『フィクションとは何か』- ケンダル・ウォルトン(中間まとめ)

第2部までをまとめてみよう、というエントリ。前半だけでも二段組300ページあってそれなりに分厚いのは、ウォルトンの理論自体が思ったより複雑なのもあるが、それよりもとにかく例示が豊富なことが原因のように思いました。それらを読むのはとても楽しいものの、本論なんだっけ?ともなりやすそうなので、とにかく手掛りを残しておくにしくはないということで。

それにあたり、まずは以下にこれまでの章のメモを挙げておきます。こうした自分の理解(かなりあやしい)およびいくつかの追加的な文献を参考にして1、本書のなかでどんなことが言われているのかを、せめてもうちょっと短くまとめてみたいというのが本記事です。

まず、本記事での用語についての注意。

  • 「本書における、より一般的な意味での(通常使われる意味より拡大された)ごっこ遊び」を メイクビリーブゲーム、「文字通りの、子供たちが遊んでいるようなごっこ遊び」をそのまま ごっこ遊び と呼ぶ2
    • 本書の翻訳における用語法(どちらも「ごっこ遊び」と訳されている)とは異なることに注意
    • この用語法に準じて言えば、「各種芸術鑑賞は(ごっこ遊びをひとつの範例とするような)さまざまなメイクビリーブゲームのうちの一種である」とするのがウォルトンの立場ということになる
  • 本書の「フィクション」の語はカテゴリとしてかなり広く、通常の用法とのズレが大きいこともあり、この語を使うことは可能なかぎり避けたい。また、そもそも事物のカテゴリは最初にはっきりさせておきたいというわけで、以下のように整理しておく。いずれも下側が上側の部分集合であることを意図している
    • 小道具:現実の事物のうち、「なんらかの命題や体験の想像を命じている」ものごとをすべて含むカテゴリ
      • ごっこ遊びの参加者」「芸術作品の鑑賞者」や、メイクビリーブゲームに伴う現実の出来事や状況なども含まれる
      • 一般的に用いられる「小道具」の用法とはかなり異なっていることに注意(このへんの事情は「ごっこ遊び」に似ている)
    • 表象体:小道具として働く社会的な機能を持ったもの。ウォルトンのいう「フィクション」はおおむねこれと同義(かなり広い!)
      • いわゆる「モノ」でないような事物は除外される
      • また、切り株をクマに見立てるようなごっこ遊びにおける切り株など、アドホックな(そのような社会的機能を持たない)小道具も除外される
      • メイクビリーブゲームの参加者もやはり除外される(アドホックな小道具であると考てよいか)
    • 人工的な表象体:表象体のうち、表象体となることを意図して人工的に作られたもの
      • 星座などの自然にできた表象体が除外される。「そのように意図した作者がある表象体」と言い換えてもよいか
      • 本書の中ではあまりはっきりとは明言されていないカテゴリだが、ここではわかりやすさのため置いておく
    • 表象的芸術作品:人工的な表象体のうち、芸術作品として作られたもの
      • ごっこ遊び用の人形など、一般的に芸術作品として考えられないものが除外される
      • 芸術作品ではない人工的な表象体とは本質的な違いはないが、「鑑賞」と「ごっこ遊び」を区別したいとき(制約の度合いや、批評的な見方が介在する度合いの違いがある)などに便利なためこちらもやはり置いておく
      • 「表象的」と限定をつける必要があるのかはよくわからない。本書の立場では通常「芸術作品」とみなされるものはすべて表象的、くらいに考えられそうだとは思うのだけど……(というわけで、以下でも単に「芸術作品」と呼んでいる)
  • 「虚構的真理」という表現も、虚構性の真理性からの独立という観点から言えばやや混乱しやすいため、これも可能な限り避けて「虚構的に成り立つ」を使う
    • ウォルトンが虚構性と真理性、想像と信念をそれぞれ並行的なものとして捉えているという点で重要ではあるが、それについてはいったん措いておく

前置きがすでに長くなってるのですが、ともかく(わたしの理解の範囲では)本書におけるウォルトンの立場の際立った点は2つあります。

  • 「言語的フィクションだけ」「絵画的フィクションだけ」等と限定せず、幅広い芸術作品やごっこ遊びの小道具までもを包括的に扱う
    • いかにも「虚構世界」「物語世界」「作品世界」的なものを持っていそうな作品だけではなく、(その正当化がうまくいっているかはともかく)抽象絵画や純粋器楽曲なども含む
    • ただし、「制度とはフィクションである」といった「フィクション」の用法までは広がらない(そもそもかなり性格が違い、「実在していない」といったニュアンスのものだし)3
  • 芸術作品に対して、鑑賞者(参加者)の体験からアプローチしている
    • これは統語論的なアプローチや意味論的なアプローチでもなく、また、語用論的であっても作者の意図からのアプローチ(言語行為論的なものなど)でもない4
    • これによって、いくつかの問題は独特ながらある程度説得力のある形で解消できているように見える。たとえば「何が虚構的に成り立つか」の不確定性や矛盾の問題、芸術鑑賞の際の情動の問題など

続いて、これを念頭に一問一答(一答になっていないが)形式で考えてみます(なお、ここでは芸術作品を扱うということで便宜上作者視点から始めていますが、先述のとおり本書のアプローチとしては「鑑賞者がなにをしているか」が先行していることに注意してください)。

  • 芸術作品の作者は何を作っているの?
    • 一連の命題や体験を想像することを鑑賞者に命じる機能を持つ事物(表象体)を作っている
    • 作者が「なんらかの言語行為を行うふりや偽装をしている」(サールなど)あるいは、作者が「なにか特有の言語行為を遂行している」という立場には立たない5
  • 芸術作品の鑑賞者は何をしているの?
    • その芸術作品を小道具とし、「生成の原理」のもとで命じられた命題や体験を想像している(その芸術作品を小道具としたメイクビリーブゲームを行っている)。命じられるもののなかには、鑑賞者自身に関する命題や体験も含まれる
    • このとき作者の意図はオプショナルで、小道具を通して間接的に作用する形に留まる(もちろんどんな生成の原理があるかなどを考慮して制作しているはず)。作者の範疇的意図はおそらく認めているのかな
    • そして、本書においては、「虚構的に成り立つ事柄」が「(小道具および生成の原理に従って)想像せよと命じられている事柄」と同値であるとされている(あくまで「想像されるべき事柄」であって「げんに鑑賞者が想像している事柄」ではないことに注意)
    • ただ、ウォルトンは後に立場を修正し、「想像せよと命じられている事柄」のうちの一部のみが「虚構的に成り立つ事柄」である(想像の命令は虚構的真理であることの必要条件にすぎない)としている。そして、どのようにその「一部」が選ばれるのかについては、(アイデアはあっても)はっきりとしたことは言えない、といった感じのようだ6
  • 「命題や体験を想像する」ってどういうこと?
    • 直感的にいえば「その事柄がある虚構世界において真であるという志向的態度をとる」みたいな感じになる、と思う。実際(方便として)この種の表現が使われてもいるのだが、本書の立場では本来「虚構世界」といったものを措定しない(われわれがそんなふうに考えてしまうこと自体は認めるが、理論的には不要)ことに注意
    • なお、本書ではこの「想像」という行為がどんなものかについてあまり踏み込んでいない(心理的な視覚化とかではないよ程度の話はしているが)。ウォルトンは虚構性を想像によって定義したうえで他の志向的特性と比較して特殊であるとするのだが、そもそも想像することがどんなことかについて十分な特徴付けを与えておらず、その特殊さが虚構性のほうから逆に説明されているように見えるため、やや論点先取のように感じた(もちろん読めていないだけってことは十分以上にありうるんだけど、このまとめではいったんそういうことにしておく)
  • で、結局「フィクション」って何?
    • つまり「表象体とは何か」ということだが、すでに述べたとおり本書においては「想像を命じるような機能をもったもの」以上でも以下でもない
    • 「現実と一致しているかどうか」や「作者がどのような信念を持っているか」と「フィクションであるかどうか」は関係ない。真理・信念と虚構性・想像は独立である
  • 小説の登場人物など、非現実の対象は存在するの?
    • 端的には「存在しない」という立場。そもそも存在する必要がない
    • たしかに素朴な意味での実在論は必要ないし無理があるとはいえ、抽象的人工物説(この場合は存在する)や様相的マイノング主義(この場合やはり存在しないが志向的対象にはなる)みたいなある程度洗練された立場と両立しないかといえば、前半を見たかぎりだとそこまででもないように見える。やっぱりこのあたりも、「想像」がいまいちはっきりしないせいなんじゃないかという気はする。いずれにせよ、このあたりは第4部で詳述されるはずなのでいったん置いておく7
  • 「生成の原理」って何? なにが虚構的に成り立っているかを決定するしくみってどんなものなの?
    • 上述したとおり「虚構的に成り立つ事柄」とは「想像せよと命じられている事柄(の一部)」ではあるのだけど、もちろん「命じられている」とだけ言われても困るわけで、小道具とともにその内容を決定する「生成の原理」について観察する必要がある。雑駁にいえば、(その小道具が芸術作品であったとして)芸術作品に直接的に「描かれている」ことについてはたいていの場合そのまま虚構的に成り立つ。また、その「描かれている」ことが含意する(描かれていることに反しないかぎりでは「現実」や「そのとき信じられていた事柄」、あるいはお約束などに沿う)ことも連鎖的な形で虚構的に成り立つ。そして、こうした原理はしばしば無意識に働いている。ただし、こうした機構は複雑で、シンプルな原理には還元できないよね、というのがウォルトンの立場。信頼できない語り手のような例もあるし、直接的に「描かれている」ことを特定するのも実はけっこう難しい8
    • 虚構的に成り立つ事柄が不確定だったり、矛盾しているように見えるケースもある。ただしこうしたことはとくに問題にならない。たとえば「ホームズの毛の本数は偶数である」といった命題の真偽が不確定であったとしても、それに関する想像をとりたてて命じられていないのであれば、たんに無視するなどすればよい。このような対処処理は、「虚構的真理」の問題を可能世界と関連づけて捉えたり、特定の言語行為として捉えたりする立場ではとりづらい方法ではあって、本書の特色となっている
  • 「鑑賞者自身に関する命題や体験を想像する」ってどういうこと?
    • 「自分自身がまさに○○している(語りを聞いている、風景を見ている……など)」といった想像を行うということ。これは単にその命題を想像するというだけにとどまらず、「一人称的に」想像してもいる。このようなとき、鑑賞者自身もメイクビリーブゲームの小道具となっているといえる(鑑賞者自身がそこにいるという状況自体が鑑賞者に関するある種の想像を命じていると言えることに注意)
    • 本書で「メイクビリーブゲームへの参加」とされるものはこのような自分自身に関する命題や体験の想像のことだと考えてよい(はず)。芸術鑑賞を含めたメイクビリーブゲーム一般において、このような「参加」は重要な役割を果たしている
  • 素朴な意味での「虚構世界」みたいなものとメイクビリーブとの関係は?
    • そもそも「虚構的に成り立つ」ことを「その事柄がある虚構世界において真である」と説明しているのはあくまで便宜上のことなのであんまり拘らないほうがいいような気はするのだけど、とはいえウォルトン自身、「作品世界」と「メイクビリーブゲームの世界」(というのは本記事での用語法に倣ったもので、本書のなかでは「ごっこ遊びの世界」)みたいなものを置いて区別しているので、ここでいくらか説明しておく
    • 上述のとおり、ある(個人的に鑑賞される)芸術作品の鑑賞者Aは、A自身に関するものも含めたさまざまな命題が虚構的に成り立つようなメイクビリーブゲームに参加している。このとき、その「虚構世界」、すなわち「Aのメイクビリーブゲームの世界」にはAに関する命題が含まれていると言える。しかし一方、別の鑑賞者Bからしてみれば、「Bのメイクビリーブゲームの世界」にはAに関する命題は含まれないだろう(もちろん逆も同じ)。そう考えてみると、その作品が小道具として虚構的に成り立たせている命題群は、「(生成の原理を同じくする、理想的な)どんな鑑賞者にとっても虚構的に成り立つ命題群」と、「鑑賞者ごとに異なる命題群」とに区別できるはず。このとき、前者のようなある種最大公約数的な?虚構世界のことを「作品世界」、後者のように鑑賞者自身に関する虚構的な命題を含む(そのうえで前者の命題群も含む)世界を「メイクビリーブゲームの世界」と呼ぶ
  • 「ホームズは名探偵である」などと言うとき、私たちはいったい何をしているの? ホームズは存在しないにもかかわらず、この「命題のようなもの」に対してなにかしらの「真偽」があるように思われる(そして、「真」であるように思われる)のはなぜ?
    • このように言うとき、私たちは一連のドイル作品を小道具としたメイクビリーブゲームに言語的に参加している(「まさに読んでいる最中」でなくとも参加できることに注意)。このメイクビリーブゲームにおいては、ホームズという登場人物が存在し、それが名探偵であることが虚構的に成り立っている。そして、このようなメイクビリーブゲームのなかでは「ホームズは名探偵だよね」「そうだね、それは真だね」などと言うことが自然であろう
  • 私たちが小説や映画などを見て「怖い」「悲しい」って感じるのはどういうこと?そんなふうに思っても実際に行動しようともしないのに!
    • そのように「感じる」とき、私たちはそういった小説や映画などのメイクビリーブゲームに心理的に参加している。このメイクビリーブゲームにおいて、鑑賞者自身が「怖い」「悲しい」と感じることが虚構的に成り立っている。必ずしも現実に「怖い」「悲しい」と感じているわけではない。現実には「準恐怖」などの「準感情」を備えた状態になっており9、それがなんらかの虚構的に成り立つ信念と組み合わさって、感情を虚構的に成り立たせている
    • フィクションと情動の話はけっこう奥が深いというか、いわゆる情動の哲学/感情の哲学みたいな本もいろいろあるんだけど、ここではいったん置いておく

以下参考にしたものなど(ちゃんとしたリファレンスの書き方になっていないのは許してくれ)。

ほかにも思い付いたら追記していきます。いったん以上。


  1. 特に依拠したものについては随時脚注で付記したうえで、本記事の最後にこれらを含めて列挙する。

  2. 高田の立場を引き継ぎ、シノハラ『物語の外の虚構へ』でも使われている呼び方。ちなみに同書では「小道具」も「プロップ」と表記されている。

  3. 「フィクション」という語の多義性と、本書を含めたいわゆるフィクション論が対象にする「フィクション」という語の用法についてはステッカー『分析美学入門』第7章や清塚『フィクションの哲学[改訂版]』序章なども参照。

  4. この各種アプローチに対するカテゴライズは清塚『フィクションの哲学[改訂版]』によるところが大きい。たぶんいきなり統語論的とか言われてもわからん(というか、『フィクションの哲学[改訂版]』が対象とする文学的なフィクション以外だとちょっとあてはまりづらい)と思うので、詳しくはそちらを参照。

  5. やや本筋から外れるが、語り手の偽装みたいなことをあれこれ考える必要がなく、「そのようにデザインされた」と考えればいいというのは見通しがよく、たとえば小説における不自然な語りみたいなのを考えやすいというのはありそうに感じる。一方、第9章ではそのあたり「語り」に着目していろいろ考察されてはいるようだ(が、未読)。

  6. Walton Fictionality and Imagination なんだけど、読んでいない!(また読みます)内容の紹介としては清塚『フィクションの哲学[改訂版]』第7章や、Kendall Walton「虚構性と想像」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめを参照。これらの紹介だけ読むと、本書の立場だけでも済ませられる事例も含まれてるんじゃないかという気もする。なお、ここから「いかに描かれるか」に着目した発展的な話題については、こちらも清塚『フィクションの哲学[改訂版]』第7章や、あるいはシノハラ『物語の外の虚構へ』を参照。

  7. 森「ウォルトンのフィクション論における情動の問題」の1.1項や高田「ストーリーはどのような存在者か」の2.3項にあるように、たしかにウォルトン非実在論の立場ではあるのだけど、後者でも見られるとおり、ざっくりと「メイクビリーブ説」として考えたときには中立的と考えられるような気もする。正直よくわからない……。

  8. これもシノハラ『物語の外の虚構へ』の受け売りなのだけど、たしかに描かれていることから直接メイクビリーブゲームを引き出すのではなく、間に描写の理論を挟むことである程度解消できるというのはあるっぽい(あんまりよくわかってない)。

  9. 準感情は感情ではない。したがって、「虚構的感情」といった感情の一種であるようなものではない。ではなにかというと、ある種の感覚や状態?であるというだけなのだが、ややこしいよな……この説明で合っているかもどうかあまり自信がない。

『フィクションとは何か』第7章のメモ

第7章 心理的な参加

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

承前: murashit.hateblo.jp

第5章で触れたフィクションのパラドックスを端緒に、ごっこ遊びへの参加者が演じる心理的な役割について見ていく。

実質的な本論となる第1部〜第2部の最後の章であることもあるのか、「これまでの話からこんなことも言える!あんなことも説明できる!」とどんどんトピックが出てきてまとめるのが大変だった……。

虚構として恐れること

第5章で出てきた、チャールズが映画のなかで襲ってきたスライムを「恐れる」という例を再度取り上げる。第5章時点では彼が感じた「恐怖」は現実の恐怖とは異なるもの(これを「準恐怖」と呼ぶ)であるとしか言っていなかったけれど、第6章の考察に従ってチャールズが自身を反射的小道具としてごっこ遊びに参加していることを鑑みれば、「チャールズがスライムを怖いと思っている」ということが虚構として成り立っている(したがって、たとえばチャールズが後に「怖かった」と報告することは、このごっこ遊びへの言語的参加である)と考えてよいだろう。

以下、これに基づいた観察。わりとまとまりなくいろいろなトピックが挙げられていることもあり、正直うまくまとめられている気がしない。たとえば子どものごっこ遊びの例とか、レーガン自身が舞台上でレーガンを演じている例、『アマーストの美女』をディキンソン自身が見る例などとの対比については以下ではほとんどオミットしている。いずれにせよ、(第5章でも触れたとおり)このへんのトピックに関してはいろんなところで検討されているため、それらを読むのがおすすめ……だと思う。

まず、チャールズについての虚構的真理は、彼の能動的なふるまいだけでなく、彼の置かれた状態(準恐怖という心理状態や、それにともなう身体の変化など)からも生み出されている。というか、映画鑑賞の場合むしろそちらがほとんどだろう。同じく自身を反射的小道具とみなせる例でも、誰かに向けて演じているときのように心理状態からは虚構的真理が生み出されないこともある(舞台上でレーガンを演じるレーガンの例)。

とはいえ、準恐怖だけでは先述の虚構的真理を生成するのに十分ではない。「『虚構としてスライムが迫ってきている』と理解した結果として、チャールズが準恐怖を感じている」という組み合わせがあってようやく「チャールズがスライムを怖いと思っている」という虚構的真理が生み出される。

そして、さまざまな虚構的真理とあいまって、チャールズが現実に感じる準恐怖、ひいては虚構的に感じる恐怖は変化していく。このような自らの準恐怖(の変化)にチャールズが気付くやり方は、現実に恐怖を感じていると気付く際のやり方と同じようなもの(ほとんどの場合、内観のようなやり方)だろうし、準恐怖が認識されているさまと虚構として恐怖が成り立っているさまとは実際に軌を一にしているだろう。こうして注意を向けられた準恐怖は、(既述のとおり虚構的真理を生み出す小道具であるとともに)「虚構において恐怖の経験であるもの」を想像するための想像のオブジェクトにもなっている。

また、チャールズは「自分が怖いと思っている」という命題を想像しているだけではなく、それをまさに自分自身の恐怖として「一人称的に」想像している(前章で深掘りされないままだった論点!)。

なお、ここで見た「恐怖が虚構的に成り立つ」こと(虚構性)と、現実にチャールズが(準恐怖だけでなく/準恐怖にとどまらず)ほんとうの恐怖を感じること(真理性)とは両立しうることに注意(このように排他的でなく互いに独立だからこそ、現実にどう感じているかに依存しない説明が可能なのだ)。

心理的に参加する

主に準感情について掘り下げていく。

そもそも前節のチャールズの例は、第6章で見た「聴衆への脇台詞」を含んでいるという点で特殊なものと言えるかもしれない(スライムが「こちらに向かってきている」のだから!)。では、たとえば「物語の登場人物を準賞賛/準憐憫/準軽蔑……する」といった脇台詞とは必ずしも関係しないケースはどうだろうか。

たしかにチャールズの例と比べて、ここで挙げた準感情は(虚構のうえでの)自分自身ではなく他人に向けられていることや、それを特徴づける心的経験を比較的特定しづらいことなどの相違点があるにはある。しかし、そのような違いがあるとしても問題はなく(そもそも感情の理論の問題だし、ここで考察している鑑賞に関する理論とは独立である)、チャールズの例と基本的に同様に扱ってよい。

その感情を構成するものが何であろうと、私が示唆したいのは、何らかのそういう状態ないし条件や、また鑑賞者がそういう状態や条件にいるということを虚構として成り立つように仕向けると自然に受け取られるような状況は、人が誰かを賞賛したりかわいそうだと思ったりしているということを虚構的に成り立つようにするのを助ける、ということである。私たちはそれを準賞賛や準憐憫と呼ぶことができる。だが、それが心的現象の経験でなければならないとは主張しない。

このように現実と虚構世界それぞれの心的生活は別個であるが、とはいえ重なり合い、密接に関係してもいる。ここでは割愛するが、歴史的人物を扱った作品を鑑賞する際のその歴史的人物への感情の例など。特に、必ずどちらが先にあるというものではないことに注意。同一視するのはもちろんナイーブな考え方ではあるのだが、かといって「いや全然関係ないですよ」というのも違うよね、というのは大事なところよな。

また、ごっこ遊びへの参加は当の表象体に直に接している間には限られない。本を閉じたあとや劇場を離れたあとにも続いていくし、多くの場合作品に直に接することは心理的豊かな長く続くごっこ遊びのたんなる始まりにすぎないかもしれない。

このほか、自分と登場人物との「同一視」についても軽く触れられる。公認のごっこ遊びではない(したがって虚構的に成り立っているわけでもない)が、それと並行して生じる想像活動ではあろうとのこと。現実でも似たような想像をしていることがあるはず。

悲劇のパラドックス

ヒュームによる有名な「悲劇のパラドックス」について。すなわち、悲しみや恐怖などそれ自体不快な感情を生じさせるような悲劇的作品を求めることがあるのはなぜか、という問題について。もちろん「今は気楽なものが読みたいな〜」などと避けることもあるが、それはそれとして。

ここまで見てきたように悲劇作品が現実の悲しみや恐怖をもたらしているわけではないとしても、それだけでは謎が残る。虚構性が関わらないケース(災害の報告など)においても悲劇作品と同様にそれを求める気持ちがしばしば起こるのだから。

この問題に対してウォルトンは、そもそも悲しみを「それ自体不快な」情念とするヒュームの特徴づけが誤っているのではないかと答える。

明らかに不快で、なければよかったと私たちが思うのは、自分が悲しいと思う その 物事の方——昇進しそこねたこととか、友人が死んだこと——であって、悲しみの感じそのものではない。悲しみがふさわしいような状況が存在することは望ましくない。しかし、そういう状況になってしまったことを前提とすれば、悲しみは まさに ふさわしいのであって、私たちはそれを喜んで受け入れるだろう。悲しみを経験するのを 望む こともありうるし、悲しみを経験しているという事実に、人は一定の喜びや満足感を見出すかもしれないのである。悲しむことは、一般に、悲しんでいるということについて悲しんでいるのではない。それは、悲しんでいるということに喜んでいるということと、完全に両立するのである。

ということで、なぜ欲するかについてはこれでOK(悲しみそのもののの経験に心地よさが伴いうるのだ!)。続いて、悲しみの対象に向けられた鑑賞者の態度のほうを考えてみる。

たとえば「ハッピーエンドは愚かしくて退屈である」と考えているアーサーが、しかし劇を見ながら「ヒロインが生き延びてほしい」と感じているようなケースを考える(ここで注釈でナボコフが引かれてるのちょっと笑った)。「救われてほしい」的な気持ちを抱くこと自体が悲劇へのアーサーの高い評価の重要な部分を構成しているわけだが、ここでアーサーは対立する利害に引き裂かれているのだろうか。

結論からいえば、これらの欲求は現実においても虚構的にも対立していない。なぜなら、アーサーは現実に「ヒロインが救われてほしい」と思っているわけではなく、「アーサーがそのような気持ちでいることが虚構として成り立っている」というだけのことだからだ。アーサーが現実において欲しているのはあくまで「ヒロインが残酷な結末を迎えることが虚構として成り立つこと」である。

サスペンスとサプライズ

すでに読んだことのある作品やストーリーが広く知れわたっている作品を鑑賞するときでも、まるで内容を知らないかのように楽しむ(「不安」や「驚き」を感じる)とはどういうことか、みたいな話題。なお、「どのように語られるか」といったことに着目するような楽しみはもちろん別個にあるが、ここでは考えない。というわけで、そう、ネタバレの話だ!!!1

こうした例は、以下の2つの「知識」が分離しているものとして定式化できるだろう。

  1. 私たちが虚構として成り立つと知っている事柄(現実の知識)
    • 再読であるためすでに持っている(逆に言えば、初読ではおそらく知らない)、あるいはネタバレから得てしまう知識はこちら
  2. 虚構において私たちが知っている事柄(虚構的に成り立っている知識)
    • 言い換えれば、鑑賞というごっこ遊びのなかで「知っていることになっている」事柄

これをもとに、「分離」は以下のように整理できる。

  • 虚構的には知らないが現実には知っている
    • 再読やネタバレの例はこちら。分離しているといえばこのケースであることがほとんどだろう
    • このとき、ふつうは「初めて知ったふりをする(知らないふりをする)」ような形のごっこ遊びを行うだろう。そして、不安や驚きはそのたびごとに虚構的に現前しうる
    • 現実の生活では何かを言うことが新しい情報を与えることをしばしば含意することからいっても、このような(形のごっこ遊びが公式であるような)作品が大部分なのは自然なことだろう
    • 再読であるとしても毎回の鑑賞は別々のごっこ遊びであることや、ネタバレを知ったタイミングというのは(後にその作品を使って行われるであろう)ごっこ遊びの最中ではないことに注意
  • 現実には知らないが虚構的には知っている
    • 比較的特殊な例。ドイル『空き家の冒険』(冒頭で、犯人が周知であるとのみ述べられるものの、その名前は明かされない)を初めて読むときや、再話であるかのように読むことを要求する物語を初めて読むときなど
    • 『空き家の冒険』であれば、「最初から犯人を知っている」ようなごっこ遊びを行うであろうが、それが誰であるかは話が進むまでわからない。このケースでは、再読時には分離が起こらないということになる
    • これだと当の知らないことに関して「不安」や「驚き」を感じることは虚構の上では不合理なことになるんだよな

また、「予見的な知識が主として作品に内在する証拠に基づいており、通常のやり方で作品を経験するときに予見が得られるような事例」についても考察される。たとえば、結末の手がかりが(誰にでもわかるような形で)劇中で示されることや、もっとあからさまに、結末の場面のフラッシュフォワードが示されることなどがこれにあたる(倒叙ミステリもこれに含まれるかと思ったけど、あれはたぶん犯行の様子も知ってるような観察者、あるいはその観察者の語りの聞き手として読むほうが普通だろうからちょっと違うか? みんなどう読んでるんだろう。「愚かな問い」の話とも関連しそうではある)。

このとき、「物事がどうなっていくのかを、鑑賞者がいかなる方法で『虚構において』知るに至ったのか」という問いに適切に回答できないのであれば、「その知識を鑑賞者が虚構的に持っている」と見なすのは適切ではないだろう(したがって、「虚構的には知らないが、現実には知っている」の一種ということになる、はず)。たとえば、「(SFでもないのに)この世界にはタイムマシンがあるから、この先何が起きるか見えたのだ」とか、「見るからに『本作のヒロイン』は彼女なのだから、それが死ぬわけがない」とかいうのはふつう適切な答えではない。逆にたとえば、「『白鯨』においては、イシュマエルがまさに語っていることが虚構として成り立っているのだから、読者はイシュマエルが生き残るであろうことを虚構的に知っていると言える」といった形で答えられるなら問題ない。なんとなく「負けヒロイン」のことを連想してしまうよな……。

似たような話として、虚構的ないし現実的に当たり前だったり驚くべきだったりする事柄と、虚構的ないし現実的に鑑賞者を驚かせる事柄との間に違いがあるという話題も。

このほか、一見「ストーリー」にあたるもののない音楽や、あるいは絵画などの静止芸術(小説や映画、音楽などはこれに対し「時間芸術」である)の鑑賞における「不安や緊張」「驚き」についても考察されているんだけど、ここではばっさりカット。前者については、偽終止に関して「現実に何を予期しているかに関わりなく、主音を期待するということが虚構的に成り立っている」(!)とかえらく尖ったことが主張されてるし、後者についてはそもそも本節の後半がまるっとそれに充てられてるしでそれなりにはおもしろいんだけど、まとめるのがしんどくなってきたので……。

ともあれ、以下のように結ばれる。生成の原理のとき「めっちゃ複雑やで」と言って終わってたのにに近い投げ出し方だ!

  • 現実的あるいは虚構的な認識論的なあり方を区別し、その対応関係や変化を分析することは、どのように虚構的真理が成り立っているかや、鑑賞者が現実的あるいは虚構的にどのような体験をするかを分析する際に重要である
  • とはいえ、こうしたあり方は非常に複雑で、再帰的であったり決定不能だったりもしうる、捉えづらいものである。これは表象的芸術作品に対する鑑賞者の反応の多様さ、微妙さ、複雑さに見合ったものであると言える

参加することの眼目

われわれはどうして表象的な芸術作品に価値を置くのかについて。

表象体の任務は、私たちが参加するごっこ遊びの中で小道具として役立てられることである。しかし、そんな遊びがそもそもなぜあるのか。なぜ私たちは参加するのか。たしかに経験したいと思ってしまう「肯定的」な感情が含まれているときでも、虚構として そういう感情を経験することに、どんな利点があるというのだろう。虚構として喜んだり有頂天になったり、ましてや悲しんだり動揺したりして、どんな利点があるというのだろう。参加することの眼目は何なのか。

共感や学び、情動の発散や受容……などなどなど、想像活動によって享受できる利益は多様に考えられるが、本書ではそれらを個別には検討しない。ただしその上で、「想像する人が自分の虚構世界で占める位置こそ、非常に多くのさまざまに異なる事例において、中心となるように見える」ことが指摘される。つまり、想像者自身が反射的小道具としての役割を担っているという点が重要なのだ。

小説を読んだり絵をじっと見つめたりすることが、たんに虚構世界の外側に立ち、窓ガラスに鼻を押しつけてのぞき込み、何が虚構として成り立つのかを知るというだけのことにすぎなくて、虚構において何かを知ることは一切ないのなら、小説や絵に私たちが関心を抱くのは真に謎だっただろう。

というわけで、想像活動によって享受できる利益、ひいては表象体の価値を考えていくにあたっては、こうしたごっこ遊びへの参加という経験を考慮していくことが必要であるというわけ(重ねて言うが、本書ではやらない)。

参加なき鑑賞

ここまで見てきたとおり、鑑賞において「参加」は中心にあるけれど、それが全てではない。実際の鑑賞者のパースペクティヴには「観察」も重なっている。それどころか、参加をしない鑑賞さえありうる。

以下では、作品自身が「これはただの虚構である」とあえて明示したり、作品の様式や物体そのものとしての性質に注意を向けさせるような造りにするなど、表象体の側が鑑賞者の心理的な参加にあえて水を差す(鑑賞者の反射的小道具としての役割を縮小させる)ケースについて見ていく。

以下、けっこうおもしろいので、まとめとしてはやや詳細すぎる気もするが逐一挙げてみる。

  • ピカソ『雄牛の頭部』
    • 「雄牛の頭部やん!」というごっこ遊びへの参加それ自体ではなく、その参加が可能であることが評価のポイントになっている
    • もちろんこれはあくまで「参加が中心であることを前提とした」観察から得られることに注意
  • ゴッホ『星月夜』
    • 本作の非常に目立つ筆使いは、それ自体として注意を引きつけるし、どのように描かれたかの記録(ないしは、その描かれている最中の様子を想像する小道具)としても注意を引く
    • こうした筆使いは、そこに描かれている風景を見るというごっこ遊びへの参加をたしかに妨げている。それと同時に、想像活動がより活き活きとする効果も発揮している
  • 装飾的な紋様
    • 蔦などをモチーフとしているからといって、ごっこ遊びへの本格的な参加が始まることはまずないし、そのように意図されていない(むしろそうならないような形にデザインされている)
    • このとき起きているのは「小道具として使われうる図形たちが集まって、見た目に面白くて視線をくぎ付けにするような様式を作り出すやり方から強い印象を受ける」という参加を前提とした観察だろう
  • 通学路の交通標識
    • 描かれているピクトグラムから「横断歩道を渡っている子供たち」を想像できないと標識の意図が伝わらずその目的が達せられないが、かといってごっこ遊びへの参加に没入してしまうと逆に危ない!
    • とはいいつつ、これは表象体ではない(想像活動を命じているわけではない)と感じられるかもしれない。それでも、明確な境界線があるわけではないことは理解できよう

以上のように、想像を命令する機能と、それに水を差す働きの組み込みとは両立する。

このように水を差す働きが組み込まれた小道具は、実用を意図せず作られた(すなわち椅子本来の機能を欠く)「飾り物の椅子」になぞらえられる。すなわち、(その程度にはいろいろあるものの)小道具に適さないように作られた「飾り物的な小道具」というわけ。けれども、そのような「装飾的な」小道具であっても、飾り物の椅子が「それが椅子であることを想像せよ」と命じる機能を持っているように、「それが小道具であることを想像せよ」と命じる機能を持った反射的小道具となっている。その装飾性は、それが何の表象体であるかを変化させるだけなのだ。

ここで、ベラスケス『侍女たち』について見てみる。これは「絵画の中に肖像画が描かれている」、すなわち虚構の中に虚構が「埋め込まれている」例である。このとき、「絵画の中に描かれている肖像画に描かれている人物」は「絵画に直接描かれている人物」より(どちらも虚構的であるにもかかわらず)注意をひかないだろう。なぜなら、われわれが現実に参加するのはあくまで第一階のごっこ遊びであり、(絵画の中に描かれた肖像画を使うような)第二階のごっこ遊びについては参加を想像するだけであるためだ2

これを念頭に置いてサッカレー『虚栄の市』を見てみよう。本作の冒頭では以降の語りが虚構であることが明記されており、したがって「埋め込み」が行われている「装飾的な」小道具の例である。しかし本作を読み進めているとき、冒頭の記述から把握した第一階の虚構世界を忘れて、第二階の虚構世界を舞台としたごっこ遊びに直接参加しているかのように感じられるだろう(「水を差す」効力は大抵一時的/部分的であり、『冬の夜ひとりの旅人が』のような例のほうが特殊なのだ)。これは一見正しくない参加に見えるかもしれないが、そうではない。実際には第一階/第二階両方への参加が想定されているだろう。つまりこの小説は、「ベッキーがロードン・クロウリーと結婚すること」(第二階)を虚構的に成り立つようにすることと、「彼女がそうすることをこの小説が成り立つようにすること」(第一階)との、両方を行なっている。そして読者は、ベッキーのいる世界に住むことと、その世界を外から観察することとを交互に(もしかしたら同時に)行うのである。同様に先ほどのゴッホ『星月夜』について、それが「一定の仕方で創造された表象体である」ように見えている(虚構としてそうである!)ならば、その意味で「装飾的な」表象体(表象体の表象体)であり、直接的に描かれていると見える内容は「埋め込まれた」ものであると捉えることもできる。

ここまで見てきたような「装飾性」は、たしかに参加を阻み、鑑賞者に「距離」を感じさせてしまう。外側の世界は枠のようなものにすぎず、内側の世界の方が豊かに描かれることもしばしばである。では、「装飾性」に、すなわち参加を代価にして観察させることにはどんな価値があるのだろうか。以下はいずれも、参加が重要であるからこそ生じる価値である一方、実際に参加してみると行うことがより難しくなる(参加を想像することによって得やすくなる)ような考察である。

  • 参加を促す手段や参加の種類へについての考察
  • 参加の経験についての考察。すなわち、参加者が虚構的に何を、なぜ感じているのかについての考察や、(虚構的に/現実的に)同じような状況で自分が何を考えたり感じたりするかについての考察

以上、参加が中心にあるからこそ、そのうえで観察も重要になるよね、ということで本章、そして第2部はおしまい。


これで実質的な本論は終わりで、第3部は各論(第8章で描出体、第9章で「語りによる」表象体を扱う)、第4部はあとまわしにされていた存在論と意味論について。というわけで、次章に進む前にいったん参考文献など含めここまでをまとめたい……と思っています……思ってはいる……。


  1. ネタバレに関しては 『フィルカル』Vol.4 No.2 の『ネタバレの美学』特集や、これに関連するワークショップ(【発表要旨追記】公開ワークショップ「ネタバレの美学」を開催します。11/23(金・祝)@大妻女子大学 - 昆虫亀 など登壇者によるブログ記事や資料を参照)がおもしろそうなんだけど、読めていないのでとりあえず注記にとどめておきます。本書の話とは、関係ないこともないけど全体的にはそこまででもない……くらいだとと思う。

  2. ここで、ボルヘス「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」についての注記も引いておく:「最初はトレーンの世界は他の虚構世界の中に深く埋め込まれているように見える。だが、物語が進むにつれて、埋め込まれていないということがどんどん顕わになってくる」。階層による注意の引き方の違いを活かした作品であるということ。

『フィクションとは何か』第6章のメモ

第6章 参加すること

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

承前: murashit.hateblo.jp

ごっこ遊び(的なゲーム)において、われわれはどのように参加しているだろうか、という話。さまざまな制約の話と、あとメタフィクションの説明あたりが読みどころだと思う。

子どもたちの遊びへの参加

まずは文字通りの(子どもの)ごっこ遊びへの参加について観察する。(本書におけるより一般的な意味での)ごっこ遊びに参加する最小条件は「そこで虚構として成り立つ命題群を、自分が強制されていると考えること」である。しかし、子どもたちがごっこ遊びで演じる役割はそれに留まらない。

まずなんといっても、そのようなごっこ遊びの際に子どもたちが「自分自身が○○している」と想像していることが挙げられる。すなわち彼らは反射的な小道具となっているのだ。たとえばグレゴリーとエリックが切り株をクマに見立てて遊んでいるとき、参加者であるグレゴリーとエリックは反射的小道具であり、2人が切り株に向かって行う行動によって、ほかでもない(誰か別の人物を演じているわけではない)彼ら自身がクマに向かってある行動をすることが虚構として成り立つ。

なお、このとき切り株も反射的小道具であり、切り株の特性などはクマの特性に反映されるであろう。大きな切り株からは大きなクマを想像するし、切り株がツタウルシのなかにあるなら、クマがツタウルシの群生の中にいると想像する(さらに、このときツタウルシもやはり反射的小道具となっている)。それでも、2人はごっこ遊びの関心の向かう主たる対象であるという点で(単なる小道具である)切り株やその派生物の多くと異なっている。これはフィクションの意義(第1章参照)にとって重要である。

さらにこのときグレゴリーとエリックは、たんに自分がそのようであるという命題を想像するにとどまらず、まさに自分が実行したり経験したこととして(「一人称的な」やり方で)想像している。そして、「参加者は、自分が切り株を見ることについて、この見ることが 自分がクマを見ることの一例であると想像」してもいる(ここ正直ちょっとよくわかってないんだけど、「行為そのものも反射的小道具となる」? みたいな話でいいんだと思う)。

ごっこ遊びの参加者は、反射的小道具でありかつ想像する者でもあることによって、現実の自分のさまざまな表象的な行為に関して、それら一連の行為が、自分が何かを行っているところの一例であると想像し、かつ、これを内側から想像するのである。

参加する者としての鑑賞者

文字通りの(子どもの)ごっこ遊びに対して、芸術作品や上演の鑑賞はどうだろうか。こちらも(本書におけるより一般的な意味での)ごっこ遊びへの参加の最小条件を満たしていることはもちろん、鑑賞者自身および鑑賞者の行為の多くが反射的小道具となっているという共通点がある(さらには鑑賞者が「一人称的な」やり方で想像してもいるとするが、これについてはむしろ次節を参照)。

たとえば、「命題Pが虚構として成り立つと鑑賞者が理解しており、(Pそのものを想像するだけでなく)鑑賞者自身がPを知っていると想像する」とき、「鑑賞者はPを知っている」ことが虚構的に成り立つ。これはそのまま「鑑賞者自身についての虚構的真理が生み出されている」ということだから、やはり鑑賞者自身もごっこ遊びの反射的小道具となっていると言える。もちろん「知っている」だけではなくて、たとえば絵画において「見ている」などでもやはり同様に成り立つ。

なお、(第1章でも触れられていたように)「作品世界」と「作品を使ったごっこ遊びの世界」の違いに注意。『ガリヴァー旅行記』の世界(作品世界)には読者は属さない一方、『ガリヴァー旅行記』を使って行うごっこ遊びの世界においては、「自分(読者)は『ガリヴァー旅行記』と題されたある船医の日記を読んでいる」ことが虚構的に成り立つ。このように、一つの虚構世界がもう一つの虚構世界を含むかたちで別個の虚構世界を持つことは特に問題にはならない(小説の挿絵の例など)。ここらへんの話、第1章のメモでは違和感あるな〜みたいに書いたが、むしろ独自のポイントとして解するのがいいのかもしれないな。

このように鑑賞者が自分のごっこ遊びの世界で反射的小道具となるということは、そのような生成の原理が存在するということでもあるはず。第4章で見たとおり、この原理は明示されている必要はなく、暗黙的なものであってよい。また、ごっこ遊びは必ずしも社会的なものである必要はない(むしろ多くの場合個人的なものであろう)ため、この原理を鑑賞者自身以外の誰かが認識している必要もない。そのような生成の原理が存在するであろうことは、次のような観察からもわかる(以下、まとめるために例示の内容を簡略化しているが、ちょっと不用意に縮めすぎかもしれない)

たとえば、船の描かれている風景画を見て、スティーヴンが「あそこに船がいる」と発言するのは自然なことである。このときスティーヴンが「自分自身が浜辺や海などを見ている」と(特に熟慮や思慮によらず)想像していることは否定しがたい。そして、そのような暗黙的な傾向性を我々が持ち、それに対応するような原理を受け入れていると考えることも自然であろう。

また、先の例で指示詞(「あそこに」)を使っていることにも注意せよ。このときスティーヴンは、何か(画布の一部分や、「架空の存在者」)を指示しているわけでも、何かに虚構性を帰属させているわけでもない。スティーヴンはそれらの説のように何かを断定しているのではなく、「何かを指示するふりをしており、その何かが船であると主張しているふりをしている」(第2章でのサール批判は作者が「ふりをしている」という話だったことに注意。こちらは鑑賞者の話)。「『あれは船だ』は命題を表現してなどいない。スティーヴンは、それが命題を表現するふりをしているだけである」。言い換えれば、スティーヴンは「自分が何かを指示してそれを船だと主張する」ということを虚構として成り立つようにしている。これはすなわちスティーヴンについての虚構的真理であり、スティーヴンのごっこ遊びに属する虚構的真理である。この意味でスティーヴンはやはり反射的小道具となっている。

なお、風景画などの描出体 depictions に対して「あれは船だ」と言いうる一方、『白鯨』における船の描写の一節を指差して「あれは船だ」とは言わない。これは、絵画を使って行うごっこ遊びと小説を使って行うごっこ遊びが違う種類のものだからである(だからといって小説の読者が反射的小道具でないことにはならない点にも注意)。

言語的な参加

ここまで見た2種類のごっこ遊び(文字通りの、子どものごっこ遊びと、表象的芸術作品の鑑賞)のどちらにおいても、言語的な参加を行いうる。たとえば前者であれば「藪の中にクマがいる!」などと友達に注意を促すことがあるだろう、後者であればその作品に関して「あそこに船がある」などと話すことがあるだろう。

こうした言語的参加の際、われわれは「この絵の世界では」「『ロビンソン・クルーソー』の物語の世界では」などと付け加えて喋ることはほとんどない。これらを使ったごっこ遊びをしている人物が言うと期待されることがそのようなものであるからだ。

さらに、ごっこ遊びに携わっていないと考えられる冷静な批評の際であっても、誤解がなければこうした虚構性を示す作用子は省かれうる。この事実は、そのような場でさえ(批評家が反射的表象体となっているかどうかは置いといて?ごっこ遊びがなんらかの仕方で存在していることを示唆する。

一方、「望む」「信じる」といったほかの志向的特性においては、先の虚構性作用子に対応するような作用子(○○は〜と望んでいる)を普通は省かない。もしそうした作用子を省くのであれば、ほとんどの場合レトリック(当てこすりなど)や一種の演技のためである。そしてこの点については、虚構性作用子を省くことが「ふりをすること」に繋がっているのと共通している。これらをひっくるめて、ごっこ遊びに携わる私たちの傾向が広く行き渡っていることが観察される。このへんやや議論を乱暴にまとめてしまったんだけど、作用子を省くことの効果(あるいは逆に引用符による強調にも「ふりをする」効果があるケースもあるとか)みたいなあたりは枝葉のところでもけっこうおもしろいことを言ってる。ただそうなってくるとほかの志向性との区別がだんだんよくわからなくなってこないか? みたいな気持ちも。ここらへんは読み間違えてるかもしれない。

参加に関する制約

ここまで文字通りの(子どもの)ごっこ遊びと表象的芸術作品の鑑賞との共通点を見てきたが、一方で重要な違いもある。あくまで程度の違いであることには留意しなければならないが、鑑賞者の参加には子どもたちの参加には生じないような制約がある。

たとえば、人形をどこかに連れて行ったとき、「赤ちゃんをどこかへ連れて行った」ことが虚構的にも成り立つであろう。一方、肖像画を移動させたからといって「その(肖像画の対象となっている)人物が移動した」ことが虚構的に成り立つことはまずない。すなわち、文字通りの(子どもの)ごっこ遊びに比べ、表象的芸術作品の観賞においては:

  • 見ている人が行い、それが虚構として成り立つような行為の種類が少ない
  • 見ている人が現実に行ったときに、ごっこ遊びに貢献して虚構的真理を生み出すものとして容易に解釈できるような行為が少ない

こうした制約の由来はさまざまである。たとえば、人形には掴むことのできる「腕」があるが、肖像画においては(腕が描かれてあったとしても)「腕」を掴むことができないといった、ある種物理的な制約、あるいは、演劇において観客が舞台に駆け上がったとき、その人物が虚構として何かを行うとは解釈されないといった、慣習的な制約などが挙げられる。

以下注意点。

  • もちろん文字通りのごっこ遊びにも制限はある。先にも触れたとおりあくまで相対的な話である
  • 制限されているからといって、その遊びが豊かでなかったり変化をもたないことを意味するわけではない
  • 参加の制約は不利益をもたらすとは限らない、むしろ利点もある
    • たとえば、身体的な参加を行わない(行えない)ことによってより内省的で思索的になれる
    • あるいは、鑑賞者のごっこ遊びに対する芸術家の貢献の範囲が広がる(たとえば法廷を描いた絵画に対して、鑑賞者が被疑者を問い詰める遊びをしてほしいと作家が考えているだろうか?それを見ていろいろな思考や感情を抱いてほしいだろうし、そのほうが鑑賞者にとっても有意義であることが多いだろう、みたいな)

このほか、文字通りのごっこ遊びと芸術鑑賞との中間的な事例も挙げられているが、ここでは略。

聴衆への脇台詞

ざっくり言えば、虚構内の登場人物から鑑賞者への語りかけ(目配せなどの働きかけ一般も含む)について。

まず、バース『ライフ・ストーリー』が興味深い例として検討されている。ここはけっこうおもしろいところなんだけど長くなるので割愛。脇台詞にあたる語りとそれを引用する語りが続けて記述されているとき、それらを垂直的に見るか水平的に見るか、垂直的に見たときでも読者がどのようなごっこ遊びに参加しているか、といったことについて複数の解釈が考えられる……みたいな。この手のメタフィクショナルな小説に興味のある向きにはぜひ直接読んでほしいところ。

また、脇台詞は単数的にも複数的にも成り立つ ……という話があるんだけど、正直ちょっとよくわからないところがあるのでこちらも割愛。ドストエフスキー『地下生活者の手記』における「だから、紳士淑女の皆さん、結局、何もしないのが最も良いのだ!」という台詞について、「現実の読者全員に語りかけていることは、どの鑑賞者のごっこ遊びにおいても成り立たない」けれど「それぞれの読者のごっこ遊びにおいて、地下生活者がその読者を含む人々の集団に語りかけているということになる」みたいな話はおもしろい。

こうした脇台詞に覚える特殊な感じは、「講演の最中に、二階席で聴講している自分の名前が突然呼ばれた」ときのような、(そのような場ではないはずなのに)慣習を破って名指されたときの驚きと類比して説明できる。脇台詞によって鑑賞者が「虚構の世界に引きずり込まれる」からではないのだ! 鑑賞者はそれ以前に自分のごっこ遊びの世界に参加しているし、そう前提しないと脇台詞というもの自体が成り立たない。

そして、脇台詞の発生は比較的珍しいし、あったとしても、それが虚構的に成り立たせるのはあくまで一時的な相互作用に留まる(もちろん、肖像画において「鑑賞者に目を向けている」ことが当たり前であることや、あるいカルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』のような例外はある)。その理由として、限定的なほうが脇台詞の効果を高められる(先の「突然の」名指しを考えればわかりやすい)ことや、そのほうが鑑賞者に適切な鑑賞行為を行ってもらうためのコントロールが容易になることなどが考えられる。前節で述べた芸術鑑賞における制約のメリットとしても挙げたように、登場人物に感情移入させたいといった芸術家の目的に対して、脇台詞によって鑑賞者が一人称性を強く意識する(そしてときに「馬鹿げた問いかけ」をしてしまう)ことは適切な鑑賞の邪魔になりうるのだ。

鑑賞者は自分のごっこ遊びの中では役割が限定されていて、そういう限定のせいでしばしばあり方が不確定になることを考慮すると、鑑賞者は通常「おおまかな」「ぼんやりした」あり方しか持たない、と考えることが可能である。脇台詞は、鑑賞者がそれ以前には帰属していなかった虚構世界や、脇台詞がなければ帰属しないはずの虚構世界に、鑑賞者を招き入れるわけではない。だが脇台詞は、ごっこ遊びの世界において、鑑賞者に少しだけ踏み込んだ存在感を与えるのである。

見られないものを見ること

天地創造を描いたミケランジェロの天井画に対して、「誰も見ていないはずの天地創造を、にもかかわらず見ているってどういうこと?」みたいな話。これには、作品中の登場人物が誰にも明かしていないプライベートを「覗き見」している作品や、「生存者のいない事件」を描いた作品など類例が考えられる。

これに対してウォルトンは、すでに第4章で答えたように(このような「馬鹿げた問い」は)たんに無視すればよいという立場をとる。そして(これも第4章で見たとおり)これらはごっこ遊びへの参加という立場に対してのみ発生する反論というわけでもないのだ。

つづき: murashit.hateblo.jp

『フィクションとは何か』第5章のメモ

第5章 謎と問題点

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

承前: murashit.hateblo.jp

ここから第2部。「虚構世界(の登場人物)」と「現実世界(の鑑賞者)」の間でどのような関係が成り立っているのかについて、ひいては、鑑賞上の基本的な姿勢について考察する。これが次章以降で考察・解決していくべき問題となる。

なお、本書の立場ではそもそも「虚構世界」やその登場人物は存在しない(し、「虚構世界」みたいなものを想定する必要もない)のだから、そもそも「関係をもつ」こともできない。ただ、考察のために本章ではいったんこの見方を受け入れることとする。

ヒロインを救い出す

舞台上で起こった、次のような(筋書きにない)ハプニングを考えよう。上演中の演劇のなかで、ヒロインが線路の上に縛られ、まさに列車に轢かれそうになっている。このあと幕が引かれ、それから列車が通り過ぎる効果音が流れることによって「彼女が轢かれた」ということが示される予定である。ここで観客の一人であるヘンリーが「ヒロインを救おう」として舞台に上がり、そのヒロイン(を演じる女優)を線路から解放したとする。「ヘンリーはヒロインを救った」ということになるだろうか?

すでに見てきたとおり、本書の立場では真理性と虚構性とを分けているのだから、この問いも2つに分けられる。回答ともに示せば次のとおり。 (なお、いずれにせよ「ヒロインを演じる女優を」ではないことに注意。女優その人はあくまで演じているだけであって、そもそも危機に遭っていないのは明らかである)

  • ヘンリーがヒロインを救ったのは真なのか?
    • そもそもヒロインが実在するということさえ真ではないため、ヘンリーがそれを救い出すこともやはり真にはなり得ない
  • ヘンリーがヒロインを救ったのは虚構として成り立つのか?
    • この演劇においてヘンリーが実在することは虚構として成り立っていないため、それがヒロインを救い出すこともやはり虚構として成り立ちえない

たとえヘンリーが(舞台上に躍り出るのではなく!)こっそりと音響装置の電源を落とすなどして、幕が引かれたあとに列車の効果音が鳴らなかった(そしてこれによって、ヒロインが生き延びることが虚構的に成り立った)としても、やはり上記のどちらの意味でも「ヘンリーがヒロインを救った」ということにはならない。ヘンリーはあくまで、ヒロインが生き延びることを虚構的に成り立つようにしただけのことだ。

同様にたとえば、作家が小説や絵のキャラクターが死ぬように物事を配置したからといって(そしてそれがはじめからであっても、後からの書き/描き換えであっても)、その作家がその登場人物を殺した(真理性)わけでも、その作家がその登場人物を殺したことが虚構的に成り立っている(虚構性)わけでもない。つまり、「世界を跨ぐ」ようなことはできない。

虚構世界で起きること——虚構的に事実であること——は、確かに現実世界で起こることによって影響を蒙る。だが、ある人物がもう一人の人物を救うことができるのは、どちらも同じ世界に生きている場合だけである。

もちろん「作者が登場人物を殺した」と主張するキャラクターの登場するメタフィクションなどはあり得るが、そうした場合作者が実在することが虚構的に成り立っているという建て付けでなければならない(作者とその登場人物との関わりは虚構世界の内部で成り立っている)……的な話も付言されている。

ともあれこのように、「現実世界」と「虚構世界」はまったく隔たっているように見える。

虚構を恐れる

いわゆる「フィクションのパラドックス」について。先述のように二つの世界が隔たっているにもかかわらず、一方でわれわれはフィクションやその登場人物と心理的接触を持っているようにも見える。この矛盾自体で問題ではあるが、「心理的接触」だけであっても、よく見ると微妙な問題を孕んでいる。

たとえば、ホラー映画を見ているチャールズがスクリーンに現れた怪物を見て「怖かった」と報告することは自然なことである。しかし、その場から逃げ出したりはしないだろう。あるいは、虚構の人物の苦境を「悲しんだ」りする。しかし、われわれはその人物を救うことを(たとえ想像するとしても)本物の選択肢として考えはしない。それどころか、「怖がる」「悲しむ」ことによってわれわれはホラーや悲劇を大いに楽しんでいる。

こうしたことはいったいどのように説明できるのか。そもそも私たちは、単なる虚構やその登場人物に対して(現実と同じ、「本物の」)心理的な態度をとっているのだろうか。

これに対して、たとえば「不信を宙吊りにしている」「半ば信じている」とかいった説が唱えられてきた。しかしそもそも、先の例の観客は怪物をほんとうに目の当たりにしているとは「まったく」考えていないはずである。ということでこのほかいろいろな説が検討され却下されるが、とりあえず森2011「ウォルトンのフィクション論における情動の問題」石田2017「フィクションの鑑賞行為における認知の問題」、あるいは『分析美学入門」の第8章あたりを見たほうが早いし正確なので省略(もっと言うと本書自体のまとめもこれらを見たほうが早いぞ!)。『分析美学基本論文集』所収のウォルトン自身の論文「フィクションを怖がる」が本節のもとになっているのでそちらも参照するとよさそう(同書は仮説意図主義を唱えるレヴィンソン「文学における意図と解釈」がおもしろいのでおすすめだぞ!)。

ともあれ本節の時点では、こうした「恐怖」や「同情」は文字通りのものではなさそうだという否定的な形での結論を提示し、肯定的な形での説明については第7章で述べるよということで締め。

虚構性とその他の志向的特性

虚構性と、「信じる」等々の志向的特性の違いについて。本章のここまでの考察では(第1章で展開された道具立てを使わずに)これらを同じようなものとして見立ててきたけれど、よく見るとこれらは本質的に異なっている。

  • 虚構性に対して、われわれは「真理の一種として考えてしまう傾向」を持っている。通常の志向的特性はそうではない
  • 「虚構世界」といった考え方は自然である一方、「信念世界」といった考え方はふだんしない
    • もちろんさまざまな様相についての論理では当たり前のように使う考え方ではある。でも自然ではないよね、という感じ
    • それに、「マクベス夫人の子供の数」のように不確定・不完全な事柄は「虚構世界」においてときに問題になる。しかし、信念などに関してはそのような不確定性・不完全性による不都合はとくにない。「ある人物に、それが何人でいようが子供がいる」と考えることは自然で、通常とくにその欠けを補足する必要がない
  • 「デフォーの小説において、ロビンソン・クルーソーは難破を生き延びた」を単に「ロビンソン・クルーソーは難破を生き延びた」と言うことはふつうに行われる一方で、「ジョーンズは○○であることを信じている」を省略して「○○である」とは言わない

このへん、正直やや論点先取なものばかりな気がしないでもない(というか、第1章で「想像」を明確に定義づけていないのでちょっとズルい気がする)。が、ふだんの実践はそれなりに重視しなきゃだよねという立場としては分かる感じもある。以下の「入り込む」の話もそれなりに説得的だと思う。

この上で、第1章で得た「ある命題がある作品世界で虚構として成り立つのは、それを想像せよという鑑賞者への命令が存在しているときである」という結論を思い出せば、ほかの志向的特性と異なり、状況の説明の中に(われわれ自身が)入り込んでいる、 鑑賞者は作品世界の傍観者ではなく鑑賞者自身がごっこ遊びに「参加」しているという点からして虚構性の特殊さは明らかであろう。

というわけで、次章は「参加すること」について。

つづき: murashit.hateblo.jp

『フィクションとは何か』第4章のメモ

第4章 生成の機構

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

承前: murashit.hateblo.jp

例が豊富でおもしろいんだけど、というか豊富だからこそ、結論としては「一筋縄ではいかんよね」くらいのことしか言ってない章とも言える。

生成の原理

小道具とともに虚構的真理を生み出す生成の原理について。

まずそもそも、解釈の不確実性や不一致が起こりうることが確認される。一つの作品=小道具に対して解釈結果=どんな虚構的真理が成り立っているかが異なりうるということは、生成の原理の適用が異なるということ。

というわけで、鑑賞や批評の際にどのような生成の原理が作動しているのかを観察し、さらに、なぜわれわれがそのような生成の原理を持っているのかを考察する必要がある。これが本章の目的である。

生成の機構は虚構的真理を機械的に生み出す手段ではない。機構とその作用のあり方は鑑賞者が詳しく調べることができ、その機構から帰結する虚構的真理よりも興味深いものであることもまれではない。画家や小説家の作品の芸術性の多くは、芸術家が見出した虚構的真理の生成方法に存しているのである。

直接的生成と間接的生成

まず、表象体が直接的に生み出している虚構的真理を「第一次の primary」もの、間接的に生み出している虚構的真理を「含意される implied」ものと呼ぶこととする(最終的にはこの区別自体に疑問が付されるため、あくまで作業仮説として解するのがいい……はず)。

たとえばゴヤの『戦争の惨禍』中の一作「見るにたえない」では銃の筒先のみが描かれており、その銃を構えた兵士は描かれていない。このとき、狙いをつけた銃が存在することは第一次の虚構的真理であり、それを構えた兵士が存在することは含意された虚構的真理であると言える。

また、単純な虚構的真理からであってさえ、たくさんの虚構的真理が含意されうる。

『グランド・ジャット島』において、公園を散策している二人連れは、食べるし、寝るし、働くし、遊ぶ、ということが虚構として成り立つ。二人には友人もライバルもいる。野心があり、満足したり落胆したりする。二人は地軸の周りで自転し太陽の周りを公転する惑星に居住しており、その惑星には気象と季節、山岳と海洋、戦争と平和、工業と農業、貧困と豊穣がある。

こういった含意される虚構的真理の多くはたんに「反対を示す証拠がない」というだけで生成されるような(むしろ反対である場合は興味深いものとして示されるであろう)ある種の背景である。けれども、たとえば肖像画における顔のパーツの配置が(その作者が表現したいであろう)「その人物の感情や漂わせる雰囲気」を含意しているケースのように、先んずる虚構的真理よりその含意のほうが重要であることもある。

以下ではひとまず直接的生成/間接的生成それぞれの原理に分けて考察していく。

間接的生成の機構

はじめに間接的生成における原理について。有力とされる説として次の2つが紹介される。

  • 現実性原理 Reality Principle
    • 「核心部の第一次の虚構的真理が許容するかぎり、できるだけ虚構世界を現実世界に似たものにする」という戦略。言い換えれば、「虚構世界と現実世界との間を最小にする」ような原理
    • 「矛盾した虚構的真理からは(少なくとも実質含意をそのまま使うなら)あらゆることが帰結してしまうのでは?」とか「作中で世界のごく一部しか描かれないとき、その虚構世界は現実世界の大半を含んでしまうのでは? それでは含意するものが多すぎるのでは?」といった(おそらく次のMBPでも生じ得る)疑問について、ウォルトンはとくに問題視しない。そもそも表象体のなかで焦点が当たっている虚構的真理はごく一部分であり、それも表象体ごとに違っているのだから、強調されていない部分は単に無視するだけでよいといった立場。わりとプラグマティックで好感が持てる!
  • 共有信念原理 Mutual Belief Principle
    • 「最初に作品が生み出されていたときの共同体で『公然と』信じられていたこと、ないしはその共同体の傾向性に含意関係の基礎を置く」ような原理。たとえば「地球は平らだと信じられていた文化における航海譚」みたいなときにRPとの違いが出てくる
    • これは「(共同体ではなく)作者本人が信じていることのみに基礎を置く」のでないことに注意。一般にわれわれはそのような形での想像をしながら鑑賞したり批評したりはしない

このうちどちらが優先されるのかについては、ざっくり言えばケースバイケースである(実際には自然の表象体に関する話や道徳に関わる虚構的真理の話、解釈や鑑賞の際に求める意義に関する話など細かい議論をしているが、ここでは略)。まとめは以下のとおり。

共有信念原理は、どのような虚構的真理が含意されるのかを決定する仕掛けとして理解されるとき、芸術家に何が虚構的かに関するより有効な支配力を与え、芸術家の身近にいる鑑賞者に、虚構的なものへのより容易な接近経路を与える。そして、共有信念原理は、芸術家が鑑賞者の想像活動を導くために表象体を利用するのをより容易にする。現実性原理は、どのような虚構的真理が含意されるのかを確認するために鑑賞者によって利用されるとき、鑑賞者のごっこ遊びへの参加をより豊かで自然なものとすることに貢献する。

その上で、(どちらがより本質的か決められないことはもとより)そもそもこの2つだけでは実際に生じている含意の繊細さと複雑さを説明できないとする。たとえば証拠とは言えない連想や慣習規約的な含意(お約束とかステレオタイプとかも含む)などが挙げられ、それらが発揮されるケースの不規則さについても示される。ここも例示が豊富でおもしろいんだけどやはり割愛

結局のところ、以下のように結論付けられる。

含意関係は何らかの単純な、つまり体系的な原理、ないし原理の集合に支配されているようには見えない。そうではなく、入り組んでいて、動きやすくて、しばしば競合している一連の了解、先例、局所的な慣習、顕著さ、といったものに支配されているように見える。異なる必要に応じるはっきり異なった原理たちが、違う事例でそれぞれ作用していて、どの原理が適用できるのかを決める一般的で体系的な高次の原理が存在するということはありそうにない。

直接的生成の機構

続いては直接的生成。含意と同様にこちらもまったく単純ではない。

たとえば、信頼できない語り手を持つような小説において、虚構として成り立つ命題はしばしば含意されるものであり、第一次のものではない。言い換えれば、なにかしらの命題が明示されているにもかかわらず、その命題が直接に虚構的真理とならない(どのような事柄が明示されている通りに虚構的真理として成り立ち、どのような事柄がそうではないかが、解釈=別の虚構的真理に依存する)ケースがある。信頼できない語り手によるものでない場合でも、どこまでが第一次的な虚構的真理でどこからが含意なのかはしばしば不確かである。このへん地味にもって回ったような書き振りをされてるので、結論はともかく理路にはちょっと自信がない……。

絵画についても同様で、たとえばデュシャン『階段を降りる裸婦』を「列を成して階段を降りる複数の女性たち」ではなく「ひとりの女性の連続的な歩み」を(直接的に)提示しているとみなせるような原理ははたして容易に見出せるだろうか。ほかにも、漫画における漫符のようなものや演出的な描写などさまざまな事例が挙げられる。

結局、ここまでをひっくるめて以下のようにまとめられる。

作品によって生み出されるいろいろな虚構的真理は、相互に依存しあっていて、そのどの一つとして他のものの助けなしに生み出されはしない。第一次的な虚構的真理というものは存在しないのだろう。では、どうやってその全体が始まるのだろうか。作品の言葉や色の配置は何らかの虚構的真理たちを示唆する。そして、この不確かな位置づけのまま、あるものが別のものの支えとなり、不確かさを取り除くのに十分な水準となるのだ。だから、作品の解釈者は、暫定的に受け入れ可能な虚構的真理の間で、納得のいく組み合わせに出逢うまで、往ったり来たりするほかないのである。

愚かな問いかけ

ムーア人の武将で知識人でもないオセロが、どうやってこんな素晴らしい詩句を組み立てられたのか」「『最後の晩餐』ではどうして全員が食卓の同じ側に並んでいるのか」といった「愚かな問いかけ」について。

  • エッシャーの版画やタイムパラドックスを含んだ作品のように、矛盾や不協和を真剣に受け取ることが重要であるケースもあるが、本節で扱うのはその種の問いではない
  • こうした問いかけに執着するなら、さまざまな表象体において虚構世界と現実世界の食い違いからいくらでも緊張関係を見出せるだろう
  • こうした問いかけの種になるような事象は、「レオナルドは13人が普通に食卓を囲むことが虚構的に成り立つほうを好んだかもしれないが、13人全員の顔貌を描くためにそれを犠牲にした」といった、異なった要求の衝突と選択の結果でありうる

ともあれ、こうした愚かな問いに対し、あえて答えるとしたらどのようになるだろうか。たとえば以下のような戦略が挙げられる。いずれにせよ説明の方法はあるというわけ。

  • パラドックスの原因となるような虚構的真理を退ける
    • 含意関係のどのあたりで差し止めを入れるべきかははっきりしない場合も多いが
  • (拒否するのではなく)たんに強調しないことにすると明言する
    • したがって、そこから含意関係を辿っていったりもしない
  • 相矛盾する虚構的真理を受け入れ、それらをともに強調しつつも、それらの連言が虚構的に成り立つことは拒否する
    • これは夢を理解したいときなどには適しているだろう

このような説明が可能であることから、生成の機構には(ごっこ遊びをより良いものにできるから、といった意義のある)ある種の寛容の原理のようなものも働いているということが観察できる。

いろいろな帰結

  • 生成の機構は、ときに単純で誰にでも認知できる、ときに複雑で工夫に富んだ、つまりなかなか首尾一貫しない、体系化を拒むものである
  • 作品の解釈や評価は作品が生み出す虚構的真理に大きく依存する一方、逆に「なにが虚構的に成り立つか」に関する決定のほうもその作品の解釈や評価から影響を受ける
  • 「虚構的な命題」とはいつでも「想像せよと命じられた命題」であることに尽きるという点に改めて注意せよ。不規則なのはあくまでその命令が確立される手段に関してである
  • このように不規則な原理であっても、ともかくわれわれはそれを習得できる(「私が与える根拠はすぐに尽きてしまう。そこからは根拠など無くやっていくのだ」「私の与えられる正当化が尽きてしまったら、私は岩盤に達したのだ。私のシャベルははね返る。そして私はこう言いたくなる。『私はこうするんだ』」という『哲学探究』の文言が引かれる)
  • ある意味では、なにが虚構として成り立つかについての特定の意見が最終的に正当化されるということはあり得ない。ある程度「概念的枠組み」なりなんなりに相対的であることも認める。けれども、さまざまな判断がどれ一つとして真または偽ではありえないということを認めるつもりもない

以上で第1部「表象体」おしまい。表象体がなんなのかはわかったということで、次は第2部「表象体の鑑賞体験」として、表象体が何のためにあるのか、虚構という制度の眼目とはどんなものかについて観察する。

つづき:

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『フィクションとは何か』第3章のメモ

第3章 表象の対象

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

承前: murashit.hateblo.jp

※今回も実際の節構成とは異なるまとめ方をしていることに注意(なので、節見出しも同じではない)。流れとしては同じ。また、本章はこれまでに増してまとめ方に自信がないです……。

表象の対象

第1章で出てきた「想像のオブジェクト」と本章で出てくる「表象の対象」が同じなのか異なるのかについては「想像の対象」と「表象の対象」再訪 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめあたりも参照。

ある物についての想像を命令することがある作品の機能であるとき、その作品はその物についての(物の水準の de re)虚構的真理を生み出す。このとき、その物はその表象体の対象となっている。

おおざっぱにいえば、「この作品は〇〇についての作品である」「この作品は〇〇を描いている」などというとき、たとえば、「セザンヌの『サン・ヴィクトワール山』はサン・ヴィクトワール山を描いている」とか「『戦争と平和』はナポレオンについての小説である」などというとき、サン・ヴィクトワール山やナポレオンを、本書では「表象体の対象」と呼ぶということ。

以外諸注意。

  • 表象体は、たいていは「ある事物が存在し、その事物に関する命題が虚構として成り立つ」というかたちで表象するけれど、「ある事物を存在しないものとして表象する」ことも可能
    • たとえば「朝起きてみるとジョージ・ブッシュが1988年の大統領選で当選したことが夢にすぎなかったとわかる」など。このときでも、やはりこの表象体の対象はブッシュの当選という出来事である
    • 表象体の対象は、その虚構の中に必ずしも存在するとは限らない、ということ
  • すべての表象体が「現実の」事物を対象として持つわけではない
    • たとえば「ユニコーンを描いたタペストリー」など
    • このケースにおいては、記述の水準での de dicto 虚構的真理、すなわち、いかなる個別的な事物にもかかわらない虚構的真理が生み出されている。が、「ある非現実のユニコーンについての(de re な)虚構的真理を生み出している」と考えるべきではないとする
  • 「表象する」と「(表象体が現実の事物と)一致する」とは異なる
    • ここでウォルトンは「一致すること」を「表象体と世界の中のあるものとが完全に照応する correspond こと」としている(やや大ざっぱな説明だが、細かくは略
    • たとえばロングフェローの「ポール・リヴィアの真夜中の騎行」はリヴィアを間違って表象している(一致しない)が、それでもあくまでリヴィアを表象している(リヴィアは表象体の対象である)
    • あるいは、かりに『トム・ソーヤーの冒険』のトム・ソーヤーとまったく同じ身なり、まったく同じ行動をした少年が作品とは関係なく偶然に現実に存在した(一致する)としても、トゥウェインの作品はこの現実の少年を表象したものではない(この少年はトゥウェインの作品という表象体の対象ではない)

ここで使われている de rede dicto の違いはちょっとややこしい(ほかの本とかでもこの区別をつける必要があるときはだいたいややこしいんだよな……)。訳注によれば、この箇所での「『物の水準の虚構的真理』とは、ある対象についてどのような表現や描写がなされていようと、現実に存在しているその対象に対し、当該作品の虚構世界において成り立つ虚構的真理」と思われる、とのこと。

まずは現実に存在する事物についてのみ扱い、ユニコーンなどそうではないものについては後ほど。

表象と指示

「何かを表象している」といったことを決定する要因はなにか。すなわち、どのような生成の原理がそこで働いているのか。詳しくは次章にて検討するが、ひとまずは「表象することは指示することの一種である」と考える(このあとの「対象は重要でない」と併せて考えると「なんらかの対象を表象することはなんらかの対象を指示することの一種である」と言うべき?)。

何かが表象体の対象になるには、作品が作られるときにそれがなんらかの因果的役割を持たねばならない(先述のとおり、これは「一致する」には要求されない)。このへんの絵画の表題や作者の意図との絡みの話はおもしろいんだけど、いったん略。 かといって、作品にモデルがあるからといってそれがそのまま表象の対象になるわけではないことに注意。絵画はもちろん、たとえば『デイヴィド・コパーフィールド』が「自伝的」である、すなわちディケンズを「原型としている(と思われる)」からといって、『デイヴィド・コパーフィールド』がディケンズについての虚構的真理を生み出しているとは(ふつうは)考えない。

表象があくまで指示の一種でしかないからには、表象体による指示作用ならなんでも表象する働きになるわけではないことにも注意。たとえば、風刺画において怪物がなにか実際の人物になぞらえられているとき、この怪物はその人物を寓意的に指示しているが、その人物を表象しているわけではない(その人物が風刺画にある怪物そのものであることを虚構的に成り立たせているわけではない)。

対象の使い道

現実の事物を表象することの便利さについて。たとえば以下のようなものが挙げられる。

  • 記述/読み取りの無駄な手間を省ける
  • 一般性のある教訓を与える際に、説得力を増すことができる
  • 想像活動をより生き生きとさせられる

反射的表象体

表象体のなかには、自分自身の対象になっているものも存在する。これを反射的表象体 a reflexive representation と呼ぶ。たとえば人形は、子供たちに赤ちゃんを想像するよう命じているだけでなく、その人形自身が赤ちゃんであると想像するよう命じている。手記や自伝、書簡などの体裁をとった小説もやはり反射的表象体(『完全な真空』もこの例として挙げられている)。

ガリヴァー旅行記』の言葉を『ガリヴァー旅行記』が表象している対象のうちに入れるのは、ある程度までそれらの言葉があの作品に登場するということなのであり、読者はそのテクストそれ自身の言葉が表象されていると理解することなく、言葉が表象されていると気づくことはないであろう。

絵画などにもやはりこれに当てはまるような(ある種自己言及的な)作品がある。

もちろん、虚構世界の中に虚構世界を立てるためにある種の自己言及性が必須というわけではない。カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』を反射的表象体と解釈するかどうか。コルタサル『欲望』はどうか。ベケットマロウンは死ぬ』はどうか。

対象は重要ではない

「現実の特定の犬を描いたのではないような、犬の絵(子供が落書きした犬の絵を想像せよ)」だったり小説の登場人物だったりといったケースのように、表象的であるからといって必ずしも表象の対象を持っているとは限らない(ウォルトンは非現実の存在者を認めない立場であることに注意)。実際第1章の説明のなかでは、表象の対象についてまったく言及されていない。

以下、グッドマン(「表示作用は表象作用の核心である」)への反論という形でいろいろ述べられているが、そもそもグッドマンのもとの議論をよく知らないので以下のまとめもかなり怪しい。また、以前に「表象は指示の一種」と述べられていたこととの関係もちょっと整理しきれてない。

結論から言えば、ウォルトンの主張としては「表象的なるものという概念は、表示するという概念とは独立」というもの(とりあえず、指示 reference ないし表示 denotation には対象が必要になるが表象はそうではないから、と解すればよいか)。

指示ないし表示にこだわるなら、非現実の対象を認めるという手段もありうるが、ウォルトンはその立場をとらない。たとえば、『白鯨』におけるエイハブは彼を表象している作品から独立していない。これは表象作用の現実の対象とは異なる。また、もし「『白鯨』はエイハブを創造し、それに加えて彼を表示する」としたとしても、そもそも後者の「表示」は必要だろうか(たとえば表示することなく創造することはできないであろうから、独立して分析できないのに)。ごっこ遊び説であればそういった不要な二段構えを置く必要はない。

あるいは、表象作用を指示表現ではなく言語的述語を範例として理解するという立場はどうか。こちらもたしかに似ている点があるにはあるが、けっきょくのところ術語は(現実の)事物に特性を帰属させるためのものである一方、表象体はそういうことはしない、ということで却下される。

非現実の対象は?

まず、架空の対象がなんらかの形で存在すると考えたいのは、まあわからんでもないよ、みたいな話がされる。たとえば「洞窟壁画が現実の対象を描いているかどうかは鑑賞体験に根本的な影響を与えるわけではない(ので、現実に存在しているかどうかを重要視する必要はないように見える)」など、(前節ですでに不要ということになった)よくある意味論/存在論的なのとはちょっと違ったやや美学寄り?の観点から述べられる(おかげでここは新鮮味があっておもしろかった)。

なかでもとくに紙幅を割かれるのは下記のように「個別的な」事物の想像を命じているかどうかの違いに関して。

(A) ジョージは、年老いてひどく疲れ果てた幽霊で、スプルース街の荒れ果てた屋敷に住んでいました。おしまい。

(B) 幽霊たちがいました。スプルース街の荒れ果てた屋敷に住み着いているものもいました。おしまい。

Aでは(小説の登場人物などのように)「個別的な」幽霊を想像することを命じているがBはそうではない、と区別できる。そして、表彰体が虚構の対象を持ちうると認めなかった場合、この違いが失われるように見える。

こういった問題について詳しくは第4部で取り組むが、ひとまずこの時点でも、(架空の対象の存在を認めないままでの)ごっこ遊び説で説明できるとする。大雑把に言えば、これらの区別は表象体がどのような虚構的真理を生成するか(つまりなにが存在するか)ということに存しているわけではなく、その表象体を用いて行われるごっこ遊びに存している。Aは「ある幽霊について(知るということだけでなく)知りつつあるところだと想像する」というごっこ遊びであるが、Bはそうではない(おそらく、第1章 p.44 で触れられていた「命題的でない想像」の話と関係するかな?)。

ともあれ、当座のところは「存在する」と考えておいても大きな問題はない(し、そのように語っているときに意味しているのはどんなことなのか、なぜそのように語ってしまうのか、そしてなぜそれでも大方は問題ないか等々も追って考察する)が、最終的に第4部で明確に排除するよ、という感じで本章はおしまい。


2022/04/15追記

冒頭で貼った記事を改めて読んだ結果、たぶん自分はどこか誤解している……と思ったので、以下メモっておきます。

というか「反射的表象体であるか否か」には「表象の対象が存在するか否か」は関係してこないか。「なんらかの想像を命じ、かつその 想像の対象 がそれ自身であるような表象体」というだけの話なのか。であれば赤ちゃん人形もトワイライトスパークルのぬいぐるみも反射的表象体だ。『完全な真空』も、表象の対象(になるような実在の書評集それ自体)は存在しないが、やはり反射的表象体である(手元にある本をそのような書評集であるという想像の対象とするよう命じている)。

いやでも、以下の通りやっぱ言ってるんだよな。

このお人形は、それ自身についての虚構的真理を生み出しており、それ自身を表象しているのである。

(c)id:Monomane https://proxia.hateblo.jp/entry/2022/01/28/020035#f-d339e856


続き: murashit.hateblo.jp

『フィクションとは何か』第2章のメモ

第2章 フィクションとノンフィクション

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

承前: murashit.hateblo.jp

※今回も実際の節構成とは異なるまとめ方をしていることに注意(なので、節見出しも同じではない)。流れとしては同じ。

2022/05/02追記:本章の内容については、清塚『フィクションの哲学』の大部分がこれに割かれており、かつ話としても詳細なのでそっちのほうがおすすめかもしれない。(さっき読み返していて、これかなり書いてあるやんけといまさら気がついた……)

虚構と現実

まず、「フィクション(虚構)作品」という語と「表象体」という語は(人工物でない表象体は別にして)おおむね同義であることが改めて確認される。つまり、「ごっこ遊びの小道具としての機能を持つ」ような作品がフィクション作品である。

なお、たとえば学術論文のように相手に信念を抱かせるよう意図して作られたものについて、「その論文によって何かを信じるときにはその何かを想像することを必ず伴うのであって、その意味でその論文は小道具と言えるのではないか」と考えるかもしれないが、そうでない。小説においてはその記述がそのまま想像を命じている一方で、論文の記述はその内容を信じよ、想像せよと命じるわけではない。あくまでその命題が真理である証拠を提示するなどしているだけであり、その結果として読者が論文の主張を信じることになる……という建て付けとなっている。このへんの説明に「現実世界」「虚構世界」とかの概念を組み込む必要がないのはたしかにいいなと思う。 もちろん論文を無理矢理フィクションとして読むこともできるが、それは論文のもつ機能ではないということで退けてよかろう。

そして本書では、フィクション作品に対する「ノンフィクション作品」を「ごっこ遊びの小道具としての機能をまったく持たないもの」とざっくり定義づける。対して、小道具としての機能を備えたすべての作品は、その機能がその作品において周縁的であっても「フィクション作品」である。通常の用法よりも「フィクション」が覆う範囲がやや広い(フィクションとノンフィクションの混合物みたいなことを考えるのがややこしいので、というのもあるようだ)。

「フィクションが実在しないものを扱う」とか(ホームズのロンドン!)「『虚構の対象を扱ったノンフィクション』や『事実について間違った記述をしているノンフィクション』はフィクションである」みたいな素朴な考え方をするのはやめよう、とも。これはまあ普通にそう。

私たちの現在の関心は、「現実」に対立する「虚構」ではない。また、「虚構」と「事実」や「真理」のと対比でもない。

言語行為と虚構

言語の虚構的使用にもとづく考え方では、絵画的な虚構を説明するには十分ではないのは明らか。そのうえで、文学的虚構についても実際のところどうなの、みたいな話が展開される。

まず、虚構的な言語使用を「ふつうの言語使用」から二次的なものとするような(意味論的な)言語理論には無理があるとする。虚構とそうでないものの違いは意味論ではなく語用論の水準にある。ただし、一般的な言語行為論的な枠組みもやはりうまくいかない……という話になっていく。

よくある言語行為論的な枠組みのひとつでは、フィクションとノンフィクションの違いを作者の意図や真理性へのコミットなど、(明示的な……というのも、教訓的なフィクションがあり得るから)「断定」を行わないテクストとして理解する。しかし、このような「なにか(ここでは断定)の機能を欠けさせている」という見方だとうまくいかない。たとえば歴史小説をフィクションとして理解できないし、「作者が、作中のすべての文について真理性を主張し、なおかつフィクションを書いている」というケースもありうる。

続いてサールのふり説(こちらは「(明示的には)欠けている」ではなく「真似ている」)が検討される。この説にもいろいろ難点はあるが、文学的でない(絵画などの)フィクション作品の作者や、人形製作者が「断定のふりをしている」(寄生されるような「真面目な」使用がある)とは考えられないだろう、というのが決定的な反論とされて退けられる。結局文学的フィクションも含めて、「フィクションの書き手は、発語内行為を遂行するふりをしたりする必要はない」。「発語内行為を表象する」とか「言語行為を模倣する」等と言っても同じ。ここらへん、正直否定しきれていないような印象もある。ただ、あんまり読めていない可能性もあるしよくわかんない。

ありうる言語行為論的な枠組みのもう一つは、虚構制作はそれ自体で一つの種をなすような言語行為であるという説。このときフィクション作品は虚構制作という発語内行為の表現媒体であるということになる。しかしこの枠組みもうまくいかない。たとえば断定という発語内行為を考えたとき、断定文はそれが断定という人間の行為における手段/表現媒体であるから重要なのだ(その意味で、ある文が断定文であるのは派生的である)。しかし虚構制作という発語内行為においてこれを適用しようとしてもうまくいかない。小道具がごっこ遊び的に信じさせる機能は、作者の「虚構制作」という行為とは独立している。断定などの行為と異なり、フィクション作品で遊ぶ際には作者の行為のほうに最初から焦点を当てているわけではない。「機能が虚構制作者の意図にもとづくと理解されるかぎりでは、制作者が影響をもってくる。しかし、もとづくと理解せねばならないわけではない」。意思疎通の機能を持つことはあるけれど、それは虚構にかんする機能とは別の話、と。

というわけで、最終的な主張としては「虚構の基本的な概念は言語とは独立である。とりわけ言語の『真面目な』使い方とは独立である」ということになる。

分類の曖昧さについて

なんだかんだで、フィクションとノンフィクションの間には曖昧なところは残る。そのうえで、以下のように述べられる(これはめっちゃ良い方針だと思う)。

虚構を説明する目的は、分類をやりやすくすることではない。そうではなくて、時にとても複雑で繊細な個々の作品の特徴を、洞察できるようにすることである。そういう洞察は、作品を収納する分類箱を明快に指定することに存してはいない。むしろ私たちは、分類に抵抗する作品たちがなぜそのように抵抗しているのかを理解する必要があるのだ。

実際にフィクションとノンフィクションが重なることはある。たとえば有名な『アンナ・カレーニナ』の冒頭の箴言は、トルストイの主張であると同時に、語り手がそれらの言葉を断定として発話したことを虚構として成り立つような機能も持ち合わせているだろう。その意味でこれもフィクションである。

なお、この「機能」という概念を突き詰めることも本書では行わない。作者の意図や慣習などにどの程度の重みを与えるかはいろいろ考えられ、それに従って境界線上の事例もさまざまに現れる。それでも、断定の媒体になってるかどうか、知識を伝える手段になってるかどうかといった点でフィクションかどうかを判断するのではなく、(それが主目的であれそうでなかれ)ひとえにその作品が想像活動を命令するかどうかという点でのみ判断すればよい。

なお、この立場に立ってみると、神話について「もともとはノンフィクションで、のちにフィクションとなっていった」みたいな理解にはならない。それこそニュージャーナリズムの作品のように、最初から想像を命じるような(そしてときにはそこから教訓を得るような)機能を持っていたわけで、その意味で今も昔も(本書における)フィクションであることは共通している。この点において内容が事実かどうかは二次的といえる。

真理・実在および意味論

このあたりは、原則として特定の立場にコミットするものではないということに尽きるようだ。本書の立場において重要なのは、(すでに第1章で述べられたとおり)虚構性は実在性や真理性と独立であること、そして、それらが組み合わされたときにどのような役割を果たすのかといったこと。意味論まわりの話(第11節)は正直あんまりよくわからなかったので置いとく。

続き: murashit.hateblo.jp