アレクサンドリア四重奏 (1) ジュスティーヌ - ロレンス・ダレル

とにもかくにも、第一巻「ジュスティーヌ」、書評などをちらほら読んでみると、ここで描かれているのは物語の一側面にしか過ぎないよう。ですから以下では、その一側面に基づいた話をいたします。全体を俯瞰した場合どうなるかだとか都市小説どうこうってのは、また今度、すべて読み終えてからやりましょう。やりたいのです。
端的にいえばきっと、Love will tear us apart*1なんだろう、などとしたり顔で言ってしまえるのかもしれません、そんな感じのまずは一冊でした。


アレクサンドリア四重奏 1 ジュスティーヌ


「イエス、姦通小説!」
都市に唆された男女二組の関係がその核。みんながみんな、アレクサンドリアという都市の大きなうねりのなかにいて、最終的にみながそこを離れる。華やかなる人生の一時代の、最愛の人の、喪失で終わる。大まかに言えばそういう話だと一人称で述べられる。分かりますか!主人公は過去を振り返って、言い訳しているわけだ。自己正当化甚だしい!

そうなんですよ。甚だしいわけです。乱暴なことを言ってしまえば、過ぎ去った恋愛の八割ってのは、きっと誰にとっても、自分への言い訳と分析、織られた記憶の襞*2からできているのでしょう。日記の引用や断片的で時系列の乱れた回想等からなる構成は、どうもそれを強く仄めかしているようではある。そういったヒネりじたいは、(当時はどうだったか知らんが)今となってはそれほど珍しいものではありません。けれども、それは時にはとても自然なこと、つまり、強い効果をもたらしてくれる、必然性を伴ったやり方にもなる。まさにこれがそうだ。だって、過去の恋愛ってのはそういうものなんだもの!仕方ないさね!という説得力が生まれている。


じゃあ、単純に必然性があるだけじゃない、そんなけったいな説得力があるほど強いんだってのはなんでや。なんでや!というと、すでに確立された(言ってみれば陳腐な)お話に用いられているからでしょう。そうです、単純至極。逆説だろうと、僕は思うのです。

つまり、そういったやり方が自然に思えるお話ってのは二種類あって、ひとつは、これは当たり前ですね、「統合を失っているお話」の場合。で、もうひとつは、さっきから言ってるやつです、ここでは過ぎ去った恋愛ってのが理由になっている、「客観的にははっきりとした筋道があるのだけれど、その記憶のしかたと取り出しかたが決定的な意味を持つお話」の場合。前者は前者で面白いし好きなのですが、後者では、そのやり方をある程度以上に推し進めたとき、逆説の持つ鮮かさがあらわれる点で優れている。乖離が丸見えになるというか。

いや、これは読んでてけっこう意外だったんですよ。語り口の豊穣さおよび連想そして叙述の飛躍への節操のなさがここまで異常だとそんなことになるのかって驚いた。語り口と内容の深さそのものの両方が型通りのところから抜け出せるほど突き詰められているせいなんでしょうか。そう言うと、なんか普通のところに落ち着いちゃった感あるけれども。

ともかく、言ってしまえば、過ぎ去った、喪失感に塗れた恋愛話ってのは、まさにこの鮮やかさのために用意されているんじゃないかとさえ思ったわけです。お話の類型は数あれど、じつはこれが適用できる型ってのは、そうそうないんですよね。


というわけで次巻以降を読むのも楽しみです。ありがたいこっちゃなあ。

*1:ジョイ・ディヴィジョンやで

*2:「記憶の襞」: Googleで検索した結果、約24万2千件の常套句

中二階の神さま

私の生まれ育った町には奇妙な風習があった。家を新しく建てるとき、必ず中二階を造らなくてはならない、というものだ。町に団地なんてものはなかったから、従って殆どの家に中二階があったということになる。そしてこの中二階(の小さな部屋)が何に使われるのかといえば、「おっさんを泊めるため」としか言いようがない。そう、あの町には奇妙な風習とともに、奇妙なおっさんが住んでいたのである。

さて、いま私は「おっさん」と言ったけれど、町の人々はみな彼のことを「神さま」と呼んでいた。もちろん私も、かの地に住んでいるころは、やはり彼のことを「神さま」と呼んでいたのだ。したがって、ここからは彼のことを「神さま」と呼ぶことにしたい。

記憶のかぎりでは、私がはじめて神さまを見たとき、彼はだいたい五十歳くらいで禿頭、夏だったからステテコにランニング、そんないかにもおっさん然とした姿だったと思う。それは神さまが我が家の中二階に六年ぶりにやってきた日らしく、つまり、私が生まれて以降はじめてのことだった、ということになる。ずいぶんと後になって兄から、あの日お前は玄関から入ってきた神さまにひどく怯えていたよ、なんて言われたれど、たしかに怖かったのだ。家にいきなり知らないおじさんが入ってくるわけだから、当たり前じゃないか。そう言い返すと「まあ、最初は誰でもそうだろうけどね」と笑うのだった。たしかその時に、父に「あのおじさんだれ?」と聞いたはずなのだが、ああ、あれは神さまだよ、今日からしばらくうちにいるから、失礼のないようにしなきゃいけないよ、とかなんとか、そんなことしか教わらなかったはずだ。

ふだんの神さまは、人の目には見えない、らしい。町の誰もが神さまのことを知っていたようだけど、彼の姿を見ることができるのは、とつぜん玄関が開き、神さまが中に入ってきたときだけ。神さまが一度その家に入ると、だいたい一ヶ月ほどその家に滞在することになる。タダ飯を食い、寝て、それからある朝、家から出たと思うと、そのまま帰ってこない。そういうことが、ごくたまにだけれど、誰の家にもある。

その時々で神さまがどの家にいるかという話は、大人の口からは出たことがなかったし、友人たちとの会話のなかでもあまり聞いたことがなかったように思う。昨日見たテレビについてだとか、話さなければならないことは、他にもたくさんあった。どこの家にもやってきているらしいというのは、たしかに友達から聞いた話ではあるし、親もそう言っていたが、「そういうものだ」としか思われていなかったようで、さほど興味の対象でもなかった。かく言う私も二度目の来訪より後はそれほど気に留めることはなかったし、友人にわざわざ話したりもしなかった。不思議な話ではあるけれど、今にしてみれば、そんなものは取るに足らない日常であると無言のうちに強いられていたようでもある。数年に一度のこととはいえ、両親とも(私の家は――他の多くの家と同じく――両親ともこの町の生まれだった)とくに何の感慨もなく、当たり前のように神さまに朝夕のご飯を供していた。神さまが家からいなくなると、「あら、いなくなっちゃった」と母が言うくらいで、せいせいしたようにも見えないし、かといって残念がるわけでもない。そんな感じだった。

神さまは無口だった。そもそも、朝食を食べるとすぐに外へ出て、見えなくなり、夜になると帰って夕食を摂り、寝るだけの生活をしているから、喋る機会もそれほどない。つまり、機会があるとしてもそれはご飯を持って中二階へ上がったときくらいで、それにしたって「元気でやっていますか」(なぜか彼はいつも丁寧語で喋っていた)「ええ、まあ」というくらい。いろいろ聞きたいことはあったけれど、やっぱりどうも、聞きづらいというか、聞いてはいけないことのような気がしていた。一度「いつも何をしてるんですか」と私が聞いたとき、微笑んで私の後ろのほうを見つめたあと、ご飯の乗った盆を持ってくるりとむこうを向いてしまったことがあったのを覚えている。もし立ち入ったことを聞いてみても、同じような反応をされたに違いない。

そんなふうだったから、大学生になり町を出てそのまま帰ることもなくなった私にとって、神さまの印象というのは、すごく薄い。たった一つの、あの思い出を除けば、だけれども。

***

その頃私は高校生で、はじめての恋人ができたばかりだった。町にはたったひとつしか高校がなくて、私はそこへ行っていない珍しい子供だった。だから、その彼も町の外の人だった。

そしてその日。両親と妹は旅行で不在(いちおう付け加えておくと、兄はその頃県外の大学へ行っており、盆と正月以外に帰ってくることはなかった)。そうなると、恋人を自分の家に呼びたくなるのが人情というものだろう。いや、さも一般的であるかのような言い方をするのはおかしいのかもしれない。少なくとも私は、焦っていたのだ。そういう年頃だった、ということで勘弁してもらいたい。ともかくも、友人にこれ以上馬鹿にされるのも飽き飽きしていたから、呼んじまおう、やっちまおう、とか、そんなことを考えていた――考えていたのだけれど。ただ一つ気掛かりなことがあった。

一週間ほど前から、神さまがうちにいる。どうしよう。

神さまのことなど一度も彼に話したことはなかった。そもそも、今回の来訪までここ何年も見たことがなかったし、その頃にはもう、そんな話をして気味悪がられちゃたまらないと考えるくらいの「常識」は持ち合わせていた。それは、町の人だけの秘密にしなければならない。

けっきょく、以下のような計画を立てた。まず、神さまが家に帰ってくるまでに私も一度家に帰り、その間恋人には適当な理由をつけて近所のファミレスで待ってもらう。神様が帰ってきたら(だいたい夕方の五時半ごろ)ご飯をあげる。そうすればこっちのもので、神さまは夕食を食べるといつもすぐに寝てしまうから、あとは愛しい彼を迎えに行くだけ。中二階の部屋は物置だとでも言えばいい。完璧な計画だ。そうして金曜日、明日うちに来こないかと誘ったら、二つ返事で行く行くと言ってきた。ああ、完璧な週末が待っているに違いない。そして、実際のところ、計画通り、なにもかも上手くいったように思えた。そうして、近所のレンタルビデオ屋で借りてきたビデオを二人で観て、それが終わったときには、もう10時だった。そうやって、「いい雰囲気」になってきた、ちょうどそのとき――

神さまが中二階から降りてきた。

先に気づいたのは彼のほうだった。目線を逸らし、私の体から離れたかと思うと、「あ、そろそろ電車なくなるから帰らなきゃ」と慌てている。どうしたのかと振り返ってみると、リビングとキッチンを繋ぐ敷居のあたりに、神さまが立っていた。何も言わず、ただ立って、こちらを見つめていたのだ。禿頭で、ステテコにランニング。五十くらいのおっさんが、そこに。

その日はそれでおしまいだった。彼はすぐにうちを出てしまった。メールであれは父だと言い訳をした。

そうして、彼とはその後ほどなくして別れた。この件がどれほど関係していたのかは分からない。高校生の恋愛なんてそんなものだとも言える。ただ、彼が家に来た日の翌朝、(問いつめてやろうと思いながら)神さまに朝食を持っていったとき、「彼はやめておいたほうがいいよ」と呟いた、あの一言がずっと気になっている。何も言い返せなかった。神さまが中二階の部屋から出てきたのを見たのも、あれが最初で最後だった。

***

今でもときどき中学の同窓会なんてものがあって、アイツとアイツが結婚しただの、そんな話ばかりしているなか、私は「神さま」はどうしているかと聞いてみる。二児の父と母として仲睦まじく暮らすSちゃんとKくんは、顔を見合わせ、「そういえば最近はうちに来てないなあ」「そういえばそうだね」なんて言って、話をはぐらかすかのように――と感じてしまうのは意地が悪いのだろうか――彼女は続ける。

「あなたもこっち帰って結婚すればいいのに、大丈夫だよ、そしたら相手なんてすぐ見つかるから」

サマー/タイム/トラベラー - 新城カズマ

はい王道!ってことで、もちろんそれ以上のものがあったから僕は書くわけですけれども。
サマー/タイム/トラベラー (1) (ハヤカワ文庫JA)
サマー/タイム/トラベラー (2) (ハヤカワ文庫JA)

夏が舞台の青春SFで外れなわけないじゃないですか。……と言いたいところなんだけど、正直言うと1巻を読み終えた時点では「こりゃまたタルい話だなー」って感想でした。「才能のある」高校生が登場人物でペダンチックなやりとりばかりが強調され、話はぜんぜん進まない。そういうものに憧れるお年頃ならまだしも、「自分はそうではなかった」「そんなに才気溢れているわけでもなかった」「行動力があるわけでもなかった」という気分ばかりが強調される今現在のお年頃において、これほどイライラさせられるものもない。ないんだけど、しかし、最終的に分かったのは、この展開は正しく機能していたということです。


つまりどういうことだ。あなたがそれを知るためには(僕が大事だと思ってしまった)このお話の基本的な状況を知っておかなきゃいけませんね。つまり、地方中小規模の都市の、高校生のお話だということです。といっても人口は15万人強ということだから、僕の田舎(3万人くらい)よりよっぽどデカいんですけども、まあ地方中核未満だからな。そうなると『凹村戦争』みたいな?って思うあなたはきっとすこし正しい。*1

というわけで

発動した。ああこれ俺のこと書いちゃってんじゃん回路が今まさに発動しました。地方都市が出てきたわけで当然僕の自分語り欲が刺激されないわけがない。というわけでここでいきなり話は飛びますが、自分語りです(人間は自分語りをしたい生き物です)(いやちがう、それはおれが自分語りをしたいがためにブログを書いているからであって君は好きにしろ)(どうでもいい)。僕にだって悠有のような繋ぎ止める存在が欲しかった、っていう話でありまして、それはつまり、なんだろ、今現在過去に縛りつけられつつある自分のような人間としては未来というものを否定しつつしかし繋ぎ止められているその杭そのものが未来へ跳ぼうとするその構造などなかったがために、うらやましくて仕方がないという話。

けっきょく、披露されまくるタイムトラベル理論たちは空想(と、すこしの読書体験)しかできなかった僕らを、大胆なだけの計画は遊ぶこと(僕のばあいはインターネットだったかもしれない)しかできなかった僕らを、退屈でしかたのない僕らの生活を、拡大して描いているということになるわけです。じゃあそこで「未来で待ってる」感はどのようになるかってえと、東京へ行って何もなかったら?信じてる者だけが先へ往く。なわけですよ。けっきょく未来しかない。それはSFでなくて理屈なんて要らないんだよという強引なアレ。さてそれは正しいのか。僕の場合は正しかったのか?

いやじつは、そんなことはどうでもいい。そのドラマが、僕にとってとても羨しいものなんだよっていう、それだけの話なのかもしれません。

*1:それに加えるなら、時をかける少女と、SFマニアならきっと涎の出るような引用の嵐、荒唐無稽な宇宙論、ちょっとしたサスペンス

読みあぐねている人のためのピンチョン入門 (逆光 - トマス・ピンチョン)

恒例となりました「おまえピンチョン言いたいだけやろ!!」のコーナーです。このたび『逆光』を読み終えましたので感想……と思いきや、そもそも感想だのレビューだのは、良質なものがすでにネット上にあふれておった。とりあえずこのエントリの最後にもいくつか載せましたが、これだけいろいろあって、僕なんかが何をか言わんやと思ってしまいましたので、今回は違うことを書きます。

それはいったいなにかってえとですね、新潮社からトマス・ピンチョン全小説が刊行され、僕がこうして恒例になるほどピンチョンの小説の感想を書いているというのに、僕の観測範囲でこれらを読む人が増えたようには思えないということに関連しています。そう、これは完全に僕の不徳の致すところ、もうちょっとこう、「ピンチョン気になるな、でも高いし面倒そうだな」って人が読んでほしい。面白い感想など書いてほしい。みんなが読めばきっともっと(僕にとって)愉快な世界になるにちがいない。そう考えましたので、今回はこんなタイトルになったわけです。

逆光〈上〉 (トマス・ピンチョン全小説)
逆光〈下〉 (トマス・ピンチョン全小説)

……で、なんでみんなピンチョン読まないの?って話なんですが、つまりこれ、「長いし読みにくい、つまり時間ばかりかかって、これほんとに私が読むに値する本なの?」っていう疑問があるからなのだと思われます。とりあえず今回はそういう前提で行くからお前らついてこい。人生は有限なんだからピンチョンの小説なんかよりも読むべき本はたくさんあるんだと、そういうことだろうが。えっ?そうだろう?お見通しなんだよ!とくに長編小説が大好きなそこのあなた、ガルシア=マルケスは読んでもピンチョンは読まねえ、フォークナーは読んでもピンチョンは読まねえ、中上健次は読んでもピンチョンは読まねえ、そんなあなたに今日は伝えます。

トマス・ピンチョンってどんな人なんですか

とりあえずどんな人かって話からはじめようと思ったんですが、えっと、Wikipedia読んだらええよね。現状分かってることといえば、ほんとうにこのくらいらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%B3

1937年生まれ(古井由吉と同い年なのね)の彼、ともかく素性がほとんどわからない、人前に顔を出すことがまったくない……ということはご存知の方も多いと思います。でもべつにかまわんですよね。作家を読むわけじゃない、作品を読むのだから、そんなことは僕達が気にすることはない。とりあえずは、物理工学科から英文科へ、という経歴のことだけ覚えておいてもいいかもしれません。

というわけで、経歴の紹介もなんもなしに、僕がピンチョンの作品で面白いなと思うところを四つほど考えてみました。それによって魅力が伝わればなと、そう思っております。以下。

1. 科学的修辞

科学的修辞、といったって、僕が勝手に使ってる言葉なので何のアレもありませんが、とにかく、まずピンチョンの魅力として僕がいちばんに挙げたいのはこれです。さっきの物理工学科云々というのは、そういうこと。

たとえば『逆光』の登場人物のひとりに、ケンブリッジで数学を学ぶ(学んでいた)ヤシュミーンという女性が登場するのですが、彼女、リーマンにものすごく魅せられている。だから、彼女の思考のなかにはしばしば、アナロジーとしてのリーマン予想素数定理が登場します。また、キット・トラヴァースという登場人物はなにかとベクトルを持ち出してきたりもする。そうやって出てくるなかで、それらが実際にどの程度「正しい」かというのは、ここではあまり問題ではありません*1。あくまでアナロジーとして、ですからね。もちろんそういうものにイライラすることの多い人だっているでしょう。いきなり不完全性定理とかクラインの壺とか言いだすああいうのって嫌いよねーとか、そういうの。わかりますわかります。……が、ピンチョンのそれは、ちょっとちがうのですよ。はっきり言えるのは、ピンチョンの小説のなかでそれは「正しい」ことなんてはなから主張していない、「正しい」フリをしていないということです。これがどのような結果に繋がるかといえば、こういった科学の粉をまぶしたアナロジーが小説内の現実に干渉してくるということ。科学そのものが書き換えられると言ってよいかもしれません。一般的なSFは、良い意味での疑似科学、つまり科学のフリをうまいことやってくれているジャンルなのですが、ここではもうちょっと虚構の強度が増している。強いて言えば筒井康隆と精神分析の関係、あるいは円城塔と計算理論の関係に近いかもしれない。

たとえば、ある四元数主義者の戯言。この台詞は小説全体に通底する世界観さえも仄めかしています。

「ていうか、四元数主義者は、ベクトル主義者が分かったつもりになっていた神の意図を故意に歪曲したからつまずいたんだよ。空間は単純で三次元で実数軸、第四の項が必要ならそれは虚軸であり時間に割り当てられるはずだというのがベクトル主義者。しかし四元数主義者が現れて、それをそっくりそのまま引っ繰り返した。空間を表す三つの軸が虚軸で、時間が実軸を取る。しかもスカラーだ。とても認められるものじゃない。当然、ベクトル主義者は戦争を起こした。彼らの知る時間はそんな単純なものではありえなかったし、空間がありえない数でできているなんて許せなかったのさ。彼らが無数の世代にわたって侵入し、占領し、守るために戦ってきたこの世が虚数なんて」*2

ほかにも、直線が曲線になるような写像は円環的時間を暗示するだとか、地球全体を共振回路にしてエネルギー問題を解決し資本主義を崩壊させるだとか、歪像鏡を繰り返し使ったりなんかいろいろするとシャンバラへの地図が解読できるとか、複屈折によって分けられた光が二人の分身になりそれぞれ違う人生を送るだとか、写真は時間の微分なんだからそれを積分してやることで動きだすし積分定数の選びかたによっては送るはずだった別に人生の姿を見ることができるだとか、エーテルの波に乗って空を飛ぶんだとか、そういったこと*3がもっともらしく語られる。最初は冗談のように、ただのトンデモのように提出されるそれらが、いつの間にやら冗談じゃなくなってる。いや、むしろ小説ぜんたいが大きな冗談のようでもあるのですが、そういうことが次々に起こる。どうですか、こういう科学の見方ってしたことありますか、ちょっとわくわくしませんか。

2. 馬鹿馬鹿しい小話

とにかく馬鹿馬鹿しい小話ばかり出てきます。たとえばマヨネーズの製法についてとにかく激論を交わす。ポテトサラダについて、エーテルについて、ほんとうかどうかなんてもうよう分からんような、そんなものが山ほど出てくる。白髪三千里、そういうものが、みなさんだってお好きでしょう?

たとえば……(ほんとに馬鹿馬鹿しいので読まなくても構いません)

店はマヨネーズ博物館のようだった。当時はマヨネーズブームがベルギーで最高潮に達したころで、卵油性乳状液の巨大な展示品があちこちに置かれていた。七面鳥と牛タンの燻製を載せた皿に取り囲まれたマヨネーズグレナッシュの山は内側から赤く光るように見えた。他方で、実際にかけて食べる料理とはほとんど、あるいはまったく無関係に、雲のようにふわふわな泡立てマヨネーズの山が重力の影響も受けずに頂まで高くそびえていた。山盛りになった緑色のマヨネーズ、ゆでマヨネーズとマヨネーズスフレの入った鉢が至るところに置かれていた。当然、あまり成功しているとは言えないアレンジ料理もいくつかあって、私権剥奪の憂き目に遭ったり、ときには正体を隠して提供されていた。
「"ラ・マヨネーズ"のことはどのくらい知ってる?」と彼女が尋ねた。
彼は方をすくめた。「"武器をとれ、市民たちよ"のコーラスの辺りまでかな──」
しかしめったに真面目な顔をしない彼女が顔をしかめていた。「"ラ・マヨネーズ"の起源は」とプレイヤードが説明した「ルイ十五世宮廷の道徳的な汚らわしさにあるの──(…)ルイのために麻薬と女を調達するのを仕事にしていたリシュリューは、いろいろな場面に応じてアヘンの吸引法をアレンジするのが得意で、ゲンセイというハンミョウの一種を粉末にした催淫薬をフランスに紹介したのも彼なの」彼女はキットのズボンを意味ありげに見つめた。「媚薬とマヨネーズにどう関係があるのかって?ハンミョウを集めて殺すには酢の蒸気にさらさなければならないの。てことは生きているものとか、さっきまで生きていたものとの結びつきが強いっていうこと──卵黄は意識を持った存在と考えてもいいかもしれない。マヨネーズを作るときに料理人が泡立て(ホイップ)って言うのは鞭打ち(ホイップ)のことだし、掻き混ぜ(ビート)は殴打(ビート)、つなぎ(バインド)は緊縛(バインド)、なじませる(ペネトレーション)は挿入(ペネトレーション)、他にも、言うことを聞かせるとか、寝かせるとか。マヨネーズには間違いなくサディスト的な側面がある。見逃しようがないわ」*4

以降えんえんとマヨネーズの話……

また、こんなシーン。

そして、彼女がヴラド・グリッサンに会ったのは、果たしてその瞬間だった。ヴラドも一休みしようと彼女と同じ戸口に避難してきたのだ。北風は彼と共謀しているかのように、いきなり彼女のスカートとペチコートを頭の上までまくり上げた。それはまるで古典的な女神がクレープリッスの雲にくるまって今にも現れようとしているかのようだった。その瞬間、彼の一方の手がむき出しになった彼女の両脚の間をつかんだ。するとほとんど反射的にその両脚が広がり、片方の足が上がって、そのまま彼の腰をしっかり抱え込み、他方で彼女は烈風の中、反対の足一本でバランスを保とうとしていた。既にすっかりほどけた彼女の髪が彼の顔を鞭打ち、彼のペニスはなぜか風雨にさらされていた。これは現実じゃない。彼女には彼の顔がちらっとしか見えなかった。彼の笑顔は嵐のように獰猛だった。彼は彼女のはいているバチスト地のパンツを引き裂いていた。彼女は彼が挿入してくる瞬間をまざまざと感じた。クリトリスは今までにない感触を受けていた。乱暴なわけではなく、むしろ優しく、ひょっとすると角度のせいなのかもしれない……でも、こんなときにどうして幾何学みたいなことを考えてるのかしら……でも、ちゃんとそこでつながっておかないと、私たち、どこかへ飛ばされそう。*5

んなわけあるかよ!!!!!!!!!!

3. 歴史/事実の語りかた

これに関しては『V.』や『メイスン&ディクスン』の感想で何度も言ってきたことなので繰返しませんが、『逆光』ではとくに、そのテーマが不可視の並行/対称世界、無時間、これらはすなわちフィクションそのものであり、歴史そのものであったことから、この視点がかなり徹底されていたように感じられました。

M&Dの感想を書いたときにも引用した以下の文章を再掲しておきます。

歴史は年代記の真実性も主張出来ぬし、回想の力も主張出来ぬ、──歴史に携る者が生延びんとするなら、穿鑿好きな人間の、密偵の、酒場の賢人の知恵を早々身に付けなければならぬ、──過去へと通じる命綱が、常に何本もあるよう気を配るのが歴史家の仕事。過去の彼方に祖先を失なってしまう危険は日々存在し、単一の鎖の連なりでは十分ではない、一つの繋がりが失われたら滑てが失われてしまうから、──あるべきは、何本もの連なりがごっちゃにこんがらがった、長きも短きも弱きも強きも入り交じった混沌であり、それ等が皆、目的地のみを共通として記憶の深みへ消えて行く様に他ならぬ。

僕たちはいつだってどこだって大量の無意味なデータの連なり──それは虚構も含めた──を押し付けられて生きていること、そのなかで「有用」な情報はかならず散逸するがために、ものごとはほんとうの意味ではなにひとつ確かになってゆかないと感じながら生きていること。これらを無意識に知っているという状況のなかで、理不尽にみえるその押し付けられかたというのがじつは、(ピンチョンが書くように)ひどくうつくしかったりひどく詩的だったりするということを、肌で感じることができるのです。

ところで、これを書きながら、なにか参考になるものないかなと木原善彦せんせいの著書『トマス・ピンチョン - 無政府主義的奇跡の宇宙』をめくっていたら、彼もちょうどこの文章を引用し「ピンチョンがやっていることは、この議論に凝縮されていると言ってもよい」と述べておられました(その場で小躍りした)。……ですよね。ピンチョン陰謀論やスパイ、都市伝説や空想科学、魔術などを好んでモチーフとしますが、その「仮定法的事実」を語ること、そのやり方ってものは、現実で生きる僕たちが改めて認識すべきことなのではないかと思ったりしちゃったりもするのです。偉そうだな。

4. 細部の表現がいちいちかっこいい

ここでは例示としての引用はいたしません。ってのは、とりあえずどこかのページを開けばどこにでもそのすばらしい細部の表現を見てとることができるはずだからです。それほどまでに密度が高い。じゃあその素晴しさってのを喋れよっていう話ではあるのだけど、ええい、ここは「とにかくすごいんだよ!」に留めさせてください。せっかくなんだから。とりあえずお手持ちの積読ピンチョン本をどこでもいいから開いて、味わうように1ページだけでも読んでみてください。それで十分解ってもらえるはずなのです。

……なんだけれども、せっかくなのでちょっと、それに関連して考えたことを書きます。

ピンチョンの小説においては、登場人物(や語り手)のあいだでは意味することが明白にみえる暗喩や仕草、ユーモアのやりとりが、読み手(すくなくとも僕)にとってはぜんぜん明白でないということが、しばしば起こります。ほかの本を読むときの3倍くらいはしつこく文字を追って、繰り返しながら読んでいるはずなのに「なんかかっこいいっす!!」ってことしか読み取れなかったりする。けっして悪文という意味で取りにくいわけじゃないんですよ。ただそれは、あなたが友人や両親、恋人や配偶者たちにたいして、「ああ、この人のことをよく知れば知るほど、この人のことがどんどん分からなくなっていく」という、あの複雑さ、わけの分からなさととてもよく似ているんです。そこらへんを通りすがる人々や、インターネットでちょこっと見たエントリ、そういうものから感じるのは、表層的な人間というやつ、そこから一歩でも踏み込もうとしたときに、相手のこれまで生きてきたすべてが、あなたへの行動としてあなたの思考のなかに流れこむ。あの感覚にとても近い。それが微細な描写からいつのまにかおそろしく広大な視野が開けていくような、ピンチョンを読むときの感覚なんです。

ただ、そういう細部も善し悪しというか、だからこそ、ストーリーを追うということは二の次になってしまいもする。ときにヤシュミーンとダリーがこんぐらがり、トラヴァース兄弟には前後百ページでの動向も追えているかどうか怪しい。それでももう一度引っくり返して、ぼくが『逆光』の魅力として言い張りたいのは!これがただの不完全な読みに由来すると解っていてもなお僕が認めざるを得ないのは!そういったこんぐらがった読書体験というのは、本を読むことそのものの寄る辺なさというものをこれでもかというほどに叩きつけてくるという、マゾヒスティックな快感、信じることしかできないという快感でもあるということです。

長くなってしまいました

つうわけで、とり急ぎ今回は僕にとってのピンチョンの魅力であると感じられるものについて四つ紹介いたしました。もちろんこれら四つが独立してあるのではなく、それらは絡み合って小説のなかに存在しています。ほら、ちょっと興味出てきませんか?出てきましょうよ!出てきてよ!!ね!で、せっかくだから、根気強く読んでみませんか。それが読書の愉しみというやつではございませんか。そんな感じで今日はおやすみなさい。



他の人の感想とか

最初に言ったとおり、ちょっと他の人の感想など置いておきます。

まずは山形浩生によるあらすじ。原書読んでの感想なので固有名詞が微妙に異なっていたりもしますが、かなり正確なあらすじなんじゃないでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/searchdiary?word=*[ATD]
ついでにレビューも
http://cruel.org/onebook/againsttheday.html

でもって次は@do_dlingさんのtweetまとめ。
http://outofthekitchen.blog47.fc2.com/blog-entry-669.html
togetterで読みたい人はこちらどうぞ。訳者の木原さんがまとめている!!!!
http://togetter.com/li/58726

次はいつもお世話になってる『石版!』の紺野さんのレビュー
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20101101/p2
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20101122/p1

その他レビューはこのブログから辿ることもできるぞ!すごいなこれ!!
http://chums-of-chance.cocolog-nifty.com/blog/

もちろん、前掲の書影をクリックすることで、キーワードからも感想などが見られますね。やっててよかったはてなダイアリー

そしてなによりも、訳者の木原善彦さんのtwitterアカウントでは1ページずつコメントが!
http://twitter.com/#!/shambhalian


それでは、改めておやすみなさい。あなたは明日の通勤電車でピンチョンを読むにちがいない!!!!

*1:とはいえ、大学教養程度の数学的知識しかない自分にとってはすくなくとも、それほどおかしなところはないように思えもするのですが

*2:上巻 p.827

*3:このへんお例示は山形さんのあらすじも参考にさせていただきました

*4:上巻 pp.843-845

*5:下巻 pp.413-414

なぜオタは体験を物語としてしか叙述できないことが不便きわまりないと思いますか?

どこかで見た、だけどそれがどこかは思い出せない、のだけど、(なにかを)書く前にはあんなにも広大なものとして感じられている「書きたいこと」が、一文字目をはじめてしまった瞬間に、手の中にある程度のものでしかないことを知る、あるいは、手のなかに収める程度にしか書けない、という話がある。できるだけ誠実に言葉にしようと思って書きはじめてみると、twitterでの数ポストぶんくらいのものでしかなかったりして、バイト中あれだけの時間をかけて考えつづけていたことが、けっきょくこれくらいのものだったのかよ、なんて嘆息することがある。全体をそのまま表現するには、論理的な文章では足りなくて*1、そうでなければ物語にでもしなきゃならんな、と思ったところで、それはそれで書きたくもないこと、考えたくもない余計なものまで考えて書かなきゃいけないという面倒くささがある。物語を書くことそのものが楽しい、ときもあるのだろうけれど、それはそのときのためのものであって、今やりたいのはそこじゃない。読んでもらうために、というのは馬鹿馬鹿しい話だけれど、つまりその部分にどれだけ自分を削るかって話でもあるのだろう。自分に「近い」人生を送った人がいたとして、それならば、こうやってだらだらと続いていく文章にだっていちいち共感してくれることと思うが、もちろんそんな人がいるわけもなく、それぞれの体験の道すじはあまりにも違いすぎているのだから、そこに貴賤などなく、だから共感なんて甘っちょろいものは、それなりに不要なところを膨らまし、あるいは必要かもしれない情報を削りつつ、「ああこんなこと書きたいわけじゃなかったのに!」というものを書きつづける、それなりにしんどい道ではあろうと思う。そんなことを考えながら喫茶店で本なぞ読んでいると、まあ、こんなゆったり本を読んでいる自分がいる一方で、世界のどこかでは撃たれて死んでる人もいるのだっていう偶然の残酷さに思いを馳せてみたりもし、もちろんだからといってどうするわけでもない感じだなあと思いつつ、考えはまた他所のほうへ飛ぶ。自分が小説を書こうとしたときには、本筋とは関係のない道をたくさんつくろうと思ったりする。文章は一次元的にしか進めなくて、ちょっとした脱線もけっきょく一方向にしかできないのがもどかしいなといつも考える。せっかくなら二次元的に脱線をしていき、無数の脱線を同時に読み進める体験がしたいのだけど、どうにもやっぱり言語というのはそういうところでも不完全なのだなとか思ったりする。帰り道でいつものホームレスのおじさんの住処の横を通りながら、彼がこの寒空のなか野垂れ死んで、どこかに(どこになるんだろう)通報される前に、その横を通りすがってみたときにする死臭というものを想像してみたりもしつつ、そのとき聴いていた、あーくそ坂本龍一はあざといなー、あざとさを実現する能力がすごい、みたいなことを、すぐに忘れ、いや、忘れずに、ここに書いたりしている。いつの頃からだろうか、全部を書く、ということを目標にしはじめたのは。それはきっと多くの人が(文章によってか否かは分からんが)目標とするところなんだろうけど、ともかくそれを達成しているものにお目にかかったことがない。あるいは、そんなものを目にしたところで、当然ひとりの人間の脳の処理能力には限界があり、そこまで読みこんでしまうことは自分の脳内にもう一人の人格を組み立てることになるのだから、そりゃあ狂ってしまうことに相違ないわけだし、まあつまり、無理なのだよ明智くん。だから人と人とは分かり合えないよ!って話なんだけど、じゃあ小説なんてものを書いてる人はいったい何をそんなにカリカリしているんですか。僕とか。そうやって、それなりに数時間ずっと考えていたことのなかから取捨し、ここに書きつけているわけで、それでもこのくらいの量にしかならない。いかに無駄が多いか、あるいはいかに貧相なものの考えかたしかできていないかっつう話になりますけれども、そんなことなら最初から何も言わなくていいじゃないか。でもどうして書くのか、それはMacBook Airが欲しいからです。MacBook Air 11インチ欲しい! 明日は都市のイメージ(リンチ的な意味じゃない)の生成について考えます。

*1:それはひとつに、僕の能力不足というものがあり、ひとつに、やはり言葉ってのがそもそも未成熟なものであるってのがあるのだろうが、だって、脚注はそのためにもある

素粒子 - ミシェル・ウェルベック

面白かった。たいへん面白かったんですよ。この読了後の湿っぽい気分を突き放した言い方をしてしまえば、なによりも性のお話でした。それに関連する自意識だったり愛だったりするものまで範疇には入ってはいるものの、一言でいうならば、やっぱり性の話だったんじゃないかと思います。

ちなみに、五年間の積読を破って読みはじめようと思ったのはid:numberockさんのおかげです。彼の感想は以下。
http://d.hatena.ne.jp/numberock/20110113/1294915537
http://d.hatena.ne.jp/numberock/20101007/1286454347

素粒子 (ちくま文庫)


はい、で。僕はどんなこと考えたかと申しますと……

お話は第一部から第三部+エピローグから成り、まず第一部は二人の主人公(異父兄弟なのだけど)の少年時代について描かれています。この部分を読んでいるとき奇妙に思ったのは、そのおそろしく淡々とした描写でした。登場人物たちの行動や感情を描くときもそうだし、なによりも、たまに挟まれるより社会的(おもに性の解放の歴史について書かれていた)・科学的(といっても、おもに生物学的、あるいはその延長としての分類学的な目線)な素描が、あまりに冷静すぎる。こういった描写とそこからの演繹として登場人物を描こうとする姿勢は、人間とそのほかの動物の境目をいくらか曖昧にさせているように感じましたし、最終的には、どうもその考えはそれほど間違っていなかったようでした。これについては後述。

そして第二部、大部分が主人公の一方であるブリュノについてのお話。性の解放が盛んに叫ばれた特殊な時代に少年-青年期を過ごし、劣等感とそこからくる性的欲望に支配された彼は(その描写がえんえんと続き、それがまたたいへん面白いし、大抵の読者には同情なり共感、この時代を生きる者にとっては、どうしても感じざるを得ないものがたとえ部分的にでも、あるに違いないのだ!)、そろそろ老いはじめようかという年齢になってパートナーを見つけ幸福を得ることになるのですが、結局それも一瞬。悲劇的な結末を迎えてしまうのです。第一部からは一転してひどく生々しい文章で綴られるこの執拗に追ってくる絶望が、物語ぜんたいの結末をある種肯定的な受容(もうお前らは、人間は、よくがんばったよ!十分だよ!みたいな)へと導くことになります。

でもって第三部。もう一方の主人公である分子生物学者、ミシェルについてのお話。ミシェルはブリュノとちがって劣等感や性的な欲望に苛まれることのなかった人物でしたが、最終的には(第二部の後半から)愛というかたちでそれに触れるものの、結局彼も絶望することになってしまう。そして、それを直接的に受けたわけではないにせよ、生物の遺伝子がトポロジー的に不完全でありそれを解決することによって不死性を獲得する、つまり、性であるとか生物学的進化から解放された種を誕生させることができるような研究を遺すところまでやってくるのです。

そしてエピローグでは、その研究が新人類──それは形而上的な認識や価値観の面でも大きなシフトになるのだけど──の誕生へと導く、というところまで描かれます。つまり人間は、旧い種になってしまうのです。第一部のあの演繹がどうこうと言ったのはこの辺りです。社会的な描写はじつはすべて捨てられるべきものの描写であった、新人類にとって旧人類は、ただの「幼年期」であったのだよ、という。


また、さらに言うならば、このあたりは空想的社会主義者やオルダス・ハクスリーのユートピアについての話がちょこちょこ出てくることからも暗示されているし、何よりも以下のエピグラフ(いずれもコントの言葉)に顕著でした。

まず第一部第十二章のエピグラフ。「革命的な時期において、まったくもって奇妙な自負とともに、同時代人たちのあいだに無政府主義的情熱を鼓舞したのは自分だと思い込む類の連中は、その嘆かわしい見かけ上の勝利なるものが可能になったのは、それに対応する社会状況の総体によって決定された、自ずからなる傾向があればこそだったということに気づいていないのである」

こちらは第二部第十章のもの。「根本的原理を変更するか一新しなければならないとき、その犠牲となる諸世代は、変革の直中にいながらも畢竟、変革とはいっさい無縁のままであり、しばしば変革に対する断固とした敵対者となる」

ね?


でもって、性の話で、かつユートピアについての小説ですから、ヒッピーが出てくるのは必然といってよい!実際この二人の主人公の母親はヒッピーな上に、第二部ではかなり重要な位置を占め、あげくエピローグではニューエイジにも触れられる。たしかにそれは相似ではある。しかしこの手のお手軽なユートピア思想との根本的な違いは、なんといっても精神が先にくるわけではないこと、技術的な「解決」こそが先にやって来るということではないでしょうか。

つまり、優生学が(価値観としても)否定され、また、セックスが生殖以外の目的を持つようになった半世紀において用意されたものは何かといえば、それは人類の生物学的進化が不可能になったという事実であるということ。そうなるとあとに残されているのは、遺伝子工学による進化かあるいは社会そのものの「進化」でしかない。そこで大抵のユートピアものは社会的な価値観のほうを持ってくる(たとえ遺伝子工学というガジェットを用いたとしても!)のだけど、この物語においてはそうではない。価値観の転倒でなく、消去でもなく、超克。それは純粋に技術的な要因によって、最終的に社会・精神までが変わってしまうということです。そこにはたしかに社会的な傾向もあったにせよ、けっきょくその只中にいる者はすべて保守派に、永遠の幼年期のなかにいることしかできないに決まっているのだよ、ということを描き出している点で卓越しているように思ったのです。


……とかなんとか言ってますが、こういうのは全体を見て、その最終的な解決について言ったこと。読んでいるただ中では、やはり、老いること、死んでゆくこと、性愛や自意識から逃れられないことが、ほんとうに絶望的な結末しか生んでいないことを、執拗に書いてゆくわりに、不思議と重苦しい感じもしない。滑稽さがそれを上回っているように思える。そんな、なんとも不思議な小説で、そういう意味でどんどん読み進められたという事実も、ひとつの感想として、あったりします。


それにしても、なんだか久しぶりでした。ここまでいろんなことを考えられた長編小説というのは。もんのすごくお勧めですよ!!!!

さようなら押し入れの天使たち

快楽天

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