- ブログを書くだけだと検索に乗らないっていうのがそれなりに痛感されて、ちょっと前にTwitter1にいろいろ投稿したりしていた
- けれどもそこからTwitterに戻るということもなく、一方でBlueskyでぽつぽつ投稿するようになってしまった
- 最近ブログを書いていないのはそのせいじゃなく、たんに書く余裕がないからだと、自分では思っています。たぶんきっと
- Blueskyに関しては……おそらく一時的とはいえ、招待制であり、閲覧にさえログインウォールのあることがどうしても気にはなってしまう
- かといってTwitterでどうこうって気にもなれないんですよね。なんでだろ。みんなが言うほどには嫌いになっていないとは思うんだけど
- 積極的に見捨てるとか、あるいは感傷的になったりとかもできない
- このへんの気持ちはまだいまいちよくわかんないな。なにかに蓋をしているんだろうけれど、いったいどのへんだろうか
- 鏖戦とかメタフィクション云々2とかSFの詩学がどうとかはあるんだけど(いちおういつも気にしてはいる)、それはそれとして、今年の後半は制度とか規約とか規範についての本を読みたいなと思ったりしています
- 直近だと"The right way to play a game"を読んだこととか、それ以前にも規範と推論について考えたこととかが影響しているのではないか
- どっから手をつけていいかはよくわかっていないものの、とりあえず瀧澤さんが訳しているルイス『コンヴェンション』、グァラ『制度とは何か』、ヒース『ルールに従う』あたりをまとめて買ってはみた
- まじでどっから手をつけていいかよくわかっていない感じが出ていますね!
- で、それにあたり、そういえばいちおうゲーム理論を復習しておきたいよなと思ったところで、ちょうど有斐閣の『活かすゲーム理論』の著者座談会を読み、よさそうやんつってそちらからはじめた
- これいい本ですよ! モデル化とはなにか、なぜモデル化するのか、どのようにモデル化するのか、どんないいことがあるのか、なにに注意する必要があるのか、みたいなことがちゃんと書かれててうれしい
- どういう前提があってどう解釈するかみたいなことをいったん切り離し非経験的に操作できるからモデルってもんが有用なのであって、逆にいえば前提とかそういうものをはっきり意識できていないモデル化はしょうもないっていうのは、当然あるわけじゃないですか
- で、ここからむやみに話を広げます
- つい先日『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を読んだとき、(そもそもの事実誤認や解釈のおかしさの指摘はもちろんあるとして)切り取り方によって「良いこと」だって表明できちゃうみたいなことに注意を払っているんだろうなと思ったんですよね
- ざっくりいえば「切り離せないところを切り離して評価したところで、その評価にどういう意義があんの?」っていう
- ここで採り上げているのはモデル化じゃなくて評価なんだけど、いずれにしたって、なにをどう考えてどういうふうに切り取っていますよってのを明示して、それを含めて問わなきゃならんという話は共通してるといえなくもないのでしょうか
- さらに広げて、たとえば批評における理由づけの話までもってってもいいか。それはやりすぎだろうか
- あるいは、「透明性」みたいに言い換えてもいいのかもしんない
- ただ、これやっぱ難しいところもある
- 理由や前提を共有しようとしたって、それらをちゃんと咀嚼するのはたいへんだ。理由をみられるような状況づくりだってやっぱりたいへんだ
- なんの話だっけ……あとなんかあるかな
- 「想像力」とか「センス」みたいな語の使い方について?
- そういうなんらかの能力というより、たいていはたんなる知識や経験で済む話がほとんどだったりしないだろうか
- それに加えて「それらを適用するきっかけに気付ける」が必要なくらいか
- とはいえそうやって還元したからといって、それを得ることの難しさが減じられるわけでもないのだけれど
- なんかもうちょっと日々の話したいよな
- 平日よりも週末のほうが忙しいというか、息つく暇がなくなって数年、平日もどったんばったんしてくると全部どったんばったんだよ!
- まあそのうち落ち着くのではないでしょうか
- 焦るような時間じゃないというか、焦るような期限のあることをインターネットでしていないつもりなので
- ちょっと自分に言い聞かせてる感ない? いつもそうだよ!