わたしたちが『ビデオゲームの美学』を読むこと

フィールド上で方向転換する。コンピューターが接続されているテレビ画面の左上四分の一に草原が映っている。画面の下半分はぼくら一同に関する情報で埋め尽くされている。ヒットポイント、アーマーポイント、スペルポイント、装備中の武器。画面の右上四分の一には今のところ何も出ていないが、いずれ遭遇した敵の情報で埋まり、戦闘に関する数字情報がスクロールし、ゲームがぼくたちに伝えるさまざまな言葉のメッセージが表示されることになる。

──マイケル・W・クルーン『ゲームライフ』1

先日の『デジタルゲーム研究』の感想のなかで、人文系のビデオゲーム研究について(なかでも、いわゆるゲームスタディーズを念頭に置いて)「自分はこういうのっておもしろいと思ってるんだよな」と書きました。今回はその掘り下げも兼ね、『ビデオゲームの美学』という書籍をやや詳しく紹介してみようと考えています。表題2のとおり、「わたしたち」が読むものとして。

ビデオゲームの美学

ビデオゲームの美学

Amazon

ここで「わたしたち」というのは、自分も含めた「ふつうのビデオゲームプレイヤー」のことです。わたし自身が「ふつうのビデオゲームプレイヤー」かどうかについてははなはだ自信がないのですが、ひとまずそうさせてください。そして、わたしを含めたふつうのビデオゲームプレイヤーの層はそれなりに広く、本書が扱うような分野の素養があったりなかったりするはずです。わたし自身は(ここのところ多少勉強しているつもりであるとはいえ)基本的には「ない」ほうです。ということで、そういうむずそうなことわからんでも読んでみるとええかもしれんとちょっと強気におすすめしつつ、そういうむずそうなことわからんなりに読むときのポイントがどこにある(と考えられる)かの一例を示すことが本記事の目的です3

なぜ読むのか

内容の紹介に入ると長くなってしまうため、先に大事なことを。本書──というか、一般にゲームスタディーズに類するような議論を知っておくとよいと考える理由について簡単にまとめておきます。もちろん、なにかよいことのために本を読まなくたってよいのですが、いちおうね。

といいつつ、まさに本書の序章に(アカデミックな文脈での意義を述べたうえで)一般のプレイヤーおよびビデオゲーム制作者向けの意義を直接的に説いている部分があるため、まずはそのプレイヤー向けの部分を引いてきましょう。

第一に、本書を通して、ビデオゲーム作品を受容する実践についての理解と反省を深めることができるだろう。本書の理論的枠組みは、プレイヤーが経験するものとしてのビデオゲーム作品の構造を分析したり、ビデオゲーム作品の評価項目を記述したりするための道具立てを与える。その枠組みは、当然ながらプレイヤーが自分自身の経験を反省的に理解するのに役立つ。また、プレイヤーが批評──理由にもとづいた価値づけ──をする際には、その考えの整理や表現の正確さに寄与するだろう。概念は、考えるための、そして考えを言葉にするための道具なのだ。(p.20)

つまり、「ビデオゲームについて考えるための、そして考えを言葉にするための道具」を整理してくれるのが本書ならびにゲームスタディーズという学問なわけです。本書を読むことで、「あのゲームのどこがおもしろかったんだろう」「あのゲームとこのゲームでどこがちがうんだろう」「ゲームについての話に使われるあのことばはどういう意味なんだろう」といったことが、いまよりもっとよくわかるようになるかもしれませんよ、と。ひいては、だれかほかの人とビデオゲームについて話すときだって、もっとスムーズにコミュニケーションをとることが可能になるかもしれませんよ、と。

このあたりはビデオゲームに関する本書にかぎらず、たとえば小説に関してフィクション論やら物語論やらの本を読むモチベーションとも通じるところでしょう。自分自身、まさにこうしたモチベーションのもとでこれらを読んでいるところが少なからずあります。

ただもしかすると、そういう「理論」を追い求めているうちにわからないところが見えなくなってしまうのではないか、ごちゃごちゃしたものを排除してしまうのではないか、みたいな懸念をもつ人もいるかもしれません。ある種の神秘性や私秘性に重きを置くというか。

そんな人には──というか、自分だって一方でそういう面があるのですが──「そういうところはどのみち残るし、むしろわからなさそれ自体が以前よりもよく見えるようになると思うよ。なんなら、とくに神秘的/私秘的でもなんでもないものを神秘的/私秘的なものと取り違えることがなくなっていいかもしれないよ」と言いたい。どのみち理論はすべてではなく(それははなから目指してなかろう)「できる範囲で整理するならこうできそう」という提案とその改良の積み重ねがはじめから想定されているわけですし。

あとそもそもの話として、道具なんだから使いたくないときには使わなくてもいいんですよ。そのくらいの距離感でいいのだと自分は考えています。そのうえで、仲間がほしくておれはこれを書いている。

もちろん、そうはいっても「ほんまかいな」となるでしょうから、以降でもうすこし詳しい説明を試みます。

どんな本なのか

読むにせよ読まないにせよ、あらかじめざっくりとした内容について知っておけるとなにかとよいのではないでしょうか。以下である程度簡潔に内容を紹介することにします。

紹介文を見てみる

とりあえず版元/著者自身による紹介を見てみましょう。この本についていちばんよく知っているのは彼/彼女らのはずなので。

慶應義塾大学出版会のサイトにある紹介文によれば、本書は 「ビデオゲームを一つの芸術形式として捉え、その諸特徴を明らかにすることを試みる。[…]多くの事例をとりあげながら、ビデオゲームを芸術哲学の観点から考察し、理論的枠組みを提示する」 ような一冊とのこと。わりと端的なまとめだと思いますが、端的すぎてちょっとわかりづらいですよね。これについてはあとでもうすこし補足します。

続いて著者自身による紹介。いろいろあるのですが、ひとまず右記。「本の全体としては、『ハーフリアル』の続編みたいなものとして読んでいただくのが一番わかりやすいかもしれません。それから、現代の英語圏美学(分析美学)の基本的な考え方を広く把握するのにもある程度使えると思います(入門レベルですが)」 とのこと4。こちらはこちらでちょっと文脈が乗ってんな。

実際そのとおりで、この紹介を読んでピンとくるなら本書じたいもまったく問題なく読めるはずだし、すぐ読めばいい(というか、自分が偉そうにおすすめするまでもない)。ただ、『ハーフリアル』を読んだことがなければ「続編といわれても……」となりそうだし、現代の英語圏美学に興味がない(そもそもどういう議論がされているかを知らない)と「入門といわれても……」となってしまうかもしれません。

ただ実際のところ、『ハーフリアル』を読んでいなくても本書は読めますし5、美学というと身構えてしまうかもしれないものの、現代においてはふだんのなにげない感覚(これかっこいいな、とか)も扱う分野であり6、また芸術作品であることと娯楽作品であることとは排他ではない(本書第3章4節)という事情も鑑みれば、気軽に入門してみてもよいのではないかと思うのです。

問いと理論的枠組み

さて、改めて先ほどの版元の紹介文を見てみると、どうやらここでは「問い」と「理論的枠組み」に触れられているようです。これらについてもうすこし掘り下げます。

まず本書の「問い」についていえば、序章にて明確に述べられています。すなわち、「ビデオゲームはどのような独特の特徴を持った芸術形式なのか」 というのが本書の主要な問いです7。ここで「芸術形式」というのは、たとえば小説だったり彫刻だったり映画だったり、そういった芸術の種類のことだと考えておけばひとまず問題ないはず(ビデオゲームは芸術である、という話は第3章にて)。ざっくりいえば、「ビデオゲームらしさ」「ビデオゲームならではの特徴」ってどういうもんなんやろね、ということを考えようとする本なわけです。

次に「理論的枠組み」について。「ビデオゲームらしさとはなんぞや」とはいったって、やみくもに考えてもうまくいかないものでしょう。きっと枠組みというものがあるといい。本書におけるもっとも重要な枠組みは、第2部の第4章から第5章にかけて提示される 「一つの統語論と二つの意味論」 でしょう。より具体的には、おおよそ以下のようにまとめられるでしょうか。

  • ビデオゲームをプレイしているとき画面に表示される要素やスピーカー/ヘッドホンから聞こえてくる音など(の組み合わせ)8は、以下の2種類のものごとのどちらか、あるいは両方を表しうる
    • 虚構世界:架空のキャラクターやできごとなど。「ルイージはマリオの弟だ」とか
    • ゲームメカニクス:プレイヤーの入力にしたがって処理をおこないその結果を出力するシステム。「1UPキノコを取ると一機増える」とか

つまり、ビデオゲームにおいては、全体としてはひとまとまりとなっている出力装置上の要素たちが表しているものを2種類に区別できる、というのが本書の基本的な立場です。そして、この見方のもとでビデオゲームのさまざまな側面を検討していきながら「ビデオゲームらしさ」を考えていくというわけ9。なんなら、この区別をつけることでビデオゲームにまつわるいろんなことがクリアに理解できるよ、と。

ここで注意点を二つ。

まず、(詳しくは第2章で述べられるのですが)本書はゲームをプレイするという一連の過程のうち「意味作用」の側面に焦点を当てているという点です。先ほどの「一つの統語論と二つの意味論」のまとめを見ればわかるとおり、これは出力装置上の要素をプレイヤーが受け取って考えたり感じたりするフェーズ(これが「意味作用」のフェーズ)の話であり、それを受けてプレイヤーが入力装置を操作するフェーズ(こちらは「行為」と呼ばれる)についてはほとんど触れられていません。実際「行為」の側面はビデオゲームにおいて重要なトピックではあるものの、それについては「意味作用」の検討に必要なぶんだけしか論じられておらず、今後の課題として残されているとしています(第2章および終章)。とはいえ、行為のベースにはやはり意味作用があるわけですし、他の芸術形式と比較しやすいのもこの側面であるという事情も汲むならば、納得できるところなのではないでしょうか。

また、前述の問いに対する具体的な答えについて。たしかに本書全体を通して「ビデオゲームらしさ」を散発的に述べてはいる(というか、「らしさ」を述べることを見据えて記述が進んでいく)ものの、最終的に「これがビデオゲームらしさですよ」と列挙してみせるような形でまとめられているわけではありません。ある意味では、前述の枠組みを提示しそれが「らしさ」を含めたビデオゲームの分析に活かせるさまを見せることが主眼の本であるとは言えるでしょう。とはいえそもそも、そんなふうに列挙できるものなのかどうかといえばそりゃ難しいわけで、それを引き出す一助になる本と考えればよいところではあります。

各章の概略

おおざっぱな内容がわかったところで、続いてはより具体的に、各章でどんなトピックがどのように論じられているかを見ていきます。その際、ある程度強引に「ここは覚えておいたほうがよさそう」「ここはいったんスルーでも大丈夫そう」という提案も試みます。また、本書は既存の美学や芸術哲学との接続を重視した内容ともなっているのですが、それらへの言及はわたしたちには当座関係ないものとして、あえて落としてあります。

第1部:芸術としてのビデオゲーム

本論である第2部に入る前の足場を固めるような、著者自身の紹介にもあるとおり「美学入門」という色彩の強い第1部。面倒そうならスキップしてかまわないと第1章冒頭でも述べられているし、たしかにおおむねそうなのだが、前述の「意味作用」の説明がある第2章5節だけは押さえておいたほうがよいと思われる。

第1章:ビデオゲームとは何か

『ビデオゲームの美学』といったって、なにを対象にしているのかがはっきりしないとどうしようもない。というわけで、本章では「ビデオゲーム作品」を定義する作業がおこなわれる。とはいえ、この定義にあたってはわれわれ一般のプレイヤーの直観に沿うことが重視されている(記述的定義として外延的に十全であることを目指している)ため、「たしかにそうだな〜」くらいに感じたうえで忘れてしまってもとくに問題ないのではないだろうか。あえていえば、一般論としての「定義とはなんぞや」という話(1節)と、「ビデオゲーム」と「ビデオゲーム作品」の区別(2節)あたりだけ覚えて帰れれば十分だと思う。

なお、既存の研究10を検討(3-4節)した結果、本書におけるビデオゲーム作品は以下のようにまとめられている(5節)。

すなわち、ビデオゲーム作品とは、下記の3つの特徴をすべて持つものである。

  1. 視覚的デジタル媒体を通して実現される人工物である
  2. 娯楽的に、あるいは、芸術的に受容されることを意図された(あるいは慣習的にそのようなものとして見なされている)ものである
  3. その受容のあり方が以下のいずれかであるよう意図された(あるいは慣習的にそのようなものとして見なされている)ものである
    • ゲームのプレイ
    • インタラクティブなフィクションの受容
    • シミュレーションの受容

ここで注意しておきたいことは2点。まず、これは表現媒体11としての「ビデオゲーム」の定義ではなく、それに属する個々の「ビデオゲーム作品」の定義であること(前者はそれこそ「ビデオゲームらしさ」から定義すべきなわけで、本書全体の目標の側にある)。また、この定義では狭義のゲーム(作品)ではないものもビデオゲーム作品とされている(したがってビデオゲームはゲームの下位分類とならない)ため、「アートゲームなんかビデオゲームじゃねえぜ!」みたいなこだわりをもつ人にとっては不満があるかもしれない(そういう人はまあ、適宜修正して考えましょう)。

このほかサブトピックとしては、ビデオゲーム作品の媒体構成は一般に「出力装置(視覚的なもの以外も含め、本書では「ディスプレイ」とよぶ)」「入力装置(コントローラ)」および「演算処理媒体(コンピュータ)」の3つからなるという話(6節)とか、「ビデオゲーム」や「デジタルゲーム」といった呼び名および本書が「ビデオゲーム」を採用する理由とか(7節)。

第2章:ビデオゲームの意味作用

章見出しのとおり本章は「意味作用」とはなんぞやというのがメイントピック(のひとつ)となっており、それについて理解しておくためにも本章5節「ビデオゲームの受容過程」だけは目を通しておくとよいと思う(図2-1を見ればおおむねひとめでわかる)。意味作用についての説明は本記事でもすでに行っているため繰り返さない。

そのほかの本章のトピックとしては、芸術作品の受容そして評価とはどういうものか(2節)、その際にその作品が属するカテゴリーが重要であること(3節)、芸術の存在論とそのなかでのビデオゲームの位置付け(上演芸術と再生芸術の性格をあわせもつ。4節)など。2-3節はざっくりいえば「らしさ」を考えることがなぜ重要なのかについての話なので、そういったことに興味があれば読んでおくとよいかもしれない。次章とあわせてかなり美学美学した章。

第3章:芸術としてのビデオゲーム

「ビデオゲーム(という表現媒体)は芸術(芸術形式)である」と主張する章。この主張については著者自身によるまとめがあるため、これを見てもらうのがいちばんてっとりばやいと思う。現代的な美学における「芸術とはなにか」みたいな議論のざっくりしたまとめにもなっている。

ビデオゲームは芸術か:『ビデオゲームの美学』3章をわかりやすく書く - 9bit

ただ、こういった議論は一般のプレイヤーとしては興味を持ちづらく、「そりゃ芸術でしょ」とか「まあどっちでもいいんだけど」くらいの人が多そうだとも感じる(自分は前者である)。それでも、4節「娯楽と芸術」にあたりは読んでみるとおもしろいのではないか。娯楽作品であることと芸術作品であることは排他ではなく、そのうえでビデオゲームにまつわるわれわれの実践をみればたしかにそのように扱っている(し、だからこそ本書のような試みがある)ということをしっかり納得できるのではないか。

そのほか、ビデオゲームの歴史を振り返りながら「ハイブリッドな芸術形式」のひとつとしてビデオゲームを位置付ける話(5節)など。

第2部:一つの画面と二つの意味

実質的な本論となる部。くだんの「一つの統語論と二つの意味論」という枠組みを実際に提示し(第4章-第5章)、それぞれの意味論について掘り下げる(第6章-第7章)。

ここで提示した枠組みを実際に応用して見せる(そしてそのぶん、実際のビデオゲーム作品からの事例もたくさん出てくる)第3部のほうが一般のプレイヤーとして読んでて楽しいところかもしれないが、この第2部をある程度理解していないとちんぷんかんぷんになってしまうので、がんばっていきましょう。

第4章:ビデオゲームの統語論

本章で最低限おさえておきたいのは、記号-表象-内容の関係と統語論/意味論の区別あたり。

まず、記号-表象-内容の関係(1節)について。といってべつにむずかしいことはなく、〈「ポチ」という文字列(記号)がそこにいるポチ(内容)を表す(表象する)〉みたいな関係がいろんなところに見られるよね、以降ではこの形の関係があればこんな用語の使い方をするよ、くらいの理解でいいんじゃなかろうか。

2節の「記号システム」の話はひとまずスルーでよく(いいと思う)、統語論と意味論の区別について(3節)。論理学とか言語学とかについて知っているならその通りのことが書いてあるだけなのだが、もっぱら記号たち(の組み合わせ)に関してのみで言えることを考えるのが統語論で、その記号たち(の組み合わせ)によってなにを表しているかを考慮するならそれは意味論だよ、という感じだろうか。いつも思うのだけど、われわれは記号そのものについて考えているつもりでも無意識に「なにを表すか」の視点を盛り込んでしまいがちで、統語論と言いつつ実はそれ意味論だよみたいなことがけっこう起こるんだよな(そうだよね?)。

で、ビデオゲームにおける「記号」つまりなんらかの内容を表すものはなんなのかというと、それはディスプレイ(モニターやスピーカーなどの出力装置)に現われる諸要素である(4-5節)。画面に写っているヒゲのおじさん12という記号がマリオという内容を表象している、とか。もちろん、ディスプレイに現れるあらゆる要素がなにかを表しているとは言い切れない(音の場合はとくにそうだろう)から、あらゆる要素が記号であるわけではない。

続く本章の後半(6-9節)では、ビデオゲームに関してしばしば言及される「インタラクティブ性」について検討されている。ここややこしいんだよな……正確とはとてもいえないが、さしあたって下記くらいで把握しておけばいいんじゃないだろうか(インタラクティブな芸術の定義の書き下しに自信がないし……)。

  • たんに「作品にはたらきかけるとなにかが変化する」というだけでは「インタラクティブな芸術作品」とはいえない。そう言えるには:
    • その変化は完全にランダムでも完全に予期できるものでもいけない
    • その変化は作品にとってある種の意味のある(美的構造を変化させる)ものでなければならない
    • その変化は作者が意図したものでなければならない
    • ──といったこと自体を受け手がわかっていなければならない
  • ビデオゲームの場合、この相互作用の対象は(ディスプレイやそこに現れる記号もそうだがそれだけではなく)ゲームメカニクスでもある
    • ゲームメカニクスはあくまで記号によって表象される内容であるため、ミスリードの可能性をひらいたりできる

とはいえそもそも、現時点では「ゲームメカニクスってなんだよ」という感じのはずなので、このへんはざっくりでいいんではないか。実際、インタラクティブ性だとかゲームメカニクスとの相互作用だとかについてはこのあともちょくちょく出てくるし。

第5章:ビデオゲームの意味論

本書の基本的な枠組みとして紹介した「二つの意味論」の区別について詳しく述べられる章。繰り返しておくと、ビデオゲームにおいてディスプレイに現れる記号は以下のまったく異なる2種類の内容を(ときには同時に)表しうる(1-2節。同時に表すこと、すなわち「重ね合わせ」については6節)。

  • 虚構世界:架空のキャラクターやできごとなど。「ルイージはマリオの弟だ」とか
  • ゲームメカニクス:プレイヤーの入力にしたがって処理をおこないその結果を出力するシステム。「1UPキノコを取ると一機増える」とか

で、3節でいきなり「量化のドメイン」とか言われるんだけど、そんないきなり存在論的コミットメントがどうこうとかいう話をされてもめんくらうだけなのでいったんスルーでいいと思う。とりあえず「この二つはまったくべつものなんだな」ということだけ理解しておけば問題ないはず。ゲームメカニクスが「現実的なもの」と言われても違和感があるという人もいるかもしれないが、それについては第7章で(のとくに9節以降)詳説されるのでそちらを待ちましょう。

ちなみに、本書においてはこの区別がほんとうにあるのかに対して論証を与えない(!)。なんとなれば、われわれ(わたしたち一般のプレイヤー!)は実践のレベルですでにそれらを区別しているではないか、と13(4節)。「この《キノコ》はなんなの?」「ええと、それは(虚構世界とゲームメカニクス)どっちの意味で?」14

そのほか、5節では本書のこれ以降の用語法についていくつか紹介がある。ざっと眺めておきましょう。

第6章:虚構世界

ここからは、二種類の意味論のそれぞれを掘り下げていく。本章はまず「虚構世界」について。流れとしては、前半の1-6節でビデオゲームに限らないフィクション一般の話(つまり、「フィクション論」と呼ばれる分野の議論の紹介)をしたうえで、後半の7-11節でビデオゲームにおけるフィクション、とくに、ビデオゲームのインタラクティブなフィクションの側面について検討している。

前半のポイントを強引にまとめるなら、次のようになるだろうか。

まず、フィクション作品における虚構世界の表象には「虚構世界を表す」と「虚構世界を作り出す」という二つの側面がある。作り出しつつ、それについて述べてもいる、というわけ。このうち「表す」という側面についていえば、ノンフィクションにおける現実世界の表象と原則的には変わらない(3節)。もちろん相違点がまったくないわけでもなく、たとえばその真偽の判断をおこなうための経路がかなり(具体的には、作品そのもののほか、作者の発言やジャンルの慣習などに)限られている。また、ある一つの虚構世界に対する表象の種類が一般に少ないことも挙げられる。翻案のような事例はあるが、それらが同一の虚構世界を表象していると言えるかははっきりしないし、そもそも普段それを特定する必要はない。現実の表象が互いに矛盾しているとき一方は誤りであるということになるが、虚構の表象においては別の虚構世界を表象しているという形で済ませることができてしまう。このほか、(一定程度の)無矛盾性への要求や不確定性の問題などの話もおもしろいんだけどここでは割愛。

「表す」という側面において現実世界の表象との相違点が生じるのは、虚構世界の表象に「作り出す」という側面があるためである(4節)。しかし、虚構世界を「作り出す」とはどういうことか。本書の立場としては、これを作者による「ふり」と受容者による「ごっこ」によるものとして捉える。作者は現実世界に関する報告のやり方を流用して(その「ふり」をして)虚構世界について述べ、それを受け取った受容者はその報告の内容が真であると想像する(そうである「ごっこ」をする)。このとき受容者がどのような想像をするかは、作者の意図によるかもしれないし、あるいはジャンル等その社会における慣習によるかもしれない(5節)。

……などとまとめてはみたけれど、さしあたっては「われわれがフィクションを受容するとき、現実ではないことをあたかもほんとうのことのように想像している」ということだけわかっていれば最低限OKなのかもしれない。

さて、以上をベースに、本章の後半ではビデオゲームがまさにそうであるところの「インタラクティブなフィクション」という概念が詳しく検討される(8節)。とはいえ、たんに「受容者がその虚構的な内容を左右できるようなフィクション」(弱い意味でのインタラクティブなフィクション)というだけであれば第5章を援用しつつ簡単に定式化できる(そして、きわめて抽象的な作品を除けばたいていのビデオゲーム作品はこの意味でインタラクティブなフィクションである)。問題は、「インタラクティブなフィクション」といったとき「受容者が虚構世界のなかで『虚構的な役割』を演じるフィクション」(強い意味でのインタラクティブなフィクション)といったニュアンスまで込められているケース。これはいったいどのような事態を意味しているのか。

この「強い意味でのインタラクティブなフィクション」の解釈において重要なのは、ある局面でプレイヤーが「自分がそれを行った」と想像するということではなく(それだけなら小説を読むときにだってそのように想像することはあるだろう)、そのうえで「そこで起こっている出来事が自分の行為の結果である」と想像しうるということである(9節)。たとえば、プレイヤーの選択によって、虚構世界上の人物が死んでしまった(そのような記号が現われ、プレイヤーもそのように想像した)としよう。そのとき、「それを引き起こした行為たるプレイヤーの選択こそがその人物の死を引き起こした虚構世界上の行為である」と遡及的に想像されることになるであろう……という感じ。これは事後的に意味付けられる例だが、逆に虚構世界についての想像に動機づけられて現実の選択を行うような例もある(ビアンカとフローラの選択が例として挙げられている)。

こういった「虚構世界に自分が入り込む」ような想像をする「自己関与型プレイ」だけでなく、「すでに虚構世界上に存在している特定のキャラクターになりきる」ようなプレイもしばしば見られる(10節)。本書では、後者のようなプレイを「ミミクリ型のプレイ」と呼ぶ。ミミクリ型のプレイはたとえば、「このキャラクターならこの選択肢を選ぶだろうな」といった動機の形成のしかたをするという点で、「自分ならこれを選ぶ」といった動機の形成のしかたをする自己関与型のプレイと異なっている(もちろん通常のビデオゲームのプレイにおいて完全にどちらかであることはまずなく、濃淡のちがいはあるとはいえふつうはこれらが同居している)15

ここまでインタラクティブなフィクションとしてのビデオゲームについて見てきた。けれどもゲームプレイにおける動機は虚構的な内容だけに左右されるわけではなく、「どっちがクリア楽になるかな〜」とか考えることもあるわけで16、したがってインタラクティブなフィクションという観点のみからビデオゲームを考えるのは適切でない(11節)。ということで、次章でゲームメカニクスについても考えましょうねという話がされて本章おわり。

そのほかのトピックとしては──前半だと「フィクション」と「物語」の区別について(1節。いやほんとこれはマジでみんな区別してほしい)、虚構に関する言説の区別(2節)、虚構世界の存在者のカテゴリは(特に断りのないかぎり)現実世界と変わらないこと(6節)など。後半だと、ビデオゲームにおける視覚様式上の特徴、およびそれはビデオゲームのナラデハ特徴とはいえないこと(7節)など。

第7章:ゲームメカニクス

ここまでのところ、ゲームメカニクスに関して「入力、処理、出力の機能を備えたある種のシステム」であるとか、プレイヤーがゲームプレイのなかで実際に相互作用する相手であるとか言ってきたけれど、それではゲームメカニクスとはいったいなんなのか。

というわけで「ゲームメカニクス」を定義し掘り下げる章、なのだが……本書でもっとも長い章であり流れを見失いやすいし、しかも正直かなりむずかしいんだよな……。かなりおおさっぱな流れとしては下記のようになるだろうか。

  • 1-6節:(非ビデオゲームも含めたゲーム一般における)「ゲームメカニクス」の定義をおこなう
    • その過程で、既存の研究(本書の「ゲームメカニクス」は、ユールなどが「ルール」と呼んでいる概念に相当する)が検討されたり、ゲームメカニクスの機能は「行為のデザイン」である(行為を制約するだけでなく「形作る」)という話がされたり、自己目的的であるといった特徴をもつ「ゲーム行為」という概念が定義されたり、本書特有の「美的行為」という概念が導入されたりする
  • 7節:ゲームメカニクスの構成要素にはどんなものがあるかを論じる
  • 8節:ビデオゲームのゲームメカニクスのどこが特殊なのかを論じる
  • 9-11節:ゲームメカニクスは(虚構世界と異なり)あくまで現実に存在するもので、ある種の制度としてとらえられると論じる

前章と同じで前半が一般論となっているわけだが……そう、「ゲームメカニクス」を定義するために本章の半分くらいを費しているのである。最終的に6節末で示されるゲームメカニクスの定義は下記。

ゲームメカニクスは、それによってゲーム行為という種類の行為を生み出すことを意図された(あるいは慣習的にそのようなものと見なされている)ものの全体である。ゲーム行為とは、その目的それ自体は必ずしも望ましいものではないが、その目的を受け入れることによって生じる手段の系列がそれ自体として望ましいものであるような行為のことである。ゲーム行為の内在的性質とその望ましさは、美的行為という観点から説明できる。 (p.186)

おわかりになりますでしょうか……たぶん一読して理解できるものではないんじゃないかと思います(このような定義に至るために紙幅を割いて予備的な概念を用意していっているのだから当然である)。わたしとしても理解できているかたいへんあやしいのですが、かっちりとした定義は置いといてとりあえず「ゲームメカニクスってだいたいどんなものなのよ」という直観的な把握だけを目指すのであれば、7節を読めばおおよそ問題ないようにも思われます。それについてはこのあと説明するとして──(自分のためにも)「ゲーム行為」についてまとめてみようと思う。

本書における「ゲーム行為」とは、(個別化の粒度はいろいろありうるとはいえ、典型的には)たとえば将棋の一手のようなことがらを指す。そして、これはゲーム行為を繰り返す(つまりゲームをプレイする)プロセス全体とは区別される(この「プロセス」は、上記の定義における「手段の系列」に対応する)。個々のゲーム行為は特定の目的(たとえば「勝利する」)のための手段であるが、その目的それ自体で価値があったり、あるいはその目的が価値と結び付けられていたりする必要はない(もちろん、結び付けられることもしばしばある。あくまで「その必要がない」ということ)。「でも、ゲームするのって楽しいじゃん」と思うよね。これは実際のところその通りで、「その目的を受け入れることによって生じる手段の系列がそれ自体として望ましいものである」というのはこのことを指している。「ゲーム行為」の目的自体に必ずしも価値があるわけではない(個々のゲーム行為の目的は楽しみではない)けれど、その目的を受け入れてゲームに参加しそのプロセスを経験することは楽しい……みたいなイメージか。そして、ゲームメカニクスの機能というのはこういった行為をデザインすることにある、と。

……という感じの、はず……。とはいえまあ、やっぱよくわからんので、ここでは具体的なゲームメカニクスの構成要素についてイメージを持っておこう。本章7節では、ゲームメカニクスの構成要素(存在者のカテゴリ)として以下が挙げられている(p.187にあるものを多少改変)。

  • (a) 可能な状態:そのゲームプレイにおける事態はどうなりうるか
  • (b) 現在の状態:そのゲームプレイにおけるいまの事態はどうであるか
  • (c) 状態遷移規則:どういう事態になれば、どういう事態になるか
  • (d) 行為可能性:プレイヤーは何をできるか/できないか
  • (e) 目標(の一部):プレイヤーはどうすべきか/すべきではないか
  • (f) ゲーム的記号(の一部):ゲームメカニクスの要素についての内容を持つ記号

たとえフィクションの側面やこれらを表すための物理的な素材が異なっていたとしても、これらが同じであればゲームメカニクスが同じであるといってよい17(ゲームメカニクスは「形式的」なものであるということ)。

ここに挙げられているうち、a-cは(本章の序盤などでも示されているとおり)有限オートマトンに類比して考えればわかりやすいだろう。とらえようによっては「プレイヤーがゲームメカニクス上でできること」であるdも(入力の集合として)このアナロジーの上で考えられるかもしれない。

eの「目標」とははすなわち、〈すべきこと/すべきでないこと〉。目標はあくまで提示されるだけであり、プレイヤーはそれを「目的」として受け入れることもできるし、逆らうこともできる──のだが、指定された目標を受け入れない逸脱的なゲームプレイヤーはそのゲーム(目標を受け入れた場合のそのゲーム)をプレイしているといえない、かもしれない。いえるかもしれない。このあたりはわりとケースバイケースである(なので「一部」なわけ)18

fはゲームメカニクスを表象するための記号のこと。こういった記号それ自体もゲームメカニクスである。素直に解せば説明書の記述などもこれに含まれうるのだが、それをゲームメカニクスとは言わないだろうから、いくらかの制限がかかってくるようには思われる(これも意図や慣習によるであろう。ということで「一部」)。

ここまではゲーム一般の話。それでは、ビデオゲームのゲームメカニクスに固有の特徴とはなにか(8節)。本章の序盤でも軽く触れられているのだが、改めておおむね次のとおりまとめ直されている。なお、ゲームメカニクスそれ自体は抽象的なものなので、実際に機能するものになるためのなんらかの方法で具体化されなければならない。本書ではこの過程を「現実化」と呼んでいる(このあたりは2節で説明がある)。

  • 現実化が非規範的である
    • たとえば、サッカーにおいては「原理的には手でボールを触れるけれど、それは反則になる(やってはいけない)」という規範的な形で行為に制限をかけるのにたいし、ビデオゲームにおいてはふつう、端的に「できる/できない」という形で制限がかかっている
  • 現実化が自動的である
    • たとえば審判が必要なかったり、状態遷移(駒の移動、とか)を人間が行う必要がなかったりする
  • 非ビデオゲームよりもはるかに情報量の多い処理を許容する
  • 非ビデオゲームよりも正確に運用される(逆にいえば柔軟性がない)
  • 作者の意図しない形での現実化、すなわち「バグ」がありうる
  • 基本的に意味論的に単純な情報しか処理できない
    • たとえばプレイヤーキャラクターの選択を完全にフリーワードで行って、それをメカニクスの側で解釈してくれるようなことは、現状まだできない。TRPGだと現実化を人間がやるおかげで、わりとできる

ビデオゲームにおいてゲームメカニクスの現実化を担うのがコンピュータハードウェアであるという事情がこの特殊性にかかわっていると言ってよさそう。

最後の9-11節はゲームメカニクスの存在論について。全面的にサールの社会的存在論を援用しておりここもけっこうしんどいところなのだが、おおざっぱに説明するなら下記くらいになるだろうか。とりあえず「ゲームメカニクスは現実のもの」ということが主張したい部分ではある。

たとえばここに野球をしているA君たちがいて、そのとき「A君がバットで打ったボールがフェンスの向こうに飛んでった」という事実(「なまの事実」と呼ぶ)があるとする。野球という文脈において、これは「ホームランである」とみなされる。この「ホームランである」という事実が「制度的事実」であり、野球において「A君がバットで打ったボールがフェンスの向こうに飛んでった」ことを「ホームランである」とみなすルールを「構成的規則」という。なまの事実をある文脈でどのような制度的事実としてみなすかというルールが構成的規則、という感じ。

このように、野球のルール(野球のゲームメカニクス)というのは、あきらかにこういった構成的規則の体系、すなわち「制度」である。このように考えると、たしかにゲームメカニクス上の事実(制度的事実)は現実に含まれており、その点で虚構世界とはまったく異なっているといえる。もちろんビデオゲームのゲームメカニクスについても同じで、コントローラによる入力を通したハードウェアの状態変化をゲームメカニクスの状態変化とみなしているといえる。

第3部:二つの意味のあいだで遊ぶ

そんな調子で第3部についてもまとめていこうかと思ったのですが──すでに2万字を超えてきてしんどくなってきたため、以下では各章のトピックを挙げるにとどめます。第2部で提示された理論の切れ味を試す部分であると同時に、読者にとっては「統語論と意味論のちがいってそういうことなのか」みたいに応用例を通じて理論に習熟していく部分だといえるでしょうか。もちろん、単純にいろんなゲームが実際に事例として使われるところでもあり、第2部の内容だと抽象的すぎて使い道がわからんかった(かもしれない)「思考の道具」について「こうやって使えばいいのか」と思える部分でもあります。

  • 第8章:二種類の意味論の相互作用
    • 章見出しのとおり虚構世界の表象とゲームメカニクスの表象の相互作用について簡単に考察される章
    • 相互作用の基本的な型として、ゲームメカニクスの内容を虚構的な内容から類推する「類比的推論」、虚構的内容を通したゲームメカニクスの把握それじたいを楽しむような「謎解き」、そしてゲームメカニクスが虚構的内容の動的なモデルとなっている「シミュレーション」の3つが紹介されている
  • 第9章:ビデオゲームの空間
    • ゲームにおける「空間」を一つの統語論的空間(画面)と二つの意味論的空間(虚構空間とゲーム空間)に区別して考えるといろいろ整理できるよ、という章
      • ある程度特殊なビデオゲームでもなければ虚構空間はたいてい3次元であるいっぽうで、ゲーム的空間は2次元である(キャラを2軸でしか動かせない)ことも多いよね、とかそういうことが言えたりする
    • それぞれの意味論的空間がどんな空間であるか(2次元であるとか3次元であるとか)というのとは独立に、視角や投影法といった「遠近法」を考えられる
      • つまりゲーム空間を表象するための遠近法と虚構空間を表象するための遠近法は別々に考えられるわけで、その組み合わせ方によっては印象的な場面を作り出せる
      • ここのレイディアントシルバーガンの例は「まさに!」という感じなんだけど、ほかの図版に比べて妙にデカく掲載されていてちょっと笑ってしまった。良い
  • 第10章:ビデオゲームの時間
    • 時間についても一つの統語論的時間(実時間)と二つの意味論的時間(虚構時間とゲーム空間)に区別して考えるといろいろ整理できるよ、という章
      • たとえば、カットシーンにおいては統語論的時間が進むに従って虚構時間も進む一方で、ゲーム時間は止まっている、とか(そのうえで、ゲームメカニクス的な目標の提示が行われうるという点で、ゲームメカニクス面での出来事がまったく起こらないと言うことはできない)
      • 「リアルタイム」と「ターンベース」の違いも、こうして区別された時間概念と入力可能性との関係でうまく説明できる
  • 第11章:プレイヤーの虚構的行為
    • プレイヤーSがマリオをプレイしているときに「Sはキノコを取った」などと表現することはよくある。が、よく考えてみればこれ(「虚構行為文」とよぶ)はおかしい。Sは現実にいるにもかかわらず、その行為が虚構世界内で行われているような表現だからだ。これはどういう意味なのか、あるいはなぜこのように表現するのか……といったことについて検討する章
      • 最終的には次のように説明される。すなわち、虚構行為文が表しているのは現実の行為(ゲーム行為)であるが、それを表すのに虚構的内容を持った語彙が使われるのは、その行為を特定・表象する記号の名前として、そうした語彙が自然に使われるからである
    • 「ビデオゲームにおける殺人は道徳的にOKだがビデオゲームにおける児童虐待は道徳的にもNGであると考えられているのはどうしてか」といった「ゲーマーのジレンマ」と呼ばれる問題について、(直接的に答えるわけではないものの)この枠組みを使って問題の場所をある程度明確化したりもしている
  • 第12章:行為のシミュレーション
    • ビデオゲームにおける「シミュレーション」という概念を掘り下げる章
      • ただ、わたし自身この前半部分のシミュレーション一般に関する内容について、かなり理解に自信がないです……
      • が、とりあえず、ビデオゲームにおけるシミュレーションは、ゲームメカニクスに対するユーザの行為が虚構世界上の行為に見立てられるような「行為のシミュレーション」としてとらえられるとする
      • 「行為のシミュレーション」と「インタラクティブなフィクション」との関係についても検討される
    • シミュレーションの「写実性」についての話題も
      • 絵画などの描写においては対象にたいする情報量や正確性が増せば基本的に写実性も増すのだが、シミュレーションの写実性においてはそうとは限らない。モデル化において対象のどういう特徴に着目するかというポイントがあるため

以上が本書の概略となる。概略っていうか……まあ概略ということで。改めまして、内容の正しさは保証できませんし、誤りなどあればぜひご指摘ください。おれは! 指摘しあえる仲間が! ほしいんです!

おまけ:シミュレーションについてよくわからなかった件

最後におまけ。上にも書いたとおり、第12章の前半(1-3節)がよくわからなかったんですよね……今回読んだときの当該部分の読書メモを以下にほぼそのまま貼っておくので、どなたか詳しい方に教えていただきたいです……。

2023-12-28追記:著者による補足

……と言っていたところで、著者の松永さんから応答いただきました。曖昧な箇所も多いメモから整理したうえで説明いただいており、たいへんありがたいです(あと、概略部分はおおまかにはまちがっていなさそうということで安心しました……!)。

『ビデオゲームの美学』の「シミュレーション」について - 9bit

まとめ部分をここにも引いておきます19。自分にとってはとくに問題なく理解できる整理になっていると思えます。

モデルの表象内容と対象システムはたしかに区別されている。しかし、2つの(2種類の)表象があるという話ではなく、ひとつの文が指示と述定の働きを持つのと同じように、ひとつのモデルが対象システムを指示しつつ、表象内容をそれに述定するという働きを持つということである。モデルの表象内容は当のモデルが持つ性質の一部(あるいは一側面)であり、そしてそれが対象システムの(実際の、あるいは虚構的にそうだとみなされている)あり方と比較されることで、真偽や正確さといった評価がなされる。

記事中注2にある以下については、今回いただいた内容を補完することで読める──その部分部分でどちらの類似について言っているのかがわかる──記述になっている気はするので、この部分を本書のほかの部分に接続することともあわせて、また改めて考えてみたいところ。

記号・内容・対象の3項があったときに、「抽出」や「部分的な類似」は、記号の特徴と内容のあいだにも言えるし、内容と対象の特徴のあいだにも言える。ワイスバーグらが問題にしているのは後者かもしれない。これは区別すべき事柄だが、『ビデ美』ではその点がごっちゃになっているせいで議論がおかしくなっている可能性がある。

追記ここまで。

当時の読書メモ

シミュレーションとはなんなのか。第8章で述べたとおり「動的なモデルによる表象」ではある(ことビデオゲームにおいては、ゲームメカニクスが虚構的内容のモデルとなっている。このときゲームメカニクスが記号であり、虚構的内容がその表象内容である)。とはいえこれだけではまだ曖昧だ。以下、ゲームスタディーズだけでなく、科学的なモデルについての科学哲学の議論も援用しながらこれを明確にしていく。

まず、既存の研究に倣ったかたちでいくつか用語を導入する。シミュレーションに分類されるような種類の表象を「モデル化」とよぶ。そしてこのとき、モデル化されるシステムを「対象システム」、モデル化するシステムのことを「モデル」とよぶ。というわけでひとまず、シミュレーションは〈動的なモデルによる対象システムのモデル化〉と特徴づけられる。……どうも後段をみていくと、このとき単純にモデルが記号で対象システムが内容、ということにもならないみたいだ。おいおいみていく。

では、この「モデル化」とはどのような表象なのか。まず挙げられるのは、モデル化は「挙動のルール」を備えており、それを通じて対象システムの挙動のルールを表すという点。ただしこれだけでは十分ではない。ざっくりいえば、モデルの挙動のルールと対象システムの挙動のルールが、なんらかの点で「似ている」ことが必要である(ワイスバーグのいう「重みづけられた特徴の一致」)。同じではない(まったく似ていない)部分もあるが、なんらかの理論や関心において意味のある部分においては似ている、みたいな?

ここで、「シミュレーション」を虚構的な対象に適用することの妥当性についても軽く検討されている。結論からいえば、モデル化という概念には対象が実在しているという限定はないのだから、とくに問題ないということになる。……それはいいのだが、この節の後半の話がどうもむずかしい。たとえば下記。

モデルは表象内容を持つ。その内容を使って虚構世界が想像される場合には、そのモデルはフィクションであり、その内容を使って現実について何かが主張される場合には、そのモデルは真偽の判定が可能な現実的表象である。

言いたいことはわかる気がするんだけど、前掲の用語法にしたがえばモデルはモデル化に使われるシステムであって表象という関係項ではなかったはずで、フィクションや現実的表象であるというのはなんかおかしくないだろうか。「そのモデル化は」なら意味が通るのでそういうこと? それともなにか勘違いしている?

あるいは下記。

モデルは挙動のルールを通して表象をおこなう。まさにこのモデル化の特徴が、科学におけるシミュレーションの機能を作り出している。つまり、表象内容があらかじめ定まっておらず、ルールにもとづいた実際の挙動によってその都度内容が生成されるという特徴である。結果として、そのモデルの設計者が知らなかった対象についての内容──モデルの挙動のルールが対象のそれと一致しているなら、真であると信じるべき内容──が引き出される。モデルを使ったフィクションもまた、これと同じ特徴を持つ。虚構的なシミュレーションは、モデル化という独特の表象方式を使って、その設計者が想像しなかったような内容を生成し、そしてそれによって虚構世界を作り出すのである。

まず、モデルの挙動によって対象(の挙動)についての知識が引き出されるのはそのとおりだとおもう。それが、「表象内容」があらかじめ定まっておらずその都度生成されるからというのもたしかにそうだとおもうのだが、とはいえこのようにいうと、このモデル化という表象における「対象システム」ってのはなんなのかよくわからなくなってくる。

対象システムを表象するモデルを作り、そのモデルが改めて「表象内容」を表象する、みたいなのが想定されていて、ここの前者の表象と後者の表象は別って理解でいいのだろうか?(自分のシミュレーションに対する直観としてはそういうことになってるような気がするが、本章序盤の話からするとズレてるような気もする)

あるいは、対象システムの一定の特徴(挙動のルール)をとりだしてモデルをつくっている(この時点で対象システムと表象内容がズレる)ので、その記号としてのモデルの挙動は対象システムとは重ならない(シミュレーションというのはたしかにそういうものだ)ということ? でもそれだと「対象システムを表象する」という言い方はおそらくできない。

3節末の以下のまとめをみれば、たしかに対象システムと表象内容を区別している。

ここでモデル化におけるモデルと対象システムの類似性について再定式化しておく。モデルと対象は、必ずしも類似している必要はない。類似している必要があるのは、モデルとその表象内容である。というより、モデルの表象内容が、特定の観点と程度における類似性にもとづいて引き出されるのだ。たとえば、物理的な鉄道模型の表象内容には、ふつうそのサイズや内装、場合によっては素材や塗装が含まれない。あるいは、コンピュータプログラムで鉄道の運行をモデル化する場合には、その表象内容は純粋に抽象的な構造であって、プログラムコードのテキストやハードウェアの特徴が表象内容に含まれるわけではない。ようするに、モデルの表象内容は、モデルが持つ性質の一部が抽出されたものなのだ。ワイスバーグが言うように、どのような観点と程度でその抽出がおこなわれるかは、その都度の関心によるだろう。

一方で、そのように引き出されたモデルの内容とモデル化の対象のあり方が一致するかどうかは、モデルが現実的表象として使われる場合には、真偽の問題になる。そして、それがフィクションとして使われる場合には、正確さの問題になる。あとで述べるように、この正確さは、シミュレーションの写実性の条件の一つである。

ここらへんぜんぜんわかってないな。混乱の根っこがどこにあるのかもわからない。


  1. 武藤陽生訳で2017年にみすず書房より刊行。めちゃくちゃいい本ですよ! ある意味ではゲームスタディーズ的な整理をしなくとも魅力的なことが描けるという実例になっているのかもしれん(もちろんクルーン自身はそういった思考の道具をもってるにちがいないのだが、それを必ずしも前面に出さないという意味において)。
  2. 「『ビデオゲームの美学』最速攻略ガイド」と最後まで迷った。
  3. そういう押し付けがましい心持ちで書いているため、全体的に押し付けがましくて知ったかぶったふうな書き方になっていることは否めません。自覚はしているんだよ……。/また、恒例であり言うまでもないことだし、言ったところでなにか免責できるわけでもないのですが、そのような口ぶりのわりにやはり内容の正しさは保証できません。もちろん誤りなどあればぜひご指摘ください。
  4. なお、ここでは引いていないものの「どんどん飛ばして読んでいただいてかまいません。長いし」ともあります。本記事の冒頭に述べた「ポイント」とはそういうことで、飛ばして読むためのいち指針にできようにという意図のもとでも本記事は書かれました。
  5. そうはいっても正直なところ、ひとまず読み通すだけなら『ハーフリアル』のほうがおそらく楽だとも思う。『ハーフリアル』に盛り込まれているトピックの大部分をより厳密に整理していってる、という感じなんじゃないだろうか。本書が「上位互換」というとそれはそれでちょっと違うんだけど。
  6. このへんの事情については、ここで感想を書いた『なぜ美を気にかけるのか』などがわかりやすい。
  7. なお、そのあとにより厳密な表現として「ビデオゲーム作品がビデオゲームという芸術形式に属する芸術作品として評価される際にふつう評価項目になる特徴を明らかにすること」と言い換えられてもいます。このようなもってまわった言いまわしになる理由についてもとうぜん序章に説明があるものの、さしあたってはスルーでよいのではないでしょうか。なお、このような独特の特徴のことを本書では「ナラデハ特徴」と呼びます。
  8. 第12章注9にもあるとおり虚構的記号を出力装置上の記号に限る必要はないらしいのだけど、第4章の4-5節あたりのビデオゲームにおける記号の説明では出力装置上の諸要素の話だけをしているため、ひとまずの導入としてはこれでいい……はず。
  9. ところで(たしか明言まではされていなかったと思うのだけど)こういった「一つの統語論と二つの意味論」をもつことそれ自体だけではビデオゲームのナラデハ特徴とはいえない……のかな、たぶん。TRPGとかもそうだし。フィクションのほうにインタラクティブ性をもつという限定をかけ、ゲームメカニクスについてもその現実化が自動的なものであるとかまで狭めればほぼほぼビデオゲームしか残らなさそうだが。
  10. 今回読み返してみてむやみにびっくりしてしまったんだけど、『ハーフリアル』にある「ゲーム」の定義(ゲームは、可変かつ数量化可能な結果を持ったルールにもとづくシステムである。そこでは、異なる結果に対して異なる価値が割り当てられており、プレイヤーは、その結果に影響を与えるべく努力をおこない、またその結果に対して感情的なこだわりを感じている。そして、この活動の帰結は取り決め可能である)は明示的には参照されていないんですよね。「ビデオゲーム作品」の定義ではないというのもあるし、「ゲーム作品」の定義でも(たぶん)ないのでそりゃ関係ないといえばそうなんだけど(という理解でいいんだよね?)。
  11. 正確には「提示形式」なんだけど、ここでも「おおむね『表現媒体』のこと」とされているのでこれで通す。「提示形式とはなんぞや」ということについてももちろん本章で説明がある。
  12. 「ヒゲのおじさん」という時点ですでに「(虚構的な)ヒゲのおじさんを表している」と言っていることになるわけだから正確ではないのだが、「上部と下部が赤っぽくて真ん中へんが肌色になってるような画面上のオブジェクト」とか言っても伝わらないのでとりあえずそう言うしかない。本書のなかでは「《マリオ》はマリオを表す記号である」みたいな表記法を採用している。なお、この「そう言うしかない」みたいな状況がありがちなことは、第5章6節のゲーム的記号の個別化の話や、第11章の虚構行為文の分析と関係している(はず)。
  13. この直観はたしかにひろく共有されているものだと自分も思う。逆にいえば、本書はこれを共有しない人にとっては基本的には役に立たないということでもある(いや、ほかの人がどういう直観をもっているかを知るのには役立つが)。とはいえ、ある程度ビデオゲームをプレイしていてこの直観を共有しない状況というのは自分には想像しづらいというのが正直なところで、もしいるなら話を聞かせてほしいと思うくらいだ。もちろんビデオゲームに慣れていない人にとって、この区別がわからない、そのせいでビデオゲームをプレイするのが難しいと感じるといったケースはあってもおかしくないとも思う。
  14. 虚構世界では文字通りキノコという生物(生物だよな……)、ゲームメカニクス的にはプレイヤーキャラクター(虚構的にいえば、マリオ)をパワーアップさせるアイテムである。
  15. Disco Elysium: The Final Cut(またはロールプレイの諸相) - 青色3号 の最後のほうで「『ロールプレイ』において、キャラメイクのときにおおざっぱな特徴は考えてもその後の内容がわからないために細部までは確定させられず、プレイの進行とともに選んだ選択肢やステータスの強化を再帰的に適用しながらキャラクターを固めていく」と言っているのがたぶんこのへんの話にあたると思う。
  16. もうひとつ、シミュレーションの観点にも触れられているのだが、まとめるのがややこしいためここでは割愛する。
  17. ……とされているが、常識的に考えれば「現在の状態」は同一性の基準に含めないんじゃないだろうか。オートマトンのアナロジーを考えるにあたって、状態の集合や入力の集合、状態遷移規則、初期状態といったものが特定のオートマトンを構成するのであって、それを「走らせた」際のそのときどきの状態というのはそこに含まれないように。
  18. たぶん ゲームをプレイする正しいやりかた - C. Thi Nguyen - 青色3号 あたりが関係する話だと思う。
  19. ところで、本記事(応答いただいた記事ではなく、自分のこの記事)の第4章のまとめでは「表象」をかなりざっくりした説明(たんなる「指示」としての例示)ですませているのだが、この第12章の事情を考えるならそれだけだと不十分といえるのかもしれない。というか、第6章で「表す」と「作り出す」を同時にやっているという話などもすでにそうだろうか。