すずめの戸締まり

ねじれ双角錐群アドベントカレンダー8日目の記事です。ね群といえば、先日の文フリで頒布したね群の最新刊『故障かなと思ったら』もBoothにて通販中。アドカレともどもよろしくね!

というわけで、今日は『すずめの戸締まり』についてのメモを載せることにしました。誰しも思い付くような論点を改めて挙げてみた程度のもので、とくに新しい知見などはありません。観たのは一度だけで、もう数週間前のことです。鮮烈さは薄れているけれど、落ち着いて考えることのできる時期と言えるかもしれません。特典の新海誠本やパンフレットも持ってはいるのですが読んでいません。一方いつも見てるブログなどのレビュー記事は読んでおり、したがってそれらに無意識に影響されている可能性が高いです。

そしてもちろん、ネタバレがあります。

  • まずなにより、震災をここまで真正面から採り上げていることに驚いた
    • 有り体にいえば「こんな難しい題材を……」という話なのだが、この言い方好きじゃないんだよな。そうでなくとも、「難しい題材」というのは(採り上げるだけなら)安易な題材でもありうる
      • どのような扱いがしんじつ「真正面」かについてはさまざまな考えかたがあろうし、本作の過程や結論のつけかたなぞそれにはあたらぬと捉える向きもあるとも思う。それでも、現実にあった災害を主人公の最も重要なバックグラウンドのひとつに据えているのは確かだろう
      • 誰もが気になる点にちがいないが、ほんらいどうしようもない天災というものを、「扉が閉じられなかった/開いてしまったこと」ひいてはその土地にいた人たちの思いの重さに繋げていること(ラストあたりで要石の重さは人の思いの重さみたいなことが述べられていたはず)に対し、相応に危ういと感じてしまうところはあった
      • もちろんそういったもやもやの残ることはもとより想定されていたとろではあろう。それを覚悟と呼んでもいいのだろうが、どちらかといえば「やらざるを得なかった」みたいな印象を受ける
    • そういうわけで、現実にあった災害を「あったこと」として言及するにとどまらず直接的に採り上げながら、いわゆるリアリズムではなく(『君の名は』『天気の子』にもあったような、というかある意味それ以上の)ファンタジーをふんだんにまぶしてみせる……という映画がこの規模で作られ(=予算)この規模で公開されている(=観客の幅広さ)ことが、なんだかものすごいことのように思えてしまった
      • 11年という期間を置いてこのように描くことに対し、「『ちょうどいい』期間だったのかもしれない」と感じたのが正直なところだったけれど、ほんとうのところどうなんだろうね。忘れている人は忘れている、忘れられない人にとっては忘れられないのは当然として。みなさんどうですか
      • 関連して、終盤の日記を開いてのサイレンあたりの描写は事前になんらかの形で警告があってしかるべきだと思った……んだけど、自分が見逃していただけなのだろうか
  • そのうえで、いや……「震災」だけじゃねえ……もうこれ「日本」じゃねえか……という気持ちがさらに上積みされる
    • 「廃墟の扉」が重要なガジェットになっているということは、日本中に廃墟があるということでもある。そのとおり、ロードムービーとして「(衰退する)地方」がさまざまに描かれる
      • 「土砂崩れからインフラの復旧を諦め集落ごと移住した」みたいな話がさらっと出てくるところなどがわかりやすい
      • 地元から田舎(愛媛)と地方都市(神戸)を通っての都会(東京)という過程
      • もちろん(なにがもちろんなのか?)それぞれの地方の人びとはそれぞれに生きていて、関わる人たちは裏表のないとても優しい人間として描かれてもいる。冷静に考えるとちょっといい人すぎるわけだが、それでも/だからこそ、戸を締めるときそこにいた人びとに思いを馳せなければならないことと相補的にはなってる
      • あえていえば、土着的な「日本人」でない人々が見当たらなかったという不満がないではない
    • 緊急地震速報あるいは地震そのものの扱い
      • この島国で生きるうえで、毎度の速報をいちいち大袈裟に気にしていられないということ
      • その一方で、そこで報じられたものこそ次の大きな天災そのものであってもおかしくないということ
      • これらが同居してしまっていること
      • それらがマジでそのまんま描かれていた
    • 東の要石が皇居の下にある!
      • ここの天皇制の間接的な言及のしかたには強迫的な印象さえ受けてしまった
      • が、それこそ「日本的」っていうのはこういうイメージなのかもしれない。触れないわけにもいかないけれど、明示しないし、賛否でさえない
      • そもそも閉じ師がやってるのはそのまんま神事ではある
    • そういう、土地としての/そこに生きる人間にとっての(東京に限らない)「日本の現在」というのをずっと直接的に映していて、(何度も言うけど)それをたくさんの人が観に来る状況って、いったいなんなんだろうと思う。エンタテインメントであるのに、そこに出てくる日本というものの描きかたが直接的すぎてびっくりしてしまう
      • その土地に根付く信念だとか気質みたいなのともまたちょっと違う。もっと物質的な話というか。芹澤の懐メロ(叔母さんの世代でさえないんだよあれ)もそういうところに紐付いて見えてしまう
      • 原発近くと思われる廃墟を見てきれいだと呟く芹澤に、これがきれいに見えるのかと言わせているのは覚えておきたいところではある
    • そして、それでもまた明日、と締めるわけだ。日本に対して!(すずめに対してです)
      • 「大丈夫だ」ではなく、「それでも、大丈夫だ、と言わねばならない」という
  • というのはしかし、あくまで背景ではある。すずめ自身すでに過去(母の死、ないし行方不明)を乗り越えている……というとちょっと違うのかもしれないが、「死とはそういうものなのだ」みたいなある種の達観した状態から始まり(だからこそ草太に同行してあんなに身体を張るわけだ)、そこから変化していく。つまりあくまですずめの現在についての話であって、したがって以下、人間関係について
    • すずめと叔母
      • ダイジンとすずめのラインとの相似がテクい
      • それはともかく、やっぱりあのパーキングエリアでの「本心」からの、自転車に乗っての「それだけじゃない」について、(めちゃくちゃ月並みなことを言うんだが)人の親として「そうだよな〜」みたいになってしまった
      • それ以外にもけっこう、叔母さんの心中察してあまりある感じは観ていくうえでのスムーズさに資してくれていた感じもした
    • すずめと草太
      • 過去に一度(常世で)見ているからといって、いくらなんでも突然すぎやしないか。でも恋ってそういうもんかもしれんな!
      • いやでも、「生きたい」「生きさせたい」への変化の触媒ではあっても、あくまで触媒にすぎないとは言えるのだろうか。すずめ自身でケリをつけているのだから
      • したがって「突然すぎやしないか」とはいったものの、そもそも「恋愛」としてとっさに想像されるものともまた違うのかもしれない
      • 愛にできることはまだあるかい
    • すずめとすずめ
      • 先述したとおり「乗り越え」自体は終わっている。けれども旅を終えて改めて見つめ直してみれば、違う言葉が出てくる
      • ほかの誰に伝える/伝えられるでもなく、みずからに言い聞かせるでもなく、自分自身に二人称で伝える/伝えられること
      • ここを(常世という時空を使って)母ではなく自分自身としたというのが本作でいちばんよかったと感じたところではあった
  • そのほか落穂拾い
    • 開く/閉じるというモチーフ。とくに芹澤のオープンカーの幌の閉まる閉まらない。開放は開放で気持ちいいんだよね、みたいな
    • ダイジンとサダイジンについて。なんかみんなよくわかんなかったと言っていたが、自分も例に漏れずあんまりわかっていない。とはいえそんなに気になってもいない
    • あと、アニメートについてはもはやそんなに言うことがないな。巨大な怪物がガシガシ出てくるのが新機軸な感じはあったが

なんか盛大な勘違いがあったらご指摘ください。以上です。