祖父について

実家に帰りそのまましばらく滞在しているため、ここ2ヶ月ほど祖父母とともに居る時間がとてもとても長うございます。今日はそのこと、というか、なかでも祖父のことについていくらか喋ろうと思っております。


前提は以下の三つ。

  • 私の家では父母が共働きでしたから、学校から帰ってきたときに家にいるのはいつも祖父母でした。僕が物心ついたころには祖父はもう退職していましたから。ですから、僕は祖父と一緒にテレビを観たり、風呂を焚くのを手伝ったりしていたような、爺ちゃん子、婆ちゃん子だったのです。きっと、今でもそうです。
  • ここ数年で祖父はすっかり耳を悪くしてしまい、そのくせ補聴器をつけることを嫌がるせいもあり、あまりうまくコミュニケーションをとることができません。また、最近ではすっかり体力も落ちてしまい、トイレに行って帰るだけでゼイゼイと肩で息をしています。元気がなにより自慢であった(僕がまだ幼いころには裏山に登り杉の木の枝打ちなどしていたことが思い出されます)祖父にはきっと辛いことでしょう。
  • 祖父と父はあまり仲がよくないようです。最近まで知らなかったのですが、父(末っ子長男)はどうやら、若いころは県外で働いていたものの祖父に(どのくらいのものなのかはもちろん分からないのですが)強いられて実家に帰ってきたようで、そのことについてなにか思うところがある。端的に言えば、確執がある。そんなことを仄めかすことがあります。


そんな状況で実家に帰ってきた僕ではあるのですが、祖父母といっしょに炬燵に入っているとどうしても祖父の小言などを聞かざるを得ないわけです。もちろんそれを聞いて祖父とはどんな人なのかを知るというのを目当てのひとつに帰ってきたのですから、僕としてはそれを聞くことにやぶさかではありません。

さて、祖父の話すこと。

  • 祖父は(歳をとったら誰だってそうなんでしょう)いつも、昔の自慢話をします。いかに自分が働きお金を貯めたか。いかに自分が元気であったか。それによっていかに友人たちから賞賛されたか。たしかによく頑張っていたのだとおもいます。昼間に働いていた祖父を曾祖父はさらに朝など畑仕事に行かせたことなど、いろいろ苦労したのだと。きっとその通りなのでしょう。
  • 父を故郷に帰らせたこと、そのおかげで今の職を得て安定し嫁さんも貰えたんだと、祖父は言います。父がどう思っているのか、普段の彼の言動を聞くかぎりではその通りに感謝しているとはとても思えませんが、それは父だって、きちんとそのことで話し合ったことなどないのでしょうし、僕が想像しても詮無いことでしょう。そういうものなのでしょう。
  • ちょっとだけ悲しいのは、祖父がそうやって昔の話しかできないこと。いまはもうほとんど動けないくらいに衰えてしまい今の自分について何も語れない代償なのだろうか、と考えてしまう理路そのものが怪しくもあり、それだから下らないと言い捨てようとも思わないのですが、悲しくはあるのです。
  • 先日、僕が東京に行ってしまうことに対して「そのうち爺さんがゆうとったとおりになったのう」と後悔するときがくる、との言葉をいただきました。「わしのゆうことはひとっつも聞きゃあせんけえのお」との言葉をいただきました。故郷に住み働くべきだと小言を言われてしまいました。もちろん僕にだって言い分はあります。しかし、これだって、そういうものなのでしょう。祖父と僕が見てきた世界はおそらくおおきく違っていて、いまさらどれだけコミュニケーションがとれたことでその溝を埋めることはできないのだろうなと、手前勝手に諦め聞き流す。それは祖父をたいへん馬鹿にした態度なのでしょうね。

今回こうして事実を整理もせずに並べたててみて、いったい何が言いたかったのだろうと思ってみるに、僕にとって「老いること」は、まったく不透明で不条理に忍び寄る、とても恐しいなにものかなのだということです。祖父を貶めるようなことばかり言ってしまったかもしれませんが、それでも僕が祖父のことがやはり好きなのです。だけれども、「こんなふうになってしまうのだろうか」という恐れがある。


老いることとは、忘れ、衰え、鈍く頑なになることだけではなくて、尊敬すべき部分も増える(最低でも時間に対して線形に。それらがどんな経験でさえ。)ことでもあるはずです。僕だって成長くらい、したい。それなのに父や祖父を見て肯定的に「こんなふうになれるのだろうか」と思わない。それは、肯定的なものならば「こうなりたいからこうする」が分かってきた、選択できると考えるようになってきたからなのかもしれません。出来そうもないならそれでよいと思えるようになってきたからなのでしょう。かたや否定的な面については、これはべつに祖父や父に限らず、誰だってなりたいと思ってなるわけじゃないから、つまり、どうしてそうなってしまうのかが分からないから恐しい。

死ぬことはそれで消えてしまうことです、それ以上自分というものが変化することはありません。でも老いること、ないしは「大人になること」というのは、いつだって恐ろしいことなのです。明日にはもう、いつか感動したあのお話は遠く離れてしまっているかもしれない。僕の言うことは、僕の共感する彼に通じなくなってしまって、それを当然と思うように、彼を見下すように思って、また彼に見下されてしまうのかもしれない。それが老いることだと僕は思っています。間違っているのかもしれない。きっと間違っているのでしょう。でもすくなくとも今の僕はそう思っていますし、それは経験によってしか変化し得ない。再帰的にそれは老いることへのイメージと重なってしまう。僕はきっと父のように祖父のようになって"しまう"。愛すべき、そして軽蔑すべき父と祖父のようになってしまうのでしょう。そのときにはきっと、祝福してください。

自転車で帰省した話(まとめ)

というわけで、箇条書きで。

  • 気力体力よりも計画力判断力
    • 競技じゃないんだから体力はそれほど要らない。。
    • 気力なんてものは「いまから自転車で○○へ行きます」とtwitterに書くなりして背水の陣を敷くだけで済みます。
    • バイパスをいかに避けるか、起伏はどうなっているのか等々を調べ、綿密かつ柔軟な計画を立てることのほうがよっぽど大事だと感じました。
      • 国道標高図やナビタイムの自転車ルート検索にはお世話になりました。
      • 今回は(金銭的な制限はあったものの)時間が制限されていなかったため無理をする必要がなく、それほどシビアな判断力は要求されなかったけれど……
      • 場合によっては「きちんと諦められる」というのが重要なんだろうな、とか。
    • 無計画も計画のうち、みたいな話もあるけれど、そのあたりの見積りも含めて。
  • 装備の話
    • 野宿するかしないかでずいぶん変わってきますが……
      • 当然と言えば当然なのですが、ネカフェであれ宿泊施設を利用するのなら、同じ距離を移動する電車を使うよりも時間だけでなく金もかかります。
      • 今回は荷物の量、季節等を勘案した結果、野宿案は却下されました。
    • 輪行袋を持って行けばよかった。
      • 観光の際のフットワークが軽くなるはず。
      • フェリーに乗るのも安いですしね!!
      • というか、(なんと言ってもこれなんですが)最悪の場合輪行袋なしでは面倒なことになる。
      • 結局なんとかなったものの、背水の陣もほどほどにしましょう。
    • 雨具もあったほうがいいのかなーと思ったけれど、持って行かなくてもなんとかなった。
      • 日本にはコンビニがたくさんある。
      • これも雨の日は休むという選択肢があったからそれも可能だったという話。
    • 工具とチューブは持ってった。
    • ライトは明るいに越したことはない。
      • 都会でばかり乗ってるとそのへんの感覚が麻痺する。
    • このへんも計画力の話ですかね。
  • 道と自動車は基本的に自転車に優しくない
    • 日本みたいな起伏の激しい土地で自転車に乗って長距離を走るという選択そのものが間違っているのです。
      • 自分探しの若者やキチガイ旅行者たちに配慮してくれるわけがなかろうて!!!!
    • 歩道はやっぱり危なかった
    • 左折車線のある道での直進はいろいろ難しい
      • 場合によっては自転車を担いで歩道橋を渡ることも辞さない
  • 漕ぐなり押すなりすれば進める
    • 何はともあれ脚を動かせば前に進む、という事実は箱根越えにおいていちばんの心の支えとなりました。
      • 人生ですね。
    • はじめのうちこそ自転車を漕ぐことそのものが楽しいと思うかもしれませんが、そのうちそういった意味らしきものはどんどん剥がれ落ちてゆきます。
      • 人生ですね。
  • 何が得られるのか
    • 何も得られません。
      • というのはさすがに露悪に過ぎるか。
      • 実際のところ、都市工学的な興味は満たされたと思う。しかし……
      • まさかとは思いますが、実存的な問題が解決されるなんて、そんなこと思ってらっしゃらないでしょうね?
    • 何をしてもそこから何かを得られる人になりたいものですね。
      • 家で本を読んでたほうが有意義だっていう場合もあるでしょう。
      • しかし君がブロガーならエントリを書くことができる!!!!!!!!!!


……だんだん話がキナ臭くなってきたので、これまでのエントリへのリンクを貼っつけて終わりにします。


なんだかんだ言っても楽しかったですよ。道路ってほんとに繋がってたんだなあ、とか思いました。おしまい。

自転車で帰省した話(11日目)

10月27日。

今日は姫路からついに岡山へってことで、前日からわりとしっかりとした計画を立てていた。今までしっかりとした計画を立てていなかったのかといえばそういうわけでもないんだれど、だんだん慣れてきたっていうのもあるのだろう、2号179号県道725号で2号戻って揖保川渡って相生まで、そこからは250号で、みたいな、久々にバイパス回避計画の情熱を胸に秘め寝て起きて10時半くらいに姫路発。

ともかく、相生まではまずまず快調だった。膝は相変わらず痛いけれど、尻の痛みと同様にもはや日常の一部になっていたし、そんな上りがあるわけでもない。太子町っておいそうかモロに聖徳太子の太子なのかと考えるくらい余裕。いくらか道路を乗り換えるので迷ってしまわないだろうかという前日の不安もなんのその、といった感じ。20kmを1時間くらいで来られた。

でもって相生まで来てここから国道250号へ抜ける……んだけど、ここで道に迷ってしまう。まさかここで迷うとは予想していなかった。詳しく説明しようとすればGoogleMapsと顔つき合わせる必要があるのでしませんけれども、高取峠(相生市赤穂市の市境)を越える250号とは線路を挟んで反対側を進んでしまい、気付いたときにはその先で線路を渡る道もないようで、そこらへんを歩いていたおっさんに道を聞いたらけっこう逆向きに進まなきゃいけないらしいとの話。うわあ面倒臭いと思いながらも渋々戻ったのだけれど、その戻る先をさらに間違えて、250号ではなく旧街道の非舗装路へと続く道に入ってしまう。どうしたものか短気になっていたもので、もういいや地図見るかぎりじゃこちらも道繋ってるっぽいし狭い路肩を怯えながら上るよりも獣道みたいなところを押して上ったほうがマシだろという言い訳にもなっていない言い訳をして進む。ガッタガッタして苦労しながらなんでこんなことしてるんだろうと思いながらも今更引き返すわけにもいかずなんとか高取峠を越えるところで250号に合流。やっぱり狭い路肩を窮屈な思いをしながら、しかし今度は勢いよく下ることができた。そいでもって千種川沿いを行き播州赤穂駅横のすき屋で昼飯にしたときには13時前。予想外のところで手間取った感じがする。

飯を食い終わり再びひょこひょこと国道250号を進む。ここまで来れば長かった兵庫県もあと少し、あきらかに県境となっているとみえる小高い(たいしたことなさそうな)峠を目の前にして、もはや漕いで上がる根性もなくなってはいたけれど(膝痛いしさあ!)、それでも「ついに岡山県か!」と気持ちが逸る。そうしてまさに県境、停まって、岡山の青空を見上げ、「俺は帰ってきたぞ!」と叫んだ。いや、ほんとに声に出して叫んだ。でもまだ帰ってきたわけではないんだよ。


そこからいかにも港街といった風情の日生を(カキオコ食いたいけどさっき昼飯食ったばかりだし時間もったいないなあと考えながら)過ぎ岡山市に向かって走る。備前市の後半は相変わらず(というかこの日はずっとそうなんだけど)路肩の狭い片側一車線ではあるものの、交通量についてはそれほど多くはなく、それでも通る車通る車トラックだった。結論としてはなんだかんだで走りにくかった、くらいの記憶しかないです。風景はほんと田舎道といった風情でござった。なんか「走りづらかった」ばかり言ってるような気がするけれど、たぶん走りやすい道のほうが少ないんだもの!仕方ないじゃないですか!

吉井川を渡って岡山市に入ったのが15時半くらい。相変わらずの路肩の狭さに加えて交通量が増えてきたのに辟易しつつも、もはや消化試合みたいな気分にもなってきていたはず。だってもう、ここまで来たら勝ったも同然でしょう目的地たる岡山駅まで20km切ってるしとやる気があるんだかないんだか益々もって無感動に進む。いやほんとは稲刈りで藁を積んでる風景などに感じ入らないこともなかったのだけど、すくなくとも自転車を漕ぐということに関してはもうずいぶん前からどんな気持ちも僕のなかに起こすことはなくなっていたわけで。……いや、そんな話はまたまとめエントリで書きます。

といったわけで岡山駅に着いたのは16時半くらい、85kmの道のりでした。


***


面倒なのでついでに最終日のことも書いてしまいます。10月28日。私の実家は岡山からさらに数十km行かなきゃいけない、つまり帰省はもう一日だけ続くことになるのですが、先ほども申し上げたとおり、その道のりについてはだんだん無感動に、そしてだんだん記憶が薄れていっております。したがってもうこの最終日というものはここに書き記すようななにものも残っておらんのです。

いや、全くないことはない。たとえば幼少のころから何度も何度も親の車に乗って通った岡山への道を逆向きにトレースした印象とか、それと並行する見慣れたJRの駅々を眺めた印象だとか、狭い二車線で路肩がなくて歩道ももちろんなくて「死亡事故多発!」とかいう看板はほんとやめてほしいってこととか、小さい頃はあんなに広かった実家のある集落を自転車で通ってみるとなんだかすごく狭く感じたこととか、そしてなによりも、もういいよね私頑張ったよねもうゴールしてもいいよね状態だったのにいざ実家まで手の届く距離になり見覚えのある景色や地名を目にするようになってくるにつれカエリタクナイカエリタクナイっていう声が頭ん中で踊りはじめて向かい風が強くなってくることとか、そういうことはあるにはある、あるんだけれども、それはもはや、ここまでとは違ってまったく輝かしい思い出ではない、今こうして考えてみると、それまではいくらか、輝かしいなにものかであったような気がする、のだけれど、それなのに、その道がついに実家に続いていることに気がつくこの一日のことを思い出してみると、いったいこれはなんだったんだ、そういう気持ちが否定できなくなってきて、従ってこの記録はここで唐突に終わる。

自転車で帰省した話(10日目)

10月26日。

昼飯を中津あたりのラーメン屋で食うなどして13時半に梅田を発つ。今日の目標は姫路なのだけれど、出発した時間が遅いのが心配だなあと思いながら進む。前日ちょうど国道1号を走り切っており*1、次は国道2号を頼りに進むことになる。中心部はやはり信号が多く走りにくかったけれど、淀川を渡り兵庫県に入るとそうでもない。それでもさすがに車は多いんだなあと思いながら尼崎を通り西宮を抜けて行く。というか既に1ヶ月と10日くらい経ってるからかなり忘れちゃってるな。ともかく三宮あたりに着いたのが16時前だった。梅田から姫路までの90kmのまだ3分の1なのにもう日が傾いてくる時間だよ!と焦っていたことくらいは覚えている。というか、そうだそうだ、思い出したわ、この日はとにかく時間を気にしてばかりだったんだ。つまり、「ここまで2時間半もかかってるってことは……ここから5時間はかかるってことか……いやでも60kmだし……市街地を抜ければもうちょっとスピード出せ……でも膝が心配だしどうかな……」みたいな。

でもって神戸駅付近でそれまで阪神高速の高架と並行して走っていた国道43号と合流し、この「高架の下を走る広い道路」の役割が我らが国道2号にバトンタッチされるわけだけれども、その合流地点ではやっぱり歩道橋を自転車担いで上って渡るハメになるわな。そんなこんなでどんどん夕暮れの迫るなかを、広いのはいいんだけどやっぱ高架が右上のあたり走ってると陰気な感じしちゃうなあと感じながら進む。須磨のあたりでそんな息詰まる高架から解放されてからはすこし気持ちも楽になった。工事のおかげで路肩ゼロの上にガードレールまであってたいへん窮屈な交通量の多い片側一車線道路を無理矢理走らされる羽目になった場所以外はそれほど苦もなく走ることができたはず。


そうこうしているうちについに夕焼け。明石海峡大橋。17時半、ここまで50km。なんでこんなところに孫文記念館なんてあるんだろう……と思いながら、とにかく明石海峡大橋に誓って無理矢理テンションを上げモチベーションを回復させる。そうでもしなければ半分来た!という達成感よりもまだ半分ほどなのにこれからは暗くなってく道を走らなきゃいけないのかという暗い気持ちが勝ってしまったに違いない。大蔵海岸からの夕焼けもお美しゅうございました。


そのくらいになってくると、寒いしさすがに腹が減ってきて、最初は「加古川渡るまで頑張ろう」だったのが「加古川市入ったらにしよう……」になり、最終的には西明石をちょっと過ぎたあたりで「もうこのへんでいいや!!!!」とマクドナルドで晩飯をとる。18時半。もう外はすっかり暗い(明石あたりでほぼ完全に暮れていた)。ここから先はもうあまり喋ることもない。暗い道なので2日目晩のことが思い出されて恐かったからとにかく歩道は走るまいとしていたこと、そして加古川バイパスとの並行区間に国道の癖に妙な東行きの一方通行があって知らんうちに入りこんでしまい吃驚しつつ国道250号を迂回しなければならなくなったことくらいか。とにかく21時には着くんだ!21時には着くんだ!この調子ならいけるはず!とサイコンのバックライトを点けたり消したりしていた。危いものである。

そうして加古川を過ぎて国道2号(の、バイパスじゃないほう、つまり北側)を走り川を越えもう姫路駅まで2km切ってるはずなのにぜんぜん街っぽくならないぞならないぞと不安に駆られながらも気がついたらライトアップされた姫路城……の絵が見えた。改修中だったのかよ。この適当な城の絵ライトアップする必要あんのかよというわけで、21時に姫路着。ちょうど90kmの道程でした。

明かにペース落ちてる感じで落胆しつつも、次回ついに岡山です。

*1:8日目に書いたとおりかなり抜けがあるのだけども

自転車で帰省した話(9日目)

10月24日夜。

とりあえず京都に着いたはいいが、今日はけっこう走ったしまずは思いきり風呂に入りてえもんだと銭湯を探す。知ってる銭湯となると百万遍のほうまで行かなきゃいけなくて、それはそれでめんどうだなと思いインターネットに頼ってみるとどうやらすぐ近くにあるらしい。入る。っていうか年々銭湯の入浴料が上がっているような気がする。牛乳を飲む。次はコインランドリーである。やっぱりインターネットで探す。最寄りのって聖護院のほうまで行かなきゃならないのか案外ないものだなと思いながら湯上がりで少々寒いなかを走り、洗濯をはじめる。30分ほど暇だということで、御池通りを走り抜け(株)はてなへ急ぎ、セブンイレブンの前で一瞬手を合わせ「いつもお世話になっております」と念じたあとまた急いでコインランドリーへ戻る。なにごともなかったかのように乾燥。

ようやく一息ついて21時頃。京都にいたころ深夜営業してるってんでよく一人で本を読むのに利用していたおしゃれカフェへ行ってみることに。内装もそれほど変わりなく(ただ、27時まで営業だったのが今は24時までになっていた)いつも陣どっていた席に座り川端通りを眺めながらあああの頃はここでユリシーズを読んでおったと京都に捨ててきたセンチメンタルをしっかり拾いながらやっぱり本を読んだ。ちなみに店員さんとはとくに話したことがなく、こちらとしては何度も見たことのある店員さんだったけれどあちらはたぶん認識してないだろうなあと自業自得の侘しさも感じた。いや、ガンガン話しかけられても困るからいいんだけどさ!!

でもって宿泊のために心当たりのあるネカフェに向かう。途中で三条木屋町のラーメン屋(臭い)で替え玉二つも頼んだりしつつ宿泊。

***

10月25日。

某氏と昼飯を食う約束をしていたが、それまでの時間は暇だということで出町柳〜一乗寺あたりのエリアを自転車で回って暇を潰した。もう感傷はたくさんだと思った。というか、もはやそういう目でしか街を見られない自分が悲しかった。まあいい。昼飯を食い、ひたすらインターネットの話をしまくって13時。インターネットの話をしているとついつい時間を忘れてしまう。他のことでは時間を忘れることなんて僕にはできないんだ!!

そんなこんなでこの日の目的地たる梅田へ向けて出発。短かいとお思いかもしれません。いいんです、この日は昼下がりの陽気のなか川沿いをのんびりと下る計画だったんです。梅田ぶらぶらしたかったしさ!でまあ鴨川を下り、七条から上鳥羽のあたりまでは河原に道があったりなかったりでふつうに地道を走ったのだけれど、桂川との合流地点から先はしばらくサイクリングロードが整備されているので(風が強いことを除けば)かなり走りやすかった。まだ出発してそれほど走っていないこともあり、膝の痛みを騙すこともできた。へえこのあたりってこういう感じのところなのかと周りを見渡す余裕もあった。そう、ここまではよかった。

でもって大山崎というか八幡というか、つまり桂川木津川宇治川が合流しさあここからが狭義の淀川だって地点からが問題である。サイクリングロード自体はそれこそ木津川沿いに木津のほうまで行くのだけれど、目的地は梅田であるからして当然そちらには行かない。楠葉のあたりからはまた河原沿いに気楽な道がありそうなのでそこを行きたいのだが、現在地とその河原の道とを繋ぐ府道13号が狭いわりに交通量が多くなんとなく気後れしてしまいちょっとだけ苦労する。府道沿いの脇道みたいなところをちょぼちょぼ進み、再度の合流地点でどうしようと思ったら、そこから河原の道に下りることができて一安心であった。でっかい遮断機みたいのが立ちはだかっていたため最初は入れないんかいと思っていたのだけれど、どうやらそれは自動車の侵入を止めるためのものであって自転車なら開いて入ってよいようだった(工事のおっさんが教えてくれた。ありがとうございます)。

そこからしばらくはゴルフ場と淀川のあいだのジョギングコースみたいなところを走る。先ほどのサイクリングロードと同じくわりと快適……なはずだったのだけれど。恐しいことである、膝の痛みが尋常でなくなってきた。伊勢-京都の長距離をそこそこ我慢しつつ走り切ることができたのだから今日の平坦な50kmごときなんでもないだろうと思っていたのにその結果がこれ。またしても楽観がやり場のない怒りに変わる。せっかく気持ちのいい道だというのに脂汗を流しながら、休み休み走る。16時前くらいにようやく枚方という、あまりといえばあまりなペース。相変わらず毒突きながら長めの休憩をとる。

ここらあたりからいわゆる淀川河川公園。部活動に勤しむ中高生や犬と遊ぶおっさんたちを横目にもはや死んだ目をしながら走った。たいへん長い距離に感じた(実際かなり広い公園ではあるけど)。ああきっと普段走るのには気持ちのいい道なんだろうな僕だって家族をつくったら休みの日にはきっとこんなところで家族でわいわい遊んでやるんだでもそんなものは無理無理と悔しくなった。もはやルサンチマンなのか膝の痛みへの呪いなのかも分からなかった。それ以外に何も考えられなかった。てな感じで日が暮れそうなころになってようやく大阪市北区に入る。17時くらい。阪急梅田の裏あたりに駐輪所を見つけて停めて17時半。爽快な道に似つかわしくない拷問のような4時間でありました。

梅田駅の電波の通じないマクドで時間を潰し、酒を飲み(お忙しいなかありがとうございました)、ネカフェでアニメを見て就寝。次回は姫路まで。

自転車で帰省した話(8日目)

10月24日。

八時半にホテルを出発。今日は京都まで一気に行く。相変わらず膝が痛く、前日にいろいろルートを考えてみたものの、正攻法である国道1号での鈴鹿峠越えの他だと、163号で伊賀を経由するか大回りに回って関ヶ原経由で行くかくらいしか選択肢はない。前者は鈴鹿峠を行くよりもよっぽど厳しい上りがありそうだし、後者はさすがに距離がありすぎるということで結局国道1号で京都へ向かうということに決めた。まずはここ伊勢から国道1号へ復帰しなければならない。

というわけで旧国道23号にあたる三重県道37号から松坂を経由し国道23号で津まで走る。つまりこれ、おおまかに言って東海道から分岐し伊勢へ参る道を逆に進む形になる*1。とりあえずのところ膝の痛みはまだ大丈夫、それなりに快調に進む。ちなみに、快調に進んでたら進んでたで「これ、こんな自転車走らせてて何になるんだ……家で本でも読んでたほうがよっぽど実になったんじゃないか……」という邪念が渦巻くくらいの余裕が生まれてしまいもするので善し悪しだったりする。

というわけで津。そのまま進んで四日市に行きそこから1号に乗るのは距離の無駄なので、23号を離れ直接関へ向かう。三重県道42号。今落ち着いて確認してみると素直に県道10号のほう行っておいたほうが迷ったりせず行けたんじゃないかという気がするんだけど、まあそのときには何か思うところがあったのだろう。じっさい、数度迷った以外はそれほど悪い道でもなく、途中で並行する車のほとんど走っていない田んぼの間の道に入ってボケーとしてみたり、安濃川沿いをゆるゆる上ったりと呑気なものであった。そんなこんなで12時前には関に到着。何日ぶりの国道1号復帰だっけと思ったら浜松以来、5日ぶりだったりして驚いた*2。シャープ液晶の聖地亀山工場(生産縮小うんたら)を横目に見つつ昼飯。カレーライスである。

そして懸案である鈴鹿峠、国道1号では箱根に次ぐと言われる難所、鈴鹿峠へ。箱根に次ぐと脅されものすごく悲観的になっており暗くならないうちに上れるのかしらとさえ心配していたのだけど、結果的にはそこまでひどいものでもなかった。踏掛のあたりに「→旧東海道」みたいな標識があって、ほほう、自動車があまり通らない道があるのかな、とそちらへ行ってみるとなるほど生活道路、峠のてっぺんまで1-2kmというところまではそれを通ってわりかし気楽に上ることができたのもよかった。とは言っても最後の最後、鈴鹿トンネルの手前はやっぱり、押して登らなければどうにもならない感じだったけれども。そんなわけで、13時半くらいには早くも峠を越す。膝は……うむ……ちょっと痛くなってきた……


しかし、箱根とのちがいはそれだけに留まらない。鈴鹿峠の京都側には、ほとんど下りらしい下りがないのである。箱根のときにはあんなに爽快な坂があったというのに、こちらは普通に漕がなきゃ進めない上に、路肩も狭い、つまりご褒美がないもんだからモチベーションが上がらない。そんな感じでしばらく進んだあと、だんだんバイパスめいてくる国道1号に見切りをつけて、水口のあたりで地道に切り替えダラダラと走る。いかにも宿場街といったいい感じの街並みだったおかげだかなんだか分からんけれど、すこしだけ気力が回復した。で、国道1号に戻り湖南市も通り過ぎ草津に着いたのは16時ごろ。いつの間にか走行距離が100kmを超えていた。

草津駅前のロッテリア(だったと思う)でしばらく休憩したあと、近江大橋を渡る。琵琶湖広い、っていうか、わりと普通に自転車のオバさんが通ってたりしてなんとなく意外だった。もっと大袈裟な感じの橋だと思っていた。そんなこんなで大津を過ぎて、これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関ってんでちょっとだけ上り坂に耐え、ついに京都府に入る。そのまま国道1号を進むと五条通りに繋がるのだけれど、三条のほうへ出たいと思った。思ったんだけど、広い道だから東海道(国道1号)と三条通(京都府道143号)との分岐点で三条通りのほうへ行けなかった。行けなかったもんだから、どうにかしようと妙なところで路地に入ってしまった。妙なところで入ったもんだから、道に迷ってしばらく時間を無駄にしてしまった。

そんな感じだったけれどもどうにか三条通を発見し、そこから御陵のあたりをしばらく上って蹴上。見覚えのある場所までやって来た、ついに京都にやってきたんだ!という喜びにうち震えながら三条京阪土下座像まで一気呵成。「グフフ!ついに京都まで自転車で来ちゃったよ!」ともはや帰省をほとんど終えたかのような気分に浸りつつの18時半着。136kmでした。


次回は京都での思い出探し(センチメンタル)そして大阪へ向かいます。

*1:実際には、いわゆる「伊勢街道」の松坂-伊勢間は三重県道428号にあたるのだけども

*2:この他、次回書くことになる京都-大阪間(50km)でも国道1号を通らなかったため、浜松-関間の170km弱等々合わせ、国道1号の総距離543kmの40%以上をスルーしていたことになる