2023-08-28

がんに効くは本当? 治療・薬・食事法の誤情報 亡くなった患者が信じた“エビデンスが乏しい方法”とは - #がんの誤解 - NHK みんなでプラス

こういうのを見かけるたびに思い出すことがあるなとおもい、それをブログにでも書くかってなってたんだけど、調べてみたらおおむかしにもう書いてたっぽかった。14年前て!

ごく個人的な事柄について - 青色3号

  • インターネットが我が家にやってきたのもこの頃だった。これはあとから父親に聞いたのだけど、そもそも病気に関する情報を集めようと考えてのことだったらしい。
  • 病状が絶望的になってからは、手かざしで難病を治してるおっさんの本やらアガリクスのなんとかやらが家にちらほら見受けられるようになる。難病患者を持つ家族はそれこそ藁にも縋りたい状態なわけで、僕がこういう似非科学のことを嫌いなのは、そういう状態につけ込もうとするのが許せないからなんだろうと思う。
  • 今は両親ともそういうのにはまっている様子はないみたい。そういえば変な宗教にもはまったりしなかった。闘病生活、ってやつが1年もないくらいの短い間だったからなのかもしれない。
  • 母親が点字器みたいなもの持ってきて、それをトランプに打ち込んで、見えなくてもババ抜きくらいはできるように頑張ったこともある。ちょっと点字を覚えようと思ったけれど、僕では指の感覚がぜんぜん追いつかなかった。弟もそんな急にできるようにはならず、結局そんなに出番がないままそのトランプはどこかに仕舞われてしまった。

全体的に「いまの自分だとこういう書き方はしないだろうな」って感じなんだけど(ちょっと感傷的すぎるし、ゲンドウの話なんてかなり余計だ)、このときはそういう気分だったんだろうし、それでも必要なことはだいたい書けているようにもみえる。親になってみたところで、捉え方が大きく変わったような気もしない……というより、自分の認識としては、こういう捉え方のうえで決めたことというのが近いのだろうか。あえていえば、インターネットにはやくから触れるきっかけになったというのは地味に響いてるなとか、いまだにアクセシビリティみたいなものに興味がある(とはいえ、「興味がある」程度でしかないのだが)のはこのへんがきっかけだろうなとか、改めてそういうことを考えたりはした。

2023-08-18

最近読んだ本とか、そのほかもろもろ。いくらかはローカルの日記から、いくらかはBlueskyの投稿から引っぱってきつつまとめる。


照井『コンピュータは数学者になれるのか?』読んだ。計算機科学っぽいもの——とくにプログラミング言語の基礎概念まわり——に興味のあるひとにはたまらない内容で、刊行当時から評判もよかったわけだし、もっと早く読んでおけばよかったとおもった。第1章で形式系を準備したうえで、第2章でゲーデル不完全性定理、第3章でゲンツェンの無矛盾性証明、第4章でP vs NP、第5章でカリー=ハワード対応を紹介、そして第6章は振り返りと展望……といったところ。先に数学基礎論をやって、それにコンピュータサイエンスを対応させる流れ。

このうちいちばんのハイライトは第3章ではなかろうか(おれだけだろうか)。超限順序数の話からゲンツェンの無矛盾性証明にわたっていくあたりは、おそらく一般向け(後述するとおり本書がほんとに「一般向け」なのかは疑問なのだが)のほかの書籍ではなかなかみられない内容だとおもう。喩え話もうまい。一方、第4章はなくても成り立つ(上記の構成だけをみても、やや外れていると感じないだろうか)というか、おそらくないほうが話としてはすっきりさせられたんじゃないかとは感じた。……とはいえ複雑性と論理との対応づけみたいな話があるのも本書の「味」を豊かにしているよなとも。味ってなに?

内容を読めばかなり素直な書名とわかるのだけど、とはいえ昨今の世情からすればエーアイの話なんだと思われてしまいそうなのがもったいない(本書の刊行は2015年なので、深層学習みたいな話はもうすっかり出ていたころだ)。いちおう第6章で多少は触れられているとはいえ、サブタイトルのとおりあくまで証明論とかの本なのだ。あと、一般向けにしては式がゴリゴリ出てくるので、人によってはかなりめんくらってしまうんじゃなかろうか。とはいえ自分だってべつにちゃんと追ったりはしておらず、とはいえおもしろく読めたので、もし興味をもった人がいればあまり構えずに読んでみてほしいなとはおもう。


メタフィクションの件のメモ。

  • 指標性のだいじさ。現実とおなじものがあるというだけでは十分ではない
    • 「指標性」って語でいいんだろうか?/伝わるんだろうか?
    • 指してんのが「いまプレイヤーがいるこの世界そのもの」でなきゃいけないというか
  • 夢オチはメタフィクションではない
    • 狭すぎる捉えかたなのは自分でもわかってるんだが、とはいえ内部に閉じているならとりあえず除外したほうがすっきりはする
    • MGS2が「あなたがやっていたのはソリッドスネーク育成ゲームですよ」と指摘する/受け取るのは、外部→外部の回路にすぎない
  • ここで「夢オチ」と総称したものは、ネマノさんの記事でも挙げられていた藤田「「カウンターゲーミング」と「メタフィクション」」でいえば「再導入」に近い
    • ただし、当該論文でのMGSの扱いは「突き放し」である。もちろん自分の基準は内在的な観点のみに(むりやり)絞ってるので当然なんだけど
  • 「正気でない」ときにはメタフィクションにならない
    • そのいみで「Milk inside a bag of milk inside a bag of milk」はすごく微妙なライン
    • 基本的には「ならない」のだけれど……
    • あのメッセージ枠の一突きがあるという一点のみから、自分のなかではメタフィクション判定になってる

……ということをちゃんと説明したほうがいいんだろうけど、だんだん「いまのおれにはできないのでは?」という気になってきた。


ロペス&ナナイ&リグル『なぜ美を気にかけるのか』読んだ。イントロダクションのヒキが強いのがいい。われわれはふだんから美的価値に関与してるよねという確認から始まる。これはもちろんハイカルチャーなファインアートに限らないし、それどころか広義の芸術にさえ限らない、なんたって生活のなかで「かっこいい」等と感じることさえ含まれる、かなり広くとられた実践である。で、そうやって美的価値に関与しているのなら(きっとしてますよね?)「なぜそれを気にかけるのか」が気にならないかな?……っていう形での美学への招待になってる。しかもそこから先が沼だとは言わない。

以降は各著者のパートが続く。以下雑な感想。

  • ナナイの論は全体にとてもわかりやすいし、ロペスの美的種と美的プロファイルの話あたり(ネットワーク説そのものらへんというか)も整理がゆきとどいていてよかった
  • リグルのは個人的にはやや受け容れづらいのだが、文章がおもしろいという美点がある(全体の書き味とか食べ物の話とか)
  • ロペスのものも、結論(冒険説)には同意しづらいというか、(自身も認めているとおり)やや理想寄りの話すぎるよなあみたいな印象
  • とはいえいずれにせよ「まずはここらからいろいろ考えを広げてゆくのはどうですか」という感じで、イントロダクションを受けつつもっと掘ってみたいなと思わされる内容だったとおもう
  • このへんも参照:美的に良いものはなにゆえ良いのか|obakeweb

ところで、ロペスの論のなかでモンドリアンの「ブロードウェイ・ブギウギ」が例に出る箇所があるんだけど、BBWの要素配置をいろいろ変えつつ「ある美的種にたいしてよい」とか「ある美的種のある美的プロファイルにたいしてよい」とかいう指示に従ってだんだんBBWを進化させてくみたいなゲームってあったりしないんだろうか。


ヒース『ルールに従う』を読みはじめた。中身まだだけどなんかイントロダクションがよくまとまっていそうな雰囲気がするのでざっとしたメモをここに残しておく。

モチベーション。

  • 道徳性はときに自己利益と相反する行為を求める。それなのに、ひろく義務的制約としてはたらいているように観察される。不合理ではないのか?
  • 「情けは人の為ならず」的に自己利益として組み込む方法は一見うまくいきそうに思えるけれど、(たとえば協力行動などを)具体的に説明しようとするとかなり無理があることがわかる
  • それに、われわれはふだん道徳について、報酬のため(行為による帰結のため)ではなく、行為それ自身のため(行為の内在的性質のため)という形での義務を課しているようにみえる。カントも言ったとおり、前者は「道徳」とはいえない
  • そう考えると、合理的行為が必然的に帰結主義的構造をもつものなのかどうか、言い換えれば、諸行為は目的のための手段としてのみ評価される(道具的に把握される)のかどうかを検討すべき、ということになる
  • (ひらたくいえば、「ルールに従う」ことじたいが合理性の前提に組み込まれているかどうかを検討すべき、という感じだろうか)

以下あたりが第1章から第3章にあたるのかな。

  • 帰結主義/道具的合理性の議論に用いられる洗練された道具として合理的選択理論がある。ここでは「目的」を「期待効用」として定式化している
  • そして、道徳的な義務的制約はこうした理論にうまくフィットしない、言い換えれば、期待効用最大化へのコミットは必然的に帰結主義/道具的合理性のコミットを伴うものだとされている
  • が、実のところそんなことはない。(道具的でない)実践的合理性というのは比較的容易な理論的調整によって表現できる。しかも、信念(ここでは相手の選好がどうであろうかといった、事態にたいする主観的確率みたいなもんらしい)ではなく、(選好に関する非認知主義、すなわち欲求は信念ほど合理的再評価の影響を受けないという見方により)もともと所与として扱われていた選好のほうへの調整によって

このへんが第4章〜第5章の話にあたりそう。

  • 選好に関する非認知主義を支えていたのは表象主義である。なぜなら、表象主義は「信念の説明に合わせて作られた概念を取り出し、それを人間の行為のために拡張する」という考え方だから
  • しかしこれは逆ではないか。ブランダムが主張するように、世界における人間の行為は世界に関する人間の思考に先立っているとするべき。志向的状態を前提として合理的行為を説明するべきではない

で、以下は第6章〜第7章みたいだ。

  • また、進化論をはじめとする経験的文脈に基づいて、「道徳の超越論的必然性」を擁護するつもりだ(これはカントの立場とも通じている)
  • この立場からすれば、「amoralな合理主義者」なんてものをわれわれの認知から想定することは不可能である

そのうえで、引き出される応用として第8章と第9章がある……っていう感じなのか。

最後の段落にあるとおり、これに尽きるっぽい。

本書が展開しようと試みるのは、実践的合理性の一般理論——ルールの遵守(または規範同調性)を端的に合理的な行為の一種として表現することができるような理論——なのである。


いまさらCupheadをクリアしました。全体的にすげーおもしろかったんだけど、

  • キングダイス〜デビルあたりで「下手にライフ上げるよりケムリダマ使ったほうがええやん」とようやく気付いた
  • 「ワクワク火あそび」だけ尋常じゃなく手こずった
  • 「踊る廃品工場」の最終形態で気合い避けさせるにもかかわらずオブジェクトで自機を隠すのだけは絶対に許さん
  • どっちもロックマンやんけ

あと、自分は(同じプラットフォーマーということで比べるなら)Celesteとかのが好きっぽい。アドリブが求められるものより、道筋を見つけて正確になぞるののほうをおもしろがりやすいというか。

2023-08-09

昼飯をどうしようかなと思っていたところで、ゲリラ豪雨ではない、ざばざばいう、それでもどことなく慎みのあるにわか雨が降りはじめて、外に出るのも面倒なので昼休みのあいだに思い出話でも書くかなと思ったわけです。おそらくTwitterでも書いたことがあるはずなのですが、「いたたまれない、きまずい」といえばどうしても連想してしまうできごとというのが自分にはあります。それについて書きます。

わたしの実家はもともと祖父が建てたものでそれなりに年季が入っており、その孫(おれや)が生まれ小学生になるくらいのころまではずっと、台所が土間だったんですね。もちろんかまどで飯を炊いていたとかそういうわけではないのですが、それでもずっとそんなでは不便だと大人たちは考えたのか、あるときリフォームをすることになりました。そのときの大工さんたちの様子に少年はいたく感銘をうけ、建物というのはおもしろいなあと思うようになったことはまた別の話としてあるのですが、ともかくリフォームの結果として、我が家に(そのころはまだ比較的珍しかったであろう)IHのコンロが導入されることにもなりました。

で、リフォームが済んだあとで、そのIHのコンロをとりしきっていた電気屋のおじさんが、今度また改めておうかがいして、使い方を教えてあげましょうと言うわけです。きっと見慣れない機器でもありますし、便利な使い方もあるのだから、ぜひにぜひにと。そのうえ、よければご近所さんも呼んできてくださいねとさえ言う。それをわきで聞いていたわたしは、近所のひとが「こりゃ便利ね」つって興味をもってくれればめっけもん、みたいな商売っ気でもあるのかしらと想像しました。小学校への通学路の途中にある電気屋の、わたし自身顔なじみであったおじさんで、いまとなってはどこまで私心があったのかはよくわからない、もしかしたらまったき善意で言ってくれていただけなのかもしれないのですが、ともかく当時のわたしはそう思いました。乗り気なのか断りきれない雰囲気だったのかわからないけれど、うちの大人のほうもそんなに言うならと引き受けていた。

それから当日だ。夏休みのいつかだったと思います。山のなかだから、いまこのわたしが生活しているところよりずっと過ごしやすい。というか夏休みでひまだからクーラーのきいた家のなかでゲームをしているだけなのですが、そんな夏休みのある日が電気屋のおじさんがやってくる日で、その日の朝になってからようやく、じいさんばあさんもとうさんかあさんも、どうも都合がつかないなんていいやがるのです。もちろんご近所さんを呼んだりもしていない。みんなそんなに暇ではないのだ。だもんで、「しょうがないからあんたよう聞いとき」と申し付けられることになりました。長男やからね。ほかの子はまだ小さいんでね。当然そんなもん嫌でゲームしてたいんだけど、それこそ顔なじみのおじさんだし、さすがに当日になって断るのはかわいそうでしょ。材料だって、きっと用意しちゃってるにちがいない。そう思って、はいはいと、こちらも引き受けることになってしまいました。

そんでもって、おじさんが来る。このあたりからあまり記憶がないんですよね。ぼく一人なんですけど、みんなにも教えるんで、がんばります! みたいなことくらいは言った気がする。それにたいしておじさんは、がっかりしたような顔をちらとでも見せたのかどうか。すでにおじさんの顔を直視することを避けていたせいか、そんな機微がわからん小学生だったからか、ともかく覚えていません。なにを作ったのか、どう便利だったのかも覚えていません。おいしかったのかとかも覚えていないんだ。みんなに教えるんでとはいったもののもちろんとくにそんな気はなくて、あったとしてもとにかくおじさんをがっかりさせないことに気をとられていたようにおもいます。そもそもが、顔みしりといったって、そこまで親しくもない大人とふたりでいるなんて状況に落ち着けるわけもない。きっとおじさんのほうもそんなことはわかっていて、とはいえ小学生にそんな雰囲気を出すのも酷だろうと思ってくれていたんじゃなかろうか。いや、それともきまずくなっていたのは自分だけで、おじさんのほうはぜんぜん気にしていなかったのかもしれない。考えすぎだったのかもしれない。

そう、こうしていま思い出してみると考えすぎだったんじゃないかという気になってくるのです。そりゃあ、おじさんだって多少期待してたっておかしくない、自分がその立場ならそうだろう。でも、おなじく自分がおじさんの立場で、ときたま見かける無愛想な小学生がひとりでそこにいたのだとしたら、これはこれでおもろいやんけってなりそうな気がする。だからまあ、べつにいたたまれないことでも、きまずいことでもなかったのかもしれない。きっとそうにちがいありません。雨はあがったけど昼休みは終わってしまいました。

真理・政治・道徳 - シェリル・ミサック

ここでも何度か言及しているとおり、『プラグマティズムの歩き方』がおもしろかったのでこちらも読んだ。副題は「プラグマティズムと熟議」。

「シュミット(に代表させた反熟議/反民主主義)に対抗するためには、ロールズでは前提が弱すぎる(原理としての「中立性」だけでは結局なんにもできない)し、ハーバーマスでは前提が強すぎる(コミュニケーションにおける前提のとりかたが不自然すぎる)しでうまくいかない。パースの真理概念を出発点に熟議/民主主義を正当化するぜ」みたく過去の議論とのつながりを第1章で明示し、そのうえで第2章では(ミサック流に解釈した)パースの真理観、すなわち「真なる信念とは、調査と討議をどこまで続けても、予期しない反発的な経験や議論によって覆されることがないであろう信念のことである」1を持ってきて、これを認めて敷衍するならいわゆる事実的な信念と道徳的な信念のあいだに本質的な違いは生じず、道徳的な信念についても真理を探求できるよと述べる2。そうなれば「自他の経験を尊重すべき」という方法論的な規範が出てくるわけで、これをもとに実践で出会う問題にプラグマティストがどう判断を下していけるのかを見ていくのが第3章……といった構成。

第2章はおおむね「(ある種の真理観を共有する)プラグマティストならば、素直な道筋で道徳的真理も認められるようになるよね」という理路ではあって、(ミサック流に解釈した)パースの真理観そのものについて(デフレ主義と比較してある程度詳しく説明はされるものの)細かな正当化はなされておらず、したがってはじめからおわりまでの論証というよりもプラグマティストとしてのマニフェストに近い印象はある3。だから、たとえば素朴に対応説をとりますよって人はきっと、本書だけ読んでも説得されないのだろう。それでも、上述のような真理観をいったん認められるのであれば(自分はわりと認めている)、たしかにこういう結論に至るのは自然なことだよなと説得されるところがあった。

そして第3章では、上述のような立場「だけ」から言えることはそれほどないという自覚のもとで、道徳的失敗と後悔の話だとか、両立しない複数の価値が選言的に結ばれた状態の可能性だとかもろもろを、実際にあったできごととつなげて論じており、これがかなり繊細かつ圧巻。そしてそうはいっても、自分にとっては「共感」というファクターのほうが大きくて、こちらはこちらで「じゃあほんとにこれでみんなを説得できるのか」についいては吟味しきれない。というかまあ、そんなもん自分の現状の知識じゃ難しいだろっていうのは、そりゃあそうか。だからせめて、「究極的にわかりあえるかどうかは知らんが(まあ無理だろうが)、それでももっとわかりあえる余地はあって、それをやってはいけるやろ」みたく思うことに、いますこし自信を持てただけでも良かったと思えばいいってことか4


  1. たんにこうした文言を見ただけだと勘違いしやすいってのは口すっぱく言われている(クワインも勘違いしていたよとか)んだけど、ここでは略。疑問が浮かんだ人には直接読んでもらうのがいいと思う。あるいは、白川「最近のプラグマティストの〈主観的な客観性〉」あたりがおもしろいか。
  2. 認知主義の立場をとるのは明確なんだけど、(少なくとも形而上学的な意味での)実在/非実在に関しては「コミットしない」って感じだと思う、たぶん。(そのレイヤで実在だ非実在だとか理屈を捏ねてもしかたがなくて)結局われわれは理由とともに主張を行っている、完璧ではなくともある程度現実にそういった実践が成り立っているんだから、みたいな話。もし「ほんまにそんな立場とれるんか?」となったときでも、倫理の範疇にかぎらない真理一般にかんする議論に、まずはなる。
  3. 「プラグマティストならばこう言う/こう考えるよ」みたいな言い方がよく出てくるあたりもそのあたりの反映だろう。もちろんそう考えないプラグマティストもいるだろうし、プラグマティストでなくともそう考える人もいるだろうから、この言い方は、なんというか、反発を覚える人もいそうだなとは思う。『プラ歩き』もそうだったけど、この人「プラグマティズム」観がかなり固定的ではあるよな。
  4. ただここまでざっくりで終わらすとローティと区別がつかないのだが。

2023-07-26

  • ブログを書くだけだと検索に乗らないっていうのがそれなりに痛感されて、ちょっと前にTwitter1にいろいろ投稿したりしていた
  • けれどもそこからTwitterに戻るということもなく、一方でBlueskyでぽつぽつ投稿するようになってしまった
  • 最近ブログを書いていないのはそのせいじゃなく、たんに書く余裕がないからだと、自分では思っています。たぶんきっと
  • Blueskyに関しては……おそらく一時的とはいえ、招待制であり、閲覧にさえログインウォールのあることがどうしても気にはなってしまう
  • かといってTwitterでどうこうって気にもなれないんですよね。なんでだろ。みんなが言うほどには嫌いになっていないとは思うんだけど
  • 積極的に見捨てるとか、あるいは感傷的になったりとかもできない
  • このへんの気持ちはまだいまいちよくわかんないな。なにかに蓋をしているんだろうけれど、いったいどのへんだろうか

  • 鏖戦とかメタフィクション云々2とかSFの詩学がどうとかはあるんだけど(いちおういつも気にしてはいる)、それはそれとして、今年の後半は制度とか規約とか規範についての本を読みたいなと思ったりしています
  • 直近だと"The right way to play a game"を読んだこととか、それ以前にも規範と推論について考えたこととかが影響しているのではないか
  • どっから手をつけていいかはよくわかっていないものの、とりあえず瀧澤さんが訳しているルイス『コンヴェンション』、グァラ『制度とは何か』、ヒース『ルールに従う』あたりをまとめて買ってはみた
  • まじでどっから手をつけていいかよくわかっていない感じが出ていますね!
  • で、それにあたり、そういえばいちおうゲーム理論を復習しておきたいよなと思ったところで、ちょうど有斐閣の『活かすゲーム理論』の著者座談会を読み、よさそうやんつってそちらからはじめた
  • これいい本ですよ! モデル化とはなにか、なぜモデル化するのか、どのようにモデル化するのか、どんないいことがあるのか、なにに注意する必要があるのか、みたいなことがちゃんと書かれててうれしい
  • どういう前提があってどう解釈するかみたいなことをいったん切り離し非経験的に操作できるからモデルってもんが有用なのであって、逆にいえば前提とかそういうものをはっきり意識できていないモデル化はしょうもないっていうのは、当然あるわけじゃないですか
  • で、ここからむやみに話を広げます
  • つい先日『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を読んだとき、(そもそもの事実誤認や解釈のおかしさの指摘はもちろんあるとして)切り取り方によって「良いこと」だって表明できちゃうみたいなことに注意を払っているんだろうなと思ったんですよね
  • ざっくりいえば「切り離せないところを切り離して評価したところで、その評価にどういう意義があんの?」っていう
  • ここで採り上げているのはモデル化じゃなくて評価なんだけど、いずれにしたって、なにをどう考えてどういうふうに切り取っていますよってのを明示して、それを含めて問わなきゃならんという話は共通してるといえなくもないのでしょうか
  • さらに広げて、たとえば批評における理由づけの話までもってってもいいか。それはやりすぎだろうか
  • あるいは、「透明性」みたいに言い換えてもいいのかもしんない
  • ただ、これやっぱ難しいところもある
  • 理由や前提を共有しようとしたって、それらをちゃんと咀嚼するのはたいへんだ。理由をみられるような状況づくりだってやっぱりたいへんだ

  • なんの話だっけ……あとなんかあるかな
  • 「想像力」とか「センス」みたいな語の使い方について?
  • そういうなんらかの能力というより、たいていはたんなる知識や経験で済む話がほとんどだったりしないだろうか
  • それに加えて「それらを適用するきっかけに気付ける」が必要なくらいか
  • とはいえそうやって還元したからといって、それを得ることの難しさが減じられるわけでもないのだけれど

  • なんかもうちょっと日々の話したいよな
  • 平日よりも週末のほうが忙しいというか、息つく暇がなくなって数年、平日もどったんばったんしてくると全部どったんばったんだよ!
  • まあそのうち落ち着くのではないでしょうか
  • 焦るような時間じゃないというか、焦るような期限のあることをインターネットでしていないつもりなので
  • ちょっと自分に言い聞かせてる感ない? いつもそうだよ!

  1. 未来の考古学者のために注記しておくと、現在「X」というサービス名になっているのかなっていないのかよくわからなくなっているあれです。
  2. 夢オチとかああいうのをもうちょっと見てみることにしたいとは思っています。とりあえずMGS2のストーリーをちゃんと思い出すなり調べるなりしておかないとなとか。

「鏖戦」ひとり読書会にむけて(3のその2)

メタフィクション云々はまた後日!

まとめは下記。今回は第3節の続き。

murashit.hateblo.jp

  • 「阿頼厨は上部球体をかかげ、その表面に十字形に並ぶ五つの眼根【げんこん】で外界をさぐった」ではじめて阿頼厨の見た目が披露されるのだが、相変わらずよくわからんのであった
  • 目らしきものがあるようだが、光を知覚する器官なのかも微妙な表現。それがくっついているという「上部球体」だって、かしげているんじゃなくかかげている。識胞がみなこうした外見をしているのかもよくわからない
  • 蔵識嚢にはかなりの情報(セネクシの120億年にわたる歴史の要点)が収められているらしい。また、このすこしあとに直接たどれる記憶は10万世代という記述もある。ずっと寿命が変わってないとすれば十数億年ってところ
  • 「上部球体につづいて、阿頼厨は後莢【こうきょう】を押しだした」……だからわからんって! 本節冒頭の「莢」もこういう、なんか身体の一部?なのかな? あっちでは乗ってたが
  • 続いてセネクシがどのように成長するのか
  • 識胞の幼生は「球状原形質塊」のまま育つ。原形質というからには、(地球生命の細胞のようではないにせよ)なんらかの核とそれをとりまく細胞質のようなものからなると考えてよさそう
  • 幼生の棲む環境は「安母尼亜【あんもにあ】の海」だったり「濃く温かい気体の空界」だったり。ちなみにアンモニアの融点は-77℃、沸点は-33℃くらいなんすね。なぜかもっと低いと思ってた。わりとゆるいな
  • 蔵識嚢は五識胞よりあとでつくられるらしく、幼生のあいだは識胞それぞれが記憶嚢をもつ
  • あまりはっきり述べられていないのだが、どうもこの記憶嚢に過去の記録が徐々に注入されてく(?)。そしてそれによって成長し、それぞれの「識格」(人格みたいなもんやろな)もかたちづくられていくらしい
  • 「重層する過去の重みのもとで識格形成をはじめ」る、というのは比喩なのかなんなのか1
  • 完全でない記録によって識格を形成されるという性質のせいで自身らは(人類にはある)柔軟性を欠く……みたいなことをセネクシは考えているらしいのだが、この理屈はかなり謎い。ふつうに考えれば関係ない(ないし、その逆である)ように思える
  • ただ、種族I系種族との歴史比較(これを行うことは通常許されていない。後述)をとおしてよりそう思われるというくだりからすれば、「柔軟」とされる人類たちは「完全な記録のインプット」がなされている(と考えられており、ひいてはそれが柔軟性の源泉のひとつとなっていると考えられている)のだろうか
  • セネクシは変化を嫌うようだ。人類があきらかにポストヒューマンになっていることと対照的といってよいかもしれない

  • さて、先述のとおりセネクシたちは劣勢に立たされているわけで、どうにかするためにも蔵識嚢たちはいろいろと策を練る、さまざまな実験をする。阿頼厨の胞族はそういった実験の監督をこの種子船の「協議嚢【きょうぎのう】」(蔵識嚢が協議しとるんやろな……)から任されている。とくに阿頼厨はその主幹である。したがってほかのセネクシたちとちがいほか生命体との歴史比較が可能というわけ
  • そしてその実験のために、人類の胎児(6体。以降「人形【にんぎょう】」と呼ばれる)および記憶庫を入手したらしい。それがいつごろのことなのか、どのくらい時間が経っているのかは不明。胎児を「正常」に育ててみたり、あるいは干渉してみたりしている
  • 阿頼厨は劣勢を逆転できるかもしれない実験の責を負っているわけだが、「たいていの識胞は、そうした重荷を背負うと分裂してしまう」らしい。記憶の件といい、かなり情報に左右されるいきもののようにみえる
  • 阿頼厨がその重責にもかかわらず分裂しないのは、人種に興味を持っているからだろうか(直接的な関係は書かれていないのだが、どうもそれが示唆されているようにみえる)
  • 末尾の「もしかすると人形こそは、施禰倶支の存続に必要な鍵になるかもしれない……」というのは阿頼厨の思考だろう

ストーリー上とくに重要な情報としてはセネクシたちが人類の胎児と記憶庫(ここではまだ「曼陀羅【まんでいと】」とは呼ばれていない)を手に入れていることだろうが、ほかにも記憶/記録や情報へのこだわりも目を惹くところとおもわれる。物理的な組成はかなりたよりなさげに書かれている一方情報が成長や分裂に関係してくるわけで、人間よりもかなり情報偏重のいきものだ。記憶庫の入手はそのいみでも重要だろう(もちろんふつうに敵を知るって話ではあるのだが)。

あとはなんだろな、あんまり説明せずに話が進む作品ってイメージがなぜかあったけど、ここだけ見るとめちゃくちゃ密度高く設定が開示されてるんだよな……(2回に分けて書いたが3ページくらいしか進んでない!設定まとめがしたいわけではぜんぜんないんだけど、まあ最初だしそういうもんか)。実質的なアクションといえば、冒頭で滑走しているところと、説明の合間に上部球体をかかげるところ、そして後莢を押し出すところのみ。ただ、なぜかそれほど流れが不自然な感じがしないのはなんでだろうね。もちろんいかにも「説明」って感じで(苦手なひとにとっては)ウッてなるのは否定しないんだが。ざっくりとは価値判断のあまり入り込まない叙述なんだけど、ところどころ阿頼厨の主観をにじませているあたりは手管なのかもしれない。あとはわりと細かくスケールをスイッチさせてて(いきなりミクロからマクロに飛んだりその逆をしたり)そのあたりもかな。

このあと空行をまたいで「妖精態のプルーフラックスは」とはじまるところで、ああなるほどそうやって行き来しつつ進むんだなと感じるところでもある(プロローグ部分以外はセネクシ視点ってのも予測される進め方のひとつだと思われるので)。


  1. 「弓量」という単位については、原文ではただのメートルになってるらしいのを知ってしまったので省く!

2023-07-06

駅から会社へのみちに橋と坂があり、橋の話は橋の話でまたそのうちやりたいのだけれど、だから今日は坂のほうの話なんですけど、その坂ってのがそれなりけっこう急な坂ではあって、のぼりきったさきにはでかい企業の本社があるなどしており、朝の通勤の時間帯なんかにゃけっこうな数が出社のためにもくもくとのぼっている様子をそこでみることができます。おれじしんそれを遠目にする身分でなく、のぼったさきのでかい企業とはたいした関係もない(ないこともない)いちはやくもくもくをとりやめられる程度のふもとにあるなんて強みのあるちいさな会社ではたらいており、だからどのみち、そうやってもくもくしているうちのひとりである。「もくもく」といったけれど、そう、けっこう急な坂なんだからむしろ「えっちらおっちら」くらいのが似合ってるだろか。で、紋切に死んだ魚の目をしながらえっちらおっちらしてみれば、目つきのわりに、ああ、なんだか運動会みたい。そうやってどこか愉快におもうことが、(おもいきり均すなら)二週間にいっぺんくらいは、ある。暑さのせいもあって頻度のたかまっているきらいさえ、ある。

朝夕にはきわめて人間蔑視的な改札口を彼らはすこしのいら立ちも見せずに通り抜けると、誰に命令されたでもないのに、フロアーにまんべんなく流れ広がって、人を押し退けようとするでもなく、無理に追い抜こうとするでもなく、群のテンポにぴったりと足並みを合わせ、それでいて密集のふとゆるんだところがあれば、すぐに間隙を満たしに行く。そしてやがて階段にさしかかると、流れは静かに淀み、先のほうからゆっくりと傾いていく。まるで苔むした岩の上を平たく滑り落ちる音なしの滝のように、それは見つめているとかすかな目まいを誘い出す……。

いや、これは地下鉄か(あと、なんかこれ階段おりてるっぽいな、最後んとこ)。唐突に出てきたのは「先導獣の話」で、すきなんだけど、これやっぱムカつくよな。うっせえわ。文章がうまいやつはだいたい敵だ。

古井由吉にたいしていまさら「文章うまい」とかいってるのヤバない?

うまいっていやそこのお前もだ。平素よりブログのほう拝読させていただいておりますが、ほんと文章うまいですよね。だから敵なんですが、それはいいんですが、急な坂のむこうに、この時期もし朝から晴れており日中のうだる暑気の予期にいちはやくうだっているならそのむこうには雲がきっとあり、そんなリテラル坂の上の雲を眺めやったり眺めやらなかったりするひとがちらほらいたりいなかったり、そのうちのひとりが自分だったりそうでなかったりして、さらに愉快になったりならなかったりしているひとが、おれひとりに均せば二週間にいっぺんあるというのなら、統計的にみればこの毎朝の視界のなかにひとりふたりはそういうやつがいるだろうってまたべつの愉快さがあります。そういう愉快さこそがおれにとってだいじなことなんですよ。狂いを待つ「滑らかな秩序」なんてどこにもなかろ。もうだいぶバラバラと。竜馬などどこにもおらんで。だれもが先導獣だったりそうでなかったりするものなりけりちゅうて慰んどる場合ちゃうねんで。