『The Poetics of Science Fiction』前置き+第2章のメモ

書名はいわば『SFの詩学』ということで、「認知詩学の観点からSFについて分析していきましょうね」という本書について、今後しばらくメモを書き連ねていきたいと考えています。

The Poetics of Science Fiction (Textual Explorations) (English Edition)

そもそも「SFの認知詩学:ピーター・ストックウェル『SFの詩学』The poetics of science fiction - Lichtung」 を見たときから気にはなっていたのですが、やはり英語の、しかもある程度専門的な本ということで敷居が高く感じていました。いたのですが、最近もろもろあって気持ちが高まってきたのでひとまず取り組んでみようと。

とはいえ、認知詩学とはなんぞやということや、本書の内容の概観については、上記のナンバさんの記事を読んでいただくだけで十分以上でしょう。ここでこうやって公開しているのは、自分がどうにか読んでみたときのメモをある程度広く公開することで、本書をなるべく知ってもらい、あわよくば叩いてもらえればという意図によるものです。

あえて言うまでもない(ので言いたくもないんだが)ことですが、そもそも英語の読解力がないことに加えて知らない分野であることから、内容に大小さまざまな誤解があることはまちがいありません。テクニカルタームの訳し方もとくに定訳など気にしていません。したがってなにかの参考にするために読まれるものではないと考えてください。英語の読解に認知資源が奪われているせいで、まとめてるというより単に引き写してしまってるだけみたいなところや、逆にひどく強引なやり方でまとめてしまっているところも多々あります。以前『フィクションとは何か』のメモを載せた際には(あれでも)もうすこしちゃんと編集したのですが、こちらはより生のままのメモに近いものです。

ともあれ、前置きはそこそこに、さっさとはじめましょう。第1章は本書の説明なので飛ばして、第2章から。ざっくりまとめると下記のとおりです。

  • 本章の目的
    • しばしば「未来」という不確定なものを描いてきたSFというジャンルにおいて、読者により「もっともらしく」感じてもらうためのメカニズムがどのように変遷してきたかを分析する
    • このためにEmmott (1997)1で述べられている「文脈的フレーム」のモデルを用いたうえで、特にダイクシス(直示表現)に着目する
  • おおまかな流れ
    • Emmottの「文脈的フレーム」について簡単に解説される。また、アシモフ『われはロボット』にこれを適用してみる
    • 未来、それも同じ「21世紀」の姿を描くSFとして、執筆年代順に8作品が紹介される
    • 本章で用いるダイクシスの分類が示され、それぞれのカテゴリごとに上記8作品がさまざまに分析される。たしかに、「もっともらしく」見せるための手法が変化していることが見てとれる
  • 感想とか疑問点とか
    • 事例として挙げられる作品は(プロトタイプなので当然といえば当然だが)ステープルドンやウェルズ、アシモフブラッドベリ、クラーク、ギブスン等と豪華。ブラナーとヌーンはあまり知られていないと思う(自分も知らなかった)のだが、それでも邦訳はあるようだ
    • そもそも自分はまだ「認知詩学」という手法がどの程度説得的なのかやや疑っているところがあるのだが、この章の内容からだけではなんとも言いがたい気はしてしまった。本章での分析についても、たとえば(当然ストックウェル自身も知っているしその用語も使っている)物語論の観点からのものとどこまで差別化できているのかはちょっと微妙ではある
    • ダイクシスを小説などの語りに適用することについて、ある程度研究はあるようなのだが、ここで繰り広げられているものを見るかぎりでは「けっこうなんでもダイクシスじゃねえか!」みたいな気持ちにならなくもない
    • 文句ばかり言っているようだが、分析の結果は十二分に興味深いものではあるし、「文脈的フレーム」を設定すると見通しがよくなりそうだなというのも十分感じられたところではある。もうちょっと読み進めてみようかなというモチベーションは湧いた

ということで、以下がメモです。

2. Macrological: Old Futures

2.1 Preview

SFはその時々における「未来」を描いてきた。本章では特に、その時々における未来をいかに「もっともらしく」見せるかについて、特にテキスト中の直示的 deictic および参照的 referential な要素に注目しながら見ていく。あー、この「直示」ってダイクシスとかのあれか!

2.2 Future Worlds and the Framed Universe

さて、この「世界 world」という語について。意味論まわりの話を参照しつつ、SFのナラティブが「枠組みにはめられる framed」(これだと訳語がちょっと微妙だ)ことで読者がリアリティを感じる、というモデルが有用である。

物語理解 narrative comprehension にかんするこのようなモデルは Emmott (1997) で使われているもの。読者は、テキストやそれに基づく推測から「文脈的フレーム contextual frame」を作り上げてく、みたいな理論。おそらく認知言語学における「フレーム」に由来する表現ではあるものの、ここではいったん、いわゆる「シーンの設定」とか「シチュエーション」のことと捉えておいてもそんなに問題ないか。詳しくは第7章っぽい。

登場人物などの諸実体は読書のなかでさまざまなフレームに紐づけられ bound 、またその時々で焦点の当たった文脈において前景化される primed 。これは明示的なこともあるしそうでないこともある。こうして、読者の中に central directory (その世界におけるキャスト一覧のようなもの)が作られる。

で、こうして作られた虚構的文脈がどのように働くか(たとえば新たなキャラクターがどのように登場するか=紐づけられるか)にたいして、実世界と同じ前提を置く(おおざっぱに言えば現実性原理なり共有信念原理なりの話か)。とはいえEmmott自身も注意している通り、これはSFにおいては成り立ちづらいケースが多い。ワープしたりするよね、と。とはいえそれでも、「ああ、そういう物理法則があるのね」と(ときには過去の読書経験をもとに)受け入れて読み進める。


たとえばアシモフの短編集『われはロボット』 の分析。

各短編の登場人物は、ストーリーごとの文脈的フレームに紐付けられ、順次前景化される。ひとつの短編が終わると前景化が解除されるが、登場人物(の多く)はそのフレームに紐付けられたままである。ただし、語り手であるキャルヴィン(本書はキャルヴィンの回顧録の体をとっている)をはじめとする複数の短編に登場するような人物もいて、彼らはそれら短編において前景化されるような複数のフレームに紐付けられていることになる。これは本書の世界に一貫性を感じることに資している。

個々の短編は短いため、その中での文脈的フレームの変更はあまり多くない。変更があるときでも、「徐々にフレームが変化していく」というよりは、瞬時に切り替えられるような形で変更される。空行を挟んで違う場所や時間が飛ぶ、といった感じ。とはいえ一部の例外や回顧録であることによる一時的なインタビュー場面への切り替わりを除いて、それほど大きくも飛ばない。などなど。

ともあれ、こうした「文脈的フレーム」の考え方、すなわち、諸実体を心理的な枠組みのうちに紐付けその時々で前景化するという考え方を用いれば、参照と直示を厳密に区別する必要がなくなる。可能世界みたいな枠組みと違って、読者とテキストだけで話が済むからね、みたいな感じ(そうなのか?という感じだけど、そのあたりはおそらく第7章を待つべきなんだろうな)。

2.3 Versions of the Future

すべてのSFが未来の話というわけではもちろんないが、ひとつの典型としてはそうであると言える。そんなSFでさまざまに描かれる「未来」は、大きく2つに分類できる。

  • 「直列 serial」バージョンの未来
    • 我々の世界の延長にある未来。おおざっぱには外挿的、未来予測的といえる
  • 「並列 parallel」バージョンの未来2
    • 我々とは別世界における未来。直列バージョンと比べて思弁的 speculative な色合いを帯びる(そうかな?

たとえば、クラークによる小説版の『2001年宇宙の旅』は(科学技術的には)直列バージョンの未来として書かれた一方で、同じシリーズの『2010年宇宙の旅』は実質的には映画版『2001年』の続編であり、むしろ並列バージョンと捉えられる。『3001年終局への旅』でもやはり、『2001年』からのシリーズと矛盾していることがクラーク自身による序文で言及されていたりもする。

直列バージョンの未来を扱ったSFは「当たる(当たった)かどうか」が注目されがちだが、それだけのものとはいえない。たとえばオーウェルの『一九八四年』なら、ビッグ・ブラザーやイングソックが実現されたわけではないが、そのターゲットである1984年を過ぎた今でも、ある種の風刺として読まれている。これは、もともと「直列」だった作品が「並列」に変化したとも捉えられる(敷衍すれば、未来を扱ったSFはいつか必ず「歴史改変もの」になる定めなのだ、とさえ言える)。


また、21世紀の世界が舞台(の一部)となるSFとして以下が挙げられる(括弧内は執筆年。なお、ここで挙げられた作品がそのまま次節の事例としても使われる)。

執筆年代の違うこれらの作品は、同じ「21世紀」という時代を、並列的な未来として描いているといえる。以降各々の作品の概要が紹介されるが、ここでは省略。こうやって見てみれば、同じ21世紀という未来を扱うにもかかわらず、執筆された各々の「その時代らしさ」があろうことも察せられる。たとえば、初期の作品では年代がはっきりと数字で示されることが多い一方で、より最近の作品では曖昧な形でしか示されなくなる。また、執筆の現在が21世紀に近づくにつれ、未来予測よりも現代の風刺に近づいてくる。

ことほどさように、SFにおいては「時空間的な関係」が複雑である。執筆された時代と舞台となる時代、執筆された時代と読まれる時代、登場人物が読者にとっての未来を過去として語ったり、タイムトラベルさえあったり……とにかくいろいろ。

2.4 Exploring the Universe

ここで文脈的フレームによる物語理解の話題に戻る。前々節の最後で触れられていたとおり、以下では文脈的フレームのモデルの上で、直示表現(ダイクシス。発話者のいる時空間などの文脈のなかで意味が明らかになるような表現のこと。「私」「あなた」「いま」「ここ」などなど)に着目し、SFにおける表現の歴史的発展を分析する。

ただし、ダイクシスに関する言語学的な研究の多くは会話の場面を第一に扱っており、小説などを扱うものは少ない。本書では一般的な(つまり会話における)ダイクシスの分類を、SF作品の分析のために以下のように「調整」する(会話の話し手-聞き手の関係と文学作品の作者-読者の関係がまったく違うのは明らかなことに注意)。

  • Person deixis → Perceptual deixis
  • Place deixis → Spatial deixis
  • Time deixis → Temporal deixis
  • Social deixis → Relational deixis
  • Discourse deixis → Textual deixis
  • Syntactic deixis → Compositional deixis

ごくおおざっぱにいえば(物語論でよくあるような意味での)「作中の語り手-聞き手を基準とする」みたいに捉える感じのようだ(多少細かく既存研究が紹介されているが、ここでは省略する)。


まずはPerceptual deixisについて。これはPerson deixis、すなわち「わたし」「あなた」や(日本語にはないが)それに従った動詞の活用、つまり人称にまつわる表現に対応するもの。

なぜpersonでなくperceptual(知覚)なのかといえば、SFをはじめとする文学作品においてはべつに人間でなくても話したり聞いたりするし、直接的な会話でなくテレパシーみたいなケースもあったりするから(そんな理由かよ!って思ってもいいところだよな)。

また、person deixisにおいて当然三人称は除外されるのだが、小説に適用するとなるとそうはいかない(厳密に言えば、その場には読者以外の参加者はいないのだから)。文脈的フレーム内(したがって読者とは別のレイヤにいる)での一人称、二人称および三人称の表現はいずれもperceptual deixisに含まれる。

間接話法や自由間接話法を用いて語り手が別のキャラクターの心中を描写することにかんして。これらの話法は語り手とそのキャラクターとの距離などの表現と捉えうるという意味で、やはり三人称もperceptual deixisの範疇に入れたくなるよね、という感じだろうか。

このあとLevinson (1983)3の、会話における役割はだいじで、speakerはsourceと、recipientはtargetと、hearesはaddresseesとそれぞれ分離できるよねという話を引きつつ、作者-内包された作者-語り手-話者となっているキャラクターのうちどれが、聞き手-内包された聞き手-実際の読者としての自分のどれに話しているのかを考えるときには、直示表現を通して考えてる……みたいな話があり、あんまり読み取れていないがなんとなく言いたいことはわかるような気がする。

……という前置きのもと、具体的な分析を行う。

前掲のリストにおける最初の3つ(『最後にして最初の人類』『世界はこうなる』『われはロボット』)はいずれも、語りの構造が比較的複雑であり、読者はダイクシスを手掛かりにそれを読み解くことになる。たしかにたとえば、『最後にして最初の人類』の序文(本書の著者は2人おるよっていうあれ)などはもろにそう。『われはロボット』の回顧録という形式(メインの話の前後にインタビューや記者の独白が挟まる)だって当然、メインのストーリー、インタビューの会話等々で代名詞の指す先が異なるのを追っていくことになる。文脈フレームに誰が紐づけられていて、誰が前景化されているのかの移り変わりを示すのがこれらダイクシスである、みたいな。


次にSpatial deixisについて。たとえば「ここ/あそこ」「これ/あれ」や「近く/遠く」はもちろん「行く/来る」みたいな方向性を伴うものもこれに含まれる。SFの舞台が地球外であることなどありふれているわけで、空間にかんする表現が重要なのは明らかだろう。

たいていはまず、その場所がどこかがわかるフレーズ(火星、とか)が明確にあるいはそれとなく登場する(同時に語り手もふつう明示される)ことでフレームが設定され、それに続いてこれらのダイクシスが駆使されてく感じになる。

いわゆる一人称の語り(のなかでも、目下のフレームの中にその語り手がいる場合)においてこうした表現が出てくるのはまあ普通の話だ(『ヴァート』から例が引かれている)。

一方、いわゆる三人称の語りにおいてはやや複雑。語り手が設定したフレームの中で、そこにいるキャラクターの台詞の中などにダイクシスが現れるのはもちろんだが、いわゆる地の文でもダイクシスがそれなりに使われる。つまり、地の文を語る語り手がまさにその場に(ほかからは見えない形で)いる、かのように語られる。

ここで例に出されるのは『2001年宇宙の旅』。三人称で全知、そして実体を持たない語り手であるにもかかわらずダイクシスが使われることによって、その存在感が示されているし、読者がまさにそこにいるかのように感じられるようになっているよ、と。もちろん、特定の人物に焦点化したときのはたらきについても触れられている。


続いてTemporal deixis。「いま」「まえ/あと」などはもちろんのこと、時制とアスペクトもこの範疇(だし、むしろこちらのほうが豊富か。そして日本語と英語の違いが特に顕著になるところでもありそう)。未来を扱うことの多い、あるいはタイムトラベルなどを扱うことのおおいSFにおいて、時間にかんする表現もまた、当然ながら重要となる。

ここで英語(の文学作品)で「未来」を表す方法についていくらか考察される(活用としては過去と現在しかないことに注意)のだが、ここでは省略。ただ、こうした表現が、未来に属することがらはふつう知識の範疇ではなく信念の範疇であること、つまり主観性を際立たせる効果があることは日本語でも言えそう。つまり未来を表す表現はもっともらしさを減じてしまいがちと言ってよく、これは未来を扱うSFであっても(さらに未来の語り手が回想するという形で)過去形で語られがちという事実とも関係しているのではないか、みたいな。もちろん、日常会話では現在形が無標と受け取られる一方で、語りにおいては過去形が無標として受け取られるみたいな話もある。

でもって、時制やアスペクトの使い方は、先に挙げたうちのより古い作品とより新しい作品とでの違いがかなり大きいように見受けられる、と。より古い作品では、信頼できる語り手が時系列に並んだ形で未来の歴史を記述する傾向にある。このため、単純過去や過去進行形が出てくる頻度が高い。一方より新しい作品(先に挙げたなかでは『衝撃波を乗り切れ』以降の3つ)では、語りが特定の(かつ複数の)キャラクターに焦点化される(あるいは直接話法がより多く使われる)傾向にあり、したがってモダリティの付随することも増え、単純過去や過去進行以外が登場する機会も顕著に増える。


最後に、残り3種のダイクシスについて。これらも古い作品と最近の作品とで使われ方に差異がある。

まず、Rerational deixis(「先生」とか関係性を含めて表現するもの。おおざっぱには「人の呼び方」くらいに考えていいか)について。より新しい作品では、ニックネームで呼んだりすることが増えてくる。それこそ「ケイス」とか「ウィンターミュート」(いや、これはニックネームなのか?)みたいな。

続いてTextual deixisについて。「語り手が直接的・明示的にみずからの語りに言及する」ようなものを指す。メタな表現なので語りの内容への没入感を削ぐことにはなるが、使い方によってはその語り自体のもっともらしさを増したり(『われはロボット』のいかにも回顧録っぽくする手管とか)、一人称の語りで自意識を表現できたりといろいろ効果はあるよ、と。

それからCompositional deixisについて。これは例示も(ほぼ)なくて正直いまいちよくわからないんだけど、そのテキストの性質やムードを示すような文体とか書き方みたいなのを指すっぽい? それって「ダイクシス」なのか?(というか、本節全体に「ダイクシス」の指すものがかなりざっくばらんな感じではあるが……) 文脈的フレーム「そのもの」を規定するイメージではある。

2.5 Review

というわけで本章では、SFの「もっともらしさ」を出すためのメカニズムがどのように変遷してきたかについて、主にダイクシスに着目して分析してきた。

じっさいダイクシスというのは、語り手-聞き手がなんらかの形でいること、そしてある種の文脈的フレームがあることを想定したうえではじめて働くものなわけで、それが「もっともらしさ」に資するのはそりゃそうだよね、みたいな話とか。

このほか、ここまでで触れられなかった共通点や差異についていくらか述べられ、SFと未来(もしくはオルタナティブな世界)、そしてもっともらしさについてなんかエモい感じの文章も載ってるんだが、うまくまとめられないのでここでは省く。


続き:

murashit.hateblo.jp


  1. Emmott, C. (1997) Narrative Comprehension: A Discourse Perspective, Oxford: Clarendon Press.
  2. serialの「直列」との対比、および「paralellが並列、concurrentが並行」みたいな用語法もあってここでは「並列」としたが、やっぱり「並行世界」という言葉のある「並行」のほうが通りがいい気はする。
  3. Levinson, S.C. (1983) Pragmatics, Cambridge: Cambridge University Press.

Disco Elysium: The Final Cut(またはロールプレイの諸相)

     権威: 5
    非常に高い
      97%

+1 キムに信頼されている。
+2 キムに完全に信頼されている。

これはレッド・スキルチェックだ。再挑戦はできない。

store.steampowered.com

「ロールプレイ」についてどうしても考えてしまうビデオゲームであったため、それについて現状の印象をまとめます。基本的に、Twitterに書いたことをそのまま引き写すだけの記事です。


まず、以降で想定している「ロールプレイ」というのは、おおむね次のような欲望にまつわるビデオゲームのプレイングを指します。

自分が構想したキャラクターが、そのときどきで与えられた状況にどう反応するかを考え、その通りに行動した結果、世界からどんな反応が返ってくるのかを体験したい!

けっこう普遍的な欲望と考えてはいるものの1、ほかのロールプレイ観を持っている方もきっとたくさんいらっしゃるでしょうから、それについては各々ブログを書いてほしいところです。ともあれ、ここではこの「ロールプレイ」観に基いたディスコエリジウムの特徴を、思い付く限りで挙げてみます。

  • 「自由度」について
    • シナリオを進めるための方法が豊富に用意されている一方、システムをエクスプロイトする(しているんじゃないかとプレイヤーが感じる)ような要素(たとえば、ダークソウルシリーズにおける「正攻法でない」攻略方法とか)はあまりない
    • 言い換えれば、「なんでもできる」わけではまったくない。この意味でもっと「なんでもできる」ビデオゲームはそれなりにある(たとえば、Divinity: Original Sinとかが思い浮かぶ)
    • 本作では、破天荒ではあってもあくまで「殺人事件を捜査する刑事」という設定からは逃れられないし、バディとしてのキムの抑止力(キムに嫌われたいなんて思うやつおるか?)もかなりはたらく
    • つまり、わりと「どうとでもなる」わりに、実はその幅はけっこう制限されていて、「自由度」については実はそんなに高くない。ただこれは一方で、たとえ記憶を失っているとしても逃れられないままならなさを感じられるという本作の美点と裏表でもある(この点でいえば、Red Dead Redemption 2とかのフィールは近いかもしれない)
    • なお、今回言っている意味での「ロールプレイ」性の度合いと「自由度」とは異なる軸であることには注意しておきたい
  • 設定とストーリーについて
    • 設定はあからさまに膨大であるし、魅力的でもある。本来シナリオブックなどで補完されるべきものがそのままぶつけられている。マキシマリスト小説的といえばその通り
    • そのように膨大であるからこそ、ロールプレイなんぞを重視していては、世界について得られる知識がずいぶん減ってしまう。ロールプレイというのは世界の切り取り方そのものですからね
    • 一方で、メインクエストはすごく素直なノワールもの。事件の真相にも進行にも大きなバリエーションはない(はず)。設定の膨大さはサブクエストや細かな選択肢のなかでの情報量に頼っている
    • 設定の膨大さ(とロールプレイによるその摂取欲の満たされなさ)はリプレイ欲を刺激する一方で、メインストーリーの素直さ、一本道さはその逆に作用している
  • スキルまわりについて
    • キャラクターの特性を数値として表現する(装備で上下したりする)ような「いかにもTRPGっぽい」要素は、ビデオゲームとしてもとくに珍しい特徴ではない(最近だとそれこそTRPG直系であるのCyberpunk 2077がありましたね)
    • また、そのうえで(同様にTRPGっぽいダイスロールによる)偶然性を用いて開発者の意図の露出をある程度退けるような要素もやはり珍しくはない。これは「思い通りのロールプレイ」を阻害するように見えるが、むしろ「世界」のほうを豊かにする方策として働いており(「プレイヤー独自のストーリーを体験できる」という売り文句はほぼこの意味で使われていると思っています)、結果としてあまり表面化しないものだと考えられる
    • ただし思考キャビネットはかなり変なシステムで、「ふとした思い付きを弄ぶうちに意図せぬ思考が内面化される」「特定の思考を身に付けた者としてふるまおうとするようになる」といったおもしろさがある一方で、身に付けるとどうなるのかが事前にほとんど分からないという点で「思い通りのロールプレイ」を阻害しつつ、プレイヤーキャラクター自身の混乱を表現するという形での効果を発揮している
    • 24のスキルの内声は、「こんなふうにビルドしたならこうなるよね」を表現しているという意味でロールプレイを助けてくれているようにも思える一方で、それぞれの声がそれぞれの性格要素に純粋すぎるせいで、「統一的な人格を持つキャラクター像」(素朴な人間理解から発するものに近い)から離れてしまいロールプレイを阻害しているようにも見える(思考キャビネットの際に言及した「混乱」とも関係するだろう)

もちろん(少なくともCRPGにおける)「ロールプレイ」において、キャラメイクのときにおおざっぱな特徴は考えてもその後の内容がわからないために細部までは確定させられず、プレイの進行とともに選んだ選択肢やステータスの強化を再帰的に適用しながらキャラクターを固めていく、といった流れは一般的なのですが、それでも「ロールプレイ」ができる/できないに一定の解を与えてストレスを感じさせないようにするのがふつうのビデオゲームであるところに、本作はむしろ積極的にコンフリクトを起こそうとしている点でやや特異ではないか、と感じました。

概念化・修辞学・平静・暗示「ってなんで俺くんが!? 読んでくれてありがとうございました!」

もう一周します

2022-09-17 追記

この「ロールプレイ」との摩擦から、(けっこうクリシェ的ではあれ)「投げ出された『世界』のなかで、型どおりに演じきることのできない自己を生き始める」みたいなテーマを見出すことはできるのかなという考えがちょっと馴染んできたので、忘れないようにここにメモっておきます。

敷衍するとたとえば、「文字と声と亡霊たちの天国――『ディスコ・エリジウム ザ・ファイナル・カット』について」の注8:

もしかしたらあらゆる”ロールプレイ”をしつつもどの”ロールプレイ”にもならないことがこのロールプレイングゲームの核心なのかもしれない

というのはもしかしてそういうことだったのかと、後付けで感じたこと。

あるいは「『ディスコ エリジウム』に選ばれなかった私」における以下のような不満:

主人公は世を儚み、妙に達観した冷笑家か、どこか調子っぱずれな極端な思想を持ちつつも、一貫していない活動家みたいになってしまう。それらは、かなり「薄っぺらいキャラ造形」であると感じられる。周りのキャラクターは、キツラギをはじめ、かなり魅力的で個性的であるのに、主人公自身には最初から最後まで、思い入れを感じることはできなかった。自分の意思で選択肢を選べているはずなのに。

も十分に理解できると感じたこと。

言い換えれば、「ほら、演じてみろよ」と誘導しておいて、いざやってみたら、「ほれみいでけへんやろ」と言い渡されるビデオゲームであるということ。


  1. ちなみにこれを最も素直な形で実現できるのってじつは小説などの創作のはずなんですが、そうは言っても「そのときどきで与えられた状況」とか「世界からの反応」をいちいつ作り込むのはめちゃくちゃめんどくさい。だからぼくたちはビデオゲームをプレイするんだと思います。

Interior Chinatown - Charles Yu

きっかけは、千葉集さんが最近やっている短編まとめです。

Charles Yu, "Problems for Self Study"(2002) - 短篇企鵝

このProblems for Self Studyを読んで、おもろいやんけと思ったんですよね。たんに形式だけみれば(少なくとも今となっては)そこまで新奇ではないものの、それこそ上記で千葉さんも書いているとおり、「記述形式の特異さとその必然と読みやすさとエモさと通俗性がすべて高いレベルで成立している」。別の言い方をするなら、お話自体は良くも悪くもメロドラマであって、ただ、その語り方が妥協なく最適化されている話だった。あと、全体に悲観的な内容にもかかわらず、そこここで出てくるお茶目な文章が好きだったってのもある。

というわけで、おもろいならば、もうちょっと読んでみるのがいい。チャールズ・ユウには既訳の作品がいくつかあります。

  • 『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』
    • 長編。円城塔
    • 邦訳刊行からほどない時期に読んだはずだけど、あまり内容を覚えていない。とっぴな感じを出しつつ、軸としてはまっとうに家族の話だな……みたいな印象だったはず
    • 家のどこに置いてあるのかわからなくなっていたため、この時点ではいったん再読を断念(Kindle版が格安ということで、結局Interior Chinatownを読んでる途中に買い直したんだけど)
  • NPC
    • 短編。中原尚哉訳。『スタートボタンを押してください:ゲームSF傑作選』所収
    • 「プレイヤーキャラクターはNPCと違っていろんなことができるけど、操作されてる」ってのがしっかりフックになってる……んだけど、恋愛要素にちょっととってつけた感が強い気もした。短いからかな
  • 「OPEN」
    • 短編。円城塔訳。『2010年代海外SF傑作選』所収
    • とっぴな設定が好き。オチがやや駆け足すぎる気がするんだけど、絵面は抜群にいいし、恋愛の終わりの機微みたいなのはなんか沁みる
  • 「システムたち」

結果、(「システムたち」はまだ読んでいないものの)もしかしたらある程度の長さがあったほうがおもしろい人なんじゃないかと考えました。そして、どうやら未邦訳ながら2020年に全米図書賞を受賞した長編があるらしい、と。そう、みんな大好きあの全米図書賞だ。

日本語で読める本書の紹介としては以下あたりでしょうか。

やっぱり形式が特殊で、実質的には中編くらいの長さ、英語はそこまではむつかしくはない……のかな? というわけで、読んでみることにしたわけです。おおまかな内容や魅力については上掲の記事を読んでもらうのが早いと思うので、以下ではそれらを前提にしつつ、簡単な感想を書きます1

  • ドラマの脚本「ぽい」形式
    • あくまで「ぽい」であって、脚本として読むものではとうぜんない
    • これにはもちろん、われわれの現実と、物語内の基底的な現実と、そして劇中劇との間の境目をあいまいにするという効果がある
    • ……あるんだけど、それ以上に、「誰かに強いられた(と感じられる)悲劇あるいは喜劇を、演じている」という形でようやくやっていけるような(そしてその形でようやく描けるような)痛切さのための形式でもある
    • この痛切さは以下の「家族について」と「アジア人差別について」の両方にかかってくるもので、そういう意味でこれ以上ない形式に感じられてしまう
  • ミクロにはやっぱり家族についての話。しかも、かなりウェットな
    • 厳しい父と優しい母の描写、彼らが老いてゆく様子、主人公の恋愛そして娘との対話などなど、どれもくどいくらいに感傷的で、ちょっとしたところで茶目っ気を出しつつも、畳みかけるように泣かせにくる
    • もちろんというべきか、彼ら家族の受難には以下のアジア系移民の扱いというものが絡んでいる
  • マクロにはアメリカにおけるアジア人(アジア系移民)差別についての話
    • ステレオタイプが生む歪みがこれでもかというくらい戯画化されており(東洋人が登場したなら、どこからともなく銅鑼の音がしたり)時に笑ってしまうのだけど、それだけに、そうとうシリアスな怒りがあることもやはり伝わってくる
    • ショービジネスの世界を舞台としているって点からして、同化への「憧れ」(と言ってしまうと雑なんだけど)の扱いがとくにシビアに感じられるところでもある
  • で、両方に対しての答えとして、(これまたすごい雑にまとめるなら)「(過去を背負いつつ)みずからの生を生きよ」っていうあるいみベタベタなところにまとまるんだけど、それを端的に示す最終盤のシーンがすごすぎる。無茶苦茶で笑えるししかも切実な、これしかないってオチで、ここはぜひ読んでほしいと思うところだった
    • ……こう書くとマクロな話に対して個人の対処で済ませようとしているみたいに見えるな。最終章の舞台が裁判所であり、アジア系移民の歴史も含めてアメリカそのものが問い直される部分でももちろんある
  • 英語はたしかに読みやすい気がする
    • 脚本という形式からして、とにかく場面設定が把握しやすい!!!!
    • ふだん英語の小説を読まないからはっきりとは言えないものの、とはいえそんな人間にもどうにか読めたわけだし、易しいほうだと思う
    • すげー長い文がちょいちょい出てくるものの、複雑というわけではなく、順なりに読んでけば大丈夫なタイプの長さなのでそこまで問題にはならなさそう

そう、だから、もちろんマクロなテーマはしっかりしつつ、「お話自体は良くも悪くもメロドラマであって、ただ、その語り方が妥協なく最適化されている」というものでもあったんですよね。

そんなわけで、同じく家族の話であった(と思う)『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』についても、それを念頭に置きつつ、(ときには「これだこれだ!」みたいに感じつつ)もういちど読もうというモチベーションが湧いてきたのでした。


  1. 最近、なにかを読んだきっかけを残しておくことは、もしかしたら読んだそのものについて残しておくよりも大事なんじゃないかと思っていることもあり、むしろここまでをメインと考えてほしい気もしています。どうしてふだん本を読んだときにもそういうブログを書かんのかと言われれば、そりゃおめえ、おれがめずらしくえいごのほんをよんだからにきまっとるじゃろがい。

「新しい世界」のまわりをぐるぐるする

なんとなく気後れしていたのですが、いやでも、ブログなんて好きに書けってことで、表題の件について思い付くことを書き散らしておきます。日記ですね。

というわけで、以前『紙魚はまだ死なない』に寄稿した「点対」を、伴名練編『新しい世界を生きるための14のSF』に収録いただきました。もちろんこのブログを読みに来るような人であればみんなすでに紙魚死なを読んでることでしょうから(そうですよね)……ほかの作品目当てで読んでみるのがおすすめです。後述しますが、たしかにこれを読んでほしくなるよな、というセレクトだと思います。

で、こういうことになったのって、自分のなかではやっぱり一大事なんですよ。そんなつもりで書いたわけでなくとも、当然ながら評価してもらえることはうれしいし、(たとえ中身が付いてきていなくとも)読んでもらえるチャンスがこんなに増えるのは、やっぱりありがたいことですから。だから、やったぜ! ……というのを、隠そうとはしていても、きっと隠しきれていないにちがいありません。

とはいえ一方で、「隠そうとしている」というとおり、べつにそのために書いたわけでもない、過去たまたまうまくいった(のかな、たぶん)ものが再録されたにすぎず、そんな、舞い上がるようなものでもないっしょとも思っています。能動的に応募して賞をとりましたとか、単著が出ました、さらに続々と……とか、そういうのでもないし……分厚いなかの一編として今回たまたま採り上げられたにすぎません。

だから、これで急にフンフン言いだすのもあれだけど、とはいえうれしいはうれしいやん、みたいなどっちつかずな気持ちがある。胸を張れることなのか、べつだんそうでもないことなのか。どちらも別にまちがってはいなくて、どちらかだけというものでもないのでしょうけれど。

むしろ大事だと思うのは、なんたって自分は文章うま太郎になりてえわけで、それはたぶん徐々に近づいていくしかないものなのだから、だから、大事だと思うのは、どういう形であれこれからも続けていくことのはずです。今回の件が一大事であろうと些事であろうと、そのできごとが良かったことなのかどうかは、この先続けていけたかどうかで判断することになるはず。とつぜん神妙になって言うなら、そういうことになります。

……そうは言っても、やっぱちょっと大袈裟にとってない? ……そんなもん、わざわざブログに記事を書くんだから、それはそうでしょ! なので、せっかくなのでもうちょっと大袈裟を続けちゃおうかな。


まず、収録された「点対」について。当時考えていたことは告知記事にだいたい書いたのですが、心残りというか、もうすこし付け加えたいことがあるので、以下。

第一には、アクセシビリティの問題。告知記事でも一般的な話としてちらっとは触れた……つもりが読み返してみたら触れてないな……ともかく問題意識としてなかったわけではないのですが、今回より広い範囲の人が読もうとする媒体に載ることになったと言えるだろうってことで、やはり改めて気になってしまいます。「2行ワンセット」という形式の都合上、(『14のSF』をKindle版でお持ちならそれを見ればわかるとおり)ここだけ固定レイアウトで、スマホだと読みづらいし、たとえば読み上げ機能が使えません。もちろん「リフロー不可」という紙魚死なのテーマからしてそうなってしまうところはある。あるんだけど、きっともっと気にしたほうがいいことなんだよなというのを、今回改めて思いました。こうやって自分で書く場合でもそうだし、あるいはなにか、見せ方に関与できるような立場に立ったときにもそう。

続いて……なんて言えばいいのかなこれ、「実装力」の問題? みたいなもの。実は自分、「点対」の前には「上下二段で別々の話が進む」だとか箇条書きだとか、そういう組版で遊ぶようなものをいくつか書いていた一方で、「点対」以降はそういったものを書いていません。どうしてかというと、自分の(少なくとも現在の)実装力はここらへんが限界で、これ以上を望むならむしろビデオゲームなどの範疇になってしまうのではと感じたからです。「実験小説」みたいなのってしょせんみんな実験するだけでやめちゃうから実験小説なわけで、たくさんの人が同じようなことを試みていけばいつか一般化するじゃろ、というのが上掲の告知記事で言いたかったことの一端ではあるのですが、それでも自分だけやり続けてもな、いったんこの方向は休止かな……ってところも正直あります。でも、諦めたわけじゃないんだぜ。

最後に、「人間、わりと互いに矛盾することを両方まじめに受け取りながら想像できるよね」みたいな話(ライザのアトリエの記事とか、それこそ『フィクションとは何か』まわりで考えたこと)。ただ、これはまだほとんど考えがまとまっていないので、ここにメモっておくに留めておきます。


次。これはべつに今回の話とはそれほど関係なく、普段から考えていることなのですが、とはいえこういう機会でもなければなかなか言わないことなので、ここで。

なんの話かというと、今回の件に関連するなら紙魚死なを企画してくれた笹帽子さんやその参加者のみなさん、それから普段書かせてもらってる、ばななさんをはじめとするねじれ双角錐群のみなさん、「斜線を引かない」を書いた雨月物語SF(これも笹さん企画だ!)の参加者のみなさんだったり、あるいは「できるかな」を書いたよふかし百合のストフィクのみなさんやその参加者のみなさん、それにそれに、それ以前に参加させてもらった同人誌の主宰や参加者のみなさんにめちゃくちゃ感謝の気持ちがあるということです(でもって、むかし声をかけてくれたのに書けなくて応えられなかった人に対しては、感謝の気持ちと申し訳なさというか悔しい気持ちの両方がずっとあります)。ありがとうございます。

そもそも、自分は小説を発表する場というのを自分で作ったことがありません。いつも声をかけてもらって、それで書かせてもらっている。これってほんとうにありがたいことで、自分だけだと締切もなければ緊張感もダルダルになるところを、ちょうどいい締切と緊張感を持っていったん完成に持っていくことができる。自分には、みずからそういう場を作ったり、維持したりしていく力がまったく備わっていないので、それができる、やっているのはほんとうにすごいと思うし、何度も言いますがほんとうにありがたいです。これはべつに自分が関わったことのある人だけじゃなくて、同じように場を作り、維持しているいろんな人にたいしてもそうです。あとで言うとおり、そういう人がいるおかげで、おもしろいものを読んだりできるのだから。

……なお、このへん、自分でもできるようにどうにかしたほうがいいなと常々考えてはいるものの、少なくとももうしばらくは待ちの姿勢のままなんだろうな……と思ってもいます。まあ、ブログがあるからな……。でもどうにかしようね。


あとなんだっけ、そう、肝心の『14のSF』の話をしていませんでした。していないのですが、伴名練さんの序文とか読んでもらったほうがいい感じだし、まあいいか。

ただ、Twitterでもちょっと書いたのだけど、ページ数がもっと欲しかったという話はすごくわかるんですよ(僭越!)。自分自身インターネットが(いまだに)好きだったり、同人誌に参加させてもらっているくらいですから、そういう場で読めるようなものを多少なりとも読んで、「これすごいな……」などとたびたび感じたりしているから。事実、今回のセレクトについて(自分が読んだことのあるもの含め)納得する一方で、まだまだあれも載せたくなるよな、これもそうだ……というのが思い浮かぶ。

だから、これをきっかけに同人誌とかWeb掲載のものをディグってみようと思う人が増えたらいいなと思っています。……そんなこと言って自分はとくに何もしていないというか、ただ載せてもらっただけだし、ふだんからそういうものを紹介しているわけでもないんだけども……。だけども、とにかく読む人が増えれば、そのぶんそういう場で書いてみようと思える人も増えて、そしたら自分もおもしろいものをいろいろ読めるようになって、きっともっと楽しくなるんだろうなと思うので、なので、みなさんぜひよろしくお願いします。

だいたいそんなもんかな。

『フィクションとは何か』- ケンダル・ウォルトン(中間まとめ)

第2部までをまとめてみよう、というエントリ。前半だけでも二段組300ページあってそれなりに分厚いのは、ウォルトンの理論自体が思ったより複雑なのもあるが、それよりもとにかく例示が豊富なことが原因のように思いました。それらを読むのはとても楽しいものの、本論なんだっけ?ともなりやすそうなので、とにかく手掛りを残しておくにしくはないということで。

それにあたり、まずは以下にこれまでの章のメモを挙げておきます。こうした自分の理解(かなりあやしい)およびいくつかの追加的な文献を参考にして1、本書のなかでどんなことが言われているのかを、せめてもうちょっと短くまとめてみたいというのが本記事です。

まず、本記事での用語についての注意。

  • 「本書における、より一般的な意味での(通常使われる意味より拡大された)ごっこ遊び」を メイクビリーブゲーム、「文字通りの、子供たちが遊んでいるようなごっこ遊び」をそのまま ごっこ遊び と呼ぶ2
    • 本書の翻訳における用語法(どちらも「ごっこ遊び」と訳されている)とは異なることに注意
    • この用語法に準じて言えば、「各種芸術鑑賞は(ごっこ遊びをひとつの範例とするような)さまざまなメイクビリーブゲームのうちの一種である」とするのがウォルトンの立場ということになる
  • 本書の「フィクション」の語はカテゴリとしてかなり広く、通常の用法とのズレが大きいこともあり、この語を使うことは可能なかぎり避けたい。また、そもそも事物のカテゴリは最初にはっきりさせておきたいというわけで、以下のように整理しておく。いずれも下側が上側の部分集合であることを意図している
    • 小道具:現実の事物のうち、「なんらかの命題や体験の想像を命じている」ものごとをすべて含むカテゴリ
      • ごっこ遊びの参加者」「芸術作品の鑑賞者」や、メイクビリーブゲームに伴う現実の出来事や状況なども含まれる
      • 一般的に用いられる「小道具」の用法とはかなり異なっていることに注意(このへんの事情は「ごっこ遊び」に似ている)
    • 表象体:小道具として働く社会的な機能を持ったもの。ウォルトンのいう「フィクション」はおおむねこれと同義(かなり広い!)
      • いわゆる「モノ」でないような事物は除外される
      • また、切り株をクマに見立てるようなごっこ遊びにおける切り株など、アドホックな(そのような社会的機能を持たない)小道具も除外される
      • メイクビリーブゲームの参加者もやはり除外される(アドホックな小道具であると考てよいか)
    • 人工的な表象体:表象体のうち、表象体となることを意図して人工的に作られたもの
      • 星座などの自然にできた表象体が除外される。「そのように意図した作者がある表象体」と言い換えてもよいか
      • 本書の中ではあまりはっきりとは明言されていないカテゴリだが、ここではわかりやすさのため置いておく
    • 表象的芸術作品:人工的な表象体のうち、芸術作品として作られたもの
      • ごっこ遊び用の人形など、一般的に芸術作品として考えられないものが除外される
      • 芸術作品ではない人工的な表象体とは本質的な違いはないが、「鑑賞」と「ごっこ遊び」を区別したいとき(制約の度合いや、批評的な見方が介在する度合いの違いがある)などに便利なためこちらもやはり置いておく
      • 「表象的」と限定をつける必要があるのかはよくわからない。本書の立場では通常「芸術作品」とみなされるものはすべて表象的、くらいに考えられそうだとは思うのだけど……(というわけで、以下でも単に「芸術作品」と呼んでいる)
  • 「虚構的真理」という表現も、虚構性の真理性からの独立という観点から言えばやや混乱しやすいため、これも可能な限り避けて「虚構的に成り立つ」を使う
    • ウォルトンが虚構性と真理性、想像と信念をそれぞれ並行的なものとして捉えているという点で重要ではあるが、それについてはいったん措いておく

前置きがすでに長くなってるのですが、ともかく(わたしの理解の範囲では)本書におけるウォルトンの立場の際立った点は2つあります。

  • 「言語的フィクションだけ」「絵画的フィクションだけ」等と限定せず、幅広い芸術作品やごっこ遊びの小道具までもを包括的に扱う
    • いかにも「虚構世界」「物語世界」「作品世界」的なものを持っていそうな作品だけではなく、(その正当化がうまくいっているかはともかく)抽象絵画や純粋器楽曲なども含む
    • ただし、「制度とはフィクションである」といった「フィクション」の用法までは広がらない(そもそもかなり性格が違い、「実在していない」といったニュアンスのものだし)3
  • 芸術作品に対して、鑑賞者(参加者)の体験からアプローチしている
    • これは統語論的なアプローチや意味論的なアプローチでもなく、また、語用論的であっても作者の意図からのアプローチ(言語行為論的なものなど)でもない4
    • これによって、いくつかの問題は独特ながらある程度説得力のある形で解消できているように見える。たとえば「何が虚構的に成り立つか」の不確定性や矛盾の問題、芸術鑑賞の際の情動の問題など

続いて、これを念頭に一問一答(一答になっていないが)形式で考えてみます(なお、ここでは芸術作品を扱うということで便宜上作者視点から始めていますが、先述のとおり本書のアプローチとしては「鑑賞者がなにをしているか」が先行していることに注意してください)。

  • 芸術作品の作者は何を作っているの?
    • 一連の命題や体験を想像することを鑑賞者に命じる機能を持つ事物(表象体)を作っている
    • 作者が「なんらかの言語行為を行うふりや偽装をしている」(サールなど)あるいは、作者が「なにか特有の言語行為を遂行している」という立場には立たない5
  • 芸術作品の鑑賞者は何をしているの?
    • その芸術作品を小道具とし、「生成の原理」のもとで命じられた命題や体験を想像している(その芸術作品を小道具としたメイクビリーブゲームを行っている)。命じられるもののなかには、鑑賞者自身に関する命題や体験も含まれる
    • このとき作者の意図はオプショナルで、小道具を通して間接的に作用する形に留まる(もちろんどんな生成の原理があるかなどを考慮して制作しているはず)。作者の範疇的意図はおそらく認めているのかな
    • そして、本書においては、「虚構的に成り立つ事柄」が「(小道具および生成の原理に従って)想像せよと命じられている事柄」と同値であるとされている(あくまで「想像されるべき事柄」であって「げんに鑑賞者が想像している事柄」ではないことに注意)
    • ただ、ウォルトンは後に立場を修正し、「想像せよと命じられている事柄」のうちの一部のみが「虚構的に成り立つ事柄」である(想像の命令は虚構的真理であることの必要条件にすぎない)としている。そして、どのようにその「一部」が選ばれるのかについては、(アイデアはあっても)はっきりとしたことは言えない、といった感じのようだ6
  • 「命題や体験を想像する」ってどういうこと?
    • 直感的にいえば「その事柄がある虚構世界において真であるという志向的態度をとる」みたいな感じになる、と思う。実際(方便として)この種の表現が使われてもいるのだが、本書の立場では本来「虚構世界」といったものを措定しない(われわれがそんなふうに考えてしまうこと自体は認めるが、理論的には不要)ことに注意
    • なお、本書ではこの「想像」という行為がどんなものかについてあまり踏み込んでいない(心理的な視覚化とかではないよ程度の話はしているが)。ウォルトンは虚構性を想像によって定義したうえで他の志向的特性と比較して特殊であるとするのだが、そもそも想像することがどんなことかについて十分な特徴付けを与えておらず、その特殊さが虚構性のほうから逆に説明されているように見えるため、やや論点先取のように感じた(もちろん読めていないだけってことは十分以上にありうるんだけど、このまとめではいったんそういうことにしておく)
  • で、結局「フィクション」って何?
    • つまり「表象体とは何か」ということだが、すでに述べたとおり本書においては「想像を命じるような機能をもったもの」以上でも以下でもない
    • 「現実と一致しているかどうか」や「作者がどのような信念を持っているか」と「フィクションであるかどうか」は関係ない。真理・信念と虚構性・想像は独立である
  • 小説の登場人物など、非現実の対象は存在するの?
    • 端的には「存在しない」という立場。そもそも存在する必要がない
    • たしかに素朴な意味での実在論は必要ないし無理があるとはいえ、抽象的人工物説(この場合は存在する)や様相的マイノング主義(この場合やはり存在しないが志向的対象にはなる)みたいなある程度洗練された立場と両立しないかといえば、前半を見たかぎりだとそこまででもないように見える。やっぱりこのあたりも、「想像」がいまいちはっきりしないせいなんじゃないかという気はする。いずれにせよ、このあたりは第4部で詳述されるはずなのでいったん置いておく7
  • 「生成の原理」って何? なにが虚構的に成り立っているかを決定するしくみってどんなものなの?
    • 上述したとおり「虚構的に成り立つ事柄」とは「想像せよと命じられている事柄(の一部)」ではあるのだけど、もちろん「命じられている」とだけ言われても困るわけで、小道具とともにその内容を決定する「生成の原理」について観察する必要がある。雑駁にいえば、(その小道具が芸術作品であったとして)芸術作品に直接的に「描かれている」ことについてはたいていの場合そのまま虚構的に成り立つ。また、その「描かれている」ことが含意する(描かれていることに反しないかぎりでは「現実」や「そのとき信じられていた事柄」、あるいはお約束などに沿う)ことも連鎖的な形で虚構的に成り立つ。そして、こうした原理はしばしば無意識に働いている。ただし、こうした機構は複雑で、シンプルな原理には還元できないよね、というのがウォルトンの立場。信頼できない語り手のような例もあるし、直接的に「描かれている」ことを特定するのも実はけっこう難しい8
    • 虚構的に成り立つ事柄が不確定だったり、矛盾しているように見えるケースもある。ただしこうしたことはとくに問題にならない。たとえば「ホームズの毛の本数は偶数である」といった命題の真偽が不確定であったとしても、それに関する想像をとりたてて命じられていないのであれば、たんに無視するなどすればよい。このような対処処理は、「虚構的真理」の問題を可能世界と関連づけて捉えたり、特定の言語行為として捉えたりする立場ではとりづらい方法ではあって、本書の特色となっている
  • 「鑑賞者自身に関する命題や体験を想像する」ってどういうこと?
    • 「自分自身がまさに○○している(語りを聞いている、風景を見ている……など)」といった想像を行うということ。これは単にその命題を想像するというだけにとどまらず、「一人称的に」想像してもいる。このようなとき、鑑賞者自身もメイクビリーブゲームの小道具となっているといえる(鑑賞者自身がそこにいるという状況自体が鑑賞者に関するある種の想像を命じていると言えることに注意)
    • 本書で「メイクビリーブゲームへの参加」とされるものはこのような自分自身に関する命題や体験の想像のことだと考えてよい(はず)。芸術鑑賞を含めたメイクビリーブゲーム一般において、このような「参加」は重要な役割を果たしている
  • 素朴な意味での「虚構世界」みたいなものとメイクビリーブとの関係は?
    • そもそも「虚構的に成り立つ」ことを「その事柄がある虚構世界において真である」と説明しているのはあくまで便宜上のことなのであんまり拘らないほうがいいような気はするのだけど、とはいえウォルトン自身、「作品世界」と「メイクビリーブゲームの世界」(というのは本記事での用語法に倣ったもので、本書のなかでは「ごっこ遊びの世界」)みたいなものを置いて区別しているので、ここでいくらか説明しておく
    • 上述のとおり、ある(個人的に鑑賞される)芸術作品の鑑賞者Aは、A自身に関するものも含めたさまざまな命題が虚構的に成り立つようなメイクビリーブゲームに参加している。このとき、その「虚構世界」、すなわち「Aのメイクビリーブゲームの世界」にはAに関する命題が含まれていると言える。しかし一方、別の鑑賞者Bからしてみれば、「Bのメイクビリーブゲームの世界」にはAに関する命題は含まれないだろう(もちろん逆も同じ)。そう考えてみると、その作品が小道具として虚構的に成り立たせている命題群は、「(生成の原理を同じくする、理想的な)どんな鑑賞者にとっても虚構的に成り立つ命題群」と、「鑑賞者ごとに異なる命題群」とに区別できるはず。このとき、前者のようなある種最大公約数的な?虚構世界のことを「作品世界」、後者のように鑑賞者自身に関する虚構的な命題を含む(そのうえで前者の命題群も含む)世界を「メイクビリーブゲームの世界」と呼ぶ
  • 「ホームズは名探偵である」などと言うとき、私たちはいったい何をしているの? ホームズは存在しないにもかかわらず、この「命題のようなもの」に対してなにかしらの「真偽」があるように思われる(そして、「真」であるように思われる)のはなぜ?
    • このように言うとき、私たちは一連のドイル作品を小道具としたメイクビリーブゲームに言語的に参加している(「まさに読んでいる最中」でなくとも参加できることに注意)。このメイクビリーブゲームにおいては、ホームズという登場人物が存在し、それが名探偵であることが虚構的に成り立っている。そして、このようなメイクビリーブゲームのなかでは「ホームズは名探偵だよね」「そうだね、それは真だね」などと言うことが自然であろう
  • 私たちが小説や映画などを見て「怖い」「悲しい」って感じるのはどういうこと?そんなふうに思っても実際に行動しようともしないのに!
    • そのように「感じる」とき、私たちはそういった小説や映画などのメイクビリーブゲームに心理的に参加している。このメイクビリーブゲームにおいて、鑑賞者自身が「怖い」「悲しい」と感じることが虚構的に成り立っている。必ずしも現実に「怖い」「悲しい」と感じているわけではない。現実には「準恐怖」などの「準感情」を備えた状態になっており9、それがなんらかの虚構的に成り立つ信念と組み合わさって、感情を虚構的に成り立たせている
    • フィクションと情動の話はけっこう奥が深いというか、いわゆる情動の哲学/感情の哲学みたいな本もいろいろあるんだけど、ここではいったん置いておく

以下参考にしたものなど(ちゃんとしたリファレンスの書き方になっていないのは許してくれ)。

ほかにも思い付いたら追記していきます。いったん以上。


  1. 特に依拠したものについては随時脚注で付記したうえで、本記事の最後にこれらを含めて列挙する。

  2. 高田の立場を引き継ぎ、シノハラ『物語の外の虚構へ』でも使われている呼び方。ちなみに同書では「小道具」も「プロップ」と表記されている。

  3. 「フィクション」という語の多義性と、本書を含めたいわゆるフィクション論が対象にする「フィクション」という語の用法についてはステッカー『分析美学入門』第7章や清塚『フィクションの哲学[改訂版]』序章なども参照。

  4. この各種アプローチに対するカテゴライズは清塚『フィクションの哲学[改訂版]』によるところが大きい。たぶんいきなり統語論的とか言われてもわからん(というか、『フィクションの哲学[改訂版]』が対象とする文学的なフィクション以外だとちょっとあてはまりづらい)と思うので、詳しくはそちらを参照。

  5. やや本筋から外れるが、語り手の偽装みたいなことをあれこれ考える必要がなく、「そのようにデザインされた」と考えればいいというのは見通しがよく、たとえば小説における不自然な語りみたいなのを考えやすいというのはありそうに感じる。一方、第9章ではそのあたり「語り」に着目していろいろ考察されてはいるようだ(が、未読)。

  6. Walton Fictionality and Imagination なんだけど、読んでいない!(また読みます)内容の紹介としては清塚『フィクションの哲学[改訂版]』第7章や、Kendall Walton「虚構性と想像」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめを参照。これらの紹介だけ読むと、本書の立場だけでも済ませられる事例も含まれてるんじゃないかという気もする。なお、ここから「いかに描かれるか」に着目した発展的な話題については、こちらも清塚『フィクションの哲学[改訂版]』第7章や、あるいはシノハラ『物語の外の虚構へ』を参照。

  7. 森「ウォルトンのフィクション論における情動の問題」の1.1項や高田「ストーリーはどのような存在者か」の2.3項にあるように、たしかにウォルトン非実在論の立場ではあるのだけど、後者でも見られるとおり、ざっくりと「メイクビリーブ説」として考えたときには中立的と考えられるような気もする。正直よくわからない……。

  8. これもシノハラ『物語の外の虚構へ』の受け売りなのだけど、たしかに描かれていることから直接メイクビリーブゲームを引き出すのではなく、間に描写の理論を挟むことである程度解消できるというのはあるっぽい(あんまりよくわかってない)。

  9. 準感情は感情ではない。したがって、「虚構的感情」といった感情の一種であるようなものではない。ではなにかというと、ある種の感覚や状態?であるというだけなのだが、ややこしいよな……この説明で合っているかもどうかあまり自信がない。

『フィクションとは何か』第7章のメモ

第7章 心理的な参加

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

承前: murashit.hateblo.jp

第5章で触れたフィクションのパラドックスを端緒に、ごっこ遊びへの参加者が演じる心理的な役割について見ていく。

実質的な本論となる第1部〜第2部の最後の章であることもあるのか、「これまでの話からこんなことも言える!あんなことも説明できる!」とどんどんトピックが出てきてまとめるのが大変だった……。

虚構として恐れること

第5章で出てきた、チャールズが映画のなかで襲ってきたスライムを「恐れる」という例を再度取り上げる。第5章時点では彼が感じた「恐怖」は現実の恐怖とは異なるもの(これを「準恐怖」と呼ぶ)であるとしか言っていなかったけれど、第6章の考察に従ってチャールズが自身を反射的小道具としてごっこ遊びに参加していることを鑑みれば、「チャールズがスライムを怖いと思っている」ということが虚構として成り立っている(したがって、たとえばチャールズが後に「怖かった」と報告することは、このごっこ遊びへの言語的参加である)と考えてよいだろう。

以下、これに基づいた観察。わりとまとまりなくいろいろなトピックが挙げられていることもあり、正直うまくまとめられている気がしない。たとえば子どものごっこ遊びの例とか、レーガン自身が舞台上でレーガンを演じている例、『アマーストの美女』をディキンソン自身が見る例などとの対比については以下ではほとんどオミットしている。いずれにせよ、(第5章でも触れたとおり)このへんのトピックに関してはいろんなところで検討されているため、それらを読むのがおすすめ……だと思う。

まず、チャールズについての虚構的真理は、彼の能動的なふるまいだけでなく、彼の置かれた状態(準恐怖という心理状態や、それにともなう身体の変化など)からも生み出されている。というか、映画鑑賞の場合むしろそちらがほとんどだろう。同じく自身を反射的小道具とみなせる例でも、誰かに向けて演じているときのように心理状態からは虚構的真理が生み出されないこともある(舞台上でレーガンを演じるレーガンの例)。

とはいえ、準恐怖だけでは先述の虚構的真理を生成するのに十分ではない。「『虚構としてスライムが迫ってきている』と理解した結果として、チャールズが準恐怖を感じている」という組み合わせがあってようやく「チャールズがスライムを怖いと思っている」という虚構的真理が生み出される。

そして、さまざまな虚構的真理とあいまって、チャールズが現実に感じる準恐怖、ひいては虚構的に感じる恐怖は変化していく。このような自らの準恐怖(の変化)にチャールズが気付くやり方は、現実に恐怖を感じていると気付く際のやり方と同じようなもの(ほとんどの場合、内観のようなやり方)だろうし、準恐怖が認識されているさまと虚構として恐怖が成り立っているさまとは実際に軌を一にしているだろう。こうして注意を向けられた準恐怖は、(既述のとおり虚構的真理を生み出す小道具であるとともに)「虚構において恐怖の経験であるもの」を想像するための想像のオブジェクトにもなっている。

また、チャールズは「自分が怖いと思っている」という命題を想像しているだけではなく、それをまさに自分自身の恐怖として「一人称的に」想像している(前章で深掘りされないままだった論点!)。

なお、ここで見た「恐怖が虚構的に成り立つ」こと(虚構性)と、現実にチャールズが(準恐怖だけでなく/準恐怖にとどまらず)ほんとうの恐怖を感じること(真理性)とは両立しうることに注意(このように排他的でなく互いに独立だからこそ、現実にどう感じているかに依存しない説明が可能なのだ)。

心理的に参加する

主に準感情について掘り下げていく。

そもそも前節のチャールズの例は、第6章で見た「聴衆への脇台詞」を含んでいるという点で特殊なものと言えるかもしれない(スライムが「こちらに向かってきている」のだから!)。では、たとえば「物語の登場人物を準賞賛/準憐憫/準軽蔑……する」といった脇台詞とは必ずしも関係しないケースはどうだろうか。

たしかにチャールズの例と比べて、ここで挙げた準感情は(虚構のうえでの)自分自身ではなく他人に向けられていることや、それを特徴づける心的経験を比較的特定しづらいことなどの相違点があるにはある。しかし、そのような違いがあるとしても問題はなく(そもそも感情の理論の問題だし、ここで考察している鑑賞に関する理論とは独立である)、チャールズの例と基本的に同様に扱ってよい。

その感情を構成するものが何であろうと、私が示唆したいのは、何らかのそういう状態ないし条件や、また鑑賞者がそういう状態や条件にいるということを虚構として成り立つように仕向けると自然に受け取られるような状況は、人が誰かを賞賛したりかわいそうだと思ったりしているということを虚構的に成り立つようにするのを助ける、ということである。私たちはそれを準賞賛や準憐憫と呼ぶことができる。だが、それが心的現象の経験でなければならないとは主張しない。

このように現実と虚構世界それぞれの心的生活は別個であるが、とはいえ重なり合い、密接に関係してもいる。ここでは割愛するが、歴史的人物を扱った作品を鑑賞する際のその歴史的人物への感情の例など。特に、必ずどちらが先にあるというものではないことに注意。同一視するのはもちろんナイーブな考え方ではあるのだが、かといって「いや全然関係ないですよ」というのも違うよね、というのは大事なところよな。

また、ごっこ遊びへの参加は当の表象体に直に接している間には限られない。本を閉じたあとや劇場を離れたあとにも続いていくし、多くの場合作品に直に接することは心理的豊かな長く続くごっこ遊びのたんなる始まりにすぎないかもしれない。

このほか、自分と登場人物との「同一視」についても軽く触れられる。公認のごっこ遊びではない(したがって虚構的に成り立っているわけでもない)が、それと並行して生じる想像活動ではあろうとのこと。現実でも似たような想像をしていることがあるはず。

悲劇のパラドックス

ヒュームによる有名な「悲劇のパラドックス」について。すなわち、悲しみや恐怖などそれ自体不快な感情を生じさせるような悲劇的作品を求めることがあるのはなぜか、という問題について。もちろん「今は気楽なものが読みたいな〜」などと避けることもあるが、それはそれとして。

ここまで見てきたように悲劇作品が現実の悲しみや恐怖をもたらしているわけではないとしても、それだけでは謎が残る。虚構性が関わらないケース(災害の報告など)においても悲劇作品と同様にそれを求める気持ちがしばしば起こるのだから。

この問題に対してウォルトンは、そもそも悲しみを「それ自体不快な」情念とするヒュームの特徴づけが誤っているのではないかと答える。

明らかに不快で、なければよかったと私たちが思うのは、自分が悲しいと思う その 物事の方——昇進しそこねたこととか、友人が死んだこと——であって、悲しみの感じそのものではない。悲しみがふさわしいような状況が存在することは望ましくない。しかし、そういう状況になってしまったことを前提とすれば、悲しみは まさに ふさわしいのであって、私たちはそれを喜んで受け入れるだろう。悲しみを経験するのを 望む こともありうるし、悲しみを経験しているという事実に、人は一定の喜びや満足感を見出すかもしれないのである。悲しむことは、一般に、悲しんでいるということについて悲しんでいるのではない。それは、悲しんでいるということに喜んでいるということと、完全に両立するのである。

ということで、なぜ欲するかについてはこれでOK(悲しみそのもののの経験に心地よさが伴いうるのだ!)。続いて、悲しみの対象に向けられた鑑賞者の態度のほうを考えてみる。

たとえば「ハッピーエンドは愚かしくて退屈である」と考えているアーサーが、しかし劇を見ながら「ヒロインが生き延びてほしい」と感じているようなケースを考える(ここで注釈でナボコフが引かれてるのちょっと笑った)。「救われてほしい」的な気持ちを抱くこと自体が悲劇へのアーサーの高い評価の重要な部分を構成しているわけだが、ここでアーサーは対立する利害に引き裂かれているのだろうか。

結論からいえば、これらの欲求は現実においても虚構的にも対立していない。なぜなら、アーサーは現実に「ヒロインが救われてほしい」と思っているわけではなく、「アーサーがそのような気持ちでいることが虚構として成り立っている」というだけのことだからだ。アーサーが現実において欲しているのはあくまで「ヒロインが残酷な結末を迎えることが虚構として成り立つこと」である。

サスペンスとサプライズ

すでに読んだことのある作品やストーリーが広く知れわたっている作品を鑑賞するときでも、まるで内容を知らないかのように楽しむ(「不安」や「驚き」を感じる)とはどういうことか、みたいな話題。なお、「どのように語られるか」といったことに着目するような楽しみはもちろん別個にあるが、ここでは考えない。というわけで、そう、ネタバレの話だ!!!1

こうした例は、以下の2つの「知識」が分離しているものとして定式化できるだろう。

  1. 私たちが虚構として成り立つと知っている事柄(現実の知識)
    • 再読であるためすでに持っている(逆に言えば、初読ではおそらく知らない)、あるいはネタバレから得てしまう知識はこちら
  2. 虚構において私たちが知っている事柄(虚構的に成り立っている知識)
    • 言い換えれば、鑑賞というごっこ遊びのなかで「知っていることになっている」事柄

これをもとに、「分離」は以下のように整理できる。

  • 虚構的には知らないが現実には知っている
    • 再読やネタバレの例はこちら。分離しているといえばこのケースであることがほとんどだろう
    • このとき、ふつうは「初めて知ったふりをする(知らないふりをする)」ような形のごっこ遊びを行うだろう。そして、不安や驚きはそのたびごとに虚構的に現前しうる
    • 現実の生活では何かを言うことが新しい情報を与えることをしばしば含意することからいっても、このような(形のごっこ遊びが公式であるような)作品が大部分なのは自然なことだろう
    • 再読であるとしても毎回の鑑賞は別々のごっこ遊びであることや、ネタバレを知ったタイミングというのは(後にその作品を使って行われるであろう)ごっこ遊びの最中ではないことに注意
  • 現実には知らないが虚構的には知っている
    • 比較的特殊な例。ドイル『空き家の冒険』(冒頭で、犯人が周知であるとのみ述べられるものの、その名前は明かされない)を初めて読むときや、再話であるかのように読むことを要求する物語を初めて読むときなど
    • 『空き家の冒険』であれば、「最初から犯人を知っている」ようなごっこ遊びを行うであろうが、それが誰であるかは話が進むまでわからない。このケースでは、再読時には分離が起こらないということになる
    • これだと当の知らないことに関して「不安」や「驚き」を感じることは虚構の上では不合理なことになるんだよな

また、「予見的な知識が主として作品に内在する証拠に基づいており、通常のやり方で作品を経験するときに予見が得られるような事例」についても考察される。たとえば、結末の手がかりが(誰にでもわかるような形で)劇中で示されることや、もっとあからさまに、結末の場面のフラッシュフォワードが示されることなどがこれにあたる(倒叙ミステリもこれに含まれるかと思ったけど、あれはたぶん犯行の様子も知ってるような観察者、あるいはその観察者の語りの聞き手として読むほうが普通だろうからちょっと違うか? みんなどう読んでるんだろう。「愚かな問い」の話とも関連しそうではある)。

このとき、「物事がどうなっていくのかを、鑑賞者がいかなる方法で『虚構において』知るに至ったのか」という問いに適切に回答できないのであれば、「その知識を鑑賞者が虚構的に持っている」と見なすのは適切ではないだろう(したがって、「虚構的には知らないが、現実には知っている」の一種ということになる、はず)。たとえば、「(SFでもないのに)この世界にはタイムマシンがあるから、この先何が起きるか見えたのだ」とか、「見るからに『本作のヒロイン』は彼女なのだから、それが死ぬわけがない」とかいうのはふつう適切な答えではない。逆にたとえば、「『白鯨』においては、イシュマエルがまさに語っていることが虚構として成り立っているのだから、読者はイシュマエルが生き残るであろうことを虚構的に知っていると言える」といった形で答えられるなら問題ない。なんとなく「負けヒロイン」のことを連想してしまうよな……。

似たような話として、虚構的ないし現実的に当たり前だったり驚くべきだったりする事柄と、虚構的ないし現実的に鑑賞者を驚かせる事柄との間に違いがあるという話題も。

このほか、一見「ストーリー」にあたるもののない音楽や、あるいは絵画などの静止芸術(小説や映画、音楽などはこれに対し「時間芸術」である)の鑑賞における「不安や緊張」「驚き」についても考察されているんだけど、ここではばっさりカット。前者については、偽終止に関して「現実に何を予期しているかに関わりなく、主音を期待するということが虚構的に成り立っている」(!)とかえらく尖ったことが主張されてるし、後者についてはそもそも本節の後半がまるっとそれに充てられてるしでそれなりにはおもしろいんだけど、まとめるのがしんどくなってきたので……。

ともあれ、以下のように結ばれる。生成の原理のとき「めっちゃ複雑やで」と言って終わってたのにに近い投げ出し方だ!

  • 現実的あるいは虚構的な認識論的なあり方を区別し、その対応関係や変化を分析することは、どのように虚構的真理が成り立っているかや、鑑賞者が現実的あるいは虚構的にどのような体験をするかを分析する際に重要である
  • とはいえ、こうしたあり方は非常に複雑で、再帰的であったり決定不能だったりもしうる、捉えづらいものである。これは表象的芸術作品に対する鑑賞者の反応の多様さ、微妙さ、複雑さに見合ったものであると言える

参加することの眼目

われわれはどうして表象的な芸術作品に価値を置くのかについて。

表象体の任務は、私たちが参加するごっこ遊びの中で小道具として役立てられることである。しかし、そんな遊びがそもそもなぜあるのか。なぜ私たちは参加するのか。たしかに経験したいと思ってしまう「肯定的」な感情が含まれているときでも、虚構として そういう感情を経験することに、どんな利点があるというのだろう。虚構として喜んだり有頂天になったり、ましてや悲しんだり動揺したりして、どんな利点があるというのだろう。参加することの眼目は何なのか。

共感や学び、情動の発散や受容……などなどなど、想像活動によって享受できる利益は多様に考えられるが、本書ではそれらを個別には検討しない。ただしその上で、「想像する人が自分の虚構世界で占める位置こそ、非常に多くのさまざまに異なる事例において、中心となるように見える」ことが指摘される。つまり、想像者自身が反射的小道具としての役割を担っているという点が重要なのだ。

小説を読んだり絵をじっと見つめたりすることが、たんに虚構世界の外側に立ち、窓ガラスに鼻を押しつけてのぞき込み、何が虚構として成り立つのかを知るというだけのことにすぎなくて、虚構において何かを知ることは一切ないのなら、小説や絵に私たちが関心を抱くのは真に謎だっただろう。

というわけで、想像活動によって享受できる利益、ひいては表象体の価値を考えていくにあたっては、こうしたごっこ遊びへの参加という経験を考慮していくことが必要であるというわけ(重ねて言うが、本書ではやらない)。

参加なき鑑賞

ここまで見てきたとおり、鑑賞において「参加」は中心にあるけれど、それが全てではない。実際の鑑賞者のパースペクティヴには「観察」も重なっている。それどころか、参加をしない鑑賞さえありうる。

以下では、作品自身が「これはただの虚構である」とあえて明示したり、作品の様式や物体そのものとしての性質に注意を向けさせるような造りにするなど、表象体の側が鑑賞者の心理的な参加にあえて水を差す(鑑賞者の反射的小道具としての役割を縮小させる)ケースについて見ていく。

以下、けっこうおもしろいので、まとめとしてはやや詳細すぎる気もするが逐一挙げてみる。

  • ピカソ『雄牛の頭部』
    • 「雄牛の頭部やん!」というごっこ遊びへの参加それ自体ではなく、その参加が可能であることが評価のポイントになっている
    • もちろんこれはあくまで「参加が中心であることを前提とした」観察から得られることに注意
  • ゴッホ『星月夜』
    • 本作の非常に目立つ筆使いは、それ自体として注意を引きつけるし、どのように描かれたかの記録(ないしは、その描かれている最中の様子を想像する小道具)としても注意を引く
    • こうした筆使いは、そこに描かれている風景を見るというごっこ遊びへの参加をたしかに妨げている。それと同時に、想像活動がより活き活きとする効果も発揮している
  • 装飾的な紋様
    • 蔦などをモチーフとしているからといって、ごっこ遊びへの本格的な参加が始まることはまずないし、そのように意図されていない(むしろそうならないような形にデザインされている)
    • このとき起きているのは「小道具として使われうる図形たちが集まって、見た目に面白くて視線をくぎ付けにするような様式を作り出すやり方から強い印象を受ける」という参加を前提とした観察だろう
  • 通学路の交通標識
    • 描かれているピクトグラムから「横断歩道を渡っている子供たち」を想像できないと標識の意図が伝わらずその目的が達せられないが、かといってごっこ遊びへの参加に没入してしまうと逆に危ない!
    • とはいいつつ、これは表象体ではない(想像活動を命じているわけではない)と感じられるかもしれない。それでも、明確な境界線があるわけではないことは理解できよう

以上のように、想像を命令する機能と、それに水を差す働きの組み込みとは両立する。

このように水を差す働きが組み込まれた小道具は、実用を意図せず作られた(すなわち椅子本来の機能を欠く)「飾り物の椅子」になぞらえられる。すなわち、(その程度にはいろいろあるものの)小道具に適さないように作られた「飾り物的な小道具」というわけ。けれども、そのような「装飾的な」小道具であっても、飾り物の椅子が「それが椅子であることを想像せよ」と命じる機能を持っているように、「それが小道具であることを想像せよ」と命じる機能を持った反射的小道具となっている。その装飾性は、それが何の表象体であるかを変化させるだけなのだ。

ここで、ベラスケス『侍女たち』について見てみる。これは「絵画の中に肖像画が描かれている」、すなわち虚構の中に虚構が「埋め込まれている」例である。このとき、「絵画の中に描かれている肖像画に描かれている人物」は「絵画に直接描かれている人物」より(どちらも虚構的であるにもかかわらず)注意をひかないだろう。なぜなら、われわれが現実に参加するのはあくまで第一階のごっこ遊びであり、(絵画の中に描かれた肖像画を使うような)第二階のごっこ遊びについては参加を想像するだけであるためだ2

これを念頭に置いてサッカレー『虚栄の市』を見てみよう。本作の冒頭では以降の語りが虚構であることが明記されており、したがって「埋め込み」が行われている「装飾的な」小道具の例である。しかし本作を読み進めているとき、冒頭の記述から把握した第一階の虚構世界を忘れて、第二階の虚構世界を舞台としたごっこ遊びに直接参加しているかのように感じられるだろう(「水を差す」効力は大抵一時的/部分的であり、『冬の夜ひとりの旅人が』のような例のほうが特殊なのだ)。これは一見正しくない参加に見えるかもしれないが、そうではない。実際には第一階/第二階両方への参加が想定されているだろう。つまりこの小説は、「ベッキーがロードン・クロウリーと結婚すること」(第二階)を虚構的に成り立つようにすることと、「彼女がそうすることをこの小説が成り立つようにすること」(第一階)との、両方を行なっている。そして読者は、ベッキーのいる世界に住むことと、その世界を外から観察することとを交互に(もしかしたら同時に)行うのである。同様に先ほどのゴッホ『星月夜』について、それが「一定の仕方で創造された表象体である」ように見えている(虚構としてそうである!)ならば、その意味で「装飾的な」表象体(表象体の表象体)であり、直接的に描かれていると見える内容は「埋め込まれた」ものであると捉えることもできる。

ここまで見てきたような「装飾性」は、たしかに参加を阻み、鑑賞者に「距離」を感じさせてしまう。外側の世界は枠のようなものにすぎず、内側の世界の方が豊かに描かれることもしばしばである。では、「装飾性」に、すなわち参加を代価にして観察させることにはどんな価値があるのだろうか。以下はいずれも、参加が重要であるからこそ生じる価値である一方、実際に参加してみると行うことがより難しくなる(参加を想像することによって得やすくなる)ような考察である。

  • 参加を促す手段や参加の種類へについての考察
  • 参加の経験についての考察。すなわち、参加者が虚構的に何を、なぜ感じているのかについての考察や、(虚構的に/現実的に)同じような状況で自分が何を考えたり感じたりするかについての考察

以上、参加が中心にあるからこそ、そのうえで観察も重要になるよね、ということで本章、そして第2部はおしまい。


これで実質的な本論は終わりで、第3部は各論(第8章で描出体、第9章で「語りによる」表象体を扱う)、第4部はあとまわしにされていた存在論と意味論について。というわけで、次章に進む前にいったん参考文献など含めここまでをまとめたい……と思っています……思ってはいる……。


  1. ネタバレに関しては 『フィルカル』Vol.4 No.2 の『ネタバレの美学』特集や、これに関連するワークショップ(【発表要旨追記】公開ワークショップ「ネタバレの美学」を開催します。11/23(金・祝)@大妻女子大学 - 昆虫亀 など登壇者によるブログ記事や資料を参照)がおもしろそうなんだけど、読めていないのでとりあえず注記にとどめておきます。本書の話とは、関係ないこともないけど全体的にはそこまででもない……くらいだとと思う。

  2. ここで、ボルヘス「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」についての注記も引いておく:「最初はトレーンの世界は他の虚構世界の中に深く埋め込まれているように見える。だが、物語が進むにつれて、埋め込まれていないということがどんどん顕わになってくる」。階層による注意の引き方の違いを活かした作品であるということ。

『フィクションとは何か』第6章のメモ

第6章 参加すること

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

承前: murashit.hateblo.jp

ごっこ遊び(的なゲーム)において、われわれはどのように参加しているだろうか、という話。さまざまな制約の話と、あとメタフィクションの説明あたりが読みどころだと思う。

子どもたちの遊びへの参加

まずは文字通りの(子どもの)ごっこ遊びへの参加について観察する。(本書におけるより一般的な意味での)ごっこ遊びに参加する最小条件は「そこで虚構として成り立つ命題群を、自分が強制されていると考えること」である。しかし、子どもたちがごっこ遊びで演じる役割はそれに留まらない。

まずなんといっても、そのようなごっこ遊びの際に子どもたちが「自分自身が○○している」と想像していることが挙げられる。すなわち彼らは反射的な小道具となっているのだ。たとえばグレゴリーとエリックが切り株をクマに見立てて遊んでいるとき、参加者であるグレゴリーとエリックは反射的小道具であり、2人が切り株に向かって行う行動によって、ほかでもない(誰か別の人物を演じているわけではない)彼ら自身がクマに向かってある行動をすることが虚構として成り立つ。

なお、このとき切り株も反射的小道具であり、切り株の特性などはクマの特性に反映されるであろう。大きな切り株からは大きなクマを想像するし、切り株がツタウルシのなかにあるなら、クマがツタウルシの群生の中にいると想像する(さらに、このときツタウルシもやはり反射的小道具となっている)。それでも、2人はごっこ遊びの関心の向かう主たる対象であるという点で(単なる小道具である)切り株やその派生物の多くと異なっている。これはフィクションの意義(第1章参照)にとって重要である。

さらにこのときグレゴリーとエリックは、たんに自分がそのようであるという命題を想像するにとどまらず、まさに自分が実行したり経験したこととして(「一人称的な」やり方で)想像している。そして、「参加者は、自分が切り株を見ることについて、この見ることが 自分がクマを見ることの一例であると想像」してもいる(ここ正直ちょっとよくわかってないんだけど、「行為そのものも反射的小道具となる」? みたいな話でいいんだと思う)。

ごっこ遊びの参加者は、反射的小道具でありかつ想像する者でもあることによって、現実の自分のさまざまな表象的な行為に関して、それら一連の行為が、自分が何かを行っているところの一例であると想像し、かつ、これを内側から想像するのである。

参加する者としての鑑賞者

文字通りの(子どもの)ごっこ遊びに対して、芸術作品や上演の鑑賞はどうだろうか。こちらも(本書におけるより一般的な意味での)ごっこ遊びへの参加の最小条件を満たしていることはもちろん、鑑賞者自身および鑑賞者の行為の多くが反射的小道具となっているという共通点がある(さらには鑑賞者が「一人称的な」やり方で想像してもいるとするが、これについてはむしろ次節を参照)。

たとえば、「命題Pが虚構として成り立つと鑑賞者が理解しており、(Pそのものを想像するだけでなく)鑑賞者自身がPを知っていると想像する」とき、「鑑賞者はPを知っている」ことが虚構的に成り立つ。これはそのまま「鑑賞者自身についての虚構的真理が生み出されている」ということだから、やはり鑑賞者自身もごっこ遊びの反射的小道具となっていると言える。もちろん「知っている」だけではなくて、たとえば絵画において「見ている」などでもやはり同様に成り立つ。

なお、(第1章でも触れられていたように)「作品世界」と「作品を使ったごっこ遊びの世界」の違いに注意。『ガリヴァー旅行記』の世界(作品世界)には読者は属さない一方、『ガリヴァー旅行記』を使って行うごっこ遊びの世界においては、「自分(読者)は『ガリヴァー旅行記』と題されたある船医の日記を読んでいる」ことが虚構的に成り立つ。このように、一つの虚構世界がもう一つの虚構世界を含むかたちで別個の虚構世界を持つことは特に問題にはならない(小説の挿絵の例など)。ここらへんの話、第1章のメモでは違和感あるな〜みたいに書いたが、むしろ独自のポイントとして解するのがいいのかもしれないな。

このように鑑賞者が自分のごっこ遊びの世界で反射的小道具となるということは、そのような生成の原理が存在するということでもあるはず。第4章で見たとおり、この原理は明示されている必要はなく、暗黙的なものであってよい。また、ごっこ遊びは必ずしも社会的なものである必要はない(むしろ多くの場合個人的なものであろう)ため、この原理を鑑賞者自身以外の誰かが認識している必要もない。そのような生成の原理が存在するであろうことは、次のような観察からもわかる(以下、まとめるために例示の内容を簡略化しているが、ちょっと不用意に縮めすぎかもしれない)

たとえば、船の描かれている風景画を見て、スティーヴンが「あそこに船がいる」と発言するのは自然なことである。このときスティーヴンが「自分自身が浜辺や海などを見ている」と(特に熟慮や思慮によらず)想像していることは否定しがたい。そして、そのような暗黙的な傾向性を我々が持ち、それに対応するような原理を受け入れていると考えることも自然であろう。

また、先の例で指示詞(「あそこに」)を使っていることにも注意せよ。このときスティーヴンは、何か(画布の一部分や、「架空の存在者」)を指示しているわけでも、何かに虚構性を帰属させているわけでもない。スティーヴンはそれらの説のように何かを断定しているのではなく、「何かを指示するふりをしており、その何かが船であると主張しているふりをしている」(第2章でのサール批判は作者が「ふりをしている」という話だったことに注意。こちらは鑑賞者の話)。「『あれは船だ』は命題を表現してなどいない。スティーヴンは、それが命題を表現するふりをしているだけである」。言い換えれば、スティーヴンは「自分が何かを指示してそれを船だと主張する」ということを虚構として成り立つようにしている。これはすなわちスティーヴンについての虚構的真理であり、スティーヴンのごっこ遊びに属する虚構的真理である。この意味でスティーヴンはやはり反射的小道具となっている。

なお、風景画などの描出体 depictions に対して「あれは船だ」と言いうる一方、『白鯨』における船の描写の一節を指差して「あれは船だ」とは言わない。これは、絵画を使って行うごっこ遊びと小説を使って行うごっこ遊びが違う種類のものだからである(だからといって小説の読者が反射的小道具でないことにはならない点にも注意)。

言語的な参加

ここまで見た2種類のごっこ遊び(文字通りの、子どものごっこ遊びと、表象的芸術作品の鑑賞)のどちらにおいても、言語的な参加を行いうる。たとえば前者であれば「藪の中にクマがいる!」などと友達に注意を促すことがあるだろう、後者であればその作品に関して「あそこに船がある」などと話すことがあるだろう。

こうした言語的参加の際、われわれは「この絵の世界では」「『ロビンソン・クルーソー』の物語の世界では」などと付け加えて喋ることはほとんどない。これらを使ったごっこ遊びをしている人物が言うと期待されることがそのようなものであるからだ。

さらに、ごっこ遊びに携わっていないと考えられる冷静な批評の際であっても、誤解がなければこうした虚構性を示す作用子は省かれうる。この事実は、そのような場でさえ(批評家が反射的表象体となっているかどうかは置いといて?ごっこ遊びがなんらかの仕方で存在していることを示唆する。

一方、「望む」「信じる」といったほかの志向的特性においては、先の虚構性作用子に対応するような作用子(○○は〜と望んでいる)を普通は省かない。もしそうした作用子を省くのであれば、ほとんどの場合レトリック(当てこすりなど)や一種の演技のためである。そしてこの点については、虚構性作用子を省くことが「ふりをすること」に繋がっているのと共通している。これらをひっくるめて、ごっこ遊びに携わる私たちの傾向が広く行き渡っていることが観察される。このへんやや議論を乱暴にまとめてしまったんだけど、作用子を省くことの効果(あるいは逆に引用符による強調にも「ふりをする」効果があるケースもあるとか)みたいなあたりは枝葉のところでもけっこうおもしろいことを言ってる。ただそうなってくるとほかの志向性との区別がだんだんよくわからなくなってこないか? みたいな気持ちも。ここらへんは読み間違えてるかもしれない。

参加に関する制約

ここまで文字通りの(子どもの)ごっこ遊びと表象的芸術作品の鑑賞との共通点を見てきたが、一方で重要な違いもある。あくまで程度の違いであることには留意しなければならないが、鑑賞者の参加には子どもたちの参加には生じないような制約がある。

たとえば、人形をどこかに連れて行ったとき、「赤ちゃんをどこかへ連れて行った」ことが虚構的にも成り立つであろう。一方、肖像画を移動させたからといって「その(肖像画の対象となっている)人物が移動した」ことが虚構的に成り立つことはまずない。すなわち、文字通りの(子どもの)ごっこ遊びに比べ、表象的芸術作品の観賞においては:

  • 見ている人が行い、それが虚構として成り立つような行為の種類が少ない
  • 見ている人が現実に行ったときに、ごっこ遊びに貢献して虚構的真理を生み出すものとして容易に解釈できるような行為が少ない

こうした制約の由来はさまざまである。たとえば、人形には掴むことのできる「腕」があるが、肖像画においては(腕が描かれてあったとしても)「腕」を掴むことができないといった、ある種物理的な制約、あるいは、演劇において観客が舞台に駆け上がったとき、その人物が虚構として何かを行うとは解釈されないといった、慣習的な制約などが挙げられる。

以下注意点。

  • もちろん文字通りのごっこ遊びにも制限はある。先にも触れたとおりあくまで相対的な話である
  • 制限されているからといって、その遊びが豊かでなかったり変化をもたないことを意味するわけではない
  • 参加の制約は不利益をもたらすとは限らない、むしろ利点もある
    • たとえば、身体的な参加を行わない(行えない)ことによってより内省的で思索的になれる
    • あるいは、鑑賞者のごっこ遊びに対する芸術家の貢献の範囲が広がる(たとえば法廷を描いた絵画に対して、鑑賞者が被疑者を問い詰める遊びをしてほしいと作家が考えているだろうか?それを見ていろいろな思考や感情を抱いてほしいだろうし、そのほうが鑑賞者にとっても有意義であることが多いだろう、みたいな)

このほか、文字通りのごっこ遊びと芸術鑑賞との中間的な事例も挙げられているが、ここでは略。

聴衆への脇台詞

ざっくり言えば、虚構内の登場人物から鑑賞者への語りかけ(目配せなどの働きかけ一般も含む)について。

まず、バース『ライフ・ストーリー』が興味深い例として検討されている。ここはけっこうおもしろいところなんだけど長くなるので割愛。脇台詞にあたる語りとそれを引用する語りが続けて記述されているとき、それらを垂直的に見るか水平的に見るか、垂直的に見たときでも読者がどのようなごっこ遊びに参加しているか、といったことについて複数の解釈が考えられる……みたいな。この手のメタフィクショナルな小説に興味のある向きにはぜひ直接読んでほしいところ。

また、脇台詞は単数的にも複数的にも成り立つ ……という話があるんだけど、正直ちょっとよくわからないところがあるのでこちらも割愛。ドストエフスキー『地下生活者の手記』における「だから、紳士淑女の皆さん、結局、何もしないのが最も良いのだ!」という台詞について、「現実の読者全員に語りかけていることは、どの鑑賞者のごっこ遊びにおいても成り立たない」けれど「それぞれの読者のごっこ遊びにおいて、地下生活者がその読者を含む人々の集団に語りかけているということになる」みたいな話はおもしろい。

こうした脇台詞に覚える特殊な感じは、「講演の最中に、二階席で聴講している自分の名前が突然呼ばれた」ときのような、(そのような場ではないはずなのに)慣習を破って名指されたときの驚きと類比して説明できる。脇台詞によって鑑賞者が「虚構の世界に引きずり込まれる」からではないのだ! 鑑賞者はそれ以前に自分のごっこ遊びの世界に参加しているし、そう前提しないと脇台詞というもの自体が成り立たない。

そして、脇台詞の発生は比較的珍しいし、あったとしても、それが虚構的に成り立たせるのはあくまで一時的な相互作用に留まる(もちろん、肖像画において「鑑賞者に目を向けている」ことが当たり前であることや、あるいカルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』のような例外はある)。その理由として、限定的なほうが脇台詞の効果を高められる(先の「突然の」名指しを考えればわかりやすい)ことや、そのほうが鑑賞者に適切な鑑賞行為を行ってもらうためのコントロールが容易になることなどが考えられる。前節で述べた芸術鑑賞における制約のメリットとしても挙げたように、登場人物に感情移入させたいといった芸術家の目的に対して、脇台詞によって鑑賞者が一人称性を強く意識する(そしてときに「馬鹿げた問いかけ」をしてしまう)ことは適切な鑑賞の邪魔になりうるのだ。

鑑賞者は自分のごっこ遊びの中では役割が限定されていて、そういう限定のせいでしばしばあり方が不確定になることを考慮すると、鑑賞者は通常「おおまかな」「ぼんやりした」あり方しか持たない、と考えることが可能である。脇台詞は、鑑賞者がそれ以前には帰属していなかった虚構世界や、脇台詞がなければ帰属しないはずの虚構世界に、鑑賞者を招き入れるわけではない。だが脇台詞は、ごっこ遊びの世界において、鑑賞者に少しだけ踏み込んだ存在感を与えるのである。

見られないものを見ること

天地創造を描いたミケランジェロの天井画に対して、「誰も見ていないはずの天地創造を、にもかかわらず見ているってどういうこと?」みたいな話。これには、作品中の登場人物が誰にも明かしていないプライベートを「覗き見」している作品や、「生存者のいない事件」を描いた作品など類例が考えられる。

これに対してウォルトンは、すでに第4章で答えたように(このような「馬鹿げた問い」は)たんに無視すればよいという立場をとる。そして(これも第4章で見たとおり)これらはごっこ遊びへの参加という立場に対してのみ発生する反論というわけでもないのだ。

つづき: murashit.hateblo.jp