構造素子 - 樋口恭介

読んだ本の話を迂闊にする、いいね?

構造素子

たいへん良かったです

どこからはじめればいいのかわからないのですが、まずは手前味噌に、ひとことの感想としてtwitterに書いたものをとりあえず引いてきます。

『構造素子』たいへんによくて、この形式で書いていいんだというのを完成度をもって示してくれたのが嬉しくて、さらには、我々(自信を持って言っちゃう)はこれをさらにおもしろくする言葉の使い方がきっとできるんだ、この先飛び越えられる礎石にしてやらんという意味ですごく勇気づけられる感じがした

だからぜひあなたにも読んでほしいのですが、これだけだと、とくに読んだことない人とかだとなんかわからんよな。だったらそうか、読みはじめるにあたっての話から始めるとよいのかもしれません。

梗概から読む話として

どんな話かといえば、基本的には、作中作が出てきて、それが階層的に重なり語りがそれを行き来する話で、それを束ねるのが「物語」そのものであり、父と子の話である、くらいにまとめさせてください。こういったまとめ方というのは人によるもので、どこに注目したかが如実に出るよね。

よくある、説明するのが難しい小説のひとつではあるのかもしれません。そうなると、ははあ難解なのかなという雰囲気が急に出てきます。でもそうじゃなくて……いや、どうしても気になるなら、巻末に示された梗概が非常によくまとまっているので、先にここを読んでしまうのはどうでしょうか。読んでみれば構造としてはそれほど複雑なものではないことを了解できるでしょう。そして、べつにこの構造を読み解いていくことに本書の楽しみはない……と言ってしまってよいと思います。だから先に梗概を読んだらいいと思うんです。

構造/モデルの話は前提にあって、でもそれだけじゃなくて……

ただ、この梗概がよくできすぎている。これは本書にとって必然なのですが、ほんとうにこの梗概どおりの小説であり、そういう意味では説明するのが非常に簡単な小説でもある。読みはじめるにあたっての話とか言っていたが、ここからいきなり本題に入ります。

言ってしまえば、梗概だけ読みとってしまえば本書を読むことの半分は完全に達成されるとさえ言えてしまう、と僕は思いました。梗概で示されるこのモデル、この構造にのっとってこのひとまとまりの小説が書かれていることそのものが、本書が達成した一側面であった(と僕は考えた)からです。言い方を変えると、梗概がこうやって(今ここに梗概を示せないから「どうやって」なのかわからないと思いますが、雰囲気を感じてくれ! 頼む!)すっきりと書けること自体がすでに一つの特徴なんです。構造/モデルが簡潔に完結し完成されている。

構造が重要だったり重要でなかったり、いろいろな小説があります。が、たぶん自分はどちらかというと構造が好きなほうの人間で、あと言葉は人並みに好きな人間で、その結果、文章を読んでるときなどに、粗筋とかキャラクターとか表現の良さとかよりも、たとえば図式的な構造と細部の形式との呼応などに必要以上に反応してしまうところがあったりしそうです。

ただ、じゃあ(それを評すときも含めて)構造語りをされているのを読むのがおもしろいかというとそうじゃないんですよ。構造を示すのであれば最初から図を書けばいいわけなんですよ。そして図を鑑賞すればいい。それはきっと、十二分に楽しいことで、みんなで図を持ち寄って鑑賞しあい感想を言い合いすることをぼくはしたいし、なんならそういう雑誌とか本とかwebサイトとかあるとよいよな……図式文芸がしたいよ……そうなってくると、もはや「なんで言葉を使ったものを図式に還元しなきゃならんのよ」という話になる。

そこで、「もちろんその構造とやらはあくまで半分であって、もう半分こそが小説の本文そのものに立ち現われているものではあります」という話にはなります。図式の話をからめると、冗長である本文。部分的には書かれなくてもよかったものであるものが全体に及んでおり、70パーセントなくなっていても成立するだろうし、逆にさらに冗長に、500パーセントに増えていても成立するものである本文。書かれなくても書かれても、さらに書き加えられても良かったものが小説としての体をなしていることがもう半分の側面です。われわれはじゃあ、どうして言語なんてものをつかったお話を読んでいるのかというのは、(本書のなかでも答えが出るような出ないような形で放り出されていますが)自分にとってのそれは、さっきちょっと触れた「呼応」をもうすこし一般化したものです。

冗長でさえある本文を書くこと、その豊かさ

さて、先ほどのを逆に言えば、構造だけではない面白さがあることが、わざわざ言葉なんて使っている理由ではありましょう。当然ながら喋り方は構造に従属するものではあるんですが、わりと雑に言えば、構造に対してさらに喋り方をかけ算できるというのがそれです。

(そういえば、新規な構造というのを考えるのがうまいという人といえば円城さんかなという感じはありますが、ただ、こと語りの部分にほとんど常にいちばんシンプルなものを置くので、そういう意味では、やや前記の図式でええやんの話につながってしまう気もしないでもないです。いや、めっちゃ好きなんですけどね)

少なくとも僕はそうなんですが、そしてそれなりにそういう人たちがたくさんいることを僕はインターネットなり書籍なりで確認しているんですが、その関連の先に沃野があるということを、けっこう前からずっと思ってくれていたんじゃないでしょうか。いや、昔の小説みたいなものだってそういうのあるだろうとか言うかもしれないスけど、それが最優先にされるところをメインストリームの一部として持ってこようとしたものはなかった……ということにしてくださいッス。無制限の実験場にしたところはちょっと知ってると思う、それはともかく、あったらぜひ教えてください。

(円城さんの話を出したからさらに続けるんですが、ここ数年で読んだもののなかでは、今回の話に比較的近いのは、上田さんの『太陽・惑星』だったようにも思います。が、喋りがべらぼうにおもしろいわりに、構造が未完成な気がしてしまったんだよなあ……)

ええと……なんの話だっけ、そうだ、僕は、僕たちは、そのかけ算の豊かさをずっと指向していたのでした。ただ、少なくとも僕には自信もなかったし、馬鹿にされるのが怖かったし、なにより力も根気もなかった。

(あと、ついでに軽薄に言ってしまうんですが、なぜか本書を読んだときに、感触として近いのはなにかと思ったときに、最初に思い付いたのは埴谷雄高でした、なぜだ?)

そんななかで、やり方としてはまさにそれでしかないという意味で完成されたものがここに現われたんですよ。しかも、ここで現れる構造/モデルは、どこかに仮構したものの上に立ったわけではなく、仮構することも含めた物語る宇宙全体を扱ったモデルである。いきなり志が高いな。じゃあ、よろこばしくないわけがないじゃないですか。

その一方で実は、喋りは不完全だったとも思いました。ただ、だからこそ、すべてを覆いつくすものでなかったからこそ(というか、それは責めるべきところじゃなく、原理的に不可能と思うので、そりゃそうなんだけど)、この豊かな平原のうちの基準点として現れてくれた。これがあれば、僕らはそこへ自信を持って踏み出すことができる。距離を測るにも方位を測るにも、この地点pがあれば僕たちは恐れずにいられるんだという、そういうものであったと思うんですよ。

総評

ここで示されるモデルは良い意味で単純で、かつ意欲的な構造になっている。構造に関していえば、完成されていることはなによりも外せないのですが、とはいえそれは完成していればよいのです。まずそれがある。そして評価の尺度になるのは、ここで示されるモデルに従ったと思われるこの語りがベストなものかどうかという点で、僕はベストなものであるとは思わなかった。おう、なんだったら、この構造なら俺のほうがうまく喋ってやれるよとか言っちゃおうぜ。ただ、こういうこをを言えるのは結局本書があってくれたからってことです。きちっと一つのモデルを示し、それにもとづいて書き切ってくれたんだから。これを書いていいんだという勇気を与えてくれたのだから。この沃野を進んで、開拓していくであろうこの先が楽しみになってくる、そんな一冊でした。

ちょっとあとで書き直すと思うんですが、いったんこれで提出させてください。