ゲームと「できること」の芸術 - C. Thi Nguyen

以前読んでおもしろかったグエンのべつの論文“Games and the Art of Agency”を読んだ1Games: Agency as Artのもとになったもの。以下に内容をメモっておく(いつもどおり内容は保証しない)。

著者のグエンについては、たとえば下記で紹介されている。というかそもそも、この論文の第1節はこの記事の内容とけっこう重なっている(以下のまとめでも参考にしています)。Games: Agency as Art を紹介するような記事がもとになっているから当然だろうか。

ティ・グエン「芸術はゲームだ」 - #EBF6F7

で、タイトルどおり本論文のキーワードは‘agency’なんだけど……そもそもこの語がなにをあらわしているのか、正直ちょっとわかりづらい。定訳としては「行為者性」とかになるのだろうが、これもピンとこないところがある。注14にあるとおり、本論文の目的のもとではagencyを厳密に定義する必要はなく、ざっくり“intentional action, or action for a reason”、つまり「意図や理由にもとづく行為」くらいの意味合いに解しておけばよいいらしい。実際に読んでみた感じだと、「したいこと、すべきこと、そしてそれに対してなしうること」みたいな雰囲気のように感じた。……ともあれややこしいので、以下ではひとまず「エージェンシー」とカナ表記することにする。

さて、本論文はおおざっぱに前後半に分けられ、おもな主張は第3節までで済んでいる。後半はその主張の内容をよりくっきりさせるための想定反論と再反論。とくに前半についていえば、要点はおおよそ次のような感じになるのではないだろうか。ちなみに、ここでいう「ゲーム」というのはとくにビデオゲームに限ったものではない。

  • ゲームプレイには(排他的ではない)2つのタイプがある。金銭的な報酬など目標そのものに価値をもとめる「達成プレイ」と、目標のためにがんばる過程(ある種の美的な経験など)に価値を求める「努力プレイ」である
    • これは外在的価値/内在的価値とは直交していることに注意。ちなみに、フィクションの側面がまた別にあることにも触れてはいるが、この論文では扱わないとしている
  • 努力プレイにおいては、ゲームが提示する一時的な目標設定やルール、つまりエージェンシーを真剣に引き受けなければならない。そしてそのうえで、「過程を愉しむ」といったもともとの目的のほうはいったん忘れる必要もある。ここでは、もともとの目的と一時的な目標が階層構造をとっている(し、われわれにはそのような態度をとる能力がある)
    • このへんまではスーツ『キリギリスの哲学』にある定義を大きく引きつつ微修正して掘り下げた感じ。後半の想定反論/再反論はおおむねこの点に対しておこなわれている
  • ゲームはエージェンシーを媒体とする点で特徴的な芸術であり、ゲーム作品はエージェンシーを記録するものだといえる。ゲームデザイナーがやっているのはエージェンシーのための枠組み2のデザインである
    • ここでエージェンシーはあくまで媒体であることに注意。これを「通じて」美的な体験やらなんやらを得る
  • われわれの日常生活におけるエージェンシーの複雑さに対して、ゲーム内のそれは非常に単純化されている。けれど、だからこそ、ふだんわれわれに馴染みのないエージェンシーにも身を委ねようとできるし、それにより日常生活では得られないような美的経験を得られたりもする
    • ここがシカールの「自由」推しに対する反論になっているのがちょっとおもしろい

長いから細かいところはあれだとしても、だいたいそんな感じだったと思う。主張じたいはスーツによるゲームの定義論を、あるいは(引かれているわけではないけれど)ビデ美の第7章の前半あたりをより展開したような雰囲気ではあってものすごく真新しい感じでもないのだけれど、とはいえ事例の出し方がうまくて自分のなかでの整理がちょっと進んだような気がする。

おわりです。


  1. 正確にいえば、読んだのはPhilArchiveや著者のサイトにあるドラフト版。
  2. 『ビデオゲームの美学』における「ゲームメカニクス」とほぼ対応すると思われる。というか、本論文の第2節で扱われている美的な経験云々も同書第7章の美的行為の話とかなり似たことを言っているっぽいし。