる
      • 一般的に用いられる「小道具」の用法とはかなり異なっていることに注意(このへんの事情は「ごっこ遊び」に似ている)
    • 表象体:小道具として働く社会的な機能を持ったもの。ウォルトンのいう「フィクション」はおおむねこれと同義(かなり広い!)
      • いわゆる「モノ」でないような事物は除外される
      • また、切り株をクマに見立てるようなごっこ遊びにおける切り株など、アドホックな(そのような社会的機能を持たない)小道具も除外される
      • メイクビリーブゲームの参加者もやはり除外される(アドホックな小道具であると考てよいか)
    • 人工的な表象体:表象体のうち、表象体となることを意図して人工的に作られたもの
      • 星座などの自然にできた表象体が除外される。「そのように意図した作者がある表象体」と言い換えてもよいか
      • 本書の中ではあまりはっきりとは明言されていないカテゴリだが、ここではわかりやすさのため置いておく
    • 表象的芸術作品:人工的な表象体のうち、芸術作品として作られたもの
      • ごっこ遊び用の人形など、一般的に芸術作品として考えられないものが除外される
      • 芸術作品ではない人工的な表象体とは本質的な違いはないが、「鑑賞」と「ごっこ遊び」を区別したいとき(制約の度合いや、批評的な見方が介在する度合いの違いがある)などに便利なためこちらもやはり置いておく
      • 「表象的」と限定をつける必要があるのかはよくわからない。本書の立場では通常「芸術作品」とみなされるものはすべて表象的、くらいに考えられそうだとは思うのだけど……(というわけで、以下でも単に「芸術作品」と呼んでいる)
  • 「虚構的真理」という表現も、虚構性の真理性からの独立という観点から言えばやや混乱しやすいため、これも可能な限り避けて「虚構的に成り立つ」を使う
    • ウォルトンが虚構性と真理性、想像と信念をそれぞれ並行的なものとして捉えているという点で重要ではあるが、それについてはいったん措いておく

前置きがすでに長くなってるのですが、ともかく(わたしの理解の範囲では)本書におけるウォルトンの立場の際立った点は2つあります。

  • 「言語的フィクションだけ」「絵画的フィクションだけ」等と限定せず、幅広い芸術作品やごっこ遊びの小道具までもを包括的に扱う
    • いかにも「虚構世界」「物語世界」「作品世界」的なものを持っていそうな作品だけではなく、(その正当化がうまくいっているかはともかく)抽象絵画や純粋器楽曲なども含む
    • ただし、「制度とはフィクションである」といった「フィクション」の用法までは広がらない(そもそもかなり性格が違い、「実在していない」といったニュアンスのものだし)3
  • 芸術作品に対して、鑑賞者(参加者)の体験からアプローチしている
    • これは統語論的なアプローチや意味論的なアプローチでもなく、また、語用論的であっても作者の意図からのアプローチ(言語行為論的なものなど)でもない4
    • これによって、いくつかの問題は独特ながらある程度説得力のある形で解消できているように見える。たとえば「何が虚構的に成り立つか」の不確定性や矛盾の問題、芸術鑑賞の際の情動の問題など

続いて、これを念頭に一問一答(一答になっていないが)形式で考えてみます(なお、ここでは芸術作品を扱うということで便宜上作者視点から始めていますが、先述のとおり本書のアプローチとしては「鑑賞者がなにをしているか」が先行していることに注意してください)。

  • 芸術作品の作者は何を作っているの?
    • 一連の命題や体験を想像することを鑑賞者に命じる機能を持つ事物(表象体)を作っている
    • 作者が「なんらかの言語行為を行うふりや偽装をしている」(サールなど)あるいは、作者が「なにか特有の言語行為を遂行している」という立場には立たない5
  • 芸術作品の鑑賞者は何をしているの?
    • その芸術作品を小道具とし、「生成の原理」のもとで命じられた命題や体験を想像している(その芸術作品を小道具としたメイクビリーブゲームを行っている)。命じられるもののなかには、鑑賞者自身に関する命題や体験も含まれる
    • このとき作者の意図はオプショナルで、小道具を通して間接的に作用する形に留まる(もちろんどんな生成の原理があるかなどを考慮して制作しているはず)。作者の範疇的意図はおそらく認めているのかな
    • そして、本書においては、「虚構的に成り立つ事柄」が「(小道具および生成の原理に従って)想像せよと命じられている事柄」と同値であるとされている(あくまで「想像されるべき事柄」であって「げんに鑑賞者が想像している事柄」ではないことに注意)
    • ただ、ウォルトンは後に立場を修正し、「想像せよと命じられている事柄」のうちの一部のみが「虚構的に成り立つ事柄」である(想像の命令は虚構的真理であることの必要条件にすぎない)としている。そして、どのようにその「一部」が選ばれるのかについては、(アイデアはあっても)はっきりとしたことは言えない、といった感じのようだ6
  • 「命題や体験を想像する」ってどういうこと?
    • 直感的にいえば「その事柄がある虚構世界において真であるという志向的態度をとる」みたいな感じになる、と思う。実際(方便として)この種の表現が使われてもいるのだが、本書の立場では本来「虚構世界」といったものを措定しない(われわれがそんなふうに考えてしまうこと自体は認めるが、理論的には不要)ことに注意
    • なお、本書ではこの「想像」という行為がどんなものかについてあまり踏み込んでいない(心理的な視覚化とかではないよ程度の話はしているが)。ウォルトンは虚構性を想像によって定義したうえで他の志向的特性と比較して特殊であるとするのだが、そもそも想像することがどんなことかについて十分な特徴付けを与えておらず、その特殊さが虚構性のほうから逆に説明されているように見えるため、やや論点先取のように感じた(もちろん読めていないだけってことは十分以上にありうるんだけど、このまとめではいったんそういうことにしておく)
  • で、結局「フィクション」って何?
    • つまり「表象体とは何か」ということだが、すでに述べたとおり本書においては「想像を命じるような機能をもったもの」以上でも以下でもない
    • 「現実と一致しているかどうか」や「作者がどのような信念を持っているか」と「フィクションであるかどうか」は関係ない。真理・信念と虚構性・想像は独立である
  • 小説の登場人物など、非現実の対象は存在するの?
    • 端的には「存在しない」という立場。そもそも存在する必要がない
    • たしかに素朴な意味での実在論は必要ないし無理があるとはいえ、抽象的人工物説(この場合は存在する)や様相的マイノング主義(この場合やはり存在しないが志向的対象にはなる)みたいなある程度洗練された立場と両立しないかといえば、前半を見たかぎりだとそこまででもないように見える。やっぱりこのあたりも、「想像」がいまいちはっきりしないせいなんじゃないかという気はする。いずれにせよ、このあたりは第4部で詳述されるはずなのでいったん置いておく7
  • 「生成の原理」って何? なにが虚構的に成り立っているかを決定するしくみってどんなものなの?
    • 上述したとおり「虚構的に成り立つ事柄」とは「想像せよと命じられている事柄(の一部)」ではあるのだけど、もちろん「命じられている」とだけ言われても困るわけで、小道具とともにその内容を決定する「生成の原理」について観察する必要がある。雑駁にいえば、(その小道具が芸術作品であったとして)芸術作品に直接的に「描かれている」ことについてはたいていの場合そのまま虚構的に成り立つ。また、その「描かれている」ことが含意する(描かれていることに反しないかぎりでは「現実」や「そのとき信じられていた事柄」、あるいはお約束などに沿う)ことも連鎖的な形で虚構的に成り立つ。そして、こうした原理はしばしば無意識に働いている。ただし、こうした機構は複雑で、シンプルな原理には還元できないよね、というのがウォルトンの立場。信頼できない語り手のような例もあるし、直接的に「描かれている」ことを特定するのも実はけっこう難しい8
    • 虚構的に成り立つ事柄が不確定だったり、矛盾しているように見えるケースもある。ただしこうしたことはとくに問題にならない。たとえば「ホームズの毛の本数は偶数である」といった命題の真偽が不確定であったとしても、それに関する想像をとりたてて命じられていないのであれば、たんに無視するなどすればよい。このような対処処理は、「虚構的真理」の問題を可能世界と関連づけて捉えたり、特定の言語行為として捉えたりする立場ではとりづらい方法ではあって、本書の特色となっている
  • 「鑑賞者自身に関する命題や体験を想像する」ってどういうこと?
    • 「自分自身がまさに○○している(語りを聞いている、風景を見ている……など)」といった想像を行うということ。これは単にその命題を想像するというだけにとどまらず、「一人称的に」想像してもいる。このようなとき、鑑賞者自身もメイクビリーブゲームの小道具となっているといえる(鑑賞者自身がそこにいるという状況自体が鑑賞者に関するある種の想像を命じていると言えることに注意)
    • 本書で「メイクビリーブゲームへの参加」とされるものはこのような自分自身に関する命題や体験の想像のことだと考えてよい(はず)。芸術鑑賞を含めたメイクビリーブゲーム一般において、このような「参加」は重要な役割を果たしている
  • 素朴な意味での「虚構世界」みたいなものとメイクビリーブとの関係は?
    • そもそも「虚構的に成り立つ」ことを「その事柄がある虚構世界において真である」と説明しているのはあくまで便宜上のことなのであんまり拘らないほうがいいような気はするのだけど、とはいえウォルトン自身、「作品世界」と「メイクビリーブゲームの世界」(というのは本記事での用語法に倣ったもので、本書のなかでは「ごっこ遊びの世界」)みたいなものを置いて区別しているので、ここでいくらか説明しておく
    • 上述のとおり、ある(個人的に鑑賞される)芸術作品の鑑賞者Aは、A自身に関するものも含めたさまざまな命題が虚構的に成り立つようなメイクビリーブゲームに参加している。このとき、その「虚構世界」、すなわち「Aのメイクビリーブゲームの世界」にはAに関する命題が含まれていると言える。しかし一方、別の鑑賞者Bからしてみれば、「Bのメイクビリーブゲームの世界」にはAに関する命題は含まれないだろう(もちろん逆も同じ)。そう考えてみると、その作品が小道具として虚構的に成り立たせている命題群は、「(生成の原理を同じくする、理想的な)どんな鑑賞者にとっても虚構的に成り立つ命題群」と、「鑑賞者ごとに異なる命題群」とに区別できるはず。このとき、前者のようなある種最大公約数的な?虚構世界のことを「作品世界」、後者のように鑑賞者自身に関する虚構的な命題を含む(そのうえで前者の命題群も含む)世界を「メイクビリーブゲームの世界」と呼ぶ
  • 「ホームズは名探偵である」などと言うとき、私たちはいったい何をしているの? ホームズは存在しないにもかかわらず、この「命題のようなもの」に対してなにかしらの「真偽」があるように思われる(そして、「真」であるように思われる)のはなぜ?
    • このように言うとき、私たちは一連のドイル作品を小道具としたメイクビリーブゲームに言語的に参加している(「まさに読んでいる最中」でなくとも参加できることに注意)。このメイクビリーブゲームにおいては、ホームズという登場人物が存在し、それが名探偵であることが虚構的に成り立っている。そして、このようなメイクビリーブゲームのなかでは「ホームズは名探偵だよね」「そうだね、それは真だね」などと言うことが自然であろう
  • 私たちが小説や映画などを見て「怖い」「悲しい」って感じるのはどういうこと?そんなふうに思っても実際に行動しようともしないのに!
    • そのように「感じる」とき、私たちはそういった小説や映画などのメイクビリーブゲームに心理的に参加している。このメイクビリーブゲームにおいて、鑑賞者自身が「怖い」「悲しい」と感じることが虚構的に成り立っている。必ずしも現実に「怖い」「悲しい」と感じているわけではない。現実には「準恐怖」などの「準感情」を備えた状態になっており9、それがなんらかの虚構的に成り立つ信念と組み合わさって、感情を虚構的に成り立たせている
    • フィクションと情動の話はけっこう奥が深いというか、いわゆる情動の哲学/感情の哲学みたいな本もいろいろあるんだけど、ここではいったん置いておく

以下参考にしたものなど(ちゃんとしたリファレンスの書き方になっていないのは許してくれ)。

ほかにも思い付いたら追記していきます。いったん以上。


  1. 特に依拠したものについては随時脚注で付記したうえで、本記事の最後にこれらを含めて列挙する。

  2. 高田の立場を引き継ぎ、シノハラ『物語の外の虚構へ』でも使われている呼び方。ちなみに同書では「小道具」も「プロップ」と表記されている。

  3. 「フィクション」という語の多義性と、本書を含めたいわゆるフィクション論が対象にする「フィクション」という語の用法についてはステッカー『分析美学入門』第7章や清塚『フィクションの哲学[改訂版]』序章なども参照。

  4. この各種アプローチに対するカテゴライズは清塚『フィクションの哲学[改訂版]』によるところが大きい。たぶんいきなり統語論的とか言われてもわからん(というか、『フィクションの哲学[改訂版]』が対象とする文学的なフィクション以外だとちょっとあてはまりづらい)と思うので、詳しくはそちらを参照。

  5. やや本筋から外れるが、語り手の偽装みたいなことをあれこれ考える必要がなく、「そのようにデザインされた」と考えればいいというのは見通しがよく、たとえば小説における不自然な語りみたいなのを考えやすいというのはありそうに感じる。一方、第9章ではそのあたり「語り」に着目していろいろ考察されてはいるようだ(が、未読)。

  6. Walton Fictionality and Imagination なんだけど、読んでいない!(また読みます)内容の紹介としては清塚『フィクションの哲学[改訂版]』第7章や、Kendall Walton「虚構性と想像」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめを参照。これらの紹介だけ読むと、本書の立場だけでも済ませられる事例も含まれてるんじゃないかという気もする。なお、ここから「いかに描かれるか」に着目した発展的な話題については、こちらも清塚『フィクションの哲学[改訂版]』第7章や、あるいはシノハラ『物語の外の虚構へ』を参照。

  7. 森「ウォルトンのフィクション論における情動の問題」の1.1項や高田「ストーリーはどのような存在者か」の2.3項にあるように、たしかにウォルトン非実在論の立場ではあるのだけど、後者でも見られるとおり、ざっくりと「メイクビリーブ説」として考えたときには中立的と考えられるような気もする。正直よくわからない……。

  8. これもシノハラ『物語の外の虚構へ』の受け売りなのだけど、たしかに描かれていることから直接メイクビリーブゲームを引き出すのではなく、間に描写の理論を挟むことである程度解消できるというのはあるっぽい(あんまりよくわかってない)。

  9. 準感情は感情ではない。したがって、「虚構的感情」といった感情の一種であるようなものではない。ではなにかというと、ある種の感覚や状態?であるというだけなのだが、ややこしいよな……この説明で合っているかもどうかあまり自信がない。