いろいろあるのですが、呪術廻戦アニメ2期が毎回すごいと思ってニタニタしてたらほんとにずっとすごすぎてだんだん真顔になってきてることだけ書き残しておこうとおもいます
デジタルゲーム研究 - 吉田寛
本書の構成は下記のとおり。あとがきでも触れられているとおり、カテゴリに分けられつつ、それを超えて全体におおむねクロノロジカルに並べられた論文集。なお、第1章の初出は2008年である。
- 序——ゲーム研究とはどういうものか
- I:知覚と認知——プレイヤーはゲームをどう感じるのか
- 第1章:スクロール
- 第2章:視点と空間
- 第3章:ゲーム空間の記号学——二重化する知覚
- II:ゲームプレイ——プレイヤーはゲームをどう遊ぶのか
- 第4章:ゲームプレイと他者への信頼
- 第5章:カウンタープレイ——ゲームに抗うプレイヤー?
- 第6章:ゲームと公平性——社会革新としてのプレイ
- III:メディア——コンピュータで遊ぶ/コンピュータを遊ぶ
- 第7章:プレイヤーとキャラクター——ゲームにおける死の問題
- 第8章:メタゲーム——自己批評するゲーム
- 第9章:メディアとしてのゲーム
- IV:文化のなかのゲーム——多面化するゲーム研究
- 第10章:ゲームと音・音楽
- 第11章:eスポーツはスポーツなのか
- 第12章:ゲームの文化資源学
以下雑感。
まずそもそも、書き下ろしである「序——ゲーム研究とはどういうものか」がありがたい。ゲーム研究の前史から、ユール『ハーフリアル』までの(主に人文系の)ゲーム研究がひととおり紹介されるほか、「デジタルゲーム」や「ビデオゲーム」「コンピューターゲーム」といった名称についても(本書で「デジタルゲーム」を採用した理由も含め)まとめられている。デジタルゲーム、ひいては「遊び」についてのアカデミックな研究というものがあるらしいけれど、それってどんな営みなんだろう……みたいな疑問を持ったなら、ひとまずこれを読めばよいのではないか。もちろん「あ、こういうのなら興味ないよ」という場合もあるだろうし、ここにあるものだけがそういう研究だというわけでもないのだけれど、自分はこういうのっておもしろいと思ってるんだよな。なお、本書の刊行にあわせてブックリストが公開されているのでこちらもどうぞ。
- (1)日本語で読める遊び・ゲーム論の古典(5冊)
- (2)日本のゲーム研究・前史(1980~1990年代)(7冊)
- (3)日本のゲーム研究・黎明期(2000年代)(3冊)/(4)欧米のゲーム研究(4冊)
- (5)日本のゲーム研究・確立期(2010~2020年代)(6冊)
- (6)ゲーム史(2冊)/(7)デジタルゲームの技術の解説書(2冊)/(8)同人誌(1冊)
第I部のうち、第1章と第2章はそれぞれスクロールおよび視点/空間の分類学といった内容。読んでおもしろいとかいう感じではないけれど、もちろんこうやって整理してくれるのはありがたいし、古典的なゲームがたくさん事例として挙げられているのもためになる。『ザクソン』がおもしろそう。
第3章は、ゲームのスクリーンにあらわれる図像は「アイコン」と「オブジェクト」という二重の機能をもってるよ、みたいな話。もととなった論文への松永のコメントとあわせて読むと理解が深まるのではなかろうか(注釈としてこのコメントへの応答も盛り込まれている)。
なお、本章に限らないが、こういうデジタルゲームの研究を読んでいるとなにかしらの二重性(ないし多重性)みたいなのがよく出てくる。本書のほかの部分でいえば第10章でまた別の多重性が扱われているといってよさそうだし、ユールのフィクション/ルールの話は有名で、それをある程度引き継いだ松永『ビデオゲームの美学』だって「二種類の意味論」という構えになっている、などなど。複合的なメディアであるからこそってことなんだろうか。
続く第II部はどれもおもしろかった。
第4章では、losory attitudeの概念などを引きながら「ゲームには他者への信頼がはじめから組み込まれてるんだよ」みたいな話がされている。これ自体はそのとおりだと思うのだけど、たとえばゲーム以外のメディアを通じて「フィクションを鑑賞する」という状況にだってある種の信頼が必要なんじゃないかって気もする。態度になんらかの特有さはあれど、「信頼」くらいざっくりさせるとゲームに特有の話ではないのではなかろうか。どうなんだろうな。
第5章では、ギャロウェイのいう「カウンターゲーミング」の概念を下敷きに、プレイヤーがゲームにたいして「抗う」ような状況が検討されている。自分が最近最近考えていた規範とか「自由度」とかと関係のあるところなので興味深く読んだ。
第6章は「ゲームと公平性」。ギャンブルからはじまって、「運」と「技術」そして「労力」の観点から(ここも多重性だな)「ゲームにおける公平とはどういう意味での公平なのか」みたいな話になっていってる……と思う。それはそれとして、1976年のニューヨークにおいて、ピンボールがギャンブルでないことを示すために議員の前でデモプレイが行われたことがあって……みたいなエピソードが冒頭で紹介されており、それがめちゃくちゃおもしろかった。なんかViceの動画を見つけたので置いときます。
第III部は……このへんのゲーム的リアリズムの話(第9章はマクルーハンどうこうなのでちょっと違うが)について、自分は今も昔もあんまりピンとこなかったり興味のピントが違ってて歯がゆいところがあるため、置いておきます。好きな人は好きなんじゃないでしょうか。
とはいえ、ゲームにおけるメタレプシスの3タイプみたいな話はもうちょっと掘り下げて考えてみたくはある。『プレイヤーはどこへ行くのか――デジタルゲームへの批評的接近』所収の藤田「「カウンターゲーミング」と「メタフィクション」——批判的ゲームの可能性」が第5章のもとになった論文をかなり参照しつつメタフィクションを話題にしているので、あわせてそちらもチェックするとよいのではなかろうか。
第IV部はちょっと雑多。
第10章の「ゲームと音・音楽」については既存の研究をひととおり紹介してくれるといった内容なんだけど、そもそも映画研究でのダイエジーシス(物語世界内的)の概念を知らなかったのでめちゃくちゃ勉強になった。とりあえず「その音が世界内で鳴ってるかどうかみたいな観点からだけだとうまく整理できない」みたいな感じではある。個人的な一推しはこの章。(これも松永だが)以下も参考のこと。
第11章もまあ、いまどきだと素朴に「スポーツでええやろ」と考えられてると思うんだけど1、理論的にどこらへんに違いがあるといえそうなのか(たとえば、規則をオーソライズするしくみはぜんぜん違ったりする)ってところを整理しておけるといろいろ話がしやすくなるよな〜という感じである。
また、第12章のアーカイビングの話は持続的に興味のあるところなので、実際に手掛けたことのある著者自身が概観してくれるのはありがたい。現物保存、エミュレータ保存に加えて「プレイ映像保存」があるのがデジタルゲームならでは感。
以上、基本的には人文的なゲーム研究の話(第4部など産業史や技術史的な視点もないではないが)で、しかし一冊で体系立った理論書というわけでもないということで「どうなんだろうな〜」と思っていたところがあったのだけど、広範囲な文献が参照されていること、古典的なデジタルゲームがひろく紹介されていることのおかげでかなり勉強になる一冊だった。
- 「ゲームだって芸術だろ」と同じような話で、そりゃそうだしいまさら正当化するモチベーションはそこまでないわ、みたいな。↩
2023-11-14
Cory Doctorow: Science Fiction is a Luddite Literature – Locus Online
ドクトロウがこんなこと言っており、まあそらそうやろと思ってずっといろいろ考えてたのだけれど、いっこうにまとまらないのでいったんいろいろ挙げるにとどめる。
- ピンチョンの"Is it OK to be a Luddite?"
- スターリングの"Cyberpunk in the Nineties"
- 『90年代SF傑作選〈上〉』に邦訳あり。直接的な言及はないけれど、まあこの中に入れて問題ないやろ。『ディファレンス・エンジン』もあるし
- おおむかしに勝手に訳したことがある:"Cyberpunk in the Nineties" を訳した - 青色3号
- チャンの"Will A.I. Become the New McKinsey?"
- 原文はこれ:Will A.I. Become the New McKinsey? | The New Yorker
- 邦訳ではないが日本語で内容を知りたいならこことか:テッド・チャン「AIは新たなマッキンゼーとなるか?」(エッセイ)レジュメ - 機械仕掛けの鯨が
ラッダイトといえばヴォネガットもそうなんだけど(たとえば『国のない男』に"I have been called a Luddite. I welcome it."みたいなくだりがある)ここらへんの文脈からはちょっと外れるかもしれない。とはいえ『プレイヤー・ピアノ』とかはそのまんまである。ル・グウィン先生とかも探せばなんかありそう。
そのほかもろもろ:
2023-09-06
ご無沙汰しております。アーマード・コア6のためしばらくインターネット活動が弱まりそうです。よろしくお願いいたします。
The Cosmic Wheel Sisterhood(または一人称の占いとしてのアドベンチャーゲーム)
ストーリーとしては、「とある理由から遠い小惑星に流刑された魔女が、禁忌とされる存在(ベヒモス)と契約を結び、オリジナルのタロットカードの作成、そして友人その他の魔女たちとの会話および彼女らを対象としたタロットによる占いを通じ、魔女たちの共同体(コヴン)、ひいては宇宙の運命を変えていく」といったもの。そんなCosmicでWheelでSisterhoodなゲームなのですが、以下ではWheelの話しかしません。おそらく本作の魅力のメインはSisterhoodの部分にこそあるものの、今回はスルー。
さて、本作のコアループは(合間に回想があったり、後半には多少要素が増えるものの、本質的には)ほとんど下記に尽きています。
- オリジナルのタロットカードを作成する1。通常のタロットとおなじように、解釈に使えそうな言葉たちがいろいろと付いてくる
- 流刑先の小惑星に訪れてくる2友人その他の魔女たちと会話し、求めに応じてタロットを使った占いを行う
- 占った相手はその占いに影響を受け(詳しくは後述)、行動し、ストーリーが次の段階に進む
そしてこの占いの方法は、(正直あまり知らないのだけれど、たぶん)一般的なタロットによるものとそう変わりません。
- まず、「占いたいこと」を(場合によっては複数)決める。「このブログの未来」とかね
- デッキをシャッフルし、出てきたカードを(いずれかの)「占いたいこと」に割り当てる
- この割り当ての際に、「占いたいこと」に対するカードの解釈を「選ぶ」。「このブログは将来、世界人口の8割にのぼる人々から読まれることになる」とかね。「選ぶ」といったとおり解釈は一通りではない一方、いくつかの選択肢に限られてもいる3
ふつうの占いとちがっているのは(ネタバレになってしまうとはいえ、そんなもん「いかにもそういうゲームでござい」というナリなわけだしあらかじめわかるやろということで言ってしまうのだけど)、このときの「解釈する」という行為が、たんに「読む」「見る」のような受動的なものではなく、「書く」に近いものだということです4。必ず当たる(未来なら「必ずそのようになってしまう」、過去であれば「必ずそのようであったことになってしまう」)どころか、「いくつかの解釈から選ぶ」というフェーズの介在によって、「意図にもとづく操作」が可能となっている。異能バトルもので強キャラが持ちがちな運命操作系の能力ってあるじゃないですか、ほぼあれです。
で、こういう「占い」って、ストーリーのあるゲームにおける「選択肢」と相性のよいしくみだなと思ったんですよね。
というのが、(さきの脚注で触れたことと通じて)そもそも占いというものには「相手の求めに応じ、無数の選択肢をランダム要素によって絞り込みつつ、その絞り込まれた幅のなかで相手に対する解釈や助言などをつけていく営み」という一面があります(たぶん)。そしてこの図式は、ビデオゲーム、そのとくにストーリー進行にかかわる部分において、プレイヤーの(あるいはプレイヤーキャラクターの)望みをフリーワードでは表現できず5、限られた選択肢という形で表現せざるをえないという図式と相似しているようにみえるのです6。
というわけで、本作はこの相似を(通常の占いよりさらに積極性を強調することによって)うまく活かしているのではないかというのが今回言いたかったことです。そもそも占いを相手から求められている状況があり、そのうえでカードの作成とその場でのシャッフルによって自然にボトルネックを作る。そしてそのなかでプレイヤーが(あるいはプレイヤーキャラクターが)何を望むのかを選ばせる。そういう形になってるんですよね7。つづめるなら、選択肢の狭さに、占いというシステムによる説明をつけている8。あるいは、一人称の占いがアドベンチャーゲームそのものと重なっている。
こういったことがどこまで意図的なものなのかはわからないとはいえ、「(どんな能力をもったって)選べることと選べないことがある」みたいな命題がストーリーの核のひとつであることも鑑みれば、そこまでおかしな「解釈」ではないんじゃないかなとおもうのでした。
落穂拾い:
- 本文では「うまく噛み合っている」的にポジティブな評価をしたものの、タロット作成〜選択というメカニクス単体での深みはそれほどない。もちろんフレーバーとして、つまりオリジナルなものを作ることによる思い入れこそが重要なわけで、大きな瑕疵とはいえないのだが
- ひとによってはカードの読みの偏りでエレメントにも偏りが生じたりもするのかもしれないけれど、ふつうはそこまで表面化するものでもなさそう。周回してみると印象が変わったりするのかもしれない(カードの作成も含め、方向性をある程度調整していく、など)
- 会話の雰囲気は(翻訳もふくめ)とてもよくて、Sisterhood部分が気になるようなひとならきっと好きになれるんじゃなかろうか。冒頭でも述べたとおり、本作の魅力のメインはあくまでそこだとおもう
- 地味に音楽の使い方がめちゃくちゃいい。プレイヤーの心を大きめに動かす部分はそこがほぼ一手に引き受けていたと感じた
- 背景、メインの絵、サブの絵を選んで好きな位置に置いたり組み合わせたり……みたいな感じ。作成に際して「エレメント」(おもに占うことによって獲得できる)を消費するため、一度にたくさんのカードを作ることはできない。したがって、ゲームの進行にあわせて徐々にデッキの枚数が増えていくことになる。↩
- 流刑ということでもともとは他者の来訪も禁じられていたのだけれど、もろもろあってチュートリアル後すぐにそれが許されるようになる。↩
- ここで提示される選択肢は作ったカードのデザイン(ひいてはそれに紐付けられた言葉たち)によって異なる。↩
- 「ちがう」とはいったものの、後述するとおり、おそらくふつうの占いにもある程度そういう部分があるかもしれません。↩
- 生成AIの発展により試みが加速しているところと承知していますが、すくなくとも2023年現在では「現実的にはできない」という認識でよいと考えています。↩
- これを避けるためのひとつの方向性として、直截に選択肢を選ばせることを含めたさまざまなゲーム内操作のなかに分岐フラグを紛れ込ませるような方策がいろいろ試みられてきたんじゃなかろうかという思いはあるのですが、アドベンチャーゲームにあまり詳しくないのでここでは踏み込みません。↩
- とはいえここで白状しておくと、本作には、結末が大きく変わるような「大きな分岐」と、大筋にはかかわらない「細かな分岐」があり、前者に関しては占いによらない選択肢の提示の比重が相応に高そうにもみえます(リプレイアビリティを考慮しているのかもしれない)。↩
- もちろんけっきょく、絞り込まれた幅のうちでの稠密さは依然失われたままなのですが、最終的に言語でやりとりすることを鑑みれば、「程度の問題」にまで矮小化してもかまわないのではないか。↩
2023-08-28
がんに効くは本当? 治療・薬・食事法の誤情報 亡くなった患者が信じた“エビデンスが乏しい方法”とは - #がんの誤解 - NHK みんなでプラス
こういうのを見かけるたびに思い出すことがあるなとおもい、それをブログにでも書くかってなってたんだけど、調べてみたらおおむかしにもう書いてたっぽかった。14年前て!
- インターネットが我が家にやってきたのもこの頃だった。これはあとから父親に聞いたのだけど、そもそも病気に関する情報を集めようと考えてのことだったらしい。
- 病状が絶望的になってからは、手かざしで難病を治してるおっさんの本やらアガリクスのなんとかやらが家にちらほら見受けられるようになる。難病患者を持つ家族はそれこそ藁にも縋りたい状態なわけで、僕がこういう似非科学のことを嫌いなのは、そういう状態につけ込もうとするのが許せないからなんだろうと思う。
- 今は両親ともそういうのにはまっている様子はないみたい。そういえば変な宗教にもはまったりしなかった。闘病生活、ってやつが1年もないくらいの短い間だったからなのかもしれない。
- 母親が点字器みたいなもの持ってきて、それをトランプに打ち込んで、見えなくてもババ抜きくらいはできるように頑張ったこともある。ちょっと点字を覚えようと思ったけれど、僕では指の感覚がぜんぜん追いつかなかった。弟もそんな急にできるようにはならず、結局そんなに出番がないままそのトランプはどこかに仕舞われてしまった。
全体的に「いまの自分だとこういう書き方はしないだろうな」って感じなんだけど(ちょっと感傷的すぎるし、ゲンドウの話なんてかなり余計だ)、このときはそういう気分だったんだろうし、それでも必要なことはだいたい書けているようにもみえる。親になってみたところで、捉え方が大きく変わったような気もしない……というより、自分の認識としては、こういう捉え方のうえで決めたことというのが近いのだろうか。あえていえば、インターネットにはやくから触れるきっかけになったというのは地味に響いてるなとか、いまだにアクセシビリティみたいなものに興味がある(とはいえ、「興味がある」程度でしかないのだが)のはこのへんがきっかけだろうなとか、改めてそういうことを考えたりはした。
2023-08-18
最近読んだ本とか、そのほかもろもろ。いくらかはローカルの日記から、いくらかはBlueskyの投稿から引っぱってきつつまとめる。
照井『コンピュータは数学者になれるのか?』読んだ。計算機科学っぽいもの——とくにプログラミング言語の基礎概念まわり——に興味のあるひとにはたまらない内容で、刊行当時から評判もよかったわけだし、もっと早く読んでおけばよかったとおもった。第1章で形式系を準備したうえで、第2章でゲーデルの不完全性定理、第3章でゲンツェンの無矛盾性証明、第4章でP vs NP、第5章でカリー=ハワード対応を紹介、そして第6章は振り返りと展望……といったところ。先に数学基礎論をやって、それにコンピュータサイエンスを対応させる流れ。
このうちいちばんのハイライトは第3章ではなかろうか(おれだけだろうか)。超限順序数の話からゲンツェンの無矛盾性証明にわたっていくあたりは、おそらく一般向け(後述するとおり本書がほんとに「一般向け」なのかは疑問なのだが)のほかの書籍ではなかなかみられない内容だとおもう。喩え話もうまい。一方、第4章はなくても成り立つ(上記の構成だけをみても、やや外れていると感じないだろうか)というか、おそらくないほうが話としてはすっきりさせられたんじゃないかとは感じた。……とはいえ複雑性と論理との対応づけみたいな話があるのも本書の「味」を豊かにしているよなとも。味ってなに?
内容を読めばかなり素直な書名とわかるのだけど、とはいえ昨今の世情からすればエーアイの話なんだと思われてしまいそうなのがもったいない(本書の刊行は2015年なので、深層学習みたいな話はもうすっかり出ていたころだ)。いちおう第6章で多少は触れられているとはいえ、サブタイトルのとおりあくまで証明論とかの本なのだ。あと、一般向けにしては式がゴリゴリ出てくるので、人によってはかなりめんくらってしまうんじゃなかろうか。とはいえ自分だってべつにちゃんと追ったりはしておらず、とはいえおもしろく読めたので、もし興味をもった人がいればあまり構えずに読んでみてほしいなとはおもう。
メタフィクションの件のメモ。
- 指標性のだいじさ。現実とおなじものがあるというだけでは十分ではない
- 「指標性」って語でいいんだろうか?/伝わるんだろうか?
- 指してんのが「いまプレイヤーがいるこの世界そのもの」でなきゃいけないというか
- 夢オチはメタフィクションではない
- 狭すぎる捉えかたなのは自分でもわかってるんだが、とはいえ内部に閉じているならとりあえず除外したほうがすっきりはする
- MGS2が「あなたがやっていたのはソリッドスネーク育成ゲームですよ」と指摘する/受け取るのは、外部→外部の回路にすぎない
- ここで「夢オチ」と総称したものは、ネマノさんの記事でも挙げられていた藤田「「カウンターゲーミング」と「メタフィクション」」でいえば「再導入」に近い
- ただし、当該論文でのMGSの扱いは「突き放し」である。もちろん自分の基準は内在的な観点のみに(むりやり)絞ってるので当然なんだけど
- 「正気でない」ときにはメタフィクションにならない
- そのいみで「Milk inside a bag of milk inside a bag of milk」はすごく微妙なライン
- 基本的には「ならない」のだけれど……
- あのメッセージ枠の一突きがあるという一点のみから、自分のなかではメタフィクション判定になってる
……ということをちゃんと説明したほうがいいんだろうけど、だんだん「いまのおれにはできないのでは?」という気になってきた。
ロペス&ナナイ&リグル『なぜ美を気にかけるのか』読んだ。イントロダクションのヒキが強いのがいい。われわれはふだんから美的価値に関与してるよねという確認から始まる。これはもちろんハイカルチャーなファインアートに限らないし、それどころか広義の芸術にさえ限らない、なんたって生活のなかで「かっこいい」等と感じることさえ含まれる、かなり広くとられた実践である。で、そうやって美的価値に関与しているのなら(きっとしてますよね?)「なぜそれを気にかけるのか」が気にならないかな?……っていう形での美学への招待になってる。しかもそこから先が沼だとは言わない。
以降は各著者のパートが続く。以下雑な感想。
- ナナイの論は全体にとてもわかりやすいし、ロペスの美的種と美的プロファイルの話あたり(ネットワーク説そのものらへんというか)も整理がゆきとどいていてよかった
- リグルのは個人的にはやや受け容れづらいのだが、文章がおもしろいという美点がある(全体の書き味とか食べ物の話とか)
- ロペスのものも、結論(冒険説)には同意しづらいというか、(自身も認めているとおり)やや理想寄りの話すぎるよなあみたいな印象
- とはいえいずれにせよ「まずはここらからいろいろ考えを広げてゆくのはどうですか」という感じで、イントロダクションを受けつつもっと掘ってみたいなと思わされる内容だったとおもう
- このへんも参照:美的に良いものはなにゆえ良いのか|obakeweb
ところで、ロペスの論のなかでモンドリアンの「ブロードウェイ・ブギウギ」が例に出る箇所があるんだけど、BBWの要素配置をいろいろ変えつつ「ある美的種にたいしてよい」とか「ある美的種のある美的プロファイルにたいしてよい」とかいう指示に従ってだんだんBBWを進化させてくみたいなゲームってあったりしないんだろうか。
ヒース『ルールに従う』を読みはじめた。中身まだだけどなんかイントロダクションがよくまとまっていそうな雰囲気がするのでざっとしたメモをここに残しておく。
モチベーション。
- 道徳性はときに自己利益と相反する行為を求める。それなのに、ひろく義務的制約としてはたらいているように観察される。不合理ではないのか?
- 「情けは人の為ならず」的に自己利益として組み込む方法は一見うまくいきそうに思えるけれど、(たとえば協力行動などを)具体的に説明しようとするとかなり無理があることがわかる
- それに、われわれはふだん道徳について、報酬のため(行為による帰結のため)ではなく、行為それ自身のため(行為の内在的性質のため)という形での義務を課しているようにみえる。カントも言ったとおり、前者は「道徳」とはいえない
- そう考えると、合理的行為が必然的に帰結主義的構造をもつものなのかどうか、言い換えれば、諸行為は目的のための手段としてのみ評価される(道具的に把握される)のかどうかを検討すべき、ということになる
- (ひらたくいえば、「ルールに従う」ことじたいが合理性の前提に組み込まれているかどうかを検討すべき、という感じだろうか)
以下あたりが第1章から第3章にあたるのかな。
- 帰結主義/道具的合理性の議論に用いられる洗練された道具として合理的選択理論がある。ここでは「目的」を「期待効用」として定式化している
- そして、道徳的な義務的制約はこうした理論にうまくフィットしない、言い換えれば、期待効用最大化へのコミットは必然的に帰結主義/道具的合理性のコミットを伴うものだとされている
- が、実のところそんなことはない。(道具的でない)実践的合理性というのは比較的容易な理論的調整によって表現できる。しかも、信念(ここでは相手の選好がどうであろうかといった、事態にたいする主観的確率みたいなもんらしい)ではなく、(選好に関する非認知主義、すなわち欲求は信念ほど合理的再評価の影響を受けないという見方により)もともと所与として扱われていた選好のほうへの調整によって
このへんが第4章〜第5章の話にあたりそう。
- 選好に関する非認知主義を支えていたのは表象主義である。なぜなら、表象主義は「信念の説明に合わせて作られた概念を取り出し、それを人間の行為のために拡張する」という考え方だから
- しかしこれは逆ではないか。ブランダムが主張するように、世界における人間の行為は世界に関する人間の思考に先立っているとするべき。志向的状態を前提として合理的行為を説明するべきではない
で、以下は第6章〜第7章みたいだ。
- また、進化論をはじめとする経験的文脈に基づいて、「道徳の超越論的必然性」を擁護するつもりだ(これはカントの立場とも通じている)
- この立場からすれば、「amoralな合理主義者」なんてものをわれわれの認知から想定することは不可能である
そのうえで、引き出される応用として第8章と第9章がある……っていう感じなのか。
最後の段落にあるとおり、これに尽きるっぽい。
本書が展開しようと試みるのは、実践的合理性の一般理論——ルールの遵守(または規範同調性)を端的に合理的な行為の一種として表現することができるような理論——なのである。
いまさらCupheadをクリアしました。全体的にすげーおもしろかったんだけど、
- キングダイス〜デビルあたりで「下手にライフ上げるよりケムリダマ使ったほうがええやん」とようやく気付いた
- 「ワクワク火あそび」だけ尋常じゃなく手こずった
- 「踊る廃品工場」の最終形態で気合い避けさせるにもかかわらずオブジェクトで自機を隠すのだけは絶対に許さん
- どっちもロックマンやんけ
あと、自分は(同じプラットフォーマーということで比べるなら)Celesteとかのが好きっぽい。アドリブが求められるものより、道筋を見つけて正確になぞるののほうをおもしろがりやすいというか。