2023-01-20、あるいは記憶のなかの京都

住んでいたのは15年ほど前なわけで、いくら古都とはいったって、現代日本における変化の速度の及ばぬわけもなく、ずいぶんと様変わりしているにちがいない。それに加えて「記憶のなか」だ。いろいろに改変されて事実と異なっているのも当然だろう。ジョイスのダブリンのような真似ができるはずもないけれど、ちょっと歩いてみようと思い立った。

とりあえずどこから始めるべきか。無難に百万遍の交差点だろうか。南西にあったみずほ銀行で、生まれてはじめての銀行口座というものを作った。その支店はいつのまにかなくなって、出町支店に変わったそれはいまも維持している。南東には立て看、北西には本屋。この本屋で『よつばと!』を買ったことだけ、なぜか覚えている。もちろんほかの漫画だって、ここで買ったことがあるはずなのだが。同じビルだか隣のビルだかの二階にタイカレー屋があってちょくちょく行っていた。北東側には……なにがあったっけ。すぐに知恩寺じゃなかったよな。

で、ここからどちらに向かう? 出町柳への細道を行くのが王道な気はするが、自分の住んでたアパートに近づくことになり億劫だ。東大路は? 下ってもしばらく大学の敷地だしこっちもパス。上ると……踏切のあたりにあったエロ漫画いっぱいの本屋の話をしなきゃならなくなるな。今出川通を西に向かっても橋を渡るまで特筆するものが(たく味以外に)なかったような気がするので、とりあえず東へ向かうことにする。

とはいえ何があったっけ。もちろん知恩寺はある。古本まつりやってたな。何度か足を運んだうちのいつかに、誰かの全集の一冊、みたいなのを無駄に買ったのだけほのかに覚えている。誰のだろう。進々堂はちょいちょい行ってたはずだけど木のテーブルの質感くらいしか思い出せない。それから鉄板の北部食堂、学食のなかではここがいちばん好きだった。サイドメニューにあったはずのもずく酢のことが突然思い出される。北門のちょっと先(いや、ちょっと前か?でも進々堂のすぐ隣とかではなかったはず)にも狭い喫茶店があって、なんだっけな、そこのピラフみたいなのがうまかった覚えがある。うまかったといえば、南側にある中華料理屋の酸辣湯麺もうまかった。こいつ食い物の話しかしてねえな。

そこからしばらくはかなり記憶が薄れて、白川通にむかってくねっと曲がってちょっと勾配があったんだっけか。ここらへんで特筆することといえば私設図書館(自習室みたいなところ)で、わりと居心地がよく、金に余裕があれば大学の図書館よりこっちという感じだった。あったかいお茶が飲みほうだいだったおかげなだけかもしれない。突然思い出したが、なんだったか自分の本を勝手に本棚に差して帰ったことがあったような。ごめんなさい。

とりあえず白川通まで来た。南に向かうと天一の本店があった……あった気がするのだが、いや、本店はもっと北のほうだっけ? 南にそもそも天一あったっけ? なにかの思い違いだろうか。ラーメン屋といえば、「あかつき」だっけか、あったな。ラーメン好きだな、一乗寺に入ったらひどいことになりそうだ。

そういったほうへと北上してくと、何度か使ったことのあるスタジオがあった、とある友人宅も東に入ったところにあった……気がするし、違った気もする。すべてが曖昧だ。ガケ書房があったのもこのへんだっけ。しゃれこみやがって。なんだかんだいってここでもいろいろ本を買ってはいたはずだけど、じゃあどれがそれなのかと言われれば、やっぱり一冊たりとも覚えていない。ほどなく造形大も見えてくる。ここで渋さのライブを見た……んじゃなかったかなあ。すべてが曖昧だ。

曖昧な食い物の話しかしてねえな。次回、造形大から一乗寺1


  1. こういうのはだいたい続かないんだよ。

2023-01-19、あるいは「弱者のインターネット」について

「ムラシットくん、インターネットの話しか書いてなくない?」

「しゃあないやないですか。仕事の話をするのも家庭の話をするのもはばかられるし。いつもどおりコンテンツの感想か勉強の記録もありなんだろうけど、それらも最近の自分が低調ぎみだし。でもなんか書きたいってのはあるんすよね」

Twitterから離れてみて、現状ではそれほど困ったこともないのだけれど、これは離れてからたいして時間が経っていないからにすぎないんだろうなとも思う。きっとそのうち困るであろうことが、現時点でもいくらか浮かぶのだ。

なかでも、インターネットのおもしろい人を新しく見つけることが難しくなりそうなことはけっこう気になっている。以前はね、Twitterで新しくフォローしてくれた人とか、なんか知らんがRTで回ってきたツイートの人のbioを見て、そこからブログやnoteを読みはじめるみたいなことをよくやってたんだよね。

そりゃ、代替手段がまったくないわけでもない。たとえば、今も昔もはてなブログで読んでるブログのスター欄あたりを見て新しいブログを見つけるみたいなことだってしてはいる(はてなスターはいいサービスだと思う)。とはいえこの手の方法については、noteとかだとあまりよくわからないし(いちおうお気に入りみたいな仕組みはあるっぽいが)、それ以外のプラットフォームや個人サイトみたいなところまでいくとぜんぜんだ。

さらに言えば、そもそもインターネットでそれなりの分量のテキストを書けるのはそれはそれで情報発信強者というか、いや、強いかどうかはよくわからんのだけど、ある程度それに適正のある人なんだよってバイアスも気になってくる1

そう、長い文章を書ける人の長い文章ばかり読んでいてもしょうがないというか、いやもちろんそれはそれでおもしろいし昔はそれで十分な気がしてたんだけど、もうそれだけでは足りなくなっちゃったんだよな。しょうもないことや長く書くまでもないようなことが表現された短文を読むことが、なにかのきっかけになったり、その人の人となりを知れたりとか、そういううれしさはやっぱりある。あった。それってやっぱおもろいやんか。だのに、いまだと長文を書ける人のことしか知れないわけだ。

そんなこと言うなら、そもそも短文だろうがなんだろうが、インターネットでなにか言う人というの自体限られてるだろって? そうね。それはそう。だからインターネットを見るときには、いつだってインターネットに書かない人のことを考えてきたし、いまでもちょくちょく考えてはいる。だけどさ、いまさら短文のひとたちまでその箱に戻す気にはなれないじゃん。

(どうかと思う言い方になってしまうんだけど)「弱者のインターネット」が、やっぱりどこかにほしいってことなのかなあ。


  1. 自分は文章がぜんぜんうまくないのだが(これ読んでたらわかるやろ)、それでもいちおう長いことこうやってブログを置いとく程度の適正はあるんだろうとも思う。

2023-01-10

先日の日記を書いてからこのかた、自由な時間はおおむね、年末年始にRSSリーダーにたまっていたフィードの消化に充てていた。数百とあった記事を、いくらかはざっと眺めて終えたり(せっかく書いてくれたのにごめんね)、あるいは「あとで読む」的なリストに入れて熟読したり。まだすべてを閲し終えるには至っていないのだけれど、だんだんと終わりが見えてきた段階にある。

つまり相変わらず読書には向かっていないのだが、それでもビデオゲームへの耽溺のときのような自罰的な気持ちにならないのは、おれはやっぱりひとさまの日記を読むのが好きなんだよなという感慨のおかげかもしれない。いやその、ビデオゲームも好きだし、プレイしている時間についてはそんなふうに思わないんだけど、不健康に溺れているときというのは、プレイしていないときのあーでもないこーでもないへの空費がひどくてね。

もちろんみなさんご存じのとおり、年末年始のブログというのは、今年のベストバイであるとか、みなさんの人生の進捗(だったり進捗のなさだったり)であるとか、コンテンツのふりかえりであるとかそういったものが多く、ふだん日記を読む気分とは良くも悪くも違ってしまいはする。けれど、ふだんブログを書かない人の記事が読めたり、あるいは普段の日記からだけでは推し量れないその人の側面が垣間見えたりもするもので、総じていえばなかなか充実した時間を過ごしているものだと、素直に思うわけだ。

それに、今年に限っていえば、祖母の影響も大きいのだろう。いつのことだったろうか、インターネットというものを知った祖母は、ぬか床を混ぜる手つきをそのままスマートフォンのスワイプに応用し、ものっすごいスピードでフィードを消化していくようになった。もちろん素早さだけではない。繊細な感受性で画面に浮かぶ文字たちを愛でてもいた。ずっとむかしの記事といまの様子を比較してそのひとの変化に一喜一憂する様子は、傍目にはかわいらしいものと映ったらしく、父母からの電話で話題になることもしばしばだった。

ただ、その祖母も一昨年の末に亡くなった。しばらく——それこそ昨年のほとんど終わりまで——は、その祖母の様子を頭のなかに思い返すことしかできていなかったのだけれど、昨年から今年にかけて久々に帰省し、祖母のいない実家の空気を吸うに至って、そこに至ってようやく、あのものっすごいスピードでのフィード消化を受け継ぐのは自分しかいないのだということに気がついた。いや、気がつかなったのではない。向き合うのを避けていただけのことなんだろう。つまり、ようやく決心がついたのだった。

そんなわけで、今日もものっすごいスピードでフィードを消化しています。

2023-01-04

考えるところがあったというほどでもないのですが(かといってまったくないということもないのですが)、昨年の暮れにスマートフォンからTwitterクライアントを消してみたところとくに問題なくやれているので、とりあえずそんな感じになっています。タクティクスオウガのリメイクをやりすぎているのも原因かもしれない。いろいろひどいところのあるゲームなのにこんなにハマってしまうだなんて……。

また、どこかのMastodonインスタンスにアカウントを作ろうかとも思いつつも、これまでの関係の一部だけを強調して残す形にどうしてもならざるをえず、それはなんだか違う気がしてしまって重い腰を上げるに至っていません。よく見る人仲良くさせてもらってる人はもちろんいろいろにいるのだけれど、どうしても雑多さが減じてしまう/見る範囲が狭まって変に快適になりすぎてしまうことに、どこか抵抗を覚えているようなのです(がんばればかなりの程度復元はできるのだろうが)。いやどうなんだろうな。これまでのソーシャルグラフを捨てたくないという、それだけのことなのかもしれない。そもそもアカウント作ったくらいで捨てることにはならんのだけど。

じゃあブログをコンスタントに書く? それもありかもしれないと思ったことがこうして日記をしたためて公開してみようとしている理由でもあるわけですが、それもとくに続く気がしないんだよな〜。とりあえず、そろそろゲーム中毒を脱して The Poetics of Science Fiction を読み進めるのを再開したいくらいの心持ちにはなってきました。こういう「インターネットで実質なにもできない」期間がたまに出てきがちなことくらい、これまでの人生でよく知っているので、まあ大丈夫でしょくらいに楽観視しています。インターネットが好きなので。インターネットが好きなので!

すずめの戸締まり

ねじれ双角錐群アドベントカレンダー8日目の記事です。ね群といえば、先日の文フリで頒布したね群の最新刊『故障かなと思ったら』もBoothにて通販中。アドカレともどもよろしくね!

というわけで、今日は『すずめの戸締まり』についてのメモを載せることにしました。誰しも思い付くような論点を改めて挙げてみた程度のもので、とくに新しい知見などはありません。観たのは一度だけで、もう数週間前のことです。鮮烈さは薄れているけれど、落ち着いて考えることのできる時期と言えるかもしれません。特典の新海誠本やパンフレットも持ってはいるのですが読んでいません。一方いつも見てるブログなどのレビュー記事は読んでおり、したがってそれらに無意識に影響されている可能性が高いです。

そしてもちろん、ネタバレがあります。

  • まずなにより、震災をここまで真正面から採り上げていることに驚いた
    • 有り体にいえば「こんな難しい題材を……」という話なのだが、この言い方好きじゃないんだよな。そうでなくとも、「難しい題材」というのは(採り上げるだけなら)安易な題材でもありうる
      • どのような扱いがしんじつ「真正面」かについてはさまざまな考えかたがあろうし、本作の過程や結論のつけかたなぞそれにはあたらぬと捉える向きもあるとも思う。それでも、現実にあった災害を主人公の最も重要なバックグラウンドのひとつに据えているのは確かだろう
      • 誰もが気になる点にちがいないが、ほんらいどうしようもない天災というものを、「扉が閉じられなかった/開いてしまったこと」ひいてはその土地にいた人たちの思いの重さに繋げていること(ラストあたりで要石の重さは人の思いの重さみたいなことが述べられていたはず)に対し、相応に危ういと感じてしまうところはあった
      • もちろんそういったもやもやの残ることはもとより想定されていたとろではあろう。それを覚悟と呼んでもいいのだろうが、どちらかといえば「やらざるを得なかった」みたいな印象を受ける
    • そういうわけで、現実にあった災害を「あったこと」として言及するにとどまらず直接的に採り上げながら、いわゆるリアリズムではなく(『君の名は』『天気の子』にもあったような、というかある意味それ以上の)ファンタジーをふんだんにまぶしてみせる……という映画がこの規模で作られ(=予算)この規模で公開されている(=観客の幅広さ)ことが、なんだかものすごいことのように思えてしまった
      • 11年という期間を置いてこのように描くことに対し、「『ちょうどいい』期間だったのかもしれない」と感じたのが正直なところだったけれど、ほんとうのところどうなんだろうね。忘れている人は忘れている、忘れられない人にとっては忘れられないのは当然として。みなさんどうですか
      • 関連して、終盤の日記を開いてのサイレンあたりの描写は事前になんらかの形で警告があってしかるべきだと思った……んだけど、自分が見逃していただけなのだろうか
  • そのうえで、いや……「震災」だけじゃねえ……もうこれ「日本」じゃねえか……という気持ちがさらに上積みされる
    • 「廃墟の扉」が重要なガジェットになっているということは、日本中に廃墟があるということでもある。そのとおり、ロードムービーとして「(衰退する)地方」がさまざまに描かれる
      • 「土砂崩れからインフラの復旧を諦め集落ごと移住した」みたいな話がさらっと出てくるところなどがわかりやすい
      • 地元から田舎(愛媛)と地方都市(神戸)を通っての都会(東京)という過程
      • もちろん(なにがもちろんなのか?)それぞれの地方の人びとはそれぞれに生きていて、関わる人たちは裏表のないとても優しい人間として描かれてもいる。冷静に考えるとちょっといい人すぎるわけだが、それでも/だからこそ、戸を締めるときそこにいた人びとに思いを馳せなければならないことと相補的にはなってる
      • あえていえば、土着的な「日本人」でない人々が見当たらなかったという不満がないではない
    • 緊急地震速報あるいは地震そのものの扱い
      • この島国で生きるうえで、毎度の速報をいちいち大袈裟に気にしていられないということ
      • その一方で、そこで報じられたものこそ次の大きな天災そのものであってもおかしくないということ
      • これらが同居してしまっていること
      • それらがマジでそのまんま描かれていた
    • 東の要石が皇居の下にある!
      • ここの天皇制の間接的な言及のしかたには強迫的な印象さえ受けてしまった
      • が、それこそ「日本的」っていうのはこういうイメージなのかもしれない。触れないわけにもいかないけれど、明示しないし、賛否でさえない
      • そもそも閉じ師がやってるのはそのまんま神事ではある
    • そういう、土地としての/そこに生きる人間にとっての(東京に限らない)「日本の現在」というのをずっと直接的に映していて、(何度も言うけど)それをたくさんの人が観に来る状況って、いったいなんなんだろうと思う。エンタテインメントであるのに、そこに出てくる日本というものの描きかたが直接的すぎてびっくりしてしまう
      • その土地に根付く信念だとか気質みたいなのともまたちょっと違う。もっと物質的な話というか。芹澤の懐メロ(叔母さんの世代でさえないんだよあれ)もそういうところに紐付いて見えてしまう
      • 原発近くと思われる廃墟を見てきれいだと呟く芹澤に、これがきれいに見えるのかと言わせているのは覚えておきたいところではある
    • そして、それでもまた明日、と締めるわけだ。日本に対して!(すずめに対してです)
      • 「大丈夫だ」ではなく、「それでも、大丈夫だ、と言わねばならない」という
  • というのはしかし、あくまで背景ではある。すずめ自身すでに過去(母の死、ないし行方不明)を乗り越えている……というとちょっと違うのかもしれないが、「死とはそういうものなのだ」みたいなある種の達観した状態から始まり(だからこそ草太に同行してあんなに身体を張るわけだ)、そこから変化していく。つまりあくまですずめの現在についての話であって、したがって以下、人間関係について
    • すずめと叔母
      • ダイジンとすずめのラインとの相似がテクい
      • それはともかく、やっぱりあのパーキングエリアでの「本心」からの、自転車に乗っての「それだけじゃない」について、(めちゃくちゃ月並みなことを言うんだが)人の親として「そうだよな〜」みたいになってしまった
      • それ以外にもけっこう、叔母さんの心中察してあまりある感じは観ていくうえでのスムーズさに資してくれていた感じもした
    • すずめと草太
      • 過去に一度(常世で)見ているからといって、いくらなんでも突然すぎやしないか。でも恋ってそういうもんかもしれんな!
      • いやでも、「生きたい」「生きさせたい」への変化の触媒ではあっても、あくまで触媒にすぎないとは言えるのだろうか。すずめ自身でケリをつけているのだから
      • したがって「突然すぎやしないか」とはいったものの、そもそも「恋愛」としてとっさに想像されるものともまた違うのかもしれない
      • 愛にできることはまだあるかい
    • すずめとすずめ
      • 先述したとおり「乗り越え」自体は終わっている。けれども旅を終えて改めて見つめ直してみれば、違う言葉が出てくる
      • ほかの誰に伝える/伝えられるでもなく、みずからに言い聞かせるでもなく、自分自身に二人称で伝える/伝えられること
      • ここを(常世という時空を使って)母ではなく自分自身としたというのが本作でいちばんよかったと感じたところではあった
  • そのほか落穂拾い
    • 開く/閉じるというモチーフ。とくに芹澤のオープンカーの幌の閉まる閉まらない。開放は開放で気持ちいいんだよね、みたいな
    • ダイジンとサダイジンについて。なんかみんなよくわかんなかったと言っていたが、自分も例に漏れずあんまりわかっていない。とはいえそんなに気になってもいない
    • あと、アニメートについてはもはやそんなに言うことがないな。巨大な怪物がガシガシ出てくるのが新機軸な感じはあったが

なんか盛大な勘違いがあったらご指摘ください。以上です。

文学フリマのSF島その他の告知

『The Poetics of Science Fiction』を読むプロジェクトはタクティクスオウガのリメイクが出たことで完全に停止していますが、それはともかくとして告知になります。

11月20日開催の文学フリマ東京35にて、例年どおり ねじれ双角錐群 の同人誌が出ます。例年どおり私も参加しています。ブースは G-10。いつも通りのSF島、おもしろそうなサークルがほかにもありますから、いらっしゃる方はぜひお立ち寄りください。

告知サイトはこちら:故障かなと思ったら - ねじれ双角錐群

毎回なんらかのテーマを設け、群員が競って小説(小説じゃないこともある)を書くのがねじれ双角錐群のスタイル。書名からも明らかなとおり、今回のテーマは 「取扱説明書」 です。以下、ざっくり紹介していきましょう。

🌳森/The Forest - 石井僚一

ある一人の男が、学生時代に恋人と訪れた森を、大人になって再び訪れる。レイ・ブラッドベリの名作短編「みずうみ」をもとに書かれた抒情SF。

ベースになっている「みずうみ」を読んだことがあるなら、あの文章のきれいさ、そしてあのふしぎさを思い出してください。湖という、あの魔法のような空間! あれが、ここにもあります。どんなふうに「もとに書かれている」のかはぜひ読んで確かめていただければというところですが、湖が森に転じたうえで物語の舵がこう切られるのかと、きっと感嘆されるであろうと請け合いましょう。もちろん「みずうみ」を読んでいなくともそれはまた静かでうれしい読書体験となるはず。

🦾取説ばあさん - 小林貫

「おぉ……旦那様。説明書を、おお……説明書をお持ちではありませぬか」 極彩色のネオンと喧噪、眠らないサイバーシティで取説ばあさんに遭遇したおれは、踏み入ってはならないとわかっていながらも、その妖しさに魅かれていく。

「取説ばあさん」ってなんだって思いますよね。思うはずです。思いましたね? マジでなんなんだよ。サイバーパンクないつかの未来のストリートにだって、ときには都市伝説的な怪異が立ち現れるものなのかもしれません。そして、ストリートにも怪異にも共通した掟があります。好奇心は猫をも殺すってやつです。でもまあ、近付いちゃうものです。デカいヤマがあるかもしれねえからな。そういう意味で文体からガジェットから、そして生き様までしっかりサイバーパンクなんですよね。ただ、それにしたって取説ばあさんってなんなんだよ。

🦶私の自由な選択として - 笹幡みなみ

足の裏の特定の反射区を刺激することは、自由意志信念の強化に繋がり(Coolidge, 2035)、特定の気分障害に対して有効とされる(Coolidge et al., 2038)。本文書はこれらの研究を概説し、彼女の選択を伝える。

これも「反射療法で自由意志信念が高まる」というところからしておもろいでしょ。しかも実際に読みはじめていただくとわかるとおり、いかにももっともらしい雰囲気を出す解説のスタイルがすげーうまい。……のですが、もちろんそれだけなはずもない。読んでいくうちに一段二段と発想がエスカレートしていくさまはもはや爽快というか、SFを読むときの醍醐味のひとつはこれを感じるところにあるよねと、自分なんかは思っちゃいました。それはそれとして止まったエレベーターに乗り合わせたからといって足を揉むのはやめたほうがいい。

🐈故障とは言うまいね? - Garanhead

「マニュアリストロ」。それは国の認証を受けた、良質な説明書を作成する者たち。彼らの手がけた説明書なくして工業製品の出荷や流通が成り立たなくなった未来。心が故障した少年と、体が故障した少女。二人の最年少マニュアリストロたちが出会う時、過去と未来を繋ぐ因縁尽のマニュアルが綴られる。

これもまた「説明書作成についての国家資格」ってなんだよっていう、掴みがいいやつなんですよね……三連続でおもしろい設定が来てるな。ときには工場に乗り込み、ありはドンパチだって起こりかねない「説明書作り」の荒唐無稽さ。そしてそのうえで、自分がいちばん良いなと感じたのが、そんな無茶をしつつもいかにも楽しそうな説明書作りの様子でした。そこがほんとにいいんですよね……とかなんとか、王道なボーイミーツガールも、トラウマを負った少年の成長も、もちろんギャグも、そういったものすべてが「説明書」に集約される腕力だって見物になっている一作だと思います。

🌌直射日光の当たらない涼しい場所 - 全自動ムー大陸

「説明書」を題材にした短歌十首。

短歌、紹介するのむつかしいな! ね群の同人誌の表紙はすべて全ムーさんが担当されているのですが(最初に載せたね群サイトから辿って見ることができます)、けっこうああいう、イメージの広がりみたいなのが、今回の短歌十首にも共通しているように感じました。みなさんはどれが好きでしょうか、読んだあと、ぼくにもこっそり教えてください。

👨子供たちのための教本 - murashit

役所はわたしたちが死ぬ日を正確に知っていて、その期日を書留で通知する。民法上の子を持たない者には本人、持つ者はその子に書留を送る。わたしはある日、通知を受け取った。父は二週間後、死ぬことになっていた。

おれのや。

🧚沼妖精ベルチナ - 鴻上怜

底辺会社員の俺は部下のオッドラの教育に手を焼きつつ、人事としての業務を日々行う。そんなある日、社のデータベースがぬるぬるの粘液で覆われてしまう。忙しい情シスに代わって原因を探る俺は、地下で謎の老婆サーバやまんばと遭遇する。そしてそれとは関係なく、俺のもとへ1体の妖精が訪れる。沼妖精を名乗る少女は、行方不明の御婆を探しているらしいが――

ここまできたらもう、「ってなんだよ」が追い付かなくなってくるわけです。手数が多すぎる。紹介文からして手数が多く見えるかもしれませんが、いやこれ、紹介文はあくまで序の口ですからね。サラリーマンの悲哀に満ちたものすごい俗っぽい内容が、どこか木で鼻をくくったような(しかもほのかに教養を感じさせる)文体で書かれている……にもかかわらず、とかく毎行パンチラインが現われる。いったい何者なんだ。ともかくもね、仕事ではね、セキュリティには気をつけようね、なんだかまずいことが起きかねないからね。そんな教訓も得られました。ありがとう!

🎥閲覧者 - cydonianbanana

遮光スクリーンに覆われた窓、空調設備の定常的なノイズ、絵と本の切れ端に埋め尽くされた壁、椅子のない机、開かれたままの取扱説明書——登場人物不在、住人の輪郭を示す静物の素描で綴られた縮尺一分の一の地図をめぐる冒険がはじまる。

もはや恒例かもしれない、今回の組版やってる枠です。ほとんど静謐といっていい情景描写が展開されるなかで、ざっくり言えば「覗き込む/そこから離れる」様子がインデントで表現される仕掛けではあるのですが、それがだんだん(みんな大好き)一分の一地図とどうつながってくるのかを読み解いていくことになるうちにいつの間にやらクライマックスからの急展開……という、静と動っていう意味でも読んで楽しめるのではないでしょうか。「取扱説明書」テーマの本誌の締めにふさわしい一作だと思います。


そしてすみません、ついでになってしまって恐縮なのですが、なんの因果か『小説すばる』2022年12月号に私の書いた文章が載っています。「偏愛体質」という1ページコラムコーナーです。なんか好きなものについて書けということだったので、SKKという日本語入力システムについて書きました。好きっていうか、いつの間にか離れられない腐れ縁というか。熟練のSKKユーザーから見ればなにをいまさらな内容ではありますが、これを機に使ったことのない方にも興味を持ってもらえれば、あわよくば沈んでくもらえれば、なんだろうな、今夜のぼくの晩飯がいつもよりもっと美味しく感じられるんじゃないかな。

あとなんだっけ。最近「Do It Yourself!!」というアニメをすごくおもしろく見ているのですが、その各回タイトルが「DIYって、どー・いう・やつ?」みたいな感じなんですよね。で、今回書いたやつのタイトル(上でリンクした目次からは見られない)もそういう感じにしました。

アニメは見ましょう、ブログは書きましょう。以上です。

『The Poetics of Science Fiction』第3章のメモ

2週間で1章くらいのペースで……とか言ってたんだけど、この章はかなりおもしろくて深みにハマってしまった。もうちょっとペース落としたいです。

The Poetics of Science Fiction (Textual Explorations) (English Edition)

承前:

murashit.hateblo.jp

第3章のざっくりまとめ:

  • 本章の目的
    • SFにおける「言語学」「言語」への意識や実際の扱いについて検討していく
  • おおまかな流れ
    • SFにおいて現実の言語学への理解は浅い傾向にあるものの、そう言って切って捨ててしまうだけにもできないよ
    • 「言語」と「思考」を素朴に切り離せるような言語観に基づく描写も多い一方で、ディストピアSFに頻出する言語の抑圧など、それらの切り離せなさへの認識に基づく作品も古くからあったよ
    • 同じようにスタイルに対する意識が薄いジャンルだったけれど(たぶん「言語-思考」と「文体-内容」をある程度類比している)、ニューウェーブ以降は多様化が進んだよ。その例をいくつか見てみるよ(ここはたぶん、言語変種や言語使用域 register の話が裏テーマとしてある気がする)
    • ディレイニー先生によるSF批評講座
  • 感想とか疑問点とか
    • 言語/言語学への意識が低め/理解が浅めみたいな話は、近年(いつ?)のさまざまな「言語SF」のことなどを考えるとやや意外な感はあるかもしれない
    • が、伝統的にはハードサイエンス寄りだよねというのはその通りだし、自分が読んでるものの偏りもあるかもだし、言われてみれば「言語SF」みたいなのはあんまり思い付かない(それに本書が2000年刊行であることにもいちおう留意したい)
    • たとえば『スノウ・クラッシュ』は(言語コンシャスであっても)言語学的に無茶だろと言われたら、そうだな……とか。いや、そういう話じゃねえんだよ!というのは本書でも述べられているとおりである
    • ともあれ、そういう意味で批判的な部分はやや古めのSFが対象である感じはある
    • そしてニューウェーブ以降の文体的な実験について触れる節は話が具体的だし、出てくる例もおもしろい。『侍女の物語』はもちろんなんだけど、オールディスがここまでやってたなんて知らなかった……
    • ディレイニー先生!

以下メモ:

3. Micrological: Futureplay

3.1 Preview

科学の諸分野とSFとの間での知識やアイデアの交換は珍しいことではない(ウェルズ『解放された世界』と核物理学との関係など)。本書が立脚する言語学もその例外ではない。

……というわけで、本章ではSFと言語の関連について検討していく。

3.2 Linguistics on Another Planet

まず、SFと言語学の関係を論じたMeyers (1980)1を引きつつ、ざっくり言ってしまえば多くのSF作品は(その時点での最新の)言語学的な知見に無理解であったとする。Mayersの批判がけっこう皮肉っぽく、細かい例もおもしろいところだがここでは省略。

とはいえ、これはSF(における言語の扱い)を「未来予測的」に捉えたときの話にすぎないとも言える。よりチャリタブルに読むこともできよう。「形式そのものが象徴的に重要なのだ」というが(正直どういうことかよくわからないんだけど)、どういうことかというと……。

たとえば、ブラッドベリ「雷のような音」。本作では、タイムトラベル先でのちょっとしたことからのバタフライ効果の結果として、現代の英語の正書法が変わってしまう描写がある。ここで示される正書法について言語学的に考察することはできるが、それはともかくとして、これは別の世界線2であることのしるしになっている。

また、「異星人が英語で喋っている」(かのように記述される)ことについて。もちろんまじめに異星人の言語を考えるのは大変だし読むのもつらいので仕方がないのだが、テレパシーや自動翻訳だったり、英語がなんらかの理由で銀河レベルの共通語になっていたりと、「それっぽい(が、しばしば言語学的にどうなんだとなる)言い訳」が示されていることは少なくない。が、こうして言い訳をすること自体、異邦性(異星人性、 alienness)のあることを示したいということではある。

ともあれ、言語学の観点から批判できるのは確かである一方、読みやすさだとかへの配慮がどうしても必要になることもやはり認めなければならない。だいたい、それを言えば「物理学からみれば放縦すぎる、けれどいかにももっともらしく感じる」みたいなのは当然にあるわけだ。

3.3 Linguistic Science in Science Fiction

さて、SFは自然法則だってものともしないジャンルなわけだが、その一方で文体などの面ではどうにも「ふつう」である(言ってしまえば、つまらない)ことがしばしばであった。客観的で説明的、みたいなイメージはどうしてもある。これにはもちろんいろいろ理由があるが、科学というのがそもそも合理的、客観的であって、そのように描かれるものだという見方のあることは大きいだろう。

そしてこういった見方は、前言語的 pre-linguistic で客観的な本質を汲む(つまり言語と思考を分離して後者のみを抽出できるような)万能翻訳機が可能であるかのような素朴な言語観 folk-theory of language/linguistics にも影響したのではないか3。さらに万能翻訳機の実現可能性についてのもうすこし細かい考察とか、超光速航行とかとも絡めた「もっともらしさ」の話とか出てくるが、それらもここでは割愛。

とはいえ一方で、スウィフト『ガリヴァー旅行記』、ハクスリー『すばらしい新世界』、ザミャーチン『われら』、オーウェル『一九八四年』のようなユートピアディストピアを扱う小説を見てみれば、先述のような「素朴な」言語観にもとづくものばかりでないこともわかる。こうした作品ではしばしばディストピア的な社会(の維持)と言語(の抑圧)の間に深い関係のあることが描かれており、ひいては言語と思考の間に深い関係があるという認識が認められる、と4。また、関連してというか、まあそのまんまなのだが、サピア=ウォーフ仮説についても触れられている5

それからニュースピークについて詳しく述べられるが、よく知られているところなので省略(ただ、オーウェルは文法や語用論的観点よりも語彙に過剰に重きを置いているという指摘はたしかにと思った)。

3.4 Linguistic Special Effects

先に「文体のつまらなさ」、そして、言語/言語学への関心の薄さについて触れたが、1960年代、ムアコック、バラード、オールディスらに代表されるニューウェーブSFの登場あたりから話は変わってくる。伝統的なSF作品の外にも目を向け、手法面での多様性がいっきに花開く、と。てなわけで、以下ではニュウェーヴ以降の作品からそのような手法的特徴の例がいくつか取り上げられる。


まずは「Collage and Documentary Fragmentation」。断片(多くは異なる媒体からの断片)を集めて並べて見せたりする、あれ。

たとえばアトウッド『侍女の物語』。本書は、末尾の「歴史的背景に関する注釈」に至り、それまで示されてきたテキストの出自が明らかにされ、「信憑性」に疑問が付される構成となっている。しかもそのうえで「客観性」のほうにも同時に(風刺的な形で)釘を刺していたりもする。今回改めて「注釈」だけ読んだんだけど、この短いなかで多方面に何重にも皮肉が効いててすごいんだよな……。

あるいはレッシング『シカスタ:アルゴ座のカノープス』について。Wikipediaに載っている書影を見るとわかるように、表紙からして報告書の特徴を模している6。これに続く本文もやはり(さまざまな書体などを使い分けつつ)情報源の異なる情報をまとめている、という形式になっているようだ。

そんなわけで、こうした手法は「ここにあるのは誰かひとりの語りではなく、並んだ証拠をもとに組み立ていくことが期待されるテクストである」といった読み方を誘うものだ、という感じ。文中でもちょっと触れられているが、このへんはリアリズム以前によくあった書簡体などの形式と絡めて考えられるところ(単純に「新しい」というものではない、というか)。それこそ『フランケンシュタイン』だってそうなのだ。

このほか、ハイパーテキスト的なフィクションや、ベア『女王の使者』も紹介されてるけどここでは割愛。


続いて「The Vernacular of the Future」。vernacularというとおり、正書法的でない(?)ような言葉づかいの使用。たとえば、ディック『高い城の男』では第二次世界大戦で日本がアメリカに勝ったことの影響を、冠詞や前置詞が省かれた「日本語っぽい英語」を出すって形でも仄めかしている(これぜんぜん知らなかったけど、そうなの?)。このほか、戦争や災害など世界情勢の変化により言語が変容しているさまが描かれる例は多い。

そしてここでは、ホーバン Riddley Walker 7(ポストアポカリプスもので、一人称で語られる作品らしい)の「壊れて、すりきれたような」英語が詳しく検討されている。英語特有の話も多いので(なので正直かなりよくわからないので)ここでは割愛するが……。ものすごくおおざっぱに言えば、 hellog~英語史ブログ にあるような話の外挿がかなりもっともらしくやられているよという話……だと思う。

で、こんなふうに異化効果をもたらすような表現はSFではおなじみのものだよ8、という感じでまとめられる。また、意味もわからない言葉の意味を求める(ことを読者がさせられる)ということ自体が、Riddley Walker の主人公が行っていることと重なる、とか。


最後に『Affective Thematising of Language』。スタイルそのものを主題化するようなものと思えばいいのかな。

ここでオールディスの短編 ‘Orgy of the Living and the Dying’ 9が紹介される。ミスコミュニケーションがテーマになった作品であって、その表現として、地の文に突然「どこかからの声」が入ってきたりするせいで文法が崩れたりもするようなスタイルとなっている、みたいな。

この方向性を推し進めたのが Barefoot in the Head 10オールディスについての英語版Wikipediaの記事 では「オールディス作品のなかでも、おそらく最も実験的」とされ、『フィネガンズ・ウェイク』さえ引き合いに出されている長編。本書のなかでも、Ketterer (1974)11 の批評が引かれており、そこでもジョイスボルヘス、ロブ=グリエ12が引き合いに出されている。……ということからもわかるとおり、ふつうの英語で書かれているとは言いづらく、いくらでも深く読めそうになる手法がこれでもかと使われているっぽい。めちゃくちゃ雑に言えば、本書を読む体験と、本書が幻覚への没入をテーマとしていることとが対応していると。で、いちおうそれなりの紙幅も割かれ引用とともに解説もされているのだが、そんなもんをまとめられるわけねえだろうが!

とりあえず、『ニューロマンサー』におけるかの有名な“consensual hallucination″という(サイバースペースに対する)表現を引きつつ共通点を指摘していることはいちおうメモっておく。

3.5 Science Fiction and Non-Science Fiction

前節の検討から、ニューウェーブモダニズム文学へのキャッチアップと見なし、その延長にサイバーパンクポストモダニズム(の文学や諸芸術)との相互交流が…‥みたいな構図をとりたくなるかもしれないが、さてどうだろうね、みたいな話。続けて紹介される、90年代のメインストリーム文学側の批評がサイバーパンク(なかでもギブスン)をポストモダニズムの最先端に位置付けもてはやす様子は、実際ちょっとこう、微笑ましい感じがある。

一方SFサイドからの見方として挙げられているMcCaffery (1991)13では、先行する「拡張主義者 expansionist」フェーズ(50年代より前)と、それに続く「内破的 implosive」(60年代以降の内的宇宙へのベクトルの転換)フェーズに分けて説明している(このへんはよく聞く話だ)。で、それ以降のSFはどんどん「幻覚を実在のように扱う treats hallucination as an object in the world」ようになっていった、とされる。そしてこれこそ、本書において今後たびたび立ち戻ることになる「dramatisation14 としてのSF」という見方……なのだそうだ。


そしてディレイニーが召喚される(!)。言うまでもなく言語SFの先駆者であり、SFにかんする詩学的考察においても先駆者である。で、そのディレイニーは、SFはSFで独自の来歴、読者、問題意識等を持つのだから、安易にメインストリーム文学とかの概念/用語を輸入するべきではない、といったことを言ってる。

……というわけで、ひいては、メインストリーム文学の歴史観をSFにも押し広げて語るのには無理があろう、と。また、メインストリーム文学サイドの批評を批判し、(“the worst sort of criticism of the latter[※ポストモダニズム批評のこと] descends into poetic though impressionistic nonsense“とか……)そういうのはSFには要らんよ、とも述べられる(このへんはストックウェルの言です)。

ともあれディレイニーの話に戻ると、彼はそもそも「メインストリーム」っていう言い方にも疑義を呈している。ここはちょっと、いやかなりおもしろいので、以下にそのまま孫引きする15

I can think of no series of words that could appear in a piece of naturalistic fiction that could not also appear in the same order in a piece of speculative fiction. I can, however, think of many series of words that, while fine for speculative fiction, would be meaningless as naturalism. Which then is the major and which the sub-category?

Consider: naturalistic fictions are parallel-world stories in which the divergence from the real is too slight for historical verification.

そしてさらには……

The science fictional enterprise is richer than the enterprise of mundane fiction. It is richer through its extended repertoire of sentences, its consequent greater range of possible incident, and through its more varied field of rhetorical and syntagmatic organisation.

力強い!!テンション上がってきた!!!

……まあなので、SFにはそれだけのポテンシャルがある(言ってみれば、可能な世界の、可能な文がすべて……みたいな)し、したがってそれを分析する側もその可能性に対応できるようなものでなければならない、と。

3.6 Review

ここで挙げたようなディレイニーの見方は本書(のとくに後半)にも通底しているよ(textusの話とかsymbolist strategiesが云々かあるけどひとまず割愛)。

でもって、本章ではとくに文体的な意味で言語コンシャスなSFを見てきた(3.4節)けれど、このようにある種逸脱的なものは(際立っているぶん)言うなれば研究しやすい対象とも言える。そして、本章で採り上げたようなものはSFのあくまで一部である。次章ではSFの主流な伝統(パルプSF!!)を取り扱う。


  1. Meyers, W.E. (1980) Aliens and Linguists: Language Study and Science Fiction, Athens: University of Georgia Press.

  2. シュタゲ発祥のこの表現は(濫用ではあるが)人口に膾炙していてわかりやすいので、ここでも使わせていただきます。

  3. ……とまとめるとそれこそ単純化しすぎで、実際はもうちょっと慎重な言い方がされている。が、いったんこうまとめさせてくれ。なお、(このような言語観のある種のパロディであるという文脈で)バベル魚も出てくる🐠

  4. 正確に言えば文中での『ガリヴァー旅行記』の扱いは若干異なるが、ここにまとめてしまうことにする。また、それこそ『華氏451度』や『侍女の物語』もこの例に漏れないのだが、おそらくここでは比較的時代の早い作品が挙げられているのだと思われる。

  5. 強い意味での解釈はさすがに無理だが、弱い意味での解釈であれば十分に成り立つであろうことについては、たとえば今井『ことばと思考』あたりがとっつきやすいか。

  6. もちろん本書のなかでは画像は載っておらず、載ってる文字要素を引用しているだけである。Wikipediaに掲載されているのはUSでの初版のもので、ストックウェルが直接参照しているのもこちらなのだが、調べてみると オリジナルであるUKの初版のほうがもっとそれっぽい

  7. 翻訳はないが、調べてみると柴田『生半可版英米小説演習』で試訳とともに軽く紹介されているようだ。

  8. スーヴィン『SFの変容:ある文学ジャンルの詩学と歴史』の「認識的疎外 cognitive estrangement」(読んでないのでこの訳語でいいのかどうかはわからん)への言及がある。

  9. The Moment of Eclipse 所収。翻訳作品集成を見る限りでは翻訳なさそう。

  10. やっぱり翻訳がない。ここでの話を見るかぎりでは、柳瀬尚紀でもないとやらないんだろうな……という感じがすごくする。

  11. Ketterer, D. (1974) New Worlds for Old: The Apocalyptic Imagination, Science Fiction and American Literature, Bloomington: Indiana University Press.

  12. ちなみに、調べてる途中で『世界Aの報告書』についてロブ=グリエが引き合いに出されているのを見つけたりした。( ブライアン・オールディス「世界Aの報告書」(サンリオSF文庫) - odd_hatchの読書ノート に引かれている岡和田さんのツイート。そしてこの記事見るかぎりたしかにこっちのほうがロブ=グリエっぽさがある)もちろん自分は読んだことないっす。

  13. McCaffery, L. (ed) (1991) Storming the Reality Studio: A Casebook of Cyberpunk and Postmodern Science Fiction, Durham/London: Duke University Press.

  14. ひとまず「ドラマ化」くらいか? 「脚色」というと違いそうな気がする。……というふうにこの時点では正直よくわからないんだが、よくいうように、隠喩なり象徴なり寓意なりをそのまま具象化できるのがSFだぜ、みたいな話だろうか?

  15. Delany, S.R. (1977) The Jewel-Hinged Jaw: Notes on the Language of Science Fiction, Elizabethtown, NY: Dragon Press.