紙魚をかかぐる人々

いろいろあって(というのは、ひとつには今日の本題にも関係して、であるのだけれど)過日しばらく、徳永直『光をかかぐる人々』を読んでいました。青空文庫にあるものはいうなれば「前編」で、「中編」にあたる雑誌『世界文化』連載分も青空文庫の当該作品を入力された内田氏が公開しています。そして「後編」は未発見原稿のままなのだといいます。それを読んでいました。

書誌的な情報はともかく、内容としてはおおむね、日本における活版印刷の誕生をひもとく、しかもそのための著者の奮闘込みで……といったもの。「前編」では日本の活版印刷の先駆者として知られる本木昌造の足跡を追うのですが、話題があっちにいったりこっちにいったり、どうも迷いながら進んでいる様子もあり、それこそ素直に進みません(これは駄洒落です。人の名前で洒落を言うのはやめましょう)。前編のうちとくに後半などは、通詞(本木の生業、いわゆる通訳)からみた開国史といった内容で、活字の話は出てくるけれど、そうでない記述や直自身の述懐などのほうがよほど多い。また、それに続く「中編」の前半では、もう一人の先駆者である木村嘉平の業績を探りに(終わったばかりの戦争というものを振り返りながら)薩摩へ、あるいは彼の子孫を訪ねます。そして後半では日本に近代的な活版印刷/活字鋳造の技術を伝えた外国人の足跡をあきらかにしようと、阿片戦争前後の上海周辺での中国語活字や日本語活字の様子を知るために、慣れない英語を読みとこうと四苦八苦するさまが描かれます。

要はいずれも調査報告半分にエッセイ半分といったスタイルで、それなりにおもしろくはあるのですが、奇妙な読み物であることは間違いありません(直自身は「小説」としているけど、いやこれは……いわゆる小説ではないでしょ……。いやでも、私小説とかからの文脈でいうとこれもそうなのか……?)。漢字の文字数の多さそして複雑さにより活字の製造が難しく、電胎法(ググってくれ)の発明と伝播を待たねば実用化できなかったという事情、そしてそれをとりまく社会すなわち当時の鎖国-開国や海外情勢などなどから解き明かさねば活字史は理解できない、だからこのような散漫な構成となったという直の言い訳は、言い訳とはいえ読んでみればしごく当然のことと思えはします。もちろん個々の話だって(直自身の印刷工としての経験との絡みもあって)興味深く読めるんです。ただそれでも、繰り返すけれど、奇妙な読み物ではある。

……で、なぜいきなりそんな『光をかかぐる人々』に触れたかといえば、とりあえずよさそうな用語を知らないから(知らないだけでありそうなんだけど)勝手に造語するんですけど、「直列化の欲望」みたいなものの話をしたいがためです。


みなさん、本読んでますか? 読んでる? 本は読んどけ! いや読まなくてもいいんですけど、読んでる人はお手元にある(かもしれない)本を開いてみてください。それ、文字が一次元に並んでいるタイプの本ですか? あるいはそうじゃない? どっちの場合もありうるでしょう。小説とかビジネス書とかだと一次元に並んでることがほとんどのはず。辞書は……これもまあ一次元でいい気がする。漫画は違いますね。レシピ本や地図もたぶん違うかな。とかとか。さっき「直列化」と言ったのは、このうち前者寄り、「(文のレベルを大きくこえて、おおむね冒頭から末尾まで)文字を一次元に並ばせる」ということだと思っておいてください。そしてきっと、ことばが主体の本になればなるほど「直列化」されているんじゃないでしょうか。たぶん。

そもそも、本、そして新聞などなどの印刷物というのは、ご存じのとおりたいへん便利なものです。情報の伝達や共有、それにもとづいた知識のコミュニティの形成などなどのために大きな役割を果たしてきました。メディア論みたいな話ができるなにものも持っていないため一般的な話しかできませんが、活字というものを生みだし、その鋳造から文選、植字、印刷、製本、さらには流通までを工業化することは、文明の発展(デカいことばだな)になくてはならない要素であったはずです。その工業化の過程こそが『光をかかぐる人々』のテーマなわけです。そして、そのおかげであなたの手元に本があったりなかったりする。なかったら関係ない感じになるかもだけど、まあ広い意味では手元にあるでしょ!

さて、工業化とは同時に規格化でもあります。ある程度の型にはめるからこそ部品やらが交換可能になるとか、まあなんかいいことがいろいろあって、大量生産が可能になるわけです。そして、ことばを主な伝達手段にする媒体を規格化しようとなったとき、「文字は原則として一次元に並ぶものだよ」という前提を置くことは、言語のもつ線状性からいって自然なことであったはずです。要は、送り手のコストを下げんがために「直列化」するようなある種の圧力があったであろう、と。

一方、直列化されていることは、情報の受け手にとってもうれしい話です。たいていの場合理解しやすくなる(これは後述するとおり一概に言えないんだけど)というのはもちろんですが、文字を追っているだけで「最初から最後まで読んだ」気になれることも、実はけっこう大きなことなんじゃなかろうか。もちろん、送り手のコストが下がりより安価に情報を得られるようになったことこそ、なににもまさるメリットでしょう。

さらに、こうしてブログなど書いていると痛感することではありますが、考えていることを直列化する過程で、思考が整理されるという効能だってあります。ぼくみたいにいきなり文章を書きはじめるという素人じみた方法をとらずともも、たとえば論文作法に沿うような、直列な型にはめようとする過程は、受け手だけでなく、送り手にもおおきなメリットをもたらしてきたはずです。ある意味ではこれ、送り手がそのまま受け手としても作用しているからかもしれませんね。

というわけで、直列化、めちゃくちゃ大事なんですよ。これまでずっと大事だったし、おそらくこれからも重要でありつづけるはずです。ここまでの話で「コイツ直列化を否定したいのかな」と思うかもしれませんが、そうじゃないんです。大事なんですよ。というか、それこそ『光をかかぐる人々』を読んで、日本語の活字をつくるまでの苦労を知ったうえで、そんなこと言えるわけがないじゃないですか。フランクリンが印刷屋じゃなかったら世界は変わっていたかもしれへんねんで。だいたいな、直列化されたことばから複数の線……線? ポリフォニー……はそれではないか。なんここうそういうのだよ! そういうのをみせてくれるさまとか、あるいは見事な構成の実用書とかだってそう、そういうものほどおもしろいものは、ぼくにとってはほかにそうそうないんだし……それは経験と知識に裏打ちされた技術であり、ときにはそれ以上のものだったりするんです(いや、ここで「以上」という優劣をあらわす言葉を使うのははっきり間違っているのだけど)。

ただ、でもね。必ずしも直列化しなければならないなんてことはないじゃない。それ以外の方法で伝えられるならそうしたほうが、送り手として楽なことはじゅうぶんにありますし、受け手だって、いったん直列化されたものを経ることで逆に理解しづらくなってしまうことだってあるでしょう。たとえば、ずっと直列に書かれたレシピ本をめちゃ頑張って作ったとして、たんに使いづらいことのほうが多そうじゃないですか? わかるわからないだけじゃない。おもしろさだってそうです。ぼくは上のほうで『光をかかぐる人々』を「奇妙な読み物」呼ばわりしたわけですが、もしかしてこれ、直列化しなければもっと広くいろんな人におもしろく思われるものになってたっておかしくないんじゃないかと、そういうスタイルで書かれるべきものだったんじゃないかと、正直感じてしまったんです。いやなんだろう、これはこれでもちろんおもしろいんだけど、なんか違う方法のほうがよりおもしろくなるのではないか? 活字についての本であるにもかかわらず、それこそが規格化に向かなかった一例でさえあったんじゃないだろうか?

まあわからんのだけど。

わからんのだけど、ただ、今は、Web技術があり、DTP技術がある現代は、活版印刷の時代よりもずっと直列化の欲望から自由になれる時代であることは間違いありません。だのに、たとえばこのブログだって、こうして直列に書くことを前提とされている。それはそう。そのほうが実装は楽だもの。直列であるものをつくることはそれより一層容易になっているのだもの。そのほうがより長い伝統に属する「型」にはめられるのだもの。HTMLだってインデザだってそうなってる。ただ、それ以外の方法だって、もっと気軽に試されていいはずなんです。試せる環境になっている。たとえば直列化の権化みたいな散文、小説だって、たとえば図や箇条書きで書かれたところでなんの問題もないはずなんです。いや知ってるけど、そういうものはたしかに相当数はあることは知っているのだけど(たとえばこのブログだと過去に『紙の民』の感想を書いたりしています)、でもそれらが未だ実験的と呼ばれるのであれば……そんなさあ……オタクくん……そりゃ「今」はそうかもしれないけれどさあ……それをしつこくやっていく人間がいれば、きっとあたりまえになり、その技術も積み重なっていくはずなんです。そしてぼくは、あたりまえになり、積み重なっていってほしい。たかが直列化の軛を逃れるくらい、なんでもないことじゃありませんか?


そこでようやく今回の本題に入るのですが、今回も告知です。告知でしか更新してねえなお前。「リフロー型電子書籍にすることが絶対にできない小説」という縛りのもとで集まった6作を載せた合同誌『紙魚はまだ死なない』に参加させていただきました。今回もありがとう笹帽子さん。以下が告知サイトだ。

https://sasaboushi.net/silverfish/

実は5月の文フリ東京に出すという話だったんですが、昨今の状況により中止となったため、現在通販にて取り扱い中です。

https://sasaboushi.booth.pm/items/1949940

「なぜリフロー不可能なのか」については6作ともに異なっており、上掲告知サイトのサンプルにて各作の冒頭見開きを見られるので、まずはそちらを参照していただきつつ、主宰笹帽子さんによる下記のエントリの紹介もぜひどうぞ。

https://www.sasaboushi.net/blog/2020/04/24/1610/

で、サンプルと紹介文である程度はおわかりいただけると思うんですが、単純に一次元に文字が並ぶだけじゃない小説、小説か? いや小説だろ、小説が、こうして集まっています。リフロー型の電子書籍というのは、直列化の圧力をかける新たな規格化です。EPUBありがたいよね、どんなデバイスでも不自由なく読めるし、プリントディスアビリティにもよりやさしい。HTML/CSSが「本」のほうに近付いてくれた結果がこれだ。ぼくもいまどきレイアウト固定の電子書籍を読む気にはなれません、ありがたいよね。ありがたいんだけど、さっきから言っているとおり、直列化以外のプレゼンテーションのほうが適している、おもしろい、あるいは、それ以外でなければならない場合ってのはやっぱりある。『紙魚はまだ死なない』に載っているのは、たしかにそういうものなんです。

正直申し上げましてサンプルで見られるものだけで値踏みするのは早計で、実際読み進めてみると各作ともにさらなる意匠が待ち受けており、本来ならそれらも含めて「ほら実際こうやぞ、みんなもやろうや」と言いたいところなんですけど、プレゼンテーションと内容がわりと密に結び付いているせいでやりづらいんだけど、とりあえず自分のものについてだけ言っちゃおうかな、自作解説……しちゃおっかな……。

今回は2行でワンセット(意味がわからない向きはサンプルを見てくれ)ということでやってみました。一昨年のね群に出したやつは2段並行だったし、昨年のね群に出したやつは箇条書きだったので、それの延長です。文字数をあわせて、ときにひとつの行にあわさって、また離れて、裏返ってズレて、そういうのをやりたかったからやったんです。だけど、自分としては特別なことをやっているつもりはないんです……と強がらせてもらえないでしょうか。こういうことをするのが普通であってほしいからやっているのであって。だからやってくださいよ。リフロー万能派のベゾスに一泡ふかせてやりましょうよ。ぼくたちにはそれができるんだから。InDesignを手にとって(Adobe税に苦しみながら)、なんかおれはようしらんが、Webデザインツールみたいなのを手にとって、テーブルの上で踊っていきましょうよ。巻き起こしていきましょうよ、きっとうまくいきます。ぼくには分かってる、自分がそこにいるんだから。

でもさ、たぶんみんなこんなしょうもない理由で参加しているわけでもないんじゃない?