芸術をカテゴライズすることについて - 銭清弘

とりあえず目次は下記。

  • 第1章:批評とは鑑賞のガイドである
  • 第2章:鑑賞とは単なる好き嫌いではない
  • 第3章:鑑賞とは卓越性の測定である
  • 第4章:鑑賞はカテゴライズに依存する
  • 第5章:カテゴライズは単なる分類ではない
  • 第6章:ジャンルとは鑑賞のルールである
  • 第7章:ふさわしいジャンルとは制度である
  • 第8章:批評の意義は判断の柔軟性を養うことにある

書名こそ「〜について」だが、章見出しがすべて端的な主張の形になってるのが良すぎるな。

全体としては、批評についてはさっさとやっつけちゃって(キャロルの本がすでにあるしね)、第2章から鑑賞に焦点を移す。そして鑑賞におけるカテゴリーの重要性を示したうえでウォルトン「芸術のカテゴリー」を読み、第6章・第7章あたりが本番、という感じか。「批評は鑑賞のガイドだよ」→「じゃあ前提にある『鑑賞』について考えなきゃね」→どうも鑑賞において『カテゴリー』が重要そうだね」→「じゃあこのカテゴリーって実際どいうもので、どう決まるのよ」っていう。そのうえで最後に批評に戻ってくるのがきれい。個人的には第5章、第7章、第8章がおもろかった(前半は「ですよねですよね」みが強い!)。第6章はちょっとむずかった……。

以下、読書メモをほぼそのまま掲載します。普段こんなに丁寧にまとめないんだけど、なんかよくわかんないが興がのっちゃったんだよ!(逐次的に書くしかなくてまとめきれなかったとも言える) 当然ながら内容の正しさについては保証しません。


はじめに

最初に、芸術に対する判断における主観と客観の交じりみたいなのを、判断のサイズのことじゃよと言ってのける。同意を期待する範囲の違いやね。そして芸術において、その観点の大きさを決めてるのがジャンルなんだよと。ということで、本書の主題は芸術のカテゴリーと、それが批評において果たす役割である。これをいわゆる分析美学というディシプリンもとで論じるよと。

なので、ある種の批評の哲学なわけだ。文脈主義的なそれを切り開き推し進めた人物としてウォルトン(「芸術のカテゴリー」)とキャロル(『批評について』)が挙げられている。……いるのだが、文脈全体を重視するようになったことで逆に、実はそもそも芸術のカテゴリーってなんなのよということ自体があまり論じられてこなかったのではないか。

本書の提案の骨子は、芸術鑑賞およびそのガイドである芸術批評は、ルールとしてのジャンルをめぐる社会的相互作用であるというもの。

構成は以下の通り。

  • 批評とは鑑賞のガイドであると主張する(第1章)
  • 鑑賞とは(好き嫌いの問題ではなく)作品の卓越性を測定する試みであると主張する(第2章、第3章)
  • 芸術の鑑賞が「特定の観点」から行われることについてのウォルトンの議論を検討する(第4章、第5章)
  • この観点こそが鑑賞のルールとしてのジャンルであると論じ(第6章)、その作品をめぐって人々のふるまいが均衡しているジャンルこそが、その作品にとってふさわしいジャンルであると主張する(第7章)
  • 批評の意義は、ある種の柔軟性を養うことであると主張する(第8章)

1. 批評とは鑑賞のガイドである

主張は表題のとおり(キャロルより寛容な立場だ)。isの関係、つまり必要十分な定義として示されていることに注意。記述的にはもちろん、さらにはそのガイドのうまさがその批評の良さと直接的に繋がっていることも含意している。また、鑑賞という前提あってこそのおこないであることも覚えておこう。

「それでは広すぎる」つまり、それだと美術館のキャプションや楽譜を解釈しての演奏なども批評になってしまわないかという反論への応答が良い。説明と理由づけのあることを条件に入れるという手もあるが、それらも批評ってことでええんちゃうかと。そうだね!

酷評は「鑑賞するな」を含意するが、それでもガイドなのかという論点もおもしろい。ここでいう「鑑賞」というのが、ただ見たり聞いたりすること(薄い意味での鑑賞)ではなく、なんらか味わうような行い(厚い意味での鑑賞)を指しているであろうことに注意しよう。作品の出来の悪さに気づくにもそれなりの労力が必要であり、やはりそれをガイドするといういみでの批評が成り立つのである。

コラムにあるとおり、「選択のガイド」(バイヤーズガイド的なやつ)は「鑑賞のガイド」とは別ものとして考えるべきことに注意。

まとめ

  • 批評とは鑑賞のガイドである。鑑賞ガイドではない批評や批評ではない鑑賞ガイドがあるとする反論には、それぞれ対処できる。
  • 鑑賞ガイドとしての批評には酷評も含まれる。

2. 鑑賞とは単なる好き嫌いではない

批評の前提には(厚い意味での)鑑賞があるということで、続いてその「鑑賞」について検討する。とくに本章では、芸術鑑賞を主観的なものとみなす立場(主観主義)についてみていく。これがほんとうなら、そもそも「ガイド」というものが成り立たない(好きに鑑賞すればいいんだからガイドとかいらんねん!)からだ。

で、主観主義というのはどんな立場なのか。

一つの解釈として、極端な主観主義=報告説。この場合、鑑賞した際の発言の焦点は対象の善し悪しではなく、発言者の好き嫌いでしかなくなる。したがって意見の対立や、鑑賞にまつわる教育の可能性を説明できない。かなり厳しいのではないか。

あるいは穏当な主観主義=伝達説。報告に加え、相手になんらかの影響を与えようとしている、というもの。ただそうなると、好き嫌いだけというわけにはいかなくなる。作品自体の情報、そしてそれが好むに値するということまで伝えようとしていることになるわけだから。もはや批評を否定できない。

たしかに「客観的」であることへの忌避感があるのかもしれない(抑圧的に感じる!)が、だからといって完全に主観に振ってしまうのは不当な二者択一でしょう、と。中間を探そうぜということになる。

というわけで、以下の2つの制約を満たすものとしよう、と定式化できる。

  • 客観制約:鑑賞の合理的な査定可能性を認める(つまり、理由付けや正当化ができる)
  • 主観制約:鑑賞者の好き嫌いになんらかの積極的な役割を認める

もちろんこれは美学の歴史の中でたびたび議論されていた話題で、代表的なものとしてヒューム的説明(理想的鑑賞者が出てくるあれ)がある。おおざっぱにいえば、鑑賞は好き嫌いの問題だが、鑑賞者については有能さが問えるという見解。判断の調停は、その鑑賞者がいかに理想的鑑賞者に近いかでおこなえる。さらにいえば、理想的鑑賞者から広く共同的に好まれている作品はすぐれた作品だとまで言える。エリート主義ですね! もちろんこの立場であれば、批評が十分に機能する。

とはいえこのヒューム的説明には反論もある。まず、なんで理想的鑑賞者のことをわたしが気にかけなくちゃならないの?」というもの。たしかに理想的鑑賞者たちの認める作品には(快楽主義をとるなら)より大きな快楽があると考えるのは合理的であるが、一方で目下楽しんでいる作品を手放す理由を与えるわけではない(酷評の問題だ!)。また、美的に画一な世界を含意するのも問題かもしれない。愛着や個性、多様性を捉えられなくてもほんとうに大丈夫なんですか、と。

まとめ

  • 〈芸術鑑賞は主観的である〉とする主観主義は、極端なバージョンでは芸術をめぐる意見対立や教育をを説明できず、穏当なバージョンでは批評に反対する結論まで持っていけない。
  • ヒューム的説明は、鑑賞の客観的側面を有能な鑑賞者に訴えて担保する。しかし、過大評価なにが悪いのか説明できず、画一的な世界がベストであるという帰結を伴うなどの問題点がある。

3. 鑑賞とは卓越性の測定である

ヒューム的説明がまずかったのは、「基本的には好き嫌いですよ」→「それが客観整理を獲得するにはどうすれば……」という順序で考えたことにあるのではないか。

では逆は……というと、客観的な基準を定めるのがそもそも難しそうに見える。でも、それは「あらゆる芸術作品に共通の基準」を求めていたからではないか。よりローカルな基準、つまり、作品にふさわしいカテゴライズをしたうえで、そのカテゴリごとの基準に照らして評価するのであれば現実的かもしれない。

というわけで、こうしたカテゴリベースの客観性からのアプローチとして、アリストテレス的説明、すなわち鑑賞は特定の目的に照らした測定だとする見解を検討する。目的論的アプローチともいえる。

キャロルはこのアプローチを重視している。この場合、批評は「この作品は、この目的のもと、このように評価できる」という言い方になるわけで、理解のためのガイドはするが、(ヒューム的批評のように)好き嫌いをガイドするわけではない。理想的鑑賞者なる謎概念に頼る必要がないし、画一性への懸念からも逃れられる。酷評にも認知的利得がある(過大評価は誤った信念といえるので)と言えるようになる。

一方で、この説明には主観が介在する余地がない(主観制約を満たさない)。であるなら、主観制約を切り捨ててもよいとするための正当化が必要だ。

現代的にこの立場をとる場合には、美的なものと芸術的なものを区別し、主観制約は美的なものをめぐる制約であり、芸術的なものをめぐる制約ではないとする(なお、この区別をするなら、カント的な、人間の普遍的能力に根ざす=主観性がないという説明もブロックされる)。

とはいえそうなると、じゃあ美的なもの(典型的には快楽と結びつけられる)と区別される「芸術的価値」ってなんなのよということになる。美的価値に直結させられないとすれば、それは当然多元主義的なものになるはず。

これを美的価値や認知的価値、宗教的価値等々に基礎づけられる上位の価値であるととらえる(ステッカーなど)と、「じゃあ特定の価値が芸術的価値の内実としてカウントされるための線引きや重み付けの基準はどこにあるのよ」という話になってしまう。燃やして暖をとれるという実用的価値をカウントしない(しないよねえ)理由を、循環論法に陥らずに説明するのは難しそうだ。

というわけで、「芸術的価値とは、さまざまな観点から見た卓越性を便宜的にまとめ上げたラベルである」とする立場はどうか。「芸術的に良いホラー映画は、ホラー映画であることと不可分な仕方で、ホラー映画として卓越している」。端的に良い(あるいは、包括的な観点から良い)というのではなく、「これは○○であり、その観点から良い」という言い方。もちろんそれが端的に良くても(たとえば美的な価値があっても)かまわないが、それが芸術的価値に繋がるかどうかは観点次第。逆にいえば、美的にも認知的にも宗教的にも実用的にも価値がなくとも、卓越性としての芸術的価値を持つことはある。この場合もちろん、画一化の問題も回避される。

とはいえ……じゃあ、ふさわしい観点(つまりカテゴリー)へのあてはめ、そして観点ごとに列挙しうる評価項目は何に由来するのか(観点選択の問題)。好き勝手に観点を選べるなら評価だってどうにでもなってしまう(悪しき相対主義!)。作者の意図に訴えるだけでは解消できそうにない。これが次章以降の課題となってくる。

コラムの「良いものは良い」というムーア的説明(とくにゴロデイスキーの紹介)については、面白いけどここでは割愛。

まとめ

  • アリストテレス的説明は、鑑賞の客観的側面を作品自体の目的に訴えて担保スルー。芸術鑑賞は卓越性としての芸術的価値を測定する営みとして、批評はそのガイドとして理解される。
  • アリストテレス的説明には、作品をそのもとで鑑賞するべき観点をどう決定すればいいのかという問題(観点選択の問題)が残る。

4. 鑑賞はカテゴライズに依存する

カテゴリーにもとづいた査定自体は、芸術鑑賞でなくともありふれている。とはいえ、カテゴライズの違いがいかにして評価の違いをもたらすかについては、それほど明らかではない。というわけで、芸術鑑賞の観点依存性を論じた古典であるウォルトン「芸術のカテゴリー」(1970)を精読してみよう!

まずは背景。当時支配的だった反文脈主義(ウィムザット&ビアズリー「意図の誤謬」やニュークリティシズム)、つまり、鑑賞にあたって作品外のあれこれに注目すべきではないという立場への反論という位置づけになる。なお、芸術の定義論においても、作品と文脈が取りむすぶ関係的性質に訴える文脈主義が台頭してきた時期である。

続いて内容について。以下、シブリーのいう美的性質、美的知覚、美的判断の概念を前提とする。

まず、芸術のカテゴリーごとに、そのカテゴリーに標準的な性質、カテゴリーに中立的な(可変的な)性質、そのカテゴリーに不適格に写る反標準的な性質があり(これらはいずれも非美的性質であることに注意)、作品を鑑賞するカテゴリーを変えれば非美的特徴への重み付けが変わるとする。そうなると、たとえ同じ対象であっても、あてはめられたカテゴリーいかんで知覚される美的性質が異なってくる。このように、カテゴリーが美的知覚を左右しうるという主張を「心理学的テーゼ」と呼ぶ(もちろん常に左右するというわけではなく、なにがしかの端的な良さを感じることは否定されない)。

このとき、ある作品をどんなカテゴリーのもとで鑑賞してもよいと考えるのはもっともらしくない(われわれはそのような実践をしていない!)。そのもとで鑑賞するのにふさわしいカテゴリー(の集合)、すなわち規範的カテゴリーがありそうだ。これはどのように選ばれるのか。まさに観点選択の問題である。ウォルトンは規範的カテゴリーの決定に関わる要因を4つ挙げている(必要条件や十分条件ではなく、あくまで考慮事項であることに注意)。

  • 適合:そのカテゴリーのもとでの標準的特徴の多さ/反標準的特徴の少なさ
  • 良さ:そのカテゴリーのもとで鑑賞することでより良く経験されるかどうか
  • 意図:制作者がそのカテゴリーにおいて知覚されることを意図していたかどうか
  • 確立:その社会でそのカテゴリーが十分に確立されているかどうか

「意図」や「確立」はたしかに文脈主義的だ1。これらの要因で規範的カテゴリーが成立する(したがってそれにより美的判断の正しさも左右される)という主張を 「規範的テーゼ」と呼ぶ。ウォルトンとしてはさらに、文脈が作品が実際に持つ美的性質さえも左右するという「存在論的テーゼ」にもコミットしているが、本書ではいったん置いておく。

となると、判断の際には文脈的事実に対する「知識」が必要にみえるが、ウォルトンはもうちょっと微妙な立場をとっている。知覚と独立した(命題的)知識が直接的に必要とされるのではなく、知覚能力の「訓練」に基づくとしているのだ。これを「認識論的テーゼ」と呼ぶ。このように最終的には知覚に基づいて判断が下されるとする点で反文脈主義を取り入れているといえる。

さて、ここまでの話はあくまで美的判断に関連してカテゴリーが担うであろう役割のひとつ(美的判断の形成における特定の側面)についてでしかないことに注意しよう。美的判断の形成におけるほかの側面や、美的判断の正当化などの場面でカテゴリーが果たす役割について(何らかの役割を果たしていることはかなりありそうではあるが)、ウォルトンは特に述べていない2

ここで念のため、美的判断はそもそも正当化しうるのかという点についても検討される。たとえば、シブリー自身は美的判断が基礎的な性質から(知覚なしに)推論できることを認めない(非推論性テーゼ)。ただし一方で、知覚的証明のような非推論的な正当化は認めている。もちろん、この非推論性テーゼを弱める(たとえば、遡及的な理由付けを認める)立場や、いや普通に推論できるでしょという立場もある。本書としては特段どの立場にコミットするわけでもない。

結局のところ、これらはあくまで美的判断とその正当化の話に過ぎないわけで、芸術にまつわるそのほかの判断や正当化についてなにかを言っているわけではないのだ。次の目標はこうしたギャップを埋める、つまりカテゴリーが芸術に関する判断や批評においてほかにどのような役割を担っているのかを見ていくことになりそうだ。

まとめ

  • ケンダル・ウォルトンによれば、芸術作品に対する美的判断は、そのもとで作品を鑑賞するカテゴリーによって左右される。また、作品にふさわしいカテゴリーは、文脈的事実を含む一連の考慮事項によって決定される。
  • ウォルトンの関心は、美的判断の知覚的な形成においてカテゴリーが果たす特定の役割に限定されていた。続く章では、芸術批評においてカテゴリーが果たす、より一般的な役割に着目する。

5. カテゴライズは単なる分類ではない

ウォルトンのいう規範的カテゴリー(Nカテゴリー)は、たんなる分類上のカテゴリー(Cカテゴリー)ではないことを主張する章。たとえば、ある作品は、それが「属さない」カテゴリーにおいてこそ適切に鑑賞されるかもしれない。カテゴリーに依存した芸術鑑賞は分類の問題ではないのだ。

(細かい議論はここでは割愛するが)作品がNカテゴリーとならないCカテゴリーに属しうることは飲み込みやすい。たとえば『ゲルニカ』をゲルニカスという(文脈を無視した)カテゴリーに分類したり、1937年に制作された絵画というカテゴリーに分類したりといったことは否定されないが、そのもとで鑑賞するのは正しくないと十分言える。

では、その作品があるカテゴリーに属さないにもかかわらず、そのカテゴリーのもとで鑑賞されるべきケースはあるのだろうか。言い換えれば、CカテゴリーではないNカテゴリーはあるのだろうか。本書の立場は「ある」というもの。

ここで革新的な作品、たとえばケージの4分33秒のような作品について考えてみる。こうした革新的な作品は旧来のカテゴリー(古典音楽)には分類されえず、それに合う新たなカテゴリー(コンセプチュアルアート)に分類されるべきものだろう。しかし、そのように適切なカテゴリーに照らして鑑賞すると、その作品はまったく奇妙でなくなってしまう。「奇妙さ」のような美的性質は、その作品が旧来のカテゴリー(古典音楽)に対して反標準的な性質を持ち、そのカテゴリーのもとで見ることではじめて現れるものだからだ。Nカテゴリーは必ずCカテゴリーの一部分であるという立場を取るなら、革新的な作品を奇妙であるといえなくなってしまいそうである。うれしくない状況だ。

これを避けるためには、その作品が属さないカテゴリーのもとでの鑑賞が適切でありうることを認めればよい。4分33秒はまったく古典音楽ではない(古典音楽というCカテゴリーに属さない)が、古典音楽というカテゴリーのもとで鑑賞するのが適切である(Nカテゴリーは古典音楽である)、みたいに3。ウォルトンもそのように意図していたと思われる。

これはけっきょく、認知主義からの決別を含意する。Nカテゴリーへの振り分け(の表明ないし提案)は多かれ少なかれ創造的な試みであり、(Cカテゴリーのように)世界の側で決まっているわけではないことを示唆しているからだ。それが非芸術実践にはない、芸術実践ならではの特徴でもある。(この点でアリストテレス的説明からも決別した、ということでいいのかな)

まとめ

  • 作品をそのもとで鑑賞するのにふさわしい規範的カテゴリーは、一部の論者に反し、作品が属する分類的カテゴリーとはなんの関係もない。前者を後者の部分とみなすと、革新的な作品の奇妙さをめぐってジレンマに陥る。
  • 一般的な教訓として、芸術作品を鑑賞するにふさわしい観点を探すことと、それを正しく分類することは、別々の事業である。

6. ジャンルとは鑑賞のルールである

では、ここまで扱ってきた「カテゴリー」とはなんなのか。カテゴリーにもいろいろある。ジャンルとしてのホラー、様式としてのバロック、形式としての俳句、メディウムとしての絵画……。本書でこれまでみてきたような規範的カテゴリーについていえば、それは「ジャンル」として理解するのがもっともしっくりきそうである。そしてこの「ジャンル」とは、鑑賞のやり方を統制するルールの集まりである。……というあたりを本章を通じてみていく。

まず、ジャンルは単なる分類ではないことを確認する。ジャンルこそここまでみてきた規範的カテゴリーなのだから、そのような立場になるのは当然やね。

ジャンルを単なる分類概念だとするとどんな不都合が帰結してしまうのか。

単なる分類概念としてジャンルを理解した場合、ジャンル分けとはそのジャンルに標準的な特徴を追跡して分類するようなおこないということになる。このこと自体は「メディウム」のような他のメタカテゴリーと同様ではある。

ではこのとき、ジャンルというメタカテゴリーは、メディウムや様式、形式といったほかのメタカテゴリーとどう異なるのか。形式は非美的性質、様式は美的性質……というように、作品の持つ性質の種類に対応すると言いたくなるかもしれない。ということは、ジャンルは……表象的性質(何を描いているか)や情動喚起の機能あたりに依存しているとか?……いや、それは言えなさそうだ。音楽のジャンルなどに顕著だが、これらの性質、および文脈的性質や美的性質、非美的性質などにまたがって判断されているのが実際だろう。ジャンルというカテゴリーを特徴づける特徴のタイプといったものはない。

それにそもそも、単なる分類はあくまで記述的なものであり、ジャンルが持つ規範的な効力(怖いホラーは良いものだが、怖い子守唄は良くないものだ)をそれだけでは説明できない。

どうもあまり魅力的ではないわね。

ということで、この規範的な効力、つまり鑑賞や批評のありかたを左右する力というものに着目してみよう。いったいなにを左右するのか。まず、評価を左右するかもしれない(ロペスの美的プロファイルの理論はまさにそういう話ををしてる。『なぜ美を気にかけるのか』も参照)。さらに、解釈も統制していそうだ(たとえば、ミュージカルで突然歌いだしても誰も困惑しない。エイベルのフィクション理解の理論はこのへん)。これらを含め、作品の持つ基礎的性質にたいしてどのような鑑賞的反応を返すべきかという一連のルールを定めているものこそがジャンルである、と。ここでの正当化の関係は、必ずしも批評における理由づけそのものではない(あくまで背景である)ことに注意……なのだが、このへんはなんかややこしくて正直よくわかってないかも。

ともあれ、「その作品がある性質を持つなら、その作品はあるカテゴリーに属する」というのが構成的ルール(制度的地位を与えるルール)なら、このように「ある作品がある性質を持つなら、その作品に対してある鑑賞的反応をせよ」は統制的ルール(ふさわしい反応や行為を定めるルール)であるといえる。様式や形式は一義的には前者(後者を含意することは否定されない)である一方、ジャンルは基本的に後者である。

この立場を取ると、ウォルトンのいう美的判断の形成における特定の側面だけでなく、その判断の正当化や、あるいは比較においてカテゴリーが関与するケース、目的論的にカテゴリーが関与するケースなども統一的に説明できる(ややこしかったのであんまりきちんとまとめてないが、4.4節を参照)。ルールの入出力の範囲や、その暗黙性についてはここでは割愛。

じゃあ、どんなルールの束もジャンルとして機能するかといえば、もちろんそんなことはない。ここもややこしいので細かいところは割愛するが……社会集団の信念やふるまいによって確立されている必要がある。個々人の鑑賞におけるフレーミング(この時点では必ずしも確立したジャンルである必要はない)や批評を通じたその表明・提案が積み重なった結果として基盤として確立する感じ。

さて、そういった実践があるとして、じゃあなんでそれを(様式や形式などではなく)「ジャンル」というメタカテゴリーと結びつけるべきなのか。……ここはまあいいか。たしかに他のメタカテゴリーよりは、ここまで見てきたような特徴を有したものとして使われている感は、まあまあある4

本章の最後に述べられている、構成的規則の統制的規則への還元(本書でいえば分類ルールの鑑賞ルールへの還元)の話はおもろい。グァラ『制度とは何か』とかあのへんの話(そういえば積んでるんだよな……)。「もし△△ならば、それを××とみなす」ようなルール(構成的ルール)が実効的になるためには、「もし××という地位にあるならば、○○する/してよい/しなければならない」という、地位と権利や義務を結びつけるようなルールが付随している必要がある(みなすだけではなんにもならないのだから!)。このように2つのルールに分解してみると「××とみなす」(制度的用語)は実質的になくてもよく、統制的ルール「もし△△ならば、○○する/してよい/しなければならない」に(原理的には)還元できるじゃん、と5

コラム1は、ジャンルとは(個別者としての)伝統であるというエヴニンの説の紹介。ぱっとみよりややこしいな!ここでは割愛。コラム2はジャンルとしてのカラー写真ということで、鑑賞ルールの束が確立するまでのケーススタディである。

まとめ

  • 芸術ジャンルとは鑑賞的反応を統制するルールの束であり、一連の批評的理由づけを可能にする背景として機能する。ルールとしてのジャンルは、対応する共同体における人々の集団的信念やふるまいを通してセットアップされている。
  • 個々の鑑賞者は特定のルールを表示し、それに従うことを表明・提案することができる(フレーミング)。

7. ふさわしいジャンルとは制度である

で、観点選択の問題はどうなったのよと。分類としてのカテゴリーからも独立しているのだとしたら、余計にややこしいことになりそうだ。

素朴な立場として、作者の意図によって決定されるとする考えがありうる。ウォルトンも(それが決定的とはしていないが)意図を観点選択の基準の一つとして数えていた。そして多くの論者は、考慮事項の中でも意図を相対的に重視している(キャロルもこの立場)。意味論的意図に関する反意図主義者でさえカテゴリー的意図は認めたりするのだ(意味論的な反意図主義をとろうとも、なんらかのリミッターがほしいというモチベーションがありそう)。

とはいえ意図主義には問題がある。

まず、意図をジャンル決定のための十分条件とするのはいくらなんでも作者に寛容すぎるだろう。意図しさえすれば自由に評価を左右できてしまう。じゃあ必要条件の一つであるとするとしても、それでも鑑賞者に対して制限がキツすぎる。作者が意図しえないジャンルで鑑賞したり(カフカを実存主義的に読むとか)、作者が公然と否認したジャンルで鑑賞したり(ロスコを形式主義的絵画として鑑賞するとか)といった実践はあまりにありふれているのに、これが不可能になってしまう。また、認知主義(無時間的に定まった正解がある!)にコミットしてしまうのもあまり魅力的とは言えない。

芸術作品は人工物なのだから作者の意図を尊重せよという話もあるかもしれないが、それはあくまで道徳的な理由である。そもそも作者の意図を超えたフレーミングを試みることが誠実でないというのも論点先取だろう。

本書がとるのは、制度的に決定されるという立場。ここでポイントとなるのは、ウォルトンが挙げた考慮要素のうちの「良さ」の基準である。この基準はぱっとみきわめて主観的に見えるが、実はそうでもない。「わたしにとって良い」と考えるのではなく、「わたしたちにとって良い」ことと捉えるのだ。いかにもある制度が確立しているようすに繋がりそうですね。

というわけで、ゲーム理論の初歩を抑えつつ、グァラが示した「制度は均衡したルールである」という話が詳細に紹介される。「特定の協調問題を解決するものとして、特定のルールに従うという戦略が均衡に至っているとき、対応する共同体にはひとつの制度がセットアップされていると言える」。

そしてこれはジャンルにも言えるのではないか。観点選択は協調ゲームなのだ! ここでの目的は鑑賞の最適化である。その上で、自分にとってよりおもしろく鑑賞したい(個人的な価値)と考えると同時に、他人とそれを共有したい(共同体的な価値)とも考えている、と。

作品が発表された時点ではそれにふさわしいジャンルは未決定であり(もちろんここで作者が関与し得ることは否定されない。あくまでいちプレイヤーではあるが、フォーカルポイントを示しやすいのは間違いない)、ある程度のトライアンドエラーを経て確立していくわけだ。保守的な作品なら特段揉めないだろうし、革新的な作品なら時間がかかるかもしれない。そして、「自動車は左車線を走る」というルールが偶然的であるのとおなじいみで、決定されたジャンルも偶然的であるといえる。もちろん偶然的だからといって拘束力を持たないわけではないのも制度一般と同じ。みんながそうするなら、よっぽどのことがない限りそうしたほうがいいのである。

そしてもちろん、制度一般と同様に改定だってありうる。より良い戦略(ジャンル)に気づいていないかもしれないし、気づいていても移行コストがペイしないのかもしれない。が、ともかくそれだけの話である。あくまでその時点で暫定的にふさわしいに過ぎない。

というわけで、制度主義はなかなか良さそうだ。あとは、主観制約と客観制約を満たしているかをチェックしておく。制度主義における作品評価は、アリストテレス的説明のようにふさわしい観点から卓越性を測定する試みである(この意味で客観的である)が、その観点選択はもとをたどれば鑑賞者たちの好き嫌いに帰着する(その意味で主観性が役割を果たしている)。いいですね!

コラムでは、筆者自身がヴェイパーウェイヴ批評に関わった経験が述べられている。

まとめ

  • ふさわしいジャンルについての意図主義は、十分条件としては過度にかんようであり、必要条件とひては過度に制限的である。また、認知主義にコミットしていることから、鑑賞や批評の創造的な側面を捉えられない。
  • ふさわしいジャンルは制度(均衡したルール)として決定されるりこのようなジャンルに従って作品を鑑賞することは、鑑賞の最適化という課題に照らして利益的である。しかし、ふさわしいジャンルの「ふさわしさ」は保有質的に偶然の産物であり、改定の可能性に開かれている。

8. 批評の意義は判断の柔軟性を養うことにある

実質的な本論は前章で終わり。最後にちょっとウェットな話だ!ここまでの議論が批評実践においてなにを含意するのかを示す章でもある。

批評がガイドであるとはいっても、「正しい鑑賞に導く」という意味での(モデルルートの案内のような)ガイドなわけではない。読者に必ずしも馴染みがないかもしれない受け取り方を提示することである種の柔軟性を養うようなガイドである。

……というのを論じるために、ここでグエンの『Games: Agency as Art』が引き合いに出される。んでその上で、グエン自身初別の論文で、芸術鑑賞をゲームプレイになぞらえている(エッセンスとしては ティ・グエン「芸術はゲームだ」 - #EBF6F7 の話だ)。芸術鑑賞はある種の奮闘プレイなんだよという描像6

本書の立場からいっても大雑把にはこの立場を支持するものであるが、いくつかの反論もある。まず、芸術鑑賞をひとつのゲームになぞらえることには反対する。さまざまなゲームプレイになぞらえるべきは、さまざまなジャンルのもとでの鑑賞である(つまり、芸術作品およびそれに対する特定の鑑賞ルールの束のセットが個々のゲーム作品ということになりそうだ)。また、正しく評価・解釈することを芸術鑑賞の実践的目標とするという見方にも疑問がある。ルール逸脱的な側面も十分にあるといういみで、シカール(『プレイ・マターズ』)の立場に近い7

ともあれ、こうした若干の異同はあれど、ゲームプレイにおいてさまざまな(そして現実と比べてシンプルで、固定的で、安全な)エージェンシーを引き受けることで柔軟性が養われるという価値があるように、芸術鑑賞にも判断の柔軟性を養うという価値があるといってよさそうだ。そしてこの見方では、批評はゲームデザインになぞらえられる(作者自身がしばしばその作品に対する最初の批評家であることに留意せよ)。保守的であれ革新的であれ、さまざまな批評を生み出したり、さまざまな批評に触れたりすることの意義はこのへんにあるよと。

まとめ

  • ゲームプレイがエージェンシーの柔軟性を養うように、芸術鑑賞は判断の柔軟性を養う。
  • 芸術批評を書いたり読んだりすることは、さらにラディカルな仕方で判断の柔軟性を養う。ここに批評実践の意義がある。

  1. 「良さ」は価値最大化説に直結するという意味で論争的だからか、これ以降あまり大きく取り上げられない……と思ってたら第7章でバーンって出てくるやんけ!
  2. 以降の4.4節は「〜を拡張する」とは言ってるけど、ウォルトンの議論の射程を適切に限定することでどこを拡張する必要があるのかの方向性を説明するのがメインぽいな。拡張の内容自体にはあまり強い正当化を行っていないようにみえる。たぶん実際には第6章がその役割を担ってるはず。
  3. ただどうなんだろうな、古典音楽として鑑賞したときに奇妙さは現れるだろうけど、総合的な卓越性は低そうである。というかだから新しいカテゴリーが要請されるわけで、そのへんの喚起性?みたいなのを芸術作品の評価に組み込めるのか……って、それこそ「前衛芸術」みたいなのがそういうカテゴリーか。「旧来のカテゴリーのもとで鑑賞するふりをすることによって奇妙さを見出すことを要求するカテゴリー」みたいな。結論には同意するが、ここの部分単体では例証がうまくいっているのかよくわからない。
  4. 正直言うとこれを「ジャンル」と呼ぶことに個人的には抵抗があるのだが(やっぱ分類のためのメタカテゴリーとしても使いたいじゃんよ)、既存のメタカテゴリーのなかではたしかにこれが一番近いよなー。
  5. そもそも積んでるのでアレなのだが、ほんとに還元しきれるのかについてはやや論争的なのかもしれない:倉田剛「社会存在論の「統一理論」について:その意義と問題点」
  6. よく考えてみたら、グエンのこの本が日本語の書籍で紹介されるのはこれが初めてなんじゃないか。『クリティカル・ワード ゲームスタディーズ』では特段触れられてなかったし。捜査が「わたし」をつくりかえる:Disco Elysiumにおけるプレイスタイルとナラティブ|遊星歯車機関を書いたときにこれが出ていればこっち参照させてもらっただろうに……!
  7. グエンは逸脱的プレイのあることを特段否定しておらず、その場合は別個の作品のプレイといえるよみたいな立場な気はする(このへんの話やね Game Studies - The right way to play a game)。もちろん本書の立場としては同じ作品の別の(鑑賞ルールに従った)プレイであるということになるわけだが。