まずは最近読んだ本の話から。
夜のみだらな鳥 - ホセ・ドノソ
どちらが果たして真の現実なのか、分からなくなりました。内面の現実でしょうか? それとも外部の現実でしょうか? 現実がわたしの脳裡にあるものを造りだしたのでしょうか? それとも、わたしの脳裡にあるものが、この眼前のものを造りだしたのでしょうか?
むちゃくちゃな本だった。
内容、そして特徴についてはこちらの記事に詳しく、不足も付け加えるところもない。あらすじ(よくこんなきれいにまとめたものだと舌をまく)はもちろん、このあと触れる妄執と現実の関係や入れ替わり/簒奪についても端的に触れられており、実際に本書を読んだあとに読むとまさにそのとおりだとわかる、と思う。
わかると思う一方、実際に本書を読んでいない人にとって、これだけでは本書の異常さがわからんよなとも思う。いや、「異常な出来事が起こる(ように読める)」のはわかるんだ。たとえば、「起こった」らしいことのタイムラインを引こうと試みても、とうに死んでいるはずの人間が「その後」らしき時系列に当たり前のように現れるなどし、さくっと破綻すること。全体に通底する入れ替わりのモチーフがいつのまにかモチーフでなくなり、実際に「起こって」いるかのように読むしかなくなること。ただ、それだけならば「妄想が現実と混淆するんでしょ。境目がね、そうそう、曖昧になって。よくあるあれッスね知ってる」したり顔のお前は誰だ。出てくるんじゃない。そうじゃないんだって。この本がどうにもおかしいのは、そもそも混淆どころの話ではないところにある。「異常な本である」ことを伝えるのはちょっと難しい。
さて、以降の話の前提として、本書とそれをとりまく環境として以下の3層構造を仮定することにする(いろいろ物語理論の話とか引いてくればいいのかもだけれど、そこまで精緻な話ができるわけでもないので……許してくれ……)。一般的に、上のほうがベースになり下が生み出される形になっている。
- わたしやあなたの世界における現実
- 1を何らかの意味でベースにした(でないと小説は書けないし読めない!)作品世界のなかでの現実。その客観的な叙述
- 語り手による2に対する主観的な叙述。本書における「妄執」
リアリズム小説であれば、1と2がおおよそ一致するだろう。いわゆる幻想文学であれば、2が1から乖離している/乖離していくさまにおもしろさの一端がある。場合によっては3が強く出てきてそれが2に影響を与えることもあるかもしれないが(先述の誰かが言ってた「混淆」はこれか)、この場合も2と1の対比が焦点になってくる。マジックリアリズムみたいなお話であれば、1と2の緊張関係、往還に一般の幻想文学からきわだった特徴がある(このへんの整理はこちらに詳しい)。
話の流れからわかるとおり、本書にはこれらにあてはまらない特徴がある……あると感じたから変な小説だと、思った(本来本書もマジックリアリズム作品として分類されるのだが、それはそれとして)。まずは、最初に挙げた記事で(『百年の孤独』との比較として)端的に述べられている以下の点をとっかかりにしよう。
『百年の孤独』はマジックリアリズム=どれだけ非現実的なことがあっても最後には「リアリズム」に落ちつく客観的描写・文体を徹底していたが、『夜のみだらな鳥』は主観的な描写・文体を突き詰めている。一人称の語り手による語りのなかで、過去/現在、自己/他人との区別が次第に失われていく筆致は見事である。
『百年の孤独』は先述したマジックリアリズムの特徴のとおり、2が1から離れていったあとで1に引き寄せられる。その重力があの本のおもしろさのひとつだった。一方本書は3をベースに語られており、2は(われわれの1の知識をもとに)「たぶんこんな感じか?」という形で読み手が想像するしかない。三人称が出てきたりもするけれど、あくまで妄執の論理に回収される叙述としてしか読むことができない。だとすればばふつうは、2をそれなりにしっかり措定しておいて、3と2の落差を際立たせようとしがちではなかろうか(1と2の差異を強調することの応用だ)。実際本書の場合、冒頭と結末あたりはこれに近いことをやっており、実際に効果を上げている。だが、それだけでこのページ数はもたない。もっとほかのものがある。
ここでポイントとなるのが「一人称の語り手による語りのなかで、過去/現在、自己/他人との区別が次第に失われていく」という話。いや、失われていくこと自体は珍しくないのだけど、ここまで述べてきた事情、および、語り手であり主人公である〈ムディート〉=ウンベルト・ペニャローサが(自称)作家であり、彼が本書の叙述を組み立てていることと組み合わせるとちょっと特異な話になってくる。いったいどういうことか。手掛かりが自分の感覚にしかないため正直うまく説明できる気がしないのだけれど、ちょっとがんばってみよう。
そもそも、作家がなにかお話を書くとき、あるいは伝記などのノンフィクションを書くとき、そこで書かれる世界は現実をアンカーにしていなければならない。「でないと書けないし読めない!」だ。妄執もしかり、いかにその内実が現実から離れていこうとも、きっかけ自体は現実であるほかない。だからこの2つは似ている。のだが、決定的に異なる点もある。前者の場合は、それが小説であれ伝記であれ、その表現のしかたがどうであれ、書き手は書かれる世界全体を俯瞰できる視点から逃れられない。どのような焦点化を選ぶにせよ、書き手としては俯瞰できている状態を作る必要がある、作らざるをえない、作りながら書くしかない。現実をアンカーにすることと同じくらいどうしようもないことではある、と思う。もちろん、もう一方たる妄執はそうではない。妄執のなかの論理にかなっていればよく、逆に原理的に俯瞰することができない、俯瞰していると信じ込むことが精一杯だ。作家としてのウンベルトはまずそこで引き裂かれる(ウンベルト自身もこれが妄執であることを知って書いていると思う)。自己と他人と神をすべて取り込んでいくように見えても(お話を書くことはしぜんそうなることなのだ)、実際には妄執であるがために、自己以外の視点が入りこむことは不可能だ。ただ、本書ではその外部たる「現実」がドノソによって描かれないため、読み手がそれらの違いを区別できない。
さらに、本書でしつこく繰り返されるモチーフ──黄色い犬や魔女、インブンチェの怪物、入れ替わり──これらすべては、序盤で語られる魔女の伝説が下敷きになっている。伝説というからには実際とても強固な物語であって、作家であるウンベルトは、妄執という観点からも、作家であるという観点からも、その重力から逃れられない。現実をアンカーにすべきなのか、強固な物語をアンカーにすべきなのか(そうそう、だから、先述の「現実をアンカーにしなければならない」には「(現実をアンカーにした)物語をアンカーにする」も含まれる)の間でも、やはりウンベルトは引き裂かれている。結果、物語によって現実が捻じ曲げられることそのものが、さも現実のように描かれることになってしまう。
彼は「現実」をアンカーになにかを書こうとするが、それは同時に物語の重力に絡めとられ、その結果出てきた叙述はすべて妄執であると判じるほかないが、だからこそ彼にとってそれは「現実」でもあり……
本書はしばしば悪夢のようであると形容されるけれど、これはたしかに夢っぽい、というより「夢を文章として書き出すこと」に似ている。ただ、ウンベルトはその夢から覚めることができないのだから、「見ている夢を、その場で文章として、夢の外に書き出すこと」に近いかもしれない。だから、それ自体が悪夢なんだよな……
……というわけで(まとまったことにする)、上掲以外で3つ挙げておきます。いずれも海外文学強者たちのレビューだぞ!(いつも楽しみにしています!) 読んでへんのはお前だけ!
- http://owlman.hateblo.jp/entry/20101106/p1
- http://abraxas.hatenablog.jp/entry/20141013/1413182217
- http://sekitanamida.hatenablog.jp/entry/2011/05/24/103000
雨月物語×SF
で、『夜のみだらな鳥』の話に乗じてというか、ほんらいの意図としては実は逆なんですが、告知だ。 みんなだいすき『雨月物語』を下敷きに、SFで再解釈した9編を載せた合同誌『雨は満ち月降り落つる夜』に参加させていただきました。詳細は以下、まずはこちらを見てくれ。
https://www.sasaboushi.net/ugetsu/
また、雨月物語そのものの魅力や各話の内容については主催の笹さんのエントリに詳しい。さらに、(本記事投稿時点では前半分のみですが)掲載作品全話レビューもあるぞ!(4/22追記:後半も公開されました!)
以下、せっかくなので私もざっくり感想じみたものを書きます。
「ノーティスミー、センセイ!」(笹帽子)
「願い事インジェクション」「クロス賽銭スクリプティング」といったパワーのある語彙が重なるポストシンギュラリティなサイバーセキュリティSF。笹帽子さんの軽妙な会話劇っていったいどこから出てくるんだといつものように恐しく思いつつ、そのうえに「じゃあいったい、そんな世界でのAIの恨みってなんだろね」というテーマが乗っかってくる堂々たる巻頭作。
「飛石」(cydonianbanana)
温泉地を訪ね菊花の約の二次創作を書こうとする主人公、つまりそのまま筆者自身という構造となっていて、そこから創作が現実を固定する話にSFっぽい説明が加えられ、本作自体が湯けむりのなかに収斂する。ばななさんの小説はメタ構造が特色であることが多い印象なのだけど、そのなかでもとくに完成度の高い一作になっているように思う。
「荒れ草の家」(17+1)
雨月物語の魅力のひとつに、説教臭いなりの下で舌を出すところがある。本作の元ネタである「浅茅が宿」も「待ち続ける」という「美点」が持ち上げられているようなそうでもないような話だ。本作では待ち続けるものがいったいどうすべきかというところに意外性のあるアンサーが提出されており、今回の作品群のなかでもいっとう雨月物語の精神を体現したものだと感じた。
「回游する門」(Y. 田中 崖)
みんなも好きだよね、おれも好きだよ、わちゃわちゃした軽快なSFアクション。ちょっとした引っくり返しもありつつ、だんだんその設定にも必然性が出てくるとさらにワクワク感が増す。ゆうたらこれも機械生命体の魂の話で、やはり軽快さを保ちつつ希望のあるオチでとてもいい。舞台となる都市から細かな言い回しまで、しっかりメカメカしさを通していてそれもうれしい。
「boo-pow-sow」(志菩龍彦)
ひと夏の物語っしょ!百合っしょ!はいこれ! ってことで、広い意味での怪異譚であることをまず提示しつつ、そこにSFっぽいガジェットをとりこんで、うまくしんみりさせてくれる一品。いやほんとに「一品」という感じでシンプルにまとまってるんだよな。短編かくあるべしである。
「巷説磯良釜茹心中」(雨下雫)
ひるがえって、こちらはむしろ最初SF色が濃いのだけど、徐々に肝が冷える感じ。もともとの「吉備津の釜」の主人公じたいかなり人間くさいというか、ホラーの登場人物らしいある意味憎めないクズっぽさがあるのだけど、こっちもこっちでしっかりそう。ところどころトンチキに見える展開が見え隠れし、しかしそれが不思議に収まっていくところが怖さにつながる。
「月下氷蛇」(シモダハルナリ)
シモダハルナリ……いったい誰なんだ……。
「イワン・デニーソヴィチの青頭巾」(鴻上怜)
あの収容所文学が「青頭巾」の世界にどうやって……そう、異世界転生トラックを介して繋がるんだ。そこがいきなり良すぎるんだよな。語り口はあくまでロシア文学(の翻訳)っぽさを維持しているのだけど、そのまま日本の怪異譚が語られるズレもまたおもしろい。そしてなんとなく抹香臭いオチだからこそやっぱり雨月物語っぽいと感じるのがまたうれしい。
『斜線を引かない』(murashit)
で、最後が私のやつで、なんでこの雨月物語×SFの話のマクラに『夜のみだらな鳥』の話をもってきたのかというと……というところを書こうとしたのだけど、ここまででなんとなく感じていただけるんじゃないかと……いや無理か。ひとつ言っておくと、『夜のみだらな鳥』はこれまでみてきたとおりオブセッションの話ですし、『雨月物語』の怪異を生むのもやはりオブセッションだ。だから「貧福論×情念経済」としました。ほんまかいなって? ぜひ実際に読んで、君の目で確かめてくれ!