『フィクションとは何か』第6章のメモ

第6章 参加すること

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

承前: murashit.hateblo.jp

ごっこ遊び(的なゲーム)において、われわれはどのように参加しているだろうか、という話。さまざまな制約の話と、あとメタフィクションの説明あたりが読みどころだと思う。

子どもたちの遊びへの参加

まずは文字通りの(子どもの)ごっこ遊びへの参加について観察する。(本書におけるより一般的な意味での)ごっこ遊びに参加する最小条件は「そこで虚構として成り立つ命題群を、自分が強制されていると考えること」である。しかし、子どもたちがごっこ遊びで演じる役割はそれに留まらない。

まずなんといっても、そのようなごっこ遊びの際に子どもたちが「自分自身が○○している」と想像していることが挙げられる。すなわち彼らは反射的な小道具となっているのだ。たとえばグレゴリーとエリックが切り株をクマに見立てて遊んでいるとき、参加者であるグレゴリーとエリックは反射的小道具であり、2人が切り株に向かって行う行動によって、ほかでもない(誰か別の人物を演じているわけではない)彼ら自身がクマに向かってある行動をすることが虚構として成り立つ。

なお、このとき切り株も反射的小道具であり、切り株の特性などはクマの特性に反映されるであろう。大きな切り株からは大きなクマを想像するし、切り株がツタウルシのなかにあるなら、クマがツタウルシの群生の中にいると想像する(さらに、このときツタウルシもやはり反射的小道具となっている)。それでも、2人はごっこ遊びの関心の向かう主たる対象であるという点で(単なる小道具である)切り株やその派生物の多くと異なっている。これはフィクションの意義(第1章参照)にとって重要である。

さらにこのときグレゴリーとエリックは、たんに自分がそのようであるという命題を想像するにとどまらず、まさに自分が実行したり経験したこととして(「一人称的な」やり方で)想像している。そして、「参加者は、自分が切り株を見ることについて、この見ることが 自分がクマを見ることの一例であると想像」してもいる(ここ正直ちょっとよくわかってないんだけど、「行為そのものも反射的小道具となる」? みたいな話でいいんだと思う)。

ごっこ遊びの参加者は、反射的小道具でありかつ想像する者でもあることによって、現実の自分のさまざまな表象的な行為に関して、それら一連の行為が、自分が何かを行っているところの一例であると想像し、かつ、これを内側から想像するのである。

参加する者としての鑑賞者

文字通りの(子どもの)ごっこ遊びに対して、芸術作品や上演の鑑賞はどうだろうか。こちらも(本書におけるより一般的な意味での)ごっこ遊びへの参加の最小条件を満たしていることはもちろん、鑑賞者自身および鑑賞者の行為の多くが反射的小道具となっているという共通点がある(さらには鑑賞者が「一人称的な」やり方で想像してもいるとするが、これについてはむしろ次節を参照)。

たとえば、「命題Pが虚構として成り立つと鑑賞者が理解しており、(Pそのものを想像するだけでなく)鑑賞者自身がPを知っていると想像する」とき、「鑑賞者はPを知っている」ことが虚構的に成り立つ。これはそのまま「鑑賞者自身についての虚構的真理が生み出されている」ということだから、やはり鑑賞者自身もごっこ遊びの反射的小道具となっていると言える。もちろん「知っている」だけではなくて、たとえば絵画において「見ている」などでもやはり同様に成り立つ。

なお、(第1章でも触れられていたように)「作品世界」と「作品を使ったごっこ遊びの世界」の違いに注意。『ガリヴァー旅行記』の世界(作品世界)には読者は属さない一方、『ガリヴァー旅行記』を使って行うごっこ遊びの世界においては、「自分(読者)は『ガリヴァー旅行記』と題されたある船医の日記を読んでいる」ことが虚構的に成り立つ。このように、一つの虚構世界がもう一つの虚構世界を含むかたちで別個の虚構世界を持つことは特に問題にはならない(小説の挿絵の例など)。ここらへんの話、第1章のメモでは違和感あるな〜みたいに書いたが、むしろ独自のポイントとして解するのがいいのかもしれないな。

このように鑑賞者が自分のごっこ遊びの世界で反射的小道具となるということは、そのような生成の原理が存在するということでもあるはず。第4章で見たとおり、この原理は明示されている必要はなく、暗黙的なものであってよい。また、ごっこ遊びは必ずしも社会的なものである必要はない(むしろ多くの場合個人的なものであろう)ため、この原理を鑑賞者自身以外の誰かが認識している必要もない。そのような生成の原理が存在するであろうことは、次のような観察からもわかる(以下、まとめるために例示の内容を簡略化しているが、ちょっと不用意に縮めすぎかもしれない)

たとえば、船の描かれている風景画を見て、スティーヴンが「あそこに船がいる」と発言するのは自然なことである。このときスティーヴンが「自分自身が浜辺や海などを見ている」と(特に熟慮や思慮によらず)想像していることは否定しがたい。そして、そのような暗黙的な傾向性を我々が持ち、それに対応するような原理を受け入れていると考えることも自然であろう。

また、先の例で指示詞(「あそこに」)を使っていることにも注意せよ。このときスティーヴンは、何か(画布の一部分や、「架空の存在者」)を指示しているわけでも、何かに虚構性を帰属させているわけでもない。スティーヴンはそれらの説のように何かを断定しているのではなく、「何かを指示するふりをしており、その何かが船であると主張しているふりをしている」(第2章でのサール批判は作者が「ふりをしている」という話だったことに注意。こちらは鑑賞者の話)。「『あれは船だ』は命題を表現してなどいない。スティーヴンは、それが命題を表現するふりをしているだけである」。言い換えれば、スティーヴンは「自分が何かを指示してそれを船だと主張する」ということを虚構として成り立つようにしている。これはすなわちスティーヴンについての虚構的真理であり、スティーヴンのごっこ遊びに属する虚構的真理である。この意味でスティーヴンはやはり反射的小道具となっている。

なお、風景画などの描出体 depictions に対して「あれは船だ」と言いうる一方、『白鯨』における船の描写の一節を指差して「あれは船だ」とは言わない。これは、絵画を使って行うごっこ遊びと小説を使って行うごっこ遊びが違う種類のものだからである(だからといって小説の読者が反射的小道具でないことにはならない点にも注意)。

言語的な参加

ここまで見た2種類のごっこ遊び(文字通りの、子どものごっこ遊びと、表象的芸術作品の鑑賞)のどちらにおいても、言語的な参加を行いうる。たとえば前者であれば「藪の中にクマがいる!」などと友達に注意を促すことがあるだろう、後者であればその作品に関して「あそこに船がある」などと話すことがあるだろう。

こうした言語的参加の際、われわれは「この絵の世界では」「『ロビンソン・クルーソー』の物語の世界では」などと付け加えて喋ることはほとんどない。これらを使ったごっこ遊びをしている人物が言うと期待されることがそのようなものであるからだ。

さらに、ごっこ遊びに携わっていないと考えられる冷静な批評の際であっても、誤解がなければこうした虚構性を示す作用子は省かれうる。この事実は、そのような場でさえ(批評家が反射的表象体となっているかどうかは置いといて?ごっこ遊びがなんらかの仕方で存在していることを示唆する。

一方、「望む」「信じる」といったほかの志向的特性においては、先の虚構性作用子に対応するような作用子(○○は〜と望んでいる)を普通は省かない。もしそうした作用子を省くのであれば、ほとんどの場合レトリック(当てこすりなど)や一種の演技のためである。そしてこの点については、虚構性作用子を省くことが「ふりをすること」に繋がっているのと共通している。これらをひっくるめて、ごっこ遊びに携わる私たちの傾向が広く行き渡っていることが観察される。このへんやや議論を乱暴にまとめてしまったんだけど、作用子を省くことの効果(あるいは逆に引用符による強調にも「ふりをする」効果があるケースもあるとか)みたいなあたりは枝葉のところでもけっこうおもしろいことを言ってる。ただそうなってくるとほかの志向性との区別がだんだんよくわからなくなってこないか? みたいな気持ちも。ここらへんは読み間違えてるかもしれない。

参加に関する制約

ここまで文字通りの(子どもの)ごっこ遊びと表象的芸術作品の鑑賞との共通点を見てきたが、一方で重要な違いもある。あくまで程度の違いであることには留意しなければならないが、鑑賞者の参加には子どもたちの参加には生じないような制約がある。

たとえば、人形をどこかに連れて行ったとき、「赤ちゃんをどこかへ連れて行った」ことが虚構的にも成り立つであろう。一方、肖像画を移動させたからといって「その(肖像画の対象となっている)人物が移動した」ことが虚構的に成り立つことはまずない。すなわち、文字通りの(子どもの)ごっこ遊びに比べ、表象的芸術作品の観賞においては:

  • 見ている人が行い、それが虚構として成り立つような行為の種類が少ない
  • 見ている人が現実に行ったときに、ごっこ遊びに貢献して虚構的真理を生み出すものとして容易に解釈できるような行為が少ない

こうした制約の由来はさまざまである。たとえば、人形には掴むことのできる「腕」があるが、肖像画においては(腕が描かれてあったとしても)「腕」を掴むことができないといった、ある種物理的な制約、あるいは、演劇において観客が舞台に駆け上がったとき、その人物が虚構として何かを行うとは解釈されないといった、慣習的な制約などが挙げられる。

以下注意点。

  • もちろん文字通りのごっこ遊びにも制限はある。先にも触れたとおりあくまで相対的な話である
  • 制限されているからといって、その遊びが豊かでなかったり変化をもたないことを意味するわけではない
  • 参加の制約は不利益をもたらすとは限らない、むしろ利点もある
    • たとえば、身体的な参加を行わない(行えない)ことによってより内省的で思索的になれる
    • あるいは、鑑賞者のごっこ遊びに対する芸術家の貢献の範囲が広がる(たとえば法廷を描いた絵画に対して、鑑賞者が被疑者を問い詰める遊びをしてほしいと作家が考えているだろうか?それを見ていろいろな思考や感情を抱いてほしいだろうし、そのほうが鑑賞者にとっても有意義であることが多いだろう、みたいな)

このほか、文字通りのごっこ遊びと芸術鑑賞との中間的な事例も挙げられているが、ここでは略。

聴衆への脇台詞

ざっくり言えば、虚構内の登場人物から鑑賞者への語りかけ(目配せなどの働きかけ一般も含む)について。

まず、バース『ライフ・ストーリー』が興味深い例として検討されている。ここはけっこうおもしろいところなんだけど長くなるので割愛。脇台詞にあたる語りとそれを引用する語りが続けて記述されているとき、それらを垂直的に見るか水平的に見るか、垂直的に見たときでも読者がどのようなごっこ遊びに参加しているか、といったことについて複数の解釈が考えられる……みたいな。この手のメタフィクショナルな小説に興味のある向きにはぜひ直接読んでほしいところ。

また、脇台詞は単数的にも複数的にも成り立つ ……という話があるんだけど、正直ちょっとよくわからないところがあるのでこちらも割愛。ドストエフスキー『地下生活者の手記』における「だから、紳士淑女の皆さん、結局、何もしないのが最も良いのだ!」という台詞について、「現実の読者全員に語りかけていることは、どの鑑賞者のごっこ遊びにおいても成り立たない」けれど「それぞれの読者のごっこ遊びにおいて、地下生活者がその読者を含む人々の集団に語りかけているということになる」みたいな話はおもしろい。

こうした脇台詞に覚える特殊な感じは、「講演の最中に、二階席で聴講している自分の名前が突然呼ばれた」ときのような、(そのような場ではないはずなのに)慣習を破って名指されたときの驚きと類比して説明できる。脇台詞によって鑑賞者が「虚構の世界に引きずり込まれる」からではないのだ! 鑑賞者はそれ以前に自分のごっこ遊びの世界に参加しているし、そう前提しないと脇台詞というもの自体が成り立たない。

そして、脇台詞の発生は比較的珍しいし、あったとしても、それが虚構的に成り立たせるのはあくまで一時的な相互作用に留まる(もちろん、肖像画において「鑑賞者に目を向けている」ことが当たり前であることや、あるいカルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』のような例外はある)。その理由として、限定的なほうが脇台詞の効果を高められる(先の「突然の」名指しを考えればわかりやすい)ことや、そのほうが鑑賞者に適切な鑑賞行為を行ってもらうためのコントロールが容易になることなどが考えられる。前節で述べた芸術鑑賞における制約のメリットとしても挙げたように、登場人物に感情移入させたいといった芸術家の目的に対して、脇台詞によって鑑賞者が一人称性を強く意識する(そしてときに「馬鹿げた問いかけ」をしてしまう)ことは適切な鑑賞の邪魔になりうるのだ。

鑑賞者は自分のごっこ遊びの中では役割が限定されていて、そういう限定のせいでしばしばあり方が不確定になることを考慮すると、鑑賞者は通常「おおまかな」「ぼんやりした」あり方しか持たない、と考えることが可能である。脇台詞は、鑑賞者がそれ以前には帰属していなかった虚構世界や、脇台詞がなければ帰属しないはずの虚構世界に、鑑賞者を招き入れるわけではない。だが脇台詞は、ごっこ遊びの世界において、鑑賞者に少しだけ踏み込んだ存在感を与えるのである。

見られないものを見ること

天地創造を描いたミケランジェロの天井画に対して、「誰も見ていないはずの天地創造を、にもかかわらず見ているってどういうこと?」みたいな話。これには、作品中の登場人物が誰にも明かしていないプライベートを「覗き見」している作品や、「生存者のいない事件」を描いた作品など類例が考えられる。

これに対してウォルトンは、すでに第4章で答えたように(このような「馬鹿げた問い」は)たんに無視すればよいという立場をとる。そして(これも第4章で見たとおり)これらはごっこ遊びへの参加という立場に対してのみ発生する反論というわけでもないのだ。

つづき: murashit.hateblo.jp