『The Poetics of Science Fiction』第4章のメモ

パルプSFに関する章。後半のサイバーパンク絡みの部分でいろいろ調べたり考えたりしてたら時間がかかってしまった……が、それは置いといてパルプそれ自体に関する話もおもしろいので、かなり長くなっています。

The Poetics of Science Fiction (Textual Explorations) (English Edition)

承前:

murashit.hateblo.jp

第4章のざっくりまとめ:

  • 本章の目的
    • SFの源流にあるパルプSFの特徴と、それを支えた読者/価値観、そして後世への影響について検討する
  • おおまかな流れ
    • パルプSFの歴史、そしてそのスタイル上の特徴をさまざまな観点から紹介するよ
    • このような特徴を持つパルプSFはメインストリーム的な価値観からすれば低く見られがちだけど、置かれた状況や受容のされかたを考慮すれば理由のあることで、その観点からいって価値のあるものだったと言えるよ
    • パルプSFを源流とするSFの伝統はその後も、それがたとえずいぶん離れているように見えても、ずっと受け継がれてきた/意識されてきたよ
  • 感想とか疑問点とか
    • (本章に限らないが)英語圏の話であることには留意しておきたい
    • パルプの文体的特徴の話はそれだけでかなりおもしろい。ざっくりいえばイメージどおりなのだが、やっぱりこうやって細かく見ていくのは楽しいもの
    • (以下のメモでも脚注に長々書いてるけど)「一点のアイデアを敷衍しておもしろく見せる」みたいなのを大事にしてきたジャンルなんだなというのも、知っていたつもりではあったが、改めて認識できたところではある(みんな使ってる「センス・オブ・ワンダー」とかいう謎表現はたぶんそういう話でいいんだよね?)
    • それはそれとしてやっぱスーヴィン『SFの変容』くらいは読んどくべきって気はしてきた
    • 受容のされかたも鑑みて評価すべきというのはおおむね異論のないところ。ただ、本書内の記述だけで正当化し切れているかといえば微妙かもしれない
    • 『ミラーシェード』のスターリングのマニフェストをそのまま素直に「伝統を汲んでいる証拠」として提示するのはちょっと違う気がする(いや、どういうつもりなのか微妙だが、あの流れだとそう見えてしまいかねないような気がする)けど、とはいえこうしたSFというジャンルの過去があってこそってのは当然まったくそのとおりだと思う
    • いずれにせよあの序文はめちゃくちゃかっこいいので全文読もう。ついでに(パルプつながりということで)「ガーンズバック連続体」とそれについての 伊藤計劃のエントリ も読もう。最近読んでないなって人は久々に読もう
    • (これも脚注に長々書いてるが)ポストモダン云々についてはわざわざ他書ひっぱり出して考えてみたのだけどいまいちピンときていない。前章同様(あと実は次章でも触れられてるんだが)「ポストモダニズム批評」を苦々しく思ってるのは伝わってくる
    • ともあれ!総じてパルプSFへの愛に溢れた章で、読む前には興味がそれほどなかったのだけど、読んでくうちにあてられてしまったところがないではないぜ!

4. Macro: Outer Space

4.1 Preview

前章ではエッジな作品を見てきたが、より主流なものについても検討することが必要だろう。それによって、SFにおける「伝統」に対して持たれがちな思い込みが不十分なものでしかないことが明らかにできる……かもしれない。

そして、主流とされてきたSFはそれこそ、スタイルが奇抜だったりなんかするもんではないのも前章で見た通り。本章ではSFにおいて「主流な」書き方の源流といえるパルプSFについて、そのスタイルを中心に見ていく。

4.2 Pulpstyle

スタージョンに帰せられる有名な「SFの9割はガラクタ」がマクラになっている1。こういうとき頭に浮かぶのはたいてい、主に20世紀の最初の前半に大量生産されたパルプSFなんだろうねと。実際、分量でいえば当時のSF作品の大部分を占めているわけだ。

というわけでまずはパルプマガジンの展開について述べられるが、このへんはある程度周知のことなので省略。ガーンズバックやジョン・キャンベルの名前も出てくる。 ともあれ、「明確に説明されたもっともらしいSF的シナリオを、中立的に語る」みたいな方法論はこの流れのなかで確立されていき、パルプマガジンそのものが廃れたあとの1950年代まで維持されることになる。そしてその後も、このスタイルは大なり小なり利用されていくことになる。

……のだが、1920〜30年代のオリジナルのパルプSFを読むのは難しいのが現状(印刷も紙も悪いので残らんのだ)。当時を伝える数少ないアンソロジーとして、アシモフの編んだ Before the Golden Age 2をはじめいくつかが紹介されている。なお、この Before the Golden Age に収録されているキャンベルの ‘The brain stealers of Mars’3 (1936年。おそらく邦訳なし)は、パルプSFのスタイルを検討するためのプロトタイプとしてこの後たびたび登場している(細かい話のため本まとめではあんまり明示してないが)。

続いて各論。


まずは、パルプ雑誌がどのような状況のもとで量産されていたのかについて。

よくいう「二流の作家がきつい締め切りに追われながら安い原稿料で書き飛ばしとったんやで」というあれはどうか。実際、おおざっぱにはそんなふうであったらしい(ただ、作家というよりはジャーナリストや技術者に属す人のほうが多かったようでもある)。もちろん価格競争もきびしく、流通業者もなかなかあくどい。こうした状況はしかし、金のない若者や貧しい移民であっても手に取りやすいということにもつながっていた。

また、継続的な購入をあてこんで連載が多かったようだ。したがって文字数制限がゆるく、次々起こる事件でストーリーを引き延ばしたりクリフハンガーで引っ張ったりといった手法が用いられることになる。そして読者の反応にも敏感。読者投稿欄での議論がすぐさま取り入れられるし、ある雑誌で新しい趣向がなされていればすぐさま別の雑誌で真似されるなど。


次に題名について。典型的には、エキゾチックだったり未来感のある固有名詞や、漠然とSFぽさを醸し出すシンプルな名詞句、みたいな感じ。文法が単純で、非常に読み取りやすく、機能としては新聞のヘッドラインなどに近い。

このあたりは、後世の(パルプではない)SF作品のそれ、たとえばディック『流れよわが涙、と警官は言った Flow My Tears, the Policeman Said』(1974年)のように複雑な構文を持つものだったり、ゼラズニイ『その顔はあまたの扉、その口はあまたの灯 The Doors of His Face, the Lamps of His Mouth』(1965年)4のように想像力をかき立てるスタイルだったりと比べてみるとわかりやすい。


名付けについて。いかにもWASPぽい名前の男性の登場人物が大半で、地球上での話ならアメリカ東部が舞台であることが多い。こうした属性と場所が、書き手および読者の両方ともに馴染み深いものであったからだろう。「日常的な舞台で、信じられないことが起こる」という構造になっているわけだ。

対して異星人はといえば、いかにも英語の音韻体系になさそうなネーミングで呼ばれる。外国風であるさまがそのまま alienness に接続されている、と。「アメリカと非アメリカ」というイメージがほの見えるところである。


新語 neologism について。パルプSFのそれはハードサイエンスに元ネタをとることが多く、後世のSFがそれ以外(心理学、言語学社会学、カルチュラルスタディーズ……)から持ってくることもあるのと対照的。ざっくり言えば、抽象概念ではなく物質的、みたいな。「イオン・ガン」と「サイバースペース」の違いを見よ!(これがいい例かどうか微妙な気はするが……


焦点化を含めた語りのスタイルについて。大部分は客観的で全知の語りである。ときに一人称での語りや、あるいは三人称のまま視点人物が設定される場合があっても、その視点はWASPっぽい人物であることがほとんど。また、直接話法が好まれることについても言及されている。登場人物が状況にリアクションをとってくスタイルであり、語り手のコントロールを感じさせる余地が少ない ……みたいな話になってるんだけどここちょっとよくわからないな

いわゆる「説明口調」みたいなのがしばしば見られるのも特徴的。不自然ではあるが、シチュエーションを素早く紹介できるという利点がある。「これまでのあらすじ」を伝える直接話法によるフラッシュバックもその類で、それ以外のやり方で時間的フレームから離れるようなことはあまりない。たとえあったとしても段落やダイクシスの提示によって区切りが明示されるような形で行われる。


言語使用域 register について。(前章でもちょっとだけ出てきたが)ざっくりいえば、状況や話し手/聞き手の立場による言葉づかいの違いみたいなものの話といえばいいか。なお、文学(言語的創作物)それ自体は使用域を持たないとされているっぽい? どこかほかのドメインからもってこられるもので、パルプSFの新語法は科学的/軍事的な使用域から来ている、といった具合。あまり自信がないのだけど、小説とかにおいては基本的に「言葉づかい」が先立つわけではない……みたいな話だろうか。

さて、使用域は次の3つの次元から定義される。

  • field:設定、やりとりの目的など
    • パルプSFなら、決断やアクションを含む冒険物語のなかであることがしばしば
  • tenor:その場にいる人物たちの関係性
    • パルプSFなら、科学者や冒険者、軍人たちみたいなのがありがち
  • mode:コミュニケーションに使われる媒体
    • 直接話法で、対面の会話だったり、論理的推論みたいな思考だったり

で、それにふさわしい言葉づかい(語彙文法、lexicogrammer)がそのときどきで選択されるというわけ。

これには、場面場面で変わってくるような複雑さのほか、小説に「もってくる」ないし「埋め込む」ことに伴う複雑さもある。もってくることそれじたいが次元の変化なので。たとえば、対面での会話などの言葉づかいを持ってくるといっても書き言葉と話し言葉の違いみたいなものが出てくる(直接的には同じ「会話」的なモードであっても、文章なのかほんとうの会話なのかというレイヤでのモードが違って……みたいな話)とか。

パルプ作家たちは、こういった複雑さから生じるでこぼこをうまく均せていないことも多い。突然差し込まれる説明(既述のとおりときには台詞であることもある)みたいなのがその一例。もちろん、完全に百科事典的な無機質な記述に終始させるだけなく、柔らかかったり冗長であったりする表現を混ぜてもおり、それが読んでいるときのわくわく感につながったり、あるいは科学について知らない読者でもついていきやすくなることに繋ったりしている。

というわけで、パルプSFの言語使用域について、ミリタリもののアクションアドベンチャーや科学的記述、理性的な議論などなどからきたものが読者に想定される知識も意識しつつ混ぜあわせられており、ときには感情を刺激するような表現だって出てくるよ、みたいにまとめられている。


語彙の多様性について。ここらへん、かなりおどけた雰囲気で書かれてておもしろかった。

まず、直接話法の採用にともなう「〜と言った」の多用を避けるために、‘Said-Book’すなわち「〜と言った」の言い換え辞典がパルプ作家や編集部たちのなかで出回っていたと言われている……なんて馬鹿話をマクラにしつつ、たしかに報告節に使われる動詞のバリエーションは(一定の幅のなかではあるが)かなりあった、みたいな話がされている。saidだけじゃなくて、argued、groaned、panted……などなど。

だが、バリエーションという意味では、報告節動詞に付いた副詞修飾(「疑わしげに 言った」みたいなやつ)もなかなか顕著5。mediatavely、savagely、bitterly、softly……(以下15個くらい挙げられてて笑う)。さらにはhurriedly and efficiently、slowly and thughtfullyなんて組み合わせたりもできる。けれど、ときにはちょっと首をかしげてしまうような表現も。それでも、文字数を稼げばそのぶん原稿料がアップするのだ。


同一指示 co-reference と繰り返し。簡潔な表現を目指すのはよくある心掛けではあるが、もちろんパルプSFにはあてはまらない。先の報告節動詞の使い分けのような例もあるにせよ、それでもやはり、代名詞や省略が比較的少なく語の繰り返しが多いのもパルプスタイルの特徴である。文字数を稼げばそのぶん原稿料がアップするのだ。


……というのは語彙面での繰り返しの話だが、本節の最後に、テーマ的な意味での繰り返しについても触れられている。ひとつの物語の中で、似たような(同じことに端を発する)危機とそれについての語りや議論が繰り返される、みたいな話。

で、それは相変わらず文字数を稼げるからってのもあるけれど、それだけではない。ひとつのことがらからの「思考の変奏」を軸にしてみせるのはりっぱな手法であって、スーヴィンのSFの詩学における中心的概念である novum (「新奇性」とでも訳すべきか)の起源にあたるだろう。それから、こういうのってとくに単発の短編において目立ってくるよね、とか6

4.3 The pulp reader in history

パルプSFにおける読者からのフィードバック(と、それに製作者たちがすばやく適応していくこと)の重要性について先に簡単に触れたが、その「読者たち」の反応ついて、ここからさらに詳しくみていく。

まず、(相当ざっくり要約すると)エンタメっぽい作品の文学的価値はあまり高くみられておらず、その意味でSF一般、とくに上述のような特徴を持ったパルプSFは良いものだとは考えられていないようだ、という現状認識から話が始まる(対比として、いかにも高尚な感じのする文学の特徴が挙げられている!)。

この背後にある考え方はどんなものだろうか。‘The brain stealers of Mars’を使い、学生(とはいえ文学系の最終学年で、セミプロの文学研究者と言ってもいい)50人を対象にしたちょっとした実験をやってみた。このキャンベルの作品のほか、シェイクスピアやチョーサーからドイルやキング等々の作品それぞれにたいして、文学的な価値にかんするいくつかの項目からなるアンケートを行ったらしい。

集計結果(自由既述欄における形容詞の頻度とかも示されている)の詳細はかなりおもしろいがここでは省略。対象となる学生の傾向からして、ざっくりいえば芳しくない評価であり、ある意味予想通りなんだけど、身も蓋もない感じの語彙や数字で出てくるのは興味深いしわりとウケてしまう。


とはいえ、これは今回のアンケートの対象にある程度行き渡っているメインストリーム文学的な価値観7によるものにすぎないとも言える。メインストリームとSFは別の伝統に属するわけだ。たとえばSFには前節でみたようなスタイルの観点からいって、ふるい神話や民話、あるいは中世的な教訓小説などとの共通点を見出せる。

てなわけで、(前章末のディレイニーの言ってたことにも繋がるのだが)ジャンルごとの評価基準というものがあるし、それに沿って分析していくべきだよということになる(このへんEnkvist のパラメータ云々の話8が引かれるなどしつつもう多少細やかな議論がされている。というかそもそもわりと直球に美学的議論ではあるよな)。もちろんいっぱい読んでるやつの言うことを信じろとかいう話ではなく、それらの作品が置かれた状況やそれらを読んでいた読者のことを考慮すべきだっていう話。

以上より、前節で見たような特徴を(メインストリーム的な価値観からみて)「不器用」なものと捉えて終わらせるのは適切ではなく、(これも前節で見たような)読者たち、受容のされ方にちゃんとフィットするものであり、その意味で価値のある(あった)ものだと結論づける。読者のなかには労働者の若者や英語に堪能でない移民層が多く含まれていたこと、仕事の合間に読まれるものだったこと、などなど。

4.4 The pulpstyle legacy

本章で見てきたパルプスタイルはそれ以降のSFのスタイルの基礎となっている。

まず、すでに見てきたとおり、「黄金時代」と呼ばれる1940〜50年代のSFとパルプSFとはスタイルの面でシームレスにつながっている(もちろんパルプ雑誌自体は滅びたし、コンセプトももっと「大人向け」のものが増えてきたりといった変化もあるが)。それに40〜50年代には長編なども増えてくるわけだが、複雑なプロットを展開させるというより、ひとつのnovumを設定してそこから押し広げてく、いうなれば「長い短編」のようなものが多い。パルプスタイルはすでに根をはっていたわけだ。なお、あわせて映画の話も出てくるがここでは省略。


そしてその後の1960年代、前章で見たニューウェイブに代表されるように、パルプとは違うスタイルを試みる作家も出てきた(ヴォネガット、ディック、エリスン、オールディス、バラードが挙げられている)。けれどみながそうだったわけではない。どちらかというと例外である。アシモフはもちろん最後まで伝統寄りだったし、たとえばニーブン『リングワールド』(1970年)などもさまざまな面からいってパルプスタイルを継承したものといっていい。

ほかにもアンダースン、ベア、クラーク、ハインラインル=グィンスタージョンなどの名前が挙げられている。彼(女)らは伝統的なスタイルを引き継ぎ洗練させつつ、ほかのスタイルでは表現できないような物語を作り上げているではないか、と(多少思うところはあるがここでは措く)。あと、これらにおけるパルプスタイルからの脱却(あるいはパルプスタイルの進化)といえば、多くは焦点化の次元で行われているようだ、みたいな話とか。


さらにサイバーパンクの時代に至って……と、ここでスターリングによる『ミラーシェード』の序文(1986年)が引かれる(以下は当該部分の小川隆訳)。

 サイバーパンクは八〇年代の環境の産物である——ある意味では、これから示そうと思うのだが、決定的産物といえよう。だが、そのルーツは六〇年におよぶ現代ポピュラーSFの伝統にふかく根ざしている。

 グループとしてのサイバーパンクはSFの分野の知識と伝統にどっぷりとひたっている。その先達はあまたにのぼる。サイバーパンク作家個々の文学的な借りはそれぞれことなるとはいえ、先輩作家の中に、あるいはサイバーパンクの祖といっていいかもしれないが、はっきりした目ざましい影響を示しているものがいる。

つまりやっぱり、サイバーパンクに至っても、SFの伝統に自覚的であるわけだ。というかそもそも、(先の引用部分に続いて挙げられる作家たちからも明らかなとおり)黄金時代の科学そして外挿への意識とニューウェーブの内省を混ぜ合わせたみたいに位置付けられる9。実際、直接話法の多用と活用、新技術を説明するにあたっての言語使用域の移行、新語への情熱など、パルプの子孫であろうスタイルは『ミラーシェード』のなかにも見てとれる。

で、前章後半で触れたサイバーパンクポストモダン文学との接近みたいな言説に立ち戻る。意識の流れっぽい手法を用いたり、詩的なメタファーが使われていたりみたいな共通点があるようにも見えるが……と。

まず、従来のメインストリーム文学の多くが「現代」を扱い、したがって話を進めるための前提がそれほど要求されないのに対して、SFは当然そうではない。そしてこのような側面から、メインストリームの大部分が「認識論的」フィクションである一方、SF、そしてポストモダン文学は「存在論的」フィクションであるというMcHale (1987) の指摘がある10

ここで本書の内容からちょっと離れてマクヘイルの Postmodernist Fiction の話に寄り道しておく。といってもちろん自分は読んだことがないのだけれど、木原・麻生編『現代作家ガイド7 トマス・ピンチョン』(2014年)所収の麻生「トマス・ピンチョン/スターターキット」でちょうど同書について触れられている箇所があるので、引いておく。

今やポストモダニズム文学批評の古典ともいえる『ポストモダニスト・フィクション』(一九八七)で、ブライアン・マクヘイルは『競売ナンバー49の叫び』を例に、ポストモダニズム文学の特色を「存在論的」と述べ、「認識論的」特徴をもつモダニズム文学と明確に区別した。すなわち、ウィリアム・フォークナー(一八九七〜一九六二)の『アブサロム、アブサロム!』(一九三六)に代表されるモダニズム文学では、ある特定の世界やシステムにおける知識の構築や伝達が主要テーマであるのに対し、ポストモダニズム文学ではいくつもの異なる世界やシステム、あるいは世界観が同時に提示、または共有され、それぞれの世界、ないしは世界観がいかに構築されるのか、あるいは脱構築を経て再構築されうるのかが問われる。言い換えれば、モダニズム文学ではある特定の謎の探求について物語の筋(プロット)が綿密に張り巡らされる一方、ポストモダニズム文学ではある知識の枠組みを超えた複数の世界が共存することを前提とする。

……わかるようなわからんような……。ちなみに同書にはマクヘイル自身のピンチョンに関する論考も収められてはいる(が、認識論的/存在論的の話はあんまり詳しく説明されていなかった)11。寄り道終わり。

本書の内容に戻ると……マクヘイルのような見方にある程度うなずける部分はある(たしかに存在論的とはいえる)けれど、そうは言ってもポストモダン文学とSFでは、ざっくりいえば、物語の起伏やオチがなくで越境的だったりする前者に対し、完結した物語や教訓をもち幻想や非現実性を科学的に説明しようとする傾向のある後者とでは真逆ではないか、等々。存在論的というのはあるにせよ、認識論的といえる側面もあって、さらに語りを進める力みたいな意味で(?)「力学的」な側面もあるぜ……みたいにまとめられている。たぶん12

4.5 Review

というわけで、SFの基底にあるパルプスタイルについて見てきた。前章で見たような文体的実験も、ほかでもないこの伝統からの逸脱として位置付けられる。不当に周辺化されてきたとまで言うつもりはないが、それでもどんな歴史がありどんな影響を与えたのかについてはあまり理解されてこなかったのではないか。

スタイルというのはジャンルに(ひいては、読者や置かれた環境に)相対的なものであって、スタイルそれだけから評価を決めることはできない、といった主張で締め。

つづき: murashit.hateblo.jp


  1. 「だが、あらゆるものがそうで、SFも例に漏れないってだけだよ。そこをわざわざ採り上げてやいのやいの言っても……」みたいな続き/含意のある、あれ。スタージョン自身は実際には言ってないんだっけ?
  2. Asimov, I. (ed) (1975) Before the Golden Age Trilogy, London: Futura.
  3. Campbell, J. W. (1975) ‘The brain stealers of Mars’, in Asimov, I. (ed), 764–81 [1936, Beacon Magazines].
  4. ハヤカワから出てる邦訳では表題作が変わっていて、『伝道の書に捧げる薔薇』である。
  5. ル=グウィン先生が「血を吸うダニ」と言っていたやつですね!
  6. ここらへんは自信がないところなのだけど、前章にもちょっと出てきたスーヴィンの話とあわせて考えると……科学技術や制度やなんやの要素のもっともらしい変化(「変化」でなくてもいいが)を仮定し、その影響についてさまざまにしつこく想像をおし広げつつ異化効果を発揮してみせる(現在に照らし返してみせる)のがSFよね的な話のことを言ってるんだと思われる。くだけていえば、「(いかにもありそうな)こんなことになったら/こんなことがあったら、どうなる?どうする? きっと(いかにもありそうげに)こうなるよね/こうするよね」って話でわくわく/ぞわぞわさせて考えさせるっていう。(「繰り返し」から言えば連載のほうが相性いいのに)短編に顕著みたいに言われてるのも、強調して軸にするって意味では短いほうが適しているよねって話のはず。……いやわからん、相当勝手な補完をしているような……。
  7. この後段で大雑把には「ロマン主義以降」の価値観、すなわち寓意や幻想よりリアリズムや自然主義的な人物描写描写に重きを置いたりするようなそれとされている。この認識が適当なのか若干疑問には思うが。
  8. Enkvist, N.E. (1989) ‘From text to interpretability: a contribution to the discussion of basic terms in text linguistics’, in Heydrich, W., Neubauer, F., Petöfi, J.S. and Sözer, E. (eds) (1989) Connexity and Coherence: Analysis of Text and Discourse, Berlin: de Gruyter: 369–82.
  9. この序文含め、スターリングがほうぼうでそんなことを言ってるのはたしか(ただ一方で、伝統を断ち切る云々みたいな話もしてるが。もちろんそこは両立しえないわけではないだろうけれど)。巽『サイバーパンクアメリカ』とかも参照。
  10. McHale, B. (1987) Postmodernist Fiction, London: Methuen.
  11. さらにちなむと、前章でわりとSFプロパーに近い見方の代表として(たぶん好意的に)紹介されてたマキャフリイは、このマクヘイルの論考で「ポストモダン導師」のひとりとして紹介されていたりする。あんまよく知らない(それこそ、アンじゃないほうの人、なんかアヴァンポップの人やろくらいの認識しかない)し「どっちの味方」みたいに考えるのも変だが、ちょっとおもしろい。というかそれでいえば巽せんせもその類だよな。このピンチョン本にも寄稿しててディックも引き合いに出しながらパラノイアの話しとるし、それこそ(自分は読んだことないんだが)同じ彩流社の現代作家ガイドに巽・新島編でギブスンのが出てて、そこにマキャフリイが寄稿(あるいはインタビュー?目次が見つからないからわからん)してるとかそういうアレがあったり。うーん、この現代作家ガイドのギブスンのやつも買っておくべきか……。
  12. ……と長々やってきたけど、ここらへんよくわかっとらんです。「存在論的」「認識論的」のニュアンスが上述のとおりふわっとしかわからなくて、だからさらに加えて「力学的 kinetic」と言われても、それって並立させられるような話なのか? とか。読みとれていないだけかもしれない。大筋での気持ちはわかる(たしかに違うだろう)けど、「メインストリーム」や「ポストモダン」を藁人形みたいにしすぎじゃないかというか。たとえばスターリングはピンチョンだって評価してたわけで、ポストモダン側をひとからげにするのも……みたいな。いやまじでわからん。