Self-Reference ENGINE - 円城塔

予想に反してすごく反自然的な小説でした。なんていうか、前期ヴィトゲンシュタイン的な意味において。
Self‐Reference ENGINE (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という命題において理解しなければならんのはもちろん「何が語りうるものなのか」ということであるはずだ。でもって何が語りうるかといえば、離散的な組み合わせであり、事実の総体なんだよな。

そんでもって、とりあえずこの小説のなかでの巨大知性体、つまり自然によって計算をなす存在*1についてもやはり量子的な意味で離散的であるという制限*2がつく。それが巨大知性体の過去改変の限界としてちょくちょく出てきているあたり*3この前提は覆されていないはずだ。ともかく、アルゴリズム的であろうとなかろうとそこにはやはり順列組み合わせしか存在しておらんし、物理的世界をそのように扱うばあいいくら遡及的に時間という次元をを処理しようともそれは変わらない逃れられない事実なわけだ。


だからこそ「なにか語りえぬもの」をもつ人間がどこか特権的なものとして描かれているあたりにその「反自然的」というものを感じたわけで。言い換えるならば「加算無限としての巨大知性体」と「連続体濃度を持つが有界である人間」という対立ではないかということ*4。なんかあれだ、ナウシカの結末部分を読んでるみたいな気分になった。不完全性定理があってよかったね、というか。


自己消滅するオートマトンとかエコーのあたりの話についてはまた考える。むー。

*1:p86あたり。僕はこれ、真理関数による写像を介さずに世界を論理的に処理していると理解した。

*2:制限というとちょっと違うか

*3:"Japanese"での日本語の解読が組み合わせ論的になされているところや、"Sacra"におけるペンテコステIIの崩壊の過去を改変できないことについて、これを熱ゆらぎによって説明しているところとか。それにしてもラプラスの悪魔不確定性原理を前提とした上でもういちど持ち出しているあたり、エヴェレット解釈をさらにギャグみたいなかたちで解釈しようとする悪意みたいなものを感じる。

*4:有理数という数の体系から無理数を導き出すことは可能であるし、だからこそピタゴラスはあんなに困っちゃったわけじゃない!