SS将校のアームチェア - ダニエル・リー

このブログは、自分がなにか本を読んでおもしろいなと思ったとき、なぜおもしろかったかについて考えるブログです。で、今回はこれ。

SS将校のアームチェア

以下はみすず書房のサイトより。

古いアームチェアを修理に出したところ、中から書類の束が見つかった。鉤十字の印があり、一見してナチの文書とわかるものだった。誰が、何のために隠したのか。謎を託された著者は、その行方を追う。

書類の持主は、ローベルト・グリージンガー。SS(親衛隊)将校だった。プラハの椅子職人、シュトゥットガルトに住む甥、二人の娘、遺された日記、各国の公文書館を探るうちに、その人生が徐々に明らかになっていく。

娘たちは父親がSS将校であったことを知らなかった。グリージンガーはSSに所属しつつ、法務官として仕事をしていた。彼のように一見普通の市民として生活していたSSは多くいたが、戦後の裁判の対象ではなかったため、その実態は定かではない。

第三帝国の一部として淡々と職務を果たした「普通のナチ」と、その家族。歴史から忘れられたナチの足跡が浮かび上がる。

冒頭にも書いたとおり、おもしろかったんですよね。なんでか。暫定的な答えとしては、本書が「ひょんなきっかけから泥沼の探索行にはまりこむ」という類型だったからではなかろうか。以前ブログにも書いたとおり、『光をかかぐる人々』はたしかにそういった味のある記述でした。直近に読んでいた『ドードーをめぐる堂々めぐり』もそう1。自分がその類型をおもしろく感じ、これらはいずれもその類型にあてはまるのだと。

と、これで答えとしてもいいわけですが、せっかくなのでもうちょっと掘り下げてみます(そういうブログなので)。「ひょんなきっかけから泥沼の探索行にはまりこむ」というのは、いったいどういうお話なのか。ざっと箇条書きにしてみると……。

  • 「ひょんなこと」から最初の謎が与えられる。この謎じたい興味深く、それにまつわる話をちょっと掘ってみようと著者は考える
  • それを解くための手立ては著者に与えられているように見える。だからこそ探索を開始してしまう。予想される探索はめちゃくちゃに難しそうというほどではなく、多くの場合「これまでみすごされてきたものを、その疑問という視点のもとで掘り返す」といった程度のものではある。ただし、実際にそのための直接的な情報源が残っているかは不明である
  • そうして「最初の謎」について調べているうちに、その背後にあるもっと複雑な事情が、著者の琴線に触れてしまう。有り体にいえば「実存的」な問いがぼやぼやと現れだす。これは必然といえば必然で、「最初の謎」について、放っておいてもいいところをわざわざ調べようとしたのは、その予感があったからこそではないか。「自分に調べられる」と思えるのは、自分がなにかしら関わってきたものと薄くでもつながりがあったから、ともいえる
  • 「最初の謎」の答えにはなかなか辿りつかない。みすごされてきたことにはそれなりに理由があり、だからこそ情報が残っていないことがわかってくる。けれど一方で、周辺の情報はどんどん頭のなかに入ってくる。当初の疑問に答えるためだった探索行が、「実存的」な問いに対する探索行、つまりある種の自分探しの様相を呈してくる。ただ、実際のところそれについては多くの場合文中では陽には触れられない
  • そして、その先がまだある。ついには「自分探し」でさえ二次的になってきてしまうのだ。当初の謎の背後にある実存的問い……の、さらに後ろにある「確定されえない事実」みたいなものに突き動かされるようになる
  • だから、結局当初の謎も、自分探しも、最後まで解決されなくてよい(というか、多くの場合、解決されない)。ここに至り、そんなものはもはやどうでもいいのかもしれない。結局のところ「なにか大きなもののまわりを、空白の輪郭を描くように、めぐっていた」という形で、結末がついたのだかついていないのだか、ぼんやりと、投げ出されたようにして、終わる

特徴付けとしてはおおまかにこんな感じのように思います。「最初の疑問」という一段目のブースター、「自分探し」という二段目のブースターを経て、その先のあてどのない(適切な形で問えない)探求それ自体に心を奪われてしまう……と言ってもいいかもしれない(もちろん完全にこれにあてはまるものばかりかというと微妙ではあって、多少デフォルメしたものだと、差っ引いて考えてもらったほうがいいかもしれませんが)。

たとえば、「当初の疑問」の答えを求め、それが得て終えられるのであれば、ノンフィクションとしてパキっとまとまるにちがいないんですよね。あるいは、いわゆる巻き込まれ型で、かつ実存も関連して世界の「真実」に気付く……みたいなのは、ゲームとかでよくありそうです(FF7とかが思い浮かぶ)。でもこの類型はそういうんじゃない。そして、これってちょっとおかしいんですよね。なにか、すでに知らないような経験(最初の疑問)に晒されて、その疑問を解消しよう、安定した信念を得ようと考えることは理にかなっている。最初の疑問に関していえば、とりあえず答えが出るはず(そして出るための手立てがあるはず)だからこそ探求を開始したのだから。なんらかの形でいつか確定できるという想定は、探求において置かざるをえない前提のはずなのだから2

でも、今回の類型に限っていえば、最終的にはそうならない。ミクロな仮説→探索→解決というループはあっても、それが大きなものに向かっていかない。悪しざまに言ってしまえば、「惰性」となっている、自己目的化しているとさえ表現できてしまうかもしれません。情報の欠けたなかで空白の輪郭を描くというのは、そうならざるをえないものではあるのですが……。

で、おそらく、そこにおもしろみがあるのではないかと思いました。

……思ったものの、これだけじゃあたぶん掘り下げ足りないですよね。でも、もうちょっと温めつつゆるゆる考えてみようと考えています。せっかくなのでいろいろ、似たようなものを読んでみようと3

なんで、今日のところはそんな感じで。

追記(2022-02-27)

めちゃくちゃありがたい&勉強になる反応をいただきました。みんなも読もう! anatataki.hatenablog.com


  1. ツイートもした。そして、このツイートで触れているとおり、ここで書いてあるうちのいくらかは、この時点でなんとなく感じていた。

  2. 今回の話にそのままあてはめられるものではまったくないのですが、おおざっぱな発想のもととして、これも最近読んだ『プラグマティズムの歩き方』のC. S. パースの考えから来ているような気がしています。端的にはこのへんとか:Totus Teres atque Rotundus: パース「信念の固定化」について

  3. ちょっとここでもうすこし。もともと『SS将校のアームチェア』を読もうと思ったきっかけはid:washuutakumiさんのこの記事で、それに関係して同じくこちらの丸谷「横しぐれ」とか沢木「おばあさんが死んだ」への言及を辿り、同意しつつも、もしかして僕がここで言っていることはそこともズレているような気がする、と思ったので、というのもあります。

Inscryption

君も、私と同じぐらい戦いを楽しむことになるだろう。

store.steampowered.com

へえええぇぇぇぇぇ……。あんた、Inscryptionをやったんだ。やったんだね。いいよいいよ、言わなくてもわかってる。

でも、どうしてだい? べつにそんなもの、しなくったってよかったのに。だってそうだろう? わざわざ自分を山小屋に閉じ込めて、ゲームマスターの言うことに従って……それからまじまじカードを眇めて、ちまちまトークンを数えて。しゃっちょこばった身体を伸ばしたくなったんなら、ゲームマスターの台詞にイラついたってんなら、いつでもすぐにやめちまえるってのに……辛気臭いカードもトークンもうっちゃってさ。カウチでポテトでもつまんでたほうがよかないかい? なのにあんた、「最後」までやったんだろう?

だんだんとルールがわかってきて、パターンが読めてきて、あんたなりに「強い」と思える手札が揃えられるようになって……いいね、悪くない体験さ。それは認めよう。だけど、それで……? それでどうするんだい? 終わっちまえば、そんなもんぜんぶパアだってのに。ゲームマスターが「やめだ」と言えば、それでぜんぶパアだ。知ってるよ、あんたはいつだってその予感に怯えてる。だいたい、そうやって「強く」なることだって、ゲームマスターがね、そんなふうにならせてやるよって、お情けのおかげだろうに。まあ、あんたが途中で飽きたって、同じことかもしれないけどね。

ルールといえば、そうさね、覚えてるだろうと思うけどね、「力の行使には代価が必要」ってルールがあったはずだ。だけど、ほんとうに? だって、現実には、べつにさ、そんなルールなんてないだろう……? あんたはなんら代価を支払うことなく暴力を振るっているし、振るわれている。わかってるはずさ。なのにあのゲームマスターは……いやいや、そんな顔をしなさんな。そうじゃないのがゲームってもんだと、そう思ってるんだろう? それとも、無制限に行使できるって、そんな現実が怖いのかい? そんなわがままに、付き合ってやってんだか、それとも、付き合ってもらってんだか。

それに、「最後」だってそうさ。「最後」ってなんなんだい? その、ゲームの、ことが、全部、わかった……って? いいよ、言わなくてもわかってるよ。ほんとうに「最後」までは解いちゃいないんだろう。まあまあ、それは無理ってもんだ。せいぜいが、「やった」っていうだけのことさ。でも、どうしてだい? 「最後」まで見届けてやろうって、あの意気込みはどこへ行っちまった? たんに面倒臭かったってのかい? それとも、そこまで従うのが、それはそれで怖かったって? まあ、どっちでもいいけどね。ともかく、あんたが自由を行使できてよかったよ。あんたはちゃんと、自分の手で、ぜんぶをパアにしてやったってことさ。おかげで、あんたはお気楽で無軌道な現実に、また戻ってこられたわけだ。

まあ、これに限らないさね。あんた、ネットワークの向こうの誰かさんをぶちのめしたいからゲームやってんの? あんた、誰かさんが作り込んだ複雑な掌のうえで踊りたいからゲームやってんの? あんた、誰かさんに成り代わって物語を辿りたいからゲームやってんの?

……え? まだやってない? ほんとうに? ……そうか……そうか。じゃあ、あたしがいま言ったことはぜんぶ忘れておくれ。……わかったね、約束だよ。

EUREKA

こんなふうに言い訳から入るのはまったく褒められたものではありませんが、やっぱり一見したくらいで飲み込むのは困難で、実のあることを書ける気がしない、けれど現時点でどう感じたのかをなんらか書いておきたく思ったので、そうさせてください。書くのであればいついかなるときだって言い訳なんてする必要がないことも同時にわかっている。

以下ネタバレがあります、って書いたほうがいいのかな。ネタバレがあります。


というのが、なんだろう、「自分はこれが見たかったんだ」というのと、「ほんとうにこれでよかったのか」というのがないまぜになった気持ちなんですよ。「これがエウレカエウレカセブンとそれに連なる作品群)だ!」と「エウレカエウレカセブンとそれに連なる作品群)になっちまった」というか。いや、まちがいなく、ぼく個人としては、これを見られてよかったんですよ。それほど忠実なファンとは言えないものの、ここまでシリーズをを追ってきてよかったと感じた。

というのがそもそも、今回の三部作って、(まさにその点においてヌけているところはありつつも、ひとまず基本ラインとしては、サーストンではない、喪失された)レントンビームスを描くハイエボ1から立ち上がったシリーズであり、それがあったからこそ、ANEMONEだって(最後のレントンさんの登場は措くとして、そこを除けば)「レントンのいないエウレカセブン」として続くことができた、そして傑作たりえたと思っているんです。「らしさ」からいかに逃れようとしているのか、でもそこに残ってしまう「らしさ」がある……みたいなことを感じてしまうのが醍醐味なところはまちがいなくある。「らしさ」っていう意味ではANEMONEだって、「レントンのいない」が付いたところでそれはエウレカセブンだ、徹頭徹尾借り物であることを明らかにしているという点だってそうなんだ。ただ、(最後のレントンさんの登場は措くとして、そこを除けば)そういう「らしさ」によってこそ「らしくなさ」が成り立っていたんじゃないかと、ANEMONEはその力学が(もしかしてたまたまだったりしないかとも思うんだけど)綱渡り的に均衡して成り立っていたのではと思ったんです。

そこで今回第三作のEUREKAはそれを引き継いでどうすんのとなったとき、エウレカとアイリスとの逃避行からデューイを挫くところまではANEMONEのときと同じ意味でほとんどパーフェクトだったんですよね。それについてはおそらく、とくだん多言を弄す必要もないはず。あいかわらず懲りずにエウレカセブンでありつつ、だけどエウレカセブンでなくなろうともしていて……ただ、それでも、ついには出てこなきゃならないわけですよ、レントンさんが。そのために繰り返されてきたんだから。すべての決着がついたかに見えたにもかかわらず。最後のピースとして出てこないわけにはいかない。そんなところまで来てしまっている。だから、軌道エレベーターが落ちる(真顔でこれやるの?)、ホランドの特攻がある(真顔でこれやるの?)、レントンが現れる、そしてすべてが許される。そうだ、これぞエウレカセブンだ! 正直まさにその部分にこそ心が躍ったところは否めません。そうだ、これがエウレカセブンなんだ……が、それでよかったのか?

よかったような気もするんですよね。きっと、そうするしかなかったんじゃないか。いや、そうしてくれて、なんだろう「ありがとう……」みたいな気持ちさえある。レントンが悪いわけじゃないんですよ、当たり前なんだけど。エウレカ、よかったね、と素直に思うし、アイリスの最後の言葉だってそう。そこまで含めてすごいものを見たな……と思う。でも、わたしは、それを見てこう書いているわたしは、ほんとにこれでいいんですか?

わたしは、ほんとにこれでいいんですか? もしかして、なにか勘違いしていませんか?

『文体の舵をとれ』練習問題(7)「視点(POV)」問一

400〜700文字の短い語りになりそうな状況を思い描くこと。なんでも好きなものでいいが、〈複数の人間が何かをしている〉ことが必要だ(複数というのは三人以上であり、四人以上だと便利である)。

出来事は必ずしも大事でなくてよい(別にそうしても構わない)。

ただし、スーパーマーケットでカートがぶつかるだけにしても、机を囲んで家族の役割分担について口げんかが起こるにしても、ささいな街なかのアクシデントにしても、なにかしらが 起こる 必要がある。

今回のPOV用練習問題では、会話文をほとんど(あるいはまったく)使わないようにすること。登場人物が話していると、その会話でPOVが裏に隠れてしまい、練習問題のねらいである声の掘り下げができなくなってしまう。


問一:ふたつの声

①単独のPOVでその短い物語を語ること。視点人物は出来事の関係者で——老人、こども、ネコ、なんでもいい。三人称限定視点を用いよう。

午後四時のコンビニに客は少なく、雑誌を立ち読む男がひとりだけ、いつも通りならあと半時は動くまい、来たる夕食どきに備えて品出しを一段落させたユウジは、続いてなにを片付けるべきやと思案しいしいレジへと戻る。戻って、立ち、見れば、自動ドアの向こうに少女がひとり首をかしげている。センサが反応しないらしい。立ち往生とみえる。察したユウジはドアへと近づく。ひとりでに開く。おそるおそる入ってきたワンピースの少女は、ユウジに向いて立ち止まる。反射的にいらっしゃいませと音声したユウジは子供が好きだ。少女は震えていたが、ユウジにそう見えたというだけのことかもしれない。ユウジは子供が好きだから、どうしたのと声をかける。かけたところで立ち読んでいた男が動き出す。半時は動くまいと踏んでいた男に、お前こそどうしたんだよ、と思うや、少女はおつかいに来たのだとユウジに告げる。牛乳を買いに来たのだと。なるほど。だから、あそこだよ、と、ユウジは指差してみせる。少女はどこか楽になったと見え、膝を高くに歩きはじめる。もちろん、付いていってやるというのは、それは、やりすぎであろう。それに店員として男を待たねばならない。ユウジは思案しいしいレジへと戻る。戻って、待つ。パック飲料の棚はレジからも見渡せる。少女はプライベートブランドの牛乳を眇めている。しっかりしたものだ。いや、そっちは低脂肪乳だ。そう、そう、それだよ。選ぶことに満足したらしい少女はおっかなびっくり牛乳パックを抱え、レジへと歩きだす。ユウジはため息をつく。安堵して、男が居ると思しきを見れば、いつも通りのチューハイを片手に、つまみを片手に、やはりこちらもレジへと歩いてくる。あぶない、とユウジは反射する。なぜって、ちょうど二人がかち合うと見えたからだ。けれど、そうはならなかった。歩を早めた男が先着だ。ぶつかるだろうが、大人気ねえ、そう思ったユウジではあったが、もちろんおくびにも出さない。いつも通りにレジを打つ。先手をとられた少女を横目に、なぜって少女が気がかりだったから、いつも通りならレジ袋は不要だと考え考え、先手をとられた少女を横目に見ながら、なぜって乱暴な大人に横入りされたなんて気落ちしているのではと気がかりだったから、ユウジは少女を横目に見ながら、男の差し出す金を受け取る。そんなユウジの心配をよそに、少女はレジ前の通路に並ぶポケモンのグミを物色している。グミを買うだけのお金は持ってきているのか、それになにより、牛乳を床に置くのはやめたほうがいい、そうやってユウジがまた別の心配をはじめるころ、男はすでに影もない。

②別の関係者ひとりのPOVで、 その物語を語り直すこと 。用いるのは再び、三人称限定視点だ。

タケルは焦っていた。誰がどう考えたってコンビニで立ち読みなぞしている場合ではないのだから。社長室とは名ばかりの会社の倉庫、タケルはそこに鎮座する古びた金庫から、滞納した家賃の足しにするためと、締めて三十万を持ち出した。会社では小心者で通るタケルがそんな大それたことをするなんて、誰ひとりだって思うまい。タケルは実際小心者だ。だから、タケル自身にだって信じられなかった。けれど、タケルの羽織るジャケットの内ポケットには裸の札束があった。いくらもあったうちのたった三十万だ。締め日までは誰も改めないに決まっている。それでも三十万だ。タケルは胸にその厚みを感じる。用心するに越したことはない。さっさと逃げるに如くはない。どうせ逃げるなら家賃の足しにする必要なぞないはずで、そんなことは誰にだってわかるはずだが、いまのタケルが気付くはずもない。これでまずは家賃を払うのだとコンビニへやってきて、それなのに少年漫画誌を立ち読みしている。タケルは焦っていたのだ。焦っていることは自分でも分かっていたから、どうにか落ち着くことが肝心と考えた。タケルにしては良い考えと言える。なにごとも形からだ。ルーティンだ。誰だって知っている。だからそれを証立てするように、タケルは少年漫画誌を立ち読みしているのだった。今日はマガジンの発売日だ。グランドジャンプの発売日でもある。いつも通りであれば、タケルはまず、そのふたつを読みきる。それから檸檬堂とつまみを買って、未払いの積み重なった部屋へと帰る。今日だってそれができるくらいには冷静であると、それをするからこそ冷静になれるのだと、タケルは思い込もうとしている。もちろん、誰がどう考えたって、あのタケルがそんなことで落ち着けるはずもない。飛ばし飛ばしに読んでいるマガジンは、三十分経って、それでもまだ半分だ。はじめの一歩が頭に入らない。と、店員がタケルのほうにやってくる。いつものタケルなら、そんなことに気がつかない程度には読みふけっているところだ。だが、今日のタケルであればすぐに気づいてしまう。もちろん、なにかがバレだなんて、そんなことがあろうはずもない。そんなことは誰にだってわかる。入り口に子供がいて、店員はそれに気がつき、やってきた。それだけのことだ。けれども、それを横目にしたとたん、タケルの心中に、なんとなしに厭な気持ちが起こった。厭な気持ちはすぐに具体的な言葉に結ばれる。もうやめたほうがいい。タケルは突然そう思う。誰もが知るとおり、啓示というのは突然であるからこそ啓示たりうる。もうやめたほうがいい。タケルは声に従う。マガジンを棚に戻す。わかった、これが最後だ。例の子供に目もくれず、飲料水の棚へ向かって、檸檬堂を一本、それから今日選んだのはカルパスだ。タケルはこれを最後にするつもりだ。飲んだら、飲んだ勢いで、金を返しに行く。タケルは歩みを早める。景気づけの日にはいつもカルパスだ。レジへと向かう。もう決めたことだ。会計を済ませる。ただ、最後に酒を飲むことくらい。踵を返す、と、子供の横顔が目に入る。子供は駄菓子を物色している。小学生のときに好きだったタカセに似ている、だからかもしれない、そうタケルは気付いて、足早にコンビニを後にする。だからなんだというのか、誰だってそう思うにちがいない。

『文体の舵をとれ』練習問題(6)「老女」

今回は全体で一ページほどの長さにすること。短めにして、やりすぎないように。というのも、同じ物語を二回書いてもらう予定だからだ。

テーマはこちら。ひとりの老女がせわしなく何かをしている──食器洗い、庭仕事・畑仕事、数学の博士論文の校正など、何でも好きなものでいい──そのさなか、若いころにあった出来事を思い出している。

ふたつの時間を越えて〈場面挿入(インターカット)〉すること。〈今〉は彼女のいるところ、彼女のやっていること。〈かつて〉は、彼女が、若かったころに起こったなにかの記憶。その語りは、〈今〉と〈かつて〉のあいだを行ったり来たりすることになる。  この移動、つまり時間跳躍を少なくとも二回行うこと。

一作品目:人称―― 一人称(わたし)か三人称(彼女)のどちらかを選ぶこと。時制――全体を過去時制か現在時制のどちらかで語りきること。彼女の心のなかで起こる〈今〉と〈かつて〉の移動は、読者にも明確にすること。時制の併用で読者を混乱させてはいけないが、可能なら工夫してもよい。

二作品目:一作品目と同じ物語を執筆すること。人称――一作品目で用いなかった動詞の人称を使うこと。時制――①〈今〉を現在時制で、〈かつて〉を過去時制、②〈今〉を過去時制で、〈かつて〉を現在時制、のどちらかを選ぶこと。

なお、この二作品の言葉遣いをまったく同じにしようとしなくてよい。人称や動詞語尾だけをコンピュータで一括変換してはいけない。最初から最後まで実際に執筆すること!  人称や時制の切り替えのせいで、きっと言葉遣いや語り方、作品の雰囲気などに変化が生まれてくる。それこそが今回の練習問題のねらいだ。

三人称、現在時制

石畳に火花が爆ぜる。刀身実に六尺の大剣が地を削り、杖突き歩く老婆を狙う。一弾指、足元も覚つかぬと見えた標的は腰を撓り、鉄塊がその鼻先を掠める。だがそれも承知の上か、刺客はすぐさま得物を翻し、今度はまるで木の枝でも振り回すかのように、左から右へ、右から左へと打ち込みに転ずる。それでも老婆には擦りもしない。か細い杖一つで大剣を往なす彼女は、既にその太刀筋を知り抜いているとしか思われぬ。

それもそのはず、瞬く形勢から過去の記憶を呼び起こし、呼び起こした記憶そのままに、敵、そして自らさえも操る能力者、かの《記憶の模倣者(メモリ・トレーサー)》とは彼女のこと。こたび呼び起こさるるは三十余年を隔てた襲撃の記憶。目前にはあれと見紛う大男、これと見紛う大男。どちらが「いま」か、どちらが「あの時」か、つまらぬ区別など最早彼女には意味をなさない。寸分違わぬ呼吸、寸分違わぬ軌道の一太刀一太刀に、通暁を尽くした型をなぞるが如く、彼女は泰然と応じてゆく。

これ以上は切りがないと悟ったか、襲撃者も立て直すべしと決めたらしい。締めの一振りを大きく外した勢いがそのまま、身体ごと右回りに後方へ飛び退く。しかし、《メモリ・トレーサー》がその隙を見逃すはずがあろうか。老婆の手元に何やらぎらりと見えたその刹那、既に彼女は五十六年前の記憶の裡に立っている。見れば、ざんばら髪に隻眼の、ひょろりと伸びた美青年。巨躯に大剣の醜男とまるで形は違えども、肩口そして太股の肉に固さが見える。然らば彼女が追うべき動きもまた、毫と違わぬはずだ。仕込み刀に虚を突かれ、二間の縮地に怯え切り、三度の刺突に体幹を崩した男には、敵が左の手に取った一丁の手筒にさえ気付けまい。

銃声が響き、巨漢と鉄塊はともに地に伏す。止めの瞬間に何を思い出したのだろうか、対する老婆は慄然と立ち尽くし、目を潤ませている。

一人称、今=現在時制/かつて=過去時制

顔を上げれば、ほうら、馬鹿みたいにおおきな剣が地面を引っ掻いて、ものすごい勢いで——いや、ひどくゆっくりと、こちらに迫ってくるのが見える。またお客さんかい。やれやれとわたしは腰を反り、それから空を仰げば、馬鹿でかい剣の切っ先が前髪をかすめる。あの年はひどかった、厄年だったからだろうか。あのときもやっぱり、馬鹿がひょっこり来たのを避けながら、透いた空を見上げたんだった。大柄ななりに似合わぬ童顔で、その釣り合わなさのせいか、そりゃもう不細工な男だった。ぞんざいに得物をすくい上げ、それから力任せにぶんぶんと振り回していた。そうそう、ちょうどこんな男に、こんな得物だった。だからわたしは五寸ほど身を引き、右手首をひねりつつ、腰から杖を振り上げて、受け流し——いやはや、これじゃあまるで、わたしが稽古の相手をしてやってるみたいじゃないか。まるであのときのまんまじゃないか。知ってるよ、次が最後の一振りだろう。だから膝からひと屈み、お次はわたしの番。仕込み杖の掛け金を弾いたとたん、またべつの記憶がまとわりつく。あのときは、そうさね、なかなかの男前だった。それに比べてこんどのはひどい醜男だ。だけども、肉の動きに見える妙な癖はあの若い衆といっさい同じ。まずは左膝から外三寸にひと突き。それから上がって左脇。肩を大きく引いたなら、最後に右の脇腹にもうひと突き。身体が崩れ、男前が引きつったあの瞬間、こんな出会いをしたのでなけりゃ、なんて思ったっけ。私もまだまだ若かったってことだろうね。それに引き換え、目の前の馬鹿には、むしろこの引きつり顔のほうが似合って見える。これはこれで男前かもしれないよ。そうしてわたしは腰の手筒に手をかけて、腰だめに——ほうら、出た。やっぱり師匠の顔だ。止めを刺すとき、わたしはいつも思い出す。齢八つのおかっぱ娘がはじめてひとを殺し、ひとりだちした日のことを。

最近なんか書くときに断続的に考えていること

ね群の新刊告知と遅ればせながらの夜ふかし百合参加報告をしたいなと思って、その前置きをと考えはじめたところで、「これ、まとめるのにたぶんめちゃくちゃ時間がかかる(あるいは無理)」と思ったので、いったん雑な箇条書きのまま残しておこうと思いました。でないと成仏できそうにないので……。

というわけで、問題意識薄い!などなどご笑覧ください。用語の使い方についてかなり吟味が甘いのは、はい、そこは、すみません(そこをちゃんとするのが今はしんどいと思ったんですよ!)。

  • 問題意識1:そもそもなんで苦しんで小説書いてるわけよ
    • 最終目標としては、端的には文章うま太郎になりたいんすよ。注意したいのは、ここに物語的なおもしろさみたいな含意はいっさいないということ。なので、べつにノンフィクションでも詩でもいいということになる。ほぼ純粋に技法的な側面からの話
      • じゃあこの欲望のもとにあるものはなんだろう?というのは現状ちょっとわからないのだけど
      • 実際問題、物語を考えるのがマジで超苦痛なんすよ、そういう意味でメインの目的でないから
    • ではなんで文章うま太郎になるために小説を選ぶのかといえば、こちらはいくつか理由が考えられそう
      • 端的には書き方の自由度が非常に高いからではないか。ノンフィクションだとどうしても事実の軛がある。フィクションであればノンフィクションのふりもできる(でもって、それを分けるのは後述するとおりけっきょく語用論的なレイヤの話であり、ベタな技法面には直接関係してこないのではと考えられる)
      • 散文詩でもいいんじゃない?というのはもちろんある。あるんだけど、しんに言葉だけで自立させるのは正直ちょっと自分には荷が勝ちすぎると感じるところがある。ついでに言えば、最低限は読んでもらいたい(「こうせいああせい」とか「こういうのあるで」とか言われたい)というのももちろんあり、そのためには不慣れな物語制作をしたほうがまだましなのでは、と。かろうじてであれ、書くときの芯にもできるし、読んでもらうときの芯にもできるというメリットがある
    • 「技法」をもうちょっとだけ分解すると、構造(情報のマクロな配置みたいな話だったり、もっと抽象的な、全体が準拠するモデルだったり)、形式(文体みたいなミクロな話でもあるし、もっと表層的な、それこそプレゼンテーションの話である場合もある)に分けられるのかな?これもなんか直交してない気がするが、まあいいや
  • 問題意識2:けっきょく小説書くとき何してんのよ、なんでこんなにしんどいわけ?
    • そうはいってもやっぱりしんどいものはしんどいでござんす。そうなってくると、「そもそもおれは、いったいなにをやっとるのや」という疑問が生じるのも必定。そこでこの疑問になるというわけ
    • 何をしてるかって、端的には「フィクションを書いている」ということにはなるわけだけど、もちろんこれだけではけっきょくどういうことかはよくわからない。なのでフィクション論や、組まれた物語をどう整理できるか(ナラトロジーとか?)そのほかいろいろ気になってくる。実際にいくつか読んだりもしている
      • もうけっこう前だが清塚『フィクションの哲学』を読んでみたところから、ちょうど今シェフェール『なぜフィクションか?』を読んでいたりするのもそのため。ウォルトンの『フィクションとは何か』(積んでる)やライアン『可能世界・人工知能・物語理論』(これもけっこう前に読んだけどどうもわかった気がしなかった。今改めて読むと違うんだろうか)とかもそうでしょうか。なんかそのへんいろいろ、あと分析美学関連のものを目下読んだりしているのもそういうことだと思う
      • ナラトロジーについては……まあいいか、最近とくにおもしろかったのは大岩「物語に『外』などない」あたりとか
      • 構造というかモデルの観点からは、円城塔の話につなげて改めて数理論理学ちゃんとやっとかねば……というのもそのあたりに近いだろうか
      • ミクロな技法についていえばまさに文体の話ではあって、そういう意味では文舵のおもしろさというのはあきらかにその一種だし、あとはもちろん日本語文法とかについてもちゃんとやりてえと思っています
    • ただ、読んでくと、上記のような領域のなかでもそこまで興味のない分野があることが見えてくる
      • 端的には虚構世界やそこに住まう?キャラクターなどなどについて、ちゃんとした存在論?を考えることにはあんまり興味がないっぽい。もちろん虚構指示だなんだと考えるならある程度整備できておく必要はあるんだろうけど、そこからそれらの「実在」ってなんぞやみたいな話にまで持ってくモチベーションはないというか。それに、整備するったってガチガチに様相論理学とかができる気もしないし……。上述したとおり、どちらかといえば日常的な実践のほうに興味の出自があるからだとも思う
      • また、フィクションとは厳密にはなにか、というところもそこまでは……。いろいろ読んでいると、けっきょくのところフィクションとして読まれるのって、書き手と読み手の共有するモードの話としか言えない(統語論からも意味論からもうまく定めることが困難で、語用論の範疇でしかいえない)っぽいなということになってきて、自分自身そんくらいでいいやと落ち着いているところがある。理由としてはこちらも実践上それで問題ないしなというのはあると思う
  • 番外編:ボトムアップな論点
    • ここまではトップダウンな話。ここでは実際に書いたもののなかから見つけてみようと思うのだけど……ざっと見ると、たしかにいくつか挙げられるように思う。以下自作の名前が出てきますが、恥ずかしいからリンクを張るのはちょっと勘弁な
    • 表層的な形式について
      • 「神の裁きと訣別するため」の箇条書きや「点対」の二行ワンセットでの記述はちょうどこれ。「点対」の告知で書いた文章はこのへんへの意識をまあまあ書き出せているんではないか
      • ただ、この方向性については、正直「点対」がぼくの実装力の限界ではあったと思う。もっとやるならむしろビデオゲーム方面から詰めていったほうがいい気がするが、そこまでの実装力もモチベーションも、いまのところはないのであった……
      • Google Mapsで無段階に拡大縮小できる小説」みたいな話をどこかでしたことがある気がする。ほかにも環境ストーリーテリングみたいなのも興味ないこともないんだけども。逆に言えば、べつにこれ、いわゆるマルチエンディングみたいなのにはそこまで興味がないってことになるのかもしれない
    • 虚構世界の限りなさについて
      • 虚構世界のとっかかりを種としてつくれば、そこからばば〜っと虚構世界が立ち上がってくるでしょ、みたいな話といえばいいんかな……。無限に語れることが出てきてしまうわけで、だからこそ「問題はその切り取り方だよね」という次の項目への萌芽でもあるのかもしれない。もちろんそれは現実の世界という栄養があって育つものではあるが……とかとかちょっと比喩が過ぎるなこれ
      • なぜか最近ではいちばん明確に意識していることのようだ。なんでだろうね、よくわからないんですけど。「できるかな」は完全にそこから書いたものだし、次のね群の「大勢なので」はまあ、わりとわかりやすくそういう話もできている……はず(いや、直接的ではないが、十分そういう部分があるというか)
      • 端的には『はてしない物語』の有名な「これは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう」でもある。それこそ「点対」の紹介文にも使ったくらいだし……
      • あと、どうも自分は、バラードの有名な錆びた自転車の車輪の話をそういう話としてとっているフシがある。おそらくもともとのバラードの意図とは違うと思う
      • 突き詰めていけばさっきの存在論?の話になりそうとか、あるいは数学っぽい意味での健全性や完全性みたいな話(でアナロジーできるなにか)にもつながりそうなんだけど、とはいえ上述したとおりそこまでやりたいか?といえばそこまでではなかったりする、とおもう
    • 語り手・書き手の位置付けについて
      • 広くとればそんなもん誰でも意識するだろって話でありつつ、特殊化するといかにもな感じでメタフィクションにつながるやつ。でもでも「なんでこんなしんどいことを……」と思うとき、ここが頭をもたげてくるのは、そりゃあ、あるでしょうと。こっちも「はてしない物語』のさすらい山の古老とかの話と言えるのか……どんだけ気になっとるんや……
      • ただやっぱり、どちらかといえば情報を切り出すときのデザイン面での問題意識のほうが大きい、だからなんというか、それこそナラトロジー方面の意識はそれなりにある、んだと思う。一方で、じゃあ『紙の民』みたいな「書かれたものが反乱を起こします」みたいないかにもなメタフィクションについては(好きは好きだけど)自分でやりたいかといえばそういうわけでもないと思う
      • それでも、なにが記述できるのか/記述しなければならないのか、みたいなところはそれなりに意識的になるところではあって、このへんは円城塔とか読んでるときに気になっている点でもあるのかもしれない。先の項目とも、どうしても関連してしまう
      • あるいは、(この問題意識の芯を突いているかはよくわからないんだけど)SFとかで、人間とまったく違う思考をもっている者とかの心的表象(?……そんなものがあれば)を日本語に翻訳するという過程において、じゃあどう書くの、みたいなのは、「斜線を引かない」あたりでやろうとしてみたやつだと思う。端的にいえば、できないんすよね……
      • 最近語り手-書き手-作者の三項でうんぬんとかTwitterで言ってたのはこのへんの話のはず

総じて、なんか無駄な努力をしている感じだとか、そもそも勘違いしているのではという感じが否めねえんだよなあ……。

『文体の舵をとれ』練習問題(5)「簡潔性」

一段落から一ページ(四〇〇〜七〇〇文字)で、形容詞も副詞も使わずに、何かを描写する語りの文章を書くこと。会話はなし。

要点は情景(シーン)や動き(アクション)のあざやかな描写を、動詞・名詞・代名詞・助詞だけを用いて行うことだ。

時間表現の副詞(〈それから〉〈次に〉〈あとで〉など)は、必要なら用いてよいが、節約するべし。簡素につとめよ。

「プレイボール!」の声におれたちは土を蹴りだす、先導するのは「職人」マクソン。向こうのベンチからも九人、トップを切るのは「迅雷」スタージェス——打率は三割四分九厘。

 二十五秒後に会敵。マクソンには三人が付く。おれには一人、スタージェスだ。監督はいつまでマクソン任せにするつもりなんだ——来月には孫が生まれるんだぞ。今日こそ次世代のエースとして認められ、マクソンには隠居してもらう。だからおれはスタージェスと向き合う。右手には、今日のためにと娘のエバが掘り当ててくれたビンテージのメープル製。迅雷といえど、この体勢なら五分と五分だ。先制攻撃——スタージェスのボールめがけ、縮まった耳をめがけ、右斜め上方から片手で振り抜く。

 だが、おれが叩いたのは球場だった。「ストライク!」の声。右手に痺れ——復帰まで〇・二秒。スタージェスはその隙をつき、両手持ちに振り被る。大振りが当たるとでも思ったか——おれは右腕を残し、後方に跳ねる。「ストライク!」の声が——いや——スタージェスは振り抜いては——翻ったバットがおれの顎をめがけて迫る。

 衝撃。

——おれの身体はどこだ。「ホームラン!」と球審——頬には芝が刺さり——「迅雷」がホームベースへと歩きだす——バットを放り投げ——おれはそれを目で追う——晴天に太陽——見知らぬ男たち——おれに微笑む——あれは、タイ・カッブだ。それから、ベーブ・ルースロバート・ジョンソンジャッキー・ロビンソンもいる。核戦争前の、本物の球界の偉人たち。ハンク・アーロンカニエ・ウェスト。親父から聞かされた。ノーラン・ライアンロバート・オッペンハイマー。野球の殿堂へと。ショウヘイ・オータニ。ジェイ・ギャツビー。ジョー・ディマジオロバート・マクナマラランディ・ジョンソン。おれを迎えに来る。