2023-03-24

なにかのおりに頭に浮かび、もてあそばれてはすぐ沈み、それでも消えずにしぶとく再浮上する考えがある。いくつかある。みなさんにもあることとおもいます(例を挙げなきゃわからない気がするけれど、それはのちほど)。

こういう考えってのはしかし、たいてい深められないものです。微に入り細をうがって、あるいは連想を広範に、イメージしていくことへと意識の大部分が注がれるからか、いつだって前回とおなじようなところまで考えて、それで満足して終わってしまう。もしかしたらそれだけ難しい問題なのかもしれないし、あるいは深めるもなにもないたんなるどうでもいい話ってだけのことなのかもしれない。そのへんはいろいろにちがいない。

けれどいずれにしたって、その折々に断片を書き残しておくことができたなら、思い返されるたびに勝手に注がれまくって迷惑している意識だって、すこしは楽にしてやれるのではないだろうか。うまくいきゃ深めることだって……。それは日記の効力のひとつではありえそうです。ということで今日はそのうちのひとつについて書きます。こういうのを「供養」と呼ぶのがならわしと聞いています。

このたびとりあげたいのは、「なにかをつくるときには、もれなくぜんぶ自分で決めなきゃならない」というやつ。やっぱこう、書いてみるとあたりまえの話だ1。そりゃそうなんすよね。ほんまあたりまえの話なんやけど、それなのにぼくは、なぜでしょうね、おりにふれて考えてしまうのです。

さて、ほかのひとがどうだかなんてもちろん知らないけれど、自分の場合はこのたぐいの警句(ってほどのもんでもないが)にかんして明確な原点があります。すくなくとも、「そういえばあれが原点だった」と、このことを考えるたびに(いつのころからか)連想されるようになったシーンがある。いつか。いまや見るかげもないのだけれど、建築学をまなんでいた大学生のころ、「設計すること」のたいへんさについてだれかが偉そうに喋っているのを耳にしたときです。たぶん学科内でのなんらかの打ち上げか、あるいは研究室での飲み会とかじゃないかな。例のごとく曖昧で、つまり感心したと言い条誰から聞いたのかさえ定かでないのですが、すでに設計とかしてるんだから先生とかが言ってたんでしょう。なぜか鴨川の床だったことだけおぼえている。おぼえているつもり。後年の捏造でなければ……。

もうすこし補足するなら、たてものを設計するっていうのは、たとえだれも目にとめないような細部であっても、ときに設計者自身でさえどうでもいいと考えるような細部であっても、とにかく「それをどうするかを決める」ことが必要になるし、そういったある種の「決断」の連続はそれなりにたいへんなものなのだよ、という話だったはず。自分はやったことないしいまや知り合いもいないので、設計するというのがほんとうにそういう作業なのかはけっきょく知らないままなのですが(実際にやっている人からしてみればただの酒の席の軽口か、そうでなければ勘違いとか、そういうふうにとられてしまうものなのかもしれない)、それでもやっぱ「なるほどな〜」って思ったんですよね。注意しておきたいのは、これは「だからすみずみまで意図をゆきわたらせなければならない」とかそういう話じゃないってことです。もしかしたら含意されていたのかもしれないけれど、そう結論づけられた台詞を聞いたところでたいして感心しなかったにちがいない。

言い換えてみます。だれも気にしないしどうでもいいものであっても、それでも形にしなければほんとうに構成したい全体が成りたたないような細部がそこここにあるということ。そしてそれらすべてにどうにか意識をもってきて、決定し、ときにはそれで苦しむことのある行為が「設計」なのだということ。どうもそういうことらしいのです。もちろん、なんらかのお作法やガイドラインに従ったり、だれかべつの人に「よしなにしてね」を預ける/受けとることもある(しときには必要になる)でしょう。だから、そうった移譲するという決定だって含めた話だと考えるのがよさそうです。

で、そうやって考えていると、(すみずみまで意図をゆきわたらせるべきかどうかはともかく)ほんとうに「どうでもいい」細部というものがあるのかどうかもよくわからなくなってくるわけです。たとえば……そうだな、小説でいいか、「小説」をものしてみようとしたことのある人(おれもその中に数えてくれ、頼む!)ならわかってもらえることと思うんですが、まじでどうでもいい細部を書かなきゃそこでなにが起こっているのかがわからなかったり、全体がつながらなかったりする。あるいは逆に、いくらどうでもよくたっていちどなにかを書いてしまったなら、ほぼまちがいなくどこかほかの細部との辻褄あわせに苦労することになる。……あるあるじゃないでしょうか。ないのかな。おれだけかもしれない。なんか自信なくなってきた。でも、なんかを書く時間のうちけっこうな部分が「どうでもいい細部」つまり「本質的」ではなさそうな辻褄合わせに費されるのって、ふつうによくあることだと、ぼくは思ってるんですよね。なんか保坂和志も似たようなことをどっかで書いてたような気がするけど、どうだろうな、勘違いだろうか、そもそもどこで読んだかもわからんな。知ってる人がいたら教えてください。で、ええとなんだっけ、だから、ほんとうに「どうでもいい」わけではなくて……ああ、「意図をすみずみまで」の話に、けっきょくなってきてしまうのだろうか。うーん、でも、それはちょっと窮屈ですこし説教臭すぎるんだよな。実感として。もうちょっとこう、ある種のめんどくささの話であり、あるいはときにそれに助けられることもあるみたいな話だと思うんだけど。

まあいいや、今日のところはここまでにしておいて、ここからはまた、次にこのことが頭に思い浮かんだときに考えることにします。そのための日記やけんね。


  1. ただそれこそ、昨今の大規模言語モデルの隆盛によりまさに変化しつつあるところなのかもしれん。いやどうだろう。