第5章 謎と問題点
ここから第2部。「虚構世界(の登場人物)」と「現実世界(の鑑賞者)」の間でどのような関係が成り立っているのかについて、ひいては、鑑賞上の基本的な姿勢について考察する。これが次章以降で考察・解決していくべき問題となる。
なお、本書の立場ではそもそも「虚構世界」やその登場人物は存在しない(し、「虚構世界」みたいなものを想定する必要もない)のだから、そもそも「関係をもつ」こともできない。ただ、考察のために本章ではいったんこの見方を受け入れることとする。
ヒロインを救い出す
舞台上で起こった、次のような(筋書きにない)ハプニングを考えよう。上演中の演劇のなかで、ヒロインが線路の上に縛られ、まさに列車に轢かれそうになっている。このあと幕が引かれ、それから列車が通り過ぎる効果音が流れることによって「彼女が轢かれた」ということが示される予定である。ここで観客の一人であるヘンリーが「ヒロインを救おう」として舞台に上がり、そのヒロイン(を演じる女優)を線路から解放したとする。「ヘンリーはヒロインを救った」ということになるだろうか?
すでに見てきたとおり、本書の立場では真理性と虚構性とを分けているのだから、この問いも2つに分けられる。回答ともに示せば次のとおり。 (なお、いずれにせよ「ヒロインを演じる女優を」ではないことに注意。女優その人はあくまで演じているだけであって、そもそも危機に遭っていないのは明らかである)
- ヘンリーがヒロインを救ったのは真なのか?
- そもそもヒロインが実在するということさえ真ではないため、ヘンリーがそれを救い出すこともやはり真にはなり得ない
- ヘンリーがヒロインを救ったのは虚構として成り立つのか?
- この演劇においてヘンリーが実在することは虚構として成り立っていないため、それがヒロインを救い出すこともやはり虚構として成り立ちえない
たとえヘンリーが(舞台上に躍り出るのではなく!)こっそりと音響装置の電源を落とすなどして、幕が引かれたあとに列車の効果音が鳴らなかった(そしてこれによって、ヒロインが生き延びることが虚構的に成り立った)としても、やはり上記のどちらの意味でも「ヘンリーがヒロインを救った」ということにはならない。ヘンリーはあくまで、ヒロインが生き延びることを虚構的に成り立つようにしただけのことだ。
同様にたとえば、作家が小説や絵のキャラクターが死ぬように物事を配置したからといって(そしてそれがはじめからであっても、後からの書き/描き換えであっても)、その作家がその登場人物を殺した(真理性)わけでも、その作家がその登場人物を殺したことが虚構的に成り立っている(虚構性)わけでもない。つまり、「世界を跨ぐ」ようなことはできない。
虚構世界で起きること——虚構的に事実であること——は、確かに現実世界で起こることによって影響を蒙る。だが、ある人物がもう一人の人物を救うことができるのは、どちらも同じ世界に生きている場合だけである。
もちろん「作者が登場人物を殺した」と主張するキャラクターの登場するメタフィクションなどはあり得るが、そうした場合作者が実在することが虚構的に成り立っているという建て付けでなければならない(作者とその登場人物との関わりは虚構世界の内部で成り立っている)……的な話も付言されている。
ともあれこのように、「現実世界」と「虚構世界」はまったく隔たっているように見える。
虚構を恐れる
いわゆる「フィクションのパラドックス」について。先述のように二つの世界が隔たっているにもかかわらず、一方でわれわれはフィクションやその登場人物と心理的な接触を持っているようにも見える。この矛盾自体で問題ではあるが、「心理的接触」だけであっても、よく見ると微妙な問題を孕んでいる。
たとえば、ホラー映画を見ているチャールズがスクリーンに現れた怪物を見て「怖かった」と報告することは自然なことである。しかし、その場から逃げ出したりはしないだろう。あるいは、虚構の人物の苦境を「悲しんだ」りする。しかし、われわれはその人物を救うことを(たとえ想像するとしても)本物の選択肢として考えはしない。それどころか、「怖がる」「悲しむ」ことによってわれわれはホラーや悲劇を大いに楽しんでいる。
こうしたことはいったいどのように説明できるのか。そもそも私たちは、単なる虚構やその登場人物に対して(現実と同じ、「本物の」)心理的な態度をとっているのだろうか。
これに対して、たとえば「不信を宙吊りにしている」「半ば信じている」とかいった説が唱えられてきた。しかしそもそも、先の例の観客は怪物をほんとうに目の当たりにしているとは「まったく」考えていないはずである。ということでこのほかいろいろな説が検討され却下されるが、とりあえず森2011「ウォルトンのフィクション論における情動の問題」や石田2017「フィクションの鑑賞行為における認知の問題」、あるいは『分析美学入門」の第8章あたりを見たほうが早いし正確なので省略(もっと言うと本書自体のまとめもこれらを見たほうが早いぞ!)。『分析美学基本論文集』所収のウォルトン自身の論文「フィクションを怖がる」が本節のもとになっているのでそちらも参照するとよさそう(同書は仮説意図主義を唱えるレヴィンソン「文学における意図と解釈」がおもしろいのでおすすめだぞ!)。
ともあれ本節の時点では、こうした「恐怖」や「同情」は文字通りのものではなさそうだという否定的な形での結論を提示し、肯定的な形での説明については第7章で述べるよということで締め。
虚構性とその他の志向的特性
虚構性と、「信じる」等々の志向的特性の違いについて。本章のここまでの考察では(第1章で展開された道具立てを使わずに)これらを同じようなものとして見立ててきたけれど、よく見るとこれらは本質的に異なっている。
- 虚構性に対して、われわれは「真理の一種として考えてしまう傾向」を持っている。通常の志向的特性はそうではない
- 「虚構世界」といった考え方は自然である一方、「信念世界」といった考え方はふだんしない
- もちろんさまざまな様相についての論理では当たり前のように使う考え方ではある。でも自然ではないよね、という感じ
- それに、「マクベス夫人の子供の数」のように不確定・不完全な事柄は「虚構世界」においてときに問題になる。しかし、信念などに関してはそのような不確定性・不完全性による不都合はとくにない。「ある人物に、それが何人でいようが子供がいる」と考えることは自然で、通常とくにその欠けを補足する必要がない
- 「デフォーの小説において、ロビンソン・クルーソーは難破を生き延びた」を単に「ロビンソン・クルーソーは難破を生き延びた」と言うことはふつうに行われる一方で、「ジョーンズは○○であることを信じている」を省略して「○○である」とは言わない
このへん、正直やや論点先取なものばかりな気がしないでもない(というか、第1章で「想像」を明確に定義づけていないのでちょっとズルい気がする)。が、ふだんの実践はそれなりに重視しなきゃだよねという立場としては分かる感じもある。以下の「入り込む」の話もそれなりに説得的だと思う。
この上で、第1章で得た「ある命題がある作品世界で虚構として成り立つのは、それを想像せよという鑑賞者への命令が存在しているときである」という結論を思い出せば、ほかの志向的特性と異なり、状況の説明の中に(われわれ自身が)入り込んでいる、 鑑賞者は作品世界の傍観者ではなく鑑賞者自身がごっこ遊びに「参加」しているという点からして虚構性の特殊さは明らかであろう。
というわけで、次章は「参加すること」について。
つづき: murashit.hateblo.jp