彼は運動場の隅にひとり、立っていた。さいきん黒くかたくなり始めたすね毛は、脚の細さを、白さを、よけいに際だたせていた。目の前には鉄棒があり、ずっと後ろでは校舎の窓が夕日をはねかえらせていた。鉄棒を掴む、すべすべとした感触がてのひらをなぞる、冷たい鉄の棒はすぐにあたたまる、乾いた砂のにおいがする。両腕をこわばらせ、地面を蹴ると、橙色に染まった雲が反転する。首を後ろに振ると、頭のなかのどろどろとしたものが頭頂部へと駆けのぼる。

……それだけだった。どうも僕には向いてないみたいだ。鉄棒を持つ手を逆手に持ち替えてもういちどためしてみるけれど、やはり思ったとおりにはいかない。頭のなかには、宇宙飛行士みたいに重力をはねっかえし逆上がりをする自分の姿が、こんなにはっきり浮かんでるっていうのに。


千佳ちゃんが逆上がりできるってのに、僕ができないだなんて、かっこわるいだろう?はずかしいだろう?あさっての体育でまた、僕と、雄太郎と、瑞樹と、大川さんだけ、逆上がりの練習をさせられるんだ。あさっての体育で、千佳ちゃんは、他のみんなと一緒に、ひざ掛け前転の練習とか、するんだろう?彼はふりかえり、いっしゅん、今日の算数の時間の自分のことを思い出す。じわりと汗が滲み、すこし頭を垂れる。校舎の時計を、6時をすこしだけ過ぎた短針を睨みつけ、また頭を垂れる。自動車の通り過ぎる音がするのを聞く。職員室に明かりがともるのは、見えない。首すじを風が通り抜ける。


顔をあげると彼女がそこにいた。千佳ちゃんの香りがした。紺色にかわってゆく運動場のなかで、白く透き通るのは、千佳ちゃんの肌だった。「逆上がり、おしえてあげよっか?」それは千佳ちゃんの、かすれた声だった。

握った手のひらにじわりと汗が滲み、僕はすこし頭を垂れた。遠くで電車の通り過ぎる音がする。千佳ちゃんの手のひらが、細く、白い腕が、視界に浸入してくる、うっすらと通った静脈が紺色の世界とシンクロする。僕は首筋にびくんと血の流れを感じる。「ほら、手伝ってあげるからさ」


「……っ!……て、手本とか……その……見せてくれよ」

肺の中の酸素が一瞬で消費しつくされて、みぞおちのあたりが苦しくなって、僕はそう言うので精一杯だ。

「しょうがないなあ……いいよ。一回だけだから、ちゃんと見ててね」

そう言って彼女は二本の腕を鉄棒にのばし、右脚をすこしだけ後ろへとずらす。太ももに筋肉が浮き、それに釘付けになる僕がそこにいる。僕は砂漠をひとり歩いている。僕は煉瓦の街並みのなかを歩いている。僕は底の見えない崖っぷちを歩いている。そしてその瞬間、僕はそこにいる。千佳ちゃんは地面を蹴って(正直な話をすれば、僕はその地面になりたかった)、胸を鉄棒に引き寄せ(正直な話をすれば、僕はその鉄棒になりたかったのだ)、スカートが後を追うようにひらりと舞う。


その時世界が、この紺色の世界がひっくりかえっちゃったんだと、彼はそう回想する。僕は、千佳ちゃんと視線を交わした瞬間、その一瞬をずっと忘れないと思う。


そしてふわりとこの地に降り立った彼女は、有り体に言えば、まるで天使みたいだった。地面に足をつけるその時まで、彼女には質量というものがなかったのだと。「……どう?こんなの簡単だよ」


それからのことはよく思い出せない。背中を支える手の感触も、僕を励ましてくれる声も、笑ってみせるその白い歯も。ひどくちかづいたときの、彼女の汗のにおいさえおぼろげにしか思い出せない。夜のとばりがしずしずと下りてくる、その空もようははっきりと目に焼き付いている。ぎいっと鉄棒のしなる音、地面を蹴るざらざらとした感触は今でも生々しい。鼻孔にはりついた砂のにおいを今でも僕は頭のなかに再現できる。

「よし、じゃあ、一人でやってみよっか!」

たぶん彼女はそう言ったんだと思う。そして僕は地面を蹴って(繰り返し練習したものだから、そこだけ砂の層がうすくなっていた)、胸を鉄棒に引き寄せ(鉄棒は手汗に濡れてすべすべしていた、体操服は黒ずんでいた)、星の瞬くそらが反転する。あとは身体を任せるだけだった。僕はアームストロングが月に降り立ったときみたいに、ゆっくりと地面に足をつける。


振り返ると、彼女はそこにいなかった。千佳ちゃんは消えていた。


首筋を風が通り抜ける。すこし寒かった。