ところで

これまでの小説をここに置いております。

http://murashit.net/fuckthewar.html

が、思うんですけれども、私にはけっきょくお話を紡ぐ能力もモチベーションも圧倒的に足りていないのです。しっかり定義できていない無理矢理な単語を使うことを許してもらえるとすれば、一種の言語芸術というものが成り立つと、それについてはどこかで、しっかりと信じてはいるのだけど、一方お話というものについてはそうでないということなのです。構造と文体あるいはそこからさらにミクロに、あるいはそこからマクロに目を向けたときのかたちは相似していると、言葉の次元は1よりちょっと大きいと、思ってはいて、それに鳥肌が立ち人生を悪い方向に変えてしまた一方、繰り返し言いますが、お話的なものには、感心はして、感動さえ(!)ときにはするけれど、それはなにか震えるようなものではなかった。なかったのです。(だからといって、詩というのは、私には難しすぎました。読むことならできる、私はそれが大好きです、だけれども、牽引力としてのお話がなければ、進むということもできなくて、だから自分ではそれが書けない。せいぜいがマルコフ連鎖twitter botであるのはそういうことなのです)

さて、最近読んだ本の話をします。

最近の海外文芸のアレではもう普通にアレで紹介するまでもない、ソローキンの『青い脂』という小説なのですが、あらかた筋がない……いや、全くないわけではないのですが、むしろ作中作が重要なものとして浮かび上がるだけ上がっており、それ以外はどうにかこうにか、それらを現前させるための悪ふざけの手段といったほうが適切なように思える小説なのでした。

青い脂

それが、それがですよ。結局のところ、最終的に文学というものに転化させるための大いなる(文字通り下劣きわまりない)下準備であったと最後に分かります。私にはそれがすごく悲しく感じられてしまったのです。そういった総体について、それ自体はほんとうに素晴しいものだと思って、感服いたしたのだけど、それがまったくただの、なんにもないもので終わらせられなかったという点において、自分の振り返ってしまったのです。こんなすげえもんと自分を比べるなんてとんでもないことだというのは分かっていても、分かっていてもなお、この小説のおそろしさのなかでさえそういった「素晴しい」落としどころをつけなければならない(ほんとうに素晴しい落としどころをつけなければならない)のだから、そりゃもう、自分には無理というものではありませんか?ありませんでしたか?さあ皆さん、僕の言っていることがまったく分からなくともご唱和ください。「そっちだったのかよ!!!!!」

さらに比べるものではないということを承知で言えば、ベケットの『モロイ』を読んだときに歓喜したものが嘘だったのではとさえ思ってしまったのです、自信がぐらついてしまったのです。僕が『モロイ』よりも『青い脂』が好きになったのは、そういう、何かに牽引されついに昇華され得るものに魅力を感じてしまう自分自身への不信であり、つまりは自己欺瞞だと、気がつきたくなかったものを、薄々だったそれらの認識を、目の前に現れさせてしまったからであって、さて僕はとりあえず、何ももの申さず書くしかないのだろうと、そういうことを思い込むのに、ずいぶん苦労しはじめています。

参照:

日本文学盛衰史 (講談社文庫)モロイ