こないだのBG3感想日記に書いた「ソリッドで一見しては把握できないようなメカニクスが、実験と調査にたいしてたしかにこたえてくれる感覚」について、まとまらないながらもすこしだけ。
科学と工学
まず、これに類する感覚が述べられたブログの記事を読んだことがあるはずと振り返ってみたところ、あったあった、phi16さんのこの記事だ。
今回の話にまつわるポイントとしては下記だろうか。
「観測と制御」の先にあるのは「知識欲・理解欲」なのかもと思いました。つまりゲームを識ることそれ自体が楽しいのです。
そしてこのためには、「システムとプレイヤーの間の信頼関係」がなきゃならない。プレイヤーからすればなにかを入力すればそれに応じた反応がある(インタラクションが適切に設計・実装されている)と信頼できている必要があるし、システムの側もそのような「探求」をプレイヤーがおこなってくれると信頼していなければならない……みたいな話がされている。
これって、(あくまで類比でしかないものの)自然の観測や実験(自然科学)とそれを活用した制御(工学)のおもしろさになぞらえることができそうではある。現実の物理法則のようなメカニクスにたいする探求と、ビデオゲームのような融通のきかないメカニクス(およびそこに重ねられた虚構)に対する探求、みたいな。キャラクタービルドがおもしろいのは、その「自然」をどう使いこなすか、つまり工学チックなおもしろさだとか。そういう。
このスタイルに立つなら、たとえば攻略本や攻略Wikiみたいなものを見ながらプレイすることにも特有のおもしろさがある、みたいなことはいえるはず。
メタAI
似たような話題でもうひとつおもしろかった直近の記事。
- 「AIに難易度を調整される仕様」について、ゲーム研究者・松永伸司氏とゲームAI開発者・水野勇太氏が議論する[前編] | MACC – Media Arts Current Contents
- 「AIに難易度を調整される仕様」について、ゲーム研究者・松永伸司氏とゲームAI開発者・水野勇太氏が議論する[後編] | MACC – Media Arts Current Contents
ここの前編にも「ゲームは『自然』であってほしい」という喩えがでてくる。もちろん、なんのために喩えたいかという点で異なってはいるんだけど(対談のほうでは「自己変容」の話1につながる)、メタAIのようなものがその「自然」を毀損してしまうという点では共通しているともいえる。
いわゆる「メタAI」やその周辺のしくみについては「ブラックボックス的」かどうかってポイントがありそう。
- 「メタAI」として扱われるものは、おおむね入力と出力との間がブラックボックスであると考えられているのではないか
- そもそもブラックボックスでない場合、その調整はプレイヤーの分析によって引きずりおろされ攻略に利用される、つまり「メタ」なものでもなんでもなくなってしまう。バトルガレッガのランクシステムあたりを想像するとわかりやすいか
- そのいみで、対談の後編の最後のほうに出てくる「キャラクター化されたメタAI」みたいなものは「メタ」ではないのでは
- 「ブラックボックス的」という語はちょっといけてない。なんらかの傾向性というかおもてなしがなければただのRNGになってしまうし、たんに隠されているという話ならマスクデータもそうなので、そのへんの違いも含められるもうすこしうまい表現ができればいいんだろうけど……
ブラックボックスだと、それ以上探求が続けられないからね、と2。
だから、(先のBG3の感想にもちょっと書いたんだけど)たとえばGMがいまの生成AIの延長線上にある(もっと賢いけど、そのゲームのかぎりで楽しませてくるような役割のみを果たす)ような、なんらかのいみでTRPGぽさを再現したいCRPGがあったとして、それってやっぱ「違う」んだよな。機械的な融通の効かなさがなきゃ探求の対象にできない。けっきょく自分しか見てくれないというのは、上述の「信頼」がない状態であるともいえるかもしれない。この点でいえば、むしろ人間のGMだとゲーム外でのつながりや別種の融通のきかなさがあらわれるぶんむしろ「自然」に近づくような気もしてしまう。あるいは、考えてることがなんもわからん(開発者にもわからん)ような「メタAI」ならそれはそれでおもしろくなるのだろうか。いや、それは三体世界で科学をやろうみたいな話になってしまうのかな。とかとか。
ぜんぜんまとまらないが、以上いったんメモ程度に。