今日のエントリに「うんこ」という言葉は何回出てくるでしょう、あるいは新景観の諸相についての一考察<1>

こんにちは、今年は牛タン食べまくりたいムラシット先生です。今日から何回かに分けて、マツカズト兄貴の超絶グッとくるエントリ↓で思ったことについていろいろ考えていきたいと思います。
http://d.hatena.ne.jp/matsukazuto/20090129/1233221924
第1回はとりあえず、どこに注目するのかについての説明で終わってしまいました。そろそろはてなの中では賞味期限切れかもしれないと思い取り急ぎアップする次第です。

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はい、ちゅうわけでまずは「『生活の営みの集積で結果としてできてしまった無意識の造形(=都市)』と『エンジニアリングが卓越したために思わぬ形態をとった造形(=ダム)』をそれほどの躊躇もなく新景観として一緒くたにしてしまっていたのは、なんというか、ちょっと物足りないな気がしたんです」などとほざいたわけをがんばって説明するために、以下では景観が存在する場所について「都市空間の外部」「都市空間の内部」とを区別し、後者についてはさらに「生活空間の外部」「生活空間の外部」の二つに区別してみることにします。つまり3つのレイヤーがあるわけですね。肝心のこの分類の重要性についてはまず次回<2>で述べることにします。
でもって、ついでなので「無機質←→カオス感」という対立と「機能に忠実←→作為的(おもねり)」という二つの軸が、最初に挙げた三つの層において別々に存在しているということについても考えてみました。これはできれば次回に含めたいんですが、もしかしたらもっと後回しにしちゃうかもしれません。

手元で対談を参照できない人がほとんどだと思いますので、それも含めて説明していきます。

原風景がもたらす「美しさ」の基準

まず対談の最初に挙げられているのは庵野さんの原風景。庵野さんが住んでいた宇部市周辺の風景を思い出しながら、彼の原風景としての都市景観が語られます。「コンビナートや工場」「電柱/電線」「街の風景」「廃墟」とか。
これらは一種のノスタルジアとしての「好き」なわけですが、ある意味問題なのはノスタルジアを共有する人にとっては無条件で肯定せざるをえないものだということなんですよね。美醜の問題ではない。僕もこういったものが大好きな一方で、これはこれでけっこう根が深い問題だよなーと常々思っているのです。が、今回の話とはあまり関係ありませんのでこれについてはまたいつかそのうち。大事なのはそのあとです。

人の存在が感じられるものに惹かれる

次は庵野さんがテレビでのインタビューで「黒部ダムや東京タワー、霞ヶ関ビル」とといった巨大構築物が好きだと言っていたという話です。いずれにも共通する良さ(つまり「特に好きでない巨大構造物」と異なる性格)として、

人がつくった感じがするか、パソコンがつくった感じがするかという違いですね。最近の建造物には、人間が線を引いた感じがせず、みんなCADでつくった感じがします。同じパーツがカオスなく並んでいて、無味乾燥な印象がして、見ていて何も面白くないんですよ

と述べられています。


まずこれら三つがまったく別の系統に属していることに誰も言及していないのがちょっとずるいんじゃないか、と感じたのです、つまり…

  • 黒部ダム都市空間の外部。そして、そのなかでも純粋なエンジニアリングの要請によるもの、つまり無機質-機能に忠実という象限にあるものです。
  • 次に東京タワー。これは都市空間の内部であるが生活空間の内部ではない。機能よりもシンボルとしての役割が卓越しているもので、「作為」と関連が深いと言える。
  • 三つ目の霞ヶ関ビルだけがいわゆる「建築」で、これも都市空間の内部だが生活空間の外部であるという点では東京タワーと同じなんですが、シンボルではない。

という感じ。明らかに違うんですよ。なんで違ってちゃ悪いのかって話は(さっきも言ったように)次回まで待ってね!

必要なものしかそこにないという機能美

話は変わって、どうして土木構造物や工場が好きな人がいるんだろうという話題。
庵野さんの答えは「無駄がなく必要なものしかそこにないという機能美」そして「ある機能のために特化して、コストパフォーマンスの限界を突き詰めている感じが好きなんです」というもの*1。冒頭の軸の話でいえば、「機能に忠実」に属するものです。

しかしこれも、その多くが黒部ダムとおなじで都市の景観じゃないことに注意せねばなりません。こいつらってば基本的に生活と切り離されたものなのです*2。注意したいのは、ここで「工場」と言った場合(最も「内部」に近いものでも)「都市空間」内外のマージナルな部分までしか指していないということです。町工場みたいなものは想定されていない。


そして出てくるのが電線/電柱の話。「僕は電柱のように機能がむき出しなものが好きですね」と語る庵野さん。電柱/電線は明らかに生活空間と直結したもので、さらに「カオス感」に属するものです。ここで生活空間内部特有の問題が出てきます。(つまり「生活空間における機能とはなにか」ということになるんですが…次回まで待てって言ってるだろ!)

ともかく、ここでもやっぱりレイヤーの違いについては言及されず「機能に忠実である」ことだけが注目されているということを僕は言いたいわけです。


※ついでに言うとこの庵野さんの発言は非常に興味深いのですが、これもまた次回以降*3

[電柱がコントロールされていない無造作なものとして槍玉にあげられる現状について]そのコントロールされていないところがいいんですよ。東京をはじめ、日本の景観なんてコントロールされていないじゃないですか。行政も民間も個人も片っ端から身勝手につくっていった日本の街には、電柱がお似合いだと思うんです。電柱のない新興住宅地を見ていても、一戸一戸が非常に無個性で、街になると味気なくてつまらない。そのつまらなさをなんとかしていたのが電柱や電線だったと思います。周囲との融和なんて考えていない住宅があれだけ建つなかに、ゴチャッと電柱群があることで、緩和しているのですね。だから、そういう電柱をなくすとは何事かと(笑)。日本の町並みが美しければ、確かに電柱は邪魔かもしれませんが。無秩序な街を無秩序でもって廃している方がまだいいと思います。

団地の持つ無個性感

ここではまず(電柱の話から派生して)「生活空間の内部」というレイヤー内での話になります。
まず新興住宅の景観について。電柱を簡単に醜いものとしてカテゴライズするのではなく、根本からちょっとどうなんですか、という話。

無計画な町並みからなんとかして欲しいですね。けど、どのときに新興住宅地をヨーロッパ風とか妙な色づけをしてもしょうがない。あんなものが日本の街並みに合うわけがありません

もっと日本の風土にあったコンセプトテーマがあると思います。日本の古いものイコール悪みたいな、なんでもかんでも新しいデザインを取り入れたりする風潮もどうかと思うし、欧米志向に偏りすぎてる感もありますね

というもの。僕もそうだと思いますが、これはちょっと毛色が違うのでやっぱり次回以降*4。現在一般的に都市計画と言われるものの多くはここに属しますよね。

そして団地について*5。住宅供給そのものが目的とされていた時期には

[この時期はとにかく戸数を供給することが至上命題であったため]住むことに特化した建築が量産され、何十棟も同じ形で並んでいる。その奇妙さは好きです。

しかしバブルを境として

タワーマンションとかデザイナーズマンションとか、その建物だけの自己主張じゃないですか。自分だけ目立てばいいというものばかりで、それを商品価値としているようですが、景観との融合性が感じられないですね。

近年は人の意図みたいな余計なものが入っていて、よろしくないですね

というふうに変化してしまったということを述べておられます。
で、前者の良さは「おもねらないこと」であり、かつ「無機質性」が肯定的に評価されていることに注意したいです。

ここまでは生活空間の内部における話なんですが、土木景観(生活の外!)における「おもねり」生活空間における「おもねり」とを区別しなければならないということで、やはり今回の話につながってきます。


そして打って変わって首都高の話。ここでは二つの話題があって、まず都市空間の内部におけるテクノスケープの問題。さっきから見てきているとおり土木景観はその多くが都市空間の外に置かれるものであったのですが、ここでは都市空間の内部に入ってきているということで問題にされています。はい次回ー
そしてもう一つ出てくるのが、首都高の耐震補強パネルの話。これはわりと個人の嗜好の問題にちかいかなーと思ったのでちょっと割愛させてください。

観光資源としての可能性

これはもう言うまでもないんですが、「観光資源」なんて明らかに自分たちの外部にあるという認識のもとに成り立つものです。つまりレイヤーとしては「都市空間の外部」。ここらへんから「ほんとにそれでいいのかなー」という疑問がだいぶん強くなってきます。

コンピュータより、まず手で知れ

そろそろ疲れてきました。
最後の庵野さんによる二つつのメッセージについてはとやかく言うものではないと思いますけどもいちおう。
ひとつめは「同じパネルでつくらないで」と「おもねらないで」というもの。前者は基本的にはさっきも言った個人の嗜好の問題のような気もするのですが、団地の無機質性を肯定しておいてどうしてこっちだけ批判するのかなーと思わなくもないです(このへんにノスタルジーの話が関係しているような気がしてはいます)。後者はまあ、さっきから何度も言ってるやつですね。またこんど考えるやつです。
ふたつめは、基本的には最初の方にあった霞ヶ関ビルとかの話。「人間がつくった感じ」というものを求めているということなんですが、ちょっとここで怪しげな発言がとびだしてくる。最近の自動車と関連して「近年は、車のデザインもみんな同じようになってきていて」「車こそ無駄があっていいんじゃないかと思うんです」とのこと。あれ?機能美の話は?


という感じでしょうか。何度も言うけど対談自体はすごく面白いんですよ。ただちょっと気になったってだけで!

んでは、また次回。

*1:いきなり先の人間性の話と矛盾するように感じる人がいるかもしれませんが、少なくとも僕の考えではその二つは相反しないものなのでここではとりあえず問題にしません

*2:ここで派生した話題が「おもねり」の問題。これは次回以降で考えます(たぶん<3>)

*3:<4(仮)>

*4:<5>

*5:ここで五十嵐さんの「やはり団地のほうが好きですか」という質問はちょっとキラーパスに過ぎるんじゃないかと思います!