お前らの言うImmersionのニュアンスがわからない

自分のやっているビデオゲームの話を読みたくなって、ときにはRedditなどでおこなわれている雑談を眺めたりすることもあるのだけれど1、そのなかで、英語圏のゲーマーがimmersionとかimmersiveという語を使っているのをしばしば目にしてきた。「このゲームへのimmersionがすごくて……同じようなゲームってなんかない?」とか「このビルドで一周したけどめっちゃimmersiveな体験だったぜ!」とか、そういうの。めんどくさいので実例は挙げませんが、きっとみなさんも見たことがあると思います。

ただこれ、言わんとすることがいまいちピンときていなかったんですよね。あきらかに質のちがう体験がどれもimmersion(めんどくさいので以降では定訳である「没入」を使うが、当然日本語のそれとはニュアンスが違うことに注意されたい)の一語で表わされているようにみえる。そしてそのわりに、それら質のちがう体験のどれにも共通して「没入」といいたいなんらかがありそうな感覚もたしかにある。その語を使えと言われればきっとそれほど問題なく使えるだろうし、そのかぎりでの「理解」はできているとは思うんだけど……やっぱりモヤモヤが残るところは否めない。

そもそも、どうもこの「没入」って語はなにかしらの評価的な意味をもっていて、ビデオゲームの歴史の一部において追い求められつづけてきたものだという印象がある。過去には「イマーシブ・シム」2なんてマニフェスティブなジャンルもあったくらいだし。 ビデオゲームにとってストーリーテリングとはなにか?――『A Mind Forever Voyaging: A History of Storytelling in Video Games』- Dylan Holmes - 最後の短篇企鵝の剥製を読んだときにも「このへんの没入へのこだわりってなんなんだろうな」みたいなコメントをした。

じゃあ、「没入」っていったいなんなんなのか。

Ermi & Mäyrä (2005) のSCIモデル

そんなことを考えているうちに前掲のホルムズ本のエントリを書いた千葉さんから教えていただいた3ところによれば、マウラ『ゲームスタディーズ入門』4でこうした「没入」の類型について整理している記述があるらしい。

それならばと実際に読んでみたところ、マウラは「没入」とよばれる体験を以下の3つに分類している5ことがわかった。

  • 感覚的没入(Sensory Immersion)
    • ざっくりいえば、視聴覚的な刺激からくる「まるでそこにいるみたい」みたいな体験
  • 課題に基づく没入(Challenge-based Immersion)
    • ある状況に対してスキルや思考をちょうどよく駆使していることによる熱中みたいな体験。いわゆるフロー体験
  • 想像的没入(Imaginative Immersion)
    • 虚構的状況への感情移入(これも没入に劣らずざっくりした言葉だ!)みたいな体験

これ自体は納得感のある分類であって、たしかに「没入」という言葉だけでは曖昧だったところが整理されているように感じる。この3分類のどれかでカタが付く話は多そうだ。ただそれでも、「それでも共通するなにかがある」みたいな感覚は解決しないし、これらが相互にどう関連しているのかもわからない。納得感があるとは言い条、若干のモヤつきは残るものでもあった。

ラウトリッジのコンパニオンと『なぜフィクションか?』

乗りかかった船というわけで、もっとほかのものも参考にしてみたくなる。ではどこからはじめるべきか……となったとき、やはりある種の「手引き」的な本にそれを求めるのは自然なことだろう。

……なんでね……買ったわけよ……The Routledge Companion to Video Game Studies (2nd Edition)を。紙の本だと3万円するところ、Kindle版なら9,000円程度。お買い得ですね! どうせ図書館とか研究室で買うからええやろとか思ってんねやろ。足元見やがって……と、価格はいいとして、Therrienによる“Immersion”の項目はざっくり以下のような内容(と感想)であった。

  • 前半部分では、件のSCIモデルについて周辺の文献とともにより詳細に解説している
    • たぶんオリジナルの論文や『ゲームスタディーズ入門』よりもわかりやすい
  • 後半部分では、シェフェール『なぜフィクションか?』、および、それをバックアップするような神経科学的な知見を紹介している
    • なぜフィク自体はいい本だと思う6んですが、本書の「没入」の話は一般的にすぎて実際の使用に対して適用できる気がしねえ

というわけで、あんまり状況は改善しなかった。手始めはこの2つでいいんだな! とは思えたし、それぞれに理解は多少深まったとはいえ……。

Calleja (2011) のプレイヤー関与モデルとIncorporation

そんななか、別件でMIT Pressのゲームスタディーズ関係の本を漁っていた7ときに見つけたのが In-Game: From Immersion to Incorporation である。まさにこの「没入」の話を扱っているらしい。調べてみると、『ゲーム研究の手引き』(2017)の松永「ゲーム研究の全体マップ」のなかで近年のゲームスタディーズにおける「重要な理論的研究」のひとつとして挙げられており、「『没入』概念の整理をしたうえで、ゲームのプレイ経験を論じるための枠組みを提示している」とのこと。……まあじゃあ読むか……。

本書の構成は下記のとおり。

  1. Games beyond Games
  2. Immersion
  3. The Player Involvement Model
  4. Kinesthetic Involvement
  5. Spatial Involvement
  6. Shared Involvement
  7. Narrative Involvement
  8. Affective Involvement
  9. Ludic Involvement
  10. From Immersion to Incorporation

第1章で本書で扱う対象の限定や用語の整理を行ったあと、第2章でPresence Theory8およびゲームスタディーズにおけるimmersionあるいはpresenceという語およびそれに関連づけられる概念をおさらいしつつ批判したのち、これらimmersion/presenceと関連づけられる概念をより明確に扱うためのモデルとして第3章で「プレイヤー関与モデル(Player Involvement Model)」を提示する。第4章から第9章でこのプレイヤー関与モデルにおける6つの次元(後述)をそれぞれ詳述したうえで、第10章ではこのモデルをベースとし従来のimmersionあるいはpresenceに代わる「incorporation」というメタファーを用いてこの独特の体験を記述する——といった内容。というわけで、第4章〜第9章はざっくり飛ばし読みしつつ主に最初と最後だけ読んだ。以下はそこから自分が読みとった内容であり、当然のごとく内容は保証しないし、だから例のごとくみんな読んでください。わたしは批正を待っています。

さて、第2章(と、第3章の後半でのマジックサークル批判)あたりは「概念が混乱していたり曖昧だったりすると話が進まないよ」というのをこれでもかと伝えようとしていてこれはこれでかなりおもしろかったんだけどそれは置いといて、キモとなるのはまずもって第3章で提示されるプレイヤー関与モデルである。ざっくりいえば、ビデオゲーム(のうち、仮想的環境 virtual envimonment をふくむような作品)へのプレイヤーの「関与」というのは以下のような次元からなるというもの。

  • Kinesthetic Involvement
    • アバターなどゲーム内の対象を仮想的環境内でコントロールすることにかかわる側面
  • Spatial Involvement
    • 空間内での移動やその空間のようすの認知など、仮想的環境内の空間的性質にかかわる側面
  • Shared Involvement
    • 仮想的環境内のほかのエージェント(NPCか他PCかは問わず)の認知や関わりにかかわる側面
  • Narrative Involvement
    • 物語的要素(もとから埋め込まれてるか創発的なそれかは問わず)にかかわる側面
  • Affective Involvement
    • プレイヤーの情動にかかわる側面
  • Ludic Involvement
    • ゲーム的な意思決定とその影響にかかわる側面

このうえで、このそれぞれの次元に対し、まさにプレイしているときの「ミクロな関与」と、それ以外のとき(そのゲームそのものからは離れているとき、つまりオフラインのとき)の「マクロな関与」という2層がある……というモデルとなっている。

このとき、プレイヤーの認知資源は有限であるからして、特定の次元に強く関与しているときはほかへの関与はおろそかになるだろうし、特定の次元を内面化する(internalize/ひらたくいえば慣れる)ことで特定の次元への関与の度合いが低くなれば、ほかの次元への関与の度合いが高められたりもしうる。そしてもちろん、ゲームプレイの内外でこうした関与の度合いはどんどん変化しうる。こうした関与の度合いによって、たとえば(さまざまな意味で)「没入」とよばれてきたような体験が生じるよ、という感じ。

さて、本書においては、既存の「没入」という語に関連づけられる概念がimmersion of transportationおよびimmersion of absorptionの2種に分類されている。前者は「まるでどこか別の場所にいるみたいだ」「まるで別のキャラクターとして生きているみたいだ」みたいな体験であり、後者はなにかに没頭するような体験である。

このことからもなんとなく察せられるかもしれないけれど、本書の第10章において述べられることには——まずimmersion of absorptionについていえば、それは先述の各次元(の組み合わせ)における関与の強度が高い体験、といった感じになる。そしてimmersion of transportationのほうはといえば、「プレイヤーが仮想的環境を意識に組み入れる(incorporate)」過程と「アバターを通してプレイヤーが仮想的環境に組み入れられる(be incorporated)」過程とが同時に起こっているような体験として特徴づけられている9。ここにおいてはKinesthetic InvolvementとSpatial Involvementが強い前提としてはたらくことになる。なぜなら、プレイヤーの意識のなかでのその空間の認知と仮想的環境内におけるプレイヤーのアバターの行為主体性が必要であるためだ。

とだけ言われてもなんのこっちゃわからないと思うのだけど、ここで提示されているL4Dの例は理解のためになるかもしれない。同じ部屋で2人がL4Dをプレイしてるような状況があり、(ゲーム内からではなく)直接隣から助けを求める声が聞こえてきたとしよう。そのとき、助けを求める声は当該虚構世界内において聞こえる声ではないにもかかわらず、必ずしも「没入感」を阻害することはなく、プレイヤーの意識のなかに「組み入れ」られ、むしろ「没入感」を高めることさえある、みたいな。

……うまく説明できている気がまったくしないのだけど(ごめんて)、とりあえずのところそういう内容となっている。

では、たとえば先述のSCIモデルとの関連はどう考えられるのか。本書においては(当然第2章において重要な貢献として提示されている一方で)明示的な対応関係が示されてはいない。したがってここからはわたしが勝手に考えたことになるのですが……。

まず、SCIモデルにおける「想像的没入(Imaginative Immersion)」は、Narrative InvolvementおよびAffect Involvementの度合いに関連しているといってよいのではなかろうか。これは実際のところビデオゲームにかぎったことではなさそうでもある。そして、「課題に基づく没入(Challenge-based Immersion)」のほうは、Kinesthetic Involvement、Spatial Involvement、Ludic Involvementあたりの関与の度合いに関連しているといえそうだ。

で、問題は「感覚的没入(Sensory Immersion)」だ。本書におけるincoporationな体験というのはなんとなくこれに対応していそうに思えるのだけれど、たぶんそういうわけにはいかなさそうだ。たぶん(たぶんが多いな)視聴覚的に「それっぽい」ことは必要条件のひとつでしかない。あえていえば、感覚的な没入というのは主にSpatial Involvementのベースとなっており、そのうえでKinesthetic Involvementをさらなる必須要素としつつ他種の強い関与も含めてようやく実現されるのがincorporationな体験である、というのが本書の立場であるようにみえる。

2024-03-18追記:木村「ゲーム心理学のキーワード」について

書いた翌日になって気がついたのだけど、このCallejaのプレイヤー関与モデルについては『ゲーム研究の手引きII』(2020)に所収の木村「ゲーム心理学のキーワード」における「関与」の項で紹介されている。より簡単には、同じく木村さんのnoteの記事である右記もある:ゲームプレイの多面性|しましまにゃんこ。『ゲーム研究の手引き』のほうを読んでるならこっちもちゃんとチェックしておけよという話だ……。ともあれいずれにせよ、図もわかりやすいのでこちらも参照するのがおすすめです。


これがわたしの現在地ということで、今日はここまで! incorporationという語と概念がいかにイケてるからといって一般に流通するとはあまり思えないし(双方向であることがわかりづらすぎる)、Callejaのモデルに(質的研究をもとにしているとはいえ)どの程度認知科学的な基礎付けがあたえられるのかといったこともよくわからない。いまだにすっきりしない点が残っていなくもなく、だから今日もおれは、前らの言うImmersionのニュアンスがわからねえんだよ!


  1. 最近だともちろんバルダーズ・ゲート3である。直接的な情報が知りたいというのだってないではないけれど、どちらかといえば単に「それについて人が話しているのを眺めたい」みたいなそれ。こういう欲について、2024年の今になってさえ2chで満たせるケースがあるにはあったりするのだが……まあこの話はまた別途どこかで。いずれにせよ、日本語だろうが英語だろうがほんまにしょうもないことを言ってる「お前ら」を見たくなるときがあんねん。
  2. ぱっと読めるものだと「没入型シミュレーション」と「創発的ゲームプレイ」のひみつ|ぱソんこあたりが詳しいだろうか。この記事で紹介されている「主体性」「システム性」「創発性」「一貫性」「反応性」という特徴群についていえば、まず「主体性」はまんまエージェンシーであり後述するKinesthetic Involvementをかたちづくるものとしてほぼそのまま対応しそう。そのほかの4つはおおざっぱに虚構世界のシミュレーションの写実性の話で、いくつかの次元にまたがっている。そのうえで、当該記事の末尾にある「没入型シミュレーションの肝は創発的ゲームプレイか、それともロールプレイか?」という問いは(自身でも結論づけているのと同様)Callejaの立場からいっても疑似問題ということになるんじゃないだろうか。
  3. 精確には千葉さんは御簾の向こう側にやんごとなく御座し、その隣に侍っている御側衆の取次を介してやりとりした
  4. 流通に乗るのは3月29日からなのだけど、早い段階で電子版を読めるようになっていた。よくもわるくも教科書であってやや散漫というかトピックがバラバラしていてそれらの関連性がわかりづらく読みづらいところがあるのだが、どこかで聞いた話みたいなのはだいたい載ってるし、全体としては歴史を追う形になっていておもしろいところもけっこうある。
  5. オリジナルは右記:Ermi, Laura & Mäyrä, Frans (2005) “Fundamental Components of the Gameplay Experience: Analysing Immersion/この論文についてはマウラのWebサイトで読める。ただ、「没入」に関しては『ゲームスタディーズ入門』にある内容以上のことはほぼ言っていないと思われるので、あえてオリジナルを当たらなくてもよいのではなかろうか(勘違いだったらご指摘ください)。
  6. ミメーシス的認知って人生においてめちゃくちゃ基本だよな〜みたいなところに説得力がある。系統発生的な面はそのまま『心の進化を解明する』とかでも似たような話があるし、個体発生の面でいえば自分の子供を見ていても思うところだ。
  7. 今回の話とは関係ないのだが、Playful Thinkingシリーズでつい最近出たばかりのThe Rule Bookも気になっています。オープンアクセスで全文読めるっぽいぞ!
  8. 対応するような日本語の文献があるのかどうかよくわかっていない。「テレプレゼンス」がどうこうみたいな話をしているものだと思うのだけど……。
  9. あえてimmersionではなくincorporationという語を使うことについては、レイコフ&ジョンソン『レトリックと人生』をヘビーに引きながら、メタファーとはなんぞやみたいな話をそれこそレトリカルに活用しててアツいところではある。

2024-03-04

「継続」の偉大さについて考えるわけですよ。「齢を重ねるごとに、なにかを続けていくことの困難さ、そしてそれに打ち克っての達成というものがつねにあることが身に沁みる」だなんてのは、なんのおもしろみもねえよく聞く話ではあるんですが、じっさいきっとそのとおりではあって、その説教臭さからひるがえり、もっと若いときにその偉大さの偉大さをしんから覚えることができたのだろうかと考えたとき、すくなくとも自分にとっては難しかったんじゃなかろうか。教訓とよばれるようなきわめて抽象性の高いものはおしなべてそんなもんで、だからそういう説教臭い話というのはいつの時代も繰り返されるわけなんですが(だから今後も生きてりゃいろいろつまらん発見が出てくるんでしょうが)、自分がもっと若いときにそれにほんとに得心いくような状況が作れるとしたら、それってどんな状況なんだろね。信頼がある師から時間をかけて説得されるような状況? でもそんなもん、わっかりたくもねえよな! そんなこと言ってるやつを信頼できる師だと思えるかどうか非常にあやしい。だからまあ、若いときの自分については諦めるとして、それがしんじつ偉大であるとげんに考えている自分についてもいったんそれでいいことにして(そうでもないと思うようになったらそうでもないということでいいだろう)、これまでやってきたことはまあ続けられるぶんだけ続けつつ、これから始めることは続けたり続けなかったりするとええと思うで。

2024-02-15

昨年末にバルダーズ・ゲート3の日本語版がリリースされ、それからずっと没頭してしまっていたため、とても世情にうとくなっています。さまざまなおもしろいものごとがうまれてはすぎゆく——しかもすばやく!——この浮世にて、2ヶ月弱ほどずっとBG3をやっている。数日前にようやく1周を終えた時点でSteamで表示されていたプレイ時間は160時間程度、それでももうすこしやりのこしたことがあるなといまも2周目をやっているさいちゅうです。せっかくなので思ったことをつらつら書いてみようとおもいます。きちんとまとめる気はありません。

そもそもなんではじめたかっていうと、開発元であるLarian Studiosの過去の作品であるDivinity: Original Sinというシリーズが好きだったから1。それこそ「自由度」の高い、なんでもできるゲームとして、やったことにこたえてくれるゲームとして。そしてもちろん、それに随伴するキャラビルドがおもしろいゲームとして。「こういうことをやれるんじゃないか」「そのためにこういうスキルの組み合わせをしてみよう」というのがやまほどあって、やまほど試せる。テレポーテーション最高!

一方で、こういういみでの「自由度」の背景に——それこそBG3がそうであるところのD&Dをふくめた——TRPGという文脈があること自体はなんとなく聞きかじったうえで、かといってTRPGそれ自体に触れようとか、D&Dの世界観につて知ろうとかそういったことはほとんどしていません。Obsidianによるシリーズ過去作もやっていない。あるいは、もっとゲーマーなひとにとってはこういったCRPGの文脈としてPathfinderやらWastelandやらなんやらかんやらいろいろあると思うんですが、自分はそれらにもほぼ触れていません2

そういう状態ではじめたものだから、実質的にはD:OSシリーズの後継作みたいな感じの受け取りかたをしたわけです。そして、D&D第5版のルールをベースにしているとか聞いてどんなもんかとおもってたけどふつうD:OSに似まくっとるやんけとなった。もちろん話は逆で、D:OSがTRPGの伝統(の一部)をくんでいるからそりゃそう、という話なわけですが。ストーリーなんて飾りですよ……とまでは突き放せないものの3、おなじように「これができるんじゃないか」「こういうビルドでこういう戦略や戦術がとれるんじゃないか」みたいなのを考えて、調べて(bg3.wikiで)、試して、ときには(しばしば)やり直して……というのがおもしろくてしかたがない。しかも実質無料でリスペックできるんだからな! ソリッドで一見しては把握できないようなメカニクスが、実験と調査にたいしてたしかにこたえてくれる感覚というか。

だから自分、ビルドを考えるのが好きなんですよね。昨年AC6ですべてを潰したのにもそういうところがあるし、過去にハマったゲームにもそういう要素があるものがわりと多い。これがOPやでみたいなのを考えたり見たりするのももちろんおもしろいんだけど、自分もふくめこういうビルド要素が好きな人っていうのはきっとそれだけじゃなく、自分の好きな戦い方だとかロールプレイの要素も捨てきれないところがあるんじゃないだろうか。趣味に振り切れるわけでもなく、メカニクスとフィクションの間でストレスを感じながら、もうちょっとゲーム的に強くしたい……けどロールプレイ的には微妙だし……ってジレンマが好き、みたいな。

こういうプレイスタイルの欠点は、ゲームにじかに接していない時間も余裕で潰せてしまうことなんですよね。あれをやってみようこれをやってみようと思いつく、仕様が実際にどうなっているかを調べる、それにしたがってビルドの計画を立てる……みたいなことを、ゲームに接していないときでもやれてしまう。余暇にやることがほとんどぜんぶそれに費やせてしまうし、費されてしまう。なんならじっさいにゲームやってるときだって、そのビルドを試したり、ちょっと装備を調整してみたりでストーリーがぜんぜん前に進まない4

そんなめちゃくちゃおもしろいゲームだった——というかいまも相変わらずおもしろくやってしまっているゲームである——わけなんですが、しかしあらためて考えてみると、こういう形で「TRPGっぽいことをやる」っていう方向性はもういいんじゃないか、ビデオゲームの進化の方向性として自分にとってはノーセンキューになってしまうんじゃないかっていう気もしてしまうんですよね。なんかこう、その方向ではほぼ臨界点といってよく、これ以上やるならそれこそ生成AIとかを使って世界からの反応を見せていく形になるんじゃないかと思っていて、そうなるとそれは、なんだろうな、ソリッドな(そして融通のきかない、あるいはバグのある)メカニクスからの反応を見る楽しみにはならないんじゃないかというか。どうなんでしょうね、BG3がたまたまD&D 5eっていうメカニクス面での参照点があるから余計に思ってしまうところもあるのかもしれない。もうちょっとできるけど、ここまでしかできないというところに留められている——アーケイントリックスターの魔道士の手はもっとやれるだろ!——ってのは、なんかこう、たしかに不満ではあるんだけど、それができるようになることがほんとうに望ましいのかどうか自信がなくなってるんですよ。

あるいはここにも、メカニクスとフィクションの間にある緊張関係をおもしろがるみたいな視点があるのかもしれない。フィクションとしてできるべきことがメカニクスとして物理的に制約されていることからしか得られない栄養ってのがあるんやねえ。

あるのかな。

このへん、TRPGをちゃんとやっている人の話を聞いてみたいところではある。そこのあなた、どうですかね……?


言ったとおりまとまらなくなってきたので、最後に各クラスの雑感を書きます。難易度は戦術家でした。全体的に、物理系のクラスは追加攻撃を得たらお役御免でマルチクラスしましょうね〜みたいになってる気がする。

  • バーバリアン
    • みんなやってる酒場流喧嘩殺法での投擲バーサーカーがあほみたいに強いんだけど、どうせTB使うならモンクのほうがいいんじゃないみたいな悲しみも背負ってると思う。でもやっぱ最序盤からずっと強いしそんなカーラックが好き
    • 激怒の持続で困ることはそんなにないとはいえ、ちょっと窮屈に感じてしまうところもあったり
    • むしろワイルドハートで変なビルドを考えるののほうが楽しいんじゃないだろうか。熊が雑につよいのは置いといて、いろいろ組み合わせ方を試行錯誤する甲斐がある
  • バード
    • (勇は置いといて、剣と知についてはどちらも)本作の仕様に愛されすぎてると思う。パーティに入れないことに勇気が必要になるレベル
    • 戦闘不向きで口八丁で解決するやつでやろ!つって1周目の主人公に適当に選んだのですが、便利すぎるしふつうに戦闘力もトップクラスなのでちょっとヒいた
    • あえて言えば装備習熟が貧弱とかCONセーヴに習熟がないくらいだが、ファイターを混ぜとけば解決するんだよな……
  • クレリック
    • 回復はどうとでもなるゲームとはいえ、支援の面ではいるといないとでだいぶ違う。サブクラスでどれかひとつと言われればやっぱ光だろうけど、なんだかんだでどれ選んでもふつうにいけるんじゃなかろうか
    • ボーナスアクションで範囲回復(というか装備パッシブでの回復に付帯する効果の発揮)ができるとか、フルキャスターかつ装備習熟が充実してるとか、聖域があるとか、光輝ダメージが優遇されがちとかいろいろ
  • ドルイド
    • TBとって月でずっと変身したままってのが無難だしまったく弱くはないんだけど、装備とのシナジーがあんまりない(ないことはない)からだんだん飽きてくるところはあるかもしれない。気軽に土管に入れるのはいい
    • 胞子はどうやって活かすかを考える甲斐があった(でも加速胞子撒き以外で強くしてやれんかった)。土地は……ほかのキャスターでよくない? とはいえ実はドルイドはサモナーとしても優秀だったりするのでやれなくはないか
    • WIS系のライバルであるクレリックが扱いやすいし多様性もあるのがちょっとかわいそう。こっちはCC寄りといういみでなくはないのだが
  • ファイター
    • 物理系でシングルクラスでシンプルにずっと強いバトルマスターはえらい。装備もいろいろ選べて案外楽しいと思う
    • GOOウォーロックの怪光線でクリティカル特化させたる!つってチャンピオンをとったりしたのもわりとおもしろかった
    • エルドリッチナイトは、すまん、あんま使ってません(投擲があるからふつうに強いんじゃないでしょうか)
  • モンク
    • みんなやってるTBとSTR強化エリクサーの開手門が強すぎる。自分のなかで、物理系ではこれがいちばん強いということになってる、なりました。機動力があるのがいいし、スタンさせほうだいだし!属性もドンだ。さらにはやけに専用装備が優遇されている気がするんですが……
    • 暗影はかっこいいんだけど思ったより窮屈な印象だった。もっと場を整えてやればよかったかもしれない。四大門はちょっと……といっても、上で挙げた強みは属性追加以外どれも他サブクラスで有効なので普通に強いのであった
  • パラディン
    • リスペックに制限がかかるということで1周目では避けていてあんまりよくわかってない。2周目はダークアージで開幕誓い破りしてやったぜ!
    • 序盤はとにかくリソースが厳しいみたいな印象があるんだけどこの先どうなるんだろうな。強いらしいのでつが……
  • レンジャー
    • 地味! 追跡者が強いのはわかるんだけど。特技4つとれてもよかったんじゃないかな……
    • ただ、本人が暗中にいるよりはカラスの相棒を使役したり特殊矢撒いたりで補助する役にするほうがおすすめかもしれない。それこそ暗影モンクやローグたちと組み合わせると楽しいとおもう
  • ローグ
    • シーフでボーナス2点や!とかアサシンでアンブッシュや!って感じでマルチクラス先って印象が否めない(物理系で唯一追加攻撃がもらえないのでたしかにそうなる)んだけど、シングルで育てたら育てたでわりとおもしろい
    • アーケイントリックスターはいいですよ。ぜんぜん強かないんだけど、不可視化してる魔道士の手をターン制限なしで連れて歩けるのはふつうに便利だし(罠を箱で塞いだり、急所攻撃のおともにしたり、ノーコストで消耗品投げさせたり……ってのを気兼ねなくできるのがいい)、いっそ奇襲魔法のあるレベル9まで上げよう(秘術の感覚スタックのことはみなかったふりをして)→だったら10で追加特技も→いや11で確かな技術もとろう……火力はスクロールで……いやそれは誰でもできるか……みたいな感じで沼にハマってほしい
  • ソーサラー
    • つよいキャスターを考えようと思うとぜったいにソーサラーが視野に入ってしまってこわい。攻撃回数を稼ぐのが正義なゲームなのでしかたがないわけですが……
    • ヘイスト二重化はちょっと試してやめた。どうしても集中切れに怯える気持ちが捨て切れなかった(たいていその前に倒せるのでたぶん気にしなくてもいいのだが)
    • 魔力点とスペルスロットの行き来が自由なので思ったより場持ちも悪くはない、気がする。とにかく強い
  • ウォーロック
    • すげー楽しいクラスだと思う。怪光線強化や悪魔の目のためにレベル2までで終わらせるのはもったいない。ロールプレイ的にもシングルがいい
    • とはいえそれ以上上げたところで(追加攻撃と重なるあれを除けば)ハダルくらいしかメリットないかもしれないのだが
    • それでもそれでも、これだけ搦手もできて近接もできてあまつさえ目からビームまで撃てるってのはやっぱ唯一無二だと思う。レベル12で特技以外がもらえるのもウォーロックだけだぜ。騙されたと思ってスロットが3つになる11まで上げてみてほしい
  • ウィザード
    • 代わりを作ろうとするとけっこう工夫が必要になってくるクレリックとは対照的に、便利とはいえパーティ編成で必須の位置にはいづらいみたいなのはありがちなのではなかろうか
    • ほかの人員にはQoLを上げるスペルをとる余裕がまったくねえ!みたいなときにはありがたいんだろうな
    • 防御術だけはほかのキャスターにはできないことができて良かった。ソーサラーみたいな天賦の才とかウォーロックみたいな契約とかじゃなく勉強して魔法使えるようになったんだぜというのも俺たちみたいなモヤシにはうれしいポイントだ

以上です。


  1. 細かいことをいえばD:OS2で物理/魔法防御が分かれていて、それを剥がさないと状態異常を与えられないってシステムはあんまりうまくいってないんじゃないかと思うんですが、それはそれ。
  2. やる余裕とか関係性のないTRPGはともかく、CRPGをあまりやってないことは端的にもったいないなと思うんですが、とはいえ「毎回このハマりかたをするおそれがあるのか……」と思うと軽々には踏み出せんのだよな。とはいえ、じゃあなんでD:OSだけやってるんだっけ……たしかmizchiさんがおもろいって言ってたのを見てとかだったような気がする。
  3. 実際舞台とされているフォーゴトン・レルムがどういう世界だとか、九層地獄だなんだみたいな別次元の設定だとかを調べて知っていくと、その異常な物量に押し潰されそうになりつつもたしかにおもろいなとは感じはする。
  4. なんで、160時間とか言ってるうちクエストを進めるなどしている時間はたぶん半分とかそれくらいだとおもう。

わたしたちが『ビデオゲームの美学』を読むこと

フィールド上で方向転換する。コンピューターが接続されているテレビ画面の左上四分の一に草原が映っている。画面の下半分はぼくら一同に関する情報で埋め尽くされている。ヒットポイント、アーマーポイント、スペルポイント、装備中の武器。画面の右上四分の一には今のところ何も出ていないが、いずれ遭遇した敵の情報で埋まり、戦闘に関する数字情報がスクロールし、ゲームがぼくたちに伝えるさまざまな言葉のメッセージが表示されることになる。

──マイケル・W・クルーン『ゲームライフ』1

先日の『デジタルゲーム研究』の感想のなかで、人文系のビデオゲーム研究について(なかでも、いわゆるゲームスタディーズを念頭に置いて)「自分はこういうのっておもしろいと思ってるんだよな」と書きました。今回はその掘り下げも兼ね、『ビデオゲームの美学』という書籍をやや詳しく紹介してみようと考えています。表題2のとおり、「わたしたち」が読むものとして。

ビデオゲームの美学

ビデオゲームの美学

Amazon

ここで「わたしたち」というのは、自分も含めた「ふつうのビデオゲームプレイヤー」のことです。わたし自身が「ふつうのビデオゲームプレイヤー」かどうかについてははなはだ自信がないのですが、ひとまずそうさせてください。そして、わたしを含めたふつうのビデオゲームプレイヤーの層はそれなりに広く、本書が扱うような分野の素養があったりなかったりするはずです。わたし自身は(ここのところ多少勉強しているつもりであるとはいえ)基本的には「ない」ほうです。ということで、そういうむずそうなことわからんでも読んでみるとええかもしれんとちょっと強気におすすめしつつ、そういうむずそうなことわからんなりに読むときのポイントがどこにある(と考えられる)かの一例を示すことが本記事の目的です3

なぜ読むのか

内容の紹介に入ると長くなってしまうため、先に大事なことを。本書──というか、一般にゲームスタディーズに類するような議論を知っておくとよいと考える理由について簡単にまとめておきます。もちろん、なにかよいことのために本を読まなくたってよいのですが、いちおうね。

といいつつ、まさに本書の序章に(アカデミックな文脈での意義を述べたうえで)一般のプレイヤーおよびビデオゲーム制作者向けの意義を直接的に説いている部分があるため、まずはそのプレイヤー向けの部分を引いてきましょう。

第一に、本書を通して、ビデオゲーム作品を受容する実践についての理解と反省を深めることができるだろう。本書の理論的枠組みは、プレイヤーが経験するものとしてのビデオゲーム作品の構造を分析したり、ビデオゲーム作品の評価項目を記述したりするための道具立てを与える。その枠組みは、当然ながらプレイヤーが自分自身の経験を反省的に理解するのに役立つ。また、プレイヤーが批評──理由にもとづいた価値づけ──をする際には、その考えの整理や表現の正確さに寄与するだろう。概念は、考えるための、そして考えを言葉にするための道具なのだ。(p.20)

つまり、「ビデオゲームについて考えるための、そして考えを言葉にするための道具」を整理してくれるのが本書ならびにゲームスタディーズという学問なわけです。本書を読むことで、「あのゲームのどこがおもしろかったんだろう」「あのゲームとこのゲームでどこがちがうんだろう」「ゲームについての話に使われるあのことばはどういう意味なんだろう」といったことが、いまよりもっとよくわかるようになるかもしれませんよ、と。ひいては、だれかほかの人とビデオゲームについて話すときだって、もっとスムーズにコミュニケーションをとることが可能になるかもしれませんよ、と。

このあたりはビデオゲームに関する本書にかぎらず、たとえば小説に関してフィクション論やら物語論やらの本を読むモチベーションとも通じるところでしょう。自分自身、まさにこうしたモチベーションのもとでこれらを読んでいるところが少なからずあります。

ただもしかすると、そういう「理論」を追い求めているうちにわからないところが見えなくなってしまうのではないか、ごちゃごちゃしたものを排除してしまうのではないか、みたいな懸念をもつ人もいるかもしれません。ある種の神秘性や私秘性に重きを置くというか。

そんな人には──というか、自分だって一方でそういう面があるのですが──「そういうところはどのみち残るし、むしろわからなさそれ自体が以前よりもよく見えるようになると思うよ。なんなら、とくに神秘的/私秘的でもなんでもないものを神秘的/私秘的なものと取り違えることがなくなっていいかもしれないよ」と言いたい。どのみち理論はすべてではなく(それははなから目指してなかろう)「できる範囲で整理するならこうできそう」という提案とその改良の積み重ねがはじめから想定されているわけですし。

あとそもそもの話として、道具なんだから使いたくないときには使わなくてもいいんですよ。そのくらいの距離感でいいのだと自分は考えています。そのうえで、仲間がほしくておれはこれを書いている。

もちろん、そうはいっても「ほんまかいな」となるでしょうから、以降でもうすこし詳しい説明を試みます。

どんな本なのか

読むにせよ読まないにせよ、あらかじめざっくりとした内容について知っておけるとなにかとよいのではないでしょうか。以下である程度簡潔に内容を紹介することにします。

紹介文を見てみる

とりあえず版元/著者自身による紹介を見てみましょう。この本についていちばんよく知っているのは彼/彼女らのはずなので。

慶應義塾大学出版会のサイトにある紹介文によれば、本書は 「ビデオゲームを一つの芸術形式として捉え、その諸特徴を明らかにすることを試みる。[…]多くの事例をとりあげながら、ビデオゲームを芸術哲学の観点から考察し、理論的枠組みを提示する」 ような一冊とのこと。わりと端的なまとめだと思いますが、端的すぎてちょっとわかりづらいですよね。これについてはあとでもうすこし補足します。

続いて著者自身による紹介。いろいろあるのですが、ひとまず右記。「本の全体としては、『ハーフリアル』の続編みたいなものとして読んでいただくのが一番わかりやすいかもしれません。それから、現代の英語圏美学(分析美学)の基本的な考え方を広く把握するのにもある程度使えると思います(入門レベルですが)」 とのこと4。こちらはこちらでちょっと文脈が乗ってんな。

実際そのとおりで、この紹介を読んでピンとくるなら本書じたいもまったく問題なく読めるはずだし、すぐ読めばいい(というか、自分が偉そうにおすすめするまでもない)。ただ、『ハーフリアル』を読んだことがなければ「続編といわれても……」となりそうだし、現代の英語圏美学に興味がない(そもそもどういう議論がされているかを知らない)と「入門といわれても……」となってしまうかもしれません。

ただ実際のところ、『ハーフリアル』を読んでいなくても本書は読めますし5、美学というと身構えてしまうかもしれないものの、現代においてはふだんのなにげない感覚(これかっこいいな、とか)も扱う分野であり6、また芸術作品であることと娯楽作品であることとは排他ではない(本書第3章4節)という事情も鑑みれば、気軽に入門してみてもよいのではないかと思うのです。

問いと理論的枠組み

さて、改めて先ほどの版元の紹介文を見てみると、どうやらここでは「問い」と「理論的枠組み」に触れられているようです。これらについてもうすこし掘り下げます。

まず本書の「問い」についていえば、序章にて明確に述べられています。すなわち、「ビデオゲームはどのような独特の特徴を持った芸術形式なのか」 というのが本書の主要な問いです7。ここで「芸術形式」というのは、たとえば小説だったり彫刻だったり映画だったり、そういった芸術の種類のことだと考えておけばひとまず問題ないはず(ビデオゲームは芸術である、という話は第3章にて)。ざっくりいえば、「ビデオゲームらしさ」「ビデオゲームならではの特徴」ってどういうもんなんやろね、ということを考えようとする本なわけです。

次に「理論的枠組み」について。「ビデオゲームらしさとはなんぞや」とはいったって、やみくもに考えてもうまくいかないものでしょう。きっと枠組みというものがあるといい。本書におけるもっとも重要な枠組みは、第2部の第4章から第5章にかけて提示される 「一つの統語論と二つの意味論」 でしょう。より具体的には、おおよそ以下のようにまとめられるでしょうか。

  • ビデオゲームをプレイしているとき画面に表示される要素やスピーカー/ヘッドホンから聞こえてくる音など(の組み合わせ)8は、以下の2種類のものごとのどちらか、あるいは両方を表しうる
    • 虚構世界:架空のキャラクターやできごとなど。「ルイージはマリオの弟だ」とか
    • ゲームメカニクス:プレイヤーの入力にしたがって処理をおこないその結果を出力するシステム。「1UPキノコを取ると一機増える」とか

つまり、ビデオゲームにおいては、全体としてはひとまとまりとなっている出力装置上の要素たちが表しているものを2種類に区別できる、というのが本書の基本的な立場です。そして、この見方のもとでビデオゲームのさまざまな側面を検討していきながら「ビデオゲームらしさ」を考えていくというわけ9。なんなら、この区別をつけることでビデオゲームにまつわるいろんなことがクリアに理解できるよ、と。

ここで注意点を二つ。

まず、(詳しくは第2章で述べられるのですが)本書はゲームをプレイするという一連の過程のうち「意味作用」の側面に焦点を当てているという点です。先ほどの「一つの統語論と二つの意味論」のまとめを見ればわかるとおり、これは出力装置上の要素をプレイヤーが受け取って考えたり感じたりするフェーズ(これが「意味作用」のフェーズ)の話であり、それを受けてプレイヤーが入力装置を操作するフェーズ(こちらは「行為」と呼ばれる)についてはほとんど触れられていません。実際「行為」の側面はビデオゲームにおいて重要なトピックではあるものの、それについては「意味作用」の検討に必要なぶんだけしか論じられておらず、今後の課題として残されているとしています(第2章および終章)。とはいえ、行為のベースにはやはり意味作用があるわけですし、他の芸術形式と比較しやすいのもこの側面であるという事情も汲むならば、納得できるところなのではないでしょうか。

また、前述の問いに対する具体的な答えについて。たしかに本書全体を通して「ビデオゲームらしさ」を散発的に述べてはいる(というか、「らしさ」を述べることを見据えて記述が進んでいく)ものの、最終的に「これがビデオゲームらしさですよ」と列挙してみせるような形でまとめられているわけではありません。ある意味では、前述の枠組みを提示しそれが「らしさ」を含めたビデオゲームの分析に活かせるさまを見せることが主眼の本であるとは言えるでしょう。とはいえそもそも、そんなふうに列挙できるものなのかどうかといえばそりゃ難しいわけで、それを引き出す一助になる本と考えればよいところではあります。

各章の概略

おおざっぱな内容がわかったところで、続いてはより具体的に、各章でどんなトピックがどのように論じられているかを見ていきます。その際、ある程度強引に「ここは覚えておいたほうがよさそう」「ここはいったんスルーでも大丈夫そう」という提案も試みます。また、本書は既存の美学や芸術哲学との接続を重視した内容ともなっているのですが、それらへの言及はわたしたちには当座関係ないものとして、あえて落としてあります。

第1部:芸術としてのビデオゲーム

本論である第2部に入る前の足場を固めるような、著者自身の紹介にもあるとおり「美学入門」という色彩の強い第1部。面倒そうならスキップしてかまわないと第1章冒頭でも述べられているし、たしかにおおむねそうなのだが、前述の「意味作用」の説明がある第2章5節だけは押さえておいたほうがよいと思われる。

第1章:ビデオゲームとは何か

『ビデオゲームの美学』といったって、なにを対象にしているのかがはっきりしないとどうしようもない。というわけで、本章では「ビデオゲーム作品」を定義する作業がおこなわれる。とはいえ、この定義にあたってはわれわれ一般のプレイヤーの直観に沿うことが重視されている(記述的定義として外延的に十全であることを目指している)ため、「たしかにそうだな〜」くらいに感じたうえで忘れてしまってもとくに問題ないのではないだろうか。あえていえば、一般論としての「定義とはなんぞや」という話(1節)と、「ビデオゲーム」と「ビデオゲーム作品」の区別(2節)あたりだけ覚えて帰れれば十分だと思う。

なお、既存の研究10を検討(3-4節)した結果、本書におけるビデオゲーム作品は以下のようにまとめられている(5節)。

すなわち、ビデオゲーム作品とは、下記の3つの特徴をすべて持つものである。

  1. 視覚的デジタル媒体を通して実現される人工物である
  2. 娯楽的に、あるいは、芸術的に受容されることを意図された(あるいは慣習的にそのようなものとして見なされている)ものである
  3. その受容のあり方が以下のいずれかであるよう意図された(あるいは慣習的にそのようなものとして見なされている)ものである
    • ゲームのプレイ
    • インタラクティブなフィクションの受容
    • シミュレーションの受容

ここで注意しておきたいことは2点。まず、これは表現媒体11としての「ビデオゲーム」の定義ではなく、それに属する個々の「ビデオゲーム作品」の定義であること(前者はそれこそ「ビデオゲームらしさ」から定義すべきなわけで、本書全体の目標の側にある)。また、この定義では狭義のゲーム(作品)ではないものもビデオゲーム作品とされている(したがってビデオゲームはゲームの下位分類とならない)ため、「アートゲームなんかビデオゲームじゃねえぜ!」みたいなこだわりをもつ人にとっては不満があるかもしれない(そういう人はまあ、適宜修正して考えましょう)。

このほかサブトピックとしては、ビデオゲーム作品の媒体構成は一般に「出力装置(視覚的なもの以外も含め、本書では「ディスプレイ」とよぶ)」「入力装置(コントローラ)」および「演算処理媒体(コンピュータ)」の3つからなるという話(6節)とか、「ビデオゲーム」や「デジタルゲーム」といった呼び名および本書が「ビデオゲーム」を採用する理由とか(7節)。

第2章:ビデオゲームの意味作用

章見出しのとおり本章は「意味作用」とはなんぞやというのがメイントピック(のひとつ)となっており、それについて理解しておくためにも本章5節「ビデオゲームの受容過程」だけは目を通しておくとよいと思う(図2-1を見ればおおむねひとめでわかる)。意味作用についての説明は本記事でもすでに行っているため繰り返さない。

そのほかの本章のトピックとしては、芸術作品の受容そして評価とはどういうものか(2節)、その際にその作品が属するカテゴリーが重要であること(3節)、芸術の存在論とそのなかでのビデオゲームの位置付け(上演芸術と再生芸術の性格をあわせもつ。4節)など。2-3節はざっくりいえば「らしさ」を考えることがなぜ重要なのかについての話なので、そういったことに興味があれば読んでおくとよいかもしれない。次章とあわせてかなり美学美学した章。

第3章:芸術としてのビデオゲーム

「ビデオゲーム(という表現媒体)は芸術(芸術形式)である」と主張する章。この主張については著者自身によるまとめがあるため、これを見てもらうのがいちばんてっとりばやいと思う。現代的な美学における「芸術とはなにか」みたいな議論のざっくりしたまとめにもなっている。

ビデオゲームは芸術か:『ビデオゲームの美学』3章をわかりやすく書く - 9bit

ただ、こういった議論は一般のプレイヤーとしては興味を持ちづらく、「そりゃ芸術でしょ」とか「まあどっちでもいいんだけど」くらいの人が多そうだとも感じる(自分は前者である)。それでも、4節「娯楽と芸術」にあたりは読んでみるとおもしろいのではないか。娯楽作品であることと芸術作品であることは排他ではなく、そのうえでビデオゲームにまつわるわれわれの実践をみればたしかにそのように扱っている(し、だからこそ本書のような試みがある)ということをしっかり納得できるのではないか。

そのほか、ビデオゲームの歴史を振り返りながら「ハイブリッドな芸術形式」のひとつとしてビデオゲームを位置付ける話(5節)など。

第2部:一つの画面と二つの意味

実質的な本論となる部。くだんの「一つの統語論と二つの意味論」という枠組みを実際に提示し(第4章-第5章)、それぞれの意味論について掘り下げる(第6章-第7章)。

ここで提示した枠組みを実際に応用して見せる(そしてそのぶん、実際のビデオゲーム作品からの事例もたくさん出てくる)第3部のほうが一般のプレイヤーとして読んでて楽しいところかもしれないが、この第2部をある程度理解していないとちんぷんかんぷんになってしまうので、がんばっていきましょう。

第4章:ビデオゲームの統語論

本章で最低限おさえておきたいのは、記号-表象-内容の関係と統語論/意味論の区別あたり。

まず、記号-表象-内容の関係(1節)について。といってべつにむずかしいことはなく、〈「ポチ」という文字列(記号)がそこにいるポチ(内容)を表す(表象する)〉みたいな関係がいろんなところに見られるよね、以降ではこの形の関係があればこんな用語の使い方をするよ、くらいの理解でいいんじゃなかろうか。

2節の「記号システム」の話はひとまずスルーでよく(いいと思う)、統語論と意味論の区別について(3節)。論理学とか言語学とかについて知っているならその通りのことが書いてあるだけなのだが、もっぱら記号たち(の組み合わせ)に関してのみで言えることを考えるのが統語論で、その記号たち(の組み合わせ)によってなにを表しているかを考慮するならそれは意味論だよ、という感じだろうか。いつも思うのだけど、われわれは記号そのものについて考えているつもりでも無意識に「なにを表すか」の視点を盛り込んでしまいがちで、統語論と言いつつ実はそれ意味論だよみたいなことがけっこう起こるんだよな(そうだよね?)。

で、ビデオゲームにおける「記号」つまりなんらかの内容を表すものはなんなのかというと、それはディスプレイ(モニターやスピーカーなどの出力装置)に現われる諸要素である(4-5節)。画面に写っているヒゲのおじさん12という記号がマリオという内容を表象している、とか。もちろん、ディスプレイに現れるあらゆる要素がなにかを表しているとは言い切れない(音の場合はとくにそうだろう)から、あらゆる要素が記号であるわけではない。

続く本章の後半(6-9節)では、ビデオゲームに関してしばしば言及される「インタラクティブ性」について検討されている。ここややこしいんだよな……正確とはとてもいえないが、さしあたって下記くらいで把握しておけばいいんじゃないだろうか(インタラクティブな芸術の定義の書き下しに自信がないし……)。

  • たんに「作品にはたらきかけるとなにかが変化する」というだけでは「インタラクティブな芸術作品」とはいえない。そう言えるには:
    • その変化は完全にランダムでも完全に予期できるものでもいけない
    • その変化は作品にとってある種の意味のある(美的構造を変化させる)ものでなければならない
    • その変化は作者が意図したものでなければならない
    • ──といったこと自体を受け手がわかっていなければならない
  • ビデオゲームの場合、この相互作用の対象は(ディスプレイやそこに現れる記号もそうだがそれだけではなく)ゲームメカニクスでもある
    • ゲームメカニクスはあくまで記号によって表象される内容であるため、ミスリードの可能性をひらいたりできる

とはいえそもそも、現時点では「ゲームメカニクスってなんだよ」という感じのはずなので、このへんはざっくりでいいんではないか。実際、インタラクティブ性だとかゲームメカニクスとの相互作用だとかについてはこのあともちょくちょく出てくるし。

第5章:ビデオゲームの意味論

本書の基本的な枠組みとして紹介した「二つの意味論」の区別について詳しく述べられる章。繰り返しておくと、ビデオゲームにおいてディスプレイに現れる記号は以下のまったく異なる2種類の内容を(ときには同時に)表しうる(1-2節。同時に表すこと、すなわち「重ね合わせ」については6節)。

  • 虚構世界:架空のキャラクターやできごとなど。「ルイージはマリオの弟だ」とか
  • ゲームメカニクス:プレイヤーの入力にしたがって処理をおこないその結果を出力するシステム。「1UPキノコを取ると一機増える」とか

で、3節でいきなり「量化のドメイン」とか言われるんだけど、そんないきなり存在論的コミットメントがどうこうとかいう話をされてもめんくらうだけなのでいったんスルーでいいと思う。とりあえず「この二つはまったくべつものなんだな」ということだけ理解しておけば問題ないはず。ゲームメカニクスが「現実的なもの」と言われても違和感があるという人もいるかもしれないが、それについては第7章で(のとくに9節以降)詳説されるのでそちらを待ちましょう。

ちなみに、本書においてはこの区別がほんとうにあるのかに対して論証を与えない(!)。なんとなれば、われわれ(わたしたち一般のプレイヤー!)は実践のレベルですでにそれらを区別しているではないか、と13(4節)。「この《キノコ》はなんなの?」「ええと、それは(虚構世界とゲームメカニクス)どっちの意味で?」14

そのほか、5節では本書のこれ以降の用語法についていくつか紹介がある。ざっと眺めておきましょう。

第6章:虚構世界

ここからは、二種類の意味論のそれぞれを掘り下げていく。本章はまず「虚構世界」について。流れとしては、前半の1-6節でビデオゲームに限らないフィクション一般の話(つまり、「フィクション論」と呼ばれる分野の議論の紹介)をしたうえで、後半の7-11節でビデオゲームにおけるフィクション、とくに、ビデオゲームのインタラクティブなフィクションの側面について検討している。

前半のポイントを強引にまとめるなら、次のようになるだろうか。

まず、フィクション作品における虚構世界の表象には「虚構世界を表す」と「虚構世界を作り出す」という二つの側面がある。作り出しつつ、それについて述べてもいる、というわけ。このうち「表す」という側面についていえば、ノンフィクションにおける現実世界の表象と原則的には変わらない(3節)。もちろん相違点がまったくないわけでもなく、たとえばその真偽の判断をおこなうための経路がかなり(具体的には、作品そのもののほか、作者の発言やジャンルの慣習などに)限られている。また、ある一つの虚構世界に対する表象の種類が一般に少ないことも挙げられる。翻案のような事例はあるが、それらが同一の虚構世界を表象していると言えるかははっきりしないし、そもそも普段それを特定する必要はない。現実の表象が互いに矛盾しているとき一方は誤りであるということになるが、虚構の表象においては別の虚構世界を表象しているという形で済ませることができてしまう。このほか、(一定程度の)無矛盾性への要求や不確定性の問題などの話もおもしろいんだけどここでは割愛。

「表す」という側面において現実世界の表象との相違点が生じるのは、虚構世界の表象に「作り出す」という側面があるためである(4節)。しかし、虚構世界を「作り出す」とはどういうことか。本書の立場としては、これを作者による「ふり」と受容者による「ごっこ」によるものとして捉える。作者は現実世界に関する報告のやり方を流用して(その「ふり」をして)虚構世界について述べ、それを受け取った受容者はその報告の内容が真であると想像する(そうである「ごっこ」をする)。このとき受容者がどのような想像をするかは、作者の意図によるかもしれないし、あるいはジャンル等その社会における慣習によるかもしれない(5節)。

……などとまとめてはみたけれど、さしあたっては「われわれがフィクションを受容するとき、現実ではないことをあたかもほんとうのことのように想像している」ということだけわかっていれば最低限OKなのかもしれない。

さて、以上をベースに、本章の後半ではビデオゲームがまさにそうであるところの「インタラクティブなフィクション」という概念が詳しく検討される(8節)。とはいえ、たんに「受容者がその虚構的な内容を左右できるようなフィクション」(弱い意味でのインタラクティブなフィクション)というだけであれば第5章を援用しつつ簡単に定式化できる(そして、きわめて抽象的な作品を除けばたいていのビデオゲーム作品はこの意味でインタラクティブなフィクションである)。問題は、「インタラクティブなフィクション」といったとき「受容者が虚構世界のなかで『虚構的な役割』を演じるフィクション」(強い意味でのインタラクティブなフィクション)といったニュアンスまで込められているケース。これはいったいどのような事態を意味しているのか。

この「強い意味でのインタラクティブなフィクション」の解釈において重要なのは、ある局面でプレイヤーが「自分がそれを行った」と想像するということではなく(それだけなら小説を読むときにだってそのように想像することはあるだろう)、そのうえで「そこで起こっている出来事が自分の行為の結果である」と想像しうるということである(9節)。たとえば、プレイヤーの選択によって、虚構世界上の人物が死んでしまった(そのような記号が現われ、プレイヤーもそのように想像した)としよう。そのとき、「それを引き起こした行為たるプレイヤーの選択こそがその人物の死を引き起こした虚構世界上の行為である」と遡及的に想像されることになるであろう……という感じ。これは事後的に意味付けられる例だが、逆に虚構世界についての想像に動機づけられて現実の選択を行うような例もある(ビアンカとフローラの選択が例として挙げられている)。

こういった「虚構世界に自分が入り込む」ような想像をする「自己関与型プレイ」だけでなく、「すでに虚構世界上に存在している特定のキャラクターになりきる」ようなプレイもしばしば見られる(10節)。本書では、後者のようなプレイを「ミミクリ型のプレイ」と呼ぶ。ミミクリ型のプレイはたとえば、「このキャラクターならこの選択肢を選ぶだろうな」といった動機の形成のしかたをするという点で、「自分ならこれを選ぶ」といった動機の形成のしかたをする自己関与型のプレイと異なっている(もちろん通常のビデオゲームのプレイにおいて完全にどちらかであることはまずなく、濃淡のちがいはあるとはいえふつうはこれらが同居している)15

ここまでインタラクティブなフィクションとしてのビデオゲームについて見てきた。けれどもゲームプレイにおける動機は虚構的な内容だけに左右されるわけではなく、「どっちがクリア楽になるかな〜」とか考えることもあるわけで16、したがってインタラクティブなフィクションという観点のみからビデオゲームを考えるのは適切でない(11節)。ということで、次章でゲームメカニクスについても考えましょうねという話がされて本章おわり。

そのほかのトピックとしては──前半だと「フィクション」と「物語」の区別について(1節。いやほんとこれはマジでみんな区別してほしい)、虚構に関する言説の区別(2節)、虚構世界の存在者のカテゴリは(特に断りのないかぎり)現実世界と変わらないこと(6節)など。後半だと、ビデオゲームにおける視覚様式上の特徴、およびそれはビデオゲームのナラデハ特徴とはいえないこと(7節)など。

第7章:ゲームメカニクス

ここまでのところ、ゲームメカニクスに関して「入力、処理、出力の機能を備えたある種のシステム」であるとか、プレイヤーがゲームプレイのなかで実際に相互作用する相手であるとか言ってきたけれど、それではゲームメカニクスとはいったいなんなのか。

というわけで「ゲームメカニクス」を定義し掘り下げる章、なのだが……本書でもっとも長い章であり流れを見失いやすいし、しかも正直かなりむずかしいんだよな……。かなりおおさっぱな流れとしては下記のようになるだろうか。

  • 1-6節:(非ビデオゲームも含めたゲーム一般における)「ゲームメカニクス」の定義をおこなう
    • その過程で、既存の研究(本書の「ゲームメカニクス」は、ユールなどが「ルール」と呼んでいる概念に相当する)が検討されたり、ゲームメカニクスの機能は「行為のデザイン」である(行為を制約するだけでなく「形作る」)という話がされたり、自己目的的であるといった特徴をもつ「ゲーム行為」という概念が定義されたり、本書特有の「美的行為」という概念が導入されたりする
  • 7節:ゲームメカニクスの構成要素にはどんなものがあるかを論じる
  • 8節:ビデオゲームのゲームメカニクスのどこが特殊なのかを論じる
  • 9-11節:ゲームメカニクスは(虚構世界と異なり)あくまで現実に存在するもので、ある種の制度としてとらえられると論じる

前章と同じで前半が一般論となっているわけだが……そう、「ゲームメカニクス」を定義するために本章の半分くらいを費しているのである。最終的に6節末で示されるゲームメカニクスの定義は下記。

ゲームメカニクスは、それによってゲーム行為という種類の行為を生み出すことを意図された(あるいは慣習的にそのようなものと見なされている)ものの全体である。ゲーム行為とは、その目的それ自体は必ずしも望ましいものではないが、その目的を受け入れることによって生じる手段の系列がそれ自体として望ましいものであるような行為のことである。ゲーム行為の内在的性質とその望ましさは、美的行為という観点から説明できる。 (p.186)

おわかりになりますでしょうか……たぶん一読して理解できるものではないんじゃないかと思います(このような定義に至るために紙幅を割いて予備的な概念を用意していっているのだから当然である)。わたしとしても理解できているかたいへんあやしいのですが、かっちりとした定義は置いといてとりあえず「ゲームメカニクスってだいたいどんなものなのよ」という直観的な把握だけを目指すのであれば、7節を読めばおおよそ問題ないようにも思われます。それについてはこのあと説明するとして──(自分のためにも)「ゲーム行為」についてまとめてみようと思う。

本書における「ゲーム行為」とは、(個別化の粒度はいろいろありうるとはいえ、典型的には)たとえば将棋の一手のようなことがらを指す。そして、これはゲーム行為を繰り返す(つまりゲームをプレイする)プロセス全体とは区別される(この「プロセス」は、上記の定義における「手段の系列」に対応する)。個々のゲーム行為は特定の目的(たとえば「勝利する」)のための手段であるが、その目的それ自体で価値があったり、あるいはその目的が価値と結び付けられていたりする必要はない(もちろん、結び付けられることもしばしばある。あくまで「その必要がない」ということ)。「でも、ゲームするのって楽しいじゃん」と思うよね。これは実際のところその通りで、「その目的を受け入れることによって生じる手段の系列がそれ自体として望ましいものである」というのはこのことを指している。「ゲーム行為」の目的自体に必ずしも価値があるわけではない(個々のゲーム行為の目的は楽しみではない)けれど、その目的を受け入れてゲームに参加しそのプロセスを経験することは楽しい……みたいなイメージか。そして、ゲームメカニクスの機能というのはこういった行為をデザインすることにある、と。

……という感じの、はず……。とはいえまあ、やっぱよくわからんので、ここでは具体的なゲームメカニクスの構成要素についてイメージを持っておこう。本章7節では、ゲームメカニクスの構成要素(存在者のカテゴリ)として以下が挙げられている(p.187にあるものを多少改変)。

  • (a) 可能な状態:そのゲームプレイにおける事態はどうなりうるか
  • (b) 現在の状態:そのゲームプレイにおけるいまの事態はどうであるか
  • (c) 状態遷移規則:どういう事態になれば、どういう事態になるか
  • (d) 行為可能性:プレイヤーは何をできるか/できないか
  • (e) 目標(の一部):プレイヤーはどうすべきか/すべきではないか
  • (f) ゲーム的記号(の一部):ゲームメカニクスの要素についての内容を持つ記号

たとえフィクションの側面やこれらを表すための物理的な素材が異なっていたとしても、これらが同じであればゲームメカニクスが同じであるといってよい17(ゲームメカニクスは「形式的」なものであるということ)。

ここに挙げられているうち、a-cは(本章の序盤などでも示されているとおり)有限オートマトンに類比して考えればわかりやすいだろう。とらえようによっては「プレイヤーがゲームメカニクス上でできること」であるdも(入力の集合として)このアナロジーの上で考えられるかもしれない。

eの「目標」とははすなわち、〈すべきこと/すべきでないこと〉。目標はあくまで提示されるだけであり、プレイヤーはそれを「目的」として受け入れることもできるし、逆らうこともできる──のだが、指定された目標を受け入れない逸脱的なゲームプレイヤーはそのゲーム(目標を受け入れた場合のそのゲーム)をプレイしているといえない、かもしれない。いえるかもしれない。このあたりはわりとケースバイケースである(なので「一部」なわけ)18

fはゲームメカニクスを表象するための記号のこと。こういった記号それ自体もゲームメカニクスである。素直に解せば説明書の記述などもこれに含まれうるのだが、それをゲームメカニクスとは言わないだろうから、いくらかの制限がかかってくるようには思われる(これも意図や慣習によるであろう。ということで「一部」)。

ここまではゲーム一般の話。それでは、ビデオゲームのゲームメカニクスに固有の特徴とはなにか(8節)。本章の序盤でも軽く触れられているのだが、改めておおむね次のとおりまとめ直されている。なお、ゲームメカニクスそれ自体は抽象的なものなので、実際に機能するものになるためのなんらかの方法で具体化されなければならない。本書ではこの過程を「現実化」と呼んでいる(このあたりは2節で説明がある)。

  • 現実化が非規範的である
    • たとえば、サッカーにおいては「原理的には手でボールを触れるけれど、それは反則になる(やってはいけない)」という規範的な形で行為に制限をかけるのにたいし、ビデオゲームにおいてはふつう、端的に「できる/できない」という形で制限がかかっている
  • 現実化が自動的である
    • たとえば審判が必要なかったり、状態遷移(駒の移動、とか)を人間が行う必要がなかったりする
  • 非ビデオゲームよりもはるかに情報量の多い処理を許容する
  • 非ビデオゲームよりも正確に運用される(逆にいえば柔軟性がない)
  • 作者の意図しない形での現実化、すなわち「バグ」がありうる
  • 基本的に意味論的に単純な情報しか処理できない
    • たとえばプレイヤーキャラクターの選択を完全にフリーワードで行って、それをメカニクスの側で解釈してくれるようなことは、現状まだできない。TRPGだと現実化を人間がやるおかげで、わりとできる

ビデオゲームにおいてゲームメカニクスの現実化を担うのがコンピュータハードウェアであるという事情がこの特殊性にかかわっていると言ってよさそう。

最後の9-11節はゲームメカニクスの存在論について。全面的にサールの社会的存在論を援用しておりここもけっこうしんどいところなのだが、おおざっぱに説明するなら下記くらいになるだろうか。とりあえず「ゲームメカニクスは現実のもの」ということが主張したい部分ではある。

たとえばここに野球をしているA君たちがいて、そのとき「A君がバットで打ったボールがフェンスの向こうに飛んでった」という事実(「なまの事実」と呼ぶ)があるとする。野球という文脈において、これは「ホームランである」とみなされる。この「ホームランである」という事実が「制度的事実」であり、野球において「A君がバットで打ったボールがフェンスの向こうに飛んでった」ことを「ホームランである」とみなすルールを「構成的規則」という。なまの事実をある文脈でどのような制度的事実としてみなすかというルールが構成的規則、という感じ。

このように、野球のルール(野球のゲームメカニクス)というのは、あきらかにこういった構成的規則の体系、すなわち「制度」である。このように考えると、たしかにゲームメカニクス上の事実(制度的事実)は現実に含まれており、その点で虚構世界とはまったく異なっているといえる。もちろんビデオゲームのゲームメカニクスについても同じで、コントローラによる入力を通したハードウェアの状態変化をゲームメカニクスの状態変化とみなしているといえる。

第3部:二つの意味のあいだで遊ぶ

そんな調子で第3部についてもまとめていこうかと思ったのですが──すでに2万字を超えてきてしんどくなってきたため、以下では各章のトピックを挙げるにとどめます。第2部で提示された理論の切れ味を試す部分であると同時に、読者にとっては「統語論と意味論のちがいってそういうことなのか」みたいに応用例を通じて理論に習熟していく部分だといえるでしょうか。もちろん、単純にいろんなゲームが実際に事例として使われるところでもあり、第2部の内容だと抽象的すぎて使い道がわからんかった(かもしれない)「思考の道具」について「こうやって使えばいいのか」と思える部分でもあります。

  • 第8章:二種類の意味論の相互作用
    • 章見出しのとおり虚構世界の表象とゲームメカニクスの表象の相互作用について簡単に考察される章
    • 相互作用の基本的な型として、ゲームメカニクスの内容を虚構的な内容から類推する「類比的推論」、虚構的内容を通したゲームメカニクスの把握それじたいを楽しむような「謎解き」、そしてゲームメカニクスが虚構的内容の動的なモデルとなっている「シミュレーション」の3つが紹介されている
  • 第9章:ビデオゲームの空間
    • ゲームにおける「空間」を一つの統語論的空間(画面)と二つの意味論的空間(虚構空間とゲーム空間)に区別して考えるといろいろ整理できるよ、という章
      • ある程度特殊なビデオゲームでもなければ虚構空間はたいてい3次元であるいっぽうで、ゲーム的空間は2次元である(キャラを2軸でしか動かせない)ことも多いよね、とかそういうことが言えたりする
    • それぞれの意味論的空間がどんな空間であるか(2次元であるとか3次元であるとか)というのとは独立に、視角や投影法といった「遠近法」を考えられる
      • つまりゲーム空間を表象するための遠近法と虚構空間を表象するための遠近法は別々に考えられるわけで、その組み合わせ方によっては印象的な場面を作り出せる
      • ここのレイディアントシルバーガンの例は「まさに!」という感じなんだけど、ほかの図版に比べて妙にデカく掲載されていてちょっと笑ってしまった。良い
  • 第10章:ビデオゲームの時間
    • 時間についても一つの統語論的時間(実時間)と二つの意味論的時間(虚構時間とゲーム空間)に区別して考えるといろいろ整理できるよ、という章
      • たとえば、カットシーンにおいては統語論的時間が進むに従って虚構時間も進む一方で、ゲーム時間は止まっている、とか(そのうえで、ゲームメカニクス的な目標の提示が行われうるという点で、ゲームメカニクス面での出来事がまったく起こらないと言うことはできない)
      • 「リアルタイム」と「ターンベース」の違いも、こうして区別された時間概念と入力可能性との関係でうまく説明できる
  • 第11章:プレイヤーの虚構的行為
    • プレイヤーSがマリオをプレイしているときに「Sはキノコを取った」などと表現することはよくある。が、よく考えてみればこれ(「虚構行為文」とよぶ)はおかしい。Sは現実にいるにもかかわらず、その行為が虚構世界内で行われているような表現だからだ。これはどういう意味なのか、あるいはなぜこのように表現するのか……といったことについて検討する章
      • 最終的には次のように説明される。すなわち、虚構行為文が表しているのは現実の行為(ゲーム行為)であるが、それを表すのに虚構的内容を持った語彙が使われるのは、その行為を特定・表象する記号の名前として、そうした語彙が自然に使われるからである
    • 「ビデオゲームにおける殺人は道徳的にOKだがビデオゲームにおける児童虐待は道徳的にもNGであると考えられているのはどうしてか」といった「ゲーマーのジレンマ」と呼ばれる問題について、(直接的に答えるわけではないものの)この枠組みを使って問題の場所をある程度明確化したりもしている
  • 第12章:行為のシミュレーション
    • ビデオゲームにおける「シミュレーション」という概念を掘り下げる章
      • ただ、わたし自身この前半部分のシミュレーション一般に関する内容について、かなり理解に自信がないです……
      • が、とりあえず、ビデオゲームにおけるシミュレーションは、ゲームメカニクスに対するユーザの行為が虚構世界上の行為に見立てられるような「行為のシミュレーション」としてとらえられるとする
      • 「行為のシミュレーション」と「インタラクティブなフィクション」との関係についても検討される
    • シミュレーションの「写実性」についての話題も
      • 絵画などの描写においては対象にたいする情報量や正確性が増せば基本的に写実性も増すのだが、シミュレーションの写実性においてはそうとは限らない。モデル化において対象のどういう特徴に着目するかというポイントがあるため

以上が本書の概略となる。概略っていうか……まあ概略ということで。改めまして、内容の正しさは保証できませんし、誤りなどあればぜひご指摘ください。おれは! 指摘しあえる仲間が! ほしいんです!

おまけ:シミュレーションについてよくわからなかった件

最後におまけ。上にも書いたとおり、第12章の前半(1-3節)がよくわからなかったんですよね……今回読んだときの当該部分の読書メモを以下にほぼそのまま貼っておくので、どなたか詳しい方に教えていただきたいです……。

2023-12-28追記:著者による補足

……と言っていたところで、著者の松永さんから応答いただきました。曖昧な箇所も多いメモから整理したうえで説明いただいており、たいへんありがたいです(あと、概略部分はおおまかにはまちがっていなさそうということで安心しました……!)。

『ビデオゲームの美学』の「シミュレーション」について - 9bit

まとめ部分をここにも引いておきます19。自分にとってはとくに問題なく理解できる整理になっていると思えます。

モデルの表象内容と対象システムはたしかに区別されている。しかし、2つの(2種類の)表象があるという話ではなく、ひとつの文が指示と述定の働きを持つのと同じように、ひとつのモデルが対象システムを指示しつつ、表象内容をそれに述定するという働きを持つということである。モデルの表象内容は当のモデルが持つ性質の一部(あるいは一側面)であり、そしてそれが対象システムの(実際の、あるいは虚構的にそうだとみなされている)あり方と比較されることで、真偽や正確さといった評価がなされる。

記事中注2にある以下については、今回いただいた内容を補完することで読める──その部分部分でどちらの類似について言っているのかがわかる──記述になっている気はするので、この部分を本書のほかの部分に接続することともあわせて、また改めて考えてみたいところ。

記号・内容・対象の3項があったときに、「抽出」や「部分的な類似」は、記号の特徴と内容のあいだにも言えるし、内容と対象の特徴のあいだにも言える。ワイスバーグらが問題にしているのは後者かもしれない。これは区別すべき事柄だが、『ビデ美』ではその点がごっちゃになっているせいで議論がおかしくなっている可能性がある。

追記ここまで。

当時の読書メモ

シミュレーションとはなんなのか。第8章で述べたとおり「動的なモデルによる表象」ではある(ことビデオゲームにおいては、ゲームメカニクスが虚構的内容のモデルとなっている。このときゲームメカニクスが記号であり、虚構的内容がその表象内容である)。とはいえこれだけではまだ曖昧だ。以下、ゲームスタディーズだけでなく、科学的なモデルについての科学哲学の議論も援用しながらこれを明確にしていく。

まず、既存の研究に倣ったかたちでいくつか用語を導入する。シミュレーションに分類されるような種類の表象を「モデル化」とよぶ。そしてこのとき、モデル化されるシステムを「対象システム」、モデル化するシステムのことを「モデル」とよぶ。というわけでひとまず、シミュレーションは〈動的なモデルによる対象システムのモデル化〉と特徴づけられる。……どうも後段をみていくと、このとき単純にモデルが記号で対象システムが内容、ということにもならないみたいだ。おいおいみていく。

では、この「モデル化」とはどのような表象なのか。まず挙げられるのは、モデル化は「挙動のルール」を備えており、それを通じて対象システムの挙動のルールを表すという点。ただしこれだけでは十分ではない。ざっくりいえば、モデルの挙動のルールと対象システムの挙動のルールが、なんらかの点で「似ている」ことが必要である(ワイスバーグのいう「重みづけられた特徴の一致」)。同じではない(まったく似ていない)部分もあるが、なんらかの理論や関心において意味のある部分においては似ている、みたいな?

ここで、「シミュレーション」を虚構的な対象に適用することの妥当性についても軽く検討されている。結論からいえば、モデル化という概念には対象が実在しているという限定はないのだから、とくに問題ないということになる。……それはいいのだが、この節の後半の話がどうもむずかしい。たとえば下記。

モデルは表象内容を持つ。その内容を使って虚構世界が想像される場合には、そのモデルはフィクションであり、その内容を使って現実について何かが主張される場合には、そのモデルは真偽の判定が可能な現実的表象である。

言いたいことはわかる気がするんだけど、前掲の用語法にしたがえばモデルはモデル化に使われるシステムであって表象という関係項ではなかったはずで、フィクションや現実的表象であるというのはなんかおかしくないだろうか。「そのモデル化は」なら意味が通るのでそういうこと? それともなにか勘違いしている?

あるいは下記。

モデルは挙動のルールを通して表象をおこなう。まさにこのモデル化の特徴が、科学におけるシミュレーションの機能を作り出している。つまり、表象内容があらかじめ定まっておらず、ルールにもとづいた実際の挙動によってその都度内容が生成されるという特徴である。結果として、そのモデルの設計者が知らなかった対象についての内容──モデルの挙動のルールが対象のそれと一致しているなら、真であると信じるべき内容──が引き出される。モデルを使ったフィクションもまた、これと同じ特徴を持つ。虚構的なシミュレーションは、モデル化という独特の表象方式を使って、その設計者が想像しなかったような内容を生成し、そしてそれによって虚構世界を作り出すのである。

まず、モデルの挙動によって対象(の挙動)についての知識が引き出されるのはそのとおりだとおもう。それが、「表象内容」があらかじめ定まっておらずその都度生成されるからというのもたしかにそうだとおもうのだが、とはいえこのようにいうと、このモデル化という表象における「対象システム」ってのはなんなのかよくわからなくなってくる。

対象システムを表象するモデルを作り、そのモデルが改めて「表象内容」を表象する、みたいなのが想定されていて、ここの前者の表象と後者の表象は別って理解でいいのだろうか?(自分のシミュレーションに対する直観としてはそういうことになってるような気がするが、本章序盤の話からするとズレてるような気もする)

あるいは、対象システムの一定の特徴(挙動のルール)をとりだしてモデルをつくっている(この時点で対象システムと表象内容がズレる)ので、その記号としてのモデルの挙動は対象システムとは重ならない(シミュレーションというのはたしかにそういうものだ)ということ? でもそれだと「対象システムを表象する」という言い方はおそらくできない。

3節末の以下のまとめをみれば、たしかに対象システムと表象内容を区別している。

ここでモデル化におけるモデルと対象システムの類似性について再定式化しておく。モデルと対象は、必ずしも類似している必要はない。類似している必要があるのは、モデルとその表象内容である。というより、モデルの表象内容が、特定の観点と程度における類似性にもとづいて引き出されるのだ。たとえば、物理的な鉄道模型の表象内容には、ふつうそのサイズや内装、場合によっては素材や塗装が含まれない。あるいは、コンピュータプログラムで鉄道の運行をモデル化する場合には、その表象内容は純粋に抽象的な構造であって、プログラムコードのテキストやハードウェアの特徴が表象内容に含まれるわけではない。ようするに、モデルの表象内容は、モデルが持つ性質の一部が抽出されたものなのだ。ワイスバーグが言うように、どのような観点と程度でその抽出がおこなわれるかは、その都度の関心によるだろう。

一方で、そのように引き出されたモデルの内容とモデル化の対象のあり方が一致するかどうかは、モデルが現実的表象として使われる場合には、真偽の問題になる。そして、それがフィクションとして使われる場合には、正確さの問題になる。あとで述べるように、この正確さは、シミュレーションの写実性の条件の一つである。

ここらへんぜんぜんわかってないな。混乱の根っこがどこにあるのかもわからない。


  1. 武藤陽生訳で2017年にみすず書房より刊行。めちゃくちゃいい本ですよ! ある意味ではゲームスタディーズ的な整理をしなくとも魅力的なことが描けるという実例になっているのかもしれん(もちろんクルーン自身はそういった思考の道具をもってるにちがいないのだが、それを必ずしも前面に出さないという意味において)。
  2. 「『ビデオゲームの美学』最速攻略ガイド」と最後まで迷った。
  3. そういう押し付けがましい心持ちで書いているため、全体的に押し付けがましくて知ったかぶったふうな書き方になっていることは否めません。自覚はしているんだよ……。/また、恒例であり言うまでもないことだし、言ったところでなにか免責できるわけでもないのですが、そのような口ぶりのわりにやはり内容の正しさは保証できません。もちろん誤りなどあればぜひご指摘ください。
  4. なお、ここでは引いていないものの「どんどん飛ばして読んでいただいてかまいません。長いし」ともあります。本記事の冒頭に述べた「ポイント」とはそういうことで、飛ばして読むためのいち指針にできようにという意図のもとでも本記事は書かれました。
  5. そうはいっても正直なところ、ひとまず読み通すだけなら『ハーフリアル』のほうがおそらく楽だとも思う。『ハーフリアル』に盛り込まれているトピックの大部分をより厳密に整理していってる、という感じなんじゃないだろうか。本書が「上位互換」というとそれはそれでちょっと違うんだけど。
  6. このへんの事情については、ここで感想を書いた『なぜ美を気にかけるのか』などがわかりやすい。
  7. なお、そのあとにより厳密な表現として「ビデオゲーム作品がビデオゲームという芸術形式に属する芸術作品として評価される際にふつう評価項目になる特徴を明らかにすること」と言い換えられてもいます。このようなもってまわった言いまわしになる理由についてもとうぜん序章に説明があるものの、さしあたってはスルーでよいのではないでしょうか。なお、このような独特の特徴のことを本書では「ナラデハ特徴」と呼びます。
  8. 第12章注9にもあるとおり虚構的記号を出力装置上の記号に限る必要はないらしいのだけど、第4章の4-5節あたりのビデオゲームにおける記号の説明では出力装置上の諸要素の話だけをしているため、ひとまずの導入としてはこれでいい……はず。
  9. ところで(たしか明言まではされていなかったと思うのだけど)こういった「一つの統語論と二つの意味論」をもつことそれ自体だけではビデオゲームのナラデハ特徴とはいえない……のかな、たぶん。TRPGとかもそうだし。フィクションのほうにインタラクティブ性をもつという限定をかけ、ゲームメカニクスについてもその現実化が自動的なものであるとかまで狭めればほぼほぼビデオゲームしか残らなさそうだが。
  10. 今回読み返してみてむやみにびっくりしてしまったんだけど、『ハーフリアル』にある「ゲーム」の定義(ゲームは、可変かつ数量化可能な結果を持ったルールにもとづくシステムである。そこでは、異なる結果に対して異なる価値が割り当てられており、プレイヤーは、その結果に影響を与えるべく努力をおこない、またその結果に対して感情的なこだわりを感じている。そして、この活動の帰結は取り決め可能である)は明示的には参照されていないんですよね。「ビデオゲーム作品」の定義ではないというのもあるし、「ゲーム作品」の定義でも(たぶん)ないのでそりゃ関係ないといえばそうなんだけど(という理解でいいんだよね?)。
  11. 正確には「提示形式」なんだけど、ここでも「おおむね『表現媒体』のこと」とされているのでこれで通す。「提示形式とはなんぞや」ということについてももちろん本章で説明がある。
  12. 「ヒゲのおじさん」という時点ですでに「(虚構的な)ヒゲのおじさんを表している」と言っていることになるわけだから正確ではないのだが、「上部と下部が赤っぽくて真ん中へんが肌色になってるような画面上のオブジェクト」とか言っても伝わらないのでとりあえずそう言うしかない。本書のなかでは「《マリオ》はマリオを表す記号である」みたいな表記法を採用している。なお、この「そう言うしかない」みたいな状況がありがちなことは、第5章6節のゲーム的記号の個別化の話や、第11章の虚構行為文の分析と関係している(はず)。
  13. この直観はたしかにひろく共有されているものだと自分も思う。逆にいえば、本書はこれを共有しない人にとっては基本的には役に立たないということでもある(いや、ほかの人がどういう直観をもっているかを知るのには役立つが)。とはいえ、ある程度ビデオゲームをプレイしていてこの直観を共有しない状況というのは自分には想像しづらいというのが正直なところで、もしいるなら話を聞かせてほしいと思うくらいだ。もちろんビデオゲームに慣れていない人にとって、この区別がわからない、そのせいでビデオゲームをプレイするのが難しいと感じるといったケースはあってもおかしくないとも思う。
  14. 虚構世界では文字通りキノコという生物(生物だよな……)、ゲームメカニクス的にはプレイヤーキャラクター(虚構的にいえば、マリオ)をパワーアップさせるアイテムである。
  15. Disco Elysium: The Final Cut(またはロールプレイの諸相) - 青色3号 の最後のほうで「『ロールプレイ』において、キャラメイクのときにおおざっぱな特徴は考えてもその後の内容がわからないために細部までは確定させられず、プレイの進行とともに選んだ選択肢やステータスの強化を再帰的に適用しながらキャラクターを固めていく」と言っているのがたぶんこのへんの話にあたると思う。
  16. もうひとつ、シミュレーションの観点にも触れられているのだが、まとめるのがややこしいためここでは割愛する。
  17. ……とされているが、常識的に考えれば「現在の状態」は同一性の基準に含めないんじゃないだろうか。オートマトンのアナロジーを考えるにあたって、状態の集合や入力の集合、状態遷移規則、初期状態といったものが特定のオートマトンを構成するのであって、それを「走らせた」際のそのときどきの状態というのはそこに含まれないように。
  18. たぶん ゲームをプレイする正しいやりかた - C. Thi Nguyen - 青色3号 あたりが関係する話だと思う。
  19. ところで、本記事(応答いただいた記事ではなく、自分のこの記事)の第4章のまとめでは「表象」をかなりざっくりした説明(たんなる「指示」としての例示)ですませているのだが、この第12章の事情を考えるならそれだけだと不十分といえるのかもしれない。というか、第6章で「表す」と「作り出す」を同時にやっているという話などもすでにそうだろうか。

デジタルゲーム研究 - 吉田寛

本書の構成は下記のとおり。あとがきでも触れられているとおり、カテゴリに分けられつつ、それを超えて全体におおむねクロノロジカルに並べられた論文集。なお、第1章の初出は2008年である。

  • 序——ゲーム研究とはどういうものか
  • I:知覚と認知——プレイヤーはゲームをどう感じるのか
    • 第1章:スクロール
    • 第2章:視点と空間
    • 第3章:ゲーム空間の記号学——二重化する知覚
  • II:ゲームプレイ——プレイヤーはゲームをどう遊ぶのか
    • 第4章:ゲームプレイと他者への信頼
    • 第5章:カウンタープレイ——ゲームに抗うプレイヤー?
    • 第6章:ゲームと公平性——社会革新としてのプレイ
  • III:メディア——コンピュータで遊ぶ/コンピュータを遊ぶ
    • 第7章:プレイヤーとキャラクター——ゲームにおける死の問題
    • 第8章:メタゲーム——自己批評するゲーム
    • 第9章:メディアとしてのゲーム
  • IV:文化のなかのゲーム——多面化するゲーム研究
    • 第10章:ゲームと音・音楽
    • 第11章:eスポーツはスポーツなのか
    • 第12章:ゲームの文化資源学

以下雑感。

まずそもそも、書き下ろしである「序——ゲーム研究とはどういうものか」がありがたい。ゲーム研究の前史から、ユール『ハーフリアル』までの(主に人文系の)ゲーム研究がひととおり紹介されるほか、「デジタルゲーム」や「ビデオゲーム」「コンピューターゲーム」といった名称についても(本書で「デジタルゲーム」を採用した理由も含め)まとめられている。デジタルゲーム、ひいては「遊び」についてのアカデミックな研究というものがあるらしいけれど、それってどんな営みなんだろう……みたいな疑問を持ったなら、ひとまずこれを読めばよいのではないか。もちろん「あ、こういうのなら興味ないよ」という場合もあるだろうし、ここにあるものだけがそういう研究だというわけでもないのだけれど、自分はこういうのっておもしろいと思ってるんだよな。なお、本書の刊行にあわせてブックリストが公開されているのでこちらもどうぞ。

第I部のうち、第1章と第2章はそれぞれスクロールおよび視点/空間の分類学といった内容。読んでおもしろいとかいう感じではないけれど、もちろんこうやって整理してくれるのはありがたいし、古典的なゲームがたくさん事例として挙げられているのもためになる。『ザクソン』がおもしろそう。

第3章は、ゲームのスクリーンにあらわれる図像は「アイコン」と「オブジェクト」という二重の機能をもってるよ、みたいな話。もととなった論文への松永のコメントとあわせて読むと理解が深まるのではなかろうか(注釈としてこのコメントへの応答も盛り込まれている)。

なお、本章に限らないが、こういうデジタルゲームの研究を読んでいるとなにかしらの二重性(ないし多重性)みたいなのがよく出てくる。本書のほかの部分でいえば第10章でまた別の多重性が扱われているといってよさそうだし、ユールのフィクション/ルールの話は有名で、それをある程度引き継いだ松永『ビデオゲームの美学』だって「二種類の意味論」という構えになっている、などなど。複合的なメディアであるからこそってことなんだろうか。

続く第II部はどれもおもしろかった。

第4章では、losory attitudeの概念などを引きながら「ゲームには他者への信頼がはじめから組み込まれてるんだよ」みたいな話がされている。これ自体はそのとおりだと思うのだけど、たとえばゲーム以外のメディアを通じて「フィクションを鑑賞する」という状況にだってある種の信頼が必要なんじゃないかって気もする。態度になんらかの特有さはあれど、「信頼」くらいざっくりさせるとゲームに特有の話ではないのではなかろうか。どうなんだろうな。

第5章では、ギャロウェイのいう「カウンターゲーミング」の概念を下敷きに、プレイヤーがゲームにたいして「抗う」ような状況が検討されている。自分が最近最近考えていた規範とか「自由度」とかと関係のあるところなので興味深く読んだ。

第6章は「ゲームと公平性」。ギャンブルからはじまって、「運」と「技術」そして「労力」の観点から(ここも多重性だな)「ゲームにおける公平とはどういう意味での公平なのか」みたいな話になっていってる……と思う。それはそれとして、1976年のニューヨークにおいて、ピンボールがギャンブルでないことを示すために議員の前でデモプレイが行われたことがあって……みたいなエピソードが冒頭で紹介されており、それがめちゃくちゃおもしろかった。なんかViceの動画を見つけたので置いときます。

第III部は……このへんのゲーム的リアリズムの話(第9章はマクルーハンどうこうなのでちょっと違うが)について、自分は今も昔もあんまりピンとこなかったり興味のピントが違ってて歯がゆいところがあるため、置いておきます。好きな人は好きなんじゃないでしょうか。

とはいえ、ゲームにおけるメタレプシスの3タイプみたいな話はもうちょっと掘り下げて考えてみたくはある。『プレイヤーはどこへ行くのか――デジタルゲームへの批評的接近』所収の藤田「「カウンターゲーミング」と「メタフィクション」——批判的ゲームの可能性」が第5章のもとになった論文をかなり参照しつつメタフィクションを話題にしているので、あわせてそちらもチェックするとよいのではなかろうか。

第IV部はちょっと雑多。

第10章の「ゲームと音・音楽」については既存の研究をひととおり紹介してくれるといった内容なんだけど、そもそも映画研究でのダイエジーシス(物語世界内的)の概念を知らなかったのでめちゃくちゃ勉強になった。とりあえず「その音が世界内で鳴ってるかどうかみたいな観点からだけだとうまく整理できない」みたいな感じではある。個人的な一推しはこの章。(これも松永だが)以下も参考のこと。

第11章もまあ、いまどきだと素朴に「スポーツでええやろ」と考えられてると思うんだけど1、理論的にどこらへんに違いがあるといえそうなのか(たとえば、規則をオーソライズするしくみはぜんぜん違ったりする)ってところを整理しておけるといろいろ話がしやすくなるよな〜という感じである。

また、第12章のアーカイビングの話は持続的に興味のあるところなので、実際に手掛けたことのある著者自身が概観してくれるのはありがたい。現物保存、エミュレータ保存に加えて「プレイ映像保存」があるのがデジタルゲームならでは感。

以上、基本的には人文的なゲーム研究の話(第4部など産業史や技術史的な視点もないではないが)で、しかし一冊で体系立った理論書というわけでもないということで「どうなんだろうな〜」と思っていたところがあったのだけど、広範囲な文献が参照されていること、古典的なデジタルゲームがひろく紹介されていることのおかげでかなり勉強になる一冊だった。


  1. 「ゲームだって芸術だろ」と同じような話で、そりゃそうだしいまさら正当化するモチベーションはそこまでないわ、みたいな。

2023-11-14

Cory Doctorow: Science Fiction is a Luddite Literature – Locus Online

ドクトロウがこんなこと言っており、まあそらそうやろと思ってずっといろいろ考えてたのだけれど、いっこうにまとまらないのでいったんいろいろ挙げるにとどめる。

ラッダイトといえばヴォネガットもそうなんだけど(たとえば『国のない男』に"I have been called a Luddite. I welcome it."みたいなくだりがある)ここらへんの文脈からはちょっと外れるかもしれない。とはいえ『プレイヤー・ピアノ』とかはそのまんまである。ル・グウィン先生とかも探せばなんかありそう。

そのほかもろもろ: