最近なんか書くときに断続的に考えていること

ね群の新刊告知と遅ればせながらの夜ふかし百合参加報告をしたいなと思って、その前置きをと考えはじめたところで、「これ、まとめるのにたぶんめちゃくちゃ時間がかかる(あるいは無理)」と思ったので、いったん雑な箇条書きのまま残しておこうと思いました。でないと成仏できそうにないので……。

というわけで、問題意識薄い!などなどご笑覧ください。用語の使い方についてかなり吟味が甘いのは、はい、そこは、すみません(そこをちゃんとするのが今はしんどいと思ったんですよ!)。

  • 問題意識1:そもそもなんで苦しんで小説書いてるわけよ
    • 最終目標としては、端的には文章うま太郎になりたいんすよ。注意したいのは、ここに物語的なおもしろさみたいな含意はいっさいないということ。なので、べつにノンフィクションでも詩でもいいということになる。ほぼ純粋に技法的な側面からの話
      • じゃあこの欲望のもとにあるものはなんだろう?というのは現状ちょっとわからないのだけど
      • 実際問題、物語を考えるのがマジで超苦痛なんすよ、そういう意味でメインの目的でないから
    • ではなんで文章うま太郎になるために小説を選ぶのかといえば、こちらはいくつか理由が考えられそう
      • 端的には書き方の自由度が非常に高いからではないか。ノンフィクションだとどうしても事実の軛がある。フィクションであればノンフィクションのふりもできる(でもって、それを分けるのは後述するとおりけっきょく語用論的なレイヤの話であり、ベタな技法面には直接関係してこないのではと考えられる)
      • 散文詩でもいいんじゃない?というのはもちろんある。あるんだけど、しんに言葉だけで自立させるのは正直ちょっと自分には荷が勝ちすぎると感じるところがある。ついでに言えば、最低限は読んでもらいたい(「こうせいああせい」とか「こういうのあるで」とか言われたい)というのももちろんあり、そのためには不慣れな物語制作をしたほうがまだましなのでは、と。かろうじてであれ、書くときの芯にもできるし、読んでもらうときの芯にもできるというメリットがある
    • 「技法」をもうちょっとだけ分解すると、構造(情報のマクロな配置みたいな話だったり、もっと抽象的な、全体が準拠するモデルだったり)、形式(文体みたいなミクロな話でもあるし、もっと表層的な、それこそプレゼンテーションの話である場合もある)に分けられるのかな?これもなんか直交してない気がするが、まあいいや
  • 問題意識2:けっきょく小説書くとき何してんのよ、なんでこんなにしんどいわけ?
    • そうはいってもやっぱりしんどいものはしんどいでござんす。そうなってくると、「そもそもおれは、いったいなにをやっとるのや」という疑問が生じるのも必定。そこでこの疑問になるというわけ
    • 何をしてるかって、端的には「フィクションを書いている」ということにはなるわけだけど、もちろんこれだけではけっきょくどういうことかはよくわからない。なのでフィクション論や、組まれた物語をどう整理できるか(ナラトロジーとか?)そのほかいろいろ気になってくる。実際にいくつか読んだりもしている
      • もうけっこう前だが清塚『フィクションの哲学』を読んでみたところから、ちょうど今シェフェール『なぜフィクションか?』を読んでいたりするのもそのため。ウォルトンの『フィクションとは何か』(積んでる)やライアン『可能世界・人工知能・物語理論』(これもけっこう前に読んだけどどうもわかった気がしなかった。今改めて読むと違うんだろうか)とかもそうでしょうか。なんかそのへんいろいろ、あと分析美学関連のものを目下読んだりしているのもそういうことだと思う
      • ナラトロジーについては……まあいいか、最近とくにおもしろかったのは大岩「物語に『外』などない」あたりとか
      • 構造というかモデルの観点からは、円城塔の話につなげて改めて数理論理学ちゃんとやっとかねば……というのもそのあたりに近いだろうか
      • ミクロな技法についていえばまさに文体の話ではあって、そういう意味では文舵のおもしろさというのはあきらかにその一種だし、あとはもちろん日本語文法とかについてもちゃんとやりてえと思っています
    • ただ、読んでくと、上記のような領域のなかでもそこまで興味のない分野があることが見えてくる
      • 端的には虚構世界やそこに住まう?キャラクターなどなどについて、ちゃんとした存在論?を考えることにはあんまり興味がないっぽい。もちろん虚構指示だなんだと考えるならある程度整備できておく必要はあるんだろうけど、そこからそれらの「実在」ってなんぞやみたいな話にまで持ってくモチベーションはないというか。それに、整備するったってガチガチに様相論理学とかができる気もしないし……。上述したとおり、どちらかといえば日常的な実践のほうに興味の出自があるからだとも思う
      • また、フィクションとは厳密にはなにか、というところもそこまでは……。いろいろ読んでいると、けっきょくのところフィクションとして読まれるのって、書き手と読み手の共有するモードの話としか言えない(統語論からも意味論からもうまく定めることが困難で、語用論の範疇でしかいえない)っぽいなということになってきて、自分自身そんくらいでいいやと落ち着いているところがある。理由としてはこちらも実践上それで問題ないしなというのはあると思う
  • 番外編:ボトムアップな論点
    • ここまではトップダウンな話。ここでは実際に書いたもののなかから見つけてみようと思うのだけど……ざっと見ると、たしかにいくつか挙げられるように思う。以下自作の名前が出てきますが、恥ずかしいからリンクを張るのはちょっと勘弁な
    • 表層的な形式について
      • 「神の裁きと訣別するため」の箇条書きや「点対」の二行ワンセットでの記述はちょうどこれ。「点対」の告知で書いた文章はこのへんへの意識をまあまあ書き出せているんではないか
      • ただ、この方向性については、正直「点対」がぼくの実装力の限界ではあったと思う。もっとやるならむしろビデオゲーム方面から詰めていったほうがいい気がするが、そこまでの実装力もモチベーションも、いまのところはないのであった……
      • Google Mapsで無段階に拡大縮小できる小説」みたいな話をどこかでしたことがある気がする。ほかにも環境ストーリーテリングみたいなのも興味ないこともないんだけども。逆に言えば、べつにこれ、いわゆるマルチエンディングみたいなのにはそこまで興味がないってことになるのかもしれない
    • 虚構世界の限りなさについて
      • 虚構世界のとっかかりを種としてつくれば、そこからばば〜っと虚構世界が立ち上がってくるでしょ、みたいな話といえばいいんかな……。無限に語れることが出てきてしまうわけで、だからこそ「問題はその切り取り方だよね」という次の項目への萌芽でもあるのかもしれない。もちろんそれは現実の世界という栄養があって育つものではあるが……とかとかちょっと比喩が過ぎるなこれ
      • なぜか最近ではいちばん明確に意識していることのようだ。なんでだろうね、よくわからないんですけど。「できるかな」は完全にそこから書いたものだし、次のね群の「大勢なので」はまあ、わりとわかりやすくそういう話もできている……はず(いや、直接的ではないが、十分そういう部分があるというか)
      • 端的には『はてしない物語』の有名な「これは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう」でもある。それこそ「点対」の紹介文にも使ったくらいだし……
      • あと、どうも自分は、バラードの有名な錆びた自転車の車輪の話をそういう話としてとっているフシがある。おそらくもともとのバラードの意図とは違うと思う
      • 突き詰めていけばさっきの存在論?の話になりそうとか、あるいは数学っぽい意味での健全性や完全性みたいな話(でアナロジーできるなにか)にもつながりそうなんだけど、とはいえ上述したとおりそこまでやりたいか?といえばそこまでではなかったりする、とおもう
    • 語り手・書き手の位置付けについて
      • 広くとればそんなもん誰でも意識するだろって話でありつつ、特殊化するといかにもな感じでメタフィクションにつながるやつ。でもでも「なんでこんなしんどいことを……」と思うとき、ここが頭をもたげてくるのは、そりゃあ、あるでしょうと。こっちも「はてしない物語』のさすらい山の古老とかの話と言えるのか……どんだけ気になっとるんや……
      • ただやっぱり、どちらかといえば情報を切り出すときのデザイン面での問題意識のほうが大きい、だからなんというか、それこそナラトロジー方面の意識はそれなりにある、んだと思う。一方で、じゃあ『紙の民』みたいな「書かれたものが反乱を起こします」みたいないかにもなメタフィクションについては(好きは好きだけど)自分でやりたいかといえばそういうわけでもないと思う
      • それでも、なにが記述できるのか/記述しなければならないのか、みたいなところはそれなりに意識的になるところではあって、このへんは円城塔とか読んでるときに気になっている点でもあるのかもしれない。先の項目とも、どうしても関連してしまう
      • あるいは、(この問題意識の芯を突いているかはよくわからないんだけど)SFとかで、人間とまったく違う思考をもっている者とかの心的表象(?……そんなものがあれば)を日本語に翻訳するという過程において、じゃあどう書くの、みたいなのは、「斜線を引かない」あたりでやろうとしてみたやつだと思う。端的にいえば、できないんすよね……
      • 最近語り手-書き手-作者の三項でうんぬんとかTwitterで言ってたのはこのへんの話のはず

総じて、なんか無駄な努力をしている感じだとか、そもそも勘違いしているのではという感じが否めねえんだよなあ……。