日記をはじめる前に

久しく「日記」のようなものを書いていなかったので、ここらですこしやってみようと思った。

いや、実はもうちょっと理由があって。自分が置かれている環境の変化についてインターネットに書いていないことが、ひどく気にかかるようになってしまったのだ。そもそもの話として、自分には、プライベートのことや仕事なり学業なりのことをインターネットで進んで話したくないという想いがいまだにある。話すとしても、すでに思い出になってから。はじめてインターネットに触れたとき、そこにあったのが偶然にもそういうタイプのインターネットだったからというだけの話なのだが、それをいつの間にか内面化していたわけだ。ただ、いつまでもそれだけでインターネットをできるわけでもなかったようで。同じアイデンティティのまま長くやってりゃそうなるわという話なのか、それとも「プライベートでも仕事でもない領域」というのが狭まってしまったのか。どちらもあるのだろうけれど、ともかく、プライベートや仕事というものをあきらかにしないで話をしていると、どうもやりにくいと感じることが増えてきた。単に不自然なのではという気持ちになってしまうことが増えてきた。

まあ、それでも、騙し騙しやってりゃよかったのかもしれないけれど……そうは問屋(人生卸売市場だ)がおろさなかった。直近の「環境の変化」が大きすぎて、これまでのアイデンティティを保ち続けられる気がしなくなってしまったのだ。より正確に言うと、いまこれを書いている現在、自分ではそれほど大きな心境の変化がある気はしないのだけど、これからしばらくして振り返ってみれば「あ、ここで変わったな」と認識せざるを得ないだろうという確信めいたものがあるということ。そうなれば、自然、やりづらさは増大するにちがいない。そうです、端的に申し上げますと、つい先日、子供が生まれまして。

いや、親になれば人間変わるよねというだけの話だと早合点しないでほしい(結局それだけの話に回収できるのだろうが、それだけだったらわざわざ書かない)。たしかに子供はかわいいもので、というか小さい生き物はだいたいかわいいので、まあ一般的な意味でかわいいんだが、それで自分が変わった気はしない。たとえば、根が幼稚園児のためうんちが好きという事情もあり、おむつを変える作業が非常に好きなのだが(「よっしゃうんちやな!よっしゃよっしゃ!」)、それはあくまで日常の中の楽しみ、「うん、これは生活だね」という心持ちだ。昼間赤子につきっきりだった妻に先に寝てもらい、居間のゆりかごに寝ている赤子の横で静かにゲームしながらミルクをあげるタイミングをうかがっている時間も、「うんうん、これも生活だね」という感じで、ただ単に愛おしい生活というだけだ。ここで書く気はないが、もちろんしんどいことだってある。よくないことをしたな(あるいは、「なにもしなかったことがよくなかったな」)ということだってある。ふと、「ああ、出生させてしまったんだ」と思うこともある。ただ、しつこいようだが、それらはあくまで生活であって、それ以下ではないが、それ以上のものでもない。生活。生活はこれまでもずいぶんやってきた。真新しいもんでもない。アイカツみたいなもんだ。アイカツみたいなもんか?

人間が変われるのは環境が変わったときだけで、自分はいままさに環境が変わったばかり。そして、みずからの変化をその時その場所で自覚できることはほとんどない。あとから見つけることができるだけだ。そんなこと、誰もがわかっているのだから、いま、あえて、強いて、私は変わりそうですと宣言する必要は本来ないのだが(「私は変わります」と宣言することはまた別の話だ)、いま僕(この一人称を使うのは小狡いことだなあ)は、自分が変わることの恐怖に、これまでにないくらい怯えているらしい。環境の変化をこうやって公言し、言い訳にようとするくらいには恐れているらしい。ただの生活のなかで。

だからどうしてほしいというものでもないし、翻って、赤子は赤子で待ってくれたりももちろんしないのだけど、せめてこのブログを自分に追いつかせる必要がある気がして、ここまで書いてみたら、今日のところは、これ以上は書くことないやという気持ちになってきました。だからこれは「日記」ではないな。

ま、(走り出すかは置いといて)とりあえずここが再度のスタート地点ということで、ひとつ。


追記:公開して読み返してみると、自分に酔っているのはいいとして(いいんだよ!それくらいじゃなきゃブログなんて書かれへんやろ!)、娘(本文に書いていなかったが女の子である)や妻への思いやりのかけらもない、自分のことしか書いていない文章であるなと思った。が、まあここは僕のブログであるからして、自分語りに終始してもいいっしょ。そういう気持ちは直接伝えればいいっしょ。いいっしょ!それもまたアイカツっしょ!

構造素子 - 樋口恭介

読んだ本の話を迂闊にする、いいね?

構造素子

たいへん良かったです

どこからはじめればいいのかわからないのですが、まずは手前味噌に、ひとことの感想としてtwitterに書いたものをとりあえず引いてきます。

『構造素子』たいへんによくて、この形式で書いていいんだというのを完成度をもって示してくれたのが嬉しくて、さらには、我々(自信を持って言っちゃう)はこれをさらにおもしろくする言葉の使い方がきっとできるんだ、この先飛び越えられる礎石にしてやらんという意味ですごく勇気づけられる感じがした

だからぜひあなたにも読んでほしいのですが、これだけだと、とくに読んだことない人とかだとなんかわからんよな。だったらそうか、読みはじめるにあたっての話から始めるとよいのかもしれません。

梗概から読む話として

どんな話かといえば、基本的には、作中作が出てきて、それが階層的に重なり語りがそれを行き来する話で、それを束ねるのが「物語」そのものであり、父と子の話である、くらいにまとめさせてください。こういったまとめ方というのは人によるもので、どこに注目したかが如実に出るよね。

よくある、説明するのが難しい小説のひとつではあるのかもしれません。そうなると、ははあ難解なのかなという雰囲気が急に出てきます。でもそうじゃなくて……いや、どうしても気になるなら、巻末に示された梗概が非常によくまとまっているので、先にここを読んでしまうのはどうでしょうか。読んでみれば構造としてはそれほど複雑なものではないことを了解できるでしょう。そして、べつにこの構造を読み解いていくことに本書の楽しみはない……と言ってしまってよいと思います。だから先に梗概を読んだらいいと思うんです。

構造/モデルの話は前提にあって、でもそれだけじゃなくて……

ただ、この梗概がよくできすぎている。これは本書にとって必然なのですが、ほんとうにこの梗概どおりの小説であり、そういう意味では説明するのが非常に簡単な小説でもある。読みはじめるにあたっての話とか言っていたが、ここからいきなり本題に入ります。

言ってしまえば、梗概だけ読みとってしまえば本書を読むことの半分は完全に達成されるとさえ言えてしまう、と僕は思いました。梗概で示されるこのモデル、この構造にのっとってこのひとまとまりの小説が書かれていることそのものが、本書が達成した一側面であった(と僕は考えた)からです。言い方を変えると、梗概がこうやって(今ここに梗概を示せないから「どうやって」なのかわからないと思いますが、雰囲気を感じてくれ! 頼む!)すっきりと書けること自体がすでに一つの特徴なんです。構造/モデルが簡潔に完結し完成されている。

構造が重要だったり重要でなかったり、いろいろな小説があります。が、たぶん自分はどちらかというと構造が好きなほうの人間で、あと言葉は人並みに好きな人間で、その結果、文章を読んでるときなどに、粗筋とかキャラクターとか表現の良さとかよりも、たとえば図式的な構造と細部の形式との呼応などに必要以上に反応してしまうところがあったりしそうです。

ただ、じゃあ(それを評すときも含めて)構造語りをされているのを読むのがおもしろいかというとそうじゃないんですよ。構造を示すのであれば最初から図を書けばいいわけなんですよ。そして図を鑑賞すればいい。それはきっと、十二分に楽しいことで、みんなで図を持ち寄って鑑賞しあい感想を言い合いすることをぼくはしたいし、なんならそういう雑誌とか本とかwebサイトとかあるとよいよな……図式文芸がしたいよ……そうなってくると、もはや「なんで言葉を使ったものを図式に還元しなきゃならんのよ」という話になる。

そこで、「もちろんその構造とやらはあくまで半分であって、もう半分こそが小説の本文そのものに立ち現われているものではあります」という話にはなります。図式の話をからめると、冗長である本文。部分的には書かれなくてもよかったものであるものが全体に及んでおり、70パーセントなくなっていても成立するだろうし、逆にさらに冗長に、500パーセントに増えていても成立するものである本文。書かれなくても書かれても、さらに書き加えられても良かったものが小説としての体をなしていることがもう半分の側面です。われわれはじゃあ、どうして言語なんてものをつかったお話を読んでいるのかというのは、(本書のなかでも答えが出るような出ないような形で放り出されていますが)自分にとってのそれは、さっきちょっと触れた「呼応」をもうすこし一般化したものです。

冗長でさえある本文を書くこと、その豊かさ

さて、先ほどのを逆に言えば、構造だけではない面白さがあることが、わざわざ言葉なんて使っている理由ではありましょう。当然ながら喋り方は構造に従属するものではあるんですが、わりと雑に言えば、構造に対してさらに喋り方をかけ算できるというのがそれです。

(そういえば、新規な構造というのを考えるのがうまいという人といえば円城さんかなという感じはありますが、ただ、こと語りの部分にほとんど常にいちばんシンプルなものを置くので、そういう意味では、やや前記の図式でええやんの話につながってしまう気もしないでもないです。いや、めっちゃ好きなんですけどね)

少なくとも僕はそうなんですが、そしてそれなりにそういう人たちがたくさんいることを僕はインターネットなり書籍なりで確認しているんですが、その関連の先に沃野があるということを、けっこう前からずっと思ってくれていたんじゃないでしょうか。いや、昔の小説みたいなものだってそういうのあるだろうとか言うかもしれないスけど、それが最優先にされるところをメインストリームの一部として持ってこようとしたものはなかった……ということにしてくださいッス。無制限の実験場にしたところはちょっと知ってると思う、それはともかく、あったらぜひ教えてください。

(円城さんの話を出したからさらに続けるんですが、ここ数年で読んだもののなかでは、今回の話に比較的近いのは、上田さんの『太陽・惑星』だったようにも思います。が、喋りがべらぼうにおもしろいわりに、構造が未完成な気がしてしまったんだよなあ……)

ええと……なんの話だっけ、そうだ、僕は、僕たちは、そのかけ算の豊かさをずっと指向していたのでした。ただ、少なくとも僕には自信もなかったし、馬鹿にされるのが怖かったし、なにより力も根気もなかった。

(あと、ついでに軽薄に言ってしまうんですが、なぜか本書を読んだときに、感触として近いのはなにかと思ったときに、最初に思い付いたのは埴谷雄高でした、なぜだ?)

そんななかで、やり方としてはまさにそれでしかないという意味で完成されたものがここに現われたんですよ。しかも、ここで現れる構造/モデルは、どこかに仮構したものの上に立ったわけではなく、仮構することも含めた物語る宇宙全体を扱ったモデルである。いきなり志が高いな。じゃあ、よろこばしくないわけがないじゃないですか。

その一方で実は、喋りは不完全だったとも思いました。ただ、だからこそ、すべてを覆いつくすものでなかったからこそ(というか、それは責めるべきところじゃなく、原理的に不可能と思うので、そりゃそうなんだけど)、この豊かな平原のうちの基準点として現れてくれた。これがあれば、僕らはそこへ自信を持って踏み出すことができる。距離を測るにも方位を測るにも、この地点pがあれば僕たちは恐れずにいられるんだという、そういうものであったと思うんですよ。

総評

ここで示されるモデルは良い意味で単純で、かつ意欲的な構造になっている。構造に関していえば、完成されていることはなによりも外せないのですが、とはいえそれは完成していればよいのです。まずそれがある。そして評価の尺度になるのは、ここで示されるモデルに従ったと思われるこの語りがベストなものかどうかという点で、僕はベストなものであるとは思わなかった。おう、なんだったら、この構造なら俺のほうがうまく喋ってやれるよとか言っちゃおうぜ。ただ、こういうこをを言えるのは結局本書があってくれたからってことです。きちっと一つのモデルを示し、それにもとづいて書き切ってくれたんだから。これを書いていいんだという勇気を与えてくれたのだから。この沃野を進んで、開拓していくであろうこの先が楽しみになってくる、そんな一冊でした。

ちょっとあとで書き直すと思うんですが、いったんこれで提出させてください。

ゲーム、ゲーム、そしてゲーム(あと、もうすこしゲームともうすこしの告知)

最近読んだ本の話です。

ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム - 赤野工作

ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム

作者はもともとニコ動で有名な方であり、本書ももとはカクヨムの有名作品なのでご存じの方も多いかもしれません。舞台は来たるべきドラえもん後の時代、2115年、「過去の『低評価ゲーム』をレビューするブログ」という体裁をとったフィクションです。「過去」というのはつまり、現在2017年からは未来にあたります。したがって、これからの100年間に発売されたゲームを扱うことになる。現代であれば長寿も長寿、未来であればそこそこに老いぼれの書き手(著者自身の延長なのですが)が、数十年前のゲームを思い起こして語ってくれるというわけです。

未来の技術(とそれにともなう社会)があれば、いっしょにゲームをしてくれるアンドロイドだっているだろう、脳内物質を直接操作してくれるゲームがあるだろう、ゲノム編集で細菌を戦わせるゲームもあるだろう、拡張現実で怪談だって生じるだろう……と、ゲームのレビューが語られるのですが、これ、そう、ブログなんですよ。「固有名詞に絡めて過去の記憶を語る」というのがひとつのテンプレートであるところのブログがそのままここにある。

未来の技術がゲームを通してどのように表出しているかを読むのももちろん楽しみのひとつなんですが、みんな、エモが見てえんだろ? ここで語られる書き手の「自分」はいつまでもゲームをしていたい、いつまでもゲームを楽しみたいという(もはや人間である必要もない)意識のかたまりです。ここにはそれがある。なんたってブログだからな。過去の甘い思い出にまつわる、現在のむきだしの欲求にまつわる、未来への無根拠な不安にまつわるエモが。

ブログです。というわけで、「固有名詞に絡めて過去の記憶を語る」というテンプレートの話をしたいということもあって、次の本の話に進みます。

ゲームライフ - マイケル・W・クルーン

ゲームライフ――ぼくは黎明期のゲームに大事なことを教わった

タイトルにあるとおり、ゲームの話ではあります、少なくとも、ゲームがきっかけになる、ゲームを通じた話ではある、しかしゲーム主体の話かといえば、そこまででもない。ゲームを発端/媒介にした思い出が綴られる、自伝的なフィクションとノンフィクションのあいだのような本です。これもよく言われてるみたいですが、読んで受ける印象はIGN Japanの名連載「電遊奇譚」にたしかに近い。

基本的には少年の日の思い出です。みなさんも国語の教科書でヘッセの「少年の日の思い出」を読んだことありますね。あれです。ゲーマーというほどじゃないけれど、ゲームが好きだった少年の、基本的にはじめじめした思い出のお話。それはゲームを発端/媒介にした思い出話だと言いました。重要なのは、発端であるだけでなく、媒介でもあるということです。

たとえばコマンド入力型のテキストアドベンチャーなら、ゲーム内で行動するために自由なテキストを入力可能なこと、あるいは限られた命令を使ってしらみつぶしに組み合わせたテキストを入力すること、そういった「行為」の問題。たとえばダンジョン&ドラゴンズとそれをもとにしたビデオゲームバーズテイル2』なら、物理法則に支配される現実の本質である数値化とそのやりとり、そしてそこから必然的に生じる「490ポイントのダメージってなんなの? いったい何が起こっているの?」といった問題。たとえば『ウルティマ3』であれば2次元で表されたマップを通して外界を見るだろうし、第二次世界大戦を扱っている『ビヨンド・キャッスル・ウルフェンシュタイン』あるいは第1作目の『Call of Duty』なら歴史とはこういうものだと定義しなおされる。

そうやって、各々のゲームのエッセンスを通じて個人的な思い出が描写される。それどころか、過去の現実への認識が、すでにゲームのそういった本質を通じた、ないしは絡みあったものになっている。

これって、ゲーム以外でやろうとしてもできない、ないしはきわめてむずかしいやりくちでしょう。なぜならゲームには、インタラクションがあり、ルールがあり、シミュレーションであるという側面があり、楽しむものであるという側面があり、最適化問題という側面があり、もちろんナラティブも文化も技術もあって、そんな広範なものをすべて兼ね備えている、固有名詞を持ったコンテンツというのは、実はほかにはほとんどない(もちろん、たとえば身体性という面では舞台芸術よりは弱くなるなどといった事情はあるのだけれど、やはり広範さについてはゲームに分がありそうにおもえます)。

さっき言ったテンプレート、ありますね。「固有名詞に絡めて過去の記憶を語る」。ブロガーにとっても記憶を語るやり方一般として、この「固有名詞」をゲームに定めるほかに、なかなか正しいものはないとおもえませんか。つまり、「ゲームに絡めて過去の記憶を語る」ことがブロガーの強力さなんだ。

ゲームの王国 - 小川哲

そして、記憶とゲームが絡んだもうひとつの本の話に移ります。

ゲームの王国 上 ゲームの王国 下

これもあらすじが必要か。ええと、まず、この本はカンボジアを舞台としています。最終的にメインとなるのは2人の人物なのですが、語り口としては、さまざまな登場人物の視点からエピソードが描かれるというもの。ある意味では群像劇と言えるかもしれません。上下巻に分かれており、上巻はクメール・ルージュの、下巻はいまから5年ほどあとの時代ということになっています。苛烈な赤狩り、あるいはクメール・ルージュによる虐殺を通して少年少女の若いころを描いたうえで、後半はいっきに時代を移すというわけです。少年少女はすっかり成長し大人になっています。ひとりの政治家の躍進があり、それを阻止したい(と、いちおう簡単に言ってますがもうちょい事情は複雑だったりします)大学教授がなにを考えなにをするのか……というところに結実します。あらすじ下手だな。友人におもしろかったアニメの話をするのも苦手なんだよな。

さて、なにが「ゲーム」の王国なのか。本書において重要になってくるゲームのエッセンスは、「ルール」です。ゲームには(改変するためのメタルールも含めて)ルールがあります。ルールを遵守する、侵犯する境界があります。その境界は、メタルールによるもの、そうでない外部的な要因などなどによって移動します。境界があるということは、盤の向こうにいる対戦相手を殴ってキングを取るなど、ゲームが無効になる、補集合としての行為があります。もちろん、多くは楽しさだったり、時には恐怖だったりするような、そのゲームをプレイする動機、ないしはルールに従わせているものもあります。そういった、ゲームの本質のひとつである「ルール」のさまざまな側面を、手間をかけて徐々に政治だったり生きることそのものに投影させていくのがこのお話の上巻でもあります。政治を公正なゲームとする、というのが政治家になる彼女が目標とするところだからです。

そういった準備を経たうえで、ようやく記憶と「実際のゲーム」が絡みます。先述の大学教授と、その学生たちとで作るビデオゲーム「チャンドゥク」が登場するのです。チャンドゥクは脳波を用いて操作するFPSで、たとえば、さまざまな脳波≒精神状態に反応してさまざまな魔法を発することができます。「楽しい」と感じると回復したりもする。当然、プレイヤーは勝ちたい、強い魔法を発したいですよね? そのためにはどうするのか。個人的なマントラを唱えて精神状態を制御することもできるのですが、もっともわかりやすいのは「過去の記憶を思い出す」ということです。

必然的に、現実の過去とそうでない過去が混淆しはじめます。強い魔法を出そうとするなかで、記憶が錯覚されはじめます。たとえば自分には妹がいなかったはずなのに、妹のでてくる記憶を呼びおこす、あるいは無意識に呼びおこされる。まるでそれが自分にあったかのように錯覚することになる。したがって、そのゲームのキャンペーンモードによってプレイヤーの過去(の断片的な記憶から生まれる印象)を操作できることが示唆される。お話としては、大学教授はこれを使って、政治家の躍進に対して最後の抵抗をしようとするのですが、それはともあれ。

自分には、記憶というのは特権的な概念であり、アイデンティティを構成するそのほかすべての要素はこれに従属するんじゃないかと考えているフシがあります。記憶というものがあるかぎり、人間はテセウスの船にはなりえない。単純に言えば、自分というのは過去の記憶のことだと。現在のむきだしの欲求にまつわる、未来への意味もない不安にまつわるエモはすべて過去から生ずる。ことここに至り、テンプレートたる「ゲームに絡めて過去の記憶を語る」は「ゲームと不可分に絡まった自分を語る」ことになります。


『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』において、過去に楽しませてくれたゲームの思い出によって、未来においてもゲームを楽しみつづけたいと考え、過去を賭けて人工脳移植を決断しようとします。『ゲームライフ』では過去についての語りがゲームという体験を通さずにはいられないものとして現れます。『ゲームの王国』においては「ゲーム」と「自分」との主従があいまいになります。そして、ゲームの持つ最も重要といってよいエッセンスである「ルール」の話がじわじわと人間の生に対応付けられているのを見ていけば、「ゲームを語る」のがブロガーのテンプレートでいいんじゃないかという気さえしてきます。

だんだん牽強付会になってきたな……。ゲームを語れと言いたいというところに辿り着いてしまったんですが、それでいいのだろうか、そうでもないような気がするぞ……。

廻廊 - ねじれ双角錐群

そんなわけで、告知です。ずいぶん久しぶりに小説(たぶん小説)を書いて、同人誌に寄稿させていただきました。ゲームの話にしようと決めて、ひいこら言いながら書き終わってから、上記の本を読みました。牽強付会になったのはそのせいであって、仕方のないことだったんだよ!

では、以下で詳細をご覧ください。梗概も載ってるよ。

https://nejiresoukakusuigun-kairou.tumblr.com

本来ならば掲載作の感想など書くべきなのでしょうが、もはやちょっと長くなりすぎました。ここまで長々と読んでいただいた方なら興味を持っていただけるはずですよね! 2017年11月23日(木祝)、文学フリマ東京 E-19のブースに、みんな来てくれよな! 僕は当日行けません! ヨロシク!

東京日記(その1)

正月のうちに書こうと思ってたんだけどなんやかんやで抵抗があったのかもしれない、でもなんか、Twitterで書くと言っておいて書かないのも癪なので書きますけど、たぶん機が熟してきているはずだと思っていたのにそうでもなかったのあなという感じで思い直しつつもあることを書きますけど、そうです、大学院を辞めたときの話です。

ずいぶん記憶が薄れていますから、ひとまず順を追って話すのがよいのかもしれません。そうだ、書きながらまとめていくスタイルだ!


遡ること6年前、僕は意気揚々と……とはいかない、むしろ不安をもってこの地東京にやってまいりました。都会に出てきたいんだと思った末に京都を選んで、イヤーコリャ都会ジャと思ったのも束の間、やっぱり東京というものに行ってみなければ日本における都会のことはわからんぜよという気持ちが、今になって思えばいちばん強かったのでしょう。大学院生になるというのが名目だった──そして名目でしかなかったのが最終的に災いしたのですが──けれど、東京ってどんなところやいっちょ見てやろうじゃないかとやってきた東京(くるり)とそれにともなう勃起不全、そして少々の山手線一周を携えて住みました北区は王子。とりあえず春? 春はなにがあったっけかなーと思ったけど、どちらかというとインターネットにおける交流をオフラインに展開することの楽しさを知った時期だった気がします。

話が脱線するんですけど、個人的にはオフレポってどうしも書きたくないんですよ。いや、読むのはべつにいいし、会った人が書いてくれたりなんかすると嬉々として何度も読み返したりするんですけど、自分ではできるだけ、会った人のことを書かないでおこうと。書いてもらったのを読んで嬉々としてるんだったら汝の欲するところを為せよコノヤロウと謗られるかもしれないのですが、これたぶん昔すごく好きで読んでいたテキストサイトオフレポになったとたんぜんぜ面白くなくなった(ように感じた──予防線)からなんだと思うのですけど、自分にはこういうのを面白く書けるのだろうかと振り返ったときに無理だなっていう感じがどうしてもしてしまうというか、僕のオフレポなんか読みたいですか? そんなわけないですよね。僕も僕のオフレポなんか読みたかないです! えっ、僕のブログなんて読みたくないって? ここまで読んでるお前が何を言ったってそんなことは聞いちゃやらねえぞ。

閑話休題。そんな感じで、勉学というよりは、おお、人なんだなと思ったというのが2009年の前半なんだったんじゃないかという気がする。けっこうリアルな人と人との関係というのを見直したという殊勝なまとめ方になる。勉学・研究というよりはと断わったということからも分かるとおり勉学・研究としては散々であった。散々であったというか、あからさまに散々の片鱗が見えた。そもそも朝起きられないという生活習慣の問題から、だいたい東京来る目的が東京に来てみたいということだったところからしてなにを研究するかなどあいまいで、そりゃうまくいくわけねえだろという気がする。ハードワーキングする気ももともとないのだから同情するアレがない。というわけで2009年の前半は終わった。研究室の先輩がたとは楽しくやれていたように思うがそもそもインターネット人格がバレたというのは痛かったような気がする……が、今となっては後悔していないです!(私信)あと、夏の愛媛はいいところでした。

さて、2009年も後半になってくると、そういった諸々がだんだん重みをもったものとして響いてきます。いままでは誤魔化せていたものが誤魔化せなくなってくる。なんにも進まないしなんにもしない日々が続いて、たしか11月に入ったくらいだったかしら、しばらく研究室に行かなくなったことがあった。行かなくなったねー。ひきこもって何をしていたのかも正直あんまり思い出せない。アニメ見てたのかな。しばらくインターネットからも姿を消してみるあの手法を駆使することによって研究室の先輩に心配をかけてしまったということで(心配をかけることが嬉しいという気持ちが自分になかったという発見があった)、ちょっとがんばろうという気持ちを見せつつ年を越したり越さなかったりした。年末にインフルエンザに罹患し中間発表を休んだのは、仮病だったんじゃないだろうか、たしか、いや、よく覚えていない、もしかしたらほんとにインフルエンザだったような気もする。普段から嘘をつきまくっていると(言霊とかそれによる無意識の支配とかじゃなく)そのバリエーションのためにだいたい嘘じゃなくなるという瞬間がホイホイやってくるというのが持論である。病的につまらない嘘をつく癖はいまだにある。が、このときは結局インフルエンザだったのだという状況証拠がさっき出てきたのでたぶん実際そうだったのだろう。年を越した。

年が明けて、研究もなにもできていないにもかかわらずとりあえずをとこもすなる就職活動というものをしてみんと(略)した。わりと素直で保守的な人間なんでわりと普通にやった。というか研究室もう行きたくないという感じになっていたのでなんかやる気? が? 出た? 感じだった覚えがある。わりと普通にスーツ着てあっち行ったりこっち行ったりしていた。普通に内定出た。某鉄道会社であった。

なんかここまで書いてみて思ったけど、大学院を辞めたことの検死解剖にはまったくなってないな、まあいいか、あとでやろう。で、そうだ、そのころにはもう年度が変わっていたということになりますがそこからがだいぶつらかった。たぶんいちばんだいぶつらかった時期なんだと思うのでちょっと詳しく思い出してみることにする。待て次回。

最近短歌がマイブームです(ではありません)

連想を夜道の上で韻を踏む蒔種に遅れたバアちゃんの夢

今やもうラブライブ!2期もひと月半正の字を書く衛星の椰子

三白眼RPGツクールと打ち捨てられたOculus Rift

棒立ちで野で笑むデフォルメキャラクター初期衝動と歴史の丘と

限りなく遅延し極む官能のドジッ子と下痢さまようラブコメ

(Webと詩の)破壊を避けてゆっくりとその用法に変化を加えよ

飯田橋駅で嘔吐しシャツ汚しセンチメンタルSFジャーニー

うすうすの0.03mmかぶせてもなお10gigabit Ethernet

BASIC華やかなりしころに見た私の父のハイパーテキスト

土地の名を太鼓に乗せて連呼してモールス信号情報生命

ネカマしてチャHをする高校生ディスプレイにはクリトリス映え

アメコミの少年少女が雨のなかイカした墓碑銘パッヘルベル

サイバネの父が死んでも催さる砂漠の祭りの場面いくつか

ゴミ箱が曖昧になりビールの缶散らばった末築くこのアレ

美少女にリモコン向けられ電源を消さるブラウン管は俺の目

コロニーの黒板の下に残された黒板消しが学習をする

黒ペンで書いた図形を消すために赤いペン持ちカタカナ書いた

明後日の警句を埋葬するために夏の日差しに集う面々

エンジンを作るためには都市の肉集めて捏ねて魂入れて

遠い日に敷かれた道路の路肩には65階で夜這う老人

矢澤にこの聖性について、あるいは不憫なサブヒロイン列伝

序 - 矢澤にこ先輩について

今日は「ラブライブ!」というアニメーション*1の登場人物である矢澤にこさん(図1)というキャラクターについての話をします。

f:id:murashit:20130808234844j:plain (図1)

正直、ちょっと悩みました。この話をすることが政治的に正しいかといえばそうではないかもしれない。現代日本において自らの暴力性に無自覚なオタクは罪だ。こんなことを言ってもいいものなのだろうか……そう考えた末に、それでも、ひとつのまとめとして、醜い自己を理解するための一助として、私はここに書き残しておきたいのです。

矢澤にこさん(図2)というキャラクターがいます。

f:id:murashit:20130808234845j:plain (図2)

矢澤にこさん(図3)というキャラクターがいます。

f:id:murashit:20130808234846j:plain (図3)

そうなんです、矢澤にこさんというキャラクターが非常に良いのです。ここではひとまず、「良い」という表現を使っておきます。かわいい、というのはもちろんそうなんですが、それ以上のものがある。うまく説明できない。たとえば、その要素のひとつとして「あこがれ」のようなものがあるかもしれません。たとえば「気高さ」みたいな言葉で表現できるのかもしれません。……彼女がどんなキャラクターなのかを説明しはじめるとたいへん長くなってしまいますのでここでは割愛しますが、そういった複雑な感情、すくなくとも、自分で言葉を発明しなければ表現できない程度の感情があるんです。

たとえばと挙げた「気高さ」というものがなにか、私にはわからないのですが、ひとつベタな形態として「顔で笑って心で泣いて」というものであるのかもしれません。いつもはおちゃらけたキャラクターだ、いつもは人一倍強い子なんだ、でも、だからこそ彼女は感情を他人に見せようとしないんです、彼女はきっと、他人のことを信じていない。いや、信じていると自分では信じているのだけれど、信じていないからメインヒロインになれない。かもしれない。いやきっとそうなんだ。なあ、にこ先輩、そうだったんじゃないの?


破 - 一般化不憫混合モデル(GPMM)

「きっと、お話のなかでは信じていたんでしょうね、きっとね」なんて、彼女のことを(そしてこれから説明する「不憫」なキャラクターたちのことを)人を信じられない人間(キャラクターを信じられないキャラクター)だと主張するなんて、ひどいことだと、すくなくとも僕は思うのです。まんがいちそれが「ほんとうの」人間だったらば、そういった行為がどうしようもないクズみてえな行為だということを誰もが知っている。……では、想像上の少女の内心を忖度することはどうなんでしょうか?架空少女の心の裡なんて誰にもわかりやしないのだから、正しいものなどひとつもなくとも、ただ尤もらしい解釈というものはおそらく存在し、その妥当性を問うことはできるが倫理的な問題ではない。そういう考えかたなのでしょうか。これは信念の問題なのかもしれません。が、そのうえで愛しているのだからという自分勝手な醜さをもって、僕は彼女たちの内面を忖度して、最大限に悪意をもった貧困な想像力をもって「不憫」だって、まだこの時点になってさえ、飽くなき追求の手を僕は緩めない。

だって、疼くんですよ、僕のなかの暗黒の血統が疼くんです、彼女が涙を見せるのは、最終的に信じたからじゃない。でも最終的に信じられたからでもないと俺のゴーストが囁くんです。 ……ほんとうでしょうか?「私にはこういう形でしか決着をつけられなかったんだよ」という醜さが「気高さ」なんでしょうか?。「あこがれ」る原因なのでしょうか?さっきと同じこと言ってる気がするな……?

……これはべつに矢澤にこさんだけを心の裡に想定しているわけではありません。最近のアニメーションから例を挙げるならば、櫛枝実乃梨さん(図4)であったり、

とらドラ! Scene5(初回限定版) [DVD] (図4)

佐天涙子さん(図5)であったり、

とある科学の超電磁砲 第6巻 〈初回限定版〉 [Blu-ray] (図5)

谷川柑菜さん(図6)であったりに対しても似たような感情を抱くのです。

あの夏で待ってる 2 (電撃コミックス) (図6)

One-to-manyのマッピングです。とくに谷川柑菜さんに関しては、本編のアニメーションの内容を正直あまり覚えていないというか、「(これは)柑菜さんだ」と気がついてからは、本編を見るのさえやめてしまいました。もともとのお話がどうなっていようと、いちどラベリングされてしまえば恐しいことに、彼女は、彼女たちは私のなかでの評価を覆すことができなくなってしまう。残酷な話だと思いますか?そうではありませんね、態度のなっていないお前の敵が私、こいつはまた!ゴミクズみたいな人間だという!それだけの話ですね!!


Q - YOU CAN (NOT) REDO

「当て馬ばかりが好きなんですね、趣味が悪いなあ。ヒロインに寄りつけないことの代償行為なんですよね。気持ち悪いですよ?」

「……今の君みたいにネチネチと嫌味を言いつつも見捨てはしないでいてくれる人を想像しているんだから、そんなの仕方ないだろ」

「そんな彼女を救えるのは自分だけだと陶酔するんですか?そんな彼女が大学を卒業して社会に出た金曜日の夜に大衆居酒屋で煮込みを頼みつつビールを傾けるそばで愚痴を聞いていたいと思うんですか?……最低……ですよね?」

うん、最低なんだ、すまない。これは両輪のうちの片方に過ぎないんだけど……と言い訳してみても仕方がないね、事実としてそこにあるんだから。そこだけ都合良くOne-to-oneなんだ。いきなり女性キャラクターを登場させてツッコませるスタイルをとることで幼稚な客観性を担保しようとする姿を何度となく見てきたというのに、「それでも君はそれを続けようとするの?」

当て馬あるいは噛ませ犬は当該物語内において大団円に関わってこない。というか、それこそが彼女の定義で存在意義でもあるがゆえに好き(好き?)になってしまうのだからどちらが先か分かったものじゃない。いや、わかってるんだよ、わかってるんだってば、これが一種の蔑視であり安全圏から二次元の少女に対して余裕綽々の視線を送っているだけだろう巫山戯るなというあなたの言い草はまったく正しいのでそこはすみません、ブックマークコメント、Twitterのリプライ等でいただけましたらと思います。思うのです。

かつて感じた、もうやり直せない烙印がこの頭皮にあります。


次回 シン・不憫少女劇場版:||

そして、話を気高さに戻さねばなりません。いったいそれは、ほんとに気高さだっていうんでしょうか。なにかちがいませんか?たとえばラブライブ!ならば、ほんとうの(一般的な?)気高さというのは高坂穂乃果さんを指すべきじゃないかという話はある。しかし彼女が一人独立しているでしょうか。僕にはそう思えなかった。そして見方によっては矢澤にこさんだって一人で独立していないと主張したい方だっておられましょうて。しかしだな、そうじゃないんだ、そうじゃないだろう。すくなくとも彼女はそれを認めないぞ。人前では認めないだろう。そして自分でもそれを信じていないだろう。最後には、信じていなかったことに気がついてすべてを失ってしまってから気がつくんだろう。

にこにー妄想を書き連ねてみる、でもって、否定してみる。ローカルファイルにそんなものが積み重なってゆく。誰もがいちばんのにこにー好きになりたいのかもしれない、それがサブキャラの運命なのだろうか、そして、僕はその列車から降りることができるのだろうか。

一度知れば、あとは彼女が仮面を被っている姿だけを見ていたい、それは一種の独占欲?なのかにゃー??


※以下参考資料です

http://sakasakaykhm.hatenablog.com/entry/20110528

サカウヱさんによる「不憫かわいい」という概念の誕生について

http://d.hatena.ne.jp/sfll/20081107/p1

死体性病氏によるみのりん

https://www.google.co.jp/search?q=%E4%BD%90%E5%A4%A9%E6%B6%99%E5%AD%90+%E8%83%BD%E5%8A%9B%E3%81%8B%E3%81%81

佐天涙子さんのSS(大丈夫!2ちゃんまとめだよ!)

https://www.google.co.jp/search?q=%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%9F%91%E8%8F%9C&tbm=isch

はい、谷川柑菜さんの画像です。


……あっ、以上です。

ラブライブ!  (Love Live! School Idol Project) 5 [Blu-ray]

*1:もともとがアニメというわけではないのですが、ひとまずそういうことにしてください

ピンチョンの新作の話

"Bleeding Edge"というタイトルらしいピンチョンの新作。

http://www.amazon.co.jp/Bleeding-Edge-Thomas-Pynchon/dp/1594204233/

なんだか日本語でまともな情報がないので、Amazonの簡単な紹介を適当に訳したものを置いておきます(ガシガシ突っ込んでいただければ幸甚です)。

2001年のニューヨーク、ドットコムバブルの崩壊と911の悲劇の狭間の凪。ゴーストタウンと化したシリコンアレー。Web 1.0は思春期の苦悩のただ中にいて、Googleの株式公開はまだ先、マイクロソフトが依然として悪の帝国と見做されていたころ。動く金はかつてと比べものにはならずとも、残りものをかき集めようとする詐欺師どもには事欠かなかった。

マキシン・ターノウは、アッパーウェストサイドでちょっとした投資詐欺の真っ最中、畑違いの小物ペテン師を追い掛けている。合法だったころもあったけれど、いまじゃ彼女のライセンスは剥奪された。だけど本当のところ、そのほうがありがたかったんだろう。いまや自らの倫理規定だけに忠実でいればいいんだから——ベレッタを携え、ならず者と取引し、銀行口座をハックする——そんなことに罪悪感を覚えずにいられるんだから。それを除けば、マキシンは平均的な——小学生の二人の息子、前夫といえなくもないホルストとの時折の交流、ご近所さんのなかでもこれ以上ないほどまっとうな——ワーキングマザーだ。とはいえそれも、コンピュータセキュリティ会社のファイナンスと、そのCEOである億万長者のギークについて調査しはじめるまでのこと——たちまち彼女は、地下鉄の雑踏、ダウンタウンの深みへとハマっていく。アールデコ調のモーターボートに乗ったヤクの売人。ヒトラーの髭剃りあとに取り憑かれた密告屋。靴擦れに悩む新自由主義者の用心棒に、ロシアンマフィアたち。ブロガー、ハッカー、IT土方に起業家。なかにはミステリアスな死にざまを曝す奴さえいて——そりゃもちろん、殺られたってことだ。

アンダーグラウンドWebへの小旅行をきっかけに、ピンチョンはロングアイランドという土地を通じて、内なるユダヤ人の母と交感しながら、インターネット黎明期のニューヨークを舞台とした大河ロマンスへと物語を導いてゆく。さして昔の話でもないはずだったのに、宇宙的な高みへと連れ去られてしまう。

法の網を掻い潜る真犯人は明かされるのか?マキシンはハンドバッグから銃を取り出さなきゃならないのか?マキシンとホルストは元の鞘に戻れるんだろうか?ジェリー・サインフェルドは予定外の客演を果たすのか?俗悪と業は清算されるんだろうか?

なあ。誰が知りたがってんだ?

何言ってるかマジで分からないんですが(何度も言うけどマジで英語苦手なんですって)、ついにピンチョンがインターネットの話をしてくれることだけは理解できました。

今日はそんなところです。