地図と……

遊星歯車機関のnoteに「In Other Watersにおける地図と領土:「ミニマップはクソ」は本当なのか?」という記事を書きました。

note.com

『Citizen Sleeper』でも有名なJump Over the Ageの過去作『In Other Waters』を題材に、ビデオゲームにおける空間の表象についての話をしています。画面に映ってるのものはおしなべてメカニクスの表象であり、それは複数ありえて(というかたいていは複数であって)、それらを行き来しながらフィクショナルな空間での体験が編成されるんだよみたいな。

IOWがめちゃいいゲームだってこと、そしてオープンワールドのミニマップをそんな嫌わないであげてほしいってことあたりを伝えたくて書きました。あとやっぱね、一生に一度はボルヘス「学問の厳密さについて」をエピグラフにして「地図と領土」の話してみたいだろ!というのもある、ありました。みんなもあるよね。

この話をするなら世界樹の迷宮を扱えよというのはもっともですし、ダンジョンクロウラーというジャンルはある意味そのあたりがもっとも色濃く出てくるジャンルだとは思うのですが、うまく盛り込めなかったのが心残りだったりもしています。


今回は明示的に論文を引いたりとかしなかったのですが、このへんの「メカニクス–表象–プレイヤーの想像」みたいなモデルの元ネタとしてはたとえば以下があります。書きぶりにやや癖がある(なんか妙に押しが強い)論文なのですが、内容としては明快だと思う。とはいえそのまま使ったというには少々ひん曲げてしまってるところがあるな……。

Bakkerud, Frederik. 2023. “The Ontology of Game Spatiality.” Game Studies, 23 (3). https://gamestudies.org/2303/articles/bakkerud

あとは上記でも引かれているオーセットの以下あたりもどうぞ。これを収録している本(Ludotopia)自体はオープンアクセスになっていて、ほかにもいろいろ読めてお得。

Aarseth, Espen. 2019. “Ludoforming: Changing Actual, Historical or Fictional Topographies into Ludic Topologies.” In Ludotopia, edited by Espen Aarseth and Stephan Günzel. transcript.

なお、このへんは『ビデオゲームの美学』にあるような「画面に映るものは、メカニクスを表したり虚構的内容を表しつつ作り出していたりする」みたいなモデルとも両立するはず。


そのほか今回あんまり掘り下げられなかったところについて。

フィクショナルな空間のなかで「生きる」みたいな言い方については下記とか。これも収録している書籍(Virtual Interiorities)がオープンアクセスになっている(しかも3分冊!)。上記Ludotopia所収のGünzelの論文にもあるように、もとをたどればルフェーヴルあたりになるらしい。

Van de Mosselaer, Nele, and Stefano Gualeni. 2022. “Representing Imaginary Spaces: Fantasy, Fiction, and Virtuality.” In Virtual Interiorities: Book Three: Senses of Place and Space, edited by Dave Gottwald, Gregory Turner-Rahman, and Vahid Vahdat, 21-44. Pittsburgh, PA: Carnegie Mellon University: ETC Press.

操作にともなって生じる「身体化」みたいな部分も軽く触れてるのみだな。たとえば下記とかはRTSみたいにアバターがないゲームでもそういうある種のアバター性みたいなのが出てくるよって話をしててけっこうおもしろい(ホントかぁ?みたいなところがないでもない)。

Lee, Yen-Tung, Giovanni Rolla, and Cameron Edwards. 2025. “Body as Battlefield: Rethinking Avatarhood in Real-Time Strategy Games.” Phenomenology and the Cognitive Sciences. https://doi.org/10.1007/s11097-025-10121-3

ともあれこういうアバター性についてもうちょっと総説的にはやっぱりクレヴィヤーだろうということで、最近のものだと以下。電子版だと買えなくもない値段……のような気はする。します。ほかの論文もわりとおもろいのでおすすめではないでしょうか(グエンが編者になっていることもあるのか、なんか妙にスーツがフィーチャーされていてうれしい)。

Klevjer, Rune. 2025. “Avatarhood.” In The Routledge Handbook of Philosophy of Games, edited by C. Thi Nguyen and John R. Sageng. Routledge.

あとは地図学でビデオゲームに関わるところでは、Playful Mapping in the Digital Ageって本がこれもオープンアクセスになっててわりと面白く読める気がします。特に、平坦な地図と立体的な空間経験の間に生じる摩擦についてトゥームレイダーとアサクリ2あたりを扱った第7章“From Underground to the Sky”と、ビデオゲームにおけるマップを分類した第8章“(Mini) Mapping the Game-Space”(ただこれ、Inert×Superimposedのとこはかなり苦しいだろ)あたり。

同書の編者であるLammesの論文だと以下がわりとおもろかった。本書のイントロダクションで書かれていることの理論的背景についてもう少し詳しく述べたもの、みたいな感じになると思う。

Lammes, S. 2016. “Digital Mapping Interfaces: From Immutable Mobiles to Mutable Images.” New Media & Society 19 (7): 1019–1033. https://doi.org/10.1177/1461444815625920


そしてなんといっても、『Heterotopias』という、Jump Over the AgeのGareth Damian Martinらが出していたビデオゲーム批評誌?みたいなのがある。千葉さんがブログでちょっと触れてたとおり建築×ゲームみたいな切り口で、毎号ゲーム内写真がいっぱいでかっこいい。どうも元々建築畑の人らしく、なので空間に意識的なんやろなみたいなのが感じられるところでもある。Vol.5の特集が「Beyond Realism」だったりするのとかは今回の記事とも絡むところでしょうか。そうでもないかもしれない。

あとは……Web上で読めるミニマップに関する文章としては ミニマップを見つめるとき - AINAMOOR/GAMETEXT が好き。すでにこれがあるのであんまり普通のこと書いてもなと思ったりしたところがあります。

だいたいそんなところでしょうか。よろしくお願いいたします。

『神とゴーレム株式会社』(その2)

承前:

murashit.hateblo.jp

今回は機械の自己複製を扱った第3節と第4節。(時代からしてそうなるのは自然ではあるとはいえ)電気回路っぽい話をゴリゴリ展開していてぎょっとしてしまうかもしれません。たぶん今だったらもっとソフトウェア寄りのアナロジーにすると思われる。ともあれ、機械をメッセージ変換器として捉えていること、その変換器の振る舞いをコピーできれば──実装形態がどうあれ──それは機械の再生産と言えるんだよ、そしてそれは理論上実現可能だよというあたりが分かれば大丈夫なはずです。進化を「系統発生における学習」と捉えているところも地味におもしろポイントかもしれん。

もうすこし細かく言えば、第3節ではそれにあたってある種のランダム入力を使うことで変換器そのものの性質を得られるよという、どことなくプロパティベースドテストやファジングめいた?話をしており、続く第4節ではそうしたパターンは先ほど使ったランダム入力に相対的な正規直交系めいた枠組みの中で捉えられる、なので十分安定した機械はすべてそれらの一次結合として展開でき、したがって理論上は単純な機械の組み合わせでそれらの振る舞いを再現できるよってことを言っているぽい。ただこのあたりは正直かなり駆け足であり、実際に詳しく示しているのは(直接参照されている『サイバネティックス』第2版で追加された第9章でさえなく)Nonlinear Problems In Random Theoryあたりになるようだ(当然読んでないし読めるとも思わないのですが……)。いまどきならそんなもん強いニューラルネットに模倣学習めいたことをさせればええやんという向きもあるでしょうが、あくまでホワイトボックスとして解析/合成できることについてのこだわりを垣間見てもいいかもしれない。実際こうした解釈可能性や制御可能性への温度感は次節以降を読む際にも気にしておけるとよい点ではあります。

以下さらに細かい点。

  • 「似姿」はimageの訳。第2節までにも多少出てきてたものの、本格的に使われ始めるのはここから。神学めいたニュアンスから技術的な文脈まで幅広く、とはいえそれらに同じ語を使っていることに意味があるため、読みづらくなることを承知でそれで通してあります。さらに言えば、「機械の似姿」という言葉で具現化された装置を指す場合と抽象的なパターンを指す場合があり、しかもそれはブレているのではなくそもそも二重性を持つものなんだよみたいな話になってるのがややこしさに拍車をかけているかもしれない
  • 分子生物学まわりの記述がおそらく当時の水準としても多少雑(遺伝子分子の捉え方が大雑把すぎたり、アミノ酸鎖そのものが二重らせんをなしていると書いてあるとしか読めない部分があったりする)が、大筋は問題ないのでそういうものとして読んでください
  • 先に正規直交基底がどうたら展開がどうたらと言った点について。実際のところ原文だと(明らかにそのつもりではあるものの)もうすこしゆるい書き方になっているのを、いっそこのほうがわかりやすいだろうと「完備」とか「基底」みたいな語でほんの少し補っているところがあります
  • 第4節の「特定の条件のもとでは、ほとんど確実に、分布にわたる平均を時間平均で置き換えられるという定理」というのは(ここも本文では明示されていないものの)エルゴード型の定理の話のようなので、そのつもりで読んでくれ。対応する『サイバネティックス』第2版のほうではちゃんと言ってる

というわけで、以下本文。


III

ここまで述べてきたのは個体の学習、すなわち個体それぞれの私的な生の時間の中で起こる学習でした。けれども、これと同じくらい重要な別種の学習があります。すなわち系統発生的な学習──種全体の歴史における学習です。ダーウィンは自然選択の理論によって、このたぐいの学習の基礎の一端を築きました。

自然選択の理論は次の三つの事実に基づいています。まず、遺伝という現象が存在すること──すなわち個々の植物や動物がみずからの似姿として子孫を残すこと。次に、そうした子孫は完全な似姿ではなく、その差異もまた遺伝しうること──これこそが変異であり、獲得形質の遺伝のような極めて疑わしい理論を意味するわけではありません。最後に、自然発生的な変異の豊かすぎるほどのパターンが、異なる変異の間での生存可能性の差によって刈り込まれること──変異の大半は種の存続可能性を低下させる一方で、いくつかの、おそらくごくわずかな変異は、それを高める方向にはたらくのです。

もっとも、進化、すなわち種の存続と種の変化の基礎は、はるかに込み入ったものかもしれません──いえ、きっとそうでしょう。たとえば、きわめて重要な変異のあり方のひとつに、高次の変異、つまり変異可能性そのものの変異があります。また、遺伝と変異の機構は通常、機能的にはメンデルによって、構造的には有糸分裂という現象によって記述される過程──遺伝子の複製とその分離、それらの染色体への集合、連関、その他もろもろ──を含みます。

しかしながら、この途方もなく複雑な過程の背後には、きわめて単純な一つの事実が潜んでいます。核酸とアミノ酸からなる適切な培地があれば、それ自体が核酸とアミノ酸のきわめて特異な組み合わせからなる一個の遺伝子分子がそこに働きかけることで、自分と同じ遺伝子の分子、あるいはわずかに異なる別の遺伝子の分子を作り出せるのです。実際これは、宿主の分子的な寄生体といえるウイルスが、宿主の組織を培地として自己と同型のウイルス分子を集め複製する過程と、厳密に相似していると考えられてきました。このような分子レベルでの増殖──それが遺伝子であれウイルスであれ──は、再生産という巨大で複雑な過程の分析をかなり進めてはじめて見えてくる作用であると思われます。

人間は、みずからの似姿として人間を作ります。これは、神がみずからの似姿として人間を作ったとされるあの創造という行為の反響、さもなくば原型なのでしょう。では、機械と呼ばれるもっと単純な──そしておそらくもっと理解しやすい──非生物的システムにおいても同様のことが起こりうるのでしょうか。

機械の似姿とはなにか。その似姿がひとつの機械のうちに具現化されたとき、まだ特定の個体として定まっていない一般的な機械は、もとの機械の似姿たる新たな機械を──まったく同一のかたちにおいてであれ、あるいは変異と見なしうる何らかの変化を伴うかたちにおいてであれ──生み出す存在へと至りうるのか。さらには、その新たな変異機械は、みずからの範型からの逸脱をさえ含みつつ、さらに別の機械の範型となりうるのか。

本節の目的はこれらの問いに答える、なかんずくイエスと答えることにあります。ここで述べようとしていること──むしろ、すでに別の場所においてより技術的な作法で述べ1、ここで概略を示そうとしていることの価値は、数学者の言うところの存在証明にあります。ここでは、機械が自己複製しうる一つの方法を示すつもりです。ただし、それが再生産にあたっての唯一の方法だというつもりはありません──実際そうではないのですから。また、それが生物学的な再生産のやり方であるというつもりもありません──これもまた、実際そうではないのですから。けれども、機械的な再生産と生物学的な再生産がいかに異なっていようと、それらは同様の結果に至る相似な過程です。したがって、一方についての説明は他方の研究に十分に意味のある示唆をもたらしてくれるはずです2

機械がみずからの似姿として別の機械を作るという問題をきちんと論じるためには、似姿という観念をより精緻化する必要があります。まず、似姿といってもさまざまであることを認識しておかねばなりません。ピグマリオンははじめ、みずからの理想の恋人の似姿としてガラテアの像を彫りました。けれど神々がそれに生命を与えると、それはより現実的な意味での恋人の似姿となった。ガラテアはもはや単なる見た目のうえでの似姿ではなく、振る舞いにおける似姿となったのです。

倣い旋盤を使えば似姿としての銃床を作ることができ、それを実際に銃床として使うことも可能です。とはいえ、これは銃床が果たすべき目的がきわめて単純であるからにすぎません。一方、電気回路は比較的複雑な機能を果たすものでしょう。しかしそれでも、金属インクを用いた印刷で複製された似姿としての回路は、それが表す回路として機能しうる。こうしたプリント回路は、現代の電気工学でかなり広く用いられています。

このように、見た目のうえでの似姿だけでなく、振る舞いにおける似姿というものがありうるのです。オリジナルと同じ機能を果たすこうした振る舞いにおける似姿は、見た目のうえでオリジナルに似ていることもあればそうでないこともあるでしょう。いずれにせよ、それらは動作の面でオリジナルを置き換えられるわけで、はるかに深く似通っているといっていい。機械の再生産の可能性について検討するのも、こうした振る舞いにおける類似という観点からです。

ではそもそも、機械とはなんでしょうか。ある観点からすれば、原動機すなわちエネルギー源とみなせるかもしれません。けれどそれは本書で採るべき観点ではありません。ここではむしろ、入力メッセージを出力メッセージへと変換する装置として捉えたい。この観点からすれば、メッセージとは、そこに含まれる信号を表す量の系列です。こうした量は電流や電位かもしれない。けれどそれに限られるものでもない。実際にはまったく異なる性質を持ちうる。そのうえメッセージを構成する信号は、時間軸のうえで連続的にも離散的にも分布しうる。機械はそのような一連の入力メッセージを一連の出力メッセージへと変換するのですが、任意の時点での出力メッセージは、その時点までの入力メッセージに依存しています。技術者たちの言うところの多入力多出力変換器なのです。

ここで考察したい問題のほとんどは、単一入力単一出力変換器において生じる問題と大差のないものです。したがって技術者からすれば、すでによく知られた問題、すなわち電気回路とそのインピーダンスないしアドミタンス、あるいは電圧比のような古典的な問題を扱っているのだと思われるかもしれません。

けれど実際のところはもっと複雑です。インピーダンスやアドミタンス、電圧比を任意の精度で扱えるのは、それが線形回路、すなわち入力を時系列で足し合わせたものが出力を足し合わせたものに対応するような回路の場合に限られます。これは純抵抗、純容量、純インダクタンスといった要素のみがキルヒホッフの法則に従って接続された場合にしか成り立ちません。線形回路であれば、位相と振幅を定めた正弦波状の入力電位を与え、周波数を変えながら適切に試験できます。出力も同じ周波数の振動列となり、入力との振幅差と位相差を見ることで、その回路または変換器を完全に特徴づけられるからです。

しかしながら、整流器や電圧制限器といった装置を含む非線形な回路を試験するのであれば、正弦波状の入力は適切とはいえません。これは一般に正弦波状の出力を生み出さないからです。より厳密に言えば、線形回路というものは存在せず、あるのはより線形に近い回路とそうでない回路があるというだけなのです。

非線形回路の試験にふさわしい入力──これは線形回路に対しても同様に機能するものですが──は、統計的な性質をもつものです。理論的にいえば、全周波数域にわたって変化させるべき正弦波状の入力とは異なる、あらゆる変換器に適用可能な単一の統計的アンサンブル、すなわちショット効果として知られる入力です。ショット効果発生器は計測器として実在する明確な装置であり、複数の電気計器メーカーのカタログから手に入るでしょう3

与えられた入力メッセージによって励起された変換器の出力は、入力メッセージと変換器自身の双方に同時に依存するメッセージです。普段であれば変換器はメッセージを変換するものなので、私たちはその出力メッセージを入力メッセージが変換されたものとして捉えます。一方である種の状況──主に、入力メッセージが最小限の情報しか運ばないような場合──においては、出力メッセージの情報はおもに変換器自身から生じたものとして捉えられるでしょう。ショット効果を発生させる電子のランダムな流れはまさにそうした情報量に乏しい入力メッセージといえます。したがって、ランダムなショット効果によって刺激された変換器の出力は、その変換器の働きを体現したメッセージと捉えられます。

事実として、こうした出力はあらゆる可能な入力メッセージに対する変換器の作用を体現しています。なぜなら、有限時間の中でも、ショット効果があらゆる可能なメッセージを任意の有限精度でシミュレートしうるからです。その可能性は小さくともゼロではありません。したがって、ある標準化された統計的ショット効果入力に対してある変換器から生じるメッセージの統計は、その変換器の振る舞いにおける似姿を構成します。そうなれば、物理的な実装は異なっていても振る舞いとしては等価な変換器を再構成するためにこうした統計を使うことも十分に可能です。つまり、変換器がショット効果入力にどう応答するかを知っているなら、その変換器が任意の入力にどう応答するかを事実上知っていることになるのです。

変換器としての機械は、道具であると同時にメッセージでもあるという二重性を示しています。物理学者にとってなじみ深い、波動と粒子の二重性のようなものです。あるいは、「めんどりとは、卵が別の卵を作るための手段にすぎない」という文句──これを言ったのがバーナード・ショーだったのかサミュエル・バトラーだったのか忘れてしまいましたが──にみられる生物学的な世代交代を示しているともいえるでしょう。羊の肝臓に棲む肝蛭も、ある池の巻貝に寄生する同じ虫が示す別の姿にすぎません。したがって、機械がメッセージを生み出し、メッセージが別の機械を生み出しうるのです。

これは私が以前からもてあそんできたアイデアなのですが──人間を電信線を通じて送ることは概念的には可能なのです。もちろんそれにまつわる困難は私の創意でどうにかなる範囲をはるかに超えていますし、新たな競争相手としてAT&Tを呼び込んで鉄道会社を余計に苦しめるつもりもありません。現状では──そしておそらく人類の存在する全期間を通じて──実行不可能なアイデアではあるけれど、だからといって想像もつかないというわけでもない。

人間に適用するにあたっての困難はさておき、より単純な人工の機械についてであればこれは十分に実現可能な発想です。というのも、これこそが、非線形変換器が自己複製するための方法として私が提案しているものだからです。ある変換器の機能を表しうるメッセージは、同じ振る舞いにおける似姿に沿う変換器のさまざまな実装形態をまとめて表しているはずです。そしてそのなかには、特定の機械的な構造を備えた実装が少なくともひとつあります。私が機械の振る舞いにおける似姿を担うメッセージから再構成しようとしているのは、まさにそのような実装です。

再生産という振る舞いをみせる機械の特定の実装形態を記述するにあたっては、その振る舞いの形式的な特徴も同時に記述することになります。そしてこの記述が漠然とした空想に陥らないためには、数学的な言葉が必要です。とはいえ数学は本書が対象としている一般の読者に理解されうる言葉ではありません。ここでは厳密さを断念せざるをえません。私はこうした考えをすでに数学的な言葉で表現していますから4、専門家に対する義務は果たしているはずです。ただ、これで話を打ち切ってしまえば、本書が対象とする読者への義務を十分に果たせていないということになるでしょう。空虚かもしれない主張をいくつか述べただけのように見えかねない。とは言っても、私の考えを完全なかたちで提示するのはまったく無益なことです。そこで本書では、問題の最も重要な部分をなす数学について、可能な限りうまく言い換えるにとどめることにします。

それでもなお、ここからの説明を理解するのはかなり骨が折れるであろうと危惧しています。なんとしてでもこの骨折りを避けたいというのなら、読み飛ばすよう警告しておかねばなりません。次節はそのような警告にもかかわらず読み進めようと思うほどに好奇心の強い方のためだけに書いています。

IV

読者よ、あなたはすでに法的な警告を受けています。したがって、以下の本文をけなすような発言は、すべてあなたに不利な証拠として使われるおそれがあります。

さて、線形変換器のような機械においては、その出力を定数倍したりほかの機械の出力と加算したりすることが可能です。ここでは機械の出力を電位として扱うことにしましょう。その際、カソードフォロワとして知られる現代的な装置を活用すれば、その出力は無負荷のまま読み取られる電位とみなしてよい。したがってここにポテンショメータや変圧器を組み合わせれば、出力を正負を問わず任意の定数倍にすることが可能になります。さらに、複数の変換器を直列に配置することで同じ入力に対する出力電位を加算することも可能です。こうして、各成分の出力に適切な正または負の係数を掛けて足し合わせた和を出力するような複合装置が得られました。

これで機械の解析と合成の世界に多項式展開や級数といったわれわれになじみの深い概念を導入できるようになったわけです。こうした概念は三角級数展開やフーリエ級数においてよく知られるものです。あとはそうした級数を組み立てるのに適した変換器のレパートリーがあれば、振る舞いにおける似姿を実現し、ひいてはそれを複製するための標準的な形式が得られたといってよいでしょう。

あらゆる機械をしかるべき意味で任意の精度まで近似できる、そうした初等的な機械の標準的なレパートリーの存在はすでに示されています。これを数学的に記述するとなると少々複雑ですが、たまたまこのページを開いた数学者のために言っておくなら──これらの装置は任意の入力メッセージに対して、その入力の過去のラゲール係数に関するエルミート多項式の積を出力します。まさにその印象どおり、きわめて具体的で複雑な話なのです。

では、こうした装置はどこで手に入るのでしょうか。残念ながら、今のところ電気部品店で完成品として売られていたりはしません。とはいえ正確な仕様に沿って組み立てることならできます。こうした装置の構成要素としては、抵抗や容量、インダクタンスといった線形装置ではおなじみの部品がまず挙げられます。これに加えて、線形性を得るための乗算器──二つの電位を入力として受け取り、その積にあたる電位を出力する装置──も必要です。こうした部品は市場で販売されていますし、必要な数を考えるとやや高価ではあるものの、技術革新によって価格が下がっていくかもしれません。そしてそもそも、費用は実現可能性とは別の問題です。この種のきわめて興味深い装置──圧電原理で動作する装置──は、すでに、インペリアル・カレッジ・オブ・サイエンス・アンド・テクノロジーのデニス・ガボール教授5の研究室で作られています。先に示したものとは多くの点で異なるものの、やはり任意の機械の解析と合成のための装置として使われているのです。

ともあれ、先に私が述べたような機械のレパートリーに話を戻しましょう。これらは一般の機械の解析と合成に適した三つの性質を備えています。第一に、それらは完備な系をなしています。すなわち、適切な重みを付けて組み合わせることで任意の機械に近似できます。第二に、正規化が可能です。これは、統計的な大きさを一定の基準値にそろえたランダム入力に対して、出力の統計的な大きさも同じ基準値になるよう調整できることを意味します。最後に、互いに直交しています。それらのうちどの二つを取っても、同じ標準化されたショット効果入力を与えたとき、両者の出力の積をその入力の統計分布全体にわたって平均すれば、結果はゼロになるということです。

このような基底に沿って機械を展開するなら、解析は合成と同じくらい容易になります。たとえば「ブラックボックス」型の機械があるとしましょう。つまり、十分に安定して(自発振動に陥らずに)動作するが、その内部構造はうかがい知れず、明らかになってもいない機械です。さらに「ホワイトボックス」、すなわち既知の構造をもつ機械があり、それがブラックボックスの展開における項の一つを表しているとします。これら二つのボックスの入力端子を同じショット効果発生器に、出力端子を乗算器に接続すれば、その出力の積を共通入力のショット効果の統計分布全体にわたって平均することで、ブラックボックスを複数のホワイトボックスの重み付き和として展開したときのそのホワイトボックスに対応する係数が得られるのです。

これを実際に導き出すのは不可能に思われるかもしれません。ショット効果入力の分布全体にわたってシステムを調べなければならないように見えるからです。けれど幸運なことに、この困難を乗り越えるための重要な数理物理学上の定理があります。特定の条件のもとでは、ほとんど確実に、分布にわたる平均を時間平均で置き換えられるという定理です。そしてショット効果の特殊なケースがこの定理の成立条件を満たしていることは厳密に証明できます。したがって、ブラックボックスの展開におけるホワイトボックスの係数を得るには、可能なショット効果のアンサンブル全体にわたる平均を時間平均で置き換えればよいことになります。こうして得られる係数が正しい係数である確率は1に等しく、理論上は「確実」ではないにせよ、事実上確実であることと等価といえます。

もちろんこのためには、電位の時間平均を取ることができなければなりません。幸い、そのような時間平均を得るための装置はよく知られており、容易に調達できます。これは抵抗、容量、そして電位を測定する部品のみからなり、したがってこの種のシステムは機械の解析にも合成にも等しく有用です。もしこの装置である機械を解析し、次いでその解析に沿って機械を合成したのなら、その機械の振る舞いにおける似姿を再生産したといえるでしょう。

こうした過程は、一見したところでは人間の介入を必要とするように思われるかもしれません。しかし実際のところ、解析や合成そのものよりはるかに簡単です。解析された数値を目盛り上の測定値としてただ読み取るのではなく、多数のポテンショメータの設定値とすればよいのですから。こうすることで未知のブラックボックスは──利用可能な基底の数と技術的な精度の許すかぎり──もともとどのような作用パターンでも取りうる複雑なホワイトボックスに、自身の作用パターンを移し取らせることができる。これは実際、生物の再生産において起こっていることとよく似ています。ここでもまた、すでに特定のかたちを備えたある構造(この場合は分子)が、数多くの形態を取りうる基体(この場合は分子構造)に、特定のかたちを取らせているのですから。

かつてこの自己複製システムの議論を哲学者や生化学者に披露したとき、次のような反論に出くわしました。「でも、その二つの過程はまったくの別物でしょう。生物と非生物のあいだのどんな類比だって、せいぜい表面的なものでしかありえません。生物学的な増殖の過程は間違いなく細部まで理解されており、あなたが機械の増殖の説明のために持ち出した過程とはなんの関係もありません。

機械は鉄や真鍮からできており、その微細な化学構造と機械の部品としての機能にはなんの関係もない。これに対して生きた物質は、それをまさに生きた物質たらしめているもっとも細かな部分、すなわち分子に至るまで生きているのです。そのうえ、生きた物質はよく知られた鋳型過程を通じて増殖します。その過程では核酸がアミノ酸鎖の形成を規定し、この鎖は相補的な二重らせんをなしています。それらが分離すると、それぞれがもとの二重らせんを再構成するのに必要な分子残基をみずからのもとに集めるのです。」

生きた物質の再生産の過程が、ここで素描した機械の再生産の過程と細部において異なっていることは明らかです。先述したガボールの仕事が示すように、機械に自己複製させる方法も一つではありません。こうした自己複製のありかたは私自身が示したものより柔軟であり、生物の増殖という現象により類似しているかもしれないのです。たしかに、生きた物質に備わる微細な構造と機能や増殖との関わりは、非生物的な機械の部品のそれよりもはるかに深い。もっとも、固体物理学の原理に従って動作する新しい型の機械においては、この違いはそれほど明瞭でないかもしれません。

それに、生きたシステムであっても(おそらくは)分子以下のレベルで生きているわけではありません。もっといえば、生きたシステムと通常の機械的なシステムとのあいだにどれほど多くの違いがあろうと、一方の種類のシステムが他方の種類のシステムになんらの示唆も与えないとするのはおこがましいことです。そのような示唆の一例として、空間的・機能的構造と、時間のうちに展開するメッセージとの相互変換可能性が挙げられるでしょう。再生産を鋳型で説明しきれるはずがないのは明白です。遺伝子分子と培養液中の残基とのあいだにはなんらかのコミュニケーションが存在しなければならず、しかもそのコミュニケーションは動的なものでなければならない。放射的な性質をもつ場の現象がこのようなコミュニケーションを媒介していると想定することは、現代物理学の精神に十二分にかなうものです。機械と生物における再生産の過程に共通点がまったくないと断定するのは適切とは言えません。

この種の断定は、慎重で保守的な人々には、性急なアナロジーよりも穏当に見えがちなものです。けれども、不十分な証拠にもとづいたアナロジーを受け入れるのは危険だというのなら、それが取るに足らないものだという証明もなしに退けるのも同じくらい危険でしょう。知的なリスクを引き受けようとしないのは知的に誠実であることを意味しない。新しく感情をかき乱すような考えをはじめから拒むことに特別な倫理的美点があるわけでもない。

神によるとされる人間と動物の創造、生きた存在がそれぞれの種にしたがって子をなすこと、そして機械が再生産しうること──これらがすべて同じ秩序に属する現象だという発想は、進化や人間の由来についてのダーウィンの思索がそうであったように、人の心をかき乱すものです。類人猿と比べられることが自尊心への侮辱だとしても、私たちはそれをとうに乗り越えています。そして機械と比べられることはよりいっそうの侮辱ではあるでしょう。どの時代のどんな提案にも、かつて魔術の罪にまとわりついていたのと同種の糾弾がつきまとうものなのです。

機械における遺伝と自然選択を通じたダーウィン的進化についてはすでに触れました。そのような機械における遺伝の仕組みが自然選択を通じたある種の進化の基礎となるためには、これを変異とその遺伝によって説明できなければなりません。とはいえ、ここで想定しているタイプの機械遺伝学にはいずれの余地もあります。これまで論じてきた複製過程の実現にあたっての不正確さが変異を生み、ホワイトボックスとして具現化された複製機械自身がさらなる複製のための範型となりうるのです。実際、最初の複製結果は振る舞いにおいてオリジナルと似通っていたとしても、見た目のうえではそうではない。一方でそれ以降の複製においては空間的な構造が維持され、その点でも文字どおりレプリカとなります。

複製の過程において、先の複製結果を新たなオリジナルとして用いうるのは明らかです。すなわち、遺伝における変異は維持され、さらなる変異にさらされるのです。


  1. Cybernetics, or Control and Communication in the Animal and the Machine, The M.I.T. Press and John Wiley & Sons, Inc., New York-London, 2nd ed., Chapter IX, 1961.
  2. DNAの二重らせんの分裂による遺伝子再生産のパターンは、動的な説明で適切に補ってはじめて完全に記述できるものです。
  3. ここでショット効果的な電流について説明しておきましょう。電気というのは連続的に流れるものではなく、同じ電荷をもつ荷電粒子の流れです。そして一般に、荷電粒子は一定間隔で流れるわけではありません。時間軸上でランダムに分布したかたちで流れており、したがって定常的な流れの上にゆらぎが重なります。このゆらぎは時間的に重ならない区間ではそれぞれ独立です。そしてこれにより広い周波数域にわたって一様に分布したノイズが生じます。こうしたノイズはたいてい不都合なもので、回線がメッセージを伝達する能力を制限してしまいます。とはいえ今回のようにそうした不規則性こそが必要とされる場合もあり、したがってそのような雑音を生み出す商用装置も存在します。これがショット効果発生器として知られる装置というわけです。
  4. Cybernetics, or Control and Communication in the Animal and the Machine, The M.I.T. Press and John Wiley & Sons, Inc., New York, 2nd ed., Chapter IX, 1961.
  5. Gabor, D., “Electronic Inventions and Their Impact on Civilization,” Inaugural Lecture, March 3, 1959, Imperial College of Science and Technology, University of London, England.

『神とゴーレム株式会社』(その1)

こんなアイコンですし、そもそも現代から読んでわりとおもしろい気がしたので、ウィーナーの God and Golem, Inc. を訳してみることにしました。とはいえ、小著といってもそれなりの長さはあるため、まずは「はじめに」および第1節、第2節のみです。

詳しい総括については全部終わってから(もし終わればな!)にしようと思っているので、ここでは大雑把な概要について少しだけ。本書が刊行されたのは1964年、実質的には最晩年の作品で、そのころの講義録をもとにしたものです。サイバネティクスが宗教や社会といった領域にはらむ含意というのがおおざっぱなテーマで、もう少し具体的には「学習する機械」(第2節)、「自己複製する機械」(第3節・第4節)および人間と機械の協調、そして倫理について(第5節以降)といった内容となっています。

正直なところここで訳出している第2節までは準備段階であり、(冒頭の言を翻すようですが)特に現代的に見れば飛び抜けておもしろいというほどではありません──第1節は人間機械論的なところにやや過剰に予防線を張っているように感じられるでしょうし、第2節のような機械学習についてはほとんど誰もが知っている話でしょう。そういう意味で本番は第3節以降なのですが、とはいえ1964年という時期を考えるとさすがにサイバネティクスのゴッドファーザーというところ。サイバネ文脈からやや距離を置き記号的な人工知能に寄った(という認識です)ダートマス会議が1956年、本文でも言及されているサミュエルのコンピュータチェッカーの開発が1950年代後半、そしてほぼ同時代にパーセプトロンが提唱され、この後にはELIZAの登場が控えていたことも加味すれば、なかなか面白く読めるかもしれません。

底本としてはthe MIT Pressで公開されているもの……ではなく、なんかよくわからないけどテキスト化されていたやつを使っています。とはいえ、ぱっとみは対応していそうですし、部分的に抜けていたり疑問が生じた点については前者を参照しています。なお、既訳として鎮目訳の『科学と神』がありますが、(古書価が高くて)参照できていません。

そのほか細々とした注釈。

  • 第1節の不定形についての記述やそれに続くフレーゲ=ラッセル的なパラドクスの記述はよく読むとちょっとばかり雑に感じるかもしれませんが、まあ大筋ではそうだねくらいに捉えてよいのではないでしょうか
  • コンピュータチェッカーやコンピュータチェスのその後の進展についていえば、チェスにおいてマスター級に至る(メルクマールたるカスパロフ対ディープブルーのちょっと前くらい)までの見積もりは多少甘かったこと、(完全解析には依然ほど遠いとしても)その後「興味を持たれなくなった」わけではないというあたりは周知のことかと思います。ちなみにチェッカー(の一部のルール)については2007年に弱解決されていることも付言しておきます

というわけで、以下本文。まだかなり粗いところはあるのですが、どうせ私訳ですし、致命的に誤っていることはない……はずなので、よろしくお願いいたします。

神とゴーレム株式会社

by Norbert Wiener

はじめに

数年前私は、『人間機械論:人間の人間的な利用』1において、以前の著作『サイバネティックス:動物と機械における制御と通信』2で展開した機械と生物における制御とコミュニケーションの考察から導かれる倫理的・社会学的含意についていくらか論じました。そのころサイバネティクスはまだ比較的新しい考え方であり、その科学的含意も社会的含意もまだ十分には明らかになっていませんでした。けれども約十五年を経た今では、サイバネティクスは社会的にも科学的にも一定の影響を及ぼすに至っており、関連する分野でさらにもう一冊をものすに足るだけのことが起こったといえるでしょう。

自動化がもたらす失業の問題はもはや想像上の話ではなく、現代社会におけるきわめて重大な問題となっています。サイバネティクスという一連の概念は、もはや未来に向けた計画あるいは願望の域にとどまるものではありません。工学、生物学、医学、社会学において実際に用いられる技術となり、その内部でも大きな発展を遂げています。

私はこれまでにも、この一連の概念が社会、倫理、宗教に及ぼす作用の輪郭を描こうとする連続講義を幾度か行ってきました。そしていまこそ、この方向に関する自分の考えを総合し、サイバネティクスの社会的帰結をより詳しく考察する時期が来たと考えています。本書はそうした帰結のいくつかの側面に充てられています。そこでは、『人間機械論』で述べたアイデアやコメントの多くを引き継ぎながらも、それらの問題をより詳しく、より十全に論じることができるはずです。

この仕事にあたって、私は大西洋の両岸にいる多くの友人たちから寄せられた批評に大いに助けられました。ここに謝意を表したいと思います。とりわけ、デンマークのルングステズ・キュストのピート・ハイン氏、マサチューセッツ州ベルモントのローレンス・フランク博士、イェール大学のカール・ドイッチュ教授、そしてそのほか多くの方々に感謝します。さらに、本稿の準備に力を貸してくれた私の秘書、エヴァ=マリア・リッター夫人にも感謝したいと思います。

私は1962年1月にイェール大学で行った一連の講義と1962年夏にパリ近郊のロワイヨモン国際哲学シンポジウムで開かれたセミナーにおいて、みずからの考えをさらに展開する機会を得ました。本書はこれら二つの場での講演内容を含みつつも、全面的に書き直され、再構成されています。この作業を助けてくれた多くの方々に感謝します。

ノーバート・ウィーナー
ニューハンプシャー州サンドウィッチ
1963年8月30日

I

これから論じようとしているのは、宗教と科学の総体についてではありません。私が関心を寄せてきた諸科学──コミュニケーションと制御の諸科学──におけるいくつかの論点についてです。これらの分野こそが科学と宗教とが触れ合う前線であるように思われるからです。また同時に、絶対的なものを扱うという、宗教の極端ではあるがありふれてもいる主張に伴いがちな、あの論理的パラドクスを避けたいとも考えています。もし知識をただ全知という観点からのみ、力をただ全能という観点からのみ、崇拝をただ唯一の神格という観点からのみ扱おうとすれば、宗教と科学の関係の探求にとりかかる以前に、些細な形而上学的問題に絡め取られてしまうでしょう。

それでもなお、知識、力、崇拝に関する問いのなかには、科学のより新しい展開のいくつかに実際に関わってくるものが数多くあります。そうした問いなら、絶対的な観念に立ち入らずとも十分に論じられるでしょう。絶対的な観念はあまりにも多くの感情と畏敬に取り巻かれており、距離を置いて扱うことがほとんどできません。けれども、知識は事実であり、力は事実であり、崇拝は事実です。こうした事実は、公認の神学とは別のかたちで、人間の探究の対象となります。事実である以上これらの事柄は研究の対象となり、知識、力、崇拝についての観察を、自然科学の方法がより及びやすいほかの領域から引き合いに出せるようになるのです。その際、読む者にただちに「不合理ゆえにわれ信ず」のような全面的な受容を求める必要はありません。

このように宗教の外部から出発すると、本稿の流れが示唆しているはずの科学と宗教の関係をめぐる議論ではなくなったのかと思われるかもしれません。ですから、まずは主題を定め、どの範囲にとどまるつもりなのかを明示し、無関係な目的についてはあらかじめ退けておくべきでしょう。すでに述べたように、私はここ数年、コミュニケーションと制御の問題──機械か生物かを問わず──と、それらの観念に結びつく新しい工学的・生理学的技術、そしてそうした技術が人間の目的の達成がもたらす帰結の研究に取り組んできました。知識はコミュニケーションと、力は制御と、人間の目的の評価は倫理および宗教の規範的側面全体と分かちがたく結びついています。したがって科学と宗教の関係を改めて研究するにあたっては、理論と実践的な技術の最新の展開に照らし、これらの事柄についての私たちの考えを再検討すべきでしょう。これ自体は十分な意味での科学と宗教との関係の研究を成すものではないかもしれませんが、そのためになくてはならない予備的な考察となることは確かです。

このような研究が実りあるものとなるには、幾重にも積み重なった偏見を取り除かなければなりません。そうした偏見は、名目のうえでは尊厳ある聖なるものに捧げる敬意を守るためのものですが、実際にはしばしば、不快な現実や危険な比較を正面から見据えたときに覚えるみずからの至らなさの感覚から逃れるために用いられているのです。

この論考になんらかの意味があるとすれば、それは現実の問いを現実に探究するものでなければなりません。それを成し遂げるのに必要なのは手術室の精神であって、死体を囲んで泣き悲しむ葬式の精神ではありません。怖気づくのは場違い──いや、むしろ冒涜であるとさえ言っていい。そんな態度は、黒いフロックコートを身にまとい、その絹の襟に外科用の針を隠していた当世風の医者がベッドサイドで見せた、あの気取った物腰のようなものでしょう。

宗教というものは──ほかに何を含んでいようとも──しばしばニューイングランドの農家の、閉ざされた応接間のような趣を帯びています。ブラインドは下ろされ、マントルピースにはガラスケースに入った蝋の花、イーゼルには金色の飾り草で縁どられた祖父の肖像、黒いウォルナット製のハーモニウムが鳴らされるのは結婚式か葬式のときだけ。あるいはまた、ナポリ風の霊柩車に道徳の面で対応するものだと言ってもよいでしょう。黒い板ガラスの窓のついた、王侯然としたあの馬車です。黒い羽飾りをつけた馬は、死の場面においてさえ身分の誇示を──少なくとも身分を求める願望を──運んでいく。宗教は重大な事柄なのですから、それよりも取るに足らない個人的価値判断とはきっぱり切り分けねばならないというわけです。

ここまで、私たちのもつ偏見の層──科学と宗教が出会うあの重要な接点への歩みを妨げるもの──について述べてきました。神と人間を並べて論じてはならない、それは冒涜だ、というわけです。デカルトがやったように、下等な動物とは根本的に異なる仕方で人間を扱うことで、人間の尊厳を維持しなければならない。進化や種の起源は人間的価値の冒涜であり──初期のダーウィン主義者たちが気づいていたように──科学に根本的な不信を抱く世界で科学者がこうした考えを抱くのは、きわめて危険なことである、と。

それどころか科学の領域においてさえ、受け入れられている序列に逆らうのはきわめて危ういことです。いかなる場合にも、生物と機械を同列に語ってはならない。生物は、そのすべての部分において生きた存在である。これに対して機械は、金属やその他の無機的な物質からできており、その目的にかなった、あるいはあたかも目的をもつかのような機能に関わる精妙な構造をもたない。物理学は──少なくとも一般にはそう考えられているのですが──目的をまったく考慮に入れません。となれば、生命の出現は、従来の物理学では捉えきれない、まったく新しい出来事だということになります。

こうしたタブーのすべてに従えば、保守的で健全な思想家としてすばらしい名声を得ることはできるかもしれません。けれど、そうしたところで知識のさらなる前進にはほとんど何も寄与しないでしょう。最終的にはそれを拒むことになるとしても、異端的で禁じられた意見を試しに抱いてみることは科学者の務めであり、また知的で誠実な知識人や、知的で誠実な聖職者の務めでもあります。しかもその拒否は、はじめから当然のものとされてはならず、はじめからたかがゲームにすぎないとわかっている、精神の開放性を示すためだけの空虚な思考実験になってもいけません。それはまじめな営みであり、ひたすら真摯に取り組むべきものです。そこに本当の異端の危険が伴ってはじめて意味がある。そしてもし異端が地獄に落ちる危険を伴うなら、その危険も正直に、勇気をもって引き受けねばなりません。カルヴァン主義者の言葉を借りるなら、「汝は神の大いなる栄光のため、みずから滅びに赴くことを厭わぬか」といったところでしょう。

こうした誠実で徹底した批判を踏まえて私たちは、先にみたような態度を捉えなければなりません。宗教的な事柄を論じるにあたって避けがたいその態度、すなわち偽りの最上級に伴う言い逃れです。全能や全知といった観念から生じる知的な困難についてはすでに述べました。それがもっともむき出しのかたちで現れるのが、宗教集会に招かれもせず顔を出した冷笑家がよく口にする、あの問いです。「神様ってのは、自分でも持ち上げられないほど重い石を作れるのか?」。もしできないなら、その力には限界がある──少なくともそう見える。もしできるとしても、それはそれで神の力を制約することになるように思われる。

この困難を単なる言葉の綾として片づけるのはたやすいですが、事はそれほど単純ではありません。この問いがはらむパラドクスは、無限という観念──それはさまざまなかたちで現れます──をめぐる数多のパラドクスのうちのひとつです。一方で、数学的無限をほんの少し操作しただけでも、ゼロ割るゼロ、無限割る無限、無限かけるゼロ、無限引く無限といったかたちが現れます。これらは不定形と呼ばれ、無限が通常の数や量に求められる条件に従わないという事実に根ざした困難をはらんでいます。数学者にとって ∞/∞ が意味するのは、x と y がともに無限大に近づくときの x/y の極限にすぎません。y = x なら 1 になり、y = x2 なら 0 に、y = 1/x なら ∞ に、等々。

また、数え上げに伴って現れる別種の無限もあります。この観念もまたパラドクスにつながります。すべての数のクラスには、いくつの数が含まれるのか。そもそもこれは正当な問いではありません。そして、数をどのように定義しようとも、すべての数の個数はどんな数よりも大きくなってしまいます。これはフレーゲ=ラッセルのパラドクスの一つであり、型理論の複雑さに関わっています。

実のところ、全能や全知のような表現は本来の意味での最上級ではなく、単に「きわめて大きな力」や「きわめて大きな知識」を大まかに言い表したものにすぎません。そこに表れているのは畏敬の感情であって、形而上学的に擁護しうる言明ではないのです。もし神が人間の知性を凌駕しており、知性に関する既存の形式のうちには収まりえないのだとしても──これは少なくとも擁護しうる立場です──なお神をそうした形式の中に無理に押し込めるのは、知的に誠実とは言えないでしょう。知性そのものを空転させることになるからです。そう考えれば、宗教書で一般に語られる言明のいくつかを考える手がかりになるような個別の事例に出くわしたとき、それが宗教的言明に付与されがちな絶対性や無限性、完全性を備えていないというだけで退けてしまうのは、私には不誠実に思われるのです。

この言明こそが本書の狙いを理解する鍵です。これから取り上げていくのは、宗教書で論じられ、宗教的な側面をもちながら、同時に、機械であれ生物であれコミュニケーションと制御を扱う新しい科学、すなわちサイバネティクスに属する事例と密接に対応する事例です。私はそうしたサイバネティクス的事例との個々の類比を用いて、宗教的事例にわずかながら批判的な見通しを与えたいのです。

こうした企てにあたっては、宗教的な状況をサイバネティクス的な枠組みへ無理に押し込めることもあるでしょう。その暴力性については十分に承知しています。ただ、弁明させてください。解剖学という科学も、ほかならぬ解剖学者のナイフを通して成り立ってきたのです。そして解剖学者のナイフもまた、暴力を加えることによってしか対象に迫れない道具なのです。

II

以上の予備的な所見を踏まえて、この小著の本来の主題に移りましょう。私の見たところ、サイバネティクスが宗教的な問題に関連するのは、少なくとも次の三つの点においてであると思われます。すなわち、学習する機械について、自己複製する機械について、そして機械と人間の協調について。そして、そのような機械は現に存在すると言ってよいでしょう。たとえばIBMのA. L. サミュエル博士の作ったチェッカーをプレイするプログラムは、コンピュータがみずからの経験によってより上手に指せるよう学習する──少なくとも学習しているように見える──というものです3。ここには確かめておくべき、あるいは少なくとも明確にしておくべき点がいくつかありますので、本書の一節をその検討に充てることにしましょう。

私たちはしばしば、学習という性質を持つのは自己意識をもつシステムであり、しかもそれはほとんどの場合、生きたシステムに限られると考えています。学習は人間においてもっとも典型的なかたちで現れる現象であり、人間の属性のうちでも、宗教的生活と関わりの深い側面ととくに結びつけられやすいものの一つです。実際、学習しない存在が宗教と関わりうるとは考えづらいでしょう。

しかし、生命には宗教と自然に結びつけられる別の側面もあります。神は人間をみずからの似姿として創ったとされるのと同様に、生物の繁殖も、ある生物がみずからの似姿として別の生物を作る働きだと捉えられるということです。人間に対しては神を、物質に対しては人間を称揚したいという私たちの欲求からすれば、機械がみずからの似姿として他の機械を作ることはできないと考えるのが自然でしょう。このことは、システムを生物と非生物とにきっぱり二分する発想と結びつき、さらには創造主と被造物という別の二分法とも結びついています。

けれど、本当にそうなのでしょうか。私の考えでは、機械がみずからの似姿として他の機械を十分に作りうることを示すいくつかの考察にも、本書の一節を充てるつもりです。ここで立ち入ろうとしている主題は、きわめて技術的であると同時にきわめて精密です。したがって、それを生物学的な生成過程の現実的なモデルとしてあまり重く受け取るべきではありませんし、まして神による創造の完全なモデルとして受け取るべきでもありません。しかし同時に、ここでの考察がこの二つの概念を考えるうえで与える示唆を軽視すべきでもないでしょう。

本書における学習する機械の議論と自己複製する機械の議論は、互いに相補的なものとみなせます。個体の学習は個体発生において起こる過程です。一方、生物学的な再生産は系統発生において起こる現象であり、種全体もまた個体と同じように学習します。実際、ダーウィン的自然選択は、個体の再生産によって成り立つ条件のもとで働く、種全体の学習の一種といえます。

そして、本書のもうひとつの主題もまた学習の問題に関わるものです。そこで扱うのは機械と生物との関係、そしてその両方の要素をあわせもつシステムであり、したがって規範的な──より正確にいえば倫理的な──考察が含まれます。ここでは、現代の人間が陥りかねない、もっとも重大な道徳的罠のいくつかが問題になります。また、この主題は魔術のようなものをめぐる人間の伝承や伝説の豊かな蓄積とも深く結びついてもいます。

まずは学習機械から始めましょう。組織化されたシステムとは、特定の入力メッセージをある種の原理に従って出力メッセージへと変換するものだといえます。そして、その変換原理が特定の評価基準に照らして成績が向上するよう調整される場合、そのシステムは学習するとされます。評価基準が解釈しやすいきわめて単純なシステムとしては、固定したルールに従ってプレイされるゲームが挙げられるでしょう。ここでの評価基準はルールに従ってゲームに勝つことです。

こうしたゲームのなかには、完全な解法が判明したせいで面白みを失ってしまったゲームがあります。バウトンが明らかにしたように、ニムや三目並べがこれにあたります。こうしたゲームでは、理論上の最善手を見いだせるだけでなく、その戦略の細部まで判明しています。先手であれ後手であれ、その戦略に従いさえすれば、つねに勝てるか、少なくとも引き分けには持ち込めるのです。理論上は、どんなゲームでもこの状態へ持ち込める──これが故ジョン・フォン・ノイマンの考えです──のですが、ひとたびそこに至れば、ゲームはすっかり面白みを失い、もはや娯楽としてさえ成立しなくなるでしょう。

神のような全知の存在にとってチェスやチェッカーはこうしたフォン・ノイマン型ゲームの一例でしょうが、人間にとってはその完全な解法はいまだ不明なままで、これらのゲームは依然としてまぎれもない洞察と知性の勝負の場でありつづけています。そしてそもそも、私たちはフォン・ノイマンの理論が示唆するような仕方ではプレイしません。つまり、相手が最善手を指すと仮定し、そのうえで自分が最善手を指し、さらに相手が最善手を指すと仮定し……と、どちらかが勝つか千日手が発生するまで続けているわけではないのです。実際、フォン・ノイマン流にゲームをプレイできるということは、そのゲームの完全な解法を得て、そのゲームを取るに足らないものへ還元してしまったも同然なのです。

学習、とりわけゲームプレイを学習する機械という話題は、宗教からいささか縁遠いものに感じられるかもしれません。それでも、こうした観念に関わる宗教的問題は存在します。創造主と被造物とのあいだのゲームという問題です。これは『ヨブ記』のテーマであり、また『失楽園』のテーマでもあります。

これら二つの宗教作品では、悪魔はヨブの魂──あるいはもっと広く、人類の魂──をめぐって、神とゲームをしているものとして描かれます。ところで、正統的なユダヤ教とキリスト教の見解では、悪魔は神の被造物です。これを認めないなら、ゾロアスター教めいた道徳的二元論、さらにはゾロアスター教とキリスト教の混成的分派である、いわゆるマニ教を思わせる立場に傾くことになるでしょう。

けれど、もし悪魔が神の被造物であるのなら、『ヨブ記』や『失楽園』で描かれるゲームは神とその被造物とのあいだのゲームということになります。これは一見、あまりにも不公平なゲームに思われるかもしれません。全知全能の神とゲームをするなど本来は愚者のやることです。しかも悪魔は、伝えられるところでは狡知の達人。反逆する天使たちのいかなる蜂起も、初めから失敗を運命づけられている。このことを示すのに、マンフレッドばりのサタンの反逆を持ち出すまでもないでしょう。天上からの雷撃をもって証明しなければならないような全能は、そもそも全能ではなく、単なるきわめて大きな力にすぎない。となれば、天使たちの戦いは、サタンが天の玉座に就き、神が永遠の滅びへと投げ落とされるかたちで終わっていたかもしれません。

そう考えると、全知全能という教理に囚われないかぎり、神と悪魔との対立は現実の対立であり、神は絶対的な全能などではないということになります。神は実際にみずからの被造物と争っており、そのゲームに敗れることすら十分にありうるのです。しかもその被造物は、神自身の自由意志に従って作られており、なしうることのすべては神自身に由来しているようです。では、神はみずからの被造物と意味のあるゲームをプレイできるのでしょうか。いかなる作り手も──たとえその力が限られていたとしても──自分が作ったものと意味あるゲームをすることができるのでしょうか。

ゲームをプレイする機械を作る発明家は、その機械がどんなものであろうと、全能ではない創造主を僭称しているのです。このことは、経験から学習する機械にとりわけ当てはまるでしょう。そしてすでに述べたように、そのような機械は存在します。では、これらの機械はどのように機能するのでしょうか。どれほどの成功を収めてきたのでしょうか。

そうした機械の振る舞いは、フォン・ノイマンのゲーム理論的なプレイの仕方に沿うものではなく、むしろ通常の人間のプレイヤーのそれにかなり近いものです。各段階での選択肢はルール上合法な範囲に制限されており、そのような合法手のうちのひとつが、良いプレイの基準にのっとって選ばれます。

この基準を選び出すにあたっては、人間のプレイヤーの経験が手がかりになります。チェッカーやチェスにおいて駒を失うのは不利、相手の駒を取ることは有利であると捉えるのが一般的でしょう。機動性と選択の自由を保ち、多くのマスに睨みをきかせているプレイヤーのほうが、こうした点をおろそかにした相手より、たいてい有利です。

これらはゲーム全体を通して成り立つ基準ですが、一方で特定の段階でのみ成り立つ基準もあります。たとえば、終盤に至り盤上の駒がまばらになってくると、相手に詰め寄ってとどめを刺すのが難しくなります。あるいは序盤において──これはチェッカーよりチェスにおいてはるかに重要なのですが──駒が互いの動きや効きを邪魔しがちな配置になっているため、攻撃と防御の両面でこれを解消するよう駒を展開しなければなりません。そのうえチェスではチェッカーに比べて駒の種類がはるかに多様であるため、良いプレイに関する特殊な基準も数多くあります。こうした基準の重要性は、何世紀にもわたる経験によって証明されてきました。

こうした考慮事項を(単純に足し合わせるか、あるいはもっと複雑な仕方で)組み合わせることで、機械が次に指すべき一手の評価値を与えられます。組み合わせ方はいくぶん恣意的なものでもかまいません。そのうえで機械は合法手の評価値を比べ、それがもっとも大きい手を選びます。これが、次の一手の選択を自動化する方法のひとつです。

この方法で選ばれた一手は、必ずしも──それどころか、たいていは──最適な選択ではありません。それでも選択は選択であり、おかげで機械がプレイを続けられるわけです。このようなゲームの機械化の価値を測るにあたっては、技術的な装置に由来する機械化のイメージも、ふつうの人間プレイヤーに結びついた身体的なイメージも、いったん脇に置くべきでしょう。幸い、これはたいして難しいことではありません。通信チェスではいつもそうしているからです。

通信チェスのプレイヤーは、自分の手を郵便で相手に送ります。両者を結んでいるのは手紙だけ。それにもかかわらず、熟練のプレイヤーであればすぐに相手の性格──「チェス人格」とでも呼ぶべきでしょうか──を把握できるでしょう。短気なのか慎重なのか。だまされやすいのか抜け目ないのか。対戦相手のやり口から学ぶタイプなのか、初歩的な戦略に何度もひっかかるタイプなのか。こうしたことのすべては──繰り返しますが──ゲームそれ自体のプレイ以外にはいかなるコミュニケーションもなしに見えてくるのです。

この観点からすれば、人間であれ機械であれ、いちど決めた単純な評価テーブルに固執するプレイヤーは、硬直したチェス人格の印象を与えるでしょう。いちど弱点を見抜けばそれはずっと有効で、いちど成功した策略はいつだってうまくいく。ごく少数の対局だけでも、そのプレイヤーの手口が見極められてしまうはずです。

学習しない機械化プレイヤーについてはひとまずこれで十分でしょう。とはいえ、機械化プレイヤーがもっと知的にプレイすることを妨げるものはなにもありません。そのためには、過去の対局や過去の指し手を記録し保持しておく必要があります。そうして各対局の内容、あるいは特定の種類の対局をひとまとまりにした記録は、対局そのものとは別の処理に使われます。

評価値を組み立てる際には、別様にも選びえた一定の係数が導入されます。たとえば、盤面の支配度、駒の機動性、盤上の駒数に対応する係数の相対的な比は、9:4:4ではなく10:3:2でもよかったかもしれません。調整機械の新たな役割は、すでに行われた対局を調べ、その結果を踏まえて評価値を与えることです。ただしこの評価値は、すでに指された手そのものではなく、それらを評価するための重みづけに関するものです。

評価値は継続的に更新され、勝った対局に現れる局面はより高く、負けた対局に現れる局面はより低く評価されることになります。プレイは新しい評価値に従って続けられますが、細かな更新の仕方はさまざまです。結果として、ゲームをプレイする機械は実際にどう指してきたかに応じて絶えず別の機械へと変わっていくことになります。この過程では、機械と対戦相手である人間の両方の経験や成功が活かされています。

こうした機械──対戦相手からそのプレイ人格の一部を取り入れる機械──との対戦においては、そのプレイ人格を完全に硬直したものとはみなせません。以前は通用した策略がその先も通用するとは限らないことに気づくかもしれない。あるいは、機械は不気味なほどの抜け目なさを身につけるかもしれない。

こうした機械の予期せぬ知性のすべては設計者やプログラマがはじめから組み込んでいたものだと思うかもしれません。これはある意味では正しい。けれど、だからといって機械が身につけた習慣のすべてを彼らが明確に予見していたとは限りません。もしそうだったとすれば、彼らは自分の創造物をなんの困難もなく打ち負かせていたはずなのです。実のところ、これはサミュエルの機械が辿った歴史とは一致しません。

サミュエルの機械は多少の慣らし運転ののち、それなりの期間にわたり創造主を打ち負かせるようになりました。もっとも──サミュエル自身の言によれば──彼はもともとチェッカーの達人ではなく、いくらかの知識と練習を積めばまた自分の創造物に勝てるようになったことも断っておかねばなりません。それでもなお、かなりの頻度で機械が勝者となっていた時期が存在したという事実を軽視してはなりません。機械は実際に勝った、しかも勝つことを学んだのです。そしてその学習のやり方は、原理的には、チェッカーを学ぶ人間のそれとまったく同じだったのです。

チェッカー機械に開かれている戦略の幅が、人間のプレイヤーのそれよりほぼ確実に狭いのは事実です。けれども、人間のプレイヤーに事実上開かれている戦略の幅も無限ではありません。より広い選択が妨げられるのは、知性と想像力に限界があるからにすぎないのでしょう。とはいえ、この限界はきわめて現実的な制約であり、機械の限界と本質的に異なる種類のものではないのです。

このようにチェッカー機械のゲームの腕前はすでにかなり高く、終盤の研究をさらに進めてとどめを刺す技術をもう少し身につければ、マスター級も遠くはなさそうです。いまや通常の人間のプレイが定型化されたことで、チェッカーのチャンピオンシップへの興味がひどく薄れてしまっています。もしそうでなければ、チェッカー機械がゲームとしてのチェッカーへの関心を奪い去ったのだと言えたかもしれません。人々がすでに、チェスも同じ道をたどるのか、そしてその破局はいつ訪れるのかと問い始めているのも不思議ではないのです。

チェスをプレイする機械、あるいは少なくともそのかなりの部分をプレイする機械はすでに存在しています。とはいえそれらはまだまだお粗末なものです。せいぜいのところ、チェスの名人を自称しないアマチュア同士の少しばかり気の利いた対局の水準を超えることはなく、その水準に達することさえめったにありません。駒と指し手の両面でチェッカーよりはるかに複雑であり、ゲームの異なる局面に適した戦略をよりきめ細かく見分けなければならないためです。チェッカーの機械化に必要な考慮事項は比較的少なく、各局面に応じて戦略を見分ける精度も低いため、チェスのプレイにはまったく不十分なのです。

にもかかわらず、チェスにかなり習熟した私の友人たちのあいだでは、人間にとって興味ある営みとしてのチェスの命運は尽きつつある、というのが大方の意見です。彼らは、十年から二十五年のうちにチェス機械がマスター級に達し、仮に効率的ではあるがいくぶん機械的なロシア流の戦術がその頃までチェスを生きながらえさせていたとしても、人間のプレイヤーにとって取るに足りないものとなっているだろうと予想しています。

とはいえ、技術者たちに挑戦を挑み続けるであろうゲームは他にもたくさんあります。たとえば囲碁──熟達の公認された段階が七つ以上ある、あの極東のゲームです。あるいは戦争やビジネスもゲームに似た、すなわち明確なルールのもとに形式化しうる争いといえるでしょう。実際、巨大なボタンを押し、より人間の頼りなさに左右されづらい新しい秩序のために地表を焼き清める戦略のモデルがすでに作られつつあることを疑う理由はありません。

一般に、ある機能の成果を明確で客観的な基準で評価できるなら、それを自動で行うゲーム機械を実現できます。チェッカーやチェスにおける評価基準は、認められたルールに従って勝つことでした。こうしたルールは、良いプレイについての公認の格言とはまったく異なり、単純で容赦がありません。賢い子どもでさえ、盤を前にそのルールを読めば、迷いはたちまち消えるでしょう。勝ち方については大いに迷っても、勝敗そのものについては明白なのです。

人間の活動をゲームに落とし込めるかどうかの最も重要な基準は、その活動の成果を客観的に評価できるか否かにあります。もしできなければ、そのゲームは『不思議の国のアリス』のクロッケーのように無定形なものになってしまうでしょう。ボールになったハリネズミは勝手に歩き、マレットはフラミンゴ、アーチはフィールドを歩き回る厚紙の兵隊、審判たるハートの女王はころころとルールを変え、プレイヤーたちを首切り役人のもとへ送る──こんな状況で勝つことに意味はなく、成功する戦略を学ぶこともままなりません。成功の基準がないのですから。けれど、もし客観的な成功基準があれば、学習ゲームは十分に成立します。これはフォン・ノイマン的なゲームのプレイよりも、私たちがゲームを学ぶ仕方にずっと近い。学習ゲームの技術が、まだその対象となっていない人間の活動の分野に採用されることは間違いありません。それでも──後述するように──成果の良し悪しに関する明確なテストを決めようとすると、学習ゲームにまつわるたくさんの問題が生じてきます。


  1. Wiener, N., The Human Use of Human Beings: Cybernetics and Society, Houghton Mifflin Company, Boston, 1950.
  2. Wiener, N., Cybernetics, or Control and Communication in the Animal and the Machine, The Technology Press and John Wiley & Sons, Inc., New York, 1948.
  3. Samuel, A. L., “Some Studies in Machine Learning, Using the Game of Checkers,” IBM Journal of Research and Development, Vol. 3, 210-229 (July, 1959).

インタラクティブフィクションにおける自己定位

読んだ。

Paal Fjeldvig Antonsen. 2020. “Self-Location in Interactive Fiction.” The British Journal of Aesthetics. https://doi.org/10.1093/aesthj/ayaa037

けっこう啓発的というか、思うところがあったのでメモっておきたい。たぶん論文を読んでないと何言ってるかわからないというか、もしかすると読んでても何言ってんのとなる気がするのですが……。

インタラクティブフィクションにおける一人称っぽい(自己関与的な)体験について検討するやつ。おおざっぱにいえばRobson & Meskinのあれの系譜ではあるんだけど、そういうde seっぽい想像について、「それってどういう内容の想像なの」みたいなところを考えている感じか。

具体的な内容としては、フィクション一般についてThe Imagination Assumptionという前提を置いたうえで(第2節)、インタラクティブフィクションに関してThe Indexicality Thesis(第3節)とThe Identity Thesis(第4節)という2つの主張をしているかたち。Imagination Assumptionについてはフィクション一般を想像(の指示)と繋げて理解するっていうよくある見方をここでも前提として採用するよ(逆に、それ以上の深いところにはコミットしないよ)という話なのでここは置いとく。

おもろいのはIndexicality Thesisで、ルイスのcentered worldsの考え方を引いてるところ。自分の理解した範囲だと……まず、ふつうの命題って可能世界の束として見られるわけだけど、それだけだと世界の記述でしかなく行為や経験(典型的には、「自分がそのような状況にいる」みたいな話)をうまく表現しきれない。なので、世界$w$のほかに「どのエージェント$x$を中心にとっているか」も含めた$\langle w, x \rangle $の組(本来はここに「いまはいつか」も加えての3つ組なんだけど、ここでは省く)で表現するのはどうだろう、みたいな感じのやつ。んで、インタラクティブフィクションにおいては単に「世界$w$で$A$が起きている」と想像することだけでなく、「世界$w$の中のこのエージェント$x$が、(いま、ここで)$A$をしている」という中心化された内容の想像をを要求される(ことがある)のだ、というのがIndexicality Thesisということになる。de seな想像というとよくわからんわけだが、普通の命題的な内容の想像に主体というインデックスを付加したものだと捉えればよいんではというのはわかりやすい気がする(このへんはたぶん言語哲学とかで膨大な議論があるのだろうからあんまり滅多なことは言えないのだが……)。その上で著者としてはここで$x$に自己定位的(タイトルにもあるself-location)である、それこそ「一人称的な」想像である(まさにde seである)というふうに位置づけている。

そのうえでIdentity Thesisということで、インタラクティブフィクションにおいてはその中心化されたエージェント(ひらたくいえばアバター)を自分だと想像するよう指定されてもいる、という主張になる。これはプレイヤー自身の属性を反事実的に改変している($\langle w, x \rangle $の$x$がプレイヤー自身であると想像している)のではなく、別人としての自分を想像している($\langle w, x \rangle $の$x$はアバターであり、そのうえでプレイヤーは自身がそのアバターであると想像している)ことに注意。

こうみるとけっこう強めの主張であるように見えるし実際(2つめのテーゼが「identity thesis」であるということからしても)著者としてはそういう意図なのだろうけど、おそらくもうすこし中立的に読むこともできるはず。つまり、インタラクティブフィクションにおいて要請される想像(の一部)は、想像のためのアンカーとして行為主体という指標が付与されたような内容であるとしてそれ以上の「一人称っぽさ」「自己定位っぽさ」についてはいったんフリーハンドにしたうえで(ここまでindexicaity thesis相当)、そこで指標となっている行為主体はプレイヤーではなく虚構的なエージェントだよ(ここがidentity thesis相当)ということだけでも道具立てとしては十分成り立っているのではないか。どこまでどのようにプレイヤーの一人称と紐づけるかについては作品や場面ごとにけっこうまちまちで、「行為の起点はアバター側のに載せるが、自伝的事実や現実の自己知識はそうしない」とかが起こりうる余地を残すというか。

かなり大雑把にまとめるとそういう内容だと理解したわけですが、以下あまり関係ない思いつき。

(信念についても同型なのかどうかは置いといて)ひとくちに想像と言ってもそれが一定程度組織化されうると考えるのはわりと自然ではあるはずなんですよね。そのひとつとして「虚構的な対象に中心化されたかたちで組織化する」ような型があり、(いくつかの付加的な条件のもと)それをうながすのがインタラクティブフィクションだよ、みたいに捉えてもいいのかもしれない(これは焦点化だったりあるいは「操作で介入できる」みたいな提示のされ方と当然相関するだろうけど、あくまで別物であることに注意したい)。もちろんこういうのってここで見たcentered worlds的な道具立てがフィットするような、つまりかなりエージェンティックな(いかにも人間中心的な!)組織化に限る必要はなさそうではある。なんならたぶん、ほかにもけっこういろいろありそうな気がするんですよね。

芸術をカテゴライズすることについて - 銭清弘

とりあえず目次は下記。

  • 第1章:批評とは鑑賞のガイドである
  • 第2章:鑑賞とは単なる好き嫌いではない
  • 第3章:鑑賞とは卓越性の測定である
  • 第4章:鑑賞はカテゴライズに依存する
  • 第5章:カテゴライズは単なる分類ではない
  • 第6章:ジャンルとは鑑賞のルールである
  • 第7章:ふさわしいジャンルとは制度である
  • 第8章:批評の意義は判断の柔軟性を養うことにある

書名こそ「〜について」だが、章見出しがすべて端的な主張の形になってるのが良すぎるな。

全体としては、批評についてはさっさとやっつけちゃって(キャロルの本がすでにあるしね)、第2章から鑑賞に焦点を移す。そして鑑賞におけるカテゴリーの重要性を示したうえでウォルトン「芸術のカテゴリー」を読み、第6章・第7章あたりが本番、という感じか。「批評は鑑賞のガイドだよ」→「じゃあ前提にある『鑑賞』について考えなきゃね」→どうも鑑賞において『カテゴリー』が重要そうだね」→「じゃあこのカテゴリーって実際どいうもので、どう決まるのよ」っていう。そのうえで最後に批評に戻ってくるのがきれい。個人的には第5章、第7章、第8章がおもろかった(前半は「ですよねですよね」みが強い!)。第6章はちょっとむずかった……。

以下、読書メモをほぼそのまま掲載します。普段こんなに丁寧にまとめないんだけど、なんかよくわかんないが興がのっちゃったんだよ!(逐次的に書くしかなくてまとめきれなかったとも言える) 当然ながら内容の正しさについては保証しません。


はじめに

最初に、芸術に対する判断における主観と客観の交じりみたいなのを、判断のサイズのことじゃよと言ってのける。同意を期待する範囲の違いやね。そして芸術において、その観点の大きさを決めてるのがジャンルなんだよと。ということで、本書の主題は芸術のカテゴリーと、それが批評において果たす役割である。これをいわゆる分析美学というディシプリンもとで論じるよと。

なので、ある種の批評の哲学なわけだ。文脈主義的なそれを切り開き推し進めた人物としてウォルトン(「芸術のカテゴリー」)とキャロル(『批評について』)が挙げられている。……いるのだが、文脈全体を重視するようになったことで逆に、実はそもそも芸術のカテゴリーってなんなのよということ自体があまり論じられてこなかったのではないか。

本書の提案の骨子は、芸術鑑賞およびそのガイドである芸術批評は、ルールとしてのジャンルをめぐる社会的相互作用であるというもの。

構成は以下の通り。

  • 批評とは鑑賞のガイドであると主張する(第1章)
  • 鑑賞とは(好き嫌いの問題ではなく)作品の卓越性を測定する試みであると主張する(第2章、第3章)
  • 芸術の鑑賞が「特定の観点」から行われることについてのウォルトンの議論を検討する(第4章、第5章)
  • この観点こそが鑑賞のルールとしてのジャンルであると論じ(第6章)、その作品をめぐって人々のふるまいが均衡しているジャンルこそが、その作品にとってふさわしいジャンルであると主張する(第7章)
  • 批評の意義は、ある種の柔軟性を養うことであると主張する(第8章)

1. 批評とは鑑賞のガイドである

主張は表題のとおり(キャロルより寛容な立場だ)。isの関係、つまり必要十分な定義として示されていることに注意。記述的にはもちろん、さらにはそのガイドのうまさがその批評の良さと直接的に繋がっていることも含意している。また、鑑賞という前提あってこそのおこないであることも覚えておこう。

「それでは広すぎる」つまり、それだと美術館のキャプションや楽譜を解釈しての演奏なども批評になってしまわないかという反論への応答が良い。説明と理由づけのあることを条件に入れるという手もあるが、それらも批評ってことでええんちゃうかと。そうだね!

酷評は「鑑賞するな」を含意するが、それでもガイドなのかという論点もおもしろい。ここでいう「鑑賞」というのが、ただ見たり聞いたりすること(薄い意味での鑑賞)ではなく、なんらか味わうような行い(厚い意味での鑑賞)を指しているであろうことに注意しよう。作品の出来の悪さに気づくにもそれなりの労力が必要であり、やはりそれをガイドするといういみでの批評が成り立つのである。

コラムにあるとおり、「選択のガイド」(バイヤーズガイド的なやつ)は「鑑賞のガイド」とは別ものとして考えるべきことに注意。

まとめ

  • 批評とは鑑賞のガイドである。鑑賞ガイドではない批評や批評ではない鑑賞ガイドがあるとする反論には、それぞれ対処できる。
  • 鑑賞ガイドとしての批評には酷評も含まれる。

2. 鑑賞とは単なる好き嫌いではない

批評の前提には(厚い意味での)鑑賞があるということで、続いてその「鑑賞」について検討する。とくに本章では、芸術鑑賞を主観的なものとみなす立場(主観主義)についてみていく。これがほんとうなら、そもそも「ガイド」というものが成り立たない(好きに鑑賞すればいいんだからガイドとかいらんねん!)からだ。

で、主観主義というのはどんな立場なのか。

一つの解釈として、極端な主観主義=報告説。この場合、鑑賞した際の発言の焦点は対象の善し悪しではなく、発言者の好き嫌いでしかなくなる。したがって意見の対立や、鑑賞にまつわる教育の可能性を説明できない。かなり厳しいのではないか。

あるいは穏当な主観主義=伝達説。報告に加え、相手になんらかの影響を与えようとしている、というもの。ただそうなると、好き嫌いだけというわけにはいかなくなる。作品自体の情報、そしてそれが好むに値するということまで伝えようとしていることになるわけだから。もはや批評を否定できない。

たしかに「客観的」であることへの忌避感があるのかもしれない(抑圧的に感じる!)が、だからといって完全に主観に振ってしまうのは不当な二者択一でしょう、と。中間を探そうぜということになる。

というわけで、以下の2つの制約を満たすものとしよう、と定式化できる。

  • 客観制約:鑑賞の合理的な査定可能性を認める(つまり、理由付けや正当化ができる)
  • 主観制約:鑑賞者の好き嫌いになんらかの積極的な役割を認める

もちろんこれは美学の歴史の中でたびたび議論されていた話題で、代表的なものとしてヒューム的説明(理想的鑑賞者が出てくるあれ)がある。おおざっぱにいえば、鑑賞は好き嫌いの問題だが、鑑賞者については有能さが問えるという見解。判断の調停は、その鑑賞者がいかに理想的鑑賞者に近いかでおこなえる。さらにいえば、理想的鑑賞者から広く共同的に好まれている作品はすぐれた作品だとまで言える。エリート主義ですね! もちろんこの立場であれば、批評が十分に機能する。

とはいえこのヒューム的説明には反論もある。まず、なんで理想的鑑賞者のことをわたしが気にかけなくちゃならないの?」というもの。たしかに理想的鑑賞者たちの認める作品には(快楽主義をとるなら)より大きな快楽があると考えるのは合理的であるが、一方で目下楽しんでいる作品を手放す理由を与えるわけではない(酷評の問題だ!)。また、美的に画一な世界を含意するのも問題かもしれない。愛着や個性、多様性を捉えられなくてもほんとうに大丈夫なんですか、と。

まとめ

  • 〈芸術鑑賞は主観的である〉とする主観主義は、極端なバージョンでは芸術をめぐる意見対立や教育をを説明できず、穏当なバージョンでは批評に反対する結論まで持っていけない。
  • ヒューム的説明は、鑑賞の客観的側面を有能な鑑賞者に訴えて担保する。しかし、過大評価なにが悪いのか説明できず、画一的な世界がベストであるという帰結を伴うなどの問題点がある。

3. 鑑賞とは卓越性の測定である

ヒューム的説明がまずかったのは、「基本的には好き嫌いですよ」→「それが客観整理を獲得するにはどうすれば……」という順序で考えたことにあるのではないか。

では逆は……というと、客観的な基準を定めるのがそもそも難しそうに見える。でも、それは「あらゆる芸術作品に共通の基準」を求めていたからではないか。よりローカルな基準、つまり、作品にふさわしいカテゴライズをしたうえで、そのカテゴリごとの基準に照らして評価するのであれば現実的かもしれない。

というわけで、こうしたカテゴリベースの客観性からのアプローチとして、アリストテレス的説明、すなわち鑑賞は特定の目的に照らした測定だとする見解を検討する。目的論的アプローチともいえる。

キャロルはこのアプローチを重視している。この場合、批評は「この作品は、この目的のもと、このように評価できる」という言い方になるわけで、理解のためのガイドはするが、(ヒューム的批評のように)好き嫌いをガイドするわけではない。理想的鑑賞者なる謎概念に頼る必要がないし、画一性への懸念からも逃れられる。酷評にも認知的利得がある(過大評価は誤った信念といえるので)と言えるようになる。

一方で、この説明には主観が介在する余地がない(主観制約を満たさない)。であるなら、主観制約を切り捨ててもよいとするための正当化が必要だ。

現代的にこの立場をとる場合には、美的なものと芸術的なものを区別し、主観制約は美的なものをめぐる制約であり、芸術的なものをめぐる制約ではないとする(なお、この区別をするなら、カント的な、人間の普遍的能力に根ざす=主観性がないという説明もブロックされる)。

とはいえそうなると、じゃあ美的なもの(典型的には快楽と結びつけられる)と区別される「芸術的価値」ってなんなのよということになる。美的価値に直結させられないとすれば、それは当然多元主義的なものになるはず。

これを美的価値や認知的価値、宗教的価値等々に基礎づけられる上位の価値であるととらえる(ステッカーなど)と、「じゃあ特定の価値が芸術的価値の内実としてカウントされるための線引きや重み付けの基準はどこにあるのよ」という話になってしまう。燃やして暖をとれるという実用的価値をカウントしない(しないよねえ)理由を、循環論法に陥らずに説明するのは難しそうだ。

というわけで、「芸術的価値とは、さまざまな観点から見た卓越性を便宜的にまとめ上げたラベルである」とする立場はどうか。「芸術的に良いホラー映画は、ホラー映画であることと不可分な仕方で、ホラー映画として卓越している」。端的に良い(あるいは、包括的な観点から良い)というのではなく、「これは○○であり、その観点から良い」という言い方。もちろんそれが端的に良くても(たとえば美的な価値があっても)かまわないが、それが芸術的価値に繋がるかどうかは観点次第。逆にいえば、美的にも認知的にも宗教的にも実用的にも価値がなくとも、卓越性としての芸術的価値を持つことはある。この場合もちろん、画一化の問題も回避される。

とはいえ……じゃあ、ふさわしい観点(つまりカテゴリー)へのあてはめ、そして観点ごとに列挙しうる評価項目は何に由来するのか(観点選択の問題)。好き勝手に観点を選べるなら評価だってどうにでもなってしまう(悪しき相対主義!)。作者の意図に訴えるだけでは解消できそうにない。これが次章以降の課題となってくる。

コラムの「良いものは良い」というムーア的説明(とくにゴロデイスキーの紹介)については、面白いけどここでは割愛。

まとめ

  • アリストテレス的説明は、鑑賞の客観的側面を作品自体の目的に訴えて担保スルー。芸術鑑賞は卓越性としての芸術的価値を測定する営みとして、批評はそのガイドとして理解される。
  • アリストテレス的説明には、作品をそのもとで鑑賞するべき観点をどう決定すればいいのかという問題(観点選択の問題)が残る。

4. 鑑賞はカテゴライズに依存する

カテゴリーにもとづいた査定自体は、芸術鑑賞でなくともありふれている。とはいえ、カテゴライズの違いがいかにして評価の違いをもたらすかについては、それほど明らかではない。というわけで、芸術鑑賞の観点依存性を論じた古典であるウォルトン「芸術のカテゴリー」(1970)を精読してみよう!

まずは背景。当時支配的だった反文脈主義(ウィムザット&ビアズリー「意図の誤謬」やニュークリティシズム)、つまり、鑑賞にあたって作品外のあれこれに注目すべきではないという立場への反論という位置づけになる。なお、芸術の定義論においても、作品と文脈が取りむすぶ関係的性質に訴える文脈主義が台頭してきた時期である。

続いて内容について。以下、シブリーのいう美的性質、美的知覚、美的判断の概念を前提とする。

まず、芸術のカテゴリーごとに、そのカテゴリーに標準的な性質、カテゴリーに中立的な(可変的な)性質、そのカテゴリーに不適格に写る反標準的な性質があり(これらはいずれも非美的性質であることに注意)、作品を鑑賞するカテゴリーを変えれば非美的特徴への重み付けが変わるとする。そうなると、たとえ同じ対象であっても、あてはめられたカテゴリーいかんで知覚される美的性質が異なってくる。このように、カテゴリーが美的知覚を左右しうるという主張を「心理学的テーゼ」と呼ぶ(もちろん常に左右するというわけではなく、なにがしかの端的な良さを感じることは否定されない)。

このとき、ある作品をどんなカテゴリーのもとで鑑賞してもよいと考えるのはもっともらしくない(われわれはそのような実践をしていない!)。そのもとで鑑賞するのにふさわしいカテゴリー(の集合)、すなわち規範的カテゴリーがありそうだ。これはどのように選ばれるのか。まさに観点選択の問題である。ウォルトンは規範的カテゴリーの決定に関わる要因を4つ挙げている(必要条件や十分条件ではなく、あくまで考慮事項であることに注意)。

  • 適合:そのカテゴリーのもとでの標準的特徴の多さ/反標準的特徴の少なさ
  • 良さ:そのカテゴリーのもとで鑑賞することでより良く経験されるかどうか
  • 意図:制作者がそのカテゴリーにおいて知覚されることを意図していたかどうか
  • 確立:その社会でそのカテゴリーが十分に確立されているかどうか

「意図」や「確立」はたしかに文脈主義的だ1。これらの要因で規範的カテゴリーが成立する(したがってそれにより美的判断の正しさも左右される)という主張を 「規範的テーゼ」と呼ぶ。ウォルトンとしてはさらに、文脈が作品が実際に持つ美的性質さえも左右するという「存在論的テーゼ」にもコミットしているが、本書ではいったん置いておく。

となると、判断の際には文脈的事実に対する「知識」が必要にみえるが、ウォルトンはもうちょっと微妙な立場をとっている。知覚と独立した(命題的)知識が直接的に必要とされるのではなく、知覚能力の「訓練」に基づくとしているのだ。これを「認識論的テーゼ」と呼ぶ。このように最終的には知覚に基づいて判断が下されるとする点で反文脈主義を取り入れているといえる。

さて、ここまでの話はあくまで美的判断に関連してカテゴリーが担うであろう役割のひとつ(美的判断の形成における特定の側面)についてでしかないことに注意しよう。美的判断の形成におけるほかの側面や、美的判断の正当化などの場面でカテゴリーが果たす役割について(何らかの役割を果たしていることはかなりありそうではあるが)、ウォルトンは特に述べていない2

ここで念のため、美的判断はそもそも正当化しうるのかという点についても検討される。たとえば、シブリー自身は美的判断が基礎的な性質から(知覚なしに)推論できることを認めない(非推論性テーゼ)。ただし一方で、知覚的証明のような非推論的な正当化は認めている。もちろん、この非推論性テーゼを弱める(たとえば、遡及的な理由付けを認める)立場や、いや普通に推論できるでしょという立場もある。本書としては特段どの立場にコミットするわけでもない。

結局のところ、これらはあくまで美的判断とその正当化の話に過ぎないわけで、芸術にまつわるそのほかの判断や正当化についてなにかを言っているわけではないのだ。次の目標はこうしたギャップを埋める、つまりカテゴリーが芸術に関する判断や批評においてほかにどのような役割を担っているのかを見ていくことになりそうだ。

まとめ

  • ケンダル・ウォルトンによれば、芸術作品に対する美的判断は、そのもとで作品を鑑賞するカテゴリーによって左右される。また、作品にふさわしいカテゴリーは、文脈的事実を含む一連の考慮事項によって決定される。
  • ウォルトンの関心は、美的判断の知覚的な形成においてカテゴリーが果たす特定の役割に限定されていた。続く章では、芸術批評においてカテゴリーが果たす、より一般的な役割に着目する。

5. カテゴライズは単なる分類ではない

ウォルトンのいう規範的カテゴリー(Nカテゴリー)は、たんなる分類上のカテゴリー(Cカテゴリー)ではないことを主張する章。たとえば、ある作品は、それが「属さない」カテゴリーにおいてこそ適切に鑑賞されるかもしれない。カテゴリーに依存した芸術鑑賞は分類の問題ではないのだ。

(細かい議論はここでは割愛するが)作品がNカテゴリーとならないCカテゴリーに属しうることは飲み込みやすい。たとえば『ゲルニカ』をゲルニカスという(文脈を無視した)カテゴリーに分類したり、1937年に制作された絵画というカテゴリーに分類したりといったことは否定されないが、そのもとで鑑賞するのは正しくないと十分言える。

では、その作品があるカテゴリーに属さないにもかかわらず、そのカテゴリーのもとで鑑賞されるべきケースはあるのだろうか。言い換えれば、CカテゴリーではないNカテゴリーはあるのだろうか。本書の立場は「ある」というもの。

ここで革新的な作品、たとえばケージの4分33秒のような作品について考えてみる。こうした革新的な作品は旧来のカテゴリー(古典音楽)には分類されえず、それに合う新たなカテゴリー(コンセプチュアルアート)に分類されるべきものだろう。しかし、そのように適切なカテゴリーに照らして鑑賞すると、その作品はまったく奇妙でなくなってしまう。「奇妙さ」のような美的性質は、その作品が旧来のカテゴリー(古典音楽)に対して反標準的な性質を持ち、そのカテゴリーのもとで見ることではじめて現れるものだからだ。Nカテゴリーは必ずCカテゴリーの一部分であるという立場を取るなら、革新的な作品を奇妙であるといえなくなってしまいそうである。うれしくない状況だ。

これを避けるためには、その作品が属さないカテゴリーのもとでの鑑賞が適切でありうることを認めればよい。4分33秒はまったく古典音楽ではない(古典音楽というCカテゴリーに属さない)が、古典音楽というカテゴリーのもとで鑑賞するのが適切である(Nカテゴリーは古典音楽である)、みたいに3。ウォルトンもそのように意図していたと思われる。

これはけっきょく、認知主義からの決別を含意する。Nカテゴリーへの振り分け(の表明ないし提案)は多かれ少なかれ創造的な試みであり、(Cカテゴリーのように)世界の側で決まっているわけではないことを示唆しているからだ。それが非芸術実践にはない、芸術実践ならではの特徴でもある。(この点でアリストテレス的説明からも決別した、ということでいいのかな)

まとめ

  • 作品をそのもとで鑑賞するのにふさわしい規範的カテゴリーは、一部の論者に反し、作品が属する分類的カテゴリーとはなんの関係もない。前者を後者の部分とみなすと、革新的な作品の奇妙さをめぐってジレンマに陥る。
  • 一般的な教訓として、芸術作品を鑑賞するにふさわしい観点を探すことと、それを正しく分類することは、別々の事業である。

6. ジャンルとは鑑賞のルールである

では、ここまで扱ってきた「カテゴリー」とはなんなのか。カテゴリーにもいろいろある。ジャンルとしてのホラー、様式としてのバロック、形式としての俳句、メディウムとしての絵画……。本書でこれまでみてきたような規範的カテゴリーについていえば、それは「ジャンル」として理解するのがもっともしっくりきそうである。そしてこの「ジャンル」とは、鑑賞のやり方を統制するルールの集まりである。……というあたりを本章を通じてみていく。

まず、ジャンルは単なる分類ではないことを確認する。ジャンルこそここまでみてきた規範的カテゴリーなのだから、そのような立場になるのは当然やね。

ジャンルを単なる分類概念だとするとどんな不都合が帰結してしまうのか。

単なる分類概念としてジャンルを理解した場合、ジャンル分けとはそのジャンルに標準的な特徴を追跡して分類するようなおこないということになる。このこと自体は「メディウム」のような他のメタカテゴリーと同様ではある。

ではこのとき、ジャンルというメタカテゴリーは、メディウムや様式、形式といったほかのメタカテゴリーとどう異なるのか。形式は非美的性質、様式は美的性質……というように、作品の持つ性質の種類に対応すると言いたくなるかもしれない。ということは、ジャンルは……表象的性質(何を描いているか)や情動喚起の機能あたりに依存しているとか?……いや、それは言えなさそうだ。音楽のジャンルなどに顕著だが、これらの性質、および文脈的性質や美的性質、非美的性質などにまたがって判断されているのが実際だろう。ジャンルというカテゴリーを特徴づける特徴のタイプといったものはない。

それにそもそも、単なる分類はあくまで記述的なものであり、ジャンルが持つ規範的な効力(怖いホラーは良いものだが、怖い子守唄は良くないものだ)をそれだけでは説明できない。

どうもあまり魅力的ではないわね。

ということで、この規範的な効力、つまり鑑賞や批評のありかたを左右する力というものに着目してみよう。いったいなにを左右するのか。まず、評価を左右するかもしれない(ロペスの美的プロファイルの理論はまさにそういう話ををしてる。『なぜ美を気にかけるのか』も参照)。さらに、解釈も統制していそうだ(たとえば、ミュージカルで突然歌いだしても誰も困惑しない。エイベルのフィクション理解の理論はこのへん)。これらを含め、作品の持つ基礎的性質にたいしてどのような鑑賞的反応を返すべきかという一連のルールを定めているものこそがジャンルである、と。ここでの正当化の関係は、必ずしも批評における理由づけそのものではない(あくまで背景である)ことに注意……なのだが、このへんはなんかややこしくて正直よくわかってないかも。

ともあれ、「その作品がある性質を持つなら、その作品はあるカテゴリーに属する」というのが構成的ルール(制度的地位を与えるルール)なら、このように「ある作品がある性質を持つなら、その作品に対してある鑑賞的反応をせよ」は統制的ルール(ふさわしい反応や行為を定めるルール)であるといえる。様式や形式は一義的には前者(後者を含意することは否定されない)である一方、ジャンルは基本的に後者である。

この立場を取ると、ウォルトンのいう美的判断の形成における特定の側面だけでなく、その判断の正当化や、あるいは比較においてカテゴリーが関与するケース、目的論的にカテゴリーが関与するケースなども統一的に説明できる(ややこしかったのであんまりきちんとまとめてないが、4.4節を参照)。ルールの入出力の範囲や、その暗黙性についてはここでは割愛。

じゃあ、どんなルールの束もジャンルとして機能するかといえば、もちろんそんなことはない。ここもややこしいので細かいところは割愛するが……社会集団の信念やふるまいによって確立されている必要がある。個々人の鑑賞におけるフレーミング(この時点では必ずしも確立したジャンルである必要はない)や批評を通じたその表明・提案が積み重なった結果として基盤として確立する感じ。

さて、そういった実践があるとして、じゃあなんでそれを(様式や形式などではなく)「ジャンル」というメタカテゴリーと結びつけるべきなのか。……ここはまあいいか。たしかに他のメタカテゴリーよりは、ここまで見てきたような特徴を有したものとして使われている感は、まあまあある4

本章の最後に述べられている、構成的規則の統制的規則への還元(本書でいえば分類ルールの鑑賞ルールへの還元)の話はおもろい。グァラ『制度とは何か』とかあのへんの話(そういえば積んでるんだよな……)。「もし△△ならば、それを××とみなす」ようなルール(構成的ルール)が実効的になるためには、「もし××という地位にあるならば、○○する/してよい/しなければならない」という、地位と権利や義務を結びつけるようなルールが付随している必要がある(みなすだけではなんにもならないのだから!)。このように2つのルールに分解してみると「××とみなす」(制度的用語)は実質的になくてもよく、統制的ルール「もし△△ならば、○○する/してよい/しなければならない」に(原理的には)還元できるじゃん、と5

コラム1は、ジャンルとは(個別者としての)伝統であるというエヴニンの説の紹介。ぱっとみよりややこしいな!ここでは割愛。コラム2はジャンルとしてのカラー写真ということで、鑑賞ルールの束が確立するまでのケーススタディである。

まとめ

  • 芸術ジャンルとは鑑賞的反応を統制するルールの束であり、一連の批評的理由づけを可能にする背景として機能する。ルールとしてのジャンルは、対応する共同体における人々の集団的信念やふるまいを通してセットアップされている。
  • 個々の鑑賞者は特定のルールを表示し、それに従うことを表明・提案することができる(フレーミング)。

7. ふさわしいジャンルとは制度である

で、観点選択の問題はどうなったのよと。分類としてのカテゴリーからも独立しているのだとしたら、余計にややこしいことになりそうだ。

素朴な立場として、作者の意図によって決定されるとする考えがありうる。ウォルトンも(それが決定的とはしていないが)意図を観点選択の基準の一つとして数えていた。そして多くの論者は、考慮事項の中でも意図を相対的に重視している(キャロルもこの立場)。意味論的意図に関する反意図主義者でさえカテゴリー的意図は認めたりするのだ(意味論的な反意図主義をとろうとも、なんらかのリミッターがほしいというモチベーションがありそう)。

とはいえ意図主義には問題がある。

まず、意図をジャンル決定のための十分条件とするのはいくらなんでも作者に寛容すぎるだろう。意図しさえすれば自由に評価を左右できてしまう。じゃあ必要条件の一つであるとするとしても、それでも鑑賞者に対して制限がキツすぎる。作者が意図しえないジャンルで鑑賞したり(カフカを実存主義的に読むとか)、作者が公然と否認したジャンルで鑑賞したり(ロスコを形式主義的絵画として鑑賞するとか)といった実践はあまりにありふれているのに、これが不可能になってしまう。また、認知主義(無時間的に定まった正解がある!)にコミットしてしまうのもあまり魅力的とは言えない。

芸術作品は人工物なのだから作者の意図を尊重せよという話もあるかもしれないが、それはあくまで道徳的な理由である。そもそも作者の意図を超えたフレーミングを試みることが誠実でないというのも論点先取だろう。

本書がとるのは、制度的に決定されるという立場。ここでポイントとなるのは、ウォルトンが挙げた考慮要素のうちの「良さ」の基準である。この基準はぱっとみきわめて主観的に見えるが、実はそうでもない。「わたしにとって良い」と考えるのではなく、「わたしたちにとって良い」ことと捉えるのだ。いかにもある制度が確立しているようすに繋がりそうですね。

というわけで、ゲーム理論の初歩を抑えつつ、グァラが示した「制度は均衡したルールである」という話が詳細に紹介される。「特定の協調問題を解決するものとして、特定のルールに従うという戦略が均衡に至っているとき、対応する共同体にはひとつの制度がセットアップされていると言える」。

そしてこれはジャンルにも言えるのではないか。観点選択は協調ゲームなのだ! ここでの目的は鑑賞の最適化である。その上で、自分にとってよりおもしろく鑑賞したい(個人的な価値)と考えると同時に、他人とそれを共有したい(共同体的な価値)とも考えている、と。

作品が発表された時点ではそれにふさわしいジャンルは未決定であり(もちろんここで作者が関与し得ることは否定されない。あくまでいちプレイヤーではあるが、フォーカルポイントを示しやすいのは間違いない)、ある程度のトライアンドエラーを経て確立していくわけだ。保守的な作品なら特段揉めないだろうし、革新的な作品なら時間がかかるかもしれない。そして、「自動車は左車線を走る」というルールが偶然的であるのとおなじいみで、決定されたジャンルも偶然的であるといえる。もちろん偶然的だからといって拘束力を持たないわけではないのも制度一般と同じ。みんながそうするなら、よっぽどのことがない限りそうしたほうがいいのである。

そしてもちろん、制度一般と同様に改定だってありうる。より良い戦略(ジャンル)に気づいていないかもしれないし、気づいていても移行コストがペイしないのかもしれない。が、ともかくそれだけの話である。あくまでその時点で暫定的にふさわしいに過ぎない。

というわけで、制度主義はなかなか良さそうだ。あとは、主観制約と客観制約を満たしているかをチェックしておく。制度主義における作品評価は、アリストテレス的説明のようにふさわしい観点から卓越性を測定する試みである(この意味で客観的である)が、その観点選択はもとをたどれば鑑賞者たちの好き嫌いに帰着する(その意味で主観性が役割を果たしている)。いいですね!

コラムでは、筆者自身がヴェイパーウェイヴ批評に関わった経験が述べられている。

まとめ

  • ふさわしいジャンルについての意図主義は、十分条件としては過度にかんようであり、必要条件とひては過度に制限的である。また、認知主義にコミットしていることから、鑑賞や批評の創造的な側面を捉えられない。
  • ふさわしいジャンルは制度(均衡したルール)として決定されるりこのようなジャンルに従って作品を鑑賞することは、鑑賞の最適化という課題に照らして利益的である。しかし、ふさわしいジャンルの「ふさわしさ」は保有質的に偶然の産物であり、改定の可能性に開かれている。

8. 批評の意義は判断の柔軟性を養うことにある

実質的な本論は前章で終わり。最後にちょっとウェットな話だ!ここまでの議論が批評実践においてなにを含意するのかを示す章でもある。

批評がガイドであるとはいっても、「正しい鑑賞に導く」という意味での(モデルルートの案内のような)ガイドなわけではない。読者に必ずしも馴染みがないかもしれない受け取り方を提示することである種の柔軟性を養うようなガイドである。

……というのを論じるために、ここでグエンの『Games: Agency as Art』が引き合いに出される。んでその上で、グエン自身初別の論文で、芸術鑑賞をゲームプレイになぞらえている(エッセンスとしては ティ・グエン「芸術はゲームだ」 - #EBF6F7 の話だ)。芸術鑑賞はある種の奮闘プレイなんだよという描像6

本書の立場からいっても大雑把にはこの立場を支持するものであるが、いくつかの反論もある。まず、芸術鑑賞をひとつのゲームになぞらえることには反対する。さまざまなゲームプレイになぞらえるべきは、さまざまなジャンルのもとでの鑑賞である(つまり、芸術作品およびそれに対する特定の鑑賞ルールの束のセットが個々のゲーム作品ということになりそうだ)。また、正しく評価・解釈することを芸術鑑賞の実践的目標とするという見方にも疑問がある。ルール逸脱的な側面も十分にあるといういみで、シカール(『プレイ・マターズ』)の立場に近い7

ともあれ、こうした若干の異同はあれど、ゲームプレイにおいてさまざまな(そして現実と比べてシンプルで、固定的で、安全な)エージェンシーを引き受けることで柔軟性が養われるという価値があるように、芸術鑑賞にも判断の柔軟性を養うという価値があるといってよさそうだ。そしてこの見方では、批評はゲームデザインになぞらえられる(作者自身がしばしばその作品に対する最初の批評家であることに留意せよ)。保守的であれ革新的であれ、さまざまな批評を生み出したり、さまざまな批評に触れたりすることの意義はこのへんにあるよと。

まとめ

  • ゲームプレイがエージェンシーの柔軟性を養うように、芸術鑑賞は判断の柔軟性を養う。
  • 芸術批評を書いたり読んだりすることは、さらにラディカルな仕方で判断の柔軟性を養う。ここに批評実践の意義がある。

  1. 「良さ」は価値最大化説に直結するという意味で論争的だからか、これ以降あまり大きく取り上げられない……と思ってたら第7章でバーンって出てくるやんけ!
  2. 以降の4.4節は「〜を拡張する」とは言ってるけど、ウォルトンの議論の射程を適切に限定することでどこを拡張する必要があるのかの方向性を説明するのがメインぽいな。拡張の内容自体にはあまり強い正当化を行っていないようにみえる。たぶん実際には第6章がその役割を担ってるはず。
  3. ただどうなんだろうな、古典音楽として鑑賞したときに奇妙さは現れるだろうけど、総合的な卓越性は低そうである。というかだから新しいカテゴリーが要請されるわけで、そのへんの喚起性?みたいなのを芸術作品の評価に組み込めるのか……って、それこそ「前衛芸術」みたいなのがそういうカテゴリーか。「旧来のカテゴリーのもとで鑑賞するふりをすることによって奇妙さを見出すことを要求するカテゴリー」みたいな。結論には同意するが、ここの部分単体では例証がうまくいっているのかよくわからない。
  4. 正直言うとこれを「ジャンル」と呼ぶことに個人的には抵抗があるのだが(やっぱ分類のためのメタカテゴリーとしても使いたいじゃんよ)、既存のメタカテゴリーのなかではたしかにこれが一番近いよなー。……とはいえ、このあたりは本書の本論にとって比較的些末な問題ではある(「しばしばジャンルというメタカテゴリーのもとに位置づけられる鑑賞ルールの束」とかでいいわけだし)。
  5. そもそも積んでるのでアレなのだが、ほんとに還元しきれるのかについてはやや論争的なのかもしれない:倉田剛「社会存在論の「統一理論」について:その意義と問題点」
  6. よく考えてみたら、グエンのこの本が日本語の書籍で紹介されるのはこれが初めてなんじゃないか。『クリティカル・ワード ゲームスタディーズ』では特段触れられてなかったし。捜査が「わたし」をつくりかえる:Disco Elysiumにおけるプレイスタイルとナラティブ|遊星歯車機関を書いたときにこれが出ていればこっち参照させてもらっただろうに……!
  7. グエンは逸脱的プレイのあることを特段否定しておらず、その場合は別個の作品のプレイといえるよみたいな立場な気はする(このへんの話やね Game Studies - The right way to play a game)。もちろん本書の立場としては同じ作品の別の(鑑賞ルールに従った)プレイであるということになるわけだが。

はてなダイアリーの先輩について

それなりに擦れてきたつもりではいたけれど、はてなダイアリー時代からの付き合いがあり、いまだに年に数度はやりとりのあった同年代の友人の訃報となると、さすがにこたえるものがある。id:Geheimagentの話です。いまどきIDコールという時代でもないけれど、今回ばかりはそうせざるを得ない。

フミコさんが彼について書いているのを読んで、自分も別の視点からいくらか書いておきたくなったんですよ。自分にとってはちょうどよい「先輩」だったって話を。

delete-all.hatenablog.com

はじめて知ったのは2007年か2008年ごろ。実際に会ったのは、自分が上京した2009年のことだったはず。同人誌を出すからと誘ってもらい、小説らしきものをはじめて書いたのもその流れ。おかげで長く続く趣味になりました。

それ以前の自分にとって、インターネットといえばどこか遠くの個人サイトを眺めて私淑(というと大袈裟だけど)する場だった。それが学生時代にはてなダイアリーやらTwitterやらをはじめてみると、もうすこし近しい付き合いというものができる場に変わっていくことに。それなりに大きな変化であって、彼もそんな時期に知り合ったうちのひとりだった。

ダイアリーを読んでいればおおよそ同世代であることはすぐにわかったけれど、とにかくいろいろ本を読んでるなという印象がなにより強く、最初は件の「私淑」の延長のような気持ちもあった。一方で、実際に会ってみるとめちゃくちゃである(ほんまにめちゃくちゃや)。そしてそのわりに手堅くライフステージを進める人でもあると知ったのは、それからもっと経ってのことだ。

それこそフミコさんを含めた──いまどきだと「界隈」って言うのだろうか──そういう人たちのなかで、彼はいくぶん若いほうだった(もちろん他のコミュニティにも属していただろうが、それは知らない)。さらに自分はといえば、そこからもう一、二歩後ろを歩く最後発。なにかしらの意味でおもろいことを書く人たちがいて、自分はその周辺にくっついている。別のコミュニティでは別の顔もあったけれど、ここでの自分はあくまで「後輩」であり、したがって彼はもっとも歳の近い「先輩」という立ち位置だったわけだ。

それから何年も経ち、ダイアリーやらブログやらでやりとりするような時代はとっくの昔、なにかをいっしょに作ることもなくなって、それぞれの興味の方向が逸れていくにつれ、やり取りの頻度はたしかに下がった……とはいえ。

だから、そう、「先輩」の話です。先輩というものは得難い存在であって、齢を重ねるとなおさらだ。ロールモデルとも少し違う。自分に足りない部分について、ちょっとだけ先を行っている──本当のところ「ちょっとだけ」なんてのはうぬぼれが過ぎるわけだけど──もうすこし頑張れば追いつけそうな、気がする。時々のしょうもないやり取りがあるからこそ、そう思わせてくれる他人の存在は、文字通りありがたいものです。切磋琢磨ですらない。こちらから何かを与えたわけではなく、ただ「先輩と後輩」という関係性自体がある種の返礼になっていたのだと思いたい。

少なくとも自分はそんなつもりでいて、(順接でつながりはしないはずなのだけど)だからこそ、やり取りの頻度が下がったって気にしなかったのかもしれない。そこにいれば、あるいはそこにいた痕跡があったれば、それで学んでいけるし、なんらかさらに先へと引き渡していける(いけるだろうか……)関係の連鎖の中にいるような──ってのは、美化しすぎだろうか。

もっと声をかけておけばよかったというのは簡単だ。それこそ(冒頭で明示したとおり)対等な友人という側面だってあり、その点ではやっておきたかったこと、やるべきであったことなんていくらでもある。とはいえそれでも、自分にとっては「先輩」という位置づけが第一義であった以上、彼がそこにいたという事実だけで十二分だったのかもしれない。

こういうときに結局自分語りばかりになるのは良くないことです。とはいえ、自分がそんな人間でもなけりゃ、そもそも付き合いだってなかっただろうなと思えば、良し悪しではある。

ロールプレイについてしつこくも

ポケモンレジェンズゼットエー(デウロがかわいい)(メガシャンデラが好き)をやっているさなかではありますが、遊星歯車機関のnoteに「捜査が『わたし』をつくりかえる:Disco Elysiumにおけるプレイスタイルとナラティブ」という記事を書きました。

note.com

そもそも、以前(もう3年前!)Disco Elysiumの感想で以下のように書いてたんですよね。

(少なくともCRPGにおける)「ロールプレイ」において、キャラメイクのときにおおざっぱな特徴は考えてもその後の内容がわからないために細部までは確定させられず、プレイの進行とともに選んだ選択肢やステータスの強化を再帰的に適用しながらキャラクターを固めていく、といった流れは一般的なのですが、それでも「ロールプレイ」ができる/できないに一定の解を与えてストレスを感じさせないようにするのがふつうのビデオゲームであるところに、本作はむしろ積極的にコンフリクトを起こそうとしている点でやや特異ではないか、と感じました。

あるいは以下。

この「ロールプレイ」との摩擦から、(けっこうクリシェ的ではあれ)「投げ出された『世界』のなかで、型どおりに演じきることのできない自己を生き始める」みたいなテーマを見出すことはできるのかな[……]言い換えれば、「ほら、演じてみろよ」と誘導しておいて、いざやってみたら、「ほれみいでけへんやろ」と言い渡されるビデオゲームであるということ。

このあたりについて突き詰め切れずにいたところを、美的な感覚をともなったプレイのしかた(プレイスタイル)という概念を頼りに掘り下げてみた、といった記事になっています。ロールプレイって、そのようなキャラのストーリーを見たいからそうするとかじゃなくて、そのようなキャラとして行動し(しようとし)、それがうまくいったりいかなかったりする過程にこそおもしろさがあるんだってのを、どうにか言葉にしたかったというのはある。ただ、(記事内ではがんばって正当化しようとはしているものの)記事で引いてるKalmanlehtoのいう「プレイスタイル」概念がこれにうまく当てはまるかは正直言って若干怪しくもあるんですよね。身体的な感覚をメインのターゲットにしており、かつ動機としてのロールプレイを明確に除外している点から言って、少なくとももともと意図されている範疇ではない。とはいえ遡ってNguyenの議論とかを考慮するかぎり、めちゃくちゃおかしな話でもない、はずです。だといいな。

で、ゆえあって原稿を書き上げてから1ヶ月ほど経っての公開となったのですが、その間に「これ、実存主義の話だな……」という気持ちが芽生え、そのあたりをいろいろ探してみたりもしました。書いてるときは全然頭に浮かばなかったんですよね。今思えばKalmanlehto自身そのへん若干触れてたりするので、不注意なだけかもしれないのですが……たとえばVella & Gualeni(2019)「Virtual Subjectivity」あたりを読み、(DEの話なんてまったくしていないのに)「これディスコエリジウムの話やんけ!」となったのでした。そもそもDisco Elysiumじたい実存主義っぽい文脈で論じられていることも多いようで(「disco elysium existentialism」とかでググろう!)、それこそVellaもDEの話ししてたりする。とはいえどのみち、特段詳しくないこともあり特段記事に反映させたりはしなかった(できなかった)のでもありますが1

あと、「それがディスコやで」とそれっぽく締めた上で、「プレイスタイルの美学をめぐって」みたいな補註を入れ、プロセスの美学やらなんやらについて生兵法を開陳しております。本文がKalmanlehto一本槍で大丈夫かってなりそうだったのもあるのですが(せっかく日本語話者なのだから、プレイスタイルに関して上野さんも紹介しておくべきだろうし)、近年の自分のテーマとして「みんなもこういうの読んでみて一緒に考えてほしいぜ、おもろいから」というのがあり、そういう人に伝わるといいなという素直な気持ちで書きました! なお、最近はこういうプレイ体験みたいな動的な側面について考えることが増えていたものの、やっぱ書くの難しいなということで、次に機会があればもう少しスタティックな側面について考えたいぜという気持ちもあります(あと、RPGじゃないゲームにしたいな)。

とかなんとか、DEの話ばかりしてしまったけれど、同時に紹介しているSignalisもいいゲームなのでぜひやってください。仁瓶勉みたいな世界観で高身長女性型アンドロイドが百合をする。


  1. 前回書いた非同期オンラインの記事でも幽霊(デリダじゃん!)とか行為の客体化(リクールじゃん!)みたいなことを言ってるわりに特段名前を出してどうこうできるものでもないしな……というのがあったんや。