2023-08-09

昼飯をどうしようかなと思っていたところで、ゲリラ豪雨ではない、ざばざばいう、それでもどことなく慎みのあるにわか雨が降りはじめて、外に出るのも面倒なので昼休みのあいだに思い出話でも書くかなと思ったわけです。おそらくTwitterでも書いたことがあるはずなのですが、「いたたまれない、きまずい」といえばどうしても連想してしまうできごとというのが自分にはあります。それについて書きます。

わたしの実家はもともと祖父が建てたものでそれなりに年季が入っており、その孫(おれや)が生まれ小学生になるくらいのころまではずっと、台所が土間だったんですね。もちろんかまどで飯を炊いていたとかそういうわけではないのですが、それでもずっとそんなでは不便だと大人たちは考えたのか、あるときリフォームをすることになりました。そのときの大工さんたちの様子に少年はいたく感銘をうけ、建物というのはおもしろいなあと思うようになったことはまた別の話としてあるのですが、ともかくリフォームの結果として、我が家に(そのころはまだ比較的珍しかったであろう)IHのコンロが導入されることにもなりました。

で、リフォームが済んだあとで、そのIHのコンロをとりしきっていた電気屋のおじさんが、今度また改めておうかがいして、使い方を教えてあげましょうと言うわけです。きっと見慣れない機器でもありますし、便利な使い方もあるのだから、ぜひにぜひにと。そのうえ、よければご近所さんも呼んできてくださいねとさえ言う。それをわきで聞いていたわたしは、近所のひとが「こりゃ便利ね」つって興味をもってくれればめっけもん、みたいな商売っ気でもあるのかしらと想像しました。小学校への通学路の途中にある電気屋の、わたし自身顔なじみであったおじさんで、いまとなってはどこまで私心があったのかはよくわからない、もしかしたらまったき善意で言ってくれていただけなのかもしれないのですが、ともかく当時のわたしはそう思いました。乗り気なのか断りきれない雰囲気だったのかわからないけれど、うちの大人のほうもそんなに言うならと引き受けていた。

それから当日だ。夏休みのいつかだったと思います。山のなかだから、いまこのわたしが生活しているところよりずっと過ごしやすい。というか夏休みでひまだからクーラーのきいた家のなかでゲームをしているだけなのですが、そんな夏休みのある日が電気屋のおじさんがやってくる日で、その日の朝になってからようやく、じいさんばあさんもとうさんかあさんも、どうも都合がつかないなんていいやがるのです。もちろんご近所さんを呼んだりもしていない。みんなそんなに暇ではないのだ。だもんで、「しょうがないからあんたよう聞いとき」と申し付けられることになりました。長男やからね。ほかの子はまだ小さいんでね。当然そんなもん嫌でゲームしてたいんだけど、それこそ顔なじみのおじさんだし、さすがに当日になって断るのはかわいそうでしょ。材料だって、きっと用意しちゃってるにちがいない。そう思って、はいはいと、こちらも引き受けることになってしまいました。

そんでもって、おじさんが来る。このあたりからあまり記憶がないんですよね。ぼく一人なんですけど、みんなにも教えるんで、がんばります! みたいなことくらいは言った気がする。それにたいしておじさんは、がっかりしたような顔をちらとでも見せたのかどうか。すでにおじさんの顔を直視することを避けていたせいか、そんな機微がわからん小学生だったからか、ともかく覚えていません。なにを作ったのか、どう便利だったのかも覚えていません。おいしかったのかとかも覚えていないんだ。みんなに教えるんでとはいったもののもちろんとくにそんな気はなくて、あったとしてもとにかくおじさんをがっかりさせないことに気をとられていたようにおもいます。そもそもが、顔みしりといったって、そこまで親しくもない大人とふたりでいるなんて状況に落ち着けるわけもない。きっとおじさんのほうもそんなことはわかっていて、とはいえ小学生にそんな雰囲気を出すのも酷だろうと思ってくれていたんじゃなかろうか。いや、それともきまずくなっていたのは自分だけで、おじさんのほうはぜんぜん気にしていなかったのかもしれない。考えすぎだったのかもしれない。

そう、こうしていま思い出してみると考えすぎだったんじゃないかという気になってくるのです。そりゃあ、おじさんだって多少期待してたっておかしくない、自分がその立場ならそうだろう。でも、おなじく自分がおじさんの立場で、ときたま見かける無愛想な小学生がひとりでそこにいたのだとしたら、これはこれでおもろいやんけってなりそうな気がする。だからまあ、べつにいたたまれないことでも、きまずいことでもなかったのかもしれない。きっとそうにちがいありません。雨はあがったけど昼休みは終わってしまいました。

真理・政治・道徳 - シェリル・ミサック

ここでも何度か言及しているとおり、『プラグマティズムの歩き方』がおもしろかったのでこちらも読んだ。副題は「プラグマティズムと熟議」。

「シュミット(に代表させた反熟議/反民主主義)に対抗するためには、ロールズでは前提が弱すぎる(原理としての「中立性」だけでは結局なんにもできない)し、ハーバーマスでは前提が強すぎる(コミュニケーションにおける前提のとりかたが不自然すぎる)しでうまくいかない。パースの真理概念を出発点に熟議/民主主義を正当化するぜ」みたく過去の議論とのつながりを第1章で明示し、そのうえで第2章では(ミサック流に解釈した)パースの真理観、すなわち「真なる信念とは、調査と討議をどこまで続けても、予期しない反発的な経験や議論によって覆されることがないであろう信念のことである」1を持ってきて、これを認めて敷衍するならいわゆる事実的な信念と道徳的な信念のあいだに本質的な違いは生じず、道徳的な信念についても真理を探求できるよと述べる2。そうなれば「自他の経験を尊重すべき」という方法論的な規範が出てくるわけで、これをもとに実践で出会う問題にプラグマティストがどう判断を下していけるのかを見ていくのが第3章……といった構成。

第2章はおおむね「(ある種の真理観を共有する)プラグマティストならば、素直な道筋で道徳的真理も認められるようになるよね」という理路ではあって、(ミサック流に解釈した)パースの真理観そのものについて(デフレ主義と比較してある程度詳しく説明はされるものの)細かな正当化はなされておらず、したがってはじめからおわりまでの論証というよりもプラグマティストとしてのマニフェストに近い印象はある3。だから、たとえば素朴に対応説をとりますよって人はきっと、本書だけ読んでも説得されないのだろう。それでも、上述のような真理観をいったん認められるのであれば(自分はわりと認めている)、たしかにこういう結論に至るのは自然なことだよなと説得されるところがあった。

そして第3章では、上述のような立場「だけ」から言えることはそれほどないという自覚のもとで、道徳的失敗と後悔の話だとか、両立しない複数の価値が選言的に結ばれた状態の可能性だとかもろもろを、実際にあったできごととつなげて論じており、これがかなり繊細かつ圧巻。そしてそうはいっても、自分にとっては「共感」というファクターのほうが大きくて、こちらはこちらで「じゃあほんとにこれでみんなを説得できるのか」についいては吟味しきれない。というかまあ、そんなもん自分の現状の知識じゃ難しいだろっていうのは、そりゃあそうか。だからせめて、「究極的にわかりあえるかどうかは知らんが(まあ無理だろうが)、それでももっとわかりあえる余地はあって、それをやってはいけるやろ」みたく思うことに、いますこし自信を持てただけでも良かったと思えばいいってことか4


  1. たんにこうした文言を見ただけだと勘違いしやすいってのは口すっぱく言われている(クワインも勘違いしていたよとか)んだけど、ここでは略。疑問が浮かんだ人には直接読んでもらうのがいいと思う。あるいは、白川「最近のプラグマティストの〈主観的な客観性〉」あたりがおもしろいか。
  2. 認知主義の立場をとるのは明確なんだけど、(少なくとも形而上学的な意味での)実在/非実在に関しては「コミットしない」って感じだと思う、たぶん。(そのレイヤで実在だ非実在だとか理屈を捏ねてもしかたがなくて)結局われわれは理由とともに主張を行っている、完璧ではなくともある程度現実にそういった実践が成り立っているんだから、みたいな話。もし「ほんまにそんな立場とれるんか?」となったときでも、倫理の範疇にかぎらない真理一般にかんする議論に、まずはなる。
  3. 「プラグマティストならばこう言う/こう考えるよ」みたいな言い方がよく出てくるあたりもそのあたりの反映だろう。もちろんそう考えないプラグマティストもいるだろうし、プラグマティストでなくともそう考える人もいるだろうから、この言い方は、なんというか、反発を覚える人もいそうだなとは思う。『プラ歩き』もそうだったけど、この人「プラグマティズム」観がかなり固定的ではあるよな。
  4. ただここまでざっくりで終わらすとローティと区別がつかないのだが。

2023-07-26

  • ブログを書くだけだと検索に乗らないっていうのがそれなりに痛感されて、ちょっと前にTwitter1にいろいろ投稿したりしていた
  • けれどもそこからTwitterに戻るということもなく、一方でBlueskyでぽつぽつ投稿するようになってしまった
  • 最近ブログを書いていないのはそのせいじゃなく、たんに書く余裕がないからだと、自分では思っています。たぶんきっと
  • Blueskyに関しては……おそらく一時的とはいえ、招待制であり、閲覧にさえログインウォールのあることがどうしても気にはなってしまう
  • かといってTwitterでどうこうって気にもなれないんですよね。なんでだろ。みんなが言うほどには嫌いになっていないとは思うんだけど
  • 積極的に見捨てるとか、あるいは感傷的になったりとかもできない
  • このへんの気持ちはまだいまいちよくわかんないな。なにかに蓋をしているんだろうけれど、いったいどのへんだろうか

  • 鏖戦とかメタフィクション云々2とかSFの詩学がどうとかはあるんだけど(いちおういつも気にしてはいる)、それはそれとして、今年の後半は制度とか規約とか規範についての本を読みたいなと思ったりしています
  • 直近だと"The right way to play a game"を読んだこととか、それ以前にも規範と推論について考えたこととかが影響しているのではないか
  • どっから手をつけていいかはよくわかっていないものの、とりあえず瀧澤さんが訳しているルイス『コンヴェンション』、グァラ『制度とは何か』、ヒース『ルールに従う』あたりをまとめて買ってはみた
  • まじでどっから手をつけていいかよくわかっていない感じが出ていますね!
  • で、それにあたり、そういえばいちおうゲーム理論を復習しておきたいよなと思ったところで、ちょうど有斐閣の『活かすゲーム理論』の著者座談会を読み、よさそうやんつってそちらからはじめた
  • これいい本ですよ! モデル化とはなにか、なぜモデル化するのか、どのようにモデル化するのか、どんないいことがあるのか、なにに注意する必要があるのか、みたいなことがちゃんと書かれててうれしい
  • どういう前提があってどう解釈するかみたいなことをいったん切り離し非経験的に操作できるからモデルってもんが有用なのであって、逆にいえば前提とかそういうものをはっきり意識できていないモデル化はしょうもないっていうのは、当然あるわけじゃないですか
  • で、ここからむやみに話を広げます
  • つい先日『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を読んだとき、(そもそもの事実誤認や解釈のおかしさの指摘はもちろんあるとして)切り取り方によって「良いこと」だって表明できちゃうみたいなことに注意を払っているんだろうなと思ったんですよね
  • ざっくりいえば「切り離せないところを切り離して評価したところで、その評価にどういう意義があんの?」っていう
  • ここで採り上げているのはモデル化じゃなくて評価なんだけど、いずれにしたって、なにをどう考えてどういうふうに切り取っていますよってのを明示して、それを含めて問わなきゃならんという話は共通してるといえなくもないのでしょうか
  • さらに広げて、たとえば批評における理由づけの話までもってってもいいか。それはやりすぎだろうか
  • あるいは、「透明性」みたいに言い換えてもいいのかもしんない
  • ただ、これやっぱ難しいところもある
  • 理由や前提を共有しようとしたって、それらをちゃんと咀嚼するのはたいへんだ。理由をみられるような状況づくりだってやっぱりたいへんだ

  • なんの話だっけ……あとなんかあるかな
  • 「想像力」とか「センス」みたいな語の使い方について?
  • そういうなんらかの能力というより、たいていはたんなる知識や経験で済む話がほとんどだったりしないだろうか
  • それに加えて「それらを適用するきっかけに気付ける」が必要なくらいか
  • とはいえそうやって還元したからといって、それを得ることの難しさが減じられるわけでもないのだけれど

  • なんかもうちょっと日々の話したいよな
  • 平日よりも週末のほうが忙しいというか、息つく暇がなくなって数年、平日もどったんばったんしてくると全部どったんばったんだよ!
  • まあそのうち落ち着くのではないでしょうか
  • 焦るような時間じゃないというか、焦るような期限のあることをインターネットでしていないつもりなので
  • ちょっと自分に言い聞かせてる感ない? いつもそうだよ!

  1. 未来の考古学者のために注記しておくと、現在「X」というサービス名になっているのかなっていないのかよくわからなくなっているあれです。
  2. 夢オチとかああいうのをもうちょっと見てみることにしたいとは思っています。とりあえずMGS2のストーリーをちゃんと思い出すなり調べるなりしておかないとなとか。

「鏖戦」ひとり読書会にむけて(3のその2)

メタフィクション云々はまた後日!

まとめは下記。今回は第3節の続き。

murashit.hateblo.jp

  • 「阿頼厨は上部球体をかかげ、その表面に十字形に並ぶ五つの眼根【げんこん】で外界をさぐった」ではじめて阿頼厨の見た目が披露されるのだが、相変わらずよくわからんのであった
  • 目らしきものがあるようだが、光を知覚する器官なのかも微妙な表現。それがくっついているという「上部球体」だって、かしげているんじゃなくかかげている。識胞がみなこうした外見をしているのかもよくわからない
  • 蔵識嚢にはかなりの情報(セネクシの120億年にわたる歴史の要点)が収められているらしい。また、このすこしあとに直接たどれる記憶は10万世代という記述もある。ずっと寿命が変わってないとすれば十数億年ってところ
  • 「上部球体につづいて、阿頼厨は後莢【こうきょう】を押しだした」……だからわからんって! 本節冒頭の「莢」もこういう、なんか身体の一部?なのかな? あっちでは乗ってたが
  • 続いてセネクシがどのように成長するのか
  • 識胞の幼生は「球状原形質塊」のまま育つ。原形質というからには、(地球生命の細胞のようではないにせよ)なんらかの核とそれをとりまく細胞質のようなものからなると考えてよさそう
  • 幼生の棲む環境は「安母尼亜【あんもにあ】の海」だったり「濃く温かい気体の空界」だったり。ちなみにアンモニアの融点は-77℃、沸点は-33℃くらいなんすね。なぜかもっと低いと思ってた。わりとゆるいな
  • 蔵識嚢は五識胞よりあとでつくられるらしく、幼生のあいだは識胞それぞれが記憶嚢をもつ
  • あまりはっきり述べられていないのだが、どうもこの記憶嚢に過去の記録が徐々に注入されてく(?)。そしてそれによって成長し、それぞれの「識格」(人格みたいなもんやろな)もかたちづくられていくらしい
  • 「重層する過去の重みのもとで識格形成をはじめ」る、というのは比喩なのかなんなのか1
  • 完全でない記録によって識格を形成されるという性質のせいで自身らは(人類にはある)柔軟性を欠く……みたいなことをセネクシは考えているらしいのだが、この理屈はかなり謎い。ふつうに考えれば関係ない(ないし、その逆である)ように思える
  • ただ、種族I系種族との歴史比較(これを行うことは通常許されていない。後述)をとおしてよりそう思われるというくだりからすれば、「柔軟」とされる人類たちは「完全な記録のインプット」がなされている(と考えられており、ひいてはそれが柔軟性の源泉のひとつとなっていると考えられている)のだろうか
  • セネクシは変化を嫌うようだ。人類があきらかにポストヒューマンになっていることと対照的といってよいかもしれない

  • さて、先述のとおりセネクシたちは劣勢に立たされているわけで、どうにかするためにも蔵識嚢たちはいろいろと策を練る、さまざまな実験をする。阿頼厨の胞族はそういった実験の監督をこの種子船の「協議嚢【きょうぎのう】」(蔵識嚢が協議しとるんやろな……)から任されている。とくに阿頼厨はその主幹である。したがってほかのセネクシたちとちがいほか生命体との歴史比較が可能というわけ
  • そしてその実験のために、人類の胎児(6体。以降「人形【にんぎょう】」と呼ばれる)および記憶庫を入手したらしい。それがいつごろのことなのか、どのくらい時間が経っているのかは不明。胎児を「正常」に育ててみたり、あるいは干渉してみたりしている
  • 阿頼厨は劣勢を逆転できるかもしれない実験の責を負っているわけだが、「たいていの識胞は、そうした重荷を背負うと分裂してしまう」らしい。記憶の件といい、かなり情報に左右されるいきもののようにみえる
  • 阿頼厨がその重責にもかかわらず分裂しないのは、人種に興味を持っているからだろうか(直接的な関係は書かれていないのだが、どうもそれが示唆されているようにみえる)
  • 末尾の「もしかすると人形こそは、施禰倶支の存続に必要な鍵になるかもしれない……」というのは阿頼厨の思考だろう

ストーリー上とくに重要な情報としてはセネクシたちが人類の胎児と記憶庫(ここではまだ「曼陀羅【まんでいと】」とは呼ばれていない)を手に入れていることだろうが、ほかにも記憶/記録や情報へのこだわりも目を惹くところとおもわれる。物理的な組成はかなりたよりなさげに書かれている一方情報が成長や分裂に関係してくるわけで、人間よりもかなり情報偏重のいきものだ。記憶庫の入手はそのいみでも重要だろう(もちろんふつうに敵を知るって話ではあるのだが)。

あとはなんだろな、あんまり説明せずに話が進む作品ってイメージがなぜかあったけど、ここだけ見るとめちゃくちゃ密度高く設定が開示されてるんだよな……(2回に分けて書いたが3ページくらいしか進んでない!設定まとめがしたいわけではぜんぜんないんだけど、まあ最初だしそういうもんか)。実質的なアクションといえば、冒頭で滑走しているところと、説明の合間に上部球体をかかげるところ、そして後莢を押し出すところのみ。ただ、なぜかそれほど流れが不自然な感じがしないのはなんでだろうね。もちろんいかにも「説明」って感じで(苦手なひとにとっては)ウッてなるのは否定しないんだが。ざっくりとは価値判断のあまり入り込まない叙述なんだけど、ところどころ阿頼厨の主観をにじませているあたりは手管なのかもしれない。あとはわりと細かくスケールをスイッチさせてて(いきなりミクロからマクロに飛んだりその逆をしたり)そのあたりもかな。

このあと空行をまたいで「妖精態のプルーフラックスは」とはじまるところで、ああなるほどそうやって行き来しつつ進むんだなと感じるところでもある(プロローグ部分以外はセネクシ視点ってのも予測される進め方のひとつだと思われるので)。


  1. 「弓量」という単位については、原文ではただのメートルになってるらしいのを知ってしまったので省く!

2023-07-06

駅から会社へのみちに橋と坂があり、橋の話は橋の話でまたそのうちやりたいのだけれど、だから今日は坂のほうの話なんですけど、その坂ってのがそれなりけっこう急な坂ではあって、のぼりきったさきにはでかい企業の本社があるなどしており、朝の通勤の時間帯なんかにゃけっこうな数が出社のためにもくもくとのぼっている様子をそこでみることができます。おれじしんそれを遠目にする身分でなく、のぼったさきのでかい企業とはたいした関係もない(ないこともない)いちはやくもくもくをとりやめられる程度のふもとにあるなんて強みのあるちいさな会社ではたらいており、だからどのみち、そうやってもくもくしているうちのひとりである。「もくもく」といったけれど、そう、けっこう急な坂なんだからむしろ「えっちらおっちら」くらいのが似合ってるだろか。で、紋切に死んだ魚の目をしながらえっちらおっちらしてみれば、目つきのわりに、ああ、なんだか運動会みたい。そうやってどこか愉快におもうことが、(おもいきり均すなら)二週間にいっぺんくらいは、ある。暑さのせいもあって頻度のたかまっているきらいさえ、ある。

朝夕にはきわめて人間蔑視的な改札口を彼らはすこしのいら立ちも見せずに通り抜けると、誰に命令されたでもないのに、フロアーにまんべんなく流れ広がって、人を押し退けようとするでもなく、無理に追い抜こうとするでもなく、群のテンポにぴったりと足並みを合わせ、それでいて密集のふとゆるんだところがあれば、すぐに間隙を満たしに行く。そしてやがて階段にさしかかると、流れは静かに淀み、先のほうからゆっくりと傾いていく。まるで苔むした岩の上を平たく滑り落ちる音なしの滝のように、それは見つめているとかすかな目まいを誘い出す……。

いや、これは地下鉄か(あと、なんかこれ階段おりてるっぽいな、最後んとこ)。唐突に出てきたのは「先導獣の話」で、すきなんだけど、これやっぱムカつくよな。うっせえわ。文章がうまいやつはだいたい敵だ。

古井由吉にたいしていまさら「文章うまい」とかいってるのヤバない?

うまいっていやそこのお前もだ。平素よりブログのほう拝読させていただいておりますが、ほんと文章うまいですよね。だから敵なんですが、それはいいんですが、急な坂のむこうに、この時期もし朝から晴れており日中のうだる暑気の予期にいちはやくうだっているならそのむこうには雲がきっとあり、そんなリテラル坂の上の雲を眺めやったり眺めやらなかったりするひとがちらほらいたりいなかったり、そのうちのひとりが自分だったりそうでなかったりして、さらに愉快になったりならなかったりしているひとが、おれひとりに均せば二週間にいっぺんあるというのなら、統計的にみればこの毎朝の視界のなかにひとりふたりはそういうやつがいるだろうってまたべつの愉快さがあります。そういう愉快さこそがおれにとってだいじなことなんですよ。狂いを待つ「滑らかな秩序」なんてどこにもなかろ。もうだいぶバラバラと。竜馬などどこにもおらんで。だれもが先導獣だったりそうでなかったりするものなりけりちゅうて慰んどる場合ちゃうねんで。

ゲームをプレイする正しいやりかた - C. Thi Nguyen

どんなときに「自由度」といいたくなるのかのときに気になっていたグエンの“The right way to play a game”1を読んだ。個別の記事を立てるほどでもないのだけれど、それでもメモを残して公開しておきたい(詳しい人がどう読むのか知りたい)。表題のとおり「ゲーム2で遊ぶ正しいやりかたなんてものがあるのか?」という話で、つまりゲームを遊ぶそのやりかたにかんする規範3について。いつもどおり、内容の正しさは保証しません。

  • Introduction
    • 省略。「正しいやりかたなんてないよ」派としてLeino4とシカール5が挙げられてる
  • Works and Norms
    • まずはLeinoがいう「どう遊ぶべきかの指図にしたがうのって、『意図の誤謬』6なんじゃないの?」みたいな主張について
    • これにたいし、「それがどのように経験されるべきか」といった規範も「作品」を構成する部分である……みたいなprescriptive ontology(規範的存在論?)の話が出てくる7
    • で、意図の誤謬として批判されうるのは「それがなにを意味するのか」についてであり、したがってかりに意図の誤謬を「誤謬」として認める立場に立ったとしても、「それがなにか=それをどう遊ぶべきか」という意図や規範を無視すべきとはならないよ、と
    • もちろん「それがなにか」とされている規範を無視するような取り扱いをしてもかまわん(ある種のスピードランとか)し、ときには有益である。ただ、そのときそれは(同じ物理的対象を使った)また別の「作品」となるというだけ
    • (意図主義云々で意味論的意図と範疇的意図を区別する議論8と相似してるよなと思ったんだけど、そちらにはとくに言及がなかった)
  • Play and Aesthetic Communication
    • 続いてシカールの「自由な遊びこそ大事」みたいな主張について
    • これにたいしては、(そういう遊びが大事なこともわかるけど)ゲームの目的はそれだけじゃなく、aethetic communication(美的コミュニケーション)をおこなうことでもあるよ、とする
    • 美的コミュニケーションというのはある種の体験をさせるようなタイプのコミュニケーションで、表象的だったり概念的だったりする内容を伝えることは必須ではない(プレイヤー間ではなく作者-プレイヤーの間のコミュニケーションなことに注意)
    • 美的コミュニケーションにおいては、通常の言語的コミュニケーションなどと同じように、ある一定の規範が必要にはなってくる。規範を共有して基本的な構造を安定させなきゃコミュニケーションが成り立たないってわけ
  • Aesthetic Prescriptions and Adequate Encounters with Games
    • ここまでの話はほかの芸術と変わらない。ここからゲームに特殊な規範はなにかみたいなことを考えていく
    • ざっくりいえば、「最低限どうやったら体験したことになるのか」みたいなのがけっこういろいろでむずかしいよねっていう
    • (死に舞さんの右記のツイートをどうしても思い出してしまうところだった: https://twitter.com/shinimai/status/1313127876032487424
  • Party Games, Strategy Games, and the Number of Playings
    • じゃあそういう規範についていくつかの例をあげて詳細に見ていきましょうねという節。省略(読んでない)
  • Negotiating Social Practices
    • まとめ。Sharpがgameとartgame、game artを区別したことを引き合いに出しつつ9、分類ってのはそのものだけを見てできるものではなく、社会的実践のなかにおかないとだめだよね(そうならないと規範が付随しないから)、みたいな
    • で、結局表題の問いに対しては、狭い意味ではたしかにそのとおり、「ある」。本を後ろから読むのが「正しくない」という程度にはある
    • ただ、必ずしもそれに縛られるというものでもない。その作品を体験したことにはならなくとも、ときにべつの遊びかたをすることは可能であって、それがまた新しい形の美的コミュニケーションの可能性を生み、新たな「正しい遊びかた」として提示されうる……みたいな感じでおわり

「自由度」云々で考えてた話と多少関連するかもなというのはもちろんなんだけど、わりと「常識的」な立場でありふつうに勉強になった感のほうがでかいかもしれない。Games: Agency as Artも気になるのでフィルムアート社さんよろしくお願いします……。


  1. Nguyen, C. Thi. 2019. “The Right Way to Play a Game.” Game Studies 19 (1).
  2. ビデオゲームだけでなくアナログゲームもひっくるめて扱われている。
  3. ここではprescriptionsをとりあえず「規範」と訳すことにする。normとかとどう区別して用いられているのかよくわかんなかったし、だったらそちらを連想しそうな語を使うべきじゃないのかもしれないんだけど……「規定」とか「命令」とかのほうがいいのだろうか。
  4. Game Studies - Death Loop as a Feature /読んでないんだけど、Fallout: New Vegasについての「エッセイ」でかつこのタイトルなの、ちょっと気になるな……。
  5. こっちはおなじみの『プレイ・マターズ』
  6. ウィムザット&ビアズリーのあれ。
  7. あんまり要約に自信がない。Daviesの Art As Performance という本が引かれているけど、そちらで直接的にそのへんの話がされているのかも知らない。
  8. 西村編『分析美学基本論文集』に河合訳のあるレヴィンソン「文学における意図と解釈」とか。この論文けっこうおもしろくて好きなんだよな。てっとりばやくは河合「現実意図主義の暇疵」か。
  9. なぜかBibliographyでシャープの文献が挙げられていないんだけど、ゲーム・ミーツ・アート:ビデオゲーム・アヴァンギャルドの可能性 - メディア芸術カレントコンテンツをみるかぎりでは Works of Game っていう本みたいだ。

2023-07-04

ひろがるスカイプリキュアのED2がめちゃくちゃいいわね。

白湯をね、飲むんですよ。いつごろから習慣になったのかなんてもはやおぼえていないのだけど、仕事ちゅうの水分摂取に白湯を飲むことがすっかり常態化しており、いかにも健康そうにみえるかもしれませんが、とにかく量が多い。そんなもんだからトイレに行く回数も多い。入れては出す、入れては出すであって、たぶんどっちかというと健康にわるいくらいになってるんじゃなかろうか。突然音信が途絶えたなら、それは白湯の飲みすぎおよび出しすぎによるものと考えてください。

ひろがるスカイプリキュアのED2がめちゃくちゃいいわね。

ちょっとここんところブログの速を上げすぎてたかんじがあって、いったんブレーキを踏みたいんです。それにともなってTwitterに戻ってみようかなと思ってもいたのですが、なんかそんな雰囲気じゃないしなかなかむずかしいもんすね。けっきょくActivityPubでやりとりしてるようなサーバにはアカウントつくらないままで、それとはべつにBlueskyのアカウントは作っていたものの使っていなかった状態でどうしたもんかなみたいなのが今。前者のほうがひらけてて好ましい気はするな、後者はログインせにゃみられんけど登録もまだオープンじゃない状態だしな、みたいな気持ちがありつつ、かといって前者のうちどこに(いったんでも)身を預けてみるかみたいなのを考えるのもあいかわらずめんどくさくて、自分で管理するなんてもちろんやる気になれないし、まあどうでもいいやみたいな投げやりな気持ちになっています。でも閲覧だけならBlueskyはそろそろ定常的にって気持ちになっては、いる! ようわからんがむかしからひとをフォローするのが好きだし、なんたって承認にはつねに飢えてるしな。みんなブログを書けば解決なんだよな。

ひろがるスカイプリキュアのED2がめちゃくちゃいいわね。

ソローキン『吹雪』を読みはじめた。速がだんだん上がってきたのにともなって読むほうは読むほうでギチギチにしがちになってきてたところで、だらっと読めるのがいいなと思って……ソローキンってわりとそういうところないすか? 集中力の低下になぜだかやさしいっていう、へんなイメージがある。わたしだけでしょうか。といってそんなたくさん読んでるわけでもなく、本作だって『親衛隊士の日』とつながりあるらしいけどそっち読んだことなくて、だから冒頭で「うお、こんな19世紀ロシアのリアリズム文学みてえな……」って思い、そのあと10ページちょいして馬が出てきたところで「これなに? あ、小さい馬がいんのかよ!」で楽しくなってきた。なんか前読んだどれかにも出てきてたよな、デケェ馬がよ……。

ひろがるスカイプリキュアのED2がめちゃくちゃいいわね。