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東京日記(その1)

正月のうちに書こうと思ってたんだけどなんやかんやで抵抗があったのかもしれない、でもなんか、Twitterで書くと言っておいて書かないのも癪なので書きますけど、たぶん機が熟してきているはずだと思っていたのにそうでもなかったのあなという感じで思い直しつつもあることを書きますけど、そうです、大学院を辞めたときの話です。

ずいぶん記憶が薄れていますから、ひとまず順を追って話すのがよいのかもしれません。そうだ、書きながらまとめていくスタイルだ!


遡ること6年前、僕は意気揚々と……とはいかない、むしろ不安をもってこの地東京にやってまいりました。都会に出てきたいんだと思った末に京都を選んで、イヤーコリャ都会ジャと思ったのも束の間、やっぱり東京というものに行ってみなければ日本における都会のことはわからんぜよという気持ちが、今になって思えばいちばん強かったのでしょう。大学院生になるというのが名目だった──そして名目でしかなかったのが最終的に災いしたのですが──けれど、東京ってどんなところやいっちょ見てやろうじゃないかとやってきた東京(くるり)とそれにともなう勃起不全、そして少々の山手線一周を携えて住みました北区は王子。とりあえず春? 春はなにがあったっけかなーと思ったけど、どちらかというとインターネットにおける交流をオフラインに展開することの楽しさを知った時期だった気がします。

話が脱線するんですけど、個人的にはオフレポってどうしも書きたくないんですよ。いや、読むのはべつにいいし、会った人が書いてくれたりなんかすると嬉々として何度も読み返したりするんですけど、自分ではできるだけ、会った人のことを書かないでおこうと。書いてもらったのを読んで嬉々としてるんだったら汝の欲するところを為せよコノヤロウと謗られるかもしれないのですが、これたぶん昔すごく好きで読んでいたテキストサイトオフレポになったとたんぜんぜ面白くなくなった(ように感じた──予防線)からなんだと思うのですけど、自分にはこういうのを面白く書けるのだろうかと振り返ったときに無理だなっていう感じがどうしてもしてしまうというか、僕のオフレポなんか読みたいですか? そんなわけないですよね。僕も僕のオフレポなんか読みたかないです! えっ、僕のブログなんて読みたくないって? ここまで読んでるお前が何を言ったってそんなことは聞いちゃやらねえぞ。

閑話休題。そんな感じで、勉学というよりは、おお、人なんだなと思ったというのが2009年の前半なんだったんじゃないかという気がする。けっこうリアルな人と人との関係というのを見直したという殊勝なまとめ方になる。勉学・研究というよりはと断わったということからも分かるとおり勉学・研究としては散々であった。散々であったというか、あからさまに散々の片鱗が見えた。そもそも朝起きられないという生活習慣の問題から、だいたい東京来る目的が東京に来てみたいということだったところからしてなにを研究するかなどあいまいで、そりゃうまくいくわけねえだろという気がする。ハードワーキングする気ももともとないのだから同情するアレがない。というわけで2009年の前半は終わった。研究室の先輩がたとは楽しくやれていたように思うがそもそもインターネット人格がバレたというのは痛かったような気がする……が、今となっては後悔していないです!(私信)あと、夏の愛媛はいいところでした。

さて、2009年も後半になってくると、そういった諸々がだんだん重みをもったものとして響いてきます。いままでは誤魔化せていたものが誤魔化せなくなってくる。なんにも進まないしなんにもしない日々が続いて、たしか11月に入ったくらいだったかしら、しばらく研究室に行かなくなったことがあった。行かなくなったねー。ひきこもって何をしていたのかも正直あんまり思い出せない。アニメ見てたのかな。しばらくインターネットからも姿を消してみるあの手法を駆使することによって研究室の先輩に心配をかけてしまったということで(心配をかけることが嬉しいという気持ちが自分になかったという発見があった)、ちょっとがんばろうという気持ちを見せつつ年を越したり越さなかったりした。年末にインフルエンザに罹患し中間発表を休んだのは、仮病だったんじゃないだろうか、たしか、いや、よく覚えていない、もしかしたらほんとにインフルエンザだったような気もする。普段から嘘をつきまくっていると(言霊とかそれによる無意識の支配とかじゃなく)そのバリエーションのためにだいたい嘘じゃなくなるという瞬間がホイホイやってくるというのが持論である。病的につまらない嘘をつく癖はいまだにある。が、このときは結局インフルエンザだったのだという状況証拠がさっき出てきたのでたぶん実際そうだったのだろう。年を越した。

年が明けて、研究もなにもできていないにもかかわらずとりあえずをとこもすなる就職活動というものをしてみんと(略)した。わりと素直で保守的な人間なんでわりと普通にやった。というか研究室もう行きたくないという感じになっていたのでなんかやる気? が? 出た? 感じだった覚えがある。わりと普通にスーツ着てあっち行ったりこっち行ったりしていた。普通に内定出た。某鉄道会社であった。

なんかここまで書いてみて思ったけど、大学院を辞めたことの検死解剖にはまったくなってないな、まあいいか、あとでやろう。で、そうだ、そのころにはもう年度が変わっていたということになりますがそこからがだいぶつらかった。たぶんいちばんだいぶつらかった時期なんだと思うのでちょっと詳しく思い出してみることにする。待て次回。

最近短歌がマイブームです(ではありません)

連想を夜道の上で韻を踏む蒔種に遅れたバアちゃんの夢

今やもうラブライブ!2期もひと月半正の字を書く衛星の椰子

三白眼RPGツクールと打ち捨てられたOculus Rift

棒立ちで野で笑むデフォルメキャラクター初期衝動と歴史の丘と

限りなく遅延し極む官能のドジッ子と下痢さまようラブコメ

(Webと詩の)破壊を避けてゆっくりとその用法に変化を加えよ

飯田橋駅で嘔吐しシャツ汚しセンチメンタルSFジャーニー

うすうすの0.03mmかぶせてもなお10gigabit Ethernet

BASIC華やかなりしころに見た私の父のハイパーテキスト

土地の名を太鼓に乗せて連呼してモールス信号情報生命

ネカマしてチャHをする高校生ディスプレイにはクリトリス映え

アメコミの少年少女が雨のなかイカした墓碑銘パッヘルベル

サイバネの父が死んでも催さる砂漠の祭りの場面いくつか

ゴミ箱が曖昧になりビールの缶散らばった末築くこのアレ

美少女にリモコン向けられ電源を消さるブラウン管は俺の目

コロニーの黒板の下に残された黒板消しが学習をする

黒ペンで書いた図形を消すために赤いペン持ちカタカナ書いた

明後日の警句を埋葬するために夏の日差しに集う面々

エンジンを作るためには都市の肉集めて捏ねて魂入れて

遠い日に敷かれた道路の路肩には65階で夜這う老人

矢澤にこの聖性について、あるいは不憫なサブヒロイン列伝

序 - 矢澤にこ先輩について

今日は「ラブライブ!」というアニメーション*1の登場人物である矢澤にこさん(図1)というキャラクターについての話をします。

f:id:murashit:20130808234844j:plain (図1)

正直、ちょっと悩みました。この話をすることが政治的に正しいかといえばそうではないかもしれない。現代日本において自らの暴力性に無自覚なオタクは罪だ。こんなことを言ってもいいものなのだろうか……そう考えた末に、それでも、ひとつのまとめとして、醜い自己を理解するための一助として、私はここに書き残しておきたいのです。

矢澤にこさん(図2)というキャラクターがいます。

f:id:murashit:20130808234845j:plain (図2)

矢澤にこさん(図3)というキャラクターがいます。

f:id:murashit:20130808234846j:plain (図3)

そうなんです、矢澤にこさんというキャラクターが非常に良いのです。ここではひとまず、「良い」という表現を使っておきます。かわいい、というのはもちろんそうなんですが、それ以上のものがある。うまく説明できない。たとえば、その要素のひとつとして「あこがれ」のようなものがあるかもしれません。たとえば「気高さ」みたいな言葉で表現できるのかもしれません。……彼女がどんなキャラクターなのかを説明しはじめるとたいへん長くなってしまいますのでここでは割愛しますが、そういった複雑な感情、すくなくとも、自分で言葉を発明しなければ表現できない程度の感情があるんです。

たとえばと挙げた「気高さ」というものがなにか、私にはわからないのですが、ひとつベタな形態として「顔で笑って心で泣いて」というものであるのかもしれません。いつもはおちゃらけたキャラクターだ、いつもは人一倍強い子なんだ、でも、だからこそ彼女は感情を他人に見せようとしないんです、彼女はきっと、他人のことを信じていない。いや、信じていると自分では信じているのだけれど、信じていないからメインヒロインになれない。かもしれない。いやきっとそうなんだ。なあ、にこ先輩、そうだったんじゃないの?


破 - 一般化不憫混合モデル(GPMM)

「きっと、お話のなかでは信じていたんでしょうね、きっとね」なんて、彼女のことを(そしてこれから説明する「不憫」なキャラクターたちのことを)人を信じられない人間(キャラクターを信じられないキャラクター)だと主張するなんて、ひどいことだと、すくなくとも僕は思うのです。まんがいちそれが「ほんとうの」人間だったらば、そういった行為がどうしようもないクズみてえな行為だということを誰もが知っている。……では、想像上の少女の内心を忖度することはどうなんでしょうか?架空少女の心の裡なんて誰にもわかりやしないのだから、正しいものなどひとつもなくとも、ただ尤もらしい解釈というものはおそらく存在し、その妥当性を問うことはできるが倫理的な問題ではない。そういう考えかたなのでしょうか。これは信念の問題なのかもしれません。が、そのうえで愛しているのだからという自分勝手な醜さをもって、僕は彼女たちの内面を忖度して、最大限に悪意をもった貧困な想像力をもって「不憫」だって、まだこの時点になってさえ、飽くなき追求の手を僕は緩めない。

だって、疼くんですよ、僕のなかの暗黒の血統が疼くんです、彼女が涙を見せるのは、最終的に信じたからじゃない。でも最終的に信じられたからでもないと俺のゴーストが囁くんです。 ……ほんとうでしょうか?「私にはこういう形でしか決着をつけられなかったんだよ」という醜さが「気高さ」なんでしょうか?。「あこがれ」る原因なのでしょうか?さっきと同じこと言ってる気がするな……?

……これはべつに矢澤にこさんだけを心の裡に想定しているわけではありません。最近のアニメーションから例を挙げるならば、櫛枝実乃梨さん(図4)であったり、

とらドラ! Scene5(初回限定版) [DVD] (図4)

佐天涙子さん(図5)であったり、

とある科学の超電磁砲 第6巻 〈初回限定版〉 [Blu-ray] (図5)

谷川柑菜さん(図6)であったりに対しても似たような感情を抱くのです。

あの夏で待ってる 2 (電撃コミックス) (図6)

One-to-manyのマッピングです。とくに谷川柑菜さんに関しては、本編のアニメーションの内容を正直あまり覚えていないというか、「(これは)柑菜さんだ」と気がついてからは、本編を見るのさえやめてしまいました。もともとのお話がどうなっていようと、いちどラベリングされてしまえば恐しいことに、彼女は、彼女たちは私のなかでの評価を覆すことができなくなってしまう。残酷な話だと思いますか?そうではありませんね、態度のなっていないお前の敵が私、こいつはまた!ゴミクズみたいな人間だという!それだけの話ですね!!


Q - YOU CAN (NOT) REDO

「当て馬ばかりが好きなんですね、趣味が悪いなあ。ヒロインに寄りつけないことの代償行為なんですよね。気持ち悪いですよ?」

「……今の君みたいにネチネチと嫌味を言いつつも見捨てはしないでいてくれる人を想像しているんだから、そんなの仕方ないだろ」

「そんな彼女を救えるのは自分だけだと陶酔するんですか?そんな彼女が大学を卒業して社会に出た金曜日の夜に大衆居酒屋で煮込みを頼みつつビールを傾けるそばで愚痴を聞いていたいと思うんですか?……最低……ですよね?」

うん、最低なんだ、すまない。これは両輪のうちの片方に過ぎないんだけど……と言い訳してみても仕方がないね、事実としてそこにあるんだから。そこだけ都合良くOne-to-oneなんだ。いきなり女性キャラクターを登場させてツッコませるスタイルをとることで幼稚な客観性を担保しようとする姿を何度となく見てきたというのに、「それでも君はそれを続けようとするの?」

当て馬あるいは噛ませ犬は当該物語内において大団円に関わってこない。というか、それこそが彼女の定義で存在意義でもあるがゆえに好き(好き?)になってしまうのだからどちらが先か分かったものじゃない。いや、わかってるんだよ、わかってるんだってば、これが一種の蔑視であり安全圏から二次元の少女に対して余裕綽々の視線を送っているだけだろう巫山戯るなというあなたの言い草はまったく正しいのでそこはすみません、ブックマークコメント、Twitterのリプライ等でいただけましたらと思います。思うのです。

かつて感じた、もうやり直せない烙印がこの頭皮にあります。


次回 シン・不憫少女劇場版:||

そして、話を気高さに戻さねばなりません。いったいそれは、ほんとに気高さだっていうんでしょうか。なにかちがいませんか?たとえばラブライブ!ならば、ほんとうの(一般的な?)気高さというのは高坂穂乃果さんを指すべきじゃないかという話はある。しかし彼女が一人独立しているでしょうか。僕にはそう思えなかった。そして見方によっては矢澤にこさんだって一人で独立していないと主張したい方だっておられましょうて。しかしだな、そうじゃないんだ、そうじゃないだろう。すくなくとも彼女はそれを認めないぞ。人前では認めないだろう。そして自分でもそれを信じていないだろう。最後には、信じていなかったことに気がついてすべてを失ってしまってから気がつくんだろう。

にこにー妄想を書き連ねてみる、でもって、否定してみる。ローカルファイルにそんなものが積み重なってゆく。誰もがいちばんのにこにー好きになりたいのかもしれない、それがサブキャラの運命なのだろうか、そして、僕はその列車から降りることができるのだろうか。

一度知れば、あとは彼女が仮面を被っている姿だけを見ていたい、それは一種の独占欲?なのかにゃー??


※以下参考資料です

http://sakasakaykhm.hatenablog.com/entry/20110528

サカウヱさんによる「不憫かわいい」という概念の誕生について

http://d.hatena.ne.jp/sfll/20081107/p1

死体性病氏によるみのりん

https://www.google.co.jp/search?q=%E4%BD%90%E5%A4%A9%E6%B6%99%E5%AD%90+%E8%83%BD%E5%8A%9B%E3%81%8B%E3%81%81

佐天涙子さんのSS(大丈夫!2ちゃんまとめだよ!)

https://www.google.co.jp/search?q=%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%9F%91%E8%8F%9C&tbm=isch

はい、谷川柑菜さんの画像です。


……あっ、以上です。

ラブライブ!  (Love Live! School Idol Project) 5 [Blu-ray]

*1:もともとがアニメというわけではないのですが、ひとまずそういうことにしてください

ピンチョンの新作の話

"Bleeding Edge"というタイトルらしいピンチョンの新作。

http://www.amazon.co.jp/Bleeding-Edge-Thomas-Pynchon/dp/1594204233/

なんだか日本語でまともな情報がないので、Amazonの簡単な紹介を適当に訳したものを置いておきます(ガシガシ突っ込んでいただければ幸甚です)。

2001年のニューヨーク、ドットコムバブルの崩壊と911の悲劇の狭間の凪。ゴーストタウンと化したシリコンアレー。Web 1.0は思春期の苦悩のただ中にいて、Googleの株式公開はまだ先、マイクロソフトが依然として悪の帝国と見做されていたころ。動く金はかつてと比べものにはならずとも、残りものをかき集めようとする詐欺師どもには事欠かなかった。

マキシン・ターノウは、アッパーウェストサイドでちょっとした投資詐欺の真っ最中、畑違いの小物ペテン師を追い掛けている。合法だったころもあったけれど、いまじゃ彼女のライセンスは剥奪された。だけど本当のところ、そのほうがありがたかったんだろう。いまや自らの倫理規定だけに忠実でいればいいんだから——ベレッタを携え、ならず者と取引し、銀行口座をハックする——そんなことに罪悪感を覚えずにいられるんだから。それを除けば、マキシンは平均的な——小学生の二人の息子、前夫といえなくもないホルストとの時折の交流、ご近所さんのなかでもこれ以上ないほどまっとうな——ワーキングマザーだ。とはいえそれも、コンピュータセキュリティ会社のファイナンスと、そのCEOである億万長者のギークについて調査しはじめるまでのこと——たちまち彼女は、地下鉄の雑踏、ダウンタウンの深みへとハマっていく。アールデコ調のモーターボートに乗ったヤクの売人。ヒトラーの髭剃りあとに取り憑かれた密告屋。靴擦れに悩む新自由主義者の用心棒に、ロシアンマフィアたち。ブロガー、ハッカー、IT土方に起業家。なかにはミステリアスな死にざまを曝す奴さえいて——そりゃもちろん、殺られたってことだ。

アンダーグラウンドWebへの小旅行をきっかけに、ピンチョンはロングアイランドという土地を通じて、内なるユダヤ人の母と交感しながら、インターネット黎明期のニューヨークを舞台とした大河ロマンスへと物語を導いてゆく。さして昔の話でもないはずだったのに、宇宙的な高みへと連れ去られてしまう。

法の網を掻い潜る真犯人は明かされるのか?マキシンはハンドバッグから銃を取り出さなきゃならないのか?マキシンとホルストは元の鞘に戻れるんだろうか?ジェリー・サインフェルドは予定外の客演を果たすのか?俗悪と業は清算されるんだろうか?

なあ。誰が知りたがってんだ?

何言ってるかマジで分からないんですが(何度も言うけどマジで英語苦手なんですって)、ついにピンチョンがインターネットの話をしてくれることだけは理解できました。

今日はそんなところです。

"Cyberpunk in the Nineties" を訳した

思うところあってブルース・スターリングの"Cyberpunk in the Nineties"を訳しました。

拾ったのはここ。原文自体はもともと『インターゾーン』誌に発表されていたもので、それをギャレス・ブラウン*1HyperCardで作ってたスタック*2に(スターリングの同意のもと)転載し、左のリンクはそのWeb版という位置付けのようです。ややこしいですが、とくに怪しいものではないはずです。

とはいえもちろん、こちらは完全に勝手に訳したもの。あくまで参考に、という位置付けではあります。

じつはすでにハヤカワの90年代SF傑作選の上巻で金子さん*3の翻訳がありますので、ちゃんとしたものが読みたい!という方はそちらをどうぞ。こちらは「80年代サイバーパンク終結宣言」というタイトルとなっています。

というわけで、以下。


90年代のサイバーパンク

by Bruce Sterling

今は昔、1985年のひどく寒い冬のこと――オゾン層が尽きるより昔、冬というのはひどく寒いものだったんだ――『インターゾーン』第14号にある記事が掲載された。題して「新しいSF」*4*5サイバーパンク・ムーブメントの最初の宣言だ。分析の対象はSFというジャンルの歴史と原理で、サイバーパンクの作品についてはまったく触れられていない。そんな論考が、小規模な流通にとどまろうとしない天井知らずの野心をもったイギリスのSF季刊誌に変名で発表されたってわけだ。喜ばしいことに雑誌は表紙をフルカラーにしたばかり、宣言にはもってこいの場所だった。

このつつましやかなサイバーパンクの出現を、「元サイバーパンク作家の告白」という記事*6——ぼくの友人であり作家仲間でもあるルイス・シャイナーによる最近の論考——と比べてみよう。これは「当事者」によるサイバーパンク終結宣言の、いまひとつの誠実な試みだ。掲載されたのは、1991年1月7日付ニューヨークタイムズの論説面。

けっこうな媒体だなんて思うかもしれないけど、これはムーブメントの孕む矛盾にみちた危機の実例でもある。ひとたび森林限界の奥で叫び声をあげ、衝撃で雪崩を起こしてしまったら、それをひとりで押し止めようったって無駄なことだ。何百万もの野次馬たちがいたとしてもどうにかなるものじゃない。

便利なレッテルと悪評を得るよりも前、サイバーパンクは風通しのいい運動だった。ストリート感覚にあふれ、アナーキーで、DIY精神に満ち、70年代のパンクスたちと気質を同じくしていたんだ。ペラいちのプロパガンダ機関誌である『チープ・トゥルース』*7も、欲しがる奴には誰であろうとくれてやった。著作権が主張されるどころか、海賊版が積極的に推奨されていたほどだ。

チープ・トゥルースへの寄稿者たちはみな変名で、どんな個人崇拝や派閥争いも寄せ付けない真摯な平等主義者ばかりだった。えらそうな“ジャンル導師”*8たちをことさらにバカにして、ワープロを立ち上げ行動を共にするよう声の届くかぎりに呼びかけていた。チープ・トゥルースの素朴な基準では、「おもしろく」て、「生き生き」として、「読めるもの」でありさえすれば、それがSFだった。——とはいえ、その通り成し遂げられたかどうかってのはまた別の問題だったけれど。それでもあの頃は、戦場の霧がすべてを覆い隠してくれてたんだ。

チープ・トゥルースはまずまずの成功を収めたと言っていい。なにはともあれ、ぼくたちは称賛に値する基本理念をわきまえていたのだから。「心からの尊敬を得たいなら、手垢にまみれたクソったれと縁を切って血の滲むような努力をするべきだ」とかね。りっぱなもんだとみなさん認めてくださったわけだ——みんな自分のことは棚に上げていたけれど。そんな分かりきったことからも目を背け、つまらない作品でキャリアを重ねるのがいかにたやすいことか。「おんぼろ戯言製造工場」での流れ作業の日々ってわけだ。“想像力の結集”や“技術リテラシー”といったサイバーパンクの威勢のいいスローガンも似たり寄ったりの態度であしらわれてしまった。生憎、お題目だけでジャンルが改革できるのなら、オールディスナイトがほとんど同じ理念を掲げた1956年に*9大地はとっくに揺れ動いていたはずなのだ。

すぐれたSFを求めての闘争なんてものは、実のところチープ・トゥルースにはじまった話じゃない。それでも、ぼくたちは後ろを振り返ることができるほど大人じゃなかった。50年代に叫ばれた“技術リテラシー”は心を躍らせるものだったけれど、不安をかきたてもした。対して、80年代にその言葉が意味していたのはあからさまな快楽と恐怖だ。サイバーパンクは奇妙な運動だ。その奇妙さのせいで、ほんとうは単純なはずのサイバーパンクの理論と実践はずいぶんとややこしいものだと思われてしまったんだ。

サイバーパンク作家たちの評判がマジで悪くなってきたころには、サイバーパンクの原理であったはずの「オープンで誰もが利用できる」という思想は闇のなかへととっくに消え去っていた。サイバーパンクは即席のカルトだった。モダンSFにおける狂信者ってのは、他でもないこういう奴らのことを言うものなんだろう。同世代に生き、チープ・トゥルースのレトリックに同調していた奴らでさえ、カルトそのものじゃないかと疑いの目を向けるようになっていった——サイバーパンクが文字通りの“ジャンル導師”になってしまったばっかりに。

ジャンル導師になるなんて、びっくりするくらい簡単なことだ。ベッドで寝返りを打つのと大差ない。——なったところで、なにか得るものがあるとも思えないけど。足りない自分の脳味噌をどうにか騙しおおせたって、いったい誰が導師たちを信用する?チープ・トゥルースなら、そんなものぜったいに信用しないね!なんだかんだで、“ムーブメント”は3年ほどで自分の首を完全に締め上げてしまうことになった。そして、チープ・トゥルースは1986年に死んだ。

どこかの誰かがこれを教訓にしてくれればいいけど——まあ、そうもいかないんだろう。

ラッカー、シャイナー、スターリング、シャーリー、そしてギブスン——シャイナーのりっぱな記事でやり玉に上げられ、何百万のニューヨークタイムズ読者を困惑させた、“ムーブメント”でもっとも畏るべき導師たち——は“サイバーパンク作家”の烙印から二度と逃れられない。他のサイバーパンク作家、たとえば『ミラーシェード』に寄稿した他の6人の尊敬すべき作家たち*10だったら、この“サイバーパンク”という獣とも付かず離れずやっていけるのかもしれない。けれどぼくら5人の墓標には、恐怖のC-word*11が刻まれてしまうにちがいないんだ。声高に否定したってどうにかなるもんじゃない、もっとひどいことになるのがオチだ。創作の流儀を骨の髄まで変えたって、それどころか、更年期障害でおかしくなってイスラムやサンテリアに宗旨替えしたとしても、この汚名は雪げやしないのだ。

となると、“サイバーパンク”という言葉は「サイバーパンク作家の書いたあらゆる作品」という意味を持つにすぎなくなる。なんでもかんでもサイバーパンクってわけだ。ぼくはずっと歴史ファンタジーに目がなかったし*12、シャイナーはメインストリームの小説、それにミステリを書いている*13。ラッカーは空洞地球のなかで見かけたっきりだな*14ウィリアム・ギブスンは驚いたことに、滑稽な短編を書いたりしてる*15。でも、だからって、どうと言えるものでもない。ぼくらのうちの最後のひとりが墓に葬られるまで、サイバーパンクが完全に“死ぬ”ことはないんだろう。人口統計によれば、それはまだまだ先のことになりそうだ。

チープ・トゥルースが「オープンであれ」という原則をちゃんと広められていたかどうか——『インターゾーン』の後ろ盾があったときでさえ、そんなの怪しいもんだ。電脳インターフェイス、黒革のジーンズやアンフェタミン中毒みたいな、お手軽なC-wordの記号*16とは反対に、“原則”は抽象的でつかみどころがなく、あまりに謎めいて近寄りがたかったというだけのことなんだろう。けれどもきっと、正真正銘のサイバーパンク的世界観に支えられた作品の具体例を挙げるのは、今からだって遅くはないはずだ。

メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』*17といえば、SFというジャンルの源流であると考えられている。これをサイバーパンク的に分析すると、“人間主義的”*18SFということになる。『フランケンシュタイン』は、「人間には知るべきでないことがある」というロマン主義的な金科玉条を奉じているのだから。こうした高度な道徳律の裏にはどんな物理的メカニズムも存在しない——この法則は人間の認識を超越し、まるで神の意思のごとくに作用する。傲慢には天罰を。これこそが宇宙の本質というわけだ。身の毛がよだつような罪を犯し人間の魂を冒涜したフランケンシュタイン博士*19は、その当然の報いとして、みずからの創り出した怪物からおそろしい罰を受けることになる。

では、サイバーパンク版「フランケンシュタイン」ならばどうだろう。この想像上の作品における「怪物」が、世界的企業から潤沢な資金を得た研究開発プロジェクトの産物ってのはありそうな話だ。流血沙汰の大惨事を引き起こしかねないな。きっと行きあたりばったりの通行人が犠牲になることだろう。だけど、そんなことをしでかしておいて、こんどはバイロンばりに深刻な溜息をつきながら北極まで放浪するななんてことが、この怪物に許されるわけがない。サイバーパンクの怪物たちはそんなに都合よく姿を消してはくれない。怪物たちはもうとっくに街をうろつき回っている。ぼくらの隣にいる。「ぼくたち」自身が怪物であったとしても不思議じゃない。新しい遺伝子法の制定により著作権の対象となった怪物たちは、世界中で大量生産されることになるだろう。そしてまもなく、ファストフード店で深夜にモップをかけるような劣悪な労働は、怪物たちの仕事になるというわけだ。*20

サイバーパンク的な倫理観からすると、「知るべきではなかったこと」なんて、人間はとうに知ってしまっている。ぼくたちの祖父母の世代のことだ。ロバート・オッペンハイマーは、ぼくたちが登場するよりずっと前に*21ロスアラモスで「世界の破壊者」*22になっていたのだから。人間の行動が神に制限されているだなんて考えは、サイバーパンクにとってはただの妄想だ。ぼくたちをぼくたち自身から守ってくれる神聖な境界線なんてどこにもない。

世界における人間の居場所なんて、結局のところ運命のいたずらでしかない。人間は弱く、死すべき存在ではあるけれど、それは神々の聖なる意思なんかじゃない。たまたまその時そうなったというだけのことだ。そんなのとうてい受け容れられるはずがない。べつに神に見放されたことを嘆いてるんじゃない。憂き世が掃き溜め同然だという紛れもない事実に納得がいかないのだ。——人間の条件は変わりうるし、いつか変わるのだろう、そして現に変わりつつある。たったひとつの疑問は、どうやって変化し、どんな結末を迎えるのかということだ。

サイバーパンクにおけるこうした“反人間主義"*23の信念はブルジョアたちを挑発するための文学的曲芸にとどまらず、20世紀後半の文化における客観的な事実を表してもいる。サイバーパンクがこうした状況をでっち上げたわけじゃない、ただその事実を反映したというだけのことだ。

テニュアを得た科学者がぞっとするほど過激な発想を唱えるなんて、いまどき珍いことでもなんでもない。ナノテクノロジー人工知能、死体の冷凍保存、意識のダウンロード……。傲慢な偏執狂どもが大学の構内で放し飼いにされ、その誰もが天地をひっくりかえそうと企んでいるわけだ。それを見て義憤に駆られたところでどうにもなりゃしない。生まれ持った聖なる寿命を100年延ばせるという悪魔の薬が売り出されたなら、教皇がまっさきに並ぼうとするような世の中だ。

すでに人間は、世界にどんな影響をもたらすのか予想もつかない、でたらめな手段に頼って毎日を暮らしている。世界人口は1970年の倍になり、かつては果てしないゴシック的静寂で人類をとりましていた自然界も、いまや分類され世話を焼かれる対象だ。

最近ではもう、まともでなさそうだからといってなにかを拒むのも簡単なことじゃない。ぼくたちの社会は、ヘロインや水爆みたいな最悪の脅威を捨て去ることすらできずにいる。ぼくたちの文化は火遊びが大好きだけど、それはたんに火の魅力にとりつかれているだけのこと。そのうえ金でも絡もうものなら、もうなんでもありだ。メアリー・シェリーの死体を生き返らせることなんてものの数にも入らない、似たりよったりのことが集中治療室で毎日のように行われているんだから。

人間の思考そのものだって、コンピュータ・ソフトウェアとして装いも新たに実用化され、複製され、日用品と化している。脳の中身でさえ聖域とはいえない。それどころか、つぎつぎと成功をおさめる学術研究の第一目標となってるんだから、存在論的、宗教的疑問なんてクソくらえってなものだ。そんな状況で「人間性は偉大なマシンに打ち勝つよう宿命づけられている」なんて考えるのはただの間抜けだろう。まるで見当違いじゃないか。研究室のケージに閉じこめられ、「ビッグサイエンス」の啓蒙のために頭蓋の穴から脳にワイヤーを接続された哲学ネズミが、「われわれの本性こそが勝利をおさめるにちがいない」とかなんとか、もっともらしく宣言する姿とまるで同じだ。*24

ラットたちに対してやってしまえることならみな、人間に対してだってやってしまえるってことだ。そして人間は、ラットにならどんなことだってやってのける。とんでもないことだけど、それが真実だ。目を塞いでみたところでどうにかなるものじゃない。

それがサイバーパンクなんだ。

黒革でけばしく飾りたてた出来合いのSF冒険譚が面白くもなんともない理由が、これで分かってもらえたことと思う。ルイス・シャイナーは、ドンパチばかりのくだらない「サイ・ファイバーパンク」で書店の棚を埋めつくす作家たちに愛想を尽かしたってわけだ。例の記事のなかで彼は「べつの作家たちがそれをお約束にしてしまったのだ」*25と非難している。「ビデオゲームや大ヒット映画から得られるのとまったくおなじ、袋小路のスリルにすぎない。」*26シャイナーの信念はいつだって揺るがない——だけどみなが〈サイバーパンク〉と呼ぶものには、もはや彼の理想なんて反映されちゃいない。

猿真似がたいした問題だとは思えない。“サイバーパンク”という言葉についてもそうだ。クソみたいな作品を“サイバーパンク”と銘打って売り出すことがいよいよ困難になってるなんて、たいへんありがたい話に思える。まぬけな看板倒れのおかげでC-wordの信用が失墜したいま、“サイバーパンク作家”とされる者たちはいよいよ必死にならざるを得ないだろう。そうと決めればかんたんなことだ。レッテルみずからが身の潔白を証明することはできないれど、作家にはそれができるし、よい作家ならば実際にやってみせるはずなのだから。

けれども、“ムーブメント”の真の理解にはかならずつきまとうであろうポイントがもうひとつある。それ以前のニューウェーブと同じように、サイバーパンクはボヘミアの声*27だってことだ。それはアンダーグラウンドの、よそ者たちの、若く精力的で、世間に背を向けた者たちの声だ。サイバーパンクは、みずからの限界も知らず、しきたりや惰性からくる限界を拒む者たちのあいだに現れたものなんだ。

ほんとうにボヘミアンたりうるSFはそれほど多くはないし、ボヘミアのほとんどはSFと無関係だ。けれども、それら二つの出会いからかつて得られたもの、そして今なお得られるものはいくらでもある。ジャンルとしてのSFは本来——そのもっとも“保守的”な作品でさえ——文化的アンダーグラウンドに属しているのだから。SFが外の世界におよぼす影響は、ビートニクやヒッピー、パンクスたちの不確かなそれと同様に、慎重に制限されている。SFってのは、ボヘミアがそうであるように、多様な人々をおしこめてアイデアや行動を実験させるには都合のいい場所だ。そうすれば、彼らのアイデアや行動を直接、より広く実践に移すことへのリスクを避けられるってわけだ。産業革命の初期に産声をあげて以来ボヘミアはずっとこの機能を果たしてきた。よくできた仕組みであることは認めざるを得ない。奇抜なアイデアのほとんどは単に「奇抜である」というだけのもので、権力を得たボヘミアんなんて目も当てられない。ジュール・ヴェルヌを、ヴェルヌ将軍、ジュール教皇にしようだなんて、いくらなんでも博打がすぎるってもんだ。

サイバーパンクは1980年代におけるボヘミアの声だった。現代に解き放たれた技術社会的変革は、カウンターカルチャーにも影響をもたらしたにちがいない。この現象を文化的に具現化したものこそ“サイバーパンク”であったというわけだ。そして、変革はいまだに拡大しつづけている。とりわけ通信技術なんて、ますます見苦しく信用がおけなくなってきて、婆ちゃんに紹介するのをためらうような連中の好き放題になっている。

けれどもサイバーパンク作家たち——持てる技術をこつこつと磨き、印税を引き落しながらどうにか生活してきた40代かそこらのベテランSF作家たち——は、自分たちがもはやアンダーグラウンドのボヘミアンでないことを受け容れなくちゃならない。ボヘミアでは珍しくもない、成功に対する普段どおりの罰ってことだ。日の光を浴びたアンダーグラウンドだなんて筋が通らない。社会的地位ってのは、手招きするだけじゃない、積極的に囲い込もうとしてくるものなんだ。そういう意味で、“サイバーパンク”はシャイナーが告白したよりもっと完璧に死んでるってわけだ。

時の運はサイバーパンク作家たちに優しかったけれど、彼ら自身は時とともに変わっていった。“ムーブメント”の理論的な核は「幻惑の強度」という教理だったはずなんだ。それなのに、サイバーパンク作家たちはもうずいぶんと真に幻惑的な物語——身悶えし、吐き気を催し、泣きわめき、幻覚におそわれ、部屋をめちゃくちゃにせずにはいられないような代物——なぞ書いてはいない。ベテランSF作家たちの近作はたしかに、緊密なプロットや魅力的なキャラクターたち、洗練された表現や「真摯で洞察に満ちた未来主義」で溢れている。けれども無意識の宙返りやテーブルに乗っての狂ったようなダンスみたいなやり方は、もうどこにも見出せやしない。舞台設定はますます卑近なものになってゆき、バロック模様のように渦巻いていた空想は失われてしまった。物語のテーマなんて、説教臭い「責任」みたいなありきたりな関心事にぞっとするほど似通っている。たしかにすばらしい作品かもしれないけれど、戦っているわけじゃない。SFに不可欠な側面を放棄して誰かが引き受けてくれないかと待っているんだ。そんなところにはもう、サイバーパンクは存在しないってことだ。

ただ、それでもまだSFは生きつづける。依然としてオープンで発展しつづけている。ボヘミアが消え去ることもない。SFがそうであるように、流行を生み出しはすれ、束の間の流行それ自体ではないのだから。SFがそうであるように、ボヘミアにも長い歴史があるのだから。産業社会のはじまりから、両者はそこに組込まれていたのだから。サイバネティック・ボヘミアの出現は不可解な出来事なんかじゃない。たとえ自分たちがまっとく新しいことをやっていると主張したとしても、彼らは若さゆえの無邪気な思い違いをしているにすぎないんだ。

サイバーパンク作家はサイバースペースを飛びまわる恍惚と危険を、ヴェルヌは気球に乗って五週間の恍惚と危険を書いたという違いはあるけれど、歴史的事情という泥濘から半歩でも足を踏み出してみれば、どちらも同じ、重要な社会的役割を果たしていたことが分かるはずだ。

もちろん巨匠ヴェルヌの作品はいまだに版を重ねる一方で、サイバーパンクには沙汰が下っている。そしてもちろん——いくつかのまぐれ当たりを別にすれば——ヴェルヌは未来を完全に見誤っていた。でも、サイバーパンクだって同じことだ。ジュール・ヴェルヌは、裕福で変わり者のお偉方、愛すべきアミアン市議会議員といったところにに落ち着いた。ひどいことになったんじゃなかろうか。

サイバーパンクの実務家たちがはからずも正統派として評価されるにつれ、サイバーパンクを型破りだか異端者だかに見せかけるのが難しくなってしまった。サイバーパンクがどこから来て、どうやってその地位に収まったのか、今となってはたやすく理解できてしまう。それでも、サイバーパンク作家がジュール・ヴェルヌの姿に忠実であった*28と打ち明ければ、なんだか奇妙なことのように思われるかもしれない。ジュール・ヴェルヌが母を愛する好青年であったいっぽうで、野蛮で非人間的なサイバーパンク作家たちは、ドラッグや無政府主義や神経接続、聖なるものすべての破壊なんかを唱えているじゃないかと反論する向きもあるだろう。

だけど、そりゃ言い掛かりってものだ。ネモ船長*29は技術に長けた無政府主義的テロリストなのだから。ジュール・ヴェルヌは、パリの街路が屍者で溢れ返っていた1848年に、先鋭的な小冊子を発表していたりもする*30。そしてそれでも、彼はビクトリア朝時代の楽観主義者(彼の作品を読んだことがあるならそう思うはずがないのだが)とされ、いっぽうのサイバーパンク作家たちは(恣意的なリストを持ち出して)虚無主義者であると決めつけられている。どうしてなんだ?そういう時代ってことなのだろうか。

サイバーパンクにはひどい寒々しさが漂っている。でも、これは誠実さの現れなんだ。快楽もあれば恐怖だってある。ぼくの座っているここの場所からテレビに耳を傾ければ、戦争をめぐった合衆国上院での喧々囂々を報じるニュースが聞こえてくる。そしてその声の背後では、都市が燃え上がり、群集が空爆で深手を負い、兵士たちはマスタードガスやサリンに悶えている。

ぼくたちの世代は1世紀にもわたる狂騒的な浪費と軽率の手痛いしっぺ返しを目の当たりにすることになる——そんなの分かり切ったことだ。手遅れになってしまった生態学的な失策のつけを払わずに済ませられるとも思えない。ましてや、何千万の同胞たちがおぞましく死んでゆき、ぼくたち西洋人がチーズバーガーをぱくつきながらテレビ越しにそれを眺めるなんて事態は、とてつもない幸運でも巡ってこないかぎり避けられやしないのだ。これは酔狂なボヘミアンの恨み言なんかじゃない。真実を見つめる勇気がありさえすればすぐにでも確かめられる、世界の現状についての客観的な申し立てだ。

こうした見通しはぼくたちの思考と表現、そしてもちろん、行動に影響を及ぼすにちがいない。そうでなくてはならないはずだ。目を背ける作家には——娯楽作家ならまだしも——SF作家を名乗る資格はない。そして、サイバーパンク作家たちはまぎれもなくSF作家だった——“サブジャンル”でも“カルト”でもない、サイバーパンクはSFそのものだったんだ。ぼくたちはこの肩書を名乗るに相応しいし、それが剥奪されるようなことがあってはならない。

それでも、90年代はサイバーパンクの時代じゃないんだろう。ぼくたちはこれからも書きつづけるだろうが、それはもはや“ムーブメント”ではないし、“ぼくたち”ですらない。90年代はきたるべき世代の、80年代に育った者たちの時代だ。あらゆる力が、そして最良の幸運が90年代のアンダーグラウンドに授けられんことを。ぼくはまだ君たちのことを知らないけれど、君たちがそこから飛び出してくるのは分かっている。立ち上がれ、その日を摘むんだ。テーブルの上で踊れ。巻き起こせ、きっとうまくいくさ。ぼくには分かっている、自分がそこにいたのだから。

(初出: "Cyberpunk in the Nineties," Interzone, #14, 1991.)

*1:Make:の偉い人

*2:HyperCardの作品をこう呼ぶらしい

*3:最近だとドクトロウとか訳してらっしゃる

*4:V. Omniaveritas, "The New Science Fiction," Interzone, #14, pp. 39-40, 1985. / ちなみに、「"The New Science Fiction" Omniaveritas」とかでググるいちおう出てくる

*5:オムニアヴェリタスってのはスターリングの変名なので、うん、めっちゃ手前味噌感あるね?

*6:L. Shiner, "Confessions of an Ex-Cyberpunk," New York Times, Jan 7, 1991. / さすがに読めないと思いきや、シャイナー自身が公式にCC-BY-NC-NDで公開してたりして

*7:ここで読める。能書きによれば、"the Movement"にはちょっと特別な意味合いがあるもよう

*8:"genre guru"

*9:たしかに両者のデビューした時期ではあるけれど、SF史に詳しくないためどのへんを指すのか不明。後出の「技術リテラシー」に関係するのだろうけれど。『十億年の宴』とか読めばなにか書いてあるんだろうか……?

*10:トム・マドックス、パット・キャディガン、マーク・レイドロー、ジェイムズ・パトリック・ケリー、グレッグ・ベア、ポール・ディ・フィリポ

*11:金子訳では「サの字」。わざわざ説明するまでもないのですが!説明すると!cuntやcockの"C-word"に"cyberpunk"をかけていたものを!日本語訳では「キの字」とかけているんですね!サはサイバーパンクのサ、だね!!

*12:「まさにこれ!」みたいなのが僕には思い浮かばないんですが、たしかに『塵クジラの海』はいちおうファンタジーといっていいし、『ディファレンス・エンジン』はあきらかに歴史ものではある

*13:ちなみにシャイナーの作品で邦訳されているのは『グリンプス』『うち捨てられし心の都』だけっぽい。どちらも読んだことない

*14:文字通り『空洞地球』は1990年の作品。後半のヴェルヌについての注も参照

*15:どれのことだろう?

*16:シャイナーの論説についての後ほどの注も参照

*17:『フランケンシュタイン: あるいは現代のプロメテウス』 ってかまあ、このへんはWikipediaを参照するまでもないか

*18:"Humanist"

*19:どうでもいいけど、僕もかつて「フランケンシュタイン」ってあの「怪物」のことを指すものだと思っていたクチである

*20:この段落、伊藤計劃+円城塔『屍者の帝国』そのまんまである。というか、伊藤計劃は(もちろん円城塔も)この論考についてはとうぜん意識していただろう。d:id:Projectitohのサイバーパンクへの言及といえば、このあたりをどうぞ

*21:オッペンハイマーは1904年生まれ、スターリングは1954年生まれ。ちなみに、先の1956年の話と関係あるのかないのかよく分からないけれど、1957年に『渚にて』を書いたネビル・シュートは1899年生まれ。

*22:オッペンハイマーがトリニティ実験について語ったアレ。Wikipediaこことその脚注に詳しい。 / 岩波文庫の上村訳『バガヴァット・ギーター』では「私は世界を滅亡させる強大なるカーラ(死/時間/運命)である。諸世界を回収する(帰滅させる)ために、ここに活動を開始した。たといあなたがいないでも、敵軍にいるすべての戦士たちは生存しないであろう」(11:32)となっている。

*23:"anti-humanist" conviction

*24:『ドクター・ラット』っぽくは……ないな。ぜんぜん違うな

*25:「しかし1987年には、サイバーパンクはクリシェに堕していた。べつの作家たちがそれをお約束にしてしまったのだ。脳へのインプラント(有機的コンピュータ・チップ)、多国籍企業の支配、裏社会、革のジャケット、アンフェタミン中毒の主人公、腐敗した衛星コロニーといったものを。」……ということで、どんだけニューロマンサーの影響力がすごかったんだよという話である

*26:「今日のサイバーパンクは、これらの問いに答えようとはしない。それらが与えてくれるのは強烈なファンタジーなどではなく、『ランボー』や『エイリアン』のような、ビデオゲームや大ヒット映画から得られるのとまったくおなじ、袋小路のスリルにすぎない。自然を死んだものと諦め、暴力と欲望を避けられないものとして受けいれ、一匹狼のカルトを持て囃すものなのだ。」

*27:"voice of Bohemia" / つまりこういうこと

*28:上に出てきた『空洞地球』は、ポーの『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の続きという位置づけなのだけど、これはヴェルヌがすでに『氷のスフィンクス』でやっていたりする

*29:海底二万里』と『神秘の島』は福音館古典童話シリーズのものがたいへんお薦めです!!!!!!

*30:具体的になにを指すのか不明だが、1848年にヴェルヌは20歳、パリで(学校での勉強そっちのけに)劇作家を志して活動をはじめた頃ではある。大デュマと出会ったのもそのくらいらしい

漫画二題

最近読んだまんがの話をします。


まずはこれ。なんですけど。

変身のニュース (モーニング KC)

これについてはもうid:ichinicsさんとid:yoghurtさんが書いているから、もうこれ以上付け加えることもないのですが。

たとえば第一話「赤星くん」。「僕にだって欲望がある。ギラギラさ」というそのときの開放感。白くまぶしい壁の「オッパイボイーン」を消していた自分が無化されるあの瞬間。

たとえば第二話「水平線 JPG」。兄貴にすべて責任を押し付けたおくなって、そうしてしまって、そのあとにビール飲んでああうめえうめえと顔を崩してしまっている自己正当化の軽やかさ。そうだよ。

たとえば第三話「昼休み」。砂漠の工事現場でパラソルに眠る少女は僕のことなんか興味がなくて、だからってわけじゃないけど壁ブチ破って逃げちゃうよねっていうその感じ。

たとえば第四話「ダンくんの心配」。妹がいいんですよ、妹が大学生になって卒論終わんないって言って、それを受けて「ダン君 私 30になってしまった」。

たとえば第五話「銃」。ほんとうにこれ以上ない瞬間に矢がスコンと刺さる。そうしてまだけっきょく生き延びている諦念。

たとえば第六話「娘の計画」。盆栽部の友達がすげえかわいいのよ。これほんとにそうで、これほんとにそうなんですよ。かつすごいまともな子なんですよ。でもほんとうにまともだったのは、いったい、な?

たとえば第七話「成人ボム 夏の日」。僕の大好きなことばに「一生幸せになりたいなら、釣りをしなさい」というものがあって、たぶん彼は、そのうち釣りするよねっていう、そういう。

たとえば第八話「飛んだ車」。たぶんみなさんならわかってくれると思うんですがそりゃ近所の池にネッシーがいたわけだし、いたわけだし、それを認めてもらいたいとみんな思っているはずだったし。

たとえば第九話「紙村のさわやかな変体」。そういえばこれ「デボネア・ドライブ」っぽかったなあと今になって思ったんですが、車をホースで洗うシーンってやっぱりいいなあって思いましたし。

そんな感じなんです。


そうしてもうひとつ。これも女の子がかわいいねん。

午後のグレイ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

いまいちばんかわいいヒロインやねん。宇宙人やねん。スクーターに乗ってる女の子好っきやねん。

市川春子のまんがなどもそうなんですけど、そういう宇宙人とかそういうものと、ふつうに交流できることを僕は僕のあとの世代に伝えたい。このブログだってそうやねん。かわいい宇宙人にこのブログを見つけられたいねん。

そんな感じなんです。

インターネットそして田舎

インターネットだ、そして田舎だ都会だと言っている方は、そりゃね、分からないでもないんです、分からないでもないんです(脂汗を垂らしながら)けど、もう、そこには私は冷静になれなくて、もはや逆上しか、お前になにがわかるという気持ちしか湧いてこなくて、って、そう、がんばって抑えておこうとおもっていたのに、そうだよ、ここで漏らしている。

誰がいちばん田舎を逃げ出したくて都会に憧れていたか、誰がいちばんインターネットを愛してそして嫌っていたか、それは、それこそは客観的にどうであれ、自分以上のものはないと思うしかない。そうしてやってきただけで、それしかなくて、そうとしか考えられない。私はいま「客観的にどうあれ」と言いました、しかしそんなものは、もう、見据えようとしても見えない。情動しかない。狭量さしかない。だから、あなたのことが嫌いになるしかなくて、そんな私がみじめでかわいそうだと思うなら思ってください。

表題にあるような床屋政談は、床屋を燃やすことでしか完遂されないんです。