続・メタフィクション表現の四分類についてのメモ(その1)

こないだの記事に応答をいただきました。

proxia.hateblo.jp

最終的にはとくに大きな意見の相違などは出てきそうになく、しかもかなり投げっぱなしだったところを補っていただいておりめちゃくちゃありがたい(ふつうに申し訳ない)んですが、いずれにせよ自分の言葉でも説明しようとすべきだろということでがんばって書いてみます。書いてたらなんか長くなりそうだったので、「続」かつ「その1」になりました。

「物語世界の拡張」について

まずはここをきちんと説明しなければはじまりません。ネマノさんにはかなり汲み取っていただいておりおそらく誤解はないところなのですが、上述のとおりがんばります。

フィクションの受容におけるデフォルトの態度

まず前提として、われわれのフィクション受容に際するデフォルトの態度というのは下記のようなものだと考えています。

  • 虚構世界は現実世界から切り離されており、虚構世界における「文の意味」はその内部に閉じて理解できるものとしてとらえる
    • たとえば、作中に「馬」という語が出てきたなら、その虚構世界には「馬」という語によって指示できるなんらかの対象が(「存在する」かどうかは置いといて) ある と考える
  • それと相補的に、虚構世界は「ある程度整合的である」ととらえる
    • たとえば、描かれているとしても「少女漫画でキャラクターの後ろに花が散ってる」みたいなのは虚構的に成り立っていないと考える。逆に、直接的に書かれていないことであっても、「そうしないと辻褄が合わない」として虚構的に成り立っていると考えたりもする

もちろんこうした態度を(デフォルトとして)とらないフィクション受容をしているひともいるかもしれませんが、おそらく一般的ではないといっていいはずです。

そして、これらはあくまで「なにが虚構的に成り立っているか」を考える際のデフォルトの態度(戦略といってもいいかもしれない)であって、鑑賞者がそのフィクションに接するときなにを考えるのか/感じるのかといったことのうちの(ときに重要ではあっても)あくまで一部分でしかないことにもいちおう注意してください。

言い訳と補足

本筋から逸れるのですが、言い訳と補足がいくつかあります。

  • 「文」「語」「書かれていること」「文字通り」といった文章表現に限られそうな語彙ばかり使っていますが、あくまで便宜であって、画面にあわられている絵づらとかそういうところまで想定した話として考えてください。だいたい無理なく敷衍できる範囲の話しかしていないはず
  • 「虚構世界」と「物語世界」はさしあたって同義と考えていいです。そもそも「虚構世界」とか「現実世界」とか、素朴に使ってしまうにはかなり問題のある表現だとは思うんですが、説明の便宜のために許してください。「デフォルトの態度」というある種素朴な理解であるからという理由で正当化できなくはないはず……
  • 「切り離され」ていることと「現実の事物と符合しているかどうか」とが別の問題であることにはいちおう注意
  • 「対象が ある」という表現もかなり微妙なんだけど、意味論に深入りしたくないせいでこんな言い方になってしまった。とりあえず、たとえば「虚構世界内の虚構世界内にいる空想上の動物」とかも含めて、以下のような特殊なことを考えなくとも意味を理解できる……みたいな話だと考えてもらえば大丈夫なはず。「特殊なこと」として論点先取してしまっているきらいはあるんですが、これもデフォルトの態度の話なのでまあ……
  • 「ある程度整合的」に理解するというのは、たとえば現実性原理とかの話です。このへんもうすこし掘り下げられるところではあって、シノハラ『物語の外の虚構へ』とか倉根「ゲームプレイはいかにして物語になるのか」とかで議論されているのはそれのはずなんだけど、今回の話においてはざっくり済ませて問題ないところのはず

「物語世界を拡張しなければ意味を把握できない表現」について

ストレートな例として、先の4分類のうちEmergentなメタフィクションとして挙げられていた例をお借りします。以下のとおりです(以降の説明のために若干改変しています)。

  • NPCであるAがプレイヤーキャラクターBに対して「私たちのゲームへようこそ、プレイヤーさん! 楽しんでいってください!」というメッセージを発している。これはメニュー画面やチュートリアル画面ではない

さらにもういっちょ、これも説明のために状況をいくつか追加します。

  • あなたは、いまこのゲームをソファに座ってプレイしている
  • 本作はBを「操作する」スタイルのRPGである(このとき、プレイヤーはBとすなおに同一化しているわけではない……というあたりを細かく説明するのは自分の手に余るのでとりあえずこれだけで)
  • Aはこの虚構世界のなかで「正気である」ように見える(言い方がよくないな。フィクションのなかで、Aの言動は「シリアスに受け取るべき」と理解できる状況である……みたいなことが言いたい)
  • この場面以前にはこのような「メタフィクショナルな表現」は出てきていない(とくに、「プレイヤー」に類する語は出てきていない)

以上のような状況のもと、「プレイヤー」という語で参照されているのはだれなのかについて、ソファに座っているあなたは、おそらく以下のように考えるはずです。

  1. Bのことではなさそうだ(これまでゲーム中にそのような語は出てきていないし、Bが「プレイヤーさん」などと呼ばれるシーンも見たことがない)
  2. かといって、Aが想像している(当の虚構世界とは)別の任意の世界のうちのだれかではなさそうだ(Aは正気であり、Bに直接呼び掛けているように見える)
  3. どうやら、(Bを「通して」)ほかでもないこの現実世界においてソファに座っている、わたし自身に呼び掛けているようだ

デフォルトの態度を崩し、「意味を理解するにあたって、虚構世界と現実世界とを『いっしょくた』にする必要がありそうだ」と考えざるをえないわけです。たんにその虚構世界から任意に参照できる別の虚構世界に言及しているだけであればこの態度を崩す必要がない(2で打ち止めにできる)んだけど、ほかでもない「この」現実世界となんらかの意味でセットになっているのであればそうはいかない。鑑賞者として「ある程度整合的」に理解するために現実を援用するかどうかという話ではなく、虚構的に成り立つ命題をなす文のうちに「この現実世界」への直接的な参照があるとき、意味の理解を閉じさせるためには、「切り離された」という前提を後退させなくてはならなくない。こうした状況をおおざっぱに「物語世界を(現実世界へのこうした参照が可能なように)拡張」しているっぽいね、といってみた……という感じでしょうか。

うーむ……ぐちゃぐちゃになってしまった……。これたぶん、「別の任意の虚構世界」と「現実の世界」とでなんでこんなに対応が変わってきてしまうのかというのをもうちょっと説明せんといかん気がしてきた(そりゃプレイヤー自身が現実を「特別に感じる」のは当然としてもだ)。とはいえとりあえず今日はここまで。

メタフィクション表現の四分類についてのメモ

ネマノさんの Steamで遊べるメタフィクションなインディーゲーム入門 - 名馬であれば馬のうち を読んで……といってメイン部分はストフィクですでに読んでたのですが、読んで、おもしれーな! で、ストフィクのときにはなかった「おまけの追記:メタフィクションとはなにか。」部分にほほーんってなっていたんですね。さっきまで。この部分はGame Developer(公開当時はまだGamasutraか)の以下記事を要約して訳したものです。

The Four Types of Metafiction in Videogames

で、ほほーんなるほどなと思っていたのですが、いやよく考えてみたらこれはちょっと「広すぎる」のではと思ったので、いったんメモ程度に書いておきます(このブログにおいて「メモ程度」でなかったことはないのだが……)。それこそこないだの「自由度」の話もそうだけども、「メタフィクション」を誰がどう使おうとも構わないといえばかまわないのですが、たぶんこれをすべて「メタフィクション」と称してしまうと、非常に使いづらい語になっちゃうんじゃないかなと思ったって話になります。

まず、ここで提案されている4分類は下記のとおりです。

  1. Emergent Metafiction(創発的なメタフィクション1
  2. Immersive metafiction(没入的なメタフィクション
  3. Internal metafiction(内的なメタフィクション
  4. External Metafiction(外的なメタフィクション

それぞれがどういうものかについては上述のネマノさんのエントリまたは原文をあたってもらえればよいのですが、ここで特に問題にしたいのは3と4です。

まずわかりやすいのは3で、1が「フィクション内部→外部」、2が「フィクション外部→内部」という矢印であるのに対し、3は「フィクション内部→内部」の話なんですよね。Cox氏自身指摘しているとおり "While it does address the fictionality of the game world, it is different from the other three, as it never fully breaches the fourth wall, but more simply eludes to it." なわけで、「第4の壁」を壊すようなものではない。「eludes(回避する)」というのがどういうニュアンスなのか正直つかみかねているのですが、そうはいっても(ゲームの外でいえば)たとえば漫画のなかで「こんなことが起こるなんて、まるで漫画の世界じゃん!」って台詞が出てきたときに、それを「メタフィクション」として認識するかどうかといえば、しないでしょう。それがゲームになったからといってやはり同じはず。たしかに演出としてはある種のメタっぽいネタというか、そこを意識させるギャグではあるものの、物語世界を拡張しなければ意味を把握できないような表現(これについては後述)(後述できなかった)ではない。

4はどうか。代表的な例としてゲーム中のイースターエッグが挙げられており、先ほどの図式でいえば「フィクション外部→外部」という矢印のものなのですが、(エンドクレジットなどをパラテクストとして除外すべきなのはもちろんその通りだとして)これもやっぱりあやしい。具体例に添ったほうが説明しやすいので、そのまま(ネマノさんが訳してくれてたものを)持ってきます。「たとえばある部屋に入ったときに壁に『このゲームをプレイしてくれてありがとう! 開発者より』などと書かれている」ような状況だと。なるほど。

つまり、ゲーム環境2において「ある部屋に入ったときに壁に『このゲームをプレイしてくれてありがとう! 開発者より』などと書かれている」わけです。で、このときたしかにわれわれは、そのまま物語世界においても「ある部屋に入ったときに壁に『このゲームをプレイしてくれてありがとう! 開発者より』などと書かれている」とは解釈するでしょう。しますわね。します。するのですが、しかしその先、この「開発者」が「目の前でプレイしているこのゲームの(つまりフィクション外の)開発者」を指すのだろうと推論するのはあくまでフィクション外の文脈においてであって(externalというのは結局そういうことのはず)、フィクション内部においては必ずしもそうはならない。たとえばそれをわきで見ていたキャラクターが「これ意味わかんないね……」と言うのであれば、それはフィクションの内部の理解としてはあくまで「意味わかんないもの」なんですよね。物語世界が拡張されていない。逆にそのキャラクターが(それなりのシリアスさをもって)「ここは開発者によって作られたゲームのなかなのか!」と言ったとき、そのときにようやくメタフィクションになるのではないでしょうか。ただそうなると、これは4に分類されるべきものではすでになくなっており、1に分類されるべきものになっているはずです。

これ、「これ意味わかんないよね……」と言ってるような状況まで「メタフィクション」にしちゃおうとするとまずいと思うのは、たとえば「過去改変SFにおいて現代のインターネットミームがネタとして出された」ようなケースを考えたとき、それを「メタフィクション」として見るのか? みたいな話になってきてしまわないかと考えるからです。あきらかにフィクション外を参照しているのだとオーディエンスにとってはわかる、けれども物語世界の意味理解としては関係ない状況……というのはありふれていて、そこまでメタフィクションにはしたくないんじゃない?と。

このあと「物語世界の拡張」云々で言いたかったこととか、単なる入れ子構造や自己言及をメタフィクションって言ってんじゃねえぞ(念のため言っとくとネマノさんはそんなこと言ってなくて、一般的な話やで)って話とか、ウォルトンの参加なき鑑賞の話とか、あとゲーム内で「Aボタンでジャンプするんじゃ」というのを物語世界内でどう解釈してるかっつうとおそらく「解釈を止めている」なんじゃないかな(ここはゲーム環境と物語世界との間の話で、物語世界内の発話として見るというのは不自然すぎるが、言い換えて読むのもそれはそれで無理がある、それでも完全に除外はできない)みたいな話もしたいんだけど、すみません、寝ている子供が泣き出したので、いったんここまでで……。


  1. 日本語の「創発」っぽいニュアンスがあるようにはあんまり見えないので、「発現的な」とかのほうがまだいい気がする……けどどっちにしろしっくりこないか。
  2. 倉根「ゲームプレイはいかにして物語になるのか」を参照。

「鏖戦」ひとり読書会にむけて(3のその1)

最初にも言ったとおり今回はいったんベア=酒井の共作みたいなものとして読むつもり(なぜならめんどくさいから)なので踏み込まないが、ベアによる原文はそこまで「工夫」がなく、酒井訳独自の部分が多々ある1ことにはいちおう注意しておきたい。……のだけど、それでも以下で文体や語彙の選択についてところどころ触れてしまっているとおり、その「無神経さ」に意味を見出してしまえなくは……ないのかなあ……いやさすがに無理かなあ……。

ともあれ、付番は以下に準ずる。

murashit.hateblo.jp

3. p.10:いちばん幅のある莢【さや】に乗り……

  • 阿頼厨視点

  • 1文目の「いちばん幅のある莢【さや】に乗り、液体安母尼亜【あんもにあ】の薄膜上を滑走しながら、阿頼厨【あらいず】は新しい任務のことを考えていた」からしてなにがどうなってるのかぜんぜんわからない。最初に目に見える場面をお出しするのはよくあるやり方だけど、ぜんぜん役に立ってないよ!
  • とりあえず、阿頼厨って名前の思考する物理的な存在がいて、任務の授受ができる関係がどこかとあるらしいことはわかる。アンモニアの薄膜って、超低温下ってことでいいのかな(このあとの生態からいってもまあそうか)
  • ともあれ、このあと「人種【にんしゅ】なる種族が」云々という話になり、「美杜莎【めどぅーさ】」「施禰倶支【せねくし】」とかが出てくることで、ああなるほど、セネクシ側の視点なんだ、そしてこの当て字しまくりでやるんだなってことが把握できる
  • 基本的には「人類側の呼び方に漢字があてられる」みたくなっているのだろうか。メドゥーサに対するセネクシ側の呼称がある(明らかにはならないのだが)らしいので
  • このへん、語り手の地位などをどこまで気にすべきかはいまいちわからない2。本節後半でわかる阿頼厨の性格(?)を考えると、「あえて人種の言葉を借りてきてる」感を覚えてもいいところなのかもしれないが……。いずれにせよ雰囲気はよく出ていて、本書の文体の特徴として真っ先に思い浮かぶところ
  • 前節でも触れられていた種子船には、6つの胞族(つまり分岐識胞単位だと30個体。個体?)が乗り組んでいるとのこと。なんというか、「乗る」ような実体があるんだね
  • これまで原始星群の周りを93周してきたらしい。(後述の無時間期間も含め)1周あたり「人種【にんしゅ】の時間にして約百三十年」なので、1万2000年ほどということになる。人類サイドとは時間のスケールがかなり違う。もうすこしあとで述べられているが、セネクシの「一世代」は1万年ほどのようだ
  • ただそれでも、恒星進化のスケール(「恒星の王道をたどりゆく」とういのはそれが主系列星ということだろうか。この原始星群もそのように進化するものと目されているらしい)に比べればかなり短いのだが
  • 周回のうちには「劫外次元内の無時間期間」もある。よくわからんが、どっか時間の進まない別次元に寄ったりもする、と。(あとで活きてくるとはいえ、この時点では)時空間をなんかできるぞ的なハッタリだ! とりあえず技術の高度さは伝わる
  • 1周130年がどんくらいのスピード感なのかもよくわからない。どうせ「無時間期間」も含まれてるので考えてもしゃあないか(というか、そうやって誤魔化してるのかもしれないな?)
  • 彼らの任務は原始星周辺の物質の分布や組成を調査し、蔵識嚢に伝え評価すること。100世代(10進法だ!)ののちに目的が達成するらしい
  • 今が何世代目なのかよくわからないが、雰囲気からすると最初(ここにきてとりあえず93周でそろそろこの世代が終わりだよ、みたいな)なのだろうか。あとで「何千世代もかける」みたいな話が出てきることを鑑みると大詰めなのかもしれないが。それに、目的達成するころは原始星群がどうなってるころなんだろ?組成とかを評価してどうするつもりなのかも不明
  • プルーフラックス-上位者の関係と阿頼厨-蔵識嚢の関係に相似を感じられるところではある
  • 「気体の触手に分け入り」はちょっと独特な表現で、このあとすぐにわかるセネクシの生態が反映されているのかもしれない

  • 続いてセネクシの歴史についての説明。こういうのが地の文に出てくるあたり(いや、説明の都合はあるんだが)阿頼厨って理屈っぽいんやなって感じだ……
  • まず、銀河系形成初期(少なく見積もっても百億年以上前)からすでに宇宙を飛び回っていたという話。その古さはもとより、重い元素に乏しい環境で発生した生命であるというのがポイントで、「種族Ⅱの主要恒星をめぐる冷たい巨大気体惑星では、生物が進化するうえでそれほど豊富な化合物を利用できなかった」とのこと。なんというか、希薄な感じの生き物なんじゃなかろうか
  • 「種族Ⅱ」(Iもこのあと出てくる)というのは、そのまんま→のことだろう:星の種族 - Wikipedia 種族Iは比較的若く(超新星爆発などによる元素合成を経た)重い元素を多く含む恒星、Ⅱは軽い元素ばかりの恒星で古くからある
  • 造語をでっち上げるか、そうでなくとも適当な呼び方をすればいいところに見えてどうしても気になってしまう(だってわざわざ自分らに馴染みのあるほうを「Ⅱ」に置いてるんだぜ)
  • ともかく、反応もゆっくりとしているらしく「ひとつの偉業を達成するには何千世代もかかる」。このへんで恒星進化のスケールとセネクシによるその利用(?)のスケールとが噛み合ってくる
  • このへん、当時の恒星群の描写がかっこいいし、気体への見方って観点もあって良いところ。「こととて」みたいなちょっと古風な言い回しがあるのもたのしい
  • 個々の識胞の知覚は「限定されている」らしい。蔵識嚢がそれこそ脳?みたいなもんだと捉えるならそうなるな
  • 阿頼厨の診断としては「人種は、より適応力に富み、活発」。セネクシ側はこの点で劣るが、一方で知識や経験の蓄積は厚いよ、と。どう蓄積しているかはこのあとすぐ出てくる
  • 後発である種族I系恒星で生じた生命(人類もここに含まれる)のことはずっと静観していて、彼らが宇宙進出しだしたときでさえいったん撤退ししばらく閉じ込もって力を蓄えていた。のだが、そのうちセネクシたちの生存領域さえ脅かされるようになって……というのが現在の状況
  • ここの「生物学はひとり歩きし」も好き。擬人表現の使いどころがうまい
  • ひきこもっていた期間は3世代=3万年程度で、セネクシの時間感覚からするとそこまで長い期間でもないように感じる(江戸幕府鎖国より短そう)のだが、ともあれ「三万年ものあいだ」と書かれてる。人類の宇宙進出から現在までの期間が3万年であると読んでいいのかどうかは……正直まだちょっとわからない

このあと蔵識嚢の説明に移るんだけど、今日はいったんここまで。2ページしか進んでないな……。

とりあえずこのへん、特徴的な文体が披露されるほか、セネクシの時間感覚が強く出ている箇所である。促成栽培されているらしい人類との対比がありつつ、とはいえ蔵識嚢との関係や目的の不明瞭さには人類との類似も見てとれてしまう。

気にしすぎるとよくないと思いつつどうしてもところどころの表現が怪しく見えてしまうんだが……このへんは脚注でも触れた第4セクション末でまた問題にしたいところ。


  1. このへん参照/当初「どこで読めるんだろう」としていましたが、コメントで教えていただいたとおり大森『新編 SF翻訳講座』で読めます。読めました。ありがとうございます!
  2. それこそ酒井による語彙や文体の選択が絡むところだし。たとえば本作全体にマンデイトの記録ですよみたいな見立てはできなくもないはずなのだが、そこを掘り下げるような話ではないのでは、とか。それでも第4セクション末(p.25)の「なんと残酷な時、なんと残酷な葛藤だろう──。」なんて価値判断が強く出た表現などを見ていると、完全に捨て置けるのかどうかよくわからない。

「鏖戦」ひとり読書会にむけて(1〜2)

まずは順なりに読んでってあとからまとめることにしようかな。付番は以下に準ずる。

murashit.hateblo.jp

なお、先を読んではじめて判明することについては、基本的には「わからない」ものとする……つもりなんだけど、ゆうても読んじゃってるわけで、かなりバイアスがかかっているともおもう。

1. p.7:漢王朝の時代……

  • いかにもエピグラフっぽく掲載されている(実際このあとのみ2行アキになっている)。この時点では(引用元が示されていないことを訝しみながらも)ひとまずエピグラフのようなものとして解するしかない
  • 内容としては、漢の歴史書における当代にかんする記述について、当代の皇帝が崩御するまで読まれたり変えられたりすることが許されなかった、そのおかげで歴史が残ってきたのだ、みたいな話
  • 歴史を書きのこす際の独立性の重要さが強調されている
  • 実際そうだったか、少なくともそういう伝説があるのかといったことについて自分はぜんぜん知らないんだけど、ここで嘘をつく必要もないだろうし、そのような伝説が実際にあるんだろうな……

2. p.7:人類はそれを〈メドゥーサ〉と呼んだ。……

  • プルーフラックス視点の三人称。心情も語られる

  • 初手から「人類は」なので、なるほど人類の話なんだねと思う
  • 原始星群(メドゥーサ)にかんしての、プルーフラックスの想起にもとづく描写(当然のごとくかっこいい描写であるが、あとあと考えると視覚はどうなってるんだというのが気にはなる)。プルーフラックスは「人類」ないしその言葉を使うようなキャラクターであるらしい
  • 原始星群=子宮=母という連想がはたらいており、かつそこに禍々しい印象が付与されている。このあたりはプルーフラックスの主観がわりと強く出てきているようにみえる
  • 「領有権未定の領域」とはいかにもきなくさい! 誰かと誰か(片方はこの「人類」なんだろうな)が争ってるのだろう
  • プルーフラックスは「母というものを知らない」かつ「仮象のなかでなら見たことがあった」。仮象ってのはなんかVRみたいなもんだろうか。知らないってのは「直接には」知らないってことだろうか? いまいちわからない
  • 場所は混淆【メランジー】と呼ばれる巡航艦とのこと
  • プルーフラックスは「五歳」らしい。「1年」をどうとらえればよいのかわからないが、冒頭部分でも「パーセク」が出てきたとおり、単位を疑うのは不合理に思える。どうやらわれわれの知っている「人類」とはかなりちがうようだ
  • 生まれて1年で教練がはじまり、そのうち戦闘に投入されるとのこと。そのために生産されている感が出ている。クラスメイトが何人もいること、講士の存在等々からかなりシステマチックに行われていることがわかる
  • 敵(おそらくメドゥーサの領有権を争っている相手)は「セネクシ」。その船は種子船【シードシップ】と呼ばれており、(敵を倒しつつ?)その奥に蔵識嚢【ブルード・マインド】見つけるのがプルーフラックスらの目的
  • 教練は没入【ノウ】と講技【テル】からなり、眠るときにも訓練(戦闘のシミュレーション)が行われる。講技の際集中してないとふつうに怒られるらしいぞ
  • 以上がプルーフラックスの心のうちの話(2.5ページくらいのうち1ページ弱)。ここから具体的なアクションが起こる

  • 場面としては講義の最中らしく、あっさりと「円形の階段教室」とされる。マジでふつうだ!
  • クラスメイトの「ひと悶着」を待ち構える様子からは、以前にもなにかあったこと、プルーフラックスがやや問題児? であることなどを察せなくもないか。このあとの教師がタイプみたいな話といい、急に卑近になるのおもしろい
  • その後のプルーフラックスと講士との会話はおおむねセネクシの説明(別途まとめる)
  • プルーフラックスの身長は3メートルほど。「すでに」というようにやや成長が早いのだろうか。先のプルーフラックスの性格の示唆とあわせて、多少特殊(主人公っぽい!)なんだろうなと思われる
  • 覚醒相がある。ということは眠るような「相」もあるのだろう。上述の睡眠中の訓練はこの期間中に行われるんだろうな。形態の違いからみてもわれわれの睡眠とはけっこう違いそうだが詳しいことはよくわからない
  • プルーフラックスは「妖精態」。具体的な容姿はわからないが1、手足は細長く、「肉」がついている。破摧籠手【グラヴ】(爪みたいなやつなんやろな)を装着できるように手に手術を受けている
  • 講士は講士で「講士形態」があるらしい。頭は横に広いハンマーヘッド型。「妖精態」がそのような容姿であるとは(ひとまずは)考えづらいため、形態の多様性は広いとするのが自然か
  • 「講士形態を魅力的と思う女もいなくはないが」!教師がタイプな奴もいるって話だ。ここ笑いどころだよな……
  • ともあれ、どうやら性別があるらしいこと、プルーフラックス自身は「女性」であるらしいことがなんとなくわかる
  • 「破摧【ザップ】する」でにっとほほえむプルーフラックス。ちょっと前のほうでまんま擬音語として「バン【ザップ】、バン【ザップ】」というのが出てきていたのとつながる。幼児的(少年兵的?)なイメージ
  • はじめての質問にもかかわらず、プルーフラックスは即座に回答している。読者としては違和感を覚えるべきところか
  • 社会階層のようなものがあるらしい。上位者は「オーバー」と呼ばれており、彼ら(のうち、とくに最高位の上位者)のために蔵識嚢を持ち帰れということになっている
  • 上位者の目的は不明だが、プルーフラックスはそのことに疑問を覚えない。社会構造がかなり固定化されているか、そのような処置がとられているものとおもわれる
  • 「心の散策といってよね、とプルーフラックスは思った」。ゴリゴリに役割語
  • ここまででもとろこどころで示唆されていたが、形態の異様さに比べてかなり卑近な雰囲気。あくまで「人類」の延長ということだろうか
  • 5歳から6歳くらいで「けっこうな歳」、3歳でセネクシを見る(ということは、戦闘に参加する)者もいるらしい。2年程度の教練でいちおうものになるようだ
  • 最後の「バン【ザップ】、バン【ザップ】」で念押し。「楽しみ」にしていることがわかる。そのように作られたこと(本能的にそれを楽しみにしているのだろうということ)が示唆されているといってよいか

セネクシについて:

  • 「胞族」という社会的(?)単位があり、胞族ごとに「蔵識嚢」をもつ
  • 胞族は5体の「分岐識胞【ブランチ・マインド】」からなる
  • 蔵識嚢には嚢漿が、嚢漿には情報(仮象など)が収められている。「情報」が抽象的対象なので字義通りにはとりづらいが、まあ脳みたいなもんやろなとは想像できる
  • 破摧の対象は嚢漿(に収められている同系胞の遺伝情報)。蔵識嚢は「最高上位者【オーバー】」のために持ち帰られる
  • 正直ここだけだと「なんかぜんぜん違う生命体なんだな」ということしかわからないところ

冒頭の設定紹介部分でもあるので情報が多いのだが、ポイントとしては:

  • 遠い未来、遠い星での話だよ
  • プルーフラックスたちはポストヒューマンで、システマチックに生産・管理されているよ
  • 形態や生態の異様さに比べると、(すくなくともプルーフラックスたちの周囲をみれば)その心理などはある程度われわれに近いよ
  • それでも「破摧」への心持ちなど、(その再生産システムや社会構造からくるのか)異様なところもあるよ
  • 敵のセネクシはそうした人類よりもっともっと理解しがたい生命体だよ
  • 人類とセネクシが争っているよ

……ってあたりになるだろうか。


っていうか、まじでこのペースでやるの!?(とはいえ小説読むのって馴染むまではゆっくりにはなるものだし心配するほどではないだろうか)


  1. とはいえ自分のなかではかってにポケモンフェローチェみたいなイメージになっています。まあ肉は付いてないが……。

2023-06-28

最近見たもの読んだものからいくつか。


なんの前フリもなく「鏖戦」の話をはじめてしまった のは、はたしてむかしより多少は「読める」ようになったんだろうか、なんてことをどこかのタイミングでためしてみたかったからなのだけど、とはいえこういうのが続いたためしもやはりない。まあ、それはそういうもんだしいいんですけど。


そんなところで The Poetics of Science Fiction はどうなったよという話もあり、こちらはたしかに最近放置してしまってました……。いやでも、やる気がなくなったわけじゃあないんです。ただなんだろうな、山梨『小説の描写と技巧』が正直ちょっと……ちょっとな……と感じてしまって、その流れでややモチベーションが下がったってのはあったかもしれない。第2章は『修辞的表現論』にあった話そのままなんでそちらを読めばいいとはいえ、まとめとしてはよさそう。第3章はその延長でこれはこれでおもしろい。……といった程度の素直な気持ちで読んでたんだけど、さて第4章がいただけなかったんですよね。その第4章だって、はじめのほうはそこまでに出てきた論点と被りはあるもののまあ概括としてよかった。続いて新感覚派とくに川端の文章の遠近法についてみていくあたりも(新しい!というものではないにせよ)認知云々による整理がそれなりに効いてた1。んだけど、そのあとのハードボイルドの話は、なんというか、急にしまりがない感じで……。いやあんま偉そうなこと言うもんじゃないですかね。それでもちょっと違うなみたいな気持ちが、こう。


江戸猫先生の新刊を読んだ。もうこれ「素」やんけ! ってなったから「江戸猫先生」って呼んじゃう。だって、そりゃそう見せるための演出もあろうけれど、それでもやっぱ、ちょけてる箇所なんてどうしたって顔と声が浮かんでしまうんだもの。そしてだからこそ、江戸猫先生は常識人であるっていう自分の認識って、先生じしんの自己認識ともそれなりに整合していたんだな……みたいに、本筋でないところをおもしろがるのが第一になってしまったのが正直なところでもあった。たとえば、江戸猫先生は礼儀に厳しい。いや、もうすこし視野を広げるとこれくらいの感覚がふつう(というか、むしろ「まっとう」といってもいい)だろとも思うんだけど、そのへんゆるゆるな界隈のなかではなんだかすごくちゃんとしているように見えてたんだよな。だからなんというか、そういうところの答え(答えなんてものはないが)合わせに目がいっちゃったみたいな、そういう2


スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』見た。戦闘シーンの多幸感が前作にも増してすごかった3。どこまでいくんだろうな……。

ただ、マルチバースものをやるにあたり、それらをひっくるめた運命論やるのってなんだか転倒してないだろうかってのが気になってしまった。個別世界の運命を全世界の運命につなげちゃう手つきが、なんというか、軽率じゃなかったろうか。でもまあ、最終的にはそんな「全世界の運命」なんてのはけっきょく嘘というか、嘘っていうとあれか、そんなことないですよスパイダーマンにはそんな運命や義務や資格なんてないんですよって話に、つまりひいては、マルチバースの多様性が確保される話にはなるんだろうとは思うんだけど。


しかしこういうのあれだな、もうちょっとこう、身の回りのできごとについても書きたいっすよね。します? まるごと冷凍弁当の話でもします?


  1. いまどきそういう主観性とか認識の反映に気を払わんで書いてる人がいるともあんま思えんしなというのはあるけど、それを認知という文脈に落として整理してくれたのはやっぱりありがたいな……みたいな。このへんの機微はThe Poetics of Science Fictionを読んでるときにもある。
  2. とはいえ、こういうときだけ友人ヅラされるのもあれだろうし、そもそも人物評というものの下品さもあるし、中身について話さないのはふつうに失礼で、だからこのへん、自分は常識がないのかもしれない。なによりこの、常識がないのかもしれないと言いつつこういうこと言う身振りがな。
  3. 細かいことをいえばヌエバヨークでの戦闘シーンはさすがにトーンが混ざりすぎてるせいかガチャつきのほうが気になったんだけど、それも意図的なものだったんだろうか。

「鏖戦」ひとり読書会にむけて

周知のとおりかなりイメージしづらい描写ばかりではあるんだけど、読者として「だんだんわかってくる」こと自体がテーマともかかわってくるので……という言い訳のもと、(ベア=酒井の共作というとらえかたで)今後気が向いたときにでもだらだら読んでみたい。

で、準備の準備として、空行区切りを基準にブロックをリストアップしておく(ページ番号はこのたびの単行本から)。これらのブロックごとに焦点化されたキャラクターがおおむね固定されているため、それについても。

  1. p.7:漢王朝の時代……
  2. p.7:人類はそれを〈メドゥーサ〉と呼んだ。……
  3. p.10:いちばん幅のある莢【さや】に乗り……
  4. p.13:妖精態のプルーフラックスは……
  5. p.16:蔵識嚢【ぞうしきのう】は何本もの……
    • 阿頼厨。蔵識嚢とのやりとり
  6. p.20:プルーフラックスはクリーヴォに惹かれたが……
  7. p.23:施禰倶支【せねくし】には近くに人種【にんしゅ】が……
    • 阿頼厨
  8. p.25:彼女は言語のただなかに浮かび……
  9. p.26:破摧籠手【グラヴ】を装着したプルーフラックスは……
  10. p.29:阿頼厨【あらいず】は機械を見つめ……
    • 阿頼厨。人形たちとのやりとり
  11. p.32:はてしない軌道のダンス。……
  12. p.34:種子船【しゅうじせん】は防御膜に包まれ……
    • 阿頼厨
  13. p.36:暗闇の中での待機。……
    • 戦闘シーン。プルーフラックス/阿頼厨が交互に焦点化されている
  14. p.42:戦いは終わった。……
    • ここでいっきに時間が飛ぶ。阿頼厨
  15. p.43:彼女はこれまでの全人生を……
  16. p.47:戦いの記憶はなまなましく……
    • プルーフラックス。以降、プルーフラックス(オリジナル)のパートにおいてダーシに続く発話はふたりのプルーフラックスの台詞(のようなもの)
  17. p.49:プルーフラックスの慎重は二メートル半。……
    • プルーフラックス(オリジナル)。〈マンデイト〉にある伝記テープの情報として。以降のプルーフラックス(オリジナル)のパートも同様
  18. p.52:阿頼厨は自分がますます無明【むみょう】に……
    • 阿頼厨
  19. p.54:——彼女、愛した?……
  20. p.68:〈曼陀羅【まんでいと】〉に接続したとたん……
    • 阿頼厨。以降、阿頼厨パートにおいてダーシに続く発話は阿頼厨と変異体とのやりとり
  21. p.70:オリジナル・プルーフラックスの物語はつづく。……
    • おおむね戦闘シーン。プルーフラックス(オリジナル)
  22. p.81:阿頼厨【あらいず】は施禰倶支【せねくし】の記憶内で……
    • 阿頼厨
  23. p.83:インプラントは交換された。……
  24. p.97:阿頼厨【あらいず】は、自分が人形たちとともに……
    • 阿頼厨
  25. p.98:マーシオールへと帰投する途中……
  26. p.104:阿頼厨【あらいず】は身ぶるいした。……
    • 阿頼厨。蔵識嚢解放
  27. p.105:〈ママ〉が警報を発し、〈マンデイト〉との……
    • プルーフラックスたちふたり(区別されない)。「天使」登場
  28. p.107:〈マンデイト〉は冷たい漆黒【しっこく】の空間の……
    • 特定のキャラクターに焦点化されていない。太字部分あり。プルーフラックス最後の詩

p.7から開始、p.108で終了。場面が大きく変わるのは14および28。2〜13を「第1部」、14〜27を「第2部」、ラストの28のみを「第3部」と便宜的に称することにすれば、第1部は視点切り替えの頻度が高く(分量としては1/3だが視点の切り替え数基準では半分使ってる)、最後の戦闘シーンでまとまる。第2部はオリジナルのプルーフラックスの記録がメインでたまに阿頼厨、みたいな感じ。

どんなときに「自由度」といいたくなるのか

経緯

もともとこういう語の使いかたには興味があったし、だからディスコエリジウムをだしにロールプレイについてうだうだしたときにもすこし触れてはいた。そのうえで、上野「ゲームにおける自由について」1およびそれに対する松永さんのコメント、あるいはシカール『プレイ・マターズ』あたりを読んでよけいに気になっていた2。そしてそうこうしているうち、こないだ「自由度」をキーワードにしたTotKのレビューを読むにいたって、せっかくだから書きながら考えてみようとおもったわけだ。自分はけっきょく、ビデオゲームについて考えるときに出てきがちな「自由度」という語をどうとらえてるんだっけ、と。

省みる前に

とはいえ一般的なとらえられかたでいえば、先述の松永コメントにあるとおり「あるゲーム(のある場面)におけるプレイヤーの選択肢の幅の広さ、あるいはプレイヤーに対する指令の少なさ」でよさそうだ。(しっかり用例採集したわけではないけれど)ある種のスラングとしてこのように使われている3のはそのとおりにみえるし、これからはじめる反省に先立って考えてみるにつけても、まずここが出発点にできそうにおもえる。

また、これをかんがみつつ、以下の二点についても念のため確認しておきたい。

  • 「○○についての自由度」といった形で議論の領域が限られていれば、とくに理解しづらくなるような語ではない
  • (なんらかのいみでの)「自由度」の高低がゲーム全体の評価に直結することはない

こうしたことは先のTotKレビューでも明記されていたけれど、そうでなくともあたりまえの話ではあるはず。前者についていえば、選択肢というからにはその領域を限定しないとわからないよねという話だし、後者についていえば、(なんらかのいみでの)「自由度」のみが評価基準ですよと明示するなり正当化するなりしていないかぎりそうにきまっているだろう。

ただ、そのうえで、それにもかかわらず、なにもつけずに「自由度」を使いたくなる4、さらには評価に短絡しそうになることが、なぜだかある。そんなときの自分の傾向性を省みてみたい、という感じです。自分はどうやら「自由度」の3文字に(文字通りには解せない)意味を載せすぎているらしく、それを取り外すにせよなんにせよ、まずはそれがなんなのかわかりたいんよ。

使ってみる

まずは、「自由度が高い」という句をてきとうに使ってみて、自分の直観に合うかどうかを判定してみることにする。○はとくに違和感がない、△はなんらかの限定がないと受け入れづらい、×は限定をつけても違和感が大きい、程度。

  • ×ポケモンは自由度の高いゲームだ。なぜなら、バグを利用して任意コード実行が可能だから
    • バグはダメなんよ
  • ×ニーアオートマタは自由度が高いゲームだ。なぜならエンディングの数がたいへん多いから
    • 選択肢があればいいというものではないらしい。ニーアオートマタの「エンディングの多さ」は特殊なゲームオーバーを含む点で特殊に感じられるかもしれないけれど、とはいえほかのマルチエンディングかつその種類がある程度あるゲームを想像してみても、やっぱりしっくりこない
  • Minecraftは自由度の高いゲームだ
    • 複数の場面で「指令が少ない」に該当しうるため一般には〇になりそうなんだけど、自分にとっては△なんですよね。ちなみに、マイクラではエンダードラゴンの討伐がいちおうの「エンディング」を見るための条件になっているのだが、それについての「ゲーム側からの要求」(ってなんだろうね)がかなり低くみえるのもポイントかもしれない
  • △ディスコエリジウムは自由度が高いゲームだ
    • ある種の「幅の広さ」があるのは間違いないんだけど、それが「ロールプレイの幅」でないことは先の記事にも書いた(もちろん「ロールプレイ」っていうよくわからない語のとりかたも関わってくるところで、むしろそれを考えたいのが先の記事だったというのもある)。そのうえで、なにも限定しないときの「自由度」としてもしっくりこない。ただ、まあ△くらいだな
  • ○ティアーズオブザキングダムは自由度の高いゲームだ
  • ○Divinity: Original Sin 2は自由度が高いゲームだ5
    • このへんはいい。なお、TotKはエンディングが1種類だが、D:OS2はいちおう最後の最後で分岐がある(がまあ、これは「マルチエンディング」というか、最終的な目標が複数あるとは言わないだろう)

とりあえず、まじもんのバグによる「できることの多さ」は考慮されないようにみえる。開発者の意図なのか、そのゲームのルール(?)なのか、そういったなにかしらを気にしているらしい。いっぽうで、目的(ここではかなりざっくりと「ゲームオーバー/ゲームクリア」くらいで)と手段あたりの扱いはちょっと微妙でわかりづらい。

で、結局のところ、ここでつい挙げてしまったのがTotKやDivinityであり、一方でマイクラが△になっているあたりを鑑みると、「なんらかの目的(ここは「ゲームオーバー/ゲームクリア」よりミクロなもの)にたいし『正当』ではない手段(力技)が許容されている」というあたりが、自分のなかではコアな意味になっているのではないか。

これを上野論文にならって「プレイヤーがゲーム内での自らの行為の創造者が自分であると実感できること」(の度合い)と表現しても、それほど違和感はない。これと「あるゲーム(のある場面)におけるプレイヤーの選択肢の幅の広さ、あるいはプレイヤーに対する指令の少なさ」をなんらかのかたちであわせることで、それなりに自分のニュアンスに近付ける気はする。のだけれど……実際のところ、結果として出てきた表現からそうも読みとれるという話でしかない6

掘り下げてみる

というわけで、先の松永コメントにある以下の腑分け(上野論文で触れられていないとされた非義務性も0として付番した)を使いつつ、上野論文を参照してもうすこし掘り下げてみたい。

  • 0: ゲーム参加の非義務性(伝統的な遊戯論における「自己目的性」と強く関連する)
  • 1: 規則からの逸脱やその転覆(シカールの「流用」が近い)
  • 2: ゲームメカニクスを自分のものにしていると感じる経験(プレイしているときに感じる「自在さ」のようなもの)
  • 3: あるゲーム(のある場面)におけるプレイヤーの選択肢の幅の広さ、あるいはプレイヤーに対する指令の少なさ(俗にいう「自由度」の一般的な使われかた)
  • 4: ゲーム上の事柄を自分事として(あるいは自分の行為に「意味」を与えるものとして)感じられること(「没入」が近い)

これにそくしていえば、上野論文の第4節では、1を除外しつつ、4をメインに据え、2をその前提条件としてとらえつつ「プレイヤーがゲーム内での自らの行為の創造者が自分であると実感できること」(がゲームにおける「自由」である)を導いているようにみえる(たぶん)。3は明示的に扱っていないけれど、2や4を感じられることのさらに前提としてとうぜん必要ではある。

ひるがえって今回問題にしたい自分のなかの「自由度」についていえばまず、バグを除外するといいつつも、1の影響がどうしても無視できないようにおもえる(そのいみで、RTAの扱いがやや微妙なものになってくる)。ただ、(そもそもシカールの「流用」あたりをどうとらえたらよいのかまだよくわかっていないところもあるので自信がないのだけれど)どちらかというと「アポロン的なものとデュオニソス的なものとの緊張関係」云々の流れで挙げられていた「カーニバル的であること」のほうが近いのかもしれない7。というか、1における「規則」と、ここで指向の方向性を決めるものとして考えた「王道/邪道」というのは実質的にはかなり異なる概念でもあろうし。やっぱり過剰につなげすぎないほうがいいのかもしれない。でも、あえてそこを連続的にとらえ、その境界を攻めようとするのは、ある種のゲーマーのもちうる心性のひとつのようにもおもえるんだよな。規範とは……。

で、「開発者の意図」みたいなものを想定するかぎりでは、そこからの外しのために2の「ゲームメカニクスを自分のものにしている」ような状態、つまり「開発者よりもおれのほうがメカニクスをよく知っていて、自在に操れる」感覚が必要になってくるという意味で、上野論文のロジックを相似的にもってこられそう。また、4も絡めようとすれば絡められて、けっきょく没入するには、「開発者の手の上である」というのを一時的にでも忘れられなきゃね、というのがあるんじゃないだろうか。もちろん結局許容されているという意味では(さらにいえば、変なバグが起こらないであろうというちょっとレイヤが上の信頼さえあるという意味では)まさにお釈迦さま的な「手の上」ではあるにせよ。そしてそれでも、「没入」のためのさまざまな手管のうちには、このいみでの「自由度」を逆に疎外するものがふんだんにあることにも注意しておきたい。

……うわ、しまった、気力が切れて突然ダラっと2段落書き下してしまった。うーん、ようやっとスタート地点の一歩手前くらいまでしか来てないんだが……。ぜんぜん整理できてないんですけど、もうすこし用例採集してみたり、『プレイ・マターズ』をちゃんと読み返してみたり、ほかの文献(脚注にも書いたけど、とりあえずグエン“The Right Way to Play a Game.”が気になる)とか読んだりしたほうがいいのかもしれないな。まあブログの記事いっぽんぶんとしてはいったんこんなもんで。

みなさんにとっての「自由度」ってなんすかね?


  1. ちなみに、「ゲームにおける自由について」そのものとは別に、もとになったとおもわれる上野さんの修士論文ビデオゲームにおけるプレイの失敗について」の概要も紀要に載ってる。「〜自由について」でちょっとだけ触れられているグエン(Nguyen, C. Thi. 2019. “The Right Way to Play a Game.” Game Studies 19 (1).)の主張について掘り下げられているらしいあたりがとくに気になるな……。
  2. そのへんが出たのがこのへんだろうか。ただ、同じく挙げている「ナラティブ」や「ゲーム性」みたいないかにもまずそうな語についてはそれらに関する議論をいろんなところで見たことがある(なので、いまどき「ゲーム性」を素で使ってる人ってそんなにいないとは思う)のに比べると、「自由度」については最近までまとまったものをあんまり見たことがなかったんですよね。いずれも松永さんのブログからになってしまうのだけど、ナラティブについてはこれ、「ゲーム性」についてはこれとか。「リアリティ」もたしかにそういう系の語だな……。/それにしても、こういう話をしようと思うと松永さん関連のものしか引っぱってこれないのはどうにかならんもんだろうか。ありがたいんだけど、一方で自分がうまく探せていない感が強いし、あまりに引き合いに出しまくって雑なこと言ってるせいでムカつかれるんじゃないかという気もする。
  3. 文字通りにとらえれば「自由」の程度が「自由度」であるはずなので、「自由度が高い」を「(より)自由である」ないしもっと端的に「自由な」等と置き換えても通じるはず。なのだけど、後述するような限定をつけるときにはそれらのバリエーションがみられる一方、限定をつけないときにはもっぱら「自由度」が使われているようにもみえる。ちょっとおもしろい。日本語としての通りのよさというのはあるにせよ、いかにもスラングって感じだ。/なお、辞書的な定義としては「規則にしばられた中で、もちうるゆとりの程度」といったものとされている(ここで引いているのは精選版日国だが、ほかの辞書でもだいたい同じ)。
  4. さきの脚注でも触れたとおり一般にもある傾向にはみえるのだけど、ここで扱いたいのは自分のなかの話です。
  5. 自分はこのシリーズをなにかと引き合いに出しがちというか、このあとすぐ説明するような点で自分にとっての「自由度の高いゲーム」のプロトタイプなんだと思う。
  6. 後述するとおり導くための過程が被ってこないので当然なのだが。そしていうまでもなく、おれのかってな言語使用の内実をとりこぼしていたからといってなんだという話である。/あと、上野論文では第5章で「なにを/どのように」と「目的/手段」を区別していて、前者の話にフォーカスしているんだけど、「正当」云々が出てくるには、ややミクロではあれやはり「目的/手段」で捉えたほうが、ここの話には合ってるみたいな話もあるか。
  7. ただ、今回これを書くにあたっては第1章をざっと見返しただけなんだよな(不誠実!)。「流用」じたいはそんな転覆一辺倒の強さをもってるかというとそうではないようにもおもわれる。全体的には「正当」どうのこうのとは関係ない手放しの自由を押し出す論調な印象だったのだけど、よく考えてみると、ルールそのものを転覆するかどうかは置いといて、「反抗」みたいなもののほうが重視されていたんじゃないかという気もしてきた。「遊び心」ってそういう。いやまあもういっぺん読むか……。