2023-08-18

最近読んだ本とか、そのほかもろもろ。いくらかはローカルの日記から、いくらかはBlueskyの投稿から引っぱってきつつまとめる。


照井『コンピュータは数学者になれるのか?』読んだ。計算機科学っぽいもの——とくにプログラミング言語の基礎概念まわり——に興味のあるひとにはたまらない内容で、刊行当時から評判もよかったわけだし、もっと早く読んでおけばよかったとおもった。第1章で形式系を準備したうえで、第2章でゲーデル不完全性定理、第3章でゲンツェンの無矛盾性証明、第4章でP vs NP、第5章でカリー=ハワード対応を紹介、そして第6章は振り返りと展望……といったところ。先に数学基礎論をやって、それにコンピュータサイエンスを対応させる流れ。

このうちいちばんのハイライトは第3章ではなかろうか(おれだけだろうか)。超限順序数の話からゲンツェンの無矛盾性証明にわたっていくあたりは、おそらく一般向け(後述するとおり本書がほんとに「一般向け」なのかは疑問なのだが)のほかの書籍ではなかなかみられない内容だとおもう。喩え話もうまい。一方、第4章はなくても成り立つ(上記の構成だけをみても、やや外れていると感じないだろうか)というか、おそらくないほうが話としてはすっきりさせられたんじゃないかとは感じた。……とはいえ複雑性と論理との対応づけみたいな話があるのも本書の「味」を豊かにしているよなとも。味ってなに?

内容を読めばかなり素直な書名とわかるのだけど、とはいえ昨今の世情からすればエーアイの話なんだと思われてしまいそうなのがもったいない(本書の刊行は2015年なので、深層学習みたいな話はもうすっかり出ていたころだ)。いちおう第6章で多少は触れられているとはいえ、サブタイトルのとおりあくまで証明論とかの本なのだ。あと、一般向けにしては式がゴリゴリ出てくるので、人によってはかなりめんくらってしまうんじゃなかろうか。とはいえ自分だってべつにちゃんと追ったりはしておらず、とはいえおもしろく読めたので、もし興味をもった人がいればあまり構えずに読んでみてほしいなとはおもう。


メタフィクションの件のメモ。

  • 指標性のだいじさ。現実とおなじものがあるというだけでは十分ではない
    • 「指標性」って語でいいんだろうか?/伝わるんだろうか?
    • 指してんのが「いまプレイヤーがいるこの世界そのもの」でなきゃいけないというか
  • 夢オチはメタフィクションではない
    • 狭すぎる捉えかたなのは自分でもわかってるんだが、とはいえ内部に閉じているならとりあえず除外したほうがすっきりはする
    • MGS2が「あなたがやっていたのはソリッドスネーク育成ゲームですよ」と指摘する/受け取るのは、外部→外部の回路にすぎない
  • ここで「夢オチ」と総称したものは、ネマノさんの記事でも挙げられていた藤田「「カウンターゲーミング」と「メタフィクション」」でいえば「再導入」に近い
    • ただし、当該論文でのMGSの扱いは「突き放し」である。もちろん自分の基準は内在的な観点のみに(むりやり)絞ってるので当然なんだけど
  • 「正気でない」ときにはメタフィクションにならない
    • そのいみで「Milk inside a bag of milk inside a bag of milk」はすごく微妙なライン
    • 基本的には「ならない」のだけれど……
    • あのメッセージ枠の一突きがあるという一点のみから、自分のなかではメタフィクション判定になってる

……ということをちゃんと説明したほうがいいんだろうけど、だんだん「いまのおれにはできないのでは?」という気になってきた。


ロペス&ナナイ&リグル『なぜ美を気にかけるのか』読んだ。イントロダクションのヒキが強いのがいい。われわれはふだんから美的価値に関与してるよねという確認から始まる。これはもちろんハイカルチャーなファインアートに限らないし、それどころか広義の芸術にさえ限らない、なんたって生活のなかで「かっこいい」等と感じることさえ含まれる、かなり広くとられた実践である。で、そうやって美的価値に関与しているのなら(きっとしてますよね?)「なぜそれを気にかけるのか」が気にならないかな?……っていう形での美学への招待になってる。しかもそこから先が沼だとは言わない。

以降は各著者のパートが続く。以下雑な感想。

  • ナナイの論は全体にとてもわかりやすいし、ロペスの美的種と美的プロファイルの話あたり(ネットワーク説そのものらへんというか)も整理がゆきとどいていてよかった
  • リグルのは個人的にはやや受け容れづらいのだが、文章がおもしろいという美点がある(全体の書き味とか食べ物の話とか)
  • ロペスのものも、結論(冒険説)には同意しづらいというか、(自身も認めているとおり)やや理想寄りの話すぎるよなあみたいな印象
  • とはいえいずれにせよ「まずはここらからいろいろ考えを広げてゆくのはどうですか」という感じで、イントロダクションを受けつつもっと掘ってみたいなと思わされる内容だったとおもう
  • このへんも参照:美的に良いものはなにゆえ良いのか|obakeweb

ところで、ロペスの論のなかでモンドリアンの「ブロードウェイ・ブギウギ」が例に出る箇所があるんだけど、BBWの要素配置をいろいろ変えつつ「ある美的種にたいしてよい」とか「ある美的種のある美的プロファイルにたいしてよい」とかいう指示に従ってだんだんBBWを進化させてくみたいなゲームってあったりしないんだろうか。


ヒース『ルールに従う』を読みはじめた。中身まだだけどなんかイントロダクションがよくまとまっていそうな雰囲気がするのでざっとしたメモをここに残しておく。

モチベーション。

  • 道徳性はときに自己利益と相反する行為を求める。それなのに、ひろく義務的制約としてはたらいているように観察される。不合理ではないのか?
  • 「情けは人の為ならず」的に自己利益として組み込む方法は一見うまくいきそうに思えるけれど、(たとえば協力行動などを)具体的に説明しようとするとかなり無理があることがわかる
  • それに、われわれはふだん道徳について、報酬のため(行為による帰結のため)ではなく、行為それ自身のため(行為の内在的性質のため)という形での義務を課しているようにみえる。カントも言ったとおり、前者は「道徳」とはいえない
  • そう考えると、合理的行為が必然的に帰結主義的構造をもつものなのかどうか、言い換えれば、諸行為は目的のための手段としてのみ評価される(道具的に把握される)のかどうかを検討すべき、ということになる
  • (ひらたくいえば、「ルールに従う」ことじたいが合理性の前提に組み込まれているかどうかを検討すべき、という感じだろうか)

以下あたりが第1章から第3章にあたるのかな。

  • 帰結主義/道具的合理性の議論に用いられる洗練された道具として合理的選択理論がある。ここでは「目的」を「期待効用」として定式化している
  • そして、道徳的な義務的制約はこうした理論にうまくフィットしない、言い換えれば、期待効用最大化へのコミットは必然的に帰結主義/道具的合理性のコミットを伴うものだとされている
  • が、実のところそんなことはない。(道具的でない)実践的合理性というのは比較的容易な理論的調整によって表現できる。しかも、信念(ここでは相手の選好がどうであろうかといった、事態にたいする主観的確率みたいなもんらしい)ではなく、(選好に関する非認知主義、すなわち欲求は信念ほど合理的再評価の影響を受けないという見方により)もともと所与として扱われていた選好のほうへの調整によって

このへんが第4章〜第5章の話にあたりそう。

  • 選好に関する非認知主義を支えていたのは表象主義である。なぜなら、表象主義は「信念の説明に合わせて作られた概念を取り出し、それを人間の行為のために拡張する」という考え方だから
  • しかしこれは逆ではないか。ブランダムが主張するように、世界における人間の行為は世界に関する人間の思考に先立っているとするべき。志向的状態を前提として合理的行為を説明するべきではない

で、以下は第6章〜第7章みたいだ。

  • また、進化論をはじめとする経験的文脈に基づいて、「道徳の超越論的必然性」を擁護するつもりだ(これはカントの立場とも通じている)
  • この立場からすれば、「amoralな合理主義者」なんてものをわれわれの認知から想定することは不可能である

そのうえで、引き出される応用として第8章と第9章がある……っていう感じなのか。

最後の段落にあるとおり、これに尽きるっぽい。

本書が展開しようと試みるのは、実践的合理性の一般理論——ルールの遵守(または規範同調性)を端的に合理的な行為の一種として表現することができるような理論——なのである。


いまさらCupheadをクリアしました。全体的にすげーおもしろかったんだけど、

  • キングダイス〜デビルあたりで「下手にライフ上げるよりケムリダマ使ったほうがええやん」とようやく気付いた
  • 「ワクワク火あそび」だけ尋常じゃなく手こずった
  • 「踊る廃品工場」の最終形態で気合い避けさせるにもかかわらずオブジェクトで自機を隠すのだけは絶対に許さん
  • どっちもロックマンやんけ

あと、自分は(同じプラットフォーマーということで比べるなら)Celesteとかのが好きっぽい。アドリブが求められるものより、道筋を見つけて正確になぞるののほうをおもしろがりやすいというか。