紙魚をかかぐる人々

いろいろあって(というのは、ひとつには今日の本題にも関係して、であるのだけれど)過日しばらく、徳永直『光をかかぐる人々』を読んでいました。青空文庫にあるものはいうなれば「前編」で、「中編」にあたる雑誌『世界文化』連載分も青空文庫の当該作品を入力された内田氏が公開しています。そして「後編」は未発見原稿のままなのだといいます。それを読んでいました。

書誌的な情報はともかく、内容としてはおおむね、日本における活版印刷の誕生をひもとく、しかもそのための著者の奮闘込みで……といったもの。「前編」では日本の活版印刷の先駆者として知られる本木昌造の足跡を追うのですが、話題があっちにいったりこっちにいったり、どうも迷いながら進んでいる様子もあり、それこそ素直に進みません(これは駄洒落です。人の名前で洒落を言うのはやめましょう)。前編のうちとくに後半などは、通詞(本木の生業、いわゆる通訳)からみた開国史といった内容で、活字の話は出てくるけれど、そうでない記述や直自身の述懐などのほうがよほど多い。また、それに続く「中編」の前半では、もう一人の先駆者である木村嘉平の業績を探りに(終わったばかりの戦争というものを振り返りながら)薩摩へ、あるいは彼の子孫を訪ねます。そして後半では日本に近代的な活版印刷/活字鋳造の技術を伝えた外国人の足跡をあきらかにしようと、阿片戦争前後の上海周辺での中国語活字や日本語活字の様子を知るために、慣れない英語を読みとこうと四苦八苦するさまが描かれます。

要はいずれも調査報告半分にエッセイ半分といったスタイルで、それなりにおもしろくはあるのですが、奇妙な読み物であることは間違いありません(直自身は「小説」としているけど、いやこれは……いわゆる小説ではないでしょ……。いやでも、私小説とかからの文脈でいうとこれもそうなのか……?)。漢字の文字数の多さそして複雑さにより活字の製造が難しく、電胎法(ググってくれ)の発明と伝播を待たねば実用化できなかったという事情、そしてそれをとりまく社会すなわち当時の鎖国-開国や海外情勢などなどから解き明かさねば活字史は理解できない、だからこのような散漫な構成となったという直の言い訳は、言い訳とはいえ読んでみればしごく当然のことと思えはします。もちろん個々の話だって(直自身の印刷工としての経験との絡みもあって)興味深く読めるんです。ただそれでも、繰り返すけれど、奇妙な読み物ではある。

……で、なぜいきなりそんな『光をかかぐる人々』に触れたかといえば、とりあえずよさそうな用語を知らないから(知らないだけでありそうなんだけど)勝手に造語するんですけど、「直列化の欲望」みたいなものの話をしたいがためです。


みなさん、本読んでますか? 読んでる? 本は読んどけ! いや読まなくてもいいんですけど、読んでる人はお手元にある(かもしれない)本を開いてみてください。それ、文字が一次元に並んでいるタイプの本ですか? あるいはそうじゃない? どっちの場合もありうるでしょう。小説とかビジネス書とかだと一次元に並んでることがほとんどのはず。辞書は……これもまあ一次元でいい気がする。漫画は違いますね。レシピ本や地図もたぶん違うかな。とかとか。さっき「直列化」と言ったのは、このうち前者寄り、「(文のレベルを大きくこえて、おおむね冒頭から末尾まで)文字を一次元に並ばせる」ということだと思っておいてください。そしてきっと、ことばが主体の本になればなるほど「直列化」されているんじゃないでしょうか。たぶん。

そもそも、本、そして新聞などなどの印刷物というのは、ご存じのとおりたいへん便利なものです。情報の伝達や共有、それにもとづいた知識のコミュニティの形成などなどのために大きな役割を果たしてきました。メディア論みたいな話ができるなにものも持っていないため一般的な話しかできませんが、活字というものを生みだし、その鋳造から文選、植字、印刷、製本、さらには流通までを工業化することは、文明の発展(デカいことばだな)になくてはならない要素であったはずです。その工業化の過程こそが『光をかかぐる人々』のテーマなわけです。そして、そのおかげであなたの手元に本があったりなかったりする。なかったら関係ない感じになるかもだけど、まあ広い意味では手元にあるでしょ!

さて、工業化とは同時に規格化でもあります。ある程度の型にはめるからこそ部品やらが交換可能になるとか、まあなんかいいことがいろいろあって、大量生産が可能になるわけです。そして、ことばを主な伝達手段にする媒体を規格化しようとなったとき、「文字は原則として一次元に並ぶものだよ」という前提を置くことは、言語のもつ線状性からいって自然なことであったはずです。要は、送り手のコストを下げんがために「直列化」するようなある種の圧力があったであろう、と。

一方、直列化されていることは、情報の受け手にとってもうれしい話です。たいていの場合理解しやすくなる(これは後述するとおり一概に言えないんだけど)というのはもちろんですが、文字を追っているだけで「最初から最後まで読んだ」気になれることも、実はけっこう大きなことなんじゃなかろうか。もちろん、送り手のコストが下がりより安価に情報を得られるようになったことこそ、なににもまさるメリットでしょう。

さらに、こうしてブログなど書いていると痛感することではありますが、考えていることを直列化する過程で、思考が整理されるという効能だってあります。ぼくみたいにいきなり文章を書きはじめるという素人じみた方法をとらずともも、たとえば論文作法に沿うような、直列な型にはめようとする過程は、受け手だけでなく、送り手にもおおきなメリットをもたらしてきたはずです。ある意味ではこれ、送り手がそのまま受け手としても作用しているからかもしれませんね。

というわけで、直列化、めちゃくちゃ大事なんですよ。これまでずっと大事だったし、おそらくこれからも重要でありつづけるはずです。ここまでの話で「コイツ直列化を否定したいのかな」と思うかもしれませんが、そうじゃないんです。大事なんですよ。というか、それこそ『光をかかぐる人々』を読んで、日本語の活字をつくるまでの苦労を知ったうえで、そんなこと言えるわけがないじゃないですか。フランクリンが印刷屋じゃなかったら世界は変わっていたかもしれへんねんで。だいたいな、直列化されたことばから複数の線……線? ポリフォニー……はそれではないか。なんここうそういうのだよ! そういうのをみせてくれるさまとか、あるいは見事な構成の実用書とかだってそう、そういうものほどおもしろいものは、ぼくにとってはほかにそうそうないんだし……それは経験と知識に裏打ちされた技術であり、ときにはそれ以上のものだったりするんです(いや、ここで「以上」という優劣をあらわす言葉を使うのははっきり間違っているのだけど)。

ただ、でもね。必ずしも直列化しなければならないなんてことはないじゃない。それ以外の方法で伝えられるならそうしたほうが、送り手として楽なことはじゅうぶんにありますし、受け手だって、いったん直列化されたものを経ることで逆に理解しづらくなってしまうことだってあるでしょう。たとえば、ずっと直列に書かれたレシピ本をめちゃ頑張って作ったとして、たんに使いづらいことのほうが多そうじゃないですか? わかるわからないだけじゃない。おもしろさだってそうです。ぼくは上のほうで『光をかかぐる人々』を「奇妙な読み物」呼ばわりしたわけですが、もしかしてこれ、直列化しなければもっと広くいろんな人におもしろく思われるものになってたっておかしくないんじゃないかと、そういうスタイルで書かれるべきものだったんじゃないかと、正直感じてしまったんです。いやなんだろう、これはこれでもちろんおもしろいんだけど、なんか違う方法のほうがよりおもしろくなるのではないか? 活字についての本であるにもかかわらず、それこそが規格化に向かなかった一例でさえあったんじゃないだろうか?

まあわからんのだけど。

わからんのだけど、ただ、今は、Web技術があり、DTP技術がある現代は、活版印刷の時代よりもずっと直列化の欲望から自由になれる時代であることは間違いありません。だのに、たとえばこのブログだって、こうして直列に書くことを前提とされている。それはそう。そのほうが実装は楽だもの。直列であるものをつくることはそれより一層容易になっているのだもの。そのほうがより長い伝統に属する「型」にはめられるのだもの。HTMLだってインデザだってそうなってる。ただ、それ以外の方法だって、もっと気軽に試されていいはずなんです。試せる環境になっている。たとえば直列化の権化みたいな散文、小説だって、たとえば図や箇条書きで書かれたところでなんの問題もないはずなんです。いや知ってるけど、そういうものはたしかに相当数はあることは知っているのだけど(たとえばこのブログだと過去に『紙の民』の感想を書いたりしています)、でもそれらが未だ実験的と呼ばれるのであれば……そんなさあ……オタクくん……そりゃ「今」はそうかもしれないけれどさあ……それをしつこくやっていく人間がいれば、きっとあたりまえになり、その技術も積み重なっていくはずなんです。そしてぼくは、あたりまえになり、積み重なっていってほしい。たかが直列化の軛を逃れるくらい、なんでもないことじゃありませんか?


そこでようやく今回の本題に入るのですが、今回も告知です。告知でしか更新してねえなお前。「リフロー型電子書籍にすることが絶対にできない小説」という縛りのもとで集まった6作を載せた合同誌『紙魚はまだ死なない』に参加させていただきました。今回もありがとう笹帽子さん。以下が告知サイトだ。

https://sasaboushi.net/silverfish/

実は5月の文フリ東京に出すという話だったんですが、昨今の状況により中止となったため、現在通販にて取り扱い中です。

https://sasaboushi.booth.pm/items/1949940

「なぜリフロー不可能なのか」については6作ともに異なっており、上掲告知サイトのサンプルにて各作の冒頭見開きを見られるので、まずはそちらを参照していただきつつ、主宰笹帽子さんによる下記のエントリの紹介もぜひどうぞ。

https://www.sasaboushi.net/blog/2020/04/24/1610/

で、サンプルと紹介文である程度はおわかりいただけると思うんですが、単純に一次元に文字が並ぶだけじゃない小説、小説か? いや小説だろ、小説が、こうして集まっています。リフロー型の電子書籍というのは、直列化の圧力をかける新たな規格化です。EPUBありがたいよね、どんなデバイスでも不自由なく読めるし、プリントディスアビリティにもよりやさしい。HTML/CSSが「本」のほうに近付いてくれた結果がこれだ。ぼくもいまどきレイアウト固定の電子書籍を読む気にはなれません、ありがたいよね。ありがたいんだけど、さっきから言っているとおり、直列化以外のプレゼンテーションのほうが適している、おもしろい、あるいは、それ以外でなければならない場合ってのはやっぱりある。『紙魚はまだ死なない』に載っているのは、たしかにそういうものなんです。

正直申し上げましてサンプルで見られるものだけで値踏みするのは早計で、実際読み進めてみると各作ともにさらなる意匠が待ち受けており、本来ならそれらも含めて「ほら実際こうやぞ、みんなもやろうや」と言いたいところなんですけど、プレゼンテーションと内容がわりと密に結び付いているせいでやりづらいんだけど、とりあえず自分のものについてだけ言っちゃおうかな、自作解説……しちゃおっかな……。

今回は2行でワンセット(意味がわからない向きはサンプルを見てくれ)ということでやってみました。一昨年のね群に出したやつは2段並行だったし、昨年のね群に出したやつは箇条書きだったので、それの延長です。文字数をあわせて、ときにひとつの行にあわさって、また離れて、裏返ってズレて、そういうのをやりたかったからやったんです。だけど、自分としては特別なことをやっているつもりはないんです……と強がらせてもらえないでしょうか。こういうことをするのが普通であってほしいからやっているのであって。だからやってくださいよ。リフロー万能派のベゾスに一泡ふかせてやりましょうよ。ぼくたちにはそれができるんだから。InDesignを手にとって(Adobe税に苦しみながら)、なんかおれはようしらんが、Webデザインツールみたいなのを手にとって、テーブルの上で踊っていきましょうよ。巻き起こしていきましょうよ、きっとうまくいきます。ぼくには分かってる、自分がそこにいるんだから。

でもさ、たぶんみんなこんなしょうもない理由で参加しているわけでもないんじゃない?

心射方位図の赤道で待ってる - ねじれ双角錐群

今日はあなたに直接的なメッセージを届けようと思います。文学フリマ出展の告知です。告知と聞いてタブを閉じようとしたそこのお前! お前に言ってるんだよ! 3分だけ読め! 3分のうち以下の告知ページをざっと眺めるために1分30秒を費やせ!

https://nejiresoukakusuigun-kamimachi.tumblr.com/

費やしてくださってありがとうございます。残り1分30秒ですね。表紙かっこいいよな。あと1分25秒くらいでしょうか。主宰いつもありがとう。1分20秒。本書のテーマは「神待ち」です。「神待ち」と聞いていかがわしい想像をしたあなた、正解です。「神待ち」と聞いて、ベケットを思い浮かべたあなた、あなたも正解です。まだ1分あるかな。みなさんが「神待ち」と聞いて思い浮かべたもの、すべて正解です。思い浮かばなかった人、なんで思い付かなかったか、明日まで考えといてください。そしたらなにかが見えてくるはずです。なぜなら、「神待ち」という3文字がSFに出会い、起こることのすべてがここに射影されているからです。極を接点とした心射方位図において、赤道は無限遠をとりまいています。あと40秒で以下の全作紹介を読んでください。一作品あたり5秒で読めば間に合う。あなたの速読力が試されます。

✊「神の裁きと訣別するため」 murashit

箇条書きで語り尽くせる着想を散文によって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、あらゆる事象を項目として書き出して、並列に差し出すことだ。より論理的で、より無能で、より怠惰な筆者は、じゃんけんにかんする完全でしかし短いリストを書く道をえらんだ。

拙作。タイトルは置いといて(勝手に使ってごめんねアルちん……)、ボルヘスから引いてきやがってと侮るな、いや気持ちはわかるけど、お願いだから侮らないでください、だって「箇条書きで語り尽くせる着想を散文によって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である」というのは嘘偽りのない100パーセントの本気なんです。箇条書きってこんだけ普及したある種の強みのあるスタイルなのに、小説にはほとんど使われていない気がするんです。2ちゃんねるなどのSSはやや近いはずだが……。

🗻「山の神さん」 笹帽子

家出少女の神籬菜々は、神待ちアプリの暴走によりタイムリープし、大正時代の高校生・広瀬とマッチングしてしまう。下宿の部屋に泊めてもらうことなどできるはずもなく、代わりに広瀬と共に高みを目指す神籬だったが、背後には家出少女の時空補導を狙う魔の手が迫っていた!

いいですか? 時代は姉SFです。あなたはもちろん、すでにそのことをご存じですよね? よろしい。タイトルどおり、山に登る話です。山に登るとき、わたしたちの身体にいったいなにが起きるのでしょうか。身体を「機械のように」動かす意識が発生します。SFっぽくなってきたな。舞台は旧制第四高等学校。それに準じた文体で綴られる……といえば、私のような笹帽子ファンはいつもの軽妙さはどうなるのかと不安を感じるかもしれません。心配御無用、すべてが噛み合います。軽やかさをいかに導入すべきか、それは常に困難なことでありつづけました。ここでその答えの一端が読めます。

🔮「囚獄啓き」 小林 貫

地獄とは、とあなたは思索する。死、罪と罰、終わりのない苦しみ……あるいは閻魔。取り留めのないイメージが交錯する。あなたが創り出す「地獄」へと続く道は無関心で舗装されている。念入りに、決して剥がれ落ちることのないよう幾重にもそれを塗り固めるあなたの姿は否応無しに物狂おしく、また少しだけ滑稽でもある。

地獄とは、人工的な責め苦とは、すなわち刑罰のことです。人間が社会生活を送るようになってからこのかた、刑罰には長い長い歴史があります。しかし、枯れているわけでもありません。現代においてさえ、ときおり喧喧諤諤の議論が聞こえてきたりこなかったりするものです。SFの醍醐味にはさまざまあります。現在にはなく、しかしそこにつながる未来にはある「当たり前」を仮構することによって、現在における問題を浮かび上がらせる……というのはそういった醍醐味のひとつと言えるでしょう。近未来の刑罰と愛を扱う本作品でそれを目撃してくれよな!

🦌「杞憂」 鴻上 怜

北米先住民族の少年杞憂は老呪術師焼き脛の命を受け、機能を喪いつつある〈ポアソンの分霊獣〉の夢へ潜る危険な〈ビジョンクエスト〉を決行する。純情報空間キウィタスで働く女子工学情報生命体の棗と茘枝は、客として訪れた杞憂と出会い彼の秘密へと迫るが……

綿密な考証に裏付けられ、この分量に対してヘビーな設定のうえに立つハードコアなSF(これは上述したのとはまた別のSFの醍醐味を持っているということです)なんですが……これ、ネタバレにならないように魅力を紹介するのがむずかしいんですよね。「設定」という、下手をすればつまらない説明に終始してしまう厄介なかたまりを、いかに魅力的に展開していくか。勘のいいあなたは上記の紹介文からなにか感じとれるかもしれませんが、たぶんそれ以上です。マジでそれ以上なんだよな。ふたつの側面がともにビジュアル的におもしろく、ついに融合するという、そんな愉悦をここでアレしてくれ。

🍄「キノコジュース」 国戸 素子

俺は美少女魔法使いルシエが大好きな冒険者。大剣を振るって金を稼ぎ、いつかルシエに告白するんだ。でも最近、村のみんなの様子がおかしい。さらにルシエにも不穏な行動を見つけてしまう。村はどうなる?そして恋の行方は?俺は美少女魔法使いルシエが大好きな冒険者。いつかルシエに告白するんだ。

めちゃくちゃ好きなんだよな。ナンセンスというものは、文章では間がもたないものだと浅はかなぼくは考えていました。そう、ぼくは浅はかでした。理路のつながらなさを、ゲーム的な世界観、そして苦しむ顔がかわいい女を好きな思い込みの激しい主人公とで成り立たせている。それを支える数々の紋切り型。ひとつの紋切り型をバカにするのはたやすいけれど、それが怒涛のように押し寄せたときにいかにバカにすべきか? 本来つながらないものが不条理につながってゆき、笑いながらもめちゃくちゃ腹の立つ感動でしめくくられる。いやもう、ぼくはこれ、こういう文章が書きたいんだよな……。

🦀「蟹と待ち合わせ」 cydonianbanana

あたかも青く、青という言葉が失われてなお青みがかったような月下の海で、僕たちは今日も漂着物を探して歩く。人類が肉体を失う過渡期を生きる俺たちの日常と、私たちの《普通》。一人称複数の語りが重奏する、百年後のあたしたちによる克明な記録。

まったくただしいポストヒューマンSFです。あらわれた3つめのSFの醍醐味。まずそれを言っておきたい。そして、ポストヒューマンの生態を一人称で述べることはとてもむずかしい。本作はその困難な課題に挑戦している。紹介文にあるとおり、本作品においてそれが顕著にあらわれるのは、一人称「複数」であることによります。三人称とのちがいはなんだろうかな。語りかけられることにより、説得力が増すというのはあると思うんだよな。そうやっていつのまにか彼らの思考になじんだころに現れるオチ。だけれども、これはあくまで夏のバカンス、さわやかに乾いた空気を感じながら読んでくれよな!

🐢「ブロックバスター」 津浦 津浦

ひたすらに大きくなっていく放浪大亀/大亀の帰還を待つものども/ものどもの王/その世界にあったもの/その世界にないもの/その世界の外にあるもの/どこにもないもの/どこかにあるもの/生きている私たち。

ひたすら文章がかっこいいなと感じるんだけど(これは上述の「キノコジュース」と対照的である気がする)、これはなんでなんだろうな。たとえば、小説における「列挙」というのは読者に対して一定の効果を与えるための常套手段なのですが、これをうまくいかせるためには、一定の共通点のもとでなるべく射程を広げることが肝要である。その「射程の広さ」という点をとってみても、自分にはちょっと手のとどきそうにない地平が見えているなという感想をもってしまう。そうやってつい細部にだけ注目したくなるのですが、そこここの呼応関係も見物で……見物で……ぜひ読んでこのように言葉を失ってください。

ここでちょうどあと5秒ってとこかな? 第29回文学フリマ東京ク-39に、神は訪れるのか……真相は君の目で確かめてくれ! あと、本記事を何秒で読んだかをSNSで共有してください。ついでにほかの箇条書き小説情報もどしどしお寄せください。


以下、主宰および同人のみなさんの紹介記事です。そう、ロスタイムだ。

Night in the Woods

しかもさあ、あたしがこんなさあ、ダメ人間になっちゃってんのって あたしのせいなんかじゃねーんだかんなあ!

store.steampowered.com

ちいさいころ、ぼくはおじいちゃん子だった。

ぼくが幼稚園から帰ると、おじいちゃんはいつも相撲か時代劇をテレビで見ていた。ぼくはそれをそばで眺める(とくにおもしろくはない)。そんでもって、いい時間になったらばおじいちゃんは風呂を焚く。ぼくはそれをそばで眺める(これはわりとおもしろい)。杉の枯れ葉で焚き付けて、木の棒をぽいぽい入れていく。

そんなとき、おじいちゃんがよく言っていた。

「おめえもわしみたいにならにゃあいかん、ちゃあんと金を貯めてな、ここらへんで家を建てて」

個人的には「そうかな?」と思っていたけれど、あえておじいちゃんの機嫌を損ねることもなかろう、ふむふむそうですなあという顔をするのだった。なんたってぼくはおじいちゃん子で、ものわかりのよい孫だったからだ。実際、おじいちゃんはなかなかやるもんだと、今も思う。

それで得心がいったのか、おじいちゃんはまた黙り、火かき棒で灰をかき出す作業に戻る。もちろんそうじゃなく、つい言葉が溢れてしまったらしいときもあった──あったけれど、どんなことを言っていたっけ、ほとんど忘れてしまったな。いや、それでもひとつだけ覚えていることがある。そのとき、おじいちゃんはこう続けたのだった。

「じゃけどの、そうもいかんときもあるかもしれん。そげなときゃあな、Night in the Woodsをやりゃええ」

松の枯れ葉がパチパチとはぜる。炎のゆらめきがおじいちゃんの横顔を照らす。ぼくはそのとき、はじめてNight in the Woodsを薦められたのだ。

ぼくのいた中学校には、ぼく自身が通っていた小学校を含め、近隣の3つの小学校を出た生徒が集まっていた(その小学校も中学校も、今はもうない)。小学校のひと学年は10人ちょっとほどだったから、気が合うだの合わないだのといった贅沢を言うこともできず、みんなとそこそこに付き合っていた。けれど、いざ中学校、3つ集まればひと学年で40人近く、2クラスにもなる! そうすると、「なるほど、気が合う友達とそうでない友達というのがいるのだな」ということがしぜんとわかってくるものだ。

となりの小学校から上がってきたなかに、いつもぬぼーっとしているFくんという子がいた。ぬぼーっとして、のっぽだった。きっかけはなんだったか忘れてしまったけれど、すぐに仲が良くなったぼくとFくんは、放課後にぼくの家で遊ぶようになった。ぼくの家のほうが学校に近いんでね。

初代プレイステーションの末期、まだぎりプレイステーション2未発売のあのころ、Fくんはいろいろなプレステのゲームを持ってきては貸してくれた、いっしょにやったりもした。かわいい女の子が出てくるゲームが多かったな(だったらセガサターンではと今となっては思うのだけど、ぼくの家にはなかった。Fくんは持っていたのだろうか)。なぜか特に印象に残っているのがエリーのアトリエで、貸してもらったそれを家でやるのがなんだか恥ずかしかったことを覚えている。エリーのアトリエ程度で!

貸してくれないまでも、いろいろなゲームを薦めてくれもした──薦めてくれたのだけど、どんなゲームを薦めてくれたのだっけ、ほとんど忘れてしまったな。いや、それでもひとつだけ覚えていることがある。もう暗くなったから帰るというF君が最後に付け加えた一言。

「あとそーだ、Night in the Woodsってのがあってな、グフフ、ありゃやらんとおえん。俺は持ってないけどな。近所の兄ちゃんがこっそり貸してくれたんよ。もうあの兄ちゃんもおらんけど。まあどっか探してみ」

それから1年も経たないうちに、Fくんは学校に来なくなった。放課後にしか会うことがなかったし、携帯電話もなく、連絡先も知らなかったから、すぐに疎遠になり、会うこともなくなった。ほんとうに仲が良かったのだろうか? 気にもとめなくなってしまった。

高校生になってからそのころの同級生に聞いたところによると、Fくんの家はあれからすぐに親が離婚して、母と息子でしばらく二人暮らしをしていたという。ただ、知っているのはそこまでで、今はどこにいるかもわからないということだった。

それから大学生になった(高校生のころはあまり思い出したくない)。一人暮らしの初日に大学のまわりをぶらついてたらエロ本がまんさいの書店を見つけてもちろん買って、「これが一人暮らしというものか!」というのが京都の第一印象だ。勉強もいろいろあったが、その一方、ぼくはジャズ研みたいなところに入ってトランペットを吹いていた(ひどく下手くそだった)。その仲間たちとともに、飲みに行くなどのことはひととおりやった。つまりそれなりに楽しんでいたと言ってよいと思う。市内の平地部分の路地を隈無く自転車で回った。あのころはまだ河原町丸善があった(今また復活している)。鴨川デルタで缶ビールをダバダバ流し込むとかそういうのもやった。いや、どっちかというと四条大橋の下とかのほうがダバダバ流し込むことが多かったような気がする。

ダバダバ流し込むときにどんな話をしたのだっけ。書生気質! 人生の話などしたにちがいない──ちがいないけれど、ほとんど忘れてしまったな。いや、それでもひとつだけ覚えていることがある。総人で心理学やるんだつって岩手のほうから出てきたY君が言うことに。

「おめーも地元がやんなって出てきたクチっぽいけどな、そりゃ今はええけども、こん先もうまくいくかわからへんで。うちの兄ちゃんは結局戻りよってな、んでこないだ実家帰ったらNight in the Woodsやっとった。おれはそうはならん」

むりやり関西弁喋ろうとしているのがまるわかりやないけ。

で、なんだかんだあって、大学院にと東京へ出て、まあいろいろあって辞めちゃって、花屋でバイトとかして、そのうち就職が決まったからいったん実家にでも帰るかってんで帰ったことがある。そのあたりの話はこのブログにも書きました。自転車で帰ったんですね。帰ってみると、地元の街(ってほどの街はない)は妙に狭い。ぼくが広い世界を見てきたから? 違う。単にすいすい走る自転車に乗っているからだ。しかしこの歳で自転車になぞ乗っている奴はいない。みんな自分の軽自動車を持っている。

そんなことを考えながら、うちはちょっと坂の上にあるからってんで、自動車ならば楽なのにと、自転車を押し押し坂を上る。Y村さんちが見える。リフォーム中だ。屋根に上がって作業してるのは──あれは小中で同級だったIくんではなかろうか。

「ありゃ、帰ってきたんか? てことは、Night in the Woodsやったん?」

やってない。やってないけれど、そんなものに聞く耳は持たんぞ、俺は持たん。

だからぼくはまた東京に戻り、カイシャではたらき──もう何年になった? 故郷のことも忘れたんじゃなかろうか? だから、だからこそ、そろそろNight in the Woodsと向き合うときではなかろうか。


──以上が、ぼくがNight in the Woodsをプレイした経緯だ。キミもやろう。

まともなレビューについては以下などを参照のこと。

夜のみだらな雨と月

まずは最近読んだ本の話から。

夜のみだらな鳥 - ホセ・ドノソ

夜のみだらな鳥 (フィクションのエル・ドラード) *1

どちらが果たして真の現実なのか、分からなくなりました。内面の現実でしょうか? それとも外部の現実でしょうか? 現実がわたしの脳裡にあるものを造りだしたのでしょうか? それとも、わたしの脳裡にあるものが、この眼前のものを造りだしたのでしょうか?

むちゃくちゃな本だった。

内容、そして特徴についてはこちらの記事に詳しく、不足も付け加えるところもない。あらすじ(よくこんなきれいにまとめたものだと舌をまく)はもちろん、このあと触れる妄執と現実の関係や入れ替わり/簒奪についても端的に触れられており、実際に本書を読んだあとに読むとまさにそのとおりだとわかる、と思う。

わかると思う一方、実際に本書を読んでいない人にとって、これだけでは本書の異常さがわからんよなとも思う。いや、「異常な出来事が起こる(ように読める)」のはわかるんだ。たとえば、「起こった」らしいことのタイムラインを引こうと試みても、とうに死んでいるはずの人間が「その後」らしき時系列に当たり前のように現れるなどし、さくっと破綻すること。全体に通底する入れ替わりのモチーフがいつのまにかモチーフでなくなり、実際に「起こって」いるかのように読むしかなくなること。ただ、それだけならば「妄想が現実と混淆するんでしょ。境目がね、そうそう、曖昧になって。よくあるあれッスね知ってる」したり顔のお前は誰だ。出てくるんじゃない。そうじゃないんだって。この本がどうにもおかしいのは、そもそも混淆どころの話ではないところにある。「異常な本である」ことを伝えるのはちょっと難しい。

さて、以降の話の前提として、本書とそれをとりまく環境として以下の3層構造を仮定することにする(いろいろ物語理論の話とか引いてくればいいのかもだけれど、そこまで精緻な話ができるわけでもないので……許してくれ……)。一般的に、上のほうがベースになり下が生み出される形になっている。

  1. わたしやあなたの世界における現実
  2. 1を何らかの意味でベースにした(でないと小説は書けないし読めない!)作品世界のなかでの現実。その客観的な叙述
  3. 語り手による2に対する主観的な叙述。本書における「妄執」

リアリズム小説であれば、1と2がおおよそ一致するだろう。いわゆる幻想文学であれば、2が1から乖離している/乖離していくさまにおもしろさの一端がある。場合によっては3が強く出てきてそれが2に影響を与えることもあるかもしれないが(先述の誰かが言ってた「混淆」はこれか)、この場合も2と1の対比が焦点になってくる。マジックリアリズムみたいなお話であれば、1と2の緊張関係、往還に一般の幻想文学からきわだった特徴がある(このへんの整理はこちらに詳しい)。

話の流れからわかるとおり、本書にはこれらにあてはまらない特徴がある……あると感じたから変な小説だと、思った(本来本書もマジックリアリズム作品として分類されるのだが、それはそれとして)。まずは、最初に挙げた記事で(『百年の孤独』との比較として)端的に述べられている以下の点をとっかかりにしよう。

百年の孤独』はマジックリアリズム=どれだけ非現実的なことがあっても最後には「リアリズム」に落ちつく客観的描写・文体を徹底していたが、『夜のみだらな鳥』は主観的な描写・文体を突き詰めている。一人称の語り手による語りのなかで、過去/現在、自己/他人との区別が次第に失われていく筆致は見事である。

百年の孤独』は先述したマジックリアリズムの特徴のとおり、2が1から離れていったあとで1に引き寄せられる。その重力があの本のおもしろさのひとつだった。一方本書は3をベースに語られており、2は(われわれの1の知識をもとに)「たぶんこんな感じか?」という形で読み手が想像するしかない。三人称が出てきたりもするけれど、あくまで妄執の論理に回収される叙述としてしか読むことができない。だとすればばふつうは、2をそれなりにしっかり措定しておいて、3と2の落差を際立たせようとしがちではなかろうか(1と2の差異を強調することの応用だ)。実際本書の場合、冒頭と結末あたりはこれに近いことをやっており、実際に効果を上げている。だが、それだけでこのページ数はもたない。もっとほかのものがある。

ここでポイントとなるのが「一人称の語り手による語りのなかで、過去/現在、自己/他人との区別が次第に失われていく」という話。いや、失われていくこと自体は珍しくないのだけど、ここまで述べてきた事情、および、語り手であり主人公である〈ムディート〉=ウンベルト・ペニャローサが(自称)作家であり、彼が本書の叙述を組み立てていることと組み合わせるとちょっと特異な話になってくる。いったいどういうことか。手掛かりが自分の感覚にしかないため正直うまく説明できる気がしないのだけれど、ちょっとがんばってみよう。

そもそも、作家がなにかお話を書くとき、あるいは伝記などのノンフィクションを書くとき、そこで書かれる世界は現実をアンカーにしていなければならない。「でないと書けないし読めない!」だ。妄執もしかり、いかにその内実が現実から離れていこうとも、きっかけ自体は現実であるほかない。だからこの2つは似ている。のだが、決定的に異なる点もある。前者の場合は、それが小説であれ伝記であれ、その表現のしかたがどうであれ、書き手は書かれる世界全体を俯瞰できる視点から逃れられない。どのような焦点化を選ぶにせよ、書き手としては俯瞰できている状態を作る必要がある、作らざるをえない、作りながら書くしかない。現実をアンカーにすることと同じくらいどうしようもないことではある、と思う。もちろん、もう一方たる妄執はそうではない。妄執のなかの論理にかなっていればよく、逆に原理的に俯瞰することができない、俯瞰していると信じ込むことが精一杯だ。作家としてのウンベルトはまずそこで引き裂かれる(ウンベルト自身もこれが妄執であることを知って書いていると思う)。自己と他人と神をすべて取り込んでいくように見えても(お話を書くことはしぜんそうなることなのだ)、実際には妄執であるがために、自己以外の視点が入りこむことは不可能だ。ただ、本書ではその外部たる「現実」がドノソによって描かれないため、読み手がそれらの違いを区別できない。

さらに、本書でしつこく繰り返されるモチーフ──黄色い犬や魔女、インブンチェの怪物、入れ替わり──これらすべては、序盤で語られる魔女の伝説が下敷きになっている。伝説というからには実際とても強固な物語であって、作家であるウンベルトは、妄執という観点からも、作家であるという観点からも、その重力から逃れられない。現実をアンカーにすべきなのか、強固な物語をアンカーにすべきなのか(そうそう、だから、先述の「現実をアンカーにしなければならない」には「(現実をアンカーにした)物語をアンカーにする」も含まれる)の間でも、やはりウンベルトは引き裂かれている。結果、物語によって現実が捻じ曲げられることそのものが、さも現実のように描かれることになってしまう。

彼は「現実」をアンカーになにかを書こうとするが、それは同時に物語の重力に絡めとられ、その結果出てきた叙述はすべて妄執であると判じるほかないが、だからこそ彼にとってそれは「現実」でもあり……

本書はしばしば悪夢のようであると形容されるけれど、これはたしかに夢っぽい、というより「夢を文章として書き出すこと」に似ている。ただ、ウンベルトはその夢から覚めることができないのだから、「見ている夢を、その場で文章として、夢の外に書き出すこと」に近いかもしれない。だから、それ自体が悪夢なんだよな……

……というわけで(まとまったことにする)、上掲以外で3つ挙げておきます。いずれも海外文学強者たちのレビューだぞ!(いつも楽しみにしています!) 読んでへんのはお前だけ!

雨月物語×SF

で、『夜のみだらな鳥』の話に乗じてというか、ほんらいの意図としては実は逆なんですが、告知だ。 みんなだいすき『雨月物語』を下敷きに、SFで再解釈した9編を載せた合同誌『雨は満ち月降り落つる夜』に参加させていただきました。詳細は以下、まずはこちらを見てくれ。

https://www.sasaboushi.net/ugetsu/

また、雨月物語そのものの魅力や各話の内容については主催の笹さんのエントリに詳しい。さらに、(本記事投稿時点では前半分のみですが)掲載作品全話レビューもあるぞ!(4/22追記:後半も公開されました!

以下、せっかくなので私もざっくり感想じみたものを書きます。

「ノーティスミー、センセイ!」(笹帽子)

「願い事インジェクション」「クロス賽銭スクリプティング」といったパワーのある語彙が重なるポストシンギュラリティなサイバーセキュリティSF。笹帽子さんの軽妙な会話劇っていったいどこから出てくるんだといつものように恐しく思いつつ、そのうえに「じゃあいったい、そんな世界でのAIの恨みってなんだろね」というテーマが乗っかってくる堂々たる巻頭作。

「飛石」(cydonianbanana)

温泉地を訪ね菊花の約の二次創作を書こうとする主人公、つまりそのまま筆者自身という構造となっていて、そこから創作が現実を固定する話にSFっぽい説明が加えられ、本作自体が湯けむりのなかに収斂する。ばななさんの小説はメタ構造が特色であることが多い印象なのだけど、そのなかでもとくに完成度の高い一作になっているように思う。

「荒れ草の家」(17+1)

雨月物語の魅力のひとつに、説教臭いなりの下で舌を出すところがある。本作の元ネタである「浅茅が宿」も「待ち続ける」という「美点」が持ち上げられているようなそうでもないような話だ。本作では待ち続けるものがいったいどうすべきかというところに意外性のあるアンサーが提出されており、今回の作品群のなかでもいっとう雨月物語の精神を体現したものだと感じた。

「回游する門」(Y. 田中 崖)

みんなも好きだよね、おれも好きだよ、わちゃわちゃした軽快なSFアクション。ちょっとした引っくり返しもありつつ、だんだんその設定にも必然性が出てくるとさらにワクワク感が増す。ゆうたらこれも機械生命体の魂の話で、やはり軽快さを保ちつつ希望のあるオチでとてもいい。舞台となる都市から細かな言い回しまで、しっかりメカメカしさを通していてそれもうれしい。

「boo-pow-sow」(志菩龍彦)

ひと夏の物語っしょ!百合っしょ!はいこれ! ってことで、広い意味での怪異譚であることをまず提示しつつ、そこにSFっぽいガジェットをとりこんで、うまくしんみりさせてくれる一品。いやほんとに「一品」という感じでシンプルにまとまってるんだよな。短編かくあるべしである。

「巷説磯良釜茹心中」(雨下雫)

ひるがえって、こちらはむしろ最初SF色が濃いのだけど、徐々に肝が冷える感じ。もともとの「吉備津の釜」の主人公じたいかなり人間くさいというか、ホラーの登場人物らしいある意味憎めないクズっぽさがあるのだけど、こっちもこっちでしっかりそう。ところどころトンチキに見える展開が見え隠れし、しかしそれが不思議に収まっていくところが怖さにつながる。

「月下氷蛇」(シモダハルナリ)

シモダハルナリ……いったい誰なんだ……。

「イワン・デニーソヴィチの青頭巾」(鴻上怜)

あの収容所文学が「青頭巾」の世界にどうやって……そう、異世界転生トラックを介して繋がるんだ。そこがいきなり良すぎるんだよな。語り口はあくまでロシア文学(の翻訳)っぽさを維持しているのだけど、そのまま日本の怪異譚が語られるズレもまたおもしろい。そしてなんとなく抹香臭いオチだからこそやっぱり雨月物語っぽいと感じるのがまたうれしい。

『斜線を引かない』(murashit)

で、最後が私のやつで、なんでこの雨月物語×SFの話のマクラに『夜のみだらな鳥』の話をもってきたのかというと……というところを書こうとしたのだけど、ここまででなんとなく感じていただけるんじゃないかと……いや無理か。ひとつ言っておくと、『夜のみだらな鳥』はこれまでみてきたとおりオブセッションの話ですし、『雨月物語』の怪異を生むのもやはりオブセッションだ。だから「貧福論×情念経済」としました。ほんまかいなって? ぜひ実際に読んで、君の目で確かめてくれ!

*1:水声社の本であり、Amazonでは版元からの販売がないため注意してください

劇場版 のんのんびより ばけーしょん

「劇場版 のんのんびより ばけーしょん」むちゃくちゃ良いんですよ。泣けたから良いと言うつもりなどさらさらないんですが、ともあれ自分はボロ泣きしてしまったんだよな……。

nonnontv.com

どうしてだったのだろうか。

そもそも「匿名的で典型的な、そしてノスタルジックな山の中の田舎」という舞台がもうひとりの主人公たる本作において、「沖縄に場所を変えて、これまでどおりのキャラクターたちが遊ぶ」という沖縄編はどこか物足りなく、原作においてそこまで好きなエピソードというわけでもなかったんですよね。4、5回に分かれ、それでも紙幅が限られている漫画版だとどうしても仕方のないところではあるのですが。

で、そこにオリジナル展開を加えて70分ほどのアニメーションにまとめたのが本作なわけですが、この「問題」をどうにかするとなった際に、夏海のシリアスな面を出すというのは自然な流れだとは思うんです。舞台の不足を補う……いや、けっして沖縄が魅力的でないという意味ではないのですが、「登場人物としての田舎」が不在であることを補うという意味で。

ただ、夏海に真面目な顔をさせる話って、そのままやってしまうと単に「なんか居心地が悪いな……」みたいになっちゃいがちなところでもあると思います。そこをを逆手にとってくれたのが本作で、その居心地の悪さが夏海とあおい(オリジナルキャラクター)との距離のとりかたの緊張感に反映されているんですね。まずここがむちゃくちゃ良いんですよ。

この居心地の悪さに慣れる……というより、丁寧なエピソードの積み重ねによってこの夏海の感情が自然に感じられるようになるのとシンクロするように、彼女たち2人の距離も近づいていく。もちろん、れんちょんも小鞠せんぱいもほたるんも、あおいとの距離がちぢまる。とうぜんのことながら、最終的に別れなければならないという古典的な悲劇の前提のもとで。

そして終盤、(原作を読んでいる方ならご存じのとおり、本作にも)夏海とひか姉が帰りたくなくて泣く「ギャグシーン」があり、その場はひか姉がいるおかげで原作どおり「型としては」ギャグとしてオチがつくんですが……って、ここからはさすがに言わんとこうか。実際に観ていただくとして、なんだろう、夏だったんだよな、越谷夏海っていう名前は伊達じゃないよ。

もう一点、じつはもとの舞台である「田舎」が忘れ去られているわけでもない(「『登場人物としての田舎』が不在」と言ったな、あれは嘘だ!)という話もあります。

というのが、「田舎」と沖縄(竹富島)とをつなぐモノとして、れんちょんのスケッチが出てくるんですね。具体的にどんなふうに出てくるのかは、これも実際に観て確認してほしいんですが、沖縄のなかで「自分たちの田舎」をその都度思い起こさせ、対比させるはたらきをしてくれている(さらに言うと、自分の記憶が正しければ、沖縄パートにおいてはおそらく意識的に夕暮れどきの描写がオミットされていて、帰宅時の「山間部の夏の夕焼け」と対比されていたように思う)。

先述のとおり、そもそものんのんびよりっていう作品は「匿名的で典型的な、そしてノスタルジックな山の中の田舎」の話です。いっぽう、本作における隙のない美術で描かれるのは「竹富島という実在の、典型的で、エモーショナルな夏の海」のイメージです。

正直なところ、SNSなどで流れてくるエモーショナルだったりノスタルジックだったりする夏のイメージには「もうええやろ」という気持ちがありました。あったはずなのですが、この対比のおかげなのか、さらに個人的な話として「山間部の子が海を見るときの驚き」に共感(共感!)してしまったからなのか、あまりにストレートな2つの夏にノックアウトされちゃったんだよな……へへへ……。少なくとも種々のエピソード(これは原作にもあった良さですね)や美術の細部における「夏」のイメージの補強にまったく手抜きがないというのは間違いないところだとは感じています。

ということで、とりあえず2点、言葉にはしてみたのですが、例のごとくうまく表現できているとはまったく思えません。思い切り雑に言うと、前者は(とうぜんこの言葉はあまり使いたくないんですが)百合が好きな人が好きそうなところのような気がしますし、後者は文字通り(とうぜんこの言葉はあまり使いたくないんですが)エモい夏が好きな人が好きそうなところのような気がします。

……いかんな、締めが妙に冷笑的なイメージになってしまった……実際に泣いてしまったぶん照れ隠しだと思ってくれ……「劇場版 のんのんびより ばけーしょん」、なんたって、めちょくちょ良かったので……。

日記をはじめる前に

久しく「日記」のようなものを書いていなかったので、ここらですこしやってみようと思った。

いや、実はもうちょっと理由があって。自分が置かれている環境の変化についてインターネットに書いていないことが、ひどく気にかかるようになってしまったのだ。そもそもの話として、自分には、プライベートのことや仕事なり学業なりのことをインターネットで進んで話したくないという想いがいまだにある。話すとしても、すでに思い出になってから。はじめてインターネットに触れたとき、そこにあったのが偶然にもそういうタイプのインターネットだったからというだけの話なのだが、それをいつの間にか内面化していたわけだ。ただ、いつまでもそれだけでインターネットをできるわけでもなかったようで。同じアイデンティティのまま長くやってりゃそうなるわという話なのか、それとも「プライベートでも仕事でもない領域」というのが狭まってしまったのか。どちらもあるのだろうけれど、ともかく、プライベートや仕事というものをあきらかにしないで話をしていると、どうもやりにくいと感じることが増えてきた。単に不自然なのではという気持ちになってしまうことが増えてきた。

まあ、それでも、騙し騙しやってりゃよかったのかもしれないけれど……そうは問屋(人生卸売市場だ)がおろさなかった。直近の「環境の変化」が大きすぎて、これまでのアイデンティティを保ち続けられる気がしなくなってしまったのだ。より正確に言うと、いまこれを書いている現在、自分ではそれほど大きな心境の変化がある気はしないのだけど、これからしばらくして振り返ってみれば「あ、ここで変わったな」と認識せざるを得ないだろうという確信めいたものがあるということ。そうなれば、自然、やりづらさは増大するにちがいない。そうです、端的に申し上げますと、つい先日、子供が生まれまして。

いや、親になれば人間変わるよねというだけの話だと早合点しないでほしい(結局それだけの話に回収できるのだろうが、それだけだったらわざわざ書かない)。たしかに子供はかわいいもので、というか小さい生き物はだいたいかわいいので、まあ一般的な意味でかわいいんだが、それで自分が変わった気はしない。たとえば、根が幼稚園児のためうんちが好きという事情もあり、おむつを変える作業が非常に好きなのだが(「よっしゃうんちやな!よっしゃよっしゃ!」)、それはあくまで日常の中の楽しみ、「うん、これは生活だね」という心持ちだ。昼間赤子につきっきりだった妻に先に寝てもらい、居間のゆりかごに寝ている赤子の横で静かにゲームしながらミルクをあげるタイミングをうかがっている時間も、「うんうん、これも生活だね」という感じで、ただ単に愛おしい生活というだけだ。ここで書く気はないが、もちろんしんどいことだってある。よくないことをしたな(あるいは、「なにもしなかったことがよくなかったな」)ということだってある。ふと、「ああ、出生させてしまったんだ」と思うこともある。ただ、しつこいようだが、それらはあくまで生活であって、それ以下ではないが、それ以上のものでもない。生活。生活はこれまでもずいぶんやってきた。真新しいもんでもない。アイカツみたいなもんだ。アイカツみたいなもんか?

人間が変われるのは環境が変わったときだけで、自分はいままさに環境が変わったばかり。そして、みずからの変化をその時その場所で自覚できることはほとんどない。あとから見つけることができるだけだ。そんなこと、誰もがわかっているのだから、いま、あえて、強いて、私は変わりそうですと宣言する必要は本来ないのだが(「私は変わります」と宣言することはまた別の話だ)、いま僕(この一人称を使うのは小狡いことだなあ)は、自分が変わることの恐怖に、これまでにないくらい怯えているらしい。環境の変化をこうやって公言し、言い訳にようとするくらいには恐れているらしい。ただの生活のなかで。

だからどうしてほしいというものでもないし、翻って、赤子は赤子で待ってくれたりももちろんしないのだけど、せめてこのブログを自分に追いつかせる必要がある気がして、ここまで書いてみたら、今日のところは、これ以上は書くことないやという気持ちになってきました。だからこれは「日記」ではないな。

ま、(走り出すかは置いといて)とりあえずここが再度のスタート地点ということで、ひとつ。


追記:公開して読み返してみると、自分に酔っているのはいいとして(いいんだよ!それくらいじゃなきゃブログなんて書かれへんやろ!)、娘(本文に書いていなかったが女の子である)や妻への思いやりのかけらもない、自分のことしか書いていない文章であるなと思った。が、まあここは僕のブログであるからして、自分語りに終始してもいいっしょ。そういう気持ちは直接伝えればいいっしょ。いいっしょ!それもまたアイカツっしょ!

構造素子 - 樋口恭介

読んだ本の話を迂闊にする、いいね?

構造素子

たいへん良かったです

どこからはじめればいいのかわからないのですが、まずは手前味噌に、ひとことの感想としてtwitterに書いたものをとりあえず引いてきます。

『構造素子』たいへんによくて、この形式で書いていいんだというのを完成度をもって示してくれたのが嬉しくて、さらには、我々(自信を持って言っちゃう)はこれをさらにおもしろくする言葉の使い方がきっとできるんだ、この先飛び越えられる礎石にしてやらんという意味ですごく勇気づけられる感じがした

だからぜひあなたにも読んでほしいのですが、これだけだと、とくに読んだことない人とかだとなんかわからんよな。だったらそうか、読みはじめるにあたっての話から始めるとよいのかもしれません。

梗概から読む話として

どんな話かといえば、基本的には、作中作が出てきて、それが階層的に重なり語りがそれを行き来する話で、それを束ねるのが「物語」そのものであり、父と子の話である、くらいにまとめさせてください。こういったまとめ方というのは人によるもので、どこに注目したかが如実に出るよね。

よくある、説明するのが難しい小説のひとつではあるのかもしれません。そうなると、ははあ難解なのかなという雰囲気が急に出てきます。でもそうじゃなくて……いや、どうしても気になるなら、巻末に示された梗概が非常によくまとまっているので、先にここを読んでしまうのはどうでしょうか。読んでみれば構造としてはそれほど複雑なものではないことを了解できるでしょう。そして、べつにこの構造を読み解いていくことに本書の楽しみはない……と言ってしまってよいと思います。だから先に梗概を読んだらいいと思うんです。

構造/モデルの話は前提にあって、でもそれだけじゃなくて……

ただ、この梗概がよくできすぎている。これは本書にとって必然なのですが、ほんとうにこの梗概どおりの小説であり、そういう意味では説明するのが非常に簡単な小説でもある。読みはじめるにあたっての話とか言っていたが、ここからいきなり本題に入ります。

言ってしまえば、梗概だけ読みとってしまえば本書を読むことの半分は完全に達成されるとさえ言えてしまう、と僕は思いました。梗概で示されるこのモデル、この構造にのっとってこのひとまとまりの小説が書かれていることそのものが、本書が達成した一側面であった(と僕は考えた)からです。言い方を変えると、梗概がこうやって(今ここに梗概を示せないから「どうやって」なのかわからないと思いますが、雰囲気を感じてくれ! 頼む!)すっきりと書けること自体がすでに一つの特徴なんです。構造/モデルが簡潔に完結し完成されている。

構造が重要だったり重要でなかったり、いろいろな小説があります。が、たぶん自分はどちらかというと構造が好きなほうの人間で、あと言葉は人並みに好きな人間で、その結果、文章を読んでるときなどに、粗筋とかキャラクターとか表現の良さとかよりも、たとえば図式的な構造と細部の形式との呼応などに必要以上に反応してしまうところがあったりしそうです。

ただ、じゃあ(それを評すときも含めて)構造語りをされているのを読むのがおもしろいかというとそうじゃないんですよ。構造を示すのであれば最初から図を書けばいいわけなんですよ。そして図を鑑賞すればいい。それはきっと、十二分に楽しいことで、みんなで図を持ち寄って鑑賞しあい感想を言い合いすることをぼくはしたいし、なんならそういう雑誌とか本とかwebサイトとかあるとよいよな……図式文芸がしたいよ……そうなってくると、もはや「なんで言葉を使ったものを図式に還元しなきゃならんのよ」という話になる。

そこで、「もちろんその構造とやらはあくまで半分であって、もう半分こそが小説の本文そのものに立ち現われているものではあります」という話にはなります。図式の話をからめると、冗長である本文。部分的には書かれなくてもよかったものであるものが全体に及んでおり、70パーセントなくなっていても成立するだろうし、逆にさらに冗長に、500パーセントに増えていても成立するものである本文。書かれなくても書かれても、さらに書き加えられても良かったものが小説としての体をなしていることがもう半分の側面です。われわれはじゃあ、どうして言語なんてものをつかったお話を読んでいるのかというのは、(本書のなかでも答えが出るような出ないような形で放り出されていますが)自分にとってのそれは、さっきちょっと触れた「呼応」をもうすこし一般化したものです。

冗長でさえある本文を書くこと、その豊かさ

さて、先ほどのを逆に言えば、構造だけではない面白さがあることが、わざわざ言葉なんて使っている理由ではありましょう。当然ながら喋り方は構造に従属するものではあるんですが、わりと雑に言えば、構造に対してさらに喋り方をかけ算できるというのがそれです。

(そういえば、新規な構造というのを考えるのがうまいという人といえば円城さんかなという感じはありますが、ただ、こと語りの部分にほとんど常にいちばんシンプルなものを置くので、そういう意味では、やや前記の図式でええやんの話につながってしまう気もしないでもないです。いや、めっちゃ好きなんですけどね)

少なくとも僕はそうなんですが、そしてそれなりにそういう人たちがたくさんいることを僕はインターネットなり書籍なりで確認しているんですが、その関連の先に沃野があるということを、けっこう前からずっと思ってくれていたんじゃないでしょうか。いや、昔の小説みたいなものだってそういうのあるだろうとか言うかもしれないスけど、それが最優先にされるところをメインストリームの一部として持ってこようとしたものはなかった……ということにしてくださいッス。無制限の実験場にしたところはちょっと知ってると思う、それはともかく、あったらぜひ教えてください。

(円城さんの話を出したからさらに続けるんですが、ここ数年で読んだもののなかでは、今回の話に比較的近いのは、上田さんの『太陽・惑星』だったようにも思います。が、喋りがべらぼうにおもしろいわりに、構造が未完成な気がしてしまったんだよなあ……)

ええと……なんの話だっけ、そうだ、僕は、僕たちは、そのかけ算の豊かさをずっと指向していたのでした。ただ、少なくとも僕には自信もなかったし、馬鹿にされるのが怖かったし、なにより力も根気もなかった。

(あと、ついでに軽薄に言ってしまうんですが、なぜか本書を読んだときに、感触として近いのはなにかと思ったときに、最初に思い付いたのは埴谷雄高でした、なぜだ?)

そんななかで、やり方としてはまさにそれでしかないという意味で完成されたものがここに現われたんですよ。しかも、ここで現れる構造/モデルは、どこかに仮構したものの上に立ったわけではなく、仮構することも含めた物語る宇宙全体を扱ったモデルである。いきなり志が高いな。じゃあ、よろこばしくないわけがないじゃないですか。

その一方で実は、喋りは不完全だったとも思いました。ただ、だからこそ、すべてを覆いつくすものでなかったからこそ(というか、それは責めるべきところじゃなく、原理的に不可能と思うので、そりゃそうなんだけど)、この豊かな平原のうちの基準点として現れてくれた。これがあれば、僕らはそこへ自信を持って踏み出すことができる。距離を測るにも方位を測るにも、この地点pがあれば僕たちは恐れずにいられるんだという、そういうものであったと思うんですよ。

総評

ここで示されるモデルは良い意味で単純で、かつ意欲的な構造になっている。構造に関していえば、完成されていることはなによりも外せないのですが、とはいえそれは完成していればよいのです。まずそれがある。そして評価の尺度になるのは、ここで示されるモデルに従ったと思われるこの語りがベストなものかどうかという点で、僕はベストなものであるとは思わなかった。おう、なんだったら、この構造なら俺のほうがうまく喋ってやれるよとか言っちゃおうぜ。ただ、こういうこをを言えるのは結局本書があってくれたからってことです。きちっと一つのモデルを示し、それにもとづいて書き切ってくれたんだから。これを書いていいんだという勇気を与えてくれたのだから。この沃野を進んで、開拓していくであろうこの先が楽しみになってくる、そんな一冊でした。

ちょっとあとで書き直すと思うんですが、いったんこれで提出させてください。