劇場版 のんのんびより ばけーしょん

「劇場版 のんのんびより ばけーしょん」むちゃくちゃ良いんですよ。泣けたから良いと言うつもりなどさらさらないんですが、ともあれ自分はボロ泣きしてしまったんだよな……。

nonnontv.com

どうしてだったのだろうか。

そもそも「匿名的で典型的な、そしてノスタルジックな山の中の田舎」という舞台がもうひとりの主人公たる本作において、「沖縄に場所を変えて、これまでどおりのキャラクターたちが遊ぶ」という沖縄編はどこか物足りなく、原作においてそこまで好きなエピソードというわけでもなかったんですよね。4、5回に分かれ、それでも紙幅が限られている漫画版だとどうしても仕方のないところではあるのですが。

で、そこにオリジナル展開を加えて70分ほどのアニメーションにまとめたのが本作なわけですが、この「問題」をどうにかするとなった際に、夏海のシリアスな面を出すというのは自然な流れだとは思うんです。舞台の不足を補う……いや、けっして沖縄が魅力的でないという意味ではないのですが、「登場人物としての田舎」が不在であることを補うという意味で。

ただ、夏海に真面目な顔をさせる話って、そのままやってしまうと単に「なんか居心地が悪いな……」みたいになっちゃいがちなところでもあると思います。そこをを逆手にとってくれたのが本作で、その居心地の悪さが夏海とあおい(オリジナルキャラクター)との距離のとりかたの緊張感に反映されているんですね。まずここがむちゃくちゃ良いんですよ。

この居心地の悪さに慣れる……というより、丁寧なエピソードの積み重ねによってこの夏海の感情が自然に感じられるようになるのとシンクロするように、彼女たち2人の距離も近づいていく。もちろん、れんちょんも小鞠せんぱいもほたるんも、あおいとの距離がちぢまる。とうぜんのことながら、最終的に別れなければならないという古典的な悲劇の前提のもとで。

そして終盤、(原作を読んでいる方ならご存じのとおり、本作にも)夏海とひか姉が帰りたくなくて泣く「ギャグシーン」があり、その場はひか姉がいるおかげで原作どおり「型としては」ギャグとしてオチがつくんですが……って、ここからはさすがに言わんとこうか。実際に観ていただくとして、なんだろう、夏だったんだよな、越谷夏海っていう名前は伊達じゃないよ。

もう一点、じつはもとの舞台である「田舎」が忘れ去られているわけでもない(「『登場人物としての田舎』が不在」と言ったな、あれは嘘だ!)という話もあります。

というのが、「田舎」と沖縄(竹富島)とをつなぐモノとして、れんちょんのスケッチが出てくるんですね。具体的にどんなふうに出てくるのかは、これも実際に観て確認してほしいんですが、沖縄のなかで「自分たちの田舎」をその都度思い起こさせ、対比させるはたらきをしてくれている(さらに言うと、自分の記憶が正しければ、沖縄パートにおいてはおそらく意識的に夕暮れどきの描写がオミットされていて、帰宅時の「山間部の夏の夕焼け」と対比されていたように思う)。

先述のとおり、そもそものんのんびよりっていう作品は「匿名的で典型的な、そしてノスタルジックな山の中の田舎」の話です。いっぽう、本作における隙のない美術で描かれるのは「竹富島という実在の、典型的で、エモーショナルな夏の海」のイメージです。

正直なところ、SNSなどで流れてくるエモーショナルだったりノスタルジックだったりする夏のイメージには「もうええやろ」という気持ちがありました。あったはずなのですが、この対比のおかげなのか、さらに個人的な話として「山間部の子が海を見るときの驚き」に共感(共感!)してしまったからなのか、あまりにストレートな2つの夏にノックアウトされちゃったんだよな……へへへ……。少なくとも種々のエピソード(これは原作にもあった良さですね)や美術の細部における「夏」のイメージの補強にまったく手抜きがないというのは間違いないところだとは感じています。

ということで、とりあえず2点、言葉にはしてみたのですが、例のごとくうまく表現できているとはまったく思えません。思い切り雑に言うと、前者は(とうぜんこの言葉はあまり使いたくないんですが)百合が好きな人が好きそうなところのような気がしますし、後者は文字通り(とうぜんこの言葉はあまり使いたくないんですが)エモい夏が好きな人が好きそうなところのような気がします。

……いかんな、締めが妙に冷笑的なイメージになってしまった……実際に泣いてしまったぶん照れ隠しだと思ってくれ……「劇場版 のんのんびより ばけーしょん」、なんたって、めちょくちょ良かったので……。