だいにっほん、おんたこめいわく史 - 笙野頼子

世の中いろんな怒り方をするひとたちがいて、僕はどうせ怒るならおもしろおかしく怒りたいものだと考えたりしているんですが、まあもちろん怒るってな具合の話になるといかんせん僕はまだ子供ですので、そうなかなかうまくいくものじゃあございません。まあ僕のことはどうでもいいです。

だいにっほん、おんたこめいわく史
むしろこの「だいにっほん、おんたこめいわく史」の話でございますよね。前置き通りこれは小説という媒体を用いた怒りの表現、まさにそのようなものであります。笙野氏は怒っていらっしゃる。何に?「おんたこ」どもにです。おんたこって何?それは読んだらすぐわかることだし、巻末の著者本人による解題ではっきり言ってくださる。だからそれもどうでもいいです。


そんなことよりこのぎりぎりとうなりを上げて脳天3mmに接近していながらミクロン単位で制御されているがためにぶつかっちゃくれないこの、この現実というやつへの憤懣やる方なさを怒りを、ああこれ黴びてもうて捨てなあかんわというこの扁平形の、楔形の、尖塔形の、こののっぺりとした物体を、というこの、この世の中をさあどうやって表現しようかと考えたときに、この、イメージを、奇形的に変形したそれを、それでもやはりあくまでも現実的なものとしてアウトプットしている、それを評価したい。評価したいよわしは。

なんどもなんども言ってる気がするのだけれど、前段で述べたようなそういう連なるものというのはとことんまで連なっていやがって、それを一部取り出して見せようとするならばそれはまさにブスなものとして取り出されるしかないんであって、もし美しく取り出されていると標榜するのであればそれは嘘偽りこれであって、そう見えているのはこれ、嘘偽りとしてそこにあるのである。この人はそれをしなかった。のである。

だからこういうアウトプットを選択するのは決してスマートではないし、疲れるし、読む方も疲れるし、正直嫌いなんだけれども、意味というものがよほどしっかりとある。ああ、と納得できるものたちよりも、しっかりとある。


十三の駅から3分、淀川から奇妙に宙に浮いた橋梁の上を滑る阪急電車の姿は、特急の赤急行の黄色普通の黒がちかちかする阪急電車の姿は、まるでおもちゃみたいだと彼女は言ったけれど、ちがうねといま私は言うよ。ほんとうは現実というこの現実というこの滑らかな表面をしたこのげんじつというこの、これが、じつはおもちゃなんだよってことが、ことが、ことがっ!・・・偶然に現れ出でる場所だったというだけなんだよ。

ねっ、ねっ!