『環境を批評する』と『東京ヴァナキュラー』と、あと自分語り

直近では『逆コーラップス』をやっています1。……ということとはまったく関係がなく、今日は最近読んだ本の話をする。青田『環境を批評する』とサンド『東京ヴァナキュラー』について。

『環境を批評する』を読んだきっかけは、日常美学への興味もありその入門として手にとった青田『「ふつうの暮らし」を美学する』がおもしろくて、じゃあ同著者の博論本もと考えたところにあり……というだけではないんだよ! 実際のところ近年のマイブームである美学的関心のなかで行為の美学みたいなのが盛り上がってるっぽいというのを知ったこともあるし2、ゲームプレイにおける感性のはたらきがそのへんと関わってきそうだとかもあるし3、さらには自分がむかし興味をもっていた「都市をどのように感じてどのようなイメージを生成するのか」みたいな話とも絡むじゃん、とかなんとか、そういういろいろによるところがありました。

というわけで、本書については以下のようにまとめられそうに思う。

本書はカールソンをスタート地点としつつも、環境(自然環境も人間環境も)を美的にとらえる際の課題を2つに分解する。ざっくりいえば「このときの鑑賞の対象ってなんなのか、どうやって決まるのか」というフレーミングの問題と、「価値判断を共有できる(つまり、客観的に批評できる)ものなのか」という規範性の問題。前者についてはバーリアントの参与の美学などを引いてマクロ/ミクロなフレームの重ね合わせなどフレーミングの変化のあることを示しつつ、フレーミングそれ自体も鑑賞の構成要素である(なんなら、このフレーミングの可塑性が発揮されるときこそ感性がよりつよくはたらくのではないか)とする。

で、そうなると可塑性のある対象の側で規範性を担保できないわけで、後者の問題はより解決困難になりそうにみえるが……これについてはシブリー-ブレイディを引きつつ知覚的証明というコミュニケーションの成立によって間主観性が担保されるとし(なので当然多元主義的となる)、かつほんらい無際限である環境をフレーミングするという実践だからこそ、それら多元的な批評者の間での協働が必要となる(このあたりはロペスのネットワーク理論が引かれている)と結ばれる。

もちろん、結論としてはあくまで穏当で、そこまでの論証というか、過去の環境美学との接続と組み合わせが本書のおもしろいところであるためここだけとり出してもあれなんだけども、これはかなり、根拠付けとしてしっかりしてくれているなという心強さを感じたのでした。

……というところなんだけど、読んでいる途中に思ったのが、考現学や路上観察みたいな実践って日本だけでなく海外にもあるんだろうかということ。きっと似たようなものはあるはずなんだけど、それをどうやって調べればいいかわからないなとも思った。そんな話をBlueskyでつぶやいていたところ、紹介してもらったのが『東京ヴァナキュラー』であった(鷲羽さんありがとうございます!)。

こちらもまとめると、以下のようになるだろうか(序章と終章はひととおり読みつつも間の事例の章はざっくり眺めただけだが)。

戦後なにもないところからはじまった東京の歴史保存への意識は、明確な運動を経ることもないまま発展してきたようにみえる。これはどういうことなのか。これに対して本書は、1969年の新宿西口地下広場占拠とその挫折を転回点としたうえで、その後のヴァナキュラーへの意識の事例として谷根千、路上観察、そして江戸東京博物館を採り上げる。ときにナショナリズムや商業主義を利用しあるいは利用されながら、あるいは緊張関係をはらみながら、ローカルな過去/現在の記憶や遺産をみずから掘り起こし規定していくさまの記述。言い換えれば、なにが/どこが、どのような根拠で、誰にとっての遺産であるのか(あるいは現在も含め、なにを/どこを、どのような根拠で、誰にとっての遺産「としていく」のか)についての既存の試みが提示される。

……という感じで、もともとの目的であった「路上観察みたいな実践って海外にもあるんだろうか」についてはわかるようなわからんような感じだった(ドゥヴォール-シチュアシオニストとの対比が出てきてて、たしかに共通するところと対照的なところとが際立っておもしろいとは思った4)のはともかくとして、同時に読んでいた『環境を批評する』とあわせて考えれば、「まさにこれじゃん!」となったんですよね。ここで記述されているのはフレーミングの取り組みであり、ひいてはそれを(部分的に政治的にであれ)共有しようとする営みであるという。遺産を規定するっていうのはそれこそ、批評的言説を発展させるっていうことなのだろう、と。

モニュメント/作品だけでなくヴァナキュラー/環境に目を向けるみたいな話じたいはもはや真新しくもなんともないわけだけど、じゃあそれはいったいどういう実践で、その実践にどういう根拠づけを与えられるのかってのはきっとまだふんわりとしか理解されていなくて、いやまあそんなんなくてもいいよという人もいるだろうけど、やっぱ気になるんじゃんね。というかだから、そこが自分にとって大事やったぽいなと思い返されたのでした。そういう感じで、これ自体おもしろい話だとは思いつつ、自分語りとして! 20年だか昔の興味感心が改めてここらで掘り返されてきたところに、同時にちょっと感じ入ってしまったという記録です。


  1. SRPGおじさんだからね。そしてSRPGおじさんとして、めちゃくちゃおもしろいんですよ、一戦一戦が重くて……。ひとつのマップに2時間とか3時間とかか平気でかかる。セーブしてリロードしてという繰り返しをストーリーの面で担保してくれているとはいえ、それにしたって重たい。でも(SRPGおじさんとして)この感覚を求めていたところはたしかにある。あんまりやっている人をみかけない(ドルフロファンの人でやっているのは見なくはないんだけど、おれはSRPGおじさんでやっている人をもっと見たいんだ!)ので、気が向いたらやってみてくれよな!
  2. このへんが、それへの疑義も含めて詳しい。
  3. こないだ読んだグェンの論文とか、Games: Agency as Art(こっちもヒィヒィ言いながらなんとか読んだ)とかでも触れられていた。
  4. シチュアシオニストの日常の扱い方についてはこれが参考になった。自分のイメージどおりなところとそうでもないところがあったというか。

ビデオゲームのストーリーは非整合的なのか - 倉根啓

ずっとエルデンリングのDLCをやっていて、ようやく飽き、ほかのことをする気になってきました。ほかのことをするなかで、エルデンリングをやっていたせいで見逃していた『REPLAYING JAPAN』Vol.6の倉根「ビデオゲームのストーリーは非整合的なのか」がおもしろかったので、リハビリも兼ねて以下にまとめます。それほど長くはない論文であるため、誤りが含まれているまとめを読むより、直接読んだほうがいいとは思う。

  • ビデオゲームの物語における時間について、ある種の非整合性が見出されることがある。典型的にはたとえば、『サイバーパンク2077』で「病気の進行によるタイムリミットがある」ことと、それをほっといてサブクエストを進めて時間がかなりの経ってしまうこととの齟齬など
    • (時間に限らない)こういった非整合について、「あくまでゲームの都合であり、虚構世界で起こったことではない」と無視できるケースもあるが、なんらかの形で虚構世界で起こったこととして解釈しなければならない(互いに矛盾しつつも、両立しているように思われる)ケースもある。ここで検討したいのは後者である
    • 時間に関する非整合性のうち、「持続」に関するもの(サッカーゲームの一試合はほんとうの90分ではない、など)については既存の研究がある一方、「順序」に関するもの(サブクエの出来事はどのタイミングで起こったのか?など)についてはほとんどなさそう
  • こうした状況は、倉根(2023)1のフィクションの枠組みを使って記述できる。この枠組みを時間に適用するなら、次のような3層モデルとなる
    • 実時間:映像が流れる現実世界の時間
      • 物語論における物語言説の時間に相当する
    • ゲーム環境時間:ゲーム環境の出来事が位置付けられる時間
      • ここで「ゲーム環境」とは、ディスプレイを通じて提示されるもの全般。ゲームメカニクスを表すものも含まれているなど、(因果関係などの現実的な)整合性は必ずしも求められない
      • 物語論にはこれに相当するレイヤはない。ユールの「イベント時間」がこれにあたる。ゲーム環境時間における順序は(シーン切り替えがなければ)実時間の順序と同じであり、持続についてもなんらかの投影関係があるものとして解釈される
    • 物語世界時間:物語世界の出来事が位置付けられる時間
      • ここで「物語世界」とは、プレイヤーの解釈によってゲーム環境をもとに同定される、一貫した形で理解できる虚構的な世界のこと。どのように同定されるかは、明確な因果関係や時間的前後関係が明示されている場合だけでなく、「メインクエストとサブクエストの区分」といった慣習によるところも
      • 物語論における物語内容の時間に相当する。また、松永の「虚構時間」もこれに相当する
    • これを踏まえると、ここで問題になっている典型例は「サブクエストもメインクエストも含めて提示されるゲーム環境から一貫した物語世界時間を同定する(物語上の時系列を確定する)にあたり、もしサブクエストをまじめに位置付けようとすると、なんだかうまくいかない」といった状況といえる
  • ところでHerman(2004)2では、(ビデオゲームに限らずとも)「物語の中には、語られた出来事を物語世界の時間軸上に厳密に位置付けることが困難、あるいは不可能な作品があることが指摘」されている
    • このように時系列上にうまく位置付けられない状況を、Hermanは「ファジーな時間性」と呼んでいる。複数の可能な配列が同じように確からしくて確定できなかったり、「ある要素はいくつかの要素に対してのみ一意に順序づけられるが、ある要素はほかのどの要素に対しても順序づけられない」といった状況
    • 問題になっているサブクエストなども、このように「大筋となる物語内容と部分的にしか順序づけられない」例といえる
    • こうした場合読者/プレイヤーは「不確定な部分は不確定なまま」で物語世界をモデル化しているようである

というわけで:

非整合を起こす出来事は確かに起きたのだが、その出来事は物語世界時間の特定の地点に位置付けられないため、プレイヤーは具体的に非整合がどの出来事とどの出来事の間で起きたのか曖昧なままにすることができる。[...]これにより、プレイヤーは互いに非整合な内容 $(P, \neg P)$ を想像しつつも、それらが同時に起きること $(P \land \neg P)$ を想像することを避けることができる。


以下感想とか。

本論文の目的は「ビデオゲームの物語における時間のある種の非整合性について、フィクションの哲学や物語論の理論を用いて説明する」というもの。既存の研究を紹介しつつ、倉根自身によるフィクションの枠組みを用いて問題の発生するポイントを同定したうえで、Hermanの「ファジーな時間性」を援用して非整合性を残したままでの物語世界のモデル化が起こっている(のではないか)と提示する感じだろうか。

以前自分が『ライザのアトリエ』における複数の「時間」で考えたようなことを、すっきり整理して、物語論やゲームスタディーズの議論に位置づけていてくれているのがありがたかった(ので今回まとめてみようと思ったわけですね)。たしかにこうした非整合を解消しきらずに受け容れているというのは、実際のプレイヤーの直観とも合致するところだとおもう。そして、そういった受け容れかたというのがより具体的にどういったものなのかについてはHermanの本を読むといいんだろうけど……電子版もないし値段も高いしけっこうハードルが高いな……。

まあいいや。ここからは論文の内容とは関係ないわたし自身の嗜好について。

基本的にこういう「解釈」をするときって、大筋のストーリーの中にそれ以外をどう位置付けるかという構図になりがちなのだけど……そこがじゃっかんもやついてしまうところがある気がするんですよね。もちろん「この小説ってどういうお話だった?」「このゲームってどういうお話だった?」といったやりとりを自分だってしばしばするわけで、この構図はまちがいなく重要ではある。でも、ことビデオゲームにおいて、「物語」と接触している時間よりもそれ以外の虚構的な内容に触れている時間のほうがずっと長いというのもよくあることだ。じゃあ、この意味での「物語」をベースにするばかりでいいんだろうか。

なんというか、一貫した物語には位置付けられないような虚構的内容ぜんたい(ここでいえば、ゲーム環境のうち物語だけでなく虚構的内容を表すものすべて)を等価に扱ったような、フィクションについての理解やコミュニケーション……というのがうまくできないものだろうか、みたいな。いわゆる「創発的な物語」みたいな語り方はすでにあるんだけど、そういうことじゃなくて……漫画の漫符を演出として物語世界から除外するんじゃない、そんなふうな……。いや、あるのかな。あるような気がするんだけど。たぶん、なんかこう、もっと、因果性の外に出たいと思っちゃいません?

おわりです。


  1. 倉根啓. 2023. ゲームプレイはいかにして物語となるのか. REPLAYING JAPAN. 2023, 5, pp. 109-119. / 本論文と同著者によるもの。
  2. Herman, David. 2004. Story logic: Problems and possibilities of narrative. Lincoln: University of Nebraska Press.

第五の御使ラッパを吹きしに

そうだな、たしかにあいつは、おれと同じ褪せ人だった。エビが好きなやつに悪人はいねえ。おれはそう思ってる……思ってはいるが、やっぱりものごとには例外ってものがあるんだろうな。……いや……そうだな、悪いやつだというのも違うかもしれねえ。けどやっぱりあいつは……うまく言えねえな。

あいつにはじめて会ったのは、おれがリエーニエの東屋でエビを茹でていたときのことだ。あのときあいつは、たしかに誰かのことを……とあるお嬢ちゃんのことを心配してたんだ。褪せ人なのに誰かのことを心配するなんて、甘っちょろいやつだと思ったよ。だけどとにかく、だからな、悪いやつじゃなかったのさ。なんたってエビも好きだって言うしな。……だけどそうだな、何があったのかってことは、あんまり話したくねえ。この狭間の地でやってくんだったら、そういう後ろ暗いことのひとつやふたつ、あるもんだろう? とにかく、はじめて会ったときのあいつの印象ってのは、そんなもんだった。

それからしばらくして、エビだけじゃ物足りねえと思ったおれは、そのあたりから北へ向かったんだ。いくらか転々としたあとに、拠点を王都の外廓に移した。なかなか旨いカニがいる場所を見つけたんだ。ひでえコブだらけのカニだが、これが茹でてみるとなかなか旨い。いろいろ試してみたが、いまだにあそこのカニが一番だ。いや、もちろんそのまま食うんじゃねえぞ。茹でるんだ。茹でるには塩加減が大事で……いや……話が逸れちまうな、悪い、あいつのことだったよな。

外廓でもう一度会ったあいつは、なんていうかな……月並みな言い方にはなっちまうが、ずいぶん変わってやがった。いや、見た目がどうこうっていうんじゃねえ。あいつの戦い方、それから、その……なんていうかな……戦いへの態度みたいなもんがな、違ってたんだ。

そうだな、強くなってたよあいつは。それもずいぶんとな。おれはいつも、例のコブだらけのカニどもをやっつけるのにさえひどくてこずっちまってた。だけど、そのときのあいつは違った。あいつが右手に持った得物がよ……。リエーニエで会ったときに持っていたのと大きさもたいして変わんねえんだが、飾りがな。えらくごてごてした剣を使ってたんだ。ああ、キラキラしたのが好きな奴もいるんだろうな。俺はあんまり好かねえけどよ……。

おっと、見た目はいいんだよ。それよりあの剣がすごかったのは、構えたあとに振り抜くとな、なんだか光の帯みてえなのが出てくるってところさ。最初に見たときはたまげたもんだ。伝説の剣ってのは、ああいうのを言うんだろうな。おれだって長いことこの狭間の地でのらくらやって、人をぶん殴たり殴られたりするようなことだって数えきれないほどあったけどよ、あんな得物は一度だって見たことがねえ。それをあいつは振り回して……いや、振り回すなんてほどのものじゃない、おれがへとへとになるまで取っ組み合ってたカニを、ひと撫でふた撫ででやっつけちまったんだ。

まあ、そんな得物を持っちまうとな、性根だって変わっちまうもんなんだろうよ。甘ちゃんで、それでも見所のあるやつだとは思っていたあいつは、俺が大事に茹でてたカニを山ほど持ってって……いや、そのぶんのお代ならちゃんとくれはしたんだが……おれのことなんか忘れたみたいによ、さっさとどっかへ行っちまった。ああ、あいつのことでおれが話せるのはそのくらいのもんさ。

……それで、おまえもカニが欲しいんだろ? いいぜ、売ってやるよ。カニ好きにはいい奴しかいねえってな! ……本当にそうだったらいいんだがな。


ありがとう! 貴公が俺の尻を殴りつけてくれたおかげでどうにか穴から抜けることができた。なかなかに見事な一撃だったぞ! このような狭間の地にも貴公のような者がいてくれるのだな……。なにも彼奴だけではないということだな。

ああ、以前にもな、今の貴公と同じように、穴に嵌まった俺の尻を殴りつけて助けてくれた褪せ人がいたのだ。何? そやつのことが知りたい? ……うーむ……うーむ……そうは言ってもな……数度なら顔を合わせ、その度にまた会おうと約束を交わしたものだが、肝心のあの祭りには結局顔を出さずじまいだったからな……。今はどこへいるのやら……俺はな……あれこそ英雄ではないかと見込んでいたというのに……。

……ん? 貴公は知らんのか? 祭りといえば、そんなもの、ラダーン祭りに決まっているであろうが。朱く腐ったケイリッドの野、その南端にある赤獅子城で行なわれる戦祭りのことだ。貴公だって卑しくも戦士のはしくれなら、耳にしたことくらいはあるだろう。まあ、俺も伝承の中でしか知らなかったのだから、人のことを言えたものでもないか。……ただ、そうだな、その祭りも、結局のところたいしたものではなかったのだが……。

そうだ、俺はその戦祭りに参加したのだ。始まる前こそ、かの戦神、破砕戦争最大の英雄、星砕きと称される将軍ラダーンと見えると聞き、この俺とて身震いをした。それほどの祭りなのだ。それが……それがな……なんだあれは。あれでは腰砕けではないか。

いやな、聞いてくれ貴公。俺はな、その祭りを恐れつつ、しかし楽しみにもしていたのだ。かの将軍ラダーンと相対すというのだから、当然のことであろう。俺は、とても立派とは言えない、臆病者の壺だ。だがそんなダメ壺でも、あの破砕戦争を戦った戦士たちのように、強大な敵に挑み、戦い抜くことができれば、より固い壺に、より勇ましい戦士になれると、そう考えていた。これが武者震いせずにいられようか。だがな……だが、それだというのに……戦ってみれば、どこが星砕きだというのか、どこが戦神だというのか、あんなものはただのこけおどしのでかぶつだ。大袈裟な身ぶりから繰り出されるのは、まるで綿のような一振り。こちらが一撃ぶつければ、軟体のようにぐにゃりと柔い。あれではとても将軍とは言えぬ。まったく期待外れの祭りであった。

そうだな……そうか、だから、彼奴はすでに知っていたのかもしれない。だから現れなかったのかもしれない。きっとそうに違いない。あんなものは相手にするでもないと分かっていたのだ。してみれば、たしかに彼奴はそのようなことにも敏い戦士であった。英雄にはそのような賢しさだって必要なのかもしれない。俺のように力まかせだけではいけないと、そういうことなのかもしれぬな。

してみれば、俺はやはり未熟な壺ということよ。

であれば、またいつか、この狭間の地のどこかで彼奴と出会いたいものだ。いや、きっと出会えると俺は信じている。……ほら、見てくれ、なかなか立派な壺ではないか? これはな、俺が彼奴のために作りかけていたものだ。彼奴は褪せ人だからな、俺と違って頭は脆い。だから俺のように、固く立派な壺を被るとよいと思ってな。

であれば、いつか再会のときに備えて、この壺頭、もっと立派に作り上げねばなるまいな。ワッハッハッハ。


……私の話?

……私は一度、裏切られたことがある。そう、たしかに私は不実だった。あのひとを試すような真似もした。けれど……。

……指の巫女の真似事をするのは、楽しいことだった。あのひとが得たルーンを力にするための、手助けをする。もちろんそれが、私自身の使命のためであると、一度だって忘れたことはない。けれど、それだけではなかったの。あのひとがどんな力を得て、これからの旅路を、どんなふうに切り拓いていきたいのか。あのひとを知り、あのひととともに歩んでいく。そのことが、あんなに楽しいのだとは、思ってもいなかった。

……はじめのうちは、生命の力を強めようとしていたことを、覚えている。この世界がいかに壊れ、苦痛と絶望があろうとも、生があることは、きっと素晴らしい。だから、彼こそはエルデの王に相応しい褪せ人なのかもしれない、私はそう思った。そしてあのひとはついに、デミゴッドを斃した。学院では、産まれなき者の力を手にもした。たしかに、あのひとはエルデンリングに導かれていた。

……いま思えば、あのひとが変わってしまったのは、かの宝剣を手にしたことがきっかけだったのかもしれない。あれから突然、理性を恃み、そしてまた、山嶺の巨人たちを篤く敬うようにもなった。もちろん、私が口に出すようなことでないのは、わかっている。私自身、それでいいと思ってもいた。そのような道もあるのだろうと。そしていつのまにか……高原に足を踏み入れたころにはもう、あのひとはかの宝剣をすっかり使いこなすまでに至っていた。

……ええ、王都を……黄金樹を目の前に臨んだ私は、知らぬまに浮かれていたのでしょう。亡者たちを、怪物たちを、巨人たちを、意のままに屠るあのひとの面持ちが、すでに尋常のものでなかったことにさえ、気がつかなかったのだから。私の目には、あのひとが自らの使命に活き活きとしているとしか、映っていなかった。それこそが次なるエルデ王の姿であるとしか、映っていなかった。だけどいまならわかる。あれはもはや、尋常の姿ではなかった。使命の達成を目前にした私の目は、そんなことにも気づかぬほど曇っていた。

……王都に着いた私たちは、そこで別れた。私があのひととの契約を終わりにした。私たちは、黄金樹の麓に辿り着いたのだから。あのひとはきっと王になる、なれるのだと、私が信じたから。次は私の番。この地で私の使命を見定め、あのひとが王になるための糧となる、その術を見付けなければならない。そう思って、私達は別れ、そして……私はあのひとを待った。

……けれど、そこまでだった。あのひとは二度と現れなかった。あのひとはどこかへ消えてしまった。あのひとを信じた私を置き去りに、トレントとともに姿を眩ませた。あのひとはきっと、間違いなく、王を目指すのだ、私はそう信じていたというのに。

……そう、はじめのうちこそ疑っていた私は、いつしか、あのひとを信じられるようになっていた。ともに旅することを楽しむようになっていた。エルデンリングに導かれていたからという、それだけではなくて。ルーンを力にしようと差し出された、あのひとの手の温かみを、私はいまでも思い出す。マリカの言葉を伝えると、神妙に頷く、あるいは、戸惑ったように目を背ける……あのひとのことを、私を裏切ったあのひとのことを、私はいまでも思い出す。祝福でのひとときを、私はけっして忘れないでしょう。けれどきっと、あのひとはそうではない。いまならわかる、別れ際のあのひとは、私のことなど目に入ってはいなかった。そしてあのひとは消えた。きっと私のことなど、忘れてしまった。

……だけれど、いったいどうしてなのか、私にはいまもわからない。トレントはどうしているんだろう。トレントはいまでもあのひととともにいるのだろうか。


あんた、新しい褪せ人かい? ……なんだね、人探しかい。褪せ人でもない者がここに来るなんて、いつ以来だったか。これも大いなる意思のお導きかね。それとも、大いなる意思にだって気紛れがあるってことなのかね。

ああ、その子のことなら私も知っているよ。大ルーンをふたつも持って来るような褪せ人なんて、この私でさえ、その子を含めて二人しか見たことがなかったからね。だから、よくよく覚えているさ。指様もたいそう期待しなさってた。私が餞別さえ渡してやった子だ。……ただ、そうさね、いつごろからだっただろうかね、とんとここには現れなくなったよ。

知っているかい? 褪せ人というのは、戦いのなかで変わっていくものだということを。そりゃあ、良いほうに変わることもある。だけれども、いつだって最後には、悪いほうに変わっちまうものなのさ。もちろん、指様、ひいては大いなる意思にとって良いか悪いかって意味だよ。この婆には……この婆にとっては、どれも同じ褪せ人、かわいい子たちさ。私が見てきた子たちは、みんなそうさね。ここに入り浸っている子たちだって、似たようなもんだよ。

だから、あんたが探している子だってそうだった。あの子もどんどんと変わっていった。はじめは頼りないなりをしていたのが、大ルーンを探し、戦ううちにに逞しくなる。知恵だってつきはじめる。やたらにごりっぱな武器を振り回してみたりもする。そこまではいいのさ。……そんなふうにさえなれない子だって、いくらでも見てきたしね。

だけどね、あれは……それこそ私が、餞別を渡してやってからほどなくだったかね……。悪いね、私みたいな耄碌には、何百年だって何日だって違いが分かりゃあしないのさ。だから、すぐなのか、それともずいぶん経ったのか、ちっとも分かりゃしないけれど、ともかくその後のことだ。

そのあるときね、その子が、なにか不思議そうな顔をしてこちらにやってきたのさ。聞けば指様の言葉を知りたいんだと。殊勝な心掛けだと思ったもんさ。あのギデオン坊やだって滅多にそんなことをしには来ないからね。もちろんすぐに教えてやったさ。するとどうなったと思う? その子はね、指様の言葉を聞くうちにだんだんと、どこか憤ったような、だけども一方で得心がいったような顔になって、それからここを出て行ったのさ。あれはまるで指様を、いや、大いなる意思をさえ呪うような、そんなふうだったね。

それからしばらくは、あの虜囚のところへ何度も通っていたよ。そうさね、見るたびに違うなりをしていたね。違うなりで、けれどもいつだって同じ不満そうな顔をして。……ああ、ああ、私には分かるよ。あの子は何度も生まれ変わっていた。琥珀の卵のを持っていた子だったから、おおかたレナラのところにでも通い詰めてたんだろうさ。私には分かるよ……そんな子は、これまで何度も見てきたからね。そして、そういう子はみんな決まって、いつのまにかいなくなるものなのさ。

ただ、その子だって……いや、ここに現れなくなった子たちはみんなそうに違いない……みんな、きっとどこかでうまくやっているのだと、この婆は思ってるよ。何度も生まれ変わって、得物を次々に変えてみたりして、楽しくやっているんだとね。行ってしまったって、みんなこの婆が目をかけてやった子だからね。指様の言葉がなんだい。あの子が生まれてきたのは、大いなる意思のためなんかじゃないのさ。……おっと、この婆がそんなことを言うなんて……ちょいと喋りすぎちまったかもしれないね。

……なんだい? きっかけになった指様の言葉が知りたいって? そうさね、たしかこんなふうだったかね。

「ラダーンの大過は、大いなる罰に値する」

「霜踏みは、写し身の雫は、大いなる罰に値する」

「そして夜と炎の剣は、大いなる罰に値する」

「本アップデートファイルを適用した際のタイトル画面右下のバージョン表記は以下の通りです。App Ver. 1.03/Regulation Ver. 1.03.1」1


  1. 今月ようやくDLCが出るということで、以前書いて少部数頒布したエルデンリング二次創作SSを公開しました。

留年百合小説アンソロジー:ダブリナーズ - ストレンジ・フィクションズ

告知だ!

ストフィク増刊留年百合アンソロジーにお話を載せてもらいました。今週末(5月19日)に迫った文学フリマ東京38【き-55】またはBoothでの通販にて(といっても通販のほうは第一次予約分が完売しているのですが)。幌田先生による装画もいいし以下で試し読みもできる。

note.com

以下、収録作についてネタバレしない(と思われる)範囲で書きますが、自分がへたくそでちょっと抽象的になりすぎてる気がするな。どれもおもろいで!

全然そうは見えません

すぐにピンとくるかもしれないし、そうでなくとも立ち止まって考えてみればわかるとおり、不穏なタイトルではある。けれど、そういったネガティブさをかならずしも転倒させるのではない形で取り扱い、未来につなげていこうとするお話だったんじゃないでしょうか。よくこれを最初に持ってきたなという気もするけれど、「留年」という語とその状況にだって(同じではないにせよ)通じるものがあるのかもしれない。

海へ棄てに

どうしたって退廃へのあこがれというものがつきまとうし、それはそれとしてライフゴーズオンするし、もちろん固有名詞だって頻出する、かなり直球の文化系サークルもの。そういうそれぞれにたいして、突き放しすぎずくっつきすぎず、距離感をどうつくっていくかというお話……といってもよいのでしょうか。そんなとき、どうしたって出たとこ勝負がつきまとうよねと思うし、だからこそ長期戦の構えは強いよなとも思う。自分はどうだったっけかな。

still

書くこと描くことにかぎらず、なんだって重ねてゆけるものではある。留年も同じである! ……とか言ってみられるか。いやこれは真面目に言っている。そしてそれだけじゃなく、線と線のあいだの、かたまりとかたまりのあいだの、あるいは周囲の余白にも、ときどき目を向けてみるのもありなのかもしれない(というか、それらは不可分なものなのですし)。

切断された言葉

ほとんど過不足なく怖いんよ。怖さに遊びがないんよ。遊びというか、p.85のあたりでちょっと遠ざかるあたりとかは遊びといえば遊びなんだけどそれが嫌な感じを増幅させてるんよ。p.85とか言われてもあれだと思うので、そのあたりは各自確かめてみてください。あるいは別の印象もあるかもしれないので聞かせてください。

ウニは育つのに五年かかる

ある種のエキセントリックさでしかお話のなかにつなぎとめられないことがらというのはやっぱりあるものだし、そこに(隠すように?)添えてはじめて収まることがらだってあるものだと思う。そういうことがらがあったのではないでしょうか。アクセル踏みしめハンドル回しっぱの遠心力がずっとかかっているようで、けれど単調ではない。おかげで読後感がいっとう切ない。

不可侵条約

おれのや。モーダスポネンスの成り立たなさを陽に扱って展開させられないかが去年のざっくりしたテーマで、けれど自分にはうまく書けないということがわかったので、ちょっと違う感じで今年になってようやく書けました。ありがとうございます。

パンケーキの重ね方。

恋愛のどうしようもねえところを、美化するわけでもなく露悪するわけでもないかたちであらわすにはどうすればよいのか。いろいろあるのでしょうが、ここでは、合理的に考えればそうはせんやろというおこないを、しかしその実現のためにロジックを練ってまで周到におこなってしまう、というかたちであらわされているのではないでしょうか。結果として、そうはなってしまう。

春にはぐれる

あるポイント以降、あらゆるシーンの台詞と行動がすべて妥当で、そのうえにエモいのだが、はじめから掛け違えすぎているような気がする。そういういびつさに駆動された圧迫がある。そのいみで「パンケーキの重ね方。」とは対照的かもしれず、つまり、世界のなかのわれわれという状況のうちのどこに信をおくかという話なのかもしれない。


以上です。

ジョイス『ダブリナーズ』(柳瀬訳)で好きなのは「土くれ」です。みなさんもこっちのダブリナーズとあっちのダブリナーズでそれぞれなにが好きか教えてください。よろしくお願いいたします。

Re: ゲームの「不便さが楽しい」を考える

以下の記事がおもしろかったので、乗っかって考えようとおもいました。「便利状態」との比較で「不便」が出てくるってアイデアはたしかにすぎるんだよな。 ゲームの「不便さが楽しい」を考える - ビデオゲームとイリンクスのほとり

読みましたか? 読んだね? というわけで、「インベントリの重量制限」「ファストトラベルポイントやセーブポイントの制限」「武器や防具に耐久値があること」といった、同記事で想定されているような「不便さ」とその肯定/否定について次のように考えられるのではないか。

  • ここに「A: 対象となるゲーム」があるとする。そして、「B: Aの個別のゲームメカニクス1をなんらかの形で変更したゲーム」を想定する。このとき、AとBを比較してゲーム内の目標に対する手段の非効率性が生じたなら、その非効率性(ないし、それを生じさせている当の個別のメカニクス)を〈不便さ〉と呼ぼう2/3
    • このいみでの〈不便さ〉は現実のゲームメカニクスの問題に尽きる。あくまで本物の「不便」であるため、悲劇のパラドクスなどで問題になる不快(のようなもの)とは異なる4
    • このいみでの〈不便さ〉はゲームメカニクス(のようなもの)をもつ媒体、つまりゲームやスポーツでのみ生じる5/6
    • このいみでの〈不便さ〉は後述するとおりゲームというものの特性上ほとんど常に発生し(ひねり出せて)価値中立なものだが、同記事にもあるとおり、それが具体的なイメージ(「便利状態」)をともなって想像しやすいときに「〈不便さ〉という状態にもとづく不快な感情」として意識される可能性が高まる
  • ゲームの話で「非効率性」といえば、スーツ『キリギリスの哲学』における「ゲームをプレイすることは、ルールが認める手段(ゲーム内部的手段)だけを使って、ある特定の事態(前提的目標)をもたらすことを達成する試みであり、そのルールはより効率的な手段を禁じ、非効率的な手段を推す(構成的ルール)。そして、そうしたルールが受け入れられるのは、そのルールによってそうした活動が可能になるという、それだけの理由による(ゲーム内部的態度)」というゲーム(ゲームプレイ)の定義だろう
    • ユールが『ハーフリアル』の第3章あたりで述べているとおり、ルールをたんなる制限ととらえて「手段の非効率性」に注目しすぎるのは(とくにビデオゲームにおいて)うまくいかない考え方だと自分もおもう
    • 目下の話題でいえば、比較対象が前提的目標に対する制約のない状態ではなく「一部分を変更しただけの別のゲームメカニクス」であるため、そもそもの建て付けも違っている
    • ただそれでも、「なにができるか、できないか」というのはほとんど常にゲームというものにつきまとうとはいえるし7、ゲームをおもしろくしている要素のなかにそうした〈不便さ〉があることは明らかなようにおもわれる
    • もとの記事における「極端な肯定言説」にあるような「押したら全クリになるゲーム」は、〈不便さ〉をひねり出し取り除く操作(「便利化」とでも呼ぼうか)を繰り返していった先の極限として考えられることからして、極端とはいえ地続きであるとはいえる
  • では、(それ自体が負の価値をもつものではないから「擁護」もなにもないとはいえ)この立場から〈不便さ〉を肯定/否定するとすればどうなるか
    • まず、もとの記事における「転倒説」のようなものをゲームメカニクスのおもしろさの枠内に閉じた形で適用するのはとくに問題ない……というか「転倒」でさえなく、別のゲームメカニクスと比べておもしろい/おもしろくないという話でしかない。手段が制約されるなどしたところで、ゲームというのはそもそもそういうものだ
      • 「インベントリの重量制限」だってそれ自体でリソース配分を考えるミニマムな「ゲーム」として考えられる。問題はそれがおもしろくない(かもしれない)ことに尽きる。逆におもしろくした例(?)として『Backpack Hero』のような作品さえある
      • ある程度具体的な「便利状態」を想定したときにはじめて〈不便さ〉にもとづく不快感が意識されるのは、比較対象があってはじめて「この〈不便さ〉のせいで相対的におもしろくない」と感じられるからだろう。〈不便さ〉はあまりにありふれており、直接的に不快さにつながるわけではない。相対的におもしろくないゲームメカニクスのそのおもしろくなさの原因として〈不便さ〉が名指されるという機序になっている
      • とはいえ、この範疇のみに適用できるケースで侃々諤々することはあまりない印象もある。上述のとおり「ゲームとしておもしろいかどうか」の話でしかないため盛り上がらない!
      • あとまあ、ゲームメカニクスのよさにもいろいろあるので、あんまりひとまとめにしてもつまらないというのもある。もとの記事でも言われてるとおり、要はバランスとだけ言っても仕方がない。芸術というものがおおむねそうであるとおり、要素の総和だけではなかなか語れないものではある。ともあれ、ゲームメカニクスとしてひっくるめて見たときには「転倒」だったものが「補償」として捉えられる、みたいなこともありうる
    • 一方で、もとの記事で「転倒説」の一例として挙げられている「あつ森は便利すぎてスローライフって感じがしない」はどうかといえば、これはゲームメカニクスの範疇のみに限られてはおらず、フィクションとしての価値についての主張になっている8。すると、今回の立場からいえば「転倒」にはならず、「補償」に近いものとして捉えたほうが適切ということになりそう(あるいはこちらもやはり、そもそも〈不便さ〉そのものに負の価値を置いていないのだから「補償」ですらないといえるのかもしれない)
      • 不便であることそのものに価値があるという主張にみえるが、その成否にコミットする必要はないし、上述したいみでの〈不便さ〉がないわけでもない。〈不便さ〉は現実にそれとしてあり、それがフィクションとしての価値に資している……という建て付けといえる
      • そのあとに挙げられているGoWの例も同様で、(実現したい必須のコンセプトたる)フィクションとしてのよさのためにあえて〈不便さ〉を付け加えているといえる。作品のアイデンティティにはもちろん必要なのだけれど、かといって〈不便さ〉がないわけではない。〈不便さ〉がそのまま「よくない」ということにならないだけ
      • フィクションとの絡みで〈不便さ〉を付け外しするのは、虚構世界をシミュレートするにあたって「ここに制限を設けても写実性が高まらないから省こう」と考えたせいかもしれないし、そのほうが作品内世界の描写として「自然」だったからかもしれない。認知・操作資源をどう集中さたいかの問題かもしれない9
  • とはいえ、〈不便さ〉を価値中立な語として使うのはあんまり直観的じゃないし、「不便だ」と文句を言いたいときの気持ちや「転倒」を考えることのおもしろさを捉えきれていないような気がする

以上です。


  1. 松永『ビデオゲームの美学』における「ゲームメカニクス」を念頭に置いている。ただし、「個別のゲームメカニクス」といった場合には単数形のゲームメカニクスをいみするものとする。このときの個別化のしかたはケースバイケースだろう。また、非効率性に着目する都合上、ここで変更を想定される当の個別のゲームメカニクスは、対象となるゲーム内の「目標」に付随する「手段の制約」の範疇に属するものに限られる。
  2. 元記事でも触れられているとおり、「面倒」と呼びたいなにかと「不便」と呼びたいなにかはたしかに違う気がする……ということで、ある程度狭くとった形になっている。もうすこし広いいみでの「不親切さ」については、たとえばホデント『はじめて学ぶビデオゲームの心理学』にあるようなユーザビリティの観点などが参考になるかもしれない。同書ではユーザビリティについて「サインとフィードバック」「明確さ」「機能がわかる形態」「一貫性」「負荷の最小化」「エラーの防止と復旧」「柔軟性とアクセシビリティ」をチェックポイントとして挙げているが、目下の〈不便さ〉はこれらとは質の異なる観点からのものだとおもう。
  3. 同記事の「うまく考えられていない点」①『「不便」という言葉が何を表しているか曖昧である』関連。
  4. 同記事の「うまく考えられていない点」②『アートに見られる悲しさや苦痛や恐怖と、本稿での不便という概念とは、「不快なもの」という点で似ているが、少し違うと考えている。しかしその点があまり考えられなかった』関連。
  5. たとえば、小説において「リーダビリティが低い」ようなケースはそもそもここに含まれない。これは先の脚注のユーザビリティの観点に近いとおもわれる。一方、(それを「ゲームメカニクス」と呼べるかどうかは別として)インスタレーションアートなどで似たような話はいえるかもしれない。
  6. 同記事の「うまく考えられていない点」③『他のメディア(アート形式)で、「不便」をどのように考えるか、という点についてもあまり考えられていない』関連。
  7. 先日まとめた右記に関連する:ゲームと「できること」の芸術 - C. Thi Nguyen - 青色3号。というかこれに関連するなと思ったからこうやって書いてるところはある。
  8. このあつ森の例でいえば、「ちまちました操作をすること」のような経験のよさも含意されているようにみえるため、純粋にフィクションの範疇で議論が済んでいるわけでもないことに注意。そもそも、意味作用の話だけをしているわけでもないのだから、前述のとおりあえてフィクションのみを特別扱いする必要はないのかもしれない(とはいえ、現実の不便さかどうかというのはやっぱり区別したいのだが)。
  9. こっちは右記のような話を想定している:お前らの言うImmersionのニュアンスがわからない - 青色3号。もちろんここはメカニクスの範疇のみで完結する(実際に「転倒」である)場合もあるが。

ゲームと「できること」の芸術 - C. Thi Nguyen

以前読んでおもしろかったグエンのべつの論文“Games and the Art of Agency”を読んだ1Games: Agency as Artのもとになったもの。以下に内容をメモっておく(いつもどおり内容は保証しない)。

著者のグエンについては、たとえば下記で紹介されている。というかそもそも、この論文の第1節はこの記事の内容とけっこう重なっている(以下のまとめでも参考にしています)。Games: Agency as Art を紹介するような記事がもとになっているから当然だろうか。

ティ・グエン「芸術はゲームだ」 - #EBF6F7

で、タイトルどおり本論文のキーワードは‘agency’なんだけど……そもそもこの語がなにをあらわしているのか、正直ちょっとわかりづらい。定訳としては「行為者性」とかになるのだろうが、これもピンとこないところがある。注14にあるとおり、本論文の目的のもとではagencyを厳密に定義する必要はなく、ざっくり“intentional action, or action for a reason”、つまり「意図や理由にもとづく行為」くらいの意味合いに解しておけばよいいらしい。実際に読んでみた感じだと、「したいこと、すべきこと、そしてそれに対してなしうること」みたいな雰囲気のように感じた。……ともあれややこしいので、以下ではひとまず「エージェンシー」とカナ表記することにする。

さて、本論文はおおざっぱに前後半に分けられ、おもな主張は第3節までで済んでいる。後半はその主張の内容をよりくっきりさせるための想定反論と再反論。とくに前半についていえば、要点はおおよそ次のような感じになるのではないだろうか。ちなみに、ここでいう「ゲーム」というのはとくにビデオゲームに限ったものではない。

  • ゲームプレイには(排他的ではない)2つのタイプがある。金銭的な報酬など目標そのものに価値をもとめる「達成プレイ」と、目標のためにがんばる過程(ある種の美的な経験など)に価値を求める「努力プレイ」である
    • これは外在的価値/内在的価値とは直交していることに注意。ちなみに、フィクションの側面がまた別にあることにも触れてはいるが、この論文では扱わないとしている
  • 努力プレイにおいては、ゲームが提示する一時的な目標設定やルール、つまりエージェンシーを真剣に引き受けなければならない。そしてそのうえで、「過程を愉しむ」といったもともとの目的のほうはいったん忘れる必要もある。ここでは、もともとの目的と一時的な目標が階層構造をとっている(し、われわれにはそのような態度をとる能力がある)
    • このへんまではスーツ『キリギリスの哲学』にある定義を大きく引きつつ微修正して掘り下げた感じ。後半の想定反論/再反論はおおむねこの点に対しておこなわれている
  • ゲームはエージェンシーを媒体とする点で特徴的な芸術であり、ゲーム作品はエージェンシーを記録するものだといえる。ゲームデザイナーがやっているのはエージェンシーのための枠組み2のデザインである
    • ここでエージェンシーはあくまで媒体であることに注意。これを「通じて」美的な体験やらなんやらを得る
  • われわれの日常生活におけるエージェンシーの複雑さに対して、ゲーム内のそれは非常に単純化されている。けれど、だからこそ、ふだんわれわれに馴染みのないエージェンシーにも身を委ねようとできるし、それにより日常生活では得られないような美的経験を得られたりもする
    • ここがシカールの「自由」推しに対する反論になっているのがちょっとおもしろい

長いから細かいところはあれだとしても、だいたいそんな感じだったと思う。主張じたいはスーツによるゲームの定義論を、あるいは(引かれているわけではないけれど)ビデ美の第7章の前半あたりをより展開したような雰囲気ではあってものすごく真新しい感じでもないのだけれど、とはいえ事例の出し方がうまくて自分のなかでの整理がちょっと進んだような気がする。

おわりです。


  1. 正確にいえば、読んだのはPhilArchiveや著者のサイトにあるドラフト版。
  2. 『ビデオゲームの美学』における「ゲームメカニクス」とほぼ対応すると思われる。というか、本論文の第2節で扱われている美的な経験云々も同書第7章の美的行為の話とかなり似たことを言っているっぽいし。

2024-04-01

『マンゴー通り、ときどきさよなら』を読んだ。きっかけはこちらで紹介されている(いつも本や漫画の紹介がおもしろそうなんだよな)のを見たからで、前半あたりは「ほーん、移民が集まる街のようすを活写したやつっスね。はいはい」みたいなナメた態度でいたのだけれど、その場所の空気(視覚的イメージではない)がだんだんじぶんのなかにできてきて、ついでにほんのすこし(ほんのすこし!)だけ語り手が成長したのが見えてきてからは、前半も振り返りつつやられてしまったところがあった。サリーの話のくだりとかもうどうしようもないわね。よかった。

なんというか、「居た場所」——というのはいわゆる「自分の居場所」といういみではなく、好きだろうと嫌いだろうと「居た場所」でしかない場所——について、身体をもって知ってしまったからこそできる、してしまう、あたりまえだろうというぶっきらぼうさと、どこまでも細部を思い描けてしまうこととの両立、そういう距離感がよくあらわれていたと感じたからではないか。自分の居場所じゃないなんて思っていようが、よいものとして懐しんでいようが、「居た場所」というのはどうしたってそうなってしまう。そういえばさいきん話題になっていた「創作文芸サークル「キャロット通信」の崩壊」だって、ある面では(ある面でしかないが)そんな話だったんじゃなかろうか。

ひるがえっていえば、他人のそれを(フィクションであろうがなかろうか)読めるというのはおもしろいことであることよなあ。いまさらか。